脇道寄り道回り道
とある一年Sクラスの授業中
「ふぇ。ふぇん」

授業中にぐすぐすと鼻を啜る音が響いている。
それほど大きな声ではないが、閑静な昼下がりの教室では、気にするなと言う方が無理な話だ。

「ぐす、ぐすん、ひっく、うぇん、ぐしゅ…ちーん!」
「俊、自棄になるな。国語のテストが0点だったからと言って悔やむ事はない、選定考査では現代国語のカリキュラムは三教科からの選択方式だ」
「カイちゃん…ひっく、違うにょ。さっきのテストの悲しみは1分で終わったなりん、お昼ご飯食べたから…っ」

その日、一年Sクラスのツートップが繰り広げる授業中の堂々たる私語に、数学教師は震えた。繰り返す様で何だが、現在授業中なのだ。それも恒例の小テストの時間であり、開始してまだ5分にも満たない。
にも関わらず、開始数分は大人しかった外部生が突如として眼鏡を涙で沈め始めると、彼の真隣の席にぴったり張り付いている眼鏡2号が囁いた訳だ。

「…こほん。天の君、灰皇院君。試験中の私語は可能な限り慎むように」
「ふぇ。ご、ごめ、ごめんなしゃいまし…うぇ、うぇん」
「俺も俊もこの程度のテストなど既に終わらせている。他人が少々物音を発てた程度で実力を発揮出来ない生徒など、この進学科に存在したか?」

その所為でテストに集中していた生徒らから緊張が解けたのを見て取ると、教壇の前で時間まで監督していた教師の顔は当然ながら、強張る。
マイペースな帝君ペアを勘に障らないようやんわり咎めれば、素直な遠野俊の傍ら、テスト用紙の裏側に左手に握ったペンで何やら書き込みながら、右手に握った色鉛筆で着色している器用すぎるオタクが囁いたのである。

「生徒の主体性を重んじ枷のない生活を尊重しながらも、正しい成長へと導き正当な評価を下すべき立場の教師が、育むべき生徒を軽んじる発言をするとは、些か今の学園の在り方に疑問を感じずにはおれんな」
「そ、そんな大袈裟な…っ」
「何が大袈裟なものか。高々25問程度の小テストに20分も必要あると考えるに至った理由について、甚だ遺憾だと感じずにはいられん。俺を納得させるに値する異論はあるか」

余りにも静かな声音は、明らかに教師への暴言だったが、ハラハラしている生徒らを横目にぽいっとペンを手放した神崎隼人は、さらりとテスト用紙を裏返すと痙き攣る唇で器用に笑みを刻んだ。

「ありませんけどお?は、ンなテストちょー余裕だしい。簡単すぎて見直しちゃったしい」
「強がるのはやめなさいハヤト、今回は俺の方が早かったですよ。俺が書き終わった後もお前はカリカリ書いてました」
「あは。テスト中に隼人君を気にするなんて、恋されちゃってる感じなのー?やだー、カナメちゃんエッチー」
「図体だけ無駄にデカいから視界に入るだけです。全く、馬鹿も底抜けるといっそ清々しいですね」
「その馬鹿に負けてる癖に」
「…総合点は、だ。理数だけの合計点なら負けてない」

ああ、もう。
今が授業中で、テスト中だと忘れているのだろうか。
睨み合う金髪と青髪は、それぞれ互いのテスト用紙を笑顔で鷲掴むと、勝手に自己採点を始めている。止めた所で素直に聞く様な生徒ではない事は、派手に染め抜かれた毛髪や衣服の乱れで明らかだ。

「…何だあ、満点じゃん。カナメちゃんの癖にやるねえ」
「ふん。判ってましたがね、小テストでは決着しない事は…」
「ボスー、隼人君もカナメちゃんも満点だったよー。褒めてえ」
「うぇん」
「猊下、眼鏡が濡れてます。俺のハンカチで良かったら使って下さい」
「やだやだ、ボスはカナメちゃんのイカ臭いハンカチなんか使わないって」
「誰の何が臭いか言ってみなさい。返答次第で殺す」

一触即発ムードの二人にハラハラしている教師に影響されたのか、教室内もまた緊迫した雰囲気に染まった。
ちーんと派手にネクタイで鼻をかんだ帝君は涙に沈む眼鏡をぐいっと押し上げ、しゅばっと立ち上がると、胸ぐらを掴み合う金髪と青髪を横目に、くるんと向きを変えたのだ。

