脇道寄り道回り道
眠る間際の二人[帝王院]
俺は空気だ。
少なくともつい数ヶ月前までは、自分に気付く他人も居なければ、自分が自分だった事を本人すら知らなかったくらい。



俺は空気だ。
不意に、そう言えば居たな、と誰かが気付いてすぐに忘れるくらいの。

だからと言って、酸素の様に、無ければ生きていけないなんて大層なものでは決してない。
居た事に気付こうが気付かぬままだろうが、それでも地球は回っていた。





そして、それはきっと、今も。







「不確定理論ですか」

まるで教師の様にそう呟いた男が、薄い唇を微かに歪め、そのしなやかに長い指で頬に張り付いた髪を梳いてくれた。

「物理、嫌い」

まるで擽る様な感覚に目を細め、短く息を吐く。

「電子ですよ。光の粒が衝突した瞬間、弾け飛ぶくらい小さな粒子。可視は愚か、人間は永劫それを手にする事は出来ない。つまり存在しているのかさえ判らない」
「じゃあ、本当に存在するのかも判んないじゃんか。見えないものを証明、なんて出来ないし」
「そう、まるで宇宙ですねぇ。永遠のテーマですよ、人間のロマン」

なんてロマンチックな台詞だろう。
先程まで雄を押し倒していた様には到底見えない美貌で、まるで夢見る様な表情で『宇宙』かよ。

明日は嵐だな。


「ロマン、それはそれはロマンチストなお言葉ですねー。鼓膜が可笑しくなったみたい」
「宇宙が存在しているかどうかさえ、未だ解明していない」
「いや、宇宙はあるし」
「ふふ、そう、確かに存在するのかも知れません。…但し、有限、つまり存在するものには必ず終わりがあります」
「無限じゃないから?」

そうですね、と笑った男は蒼い左目だけを器用に細めて、



「問1、宇宙の果てはありますか?」
「…何だ、それ」

どんな頭をしているのだろうかと、交際三ヶ月目の俺は平凡な脳味噌で考えた。答えは無い。

「宇宙面積を数字で表す公式を編み出した人が居ます。つまり宇宙は無限ではないと言う事ですね。…理論は、こう。
  光エネルギーは存在し、電子を消滅させる程度の威力を有し、且つ、静止物に衝突するまで消滅しない」
「意味不明」
「何億光年昔に爆発した惑星の遺産が星の光です。一般に自ら光る星を恒星、地球の様な光らない星を惑星と呼ぶでしょう?
  恒星はヘリウムや水素が核融合する事で発光しています。それからは常に光エネルギーが生み出され、人間が言う『宇宙空間』を凄まじい早さで進んでいく。これを俗に、」
「光速、だろ」
「そう、光は音より早く伝わります。雷の様にね。そして惑星の慟哭、ビッグバンよりも小規模である『ノヴァ』、これも光エネルギーとして流れる。
  …だから今、私達が見ている星空の光は、もしかしたなら既に存在していない星の光かも知れないのです」

宇宙は広いですからね、と。
柔らかい声が耳に掛かり、戯れる様に巻き付いてきた腕が力を込めた。
汗ばんだ肌は徐々に冷えて、情事の跡も残していない。残ったのは赤い赤い所有の痕、それも俺の皮膚に。

「貴方の名前と同じ、太陽系を照らす巨大な恒星。あの莫大なエネルギーは地球誕生以前から存在したとされます。…ならば、その光エネルギーは何処に消えたのでしょう」
「だから宇宙に、」
「仮定は2つ。1つ、未だ宇宙空間を漂っている。1つ、宇宙の『果て』に衝突し消滅した」
「ふむふむ」
「然し、宇宙が円形である筈が無い。つまり力点が生じる筈だ」
「はい?」
「この世に、丸いものなど事実上存在しません」
「アンタ、金持ちだからって100円玉も知らないんですか…」

呆れた様に呟けば、耳に笑う気配が触れて、


「π、つまり3.14の円周率は何万桁まで続き、果てが無い。常に1足りない不安定な数です」
「ゆとり教育じゃ3で良いんだろ?」
「足りないものが存在すると思いますか?実際、目に見える円は綺麗な円形ではありません。1足りないだけで、何処かに歪みが存在します」
「あー…、何となく、判った様な…」

難しい話は授業だけで十分だと言いたかったけど、浮気防止に差し出した我が身はクタクタだ。
エッチィキスから始まる不健全な行為はどうしようもなく恥ずかしくて、心身共に崖っぷち。

そんな事を言えば失神するまで記録更新しましょうか、なんてとんでもない事を抜かすだろう魔王様にはとても言えたものではない。
サディストだ。帝王院の誰もが知ってるだろうけど、コイツは紛れもないドSだ。


