脇道寄り道回り道
とある家族の思い出話[帝王院]
あれは確か、小学校に入学したばかりだった。


「しゅ〜ん、ご飯ょ〜。爆弾お握りと団子汁ですぞ〜」

近頃スタンダードになってきた夕食メニューに、またかと読んでいた本から目を離す。
息子の入学で、しがないサラリーマン家庭の我が家は火の車、らしい。エンゲル係数の圧倒的な高さが、食費を跳ね上がらせているのは言うまでもなかろう。

「母殿、まだ父が帰宅していない」
「パパならさっき、道に迷って気付いたら仙台に居たからヒッチハイクで帰るって連絡があったわよ」
「…またなのか」

帰宅本能が時折狂う父親は、かなりの頻度で迷子…遭難する。一度は何故か能登半島に居たらしく、慌てふためいた母と共に迎えに行ったものだ。
小学校入学に備えてヘソクリなるものをコツコツ貯めていた母は、往復の電車賃に小さい肩を萎ませていた。以降、長距離の遭難には決して迎えに行こうとしない。

「大丈夫ょ〜、何だかんだ毎回ちゃんと帰って来るんだからァ」
「だが、大黒柱の帰宅を待たず食事を済ませるのは良くない」
「今はママが生まれた昭和末期じゃないんだぜィ。稼ぎの悪い亭主待ってたら飢え死にしちまわァ」

バケツサイズの丼にどぼどぼ汁物をよそった母は、LLサイズの巨大お握りが並ぶ皿をテーブルの真ん中へ置き、ぱちんと手を合わせる。
まだ納得していないがこれ以上の会話は無意味と悟り、渋々母に倣って手を合わせた。

「「いただきま。」」

す、と言い終える前に弱肉強食の食糧争奪戦がその幕を上げたらしい。

ガツガツ、いや、ゴツゴツと言う擬音こそ正にと言う勢いで、己等の頭と大差ないサイズの巨大お握りへ食らいつき、ビールジョッキの如くダバダバダーダバダーと野菜と団子ばかりの味噌汁を流していく。
その速度や、ファーストフード店の受注品を仕上げる店員と並ぶだろう。

「お代わり」
「良し来た!然し息子よ、もう団子は残ってないわょ〜」
「お代わり」
「炊飯器のブザーが鳴るまで残り二分じゃアアアアアもっきゅもっきゅ」

ピー、と二回目の炊飯を完了させた炊飯器に素早く駆け寄った主婦が、炊き立ての熱い飯を豪快に素早く握っているではないか。
炊き立ての飯がどれほど情熱を秘めた温度であるかは、主婦か総菜パート経験者しか判るまい。

「近所の川上さんに貰った梅干しもないわょ!お肉屋さんでタダで貰ったガラと鶏足があるけど、それは明日の朝ご飯に取っておきたい所存ざます」
「鶏の足は、もみじ」
「鹿のお肉ももみじって言うのょ〜。鹿のお刺身、ばり美味いんだよねィ」
「母は食べた事があるのか」
「ま、昔ねー」

母親も父親も、独身時代の話はまずしない。それは息子がまだ小学生だからかも知れないが、時折こんな風に曖昧な会話回避を受ける。

「ハイヨー、お代わり完成ょ〜」

そうと悟らせないポーカーフェイスな母は、目つきの悪さを気にしているらしく、四六時中垂れ目メイクだ。

「母殿」
「なァに?」

食後の冷たいお茶を啜りながら、食器を片付ける母の背中に問い掛けたのは、

「何故、父だったんだ?」

そんな、言葉足らずな台詞。
パチパチつけまつげを瞬かせた母は持ち上げた食器を一度下ろし、テレビのチャンネルをバシバシ変えながら腰を下ろした。
二人だと広く感じる炬燵は、つい最近布団を剥がしたばかり。

「イイ男でしょ、パパ。モテない旦那なんかママは選ばないのよねィ。何せ昔は夜の商売のスカウトマンから引っ張りだこのモテ美少女でェ、そりゃブイブイ言わせたものさァ」
「成程、夜と言えばヤクザ者だろう」
「てんめー、この野郎ォ。シバくぞコラ」
「痛い」

重過ぎるヘビー級の拳骨を食らい無表情で悶えれば、今や息子と同じ21cmの小さな足でゲシゲシ踏みつけてくる。
こんな男らしい母にキャバクラの勧誘があったとは、やはり思えないではないか。

「ふ、ちんちんも剥けてない無毛のガキンチョには判らないもんだょ」
「毛なら、生えた」
「何と!ちょい見せてちょーだい!」
「ほら」
「ワォ、ボーボー!いつの間にやら息子が大人に!」

ハーフパンツの中身をマジマジと眺め、時計を見やった母が今度こそ食器を抱え立ち上がった。
30kgの米を軽々毎週買ってくる彼女には、男7歳の手伝いなど必要とはしない。