「タイヨーがさっきから問21で躓いてるにょ!タイヨーの鉛筆の音を逃さず聞いていたオタクには判ります、陰険俺様教師の出す卑劣なトラップでにっちもさっちも行かない所まで追い詰められたタイヨーちゃんは、泣きたい気持ちをグッと堪えてるに違いないなり!」
「は…?!えっと、天の君、陰険俺様教師とは私の事かね…?」
「成程、お前はヒロアーキの疎かな実力に心を痛めていたのか。案じる事はない、21番であるからこそ平凡受けは愛されるのだ」
「ひっく。ふぇ。流石はカイカイ軍曹、一理あるにょ」

壮絶に荒んだ眼差しを眇め、鉛筆を握った右手をそのままに左手でぼりぼりと髪を掻いた男は、納得した様に席へ座り直した帝君を一瞥すると、微かに笑顔を浮かべて呟いた。絞り出す様に。

「…んな一理ある訳ねーだろ、テスト中に騒ぐんじゃない。殲滅するぞオタク共」
「はふん」

パリンと言う軽快な音で割れた黒縁眼鏡の持ち主は、ふらりと倒れてピクピク痙攣している。素早く抱き起こした長身はもっさり前髪の下、奇抜にも程がある五輪型眼鏡を怪しく煌めかせた。

「傷は浅いぞ俊、しっかりしろ」
「ヒューヒュー」
「いかん、死戦期呼吸だ。取り急ぎ人口呼吸を、」

巨大なオタクが泡を吹いているオタクに吸い付こうとした瞬間、カルマの二人が凄まじい早さで立ち上がったが、それと時同じくしてテスト終了を知らせるアラームが教壇の上の時計から響き渡たる。

「じ、時間です。それでは各自のテスト用紙をスキャナに乗せて送信して下さい。残り時間はテキストを配布するので、各自ベルが鳴るまで自習とします…」

頭痛を覚えたらしい教師は冊子を配布するなり、よろけながら教室を出ていった。定期的に配られる各教科の特別課題は、指定された日時までに提出する事で、通常の出席単位とは別に補完単位を得られるので、進学科の生徒御用達の宿題の様なものだ。勿論、一般クラスの授業内容とは遥かに異なり、一年生の内から大学受験を意識した内容になっている為、少ない期限に終わらせるのは骨が折れる。
とは言え、二人目の帝君から静かに責められていた教師がそそくさと居なくなった事で、変な緊張感から解き放たれた生徒らはほっと一息ついたが、悟りを開いた表情で微笑んでいたこの男だけは、どうもそうではないらしい。

「…あちゃー、最後の一問だけ書けなかったよー。あーあ、ほんと数学なんかなくなればいいのに…って、俊どうしたの?」
「ぁはは、太陽君は理数が苦手だったっけぇ」
「んー、国語とか地理とか、ゲームで良く出るのは結構覚えてるんだけどねー」

血走った目で親友を殲滅すると宣った事など、山田太陽は既に覚えていない様だ。苦手な科目だった為に焦っていたテスト中と解放された今は、全く別の太陽なのである。
何と言う二面性だと呆れている神崎隼人は錦織要のテストを読み取ってから送信し、要は要で隼人のテストを読み取ってから送信した。どちらも満点なのだから、どっちがどっちでも構わないと言う感じらしい。

「それにしてもハヤト、今回は比較的丁寧に解答欄を埋めてましたね。どんな心境の変化ですか?」
「隼人君には読めてもその辺の凡人には読めないっつーからさあ、目一杯ゆっくり書いただけえ。また読めないから減点〜とか言われたらあ、やってらんないしい」
「へぇ。俺はまた、お前の事だから猊下に良い所を見せたいだけかと思いましたがね」
「わあ、何処までも勘繰るよねえ」

子供を見る目で馬鹿にした笑みを浮かべた要に、眉をピクリと跳ねた隼人は気丈に微笑み返す。殆ど図星だったが、素直に認めないのがモデル嗜みなのかも知れない。

「天の君、ご無事ですかっ?」
「ご希望のコーラZEROを買って参りました、どうぞ!」

嵐の入学式典から丸一週間が過ぎると、それまで外部生帝君を遠巻きにしていたクラスメートらの心境に変化があった様だ。着々と増えている教室内の本棚の中身、毎日配られる左席のチラシに一年Sクラスの冊子。太陽は、それを皆が回し読みしている事を知っていた。

