サマー・レイン
1
どうしてこの本は、こうまでしてあたしの心を重たくさせるんだろう。
人を愛する。
それは、毎日食事を摂り、排泄をし、呼吸をすることと何ら変わらない。
人間にとっての男女の性別や、年齢さえも全く関係なく、必要不可欠で、それでいて時々、どうしようもなく不必要だと感じてしまう。
そんなアンバランスで、危うく、脆く、だけどやっぱりどうしても必要な存在。
あたしはそう思っている。
なのに、この本はどうだろう。
いちいちそういう愛することがなんであるのかを、実にこと細やかに説明し、そして結論づけてしまう。
『終わらないラブストーリーを君に』
あたしはその本を綴じるとため息をひとつついて、木製のブックシェルフの一番奥にしまいこんだ。
反対側のベットからは静かな寝息が、穏やかな波のように繰り返されている。
彼が生きているという、頼りないけれど確かな証だ。
「おはよう、一成。もう、朝よ」
あたしはベットサイドに腰をかけてから頼りなく笑うと、彼の額に軽くキスをした。
毎朝の儀式は、実に静かで気持ちを穏やかにしてくれる。
朝食はクリームチーズにたっぷりのブルーベリーを載せたマフィン。それからピーベリーの豆で煎れたエスプレッソが定番だ。
毎朝美味しいエスプレッソがどうしても飲みたいと、あの頃あたしは朝を迎える度に駅前で買ってきたエスプレッソを片手に一成に話していた。
一成は新聞を広げ、難しい経済記事に難しい顔を向けたまま、はいはいと相槌を返す。
「だけどどうしても欲しいのよ。毎朝駅前の珈琲スタンドまで買いに走る労力とか手間とかお金を考えたら」
食い下がるあたしに、一成はまず新聞から目を離す。それからあたしを見て、その先は言わなくていいよ、と目だけで優しく語るのだ。
「だから結希はさ、あの角の珈琲屋に置いてある、アンティークっぽいエスプレッソマシンが欲しいって言うんだろ」
あたしは駅前の珈琲スタンドで買ってきたエスプレッソの苦味が喉元を過ぎていくのを感じながら、うん、と頷いた。
一成は、俺には難しい感覚だね。と言ってから、発した言葉からは想像も出来ないような柔らかな眼差しをして笑う。
まるで太陽が生まれたかのように、一成の周りが瞬時に明るくなる。一成は太陽を携えた人だとあたしはその度に思っていた。
初夏の太陽の陽射しは容赦なくこの部屋にも降り注ぎ、気温の波を一気に加速させていく。
一成の顔に日差しが当たっていたので、ブラインドの角度を反対にすると部屋全体がしましまの影で埋め尽くされる。
同棲しよう、と一成が言ってこの部屋を既に契約してあると聞かされた時、本当に驚いたことをふと思い出した。
いつも物事を石橋を叩いてしか渡らない一成がそんなに大胆な行動をとるなんて晴天の霹靂だった。
あたしが断ったらどうするつもりだったの?と訊くと困ったような顔になって、そんなこと全然考えさえもしなかったよ、と言った。
−−だってほら、結希は俺に惚れてるでしょ。俺も結希に惚れてるし。
ブルーベリーマフィンを一口入れて、ほどよく酸味が広がったところで、電話から流れるメロディがあたしの思考を中断させた。
オレンジ色のディスプレイに見慣れた番号が規則正しく整列して、あたしはとても久しぶりに長いため息を吐いた。
食べたばかりのマフィンが消化不良にならないことだけを願いながら、重たい手で子機を手にし、通話のボタンをためらいながら押した。
「意外と早かったね」
玄関に入るなりすぐだ。靴も脱ぎ途中で、母の口は相変わらずよく動く。
まったくここは駅から遠いんだから。バスはなかなか無いし不便で嫌になっちゃうわ。
ひたすらまくし立てて話す母の声を遮りたいあたしはわざと大きめの声を出した。
「紅茶がいい?それとも珈琲にする」
