脇道寄り道回り道
とある女社長の密着取材
「飛騨で育ったのよ。それなりにスタンダードな田舎で、都会から来た若い子なんか悪びれず秘境なんて言うわ。

 極々平凡な家で育った。嫌だったのは、高校卒業したら地元の短大に進むか結婚しろって言われ続けた事だわ。父は婿養子で愛知出身だったけど、都会の名古屋とは違って東よりの田舎育ちで。母方の両親の言う事に従順で、母はそんな父に従順で、つまり祖父が強かった訳。
 私に選択肢なんてないも同然。顔も知らない男に嫁ぐなんて、絶対に嫌だった。だからって地元の短大なんか出た所で、就職先も顔見知りばっか。学校と何も変わらないし、給料だって安い。

 家を出たかった。とにかく都会に。
 父がたまに話してくれる都会の話を聞いて、夢が膨らむの。名古屋は車がいつも渋滞してて、東京ほど怖い所じゃないって、行った事のある同級生が訳知り顔で言うのも羨ましかった。

 だって私は地元から出た事がない。
 小学校の修学旅行は麻疹にかかって、中学の修学旅行は祖父が入院騒ぎ。お祖父様が大変な時に遊びにいくなんて何を考えてる、って、お祖母さんは私達を責めて責めて、流石にこの時ばかりは親に従順な母も私を庇ってくれようとしたけれど、父は祖父の為に我慢しろって言った。

 婿養子だから娘より義父を優先するんだ、私の事なんて大切じゃないんだ。私はその時、そう思った。父と祖父母の関係はぎこちなかったけど悪くなかったし、母は父を愛していた様だし、皆からは『仲が良くて羨ましい』なんて言われる家族の中で、私だけが異端に思えたもんよ。

 小学校、中学校、殆ど同じ顔ぶれで成長してきた私のクラスメートは、二回続けて修学旅行に来なかった私を影で笑ってた。根も葉もない噂を仕立ててクスクス笑ってるのを偶々聞いた時は悔しくて悔しくて叫び出したかったけど、我慢したんだわ。

 そして私は、高校の修学旅行も欠席した。今度は自分の意思でね。
 勉強して勉強して、親に内緒で名古屋の大学を受けた。ただでさえ少子化世代で、一人でも国立大学に受かったら飛んで喜ぶ様な田舎町だったから、受かったら祖父母も私を認めてくれると信じてた。

 合格した時は叫ぶほど嬉しかったわ。
 父も母も寝耳に水って顔をしたけど、喜んでくれた。だけど祖父母は『女が四年制大学を出て何になる』ってね、いつの時代のモラハラだってのよ。

 母は両親を怒鳴った。父には従順な母も、若い頃は大学に行きたかったけど許して貰えなくて、随分悔しかったそうよ。だから娘の私には我慢させたくなかったって、泣きながら怒鳴った。
 その頃、祖父は入院した事が切っ掛けで以前より弱っていて、実際の家の支配者は祖母だったの。祖母は母を雑巾で叩いた。叩いて叩いて、…急に心臓を押さえて倒れてしまった。

 祖母はそのまま亡くなってしまって、私は呆然とした。
 祖父は脳梗塞の時に負った半身麻痺の体でそれでも喪主を努めて、母は自分の所為で祖母が急死してしまったんだって己を責めた。父は違うって母を宥めたけれど、軽い鬱を患った母はそんな父に『貴方は他人だから私の気持ちが判らない』って言ってしまったんだわ。

 父は泣きながら母を叩いた。
 父の実の両親は、父が小学生だった頃に亡くなっていて、父は親戚の家で育ったんだって私はその時初めて知った。だからお盆にも正月にも、父が帰省する事はなかったのね。父は両親に憧れていて、親戚では腫れ物に触れる様な扱いを受けて育ったから、どうしても母の両親と家族になりたかった。そしてそんな父を、鬼の様だと思っていた祖父母は本当の息子の様に思ってたって。

 祖父は以前とは比べ物にならないくらい小さな体を曲げて、家を頼むって言ったわ。母には兄が一人居たけれど、大学受験に失敗して絶縁状態だったみたい。父は幼くして両親を失っていたけど、伯父が入学出来なかった大学を卒業していて、地元では一番人気だった車メーカーに就職してたから、だから母との結婚に賛成したんだって。実の息子は母親の葬儀にも帰ってこない人間だから、俺の息子はもうお前だけだって。