「ふぇ?メガネーズ隊長、コーラちゃんくれるにょ?」
「天の君、どうぞ遠慮なく。溝江の奢りなのさ」
「そう、僕からの心ばかりなのさ。困った事があれば灰皇院君だけではなく僕らも頼ってくれたまえ、天の君」
「有難うございますん!カイちゃんの分もあるにょ。カイちゃん、お礼しなきゃめーょ」
「かたじけない」

ただでさえ高等部で全くの外部生が増える事など、過去を幾ら遡っても有り得なかった事だ。兄弟校、提携姉妹校や廃校を新たに買い取って増やした各地の分校ならばともかく、帝王院学園内部推薦を持たない新規の受験生は本校に限って初等部までに入学を果たしている。
初等部で中途編入を果たした太陽もまた当時は騒がれた外部生だが、それでも今の遠野俊に比べれば可愛らしいものだったろう。

何にせよ、入学するなり星河の君から帝君の座を剥奪した天の君は、あらゆる意味で注目を集めていた。表向き親衛隊がない隼人の私設ファンは光炎親衛隊内部にも数多い様で、校内を歩く度に俊を睨んでいる生徒は大抵彼らである。
その噂も既に一年Sクラスでは衆知の事実であり、近頃は何処かしら太陽と俊が二人きりの時は、クラスメートが視界に居る事が多かった。

「純粋な善意、ただの興味本意。どっちにしても人気者は気の休まる暇がないってねー…」
「ん?太陽君、何か言った?」
「や、こっちの話」

太陽の独り言に、机に突っ伏して寝た振りモードだった金髪がこてんと顔だけ向けてくる。人を食った様な笑みを刻んでいない双眸は、近くで見ると灰色である事を最近知ったばかりだ。
脱色し過ぎなのか、毛先になるにつれて金を越え白に見えるパサついた髪には、褪せた黒幕の如き濃灰のメッシュが散っている。目映いのかそうでないのか、何とも曖昧な髪型だと、満足に話した事のない頃に太陽は思った事がある。人の良さそうな笑みでへらへらしている癖に、クラスでは最も近づき難かった男だ。

「えっと…何だい神崎君。俺の顔に何かついてる?」
「目と鼻と口がついてる。見れば見るほどにフツーだよねえ、不細工って言ってもよいレベルだろうけど、世間に出れば下には下が居るからあ」
「あはは、そうかい。人の外見の美醜なんて、突き詰めるところ好みの問題だもんねー」
「あは。何が言いたいわけ?」
「ん?ただの一般論だけど、俺、何か変なコト言ったかな?」

蕎麦とうどん。
呟いた要を苦笑混じりに見つめた安部河桜は、光の早さでコーラを飲み干すなりトイレに行っていたらしい帝君ペアを見た。何やらしょんぼりしている俊の背中を、もっさり長身が甲斐甲斐しく撫でている。
然しその手つきが自棄に卑猥に見えるのは気の所為だろうかと首を傾げれば、六時間目を知らせるベルと共にドアが凄まじい音を発てて開いたのだ。

「おう、次の時間は古文だろ?」

ああ、またか。
燃え上がる様な真紅の髪を掻き上げた男が、褐色の手でドアを鷲掴んでいる。スチール製の戸がミシミシ軋んでいる所を見るに、派手なドアの開け方だった事と総じて、機嫌が宜しくないらしかった。

「仕方ねぇから2学年文系総合満点のこの俺がビシッと見ててやる、有り難く思え後輩共」
「…副長、後ろで先生が困ってますよ。戸口を塞がないで下さい、ユウさんは分厚いんですから」
「あ?テメー、今この俺をデブ扱いしたか?良い度胸だ、表に出ろ」
「残念ですが授業が始まりましたので、憂さ晴らしならハヤトにして下さい」
「ちょ、はあ?!責任転嫁するのやめてくんない?!何で隼人君がユウさんに殴られなきゃなんないのよお、絶対やだあ!」

近頃、一年Sクラスに勝手に参加している二年帝君は、カリキュラム予定に理数が入っている時だけ己の教室へ足を運ぶが、それ以外は誰がどれだけ何と言おうと、頑なに一年Sクラスの本棚前を占拠する事をやめなかった。
何せこれでも帝君の一人、それも神帝に続いて中央委員会役員でありどの角度から見てもヤンキーなので、今では東雲村崎が挨拶代わりに「また居るんかい」と声を掛ける以外は、放置だ。