「それが宇宙クラスになれば、目に見える歪みでしょうね。地球の様に赤道が縦軸より長い、と言う可愛い歪みではない筈だ」
「あー…、何となく、………眠い」

目がショボショボすると言うのに、難しい子守唄ばかり聴かせてくる。
普通、可愛い恋人が今にも寝たそうな顔をしていたら、優しく抱き締めてほっぺにチュ、お休みなさい良い夢見てね、なんて優しく微笑むものではないのか。


平凡の高望みだろう。
魔王にそれを求めてどうする。


「ならば、その歪みが宇宙の『角』となり、光エネルギーが衝突すれば爆発が起きても可笑しくはない。…ビッグバンとは比べものにならない、爆発が」

もしかしたなら、もう起きているのかも知れませんよ、と。
眠りに落ちる間際、囁く声を聞いた。

お休みの代わりに地球崩壊宣言なんて、とんでもないサディストめ。
本当に俺が空気だったら良かった、魔王に見付からずひっそり生きていったのに。




悲しい限りだ、ちくしょう。






「太陽が爆発したら4分後にその爆発は地球に届き、太陽系を呑み込んで、真空、つまりブラックホールを生み出し、膨大な太陽系は小さな小さな粒子に変わります」
「ちい、さ、な…」
「そう、たった4分で、太陽と地球の距離はゼロになるんですよ。光速ならばね」
「ぅ、ん」
「もし、宇宙の果てが存在したなら、もし、宇宙の果てで既に大爆発が起きていたなら。


  …明日にでも私達は消滅しているかも知れない」






子守唄でも聴いている赤子の様な表情で、安らかに安らかに眠る魂がただでさえ小さな体躯を丸めて眠る光景は、恐らく悪魔でさえ庇護欲を刺激されるのではないかと考えた。


「…その安らかな眠りが、永劫になるかも知れない」

何せ、『魔王』の庇護欲を煽るのだから。
貪り尽くしてやろうかと思う反面、泣く姿を見たくない、などと何の照れもなくのたまった『神様』の様に、苛めてやりたくなりながら、然し泣かせれば抱き締めて余す所なく口付けたくなるなどと、

笑えない。



「………今すぐ召し上がれ、っつー顔で寝やがって。無理矢理叩き起こすぞ、…ふん」

空気だ、と。
その愛らしい唇は酷く可愛らしい事を吐き捨てた。



「お前が空気なら、…俺は窒素で良いな」


交ざりあって混ざりあって、大気を緩やかに緩やかにたゆたうのだ。
それこそ永遠に。光エネルギーの様に光速で動き回る事もなく、電子の様に消滅する事もない。





本当に空気だったら良いのに。
密閉して少しの隙間もない部屋に閉じ込めて、誰にも触れさせずずっと、独り占めしてしまうのに。

「人間が呼吸を止められるのは、僅か2分程度」

触りたくても触れない、なんて。愚かな事など考えず、今すぐにでも。





「人の話は最後まで聞け、たわけが。
  ………なんて、その可愛らしい寝顔に免じて今夜は許してあげましょう。私は優しい男ですからね」



太陽を失えば、人間が言う『宇宙』、太陽系など4分後に消えてしまうらしい。
人間とは図太い生き物だ。





4分『も』、生きられるなんて。





「ロマンティストな私はシャイなので、今だけ少しぼざいてみます」

すぴすぴ、愛らしい寝息を発てる唇に一つ、何の肉欲も感じられない可愛らしい口付けを落として、





「『太陽』が居なくなれば、
  ─────私は二秒後に閻魔様と挨拶を交わすでしょう」

抱き締めれば擦り寄ってくる小さな生き物に、諦めに似た笑みを滲ませて。
零した溜め息は何処か恍惚めいていた。



「この私を苦しめる空気など存在して堪りますか、お馬鹿さんめ」


本当に空気なら、良かったのに。

(誰にも気付かれず)
(吐いた吐息さえ逃さずに)



(永劫)
(混ざりあって、二人きり)





「ぅ、む、………鬼畜やないか〜い…」
「どんな夢を見てるんでしょうねぇ。………明日じっくり聞かせて貰おうじゃねぇか。」


肺を埋めてくれれば良い。
(心を占める割合くらい)
窒息させてくれれば良い。
(口付けで殺されるなら本望だと)

「太陽が爆発したら、真空空間で小さな小さな塊になるのでしょうね、…私達は」

貴方が居なければ生きていけない、などと囁いた所で信じようとしない恋人が、空気なら良いのに。


(手が届かない星とは違う)
(常に抱き締めてくれたら良い)
(全身を包み込んでくれたら良い)








「Have a nice dream.(良い夢を。)」


(少しの隙間もないくらい)

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あきゅろす。
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