 父さんは、そんな祖父の手を握って泣きながら何度も頷いた。
 お義兄さんの代わりでも良い、自分とって父は貴方だって、何度も。

 …とんだ茶番劇だと思わない?私の大学合格の話なんて、もう誰も言い出せる空気じゃなかったんだわ。私だけが拳を握りしめて、ふざけんなって思ってた。祖母が死んでも悲しくなかったし、母が臥せっても心配にもならなかったし、父の身の上話を聞いても何とも思わなかった。

 そんな事より、必死で勉強して、修学旅行も我慢して、名古屋行きのチケットを漸く掴み取った事を、どうしてもっと誉めてくれないのか。私の事を考えてくれないのか。どうしてもっと、どうしてもっと…!


 祖父が倒れてしまった。

 祖母が死んで半年後の事だったんだわ。
 前に比べたら軽度の脳梗塞だったけれど、年齢も年齢で長くはないって言われた。私は結局大学には行かせて貰えなくて、町中の笑われ者。母は鬱で、祖父母は立て続けに、って。だから余所者と結婚するとこうなる、なんて、今まで仲良くしてきた町中の大人が、今度は婿養子の父を悪者にする。家を乗っ取っただの、祖母を殺したのはあの男だだの、酷い言われようだった。

 父が有名な会社で部長にまで上り詰めていた事を、知らない人は勿論いない。田舎だもの、県議会議員を努めた事のある祖母の弟は有名で、それに引き換え祖父の家は代々農家だったから、言いたかないけど、祖父と義理の弟とは随分比較されたんだと思う。今になれば、祖母の発言力が大きかったのもきっと、祖父の方が立場が弱かったからなのね。

 私は母の介護をしながら、家に引き籠ったわ。
 祖父はもう喋れなくなってた。認知症を併発してて、駆けつけてきた伯父夫婦を見ても誰か判らないくらいだった。

 伯父は受験に失敗して家を追い出されてから、叩き上げで電気メーカーに就職して、社内結婚して息子が二人が出来てた。私にとっては従兄弟に当たる。一人は私より4つ年上で、その時はまだ22歳だったけどもう結婚して娘が産まれてた。もう一人は高校三年生で、私より一つ年下。大学受験を控えてるって、悪びれず言った。

 伯父は父に何度も頭を下げて、父も伯父にひたすらペコペコしてた。従兄弟二人は、兄の方は若い頃ヤンチャしてたみたいだけど、どっちも良い子でね。高校中退した兄の方は授かり婚でアルバイト先で正社員になれたばかり、苦労しただけに弟には同じ思いをさせたくないって。
 父が行けなかった大学を目指してるって、だから叔父さんを尊敬するって、弟の方は笑ってた。私が受かった国立大学よりずっと格下の大学だったけど、伯父夫婦は笑顔で応援してる様だった。

 なのに、私は?
 がむしゃらに勉強して国立大学に受かってだけど母の介護を押しつけられて、たまに外に出ても行き先は祖父が入院してる病院だけ。私を応援してくれる人なんて、事情を知ってる祖父の担当医と看護師さんだけなのに。

 羨ましかった。私を嘲笑う町中の奴らが憎かった。
 家を出ようと思った。鬱でまともに起き上がれない母にそれを言ったら、通帳をくれた。中身は大学卒業までに必要なお金が入ってて、応援してあげられなくてごめんなさいって言われた。

 私は泣いた。
 泣いて母に抱きついたけど、そのまま家を飛び出して…産まれて初めて、都会に出たんだわ」



これが私の全てだと。
完璧なメークの下、ほのかに目尻に皺を寄せて皮肉げに笑った女は、グラスを傾けた。悪酔いしたのは朝方まで、今はもう覚めている。

「はぁあ…。話題の女社長に、そんな濃い過去があったなんて。良い記事になりますよ!ページ足りるかな〜」
「雑誌の密着取材なんてもっと適当なもんだと思ってたけど、本当に四六時中張り付いてくんのね。無様に酔っ払ったオバサンに呆れてんでしょ?」
「いやいや!謎に包まれた叩き上げ社長のプライベートを知る事に意義があるんですよ!こんな風に人間味がある記事の方が、読者はグッと惹き付けられるんです!」
「物は良いようだわ」
「で、結局社長はそのまま浪人して大学進学されたんですか?」