触らぬ紅蓮の君に祟りなし、当然ながら一年Sクラスの生徒も嵯峨崎佑壱に対して『帰ってくれ』などとは口が裂けても言わない。

「イチ先輩、そちらの算数はどうでした?足し算と引き算じゃ割り切れない掛け算こそがBLの原点、腐男子は掛け算が出来れば旅立てるんですにょ!そう、妄想と言う名のゴールのない旅路へ…!」
「…いや、さっきの数学には足し算も引き算も割り算もまして掛け算も出やがらなかったんだ遠野。あの三角とこの三角が掃除するだの、あの台形とその円柱が強情だっただの、渡る世間は図形ばかりだったぜコラァ…」

疲れた表情で呟きながら本棚の前に折り畳み椅子を広げた佑壱は、ぐったりと座り込んだ。筋肉質な佑壱に戸口を塞がれていた英語教師は早々に別の入り口から入室しており、授業開始している。
にも関わらずマイペースな帝君は着席するなりはきはきと私語を始め、慣れている教師はカッカッカッとホワイトボードに字を走らせ、咎める事はない。
言うだけ無駄だからと言うよりは、叱る暇があるなら授業を進めた方が合理的だからと言った所だろう。

「そう…三角と台形がお掃除してたら、やきもちを焼いてしまった円柱が台形の台の中にふっといエンチューを挿入しちゃったんですねィ?そんで強情な円柱の態度に痺れを切らせた台形は、優しい三角形の元へと行ってしまうなりん…」
「もえ。ほう、円柱×台形か」
「でも普段尖っててクールな三角形には、長方形と言うスマートな彼氏が居たにょ!円柱を忘れる為に抱いてくれって涙ながらに迫る台形に、ツンデレな三角形は言うんです!

『それで後悔しないのか、台形?僕は君を大事な友達だと思っている、それは嘘じゃない。だけど僕が愛しているのは、長方形だけなんだ…』
『ふ…うぅ、三角形…っ』
『君もそうだろう?どうしたって君は、きっと最後に円柱を許してしまうんだ』
『っ、そうだよ…!でももう嫌なんだ、俺はいつもアイツに振り回されてばっかりで、お前の事だって友達だって何度も説明したのに、ひっく、信じて貰えてないし…!』
『…うん、そうだね。僕らは友達だ。今までもこれからも』」

また始まった。
オタクのオタクによる小芝居により、全員の耳がピクッと震える。最初は何かの病だろうかと噂されたものだが、毎日ふと瞬間に発作が始まるので、生徒だけではなく教師も慣れてきた感があった。
聞いていない様で誰もがしっかり聞いているので、ホワイトボードに字を書く教師の手元が速度を落とせば、勿論、ノートに写していた生徒らの手元もまた、遅くなる。

「実は三角形の初恋は台形だったにょ。でも遊び人な円柱に台形を奪われた三角形は、自棄になってた時に生徒会長の長方形に告白されて付き合い始めたんです!」
「成程、長方形×三角形か」
「イケメンで溢れ出る包容力を隠さない長方形の優しさにぐんぐん惹かれていく三角形は、それでも自分の気持ちが受け入れられなくてっ。だって何年も好きだった台形の事をすんなり忘れる事なんて、出来ないもの…!」

涙ながらに語る腐男子が、バンッと机を叩いて立ち上がった。

「だけどその所為で台形は三角形に依存してしまってたのょ!三角形は気づいたにょ、甘やかすばかりが愛情じゃないんだって!台形は優しくしてくれる三角形に甘えてただけなの、それは愛じゃないにょ!」
「成程、真理だ」
「だから三角形は敢えて突き放したなり!最後の未練を振り払う様に最後まで友達だって言い切る事で、台形の甘えと自分の初恋にピリオドを打ったんです!それこそ、母性にも似た究極の友愛…!
 三角形の気持ちに気づいた台形は自分を恥じて、逃げずに円柱と話をするって走ってくんです!そんな台形の背中をいつまでも見送った三角形の瞳に涙が滲んだ時、イケメンお決まりのそっと背後から現れた長方形会長があすなろ抱き!」
「あすなろ抱き?!」