「お風呂が沸いたんじゃないかねィ、先に入ってらっしゃいな。ママも片付けたら入るから」
「だが然し父がまだ帰宅していない」
「パパは水風呂でも喜んで入っちゃうイケメンだから、イイのよ〜」

セコい、いや、節約家の良妻賢母は晴れやかに笑う。家族への愛が滲み出ているその笑顔は、近所でも評判だが、家族皆が好きな表情だ。
存在感が薄い…とまでは言わないが、あまり喋る方ではない父は、愛しさを隠さない優しい眼差しを終始妻へ注いでいる。

息子にも優しいが、事が母に関する場合は、息子の優先順位は低い。
まるでこの世界が、地球の地軸こそ遠野俊江だと言わんばかりに、恐らく我が身も惜しくないのではと思う。

以前、家族で外食に出向いた時、母に声を掛けてきた若者を過剰なまでに殴り倒した父は、警察から厳重注意を受けて会社の同僚である山田さんからガミガミ叱られていた。


「もし、母が売れっ子ギャバ嬢になってたら、父とは結婚していなかったのか?」
「しつこいわねィ、何なのよ一体」
「母が外見だけで父を選んだと思えない。…思いたくない、と言った方が正しいだろう。訂正する」

今、読み進めている区立図書館で借りた純文学は、まるで育ちが違う男女が全てを捨てて結ばれる、そんな純愛小説だ。
その影響だが、それを両親に求めるのはやはり、愚の骨頂だろう。

「…やはり発言を取り消す事にした。風呂に入ってくる」
「じゃあ、体」
「は?」
「肉体の相性が良かったって言っとくわょ。ママ、本当にモテたんだから」

ザァザァ。
炊事場から響き続ける水の音、小さな頼りない背中が食器を洗う様を眺め、瞬いた。

「小学生の情操教育を如何にお考えかお聞かせ願いたい所だが、…嘘だな」
「やーね、変な所だけシューちゃんに似てんだから。はいはい、見栄ですよ。伊勢神宮の三重県ですょ」

キュッと蛇口を捻った母は、そのままタオルで手早く皿を拭いながら、明日の朝食だろう鶏ガラを茹でる大鍋の中を覗いている。

「シューちゃんはまだ高校生だったのにねィ。てんで女子力ありゃしないママに、プロポーズしたのょ」
「高校生だったのか」
「計算したら判るでしょ?アンタ、シューちゃんが19歳になった直後に産まれたんだから」

ああ。
だから父はまだ26歳で、だから若い若いと評判で、元々童顔だがそこまで身形に気を使っていなかった母は、引っ越し以来ずっと、まるで高校生の様なメイクや洋服を着ているのか、と。

「…未成年を手込めにしたのか、母よ」
「もっかい殴るわょ?冗談じゃねーぞボケェ、あっちが手ェ出してきたんだっつーの!」

乾いた皿を抱えた母が振り返り、リサイクルショップで格安で買えたと喜んでいた食器棚に近寄る。

「一生懸命勉強したの!留学先で子供扱いされて日本人馬鹿にされて、それでも負けなかったぜ。めっちゃ頑張ってやっと研修医になって、なのに初めて勤務した病院は3日目で院長殴ってクビになるし!」
「それは、あの…」
「セクハラ爺が!三回も尻触りやがって、婦長のっ!」

つまり、セクハラされていた婦長の為にクビになった、と言う事だ。
勇ましさへの尊敬と微笑ましさに僅かばかり笑えば、片付け終えた母は真顔で言った。

「気持ち悪い顔してないで、さっさとお風呂入るわよ」
「心が手酷く抉られた」
「ちょいちょいシューちゃんに似てんのに、惜しいわねィ。人相が悪過ぎるぜ」
「母に似たんじゃないかと推測する」
「覚えとけ、風呂に沈めてやらァ」

その後、本当に沈められた結果カナヅチのスキルを得た。



「ただいまー、パパ無事戻って来たぞ。ママー、ママー、シエー」

それから数時間経って帰宅した父は、水に限りなく近いだろうぬるま湯で疲れた体を益々疲れさせたに違いないだろうが、


「ガラ煮たからおやつにするわょ〜じゅるり。骨の所のお肉が美味しいのょねィ、じゅるじゅるり」
「母、それは朝食用だったのでは…じゅるりらじゅるり」
「パパがお土産で牛タン買ってきてくれたから、朝ご飯は牛タン丼よ!パパ愛してますわよー!ブチュ」
「経費で落とすからタダだぞ、俺も愛してるブチュ」

暑苦しいイチャイチャを横目にほぼ骨である鶏肉を貪りながら、遭難は出張とは違うのではないかと考えて、放棄する。



「うまぃ」

具沢山の団子汁が並々注がれた丼と、梅干しを添えた爆弾お握りが父の前に並んでいるのを見れば、左胸の奥がほっこりする音を聞いたのだ。

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あきゅろす。
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