興奮気味の若い女性記者は、昨晩から続いた酒盛りである意味覚醒しているらしく、早朝とは思えないテンションで身を乗り出した。
出張にまでついてこられた時は流石に呆れたが、段々諦め半分愉快半分の心境に陥り、密着取材される側は笑いながらホテルの部屋へ記者を連れ込んだのだ。

「進学は結局、その時は出来なかったんだわ。母から貰ったお金で住む家を探して、従兄夫婦にだけ連絡して、保証人になって貰った。若い頃ヤンチャしてただけに私の話をしっかり聞いてくれて、手を貸してくれる事になってね」
「良い従兄さんですねぇ」
「随分お世話になったもんだわ。浪人中の生活費を稼ぐ為に、とある会社で事務員して働いてる内に、社長に気に入られた。色んな資格を取らせて貰えて、車の免許を取るお金も出してくれて。社長は14歳離れてて、妻帯者だったけど憧れたもんだわ。隙があったら略奪してやろうと狙った事もあったけど、」
「おぉ〜!それで?!」
「勿論、愛妻家は一筋縄じゃ行かないわよ。奥さんも素敵な人で、何だか本当のお姉さんみたいに思えたんだわ。だから略奪なんて出来る訳もない、徐々に社長は私の中で兄の様な存在になっていった」
「良い話ですぅ。もっと下さい」

空になったルームサービスのワインボトルがテーブルの上に散乱しており、乾いてカピカピのチーズオードブルとクラッカーが並ぶ皿は、殆ど減っていない。お情け程度のキャビアだけは、食べた事がないと目を丸めた記者の胃の中へ、早々に消えている。

「…なんて、実は本当の兄だったの」
「えっ?」
「父は母と結婚する前に、一度離婚してたの。若い頃から父は専業主婦が欲しかったけど、前のお嫁さんは仕事を辞めたくないって反感を持ってて、子供が生まれてお嫁さんの産休が満了すると同時に、離婚したらしいんだわ」
「あらら…泥沼ぁ…」
「と思うでしょ?これが円満離婚なのよ。私だけが知らなかった事で、母も祖父母も伯父も従兄弟達も知ってた。離婚後は、父と前のお嫁さんは仲良くなってたそうでね。母との再婚の切っ掛けになった食事会を、そのお嫁さんが仕切ってた事もあって、早い話が両親の仲人みたいなもん」
「一度目の奥さんが二度目の奥さんを紹介したんですか?!ふわぁ、何だそれスクープ過ぎるっ!」
「流石に一般人のネタでおまんま食べようとは、しないわよね?」
「ふわぁい、すいません…」

流石に一睡もしないままアルコールを過剰摂取し続けて、腹は減らないが、朝食の時間には遅い時間になってきた。顔を洗ってコーヒーでも飲もうかと立ち上がれば、逃がさんとばかりに記者も立ち上がる。

「何処に行くんですか!」

やはり部屋に入れてから図々しくなった様に思うが、女は図々しいくらいで丁度良い。

「シャワー浴びるだけ、逃げやしないっての。話は続けるから、他人の裸を見ながらメモを取れる酔狂な性分なら、そこで聞いてなさい」
「有難うございます!」
「皮肉も通じてないんだわ」

今更、誰に見られて恥ずかしがるものでもない。
そろそろ還暦だと自虐混じりに呟いて一糸纏わぬ姿になると、シャワーヘッドを掴んだ。さっと体を暖めて、湯船に湯を溜めながらクレンジングオイルを掌に垂らす。