興奮した様にくるっと振り返った教師に、全員の視線が集まった。
かぁっと頬を染めた教師はコホンとわざとらしく咳払いすると、

「天の君、あすなろ白書が流行ったのは先生がまだ十代だった頃です。君はまだ産まれてないでしょう?」
「はい!再放送世代ですん!お母さんがビデオに録画してた奴がばーちゃん家の物置に残ってたので、うっかり視聴しました!」
「子供にはまだ早いビデオですよ!…と言うか、まだVHS再生機が残っていたんですか。物持ちが宜しい」
「はい!有難うございますん!」

半ば呆れた様な教師の台詞に、オタクは晴れやかな笑顔を浮かべて着席する。今回の小芝居には明確な落ちがなく、結局『円柱×台形』はどうなったのか教室中がハラハラしたが、本棚の前でうんうん頷いている二年帝君と言えば、悟った様な表情だ。

「成程、最後まで語らない事で各自の好きな終わりを想像するって寸法か。甘やかさない様でいて無限の可能性を与える優しさ、芥川賞も直木賞もアカデミー賞も霞んじまう作品だな…」
「せんせー、ユウさんがワイドショーに出てるインチキコメンテーターっぽい事ゆってますう。今のコメントについて英語で一言どうぞお」
「え?あ、あー、…ノーコメントです」

俊の妄想に甚く感動したらしい佑壱は、勝手知ったる本棚から日誌印刷用の紙を数枚取り出し、カリカリと何やら書き込み始めた。佑壱から程近い席の生徒がちらっと覗き込むと、佑壱なりの円柱×台形エピソードが展開されている文章が見えた。

「ハ、ハッピーエンドだと…?!」
「なっ、紅蓮の君がハッピーエンドをお書きにっ?!」
「ざわ…ざわ…」
「あれ、この中にカイジにハマってる奴が居ないか?」
「あっ、二葉先生ちわにちわ!」

しゅばっと挙手をしたオタクが眼鏡をレインボーに光らせ見やる先、窓の向こうに見える廊下にお供を連れた麗人の姿がある。最早誰もが自習などそっちのけで、窓辺で手を振っている男を見たのだ。

「おや、ご機嫌よう天の君。本日の一年Sクラスは此処にあったんですねぇ」
「…は、わざとらし。あれって絶対知ってた癖に知らんぷりしてんだよ桜、怖いよねー」
「ひ、太陽君…っ。き、聞こえてるよぉっ」
「たまあにさー、サブボスの21番って何かの間違いじゃないのかなあって、思うんだよねえ…」
「大きな独り言が聞こえた割りには姿が見えないと思えば、ご機嫌よう一年Sクラス21番山田太陽左席委員会副会長閣下」

しゅぱんっと、全員の鼓膜を二葉の早口言葉が通り抜けた。
早口なだけで、単に太陽の小柄さを皮肉っただけだ。ぷちっとデコに青筋を発てつつ、こほんと咳払いをして己を落ち着かせた太陽は、数学の時間にテスト、直後に二葉のコラボを喰らい精神的にドン底だったが決して顔には出さない。

「おやおや、私の記憶では一年Sクラスの五時間目は数学Aだった筈ですが、楽しい数学の時間でも相変わらず残念なお顔をなさっていますねぇ?」
「お流石です白百合様ァ!僕の様な下々の授業内容まで把握して頂いてたなんて、有り難き幸せェイ!」
「いえ、もう今の時間は六時間目の英語ですが…はは、聞いてないですね皆さん…はは…」

然し二葉にはバレていた。奴の眼鏡は俊の曇った腐眼鏡とは違う様だ。単に世界で唯一、好き好んで平凡を付け狙うストーカーだからかも知れない。
なのでオタクの言葉は綺麗に無視したまま、にこやかな二葉と愛想笑いを痙き攣らせた平凡は見つめ…いや睨み合った。第801次フタイヨー大戦である。つまり毎日の日課の様なものだ。

「そう言えば、君は一斉考査・選定考査に共通し、理数全教科に於いて過去に一度として満点を取得した事がない」
「何でアンタが俺の個別点を熟知してるんですか?イチ先輩、そこの3年生がアカハラしてくるんですよねー、ムカつくんでさくっと拳骨カマしてやって下さいよ赤ハラ先輩」
「誰が赤ハラだテメー、ムカつくチビめ。さくっと揚げんぞコラァ」
「あ?誰がチビだと駄犬が」

