帝王院高等学校
非常警報!時空の侵略者が覚醒中!
「1だ」
真っ暗な世界に、その静かな声は響いた。
哀れなほど微かに、ほんの一秒にも満たない響きだ。
「俺は素数が好きだ。何からも影響を受けない孤独な数。割り切れないまま、変わる事なく残り続ける形は、何と尊いのか」
本をめくる様な音が、呟く声の合間合間に聞こえてくる。真っ暗だと思っていた目の前が、夥しい数の本で埋め尽くされた壁だと気づくのには、然程時間は懸からなかった。
「俺は物語が好きだ。フィクションよりノンフィクションが特に気に入っていた。フィクションは所詮、人が考えた物だ。容易く先が読めてしまう。お前はどうだ?」
「変な事を聞くな。これは俺自身を試す試練なのか?」
「さて、緋の系譜が描いた羅針盤は、お前を正しい『騎士』にする事が出来るだろうか。…なァ、『遠野秀隆』」
ばらばらと、何の前触れもなく勝手に、本の山が崩壊した。
「お前は初めから遠野俊ではなかった。騎士である事を最期まで誇った犬の、記憶の残骸」
聳え立つ数多の本の壁に囲まれた中央、尚も分厚い本に囲まれた後ろ姿が見える。緩やかに振り返ったそれは、自分と同じ姿形をしていた。鏡に写したかの様に。寸分の狂いなく。
「俺は犬じゃない」
「問1。同じ姿形をした、兄弟でも双子でもない者は何だ」
「…」
「それは時にドッペルゲンガーと呼ばれ、シンフォニアと呼ばれ、クローンと呼ばれる事もある」
「俺は俺だろう?」
「違う。お前は俺じゃない」
「まさか」
「何故ならば俺もまた、俺ではないからだ」
自分と同じ姿形をした、真っ白な本を広げたそれが、砂の様に崩れるのを見ている。何の感慨もない。どしゃりと何の抵抗もなく崩壊した自分の形は今、灰色の砂と化し、沈黙していた。狭い狭い、余りにも小さな世界の中央で。
「だったら俺は、何処に居るんだ?」
「何処にも居ない」
「何処にも居ない」
「何処にも居ない」
「俺は気づいてしまった」
「俺は、何処にも居ない。」
何処かから、自分と同じ声がする。
左から、右から、背後から、上から、下から、前から、或いはそれ以外から。
「どうして何処にも居ないんだ」
「俺が望んでしまったからだ」
「騎士である事を」
「皇帝である事を」
「人間である事を」
「そうして迷いなく否定したからだ」
「帝である事を」
「天の定めた運命を」
「帝王院の全てを放棄し、遠野の全てを受け入れた」
「遠野は夜の系譜」
「曇りなき五芒星の家名」
「ナイトの一族」
「ノアに最も近い、漆黒の名」
「騎士のアナグラム」
「俺は俺である事を一つ残らず全て否定した」
物語なのか。
映画なのか。
音楽なのか。
声は音として、文字として、映像として五感を支配する。次から次に、一瞬の休みなく。
「どうして否定したんだ」
「系譜から抜け出す事など出来ない事を知っていたからだ」
「緋の王を認めない事など出来ないと気づいたからだ」
「十二芒星が描く家紋が燃え盛る陽を示すと知ったからだ」
「哀れな」
「哀れな」
「哀れな帝王院俊」
「俺は望んでしまった」
「母の腹の中で脈動を始めたその時に」
「己が俊である事を」
「母親が見つけてしまった一枚の紙に」
「帝王院神と繰り返し繰り返し書き殴られているのを見た日に」「犯した罪から目を背けるな」
「お前は産まれたその日に声を放った」
「榛原の力を込めて」
「わざとらしいほど控えめな産声と言う素振りで」
「大人達全てを、従えただろう?」
黒の世界に響く声は無色だった。
自分と同じ声が合唱している。世界の中央には真っ白な本と、真っ黒な砂。
何も感じない(心とは人に存在すると言う)何一つ感じない(ならば自分はやはり人間ではないのだ)
(犬でもなく)(無論皇帝である筈もなく)(神になど到底なれもしない)(騎士に憧れた、子供?)