「仕事が楽しくなって、何年経った頃かしらね。仕事仲間の皆から成人式を祝って貰えて、数年経った頃、暫く連絡を取ってなかった従兄から連絡があった」
「ヤンチャ君ですねっ?」
「そう。私が入社した頃、社長夫婦の所に娘が産まれてて、双方の子供を交えて食事会をしようって事になってね。何で社長が初対面の筈の従兄と親しげなのか不思議だったんだけど、何て事はない。社長の母親が離婚後に働いてた職場が、伯父と同じ会社の営業所だった」
「顔見知りだったんですか」
「ええ。その上、家族ぐるみで交流があった。そこで私は初めて、社長が腹違いの兄だと知った。兄は私が面接に来た時に気づいてたそうで、着の身着のまま家出同然に名古屋に来た私を心配して、側で見張っておこうと思ったんだって言われたわ」
「良いお兄さんですね…」
「でもその頃は、何だか裏切られた気持ちになったもんよ。父親が再婚だった事も知らなくて、他人の振りをしてた社長が本当の兄だなんて、しかもそれを知らないのは私だけなんて、馬鹿にしてるって思った」

化粧を落とし、顔を湯で流す。
僅かな沈黙の後に、濡れた髪へシャンプーを揉み込んだ。

「頭に来て会社を無断欠勤して、携帯をアパートに置きっぱなしにして遊び回ったんだわ。21・22歳頃の田舎育ちの娘にはハードルが高いバーに飛び込んで、誘ってきた男に片っ端から抱かれて…酷い目にも遭ったかしらね…」
「酷い目?」
「訳の判らない薬を嗅がされて、何人居たか判らない男らに弄ばれて、ラブホテルに置き去りにされた。清掃員が通報して、病院に運ばれて、駆けつけてきた兄と従兄弟に泣かれて、伯父に叱られて、父に初めて叩かれた」
「お父さんも来たんですか」
「父は従兄から私の近況を聞いてたそうよ。勿論、息子からも。兄の会社に入ってからの一部始終を父は知ってた。私が大学に行きたいなら援助もするって、兄に言ってたそうよ」
「それなら何で受かった時に応援してくれなかったんですかね」
「家族が大切だったんだって。祖父母も母も私も、皆が家に居て欲しかったって泣きながら言ってた」

また、泡を流す間だけ沈黙が落ちる。

「…私を叩いて、抱き締めた父は、父親としては最低な男だったって謝りながら、それでも自分の側から家族が離れていくのが辛かったって言った。両親を事故で亡くした事が、父のトラウマだったんだと思うんだわ」
「…そんな」
「すれ違ってただけ。互いに互いが見えてなかった、私は父に似たんだわ。岐阜に帰ろうって誘われて、祖父が亡くなった事、母の病が回復してるって事を聞かされた。兄は自分で決めろって言ってくれて、一度帰省したけど、名古屋に残る事に決めた。今度こそちゃんとした大人になるって、皆に約束させられて」
「それで大学に?」
「駄目だったわ。勉強しなくても受かるつもりでその年に受けたけど、数年のブランクは生半可じゃなかった。落ちた事で自分に対する驕りみたいなもんが消えちゃって、23歳になる前に兄の仕事関係のパーティーで知り合った人と結婚」
「わぁ、起承転結がスピーディー。どんな人だったんですか?」
「一言で言えば真面目」
「真面目?」
「後は優しいって言うか、優柔不断って言うか、私より9つ年上だったんだけど、私の方が姉みたいだったわね。昔YMDって会社あったでしょ?」
「はいはい、名前だけは何となく」
「そこの本社が三重県にあった頃、主人は本社の営業部でバリバリ働いてた。エンジニアの知識があって工場で暫く働いてたそうだけど、顧客に対する接し方に見込みがあるって言われて引き抜かれたそうよ。仕事が出来る男なんだって思ったら、兄に対する淡い初恋みたいなもんを思い出しちゃって」