顔を合わせれば喧嘩をしていると有名な佑壱と日向より、ほぼ毎日顔を合わせている太陽と二葉の方が喧嘩の数は多いのが事実だ。口喧嘩で怪我をするなら太陽も二葉も毎日瀕死だったろう。
惜しむらく、精神的なダメージは二葉の方が多かったに違いない。目と目で見つめあっているにも関わらず、どうして太陽は佑壱と口論しているのか。

「小さいのは本当の事でしょう、山田太陽君。君は先週の身体測定で169cm、」
「ちょいと180cm越えたら勝ち組のつもりかい、木偶共が。あーもー叶ムカつく、どの叶とは言えないけど主に3年生の叶がムカつく、本人の前では絶対言えないから授業サボって人様のクラスの漫画読んでる犬でも虐待しよっかな?」

ぺっと唾を吐きながら壮絶に冷たい眼差しで佑壱を睨んだ笑顔の太陽は、本能的恐怖でしゅばっと隼人の背後に隠れた駄目犬に満足げな息を吐く。

「パヤティー、お前さんの背中に例の犬がついてるよ」
「ほぇ?!霊?!ヒィ!」
「ボスー、これちょっと人選ミスだよねえ?左席の副会長がこんな人畜有害じゃ理事会から呼び出されるにょー?」
「やだなー、神崎君。そんな意地悪言わないでよ」

しゅぱん、と。
目にも止まらぬ早さで隼人の机の上のシャープペンが吹っ飛んだ。ころころと転がるそれを無言で見つめた全員が、恐る恐る握った30cm定規で己の左掌を叩いているドS平凡を見上げたのだ。

「ほら、悲しくってつい定規を武器にしちゃうかも知れないじゃん。…数学の時間だし、ね?」
「あは、英語ですけどお?…カナメちゃん、お願いします」
「何をですか」
「眼鏡のひとをンな至近距離からガンつける前に、変な薬やってそうな21番君をどうにかして欲しいなあ、とか、思ったり」
「ぷはーんにょーん」

荒ぶるドSに怯える一年Sクラスの中で、一人だけうっとりと鼻血を吹きながら死んだオタクがいた。
満足げにビュービュー鼻血を吹いていたが、狼狽えたオカンが輸血せねばと自分の指をがぶっと噛むのとほぼ同時に、全く狼狽えていないオタク(大)が鼻を押さえてやったり俊の穴にジャストフィットなサイズに丸めたティッシュをぶっ込んでやったりと、ものの数秒で教室が血の海に沈む危機を取り除いた様だ。

「風紀巡回の途中の様に見受けるが、いつまでもヒロアーキを刺激するのは控えて頂こう」
「おや、この美しい私に君の様なもっさり眼鏡が気安く話し掛けるとは何事ですか?ふぅ、この悲しみを愛しい陛下に慰めて貰わねば…」

にこりと愛想笑いを零した二葉は、そう呟いて傍らの風紀委員を伴い去っていく。その表情は笑いを耐えているのか、忌々しげなのか、良く判らない。怪訝げな風紀委員らは然し、一人として指摘する者はなかった。
二葉が去った事で怒りを忘れた太陽は、その後はいつも通り、隼人に揶揄われたり要に小テストで判らなかった所を教えて貰ったりしている。派手に犬歯を指に突き刺して俊より出血した赤毛が、花柄の絆創膏を颯爽と3枚使った以外は、概ね平和だったと言えるだろう。

「カイ庶務、お前さんは見所があるよ。無駄にデカいだけじゃなかったんだねー」
「ほう、他人を素直に評価するとは勇ましい男だ。無論、雄の真価は物理的な質量差ではない」
「そうとも、小さいから負けるなんて事は何一つないのさ」

二葉を言葉一つで追い払った左席庶務は、左席副会長から金一封と言う名の温かい緑茶を貰った。が、コーラZERO派なので無表情でご返品し、丁度お腹を空かせていた左席会長がおやつと共にゴキュっと飲み干したと言う。

「あにょ、ずびずび、じゅるん、ふぇ、4月にホット緑ティーをチョイスなさるタイヨーに渋さを感じられずにはいられないにょ!ずびび」

但し、それから暫く一年帝君の鼻水が止まらなかったと言う話は、大して重要ではないと思われた。

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あきゅろす。
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