「わかってるでしょ。いつもと同じ。温かい紅茶にレモンと蜂蜜をたっぷり入れてね」
母は昔から珈琲より紅茶を選ぶ。外出先であっても、必ずと言っていいほどだ。
あたしが珈琲を飲みだした高校生の頃、母はあたしによく言ったものだった。
そんな苦くて後味の悪いものを飲むなんて信じられないわ。それこそ、苦虫を潰したようなおぞましい顔つきで。
あたしにとってはかけがえのない飲み物であるエスプレッソも、母に言わせれば見るだけでも苦々しい代物へと格下げされてしまう。結希とお母さんは価値観が違うわけね、と言ってくれた桜子の顔が思い出された。
母にはピンク色をしたバラに、金色の葉があしらわれたデザインのティーカップを選んだ。それからリクエスト通りに、レモンと蜂蜜をたっぷりと入れたレモンティーを作ってあたしはそれを母の前へと差し出す。
喉が渇いていたらしく、熱い熱いと言いながらもすぐに母はそれを口にした。ティーカップの縁に母のつけているボルドーの口紅がつき、それはまるで小さな蕾のように見えた。
カチャンとカップをソーサーに置く音に、一瞬ドキリとした。
「まだ決心つかないの?ねえ結希、あんただってもう25なのよ」
やっぱりきたな。あたしはそう思った。嫌な予感が的中したせいか、さっき入れたベーグルが胃をずしりと重たくさせた。
「決心なんて、もうとっくについてる」
少し時間が経ち、冷めてしまったエスプレッソの苦味は入れたての美味さの苦味とは全然違うものだ。
諦めにも聞こえる大きなため息をついた母は、それからテーブルに肘をつき頭を抱えてしまった。
母が本気で一人娘の『一般的な幸福』というものさえ諦めてくれたら、お互いこんな苦しい想いをしなくて済むと思うのだけれど、あたし以外の場所では、事態は穏やかではないらしい。
「お願いよ結希。お母さんだって一成さんを悪く思ってる訳じゃないわ。だけどお父さんも私も、あんたに幸せになって欲しいから」
「いい加減にしてよ!もうたくさんだわ。帰って」
出した本人でさえびっくりするほど大きな声なのだから、母が驚くのはむしろ当たり前なのかもしれない。まだこんな風にしっかりとした声を出せるんだと、自分自身に感心すらした。
「わかったわ…。お母さんは帰る。だけどね、結希。幸せになる権利を自分から投げ出すことだけはやめてちょうだいね」
「うん…、わかってる」
それ以上何も言わずに帰っていく母の少し丸みを帯びた背中に、あたしは小さく手を振った。
テーブルに置かれたままの母が飲んでいたティーカップを洗う。洗剤をつけたスポンジで洗うと、ボルドーの蕾が絵の具を上から撫でたように伸び、そして完全にその形を失った。
あたしのカップにはまだ入れ直していない、冷めたエスプレッソが入ったままだ。
ついさっきまで、母がこの空間にいたことさえ忘れてしまえそうなほど、静かで穏やかな空気が流れている。
毎日変化なく過ぎ去っていく時間を、どれだけあたしはこの空間で重ねていくのだろう。
コーヒーミルの小さな引き出しにピーベリーの豆をセットし、そのまま一成の寝ているベットへと向かった。ベットサイドに腰を掛けたまま、ゆっくりと豆を挽く。
このミルは、一成があたしに買ってきてくれたものだ。あたしの誕生日、珍しく早く帰ってきた一成は顔を紅潮させ、息を切らし、少し興奮しているようだった。
腕のなかに大切そうに紙袋を抱えた一成にあたしは訊いた。それってプレゼントなの?一成は少しだけ照れたように答えた。絶対に結希が喜ぶものだよ。
実際あたしは包みを開けて喜んだ。プジョーの珈琲ミル、グァテマラ。あたしがずっと欲しかった代物だった。
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