さっぱりした。
湯船にはまだ半分ほどしか溜まっていないが、躊躇わずに体を下ろす。湯に浸からないと入った気がしないからだ。

「兄も彼なら反対する理由がないって言うから、結婚しない理由なんかないんだわ。料理も殆どした事がなくて、誰かと付き合った経験もない癖に、絶対幸せになるって信じてた」
「私もそう思いますもん!」
「間もなく娘が産まれて、主人の両親も穏やかで仲の良いご夫婦で、亡くなった祖父母の様に変に厳格な所もなくて、同居する事に苦もなかった。すぐ妊娠して娘を授かったけど、これが難産でね」
「娘さんがいるんですか?!」
「記事にしたらダメよ?私達だけの秘密」
「はいぃ」
「出産後は半年も入院する羽目になったもんだけど、義理の両親も主人も、私の為に尽くしてくれた。主人は当時じゃ珍しいと思うんだけど、産休を取得して仲間から睨まれたみたいだけど、娘可愛さに屁ともないって笑ってくれた」
「何だそれ、完璧に良い男過ぎる」
「朝早くに出掛けて夜遅くに帰ってくる癖に、退院した後も私を気遣って、買い物だとか何だかんだ何でもやってくれた。家事はお義母さんが率先してやって下さるし、自営業のお義父さんも暇を見つけては娘の子守りをやって下さって…」
「わぁ、皆さん優しいなぁ」
「そうね。優しくて非なんてなかったけど、私だけが異端の様に思えたものよ。まるで、実家にいた頃の様に」

何かに気づいたのか、あっと一言漏らした沈黙のした記者は、メモを握ったまま戸口で俯いた。

「出来ないながら、やらせて欲しかった。出産するまでも下手だけど家事して、お義母さんと買い物に出たり、お義父さんと主人の仕事が順調に行く様にサポートしてるつもりになったり、したのに。娘を産んでからは、ほんの一年くらいお乳をあげるくらいしかやらせて貰えなかったんだわ。それが凄く、悔しかった」
「言わなかったんですか?」
「言おうとしたわよ。だけど、昔の記憶が過るの。祖母に怒鳴られた時、父に庇って貰えなかった時、母が臥せった時、祖母が倒れた時…」
「…」
「私の所為で、実家は壊れてしまった。優しい主人の家庭まで壊してしまったらどうしよう、そんな事を考えてる内に…幸せな家の中が、針のむしろの様に思えてきたんだわ」

四六時中、訳の判らない恐怖が体を支配する。
今になればあれはパニック障害だったのだと思えるが、病院には行かなかった。体は健康だったからだ。家族が嫌いな訳ではなかったからだ。

「娘を幼稚園に入れて、いよいよ日中の私はニートみたい。送迎バスが送り迎えしてくれるから、娘を起こして食事をさせたら玄関で見送るだけ。私の仕事なんてない。働きに出たいって言ったけど、主人は同世代より良いお給料を貰ってて、近々課長になるって話も出てて」
「はい」
「買いたいものがあるなら良いよって、クレジットカードを作ってくれたんだわ。義父も娘の出費がある時は喜んでお金を出して下さる方で、普通は文句を言う方が間違ってるのよ。何でも良かった。実家にいた頃みたいに、外に出たくて耐えられなかった。昔みたいに私を蔑ろにする人なんて居ないのに、私は…」
「私は?」
「娘の幼稚園で働いてた年頃の変わらない男と、関係を持ってしまったの」

後悔しているかと聞かれれば、答えはイエス。
けれど、浮気に気づいていた癖に口に出さなかった夫に対して、不満がなかったかと聞かれれば、やはり答えはイエスではなかった。

「私なんていない方が。そう思ったけど、言えなかった。主人は相変わらず優しくて、娘は活発になってきて、主人の会社が名古屋に移る事になって、私達は同居していた両親から離れて、社宅に入る事になったわ。主人が会社からの呼び出しですぐに動ける様にって事らしいけど、その頃には主人とまともに会話してなかったから出世した事しか知らなかった」
「引っ越したんですか?」
「ええ。それまでは三重に近い愛知県で暮らしてたけれど、また名古屋に戻ってきた。それを期に、娘が幼稚園にいる間、兄の所でパートに出る事にしたの。心機一転、主人も反対しなかった。兄の所だったから融通が利くし、私も楽しかったわ。改めて主人と娘を愛してるって思えたし、だけど続かなかった」
「どうして?」
「…浮気相手が追い掛けた来たのよ。私達の家の前で大騒ぎして、幼稚園から帰ってきたばかりの娘に見られてしまった」

娘は6歳。
小学校入学を控えていて、我が娘ながらマセた女の子だった。

「娘は浮気相手、つまり前の幼稚園で先生と呼んでた彼を激しく罵りながら追い返して、泣きながら私を罵った。お父さんがいながら他の人と抱き合ってるなんておかしい、お前は頭がおかしい。…他に、なんて言われたかしらね」
「抱き合ったんですか?」
「お互い遊びのつもりだったし、別れ話なんて必要ないと思ってたのよ。だから彼が家の前にいる事が信じられなくて隙を見せてしまって、何とか穏便に済ませようとしたんだけど、別れたくないって縋りつかれてた所を見られたんだわ」
「あちゃー」
「勿論、私が愛してたのは主人だけだった。だけど娘は帰宅した主人に見た事を全部話してしまって」
「あちゃー…」
「だけど主人は、『それは勘違いだよ』って娘を宥めた。私を叱る事もなかった。勘違いだよ、だから気にしなくて良い、忘れなさい。…愕然とした。私には叱る価値もないのか、私には嫉妬する価値もないのか、私は主人を愛しているけれど、主人は…」
「ええっ?!私には喧嘩して離婚したくないって風にしか思えませんよ?!優しい旦那さんじゃないですかっ!」

湯が完全に溜まったので、給水を止める。
高層ビルの窓の外は青空と雲と太陽があり、他の邪魔は何もない。

「でも私は離婚届けを残して家を出た。主人は兄にも両親にも言ってない様だった。私は実家の両親に頼み込んで、大学受験させて貰う事にした。兄の所で働いてた時の貯金と、母から貰った通帳のお金で学習塾に通う事も難しくなかったから」
「ご両親は、離婚の事に関しては何も?」
「さぁ、思う所はあったんじゃないかしら。父はともかく母は初孫に喜んで、鬱だったなんて嘘みたいに元気になっていたし。だからこそ、私が大学に入れば考えが変わる筈だって思ったのかも知れないわね」
「でも離婚したんですよ、ね?」
「二回落ちて、三回目、私としては五回目の受験でやっと入学したんだわ。それまでに四年掛かってて、娘は当時10歳くらいかしら。私は34歳くらいで、大学入学の報告をする時に兄に全てを話した。兄は驚いていたわ、主人は離婚の事も、私が家を出た事も話してなかったそう。それ所か、離婚届けも提出されてないって事を、区役所で知ったのよ」
「それで?」
「何も。四年通って卒業して、年下の同期の子に誘われて、共同名義で会社を興した」
「彼氏ですか?」
「女の子よ」

勘違いされるのも無理はない。

「在学中に、元気だった母が亡くなった。癌で、あっと言う間だったわ。せめてもの救いは、苦しみが短かった事くらい。私の入学式にも来てくれて、死ぬまでずっと笑顔だった」
「お父様は?」
「暫くは見る影もないくらい落ち込んでて、流石に兄が心配して一緒に暮らそうって言ったくれたそうで、それは申し訳ないからって断ってたけど、元のお嫁さんと変な別れ方した訳じゃなかったから、数年後に再々婚したんだわ。だから私の名字は本当は父の名字に変わったんだけど、起業した時のまんま、対外的には母方の姓を名乗ってる」

だが、本当に女二人で仕事を始め、嫌な思いもしたが軌道に乗せられた時は誇らしかったものだ。40歳、まだまだこれからだと、男なんて見向きもしなかった。

「小さいネイルサロンから初めて、二人共若かったからやる気に満ちてて、美容院まで展開する様になった頃にふとニュースを見たの」
「ニュース?」
「YMDの榛原社長が辞任した、大きなニュースよ。絶対に潰れないと思ってた大企業が倒産寸前なんて信じられなかった。その頃の私は神奈川に住んでて、慌てて娘と主人を訪ねたけれど、社宅に二人の姿はなくて。恥を忍んで主人の実家を訪ねたけど、売りに出されてた」
「えっ?!」
「義母が認知症を患って、色々あったそう。義父は妻を愛してらしたから、ケアホームに入って生活する様になっていたの。だけど義母はとうとう義父の事も忘れてしまって、離婚した。主人は母の籍に残ったそうだけど、義父と一緒に暮らす事にしたそう」
「そんなぁ…」
「主人はYMDの復興の際、榛原社長と共に首を切られた重役の中に含まれてたわ。真面目だけが取り柄の人だったけれど、デスクワークには向いてなかったのね。私はそんな事も知らなかった。そして、主人の居場所を知る為に戸籍謄本を取りに行った市役所で、私の名字が旧姓に戻ってる事を知ったのよ」

手懸かりはなくなった。
自分だけが幸せになっている間に、夫と娘が辛い思いをしていた。

「悔やんだ。でも仕事を蔑ろにする訳にはいかない。働いて働いて、相方の結婚を期に分社化して、私はそっちの社長になって今に至る訳」
「そうでしたか…。うう、心が苦しい」
「ふふ。知っての通り、アパレル展開を始めて、がむしゃらだったわ。あっちこっち走り回って、比較的新しい企業にアプローチを掛けた。古参企業は付き合い優先で請け合ってくれないから、自分の目で見て成長が望まれる会社に片っ端からアタックすんのよ」
「大変ですねぇ」
「大変だけど、楽しかったわよ?悩んで泣く暇もないくらい忙しくて、やっと話を聞いてくれた会社のモール出展にも関わらせて貰えた。娘と同じ年齢の、若社長さん」
「ほー。どこの会社ですか?有名所じゃない感じ?」
「今や一流企業の仲間入り、ワラショクよ」
「ひゃあ!大企業だー!」

逆上せる前に出ようと湯から上がり、タオルで適当に拭ってから備え付けのバスローブを纏う。何故か胸を凝視してくる記者に眉を跳ね、風呂を薦めたが断られた。パパラッチと言うものは、二・三日風呂に入れないのは普通らしい。

「取締の一人、今は顧問になってる村井さんって人が営業部長でね。まぁ、厳しい人だったんだわ。あれもこれも駄目出ししてきて、何かにつけて、そんな妥協を易々口にするとは、お前にプライドはないのか!…なんて、叱られる」
「こっわ!流石はたった十年で一部上場した企業の取締役ですねぇ…!」
「本当に、怖かったわよ〜。まぁ、お陰で言いたい事言い合えたし、それが切っ掛けで私の会社の成績は十年間連続右肩上がり」
「いよっ!出来る女!」
「ふふ、そうでしょ?」
「苦労した分、成功を手に入れた今の心境はどうですか?今後の目標は?」
「死ぬまでやれる事をやるわ。その後の事は知ったこっちゃない、かしら」
「成程、クールですねぇ」
「彼氏にも好きにしなさいって言われてるし」
「おお?!恋人がいらっしゃるんですか?!これは特ダネだぁ!」
「さっき言った村井さんが私の彼氏よ☆十年前に再会してから、ちょくちょく連絡取り合ってたの〜!」
「へ?再会してから、とは?」
「やぁだぁ、聞きたい?聞きたい?!」
「え、えっと、え?」
「私の旧姓、村井夕夏里って言うの。さっき言った様に、森永は母方の姓よ」
「…は?え?」

暫く硬直した記者をつまみにワイングラスの残りを煽れば、携帯が控え目な着信音を奏でる。パカッと開けば、ハートマークが乱舞するモーニングメールで、今朝も釣りに行くと踊る様な文字が並んでいた。

「もう、また釣りぃ?和彰さんも好きねー、また優大さんとイチャイチャしちゃって…」
「ちょ、ちょっと待って下さい森永社長!えっ?村井夕夏里と村井営業部長って、それ、それって一体どう言う…」
「私の彼氏が、別れた主人って事」
「な」
「因みに、娘の主人がワラショクの山田君。あの糞餓鬼、人の娘を貰っておいて女癖が宜しくないってんだから、頭に来るったらないんだわ。ま、相手の女は片っ端から仕事場だの実家だのに、FAXでアバズレ女って書いて送ってやったから、痛い目見てんじゃない?ざまーみろだわ」
「そ、な、え」
「あ、昼から出掛けなきゃいけないのよ。来週だぁりんのお誕生日でぇ、その日は仕事を忘れて一日中イチャイチャするのよぉ?良いでしょ、ねぇ、羨ましいでしょお???」

コクコクと壊れた鹿威しの様に頷いている記者を横目に、還暦間際の女社長はテレビをつける。偶々流れたコマーシャルに目を輝かせ、

「今日も朝からニッコニコ〜♪」
「…あの、社長ぉ…」
「なーに」
「今のお話、何処まで書いて良いんですかぁ?」

たわわな胸を寄せる様に腕を組み、にやりと笑う。

「ワラショクに睨まれて広告収入減少したくなかったら、頭を使いなさい」
「聞くんじゃなかったぁ!」

それこそ、今更だ。

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あきゅろす。
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