「本当の俺は何処だ」
「知らない」
「知っている」
「何処にも居ない」
「すぐそこに居るじゃないか」
「昨日に」
「明日に」
「今日は居ない」
「今日は何処にも存在しない」
「時計は止まっている」
「羅針盤が砕けたからだ」
「短針と長針、二つの時は裂かれた」
「緋と符」
「王と皇」
「緋の系譜は三人」
「俺と、高坂日向と、藤倉裕也」
「ああけれど、俺はそれを否定した」
「人に押し付けた」
「緋である事を否定した」
「騎士になる為に」
「夜である為に」
「哀れ王を押し付けた生け贄は」
「狂った」
「嘲笑った」
「踊る様に」
「それは正に道化の如く」
「贄の名は山田太陽」
「灰である事を否定した庶民」
「彼は王のマントを着せられている」
「哀れな」
「皇の系譜でありながら」
「緋を押し付けられた」
「けれど俺は何も感じない」
「偽りの太陽は本物の太陽に燃やされる」
「俺である事を否定した俺は俺となり、狂った天網を正そうとした」
「己で狂わせておきながら」
「そうとも知らずに緋の系譜を集めた」
「己の翼を」
「枝分かれした羽根を」
「真っ赤な血の果てを」
「ほら、ごらん」
「山田太陽は間もなく榛原太陽へと戻るだろう」
「仕方ない事だ」
「彼には俺の血は流れていない」
「同じ血を探せ」
「己に連なる血を」
「雲隠桐火の妹、雲隠灯里の子」
「つまりは雲隠火霧の娘達」
「そうだ」
「俺に友と呼べる者は一人しか居ない」
「あの子は友にはなれないからだ」
「俺が陰陽の『陽』を否定したその時から」
「生まれ落ちた双子の名を」
「その父親に囁いた時から」
「1月30日の1時半」
「小さな双子を覚えているか?」
「忘れる事など出来はしない」
「冬月の血が刻む記憶」
「俺はあの子の名を付けた」
「自分が逃れる為に」
「犠牲にした」
「あの子は決して友にはなれない」
「あの子は俺の子」
「俺がこの世で唯一、名前をつけた子」
「いつわりのたいようであれと」
「言っただろう」
「緋の系譜はH」
「それは光であり人でありヘリポート」
「飛び立つ者の系譜」
「『ひなた』『ひろなり』そうして最後に『はじまり』」
「始まりは常に1」
「俺は素数が好きだ」
「その中で1が最も美しいと思う」
「全ての始まりだからだ」
「貴方は羨ましかったのね」
それは誰の声だったか。覚えていない。初めから知らないからだ。他に理由はない。
「何の見返りも求めない優しさ、それを何一つ疑わずに受け入れる仲間も、それに慣れていく自分も。だから認めたくなかった」
ぴちゃり、ぴちゃりと何かが滴る音。
「隼人さん、貴方は正しいのです。人は誰でも家族以外を心から信用する事など出来ないのですよ」
「…」
「圭一お義兄様は私のお母様の縁者と言うだけで、一人になった私を引き取って下さいました。そのご慈悲がなければ、私は飢え死にしたか、売られていたでしょう」
甘い、甘い、ハニーバターの匂いがする。
「糸遊お義姉様はとても美しく、お優しい方でした。私が嫁ぐ前の晩、銀の簪を下さったのですよ」
真っ赤に滴る肉汁を舐める女の声と、じゅうじゅうとパンケーキを焼く音。
見渡す限り真っ赤な世界。天井は深い漆黒、果ては見えない。目の前には、フライパンを振る懐かしい祖母の背があった。
「旦那様に辱しめられる事があらば刺し殺せ、若しくは自ら命を絶てと教えられました。ふふ、龍流さんがそんな事をなさる筈がないのに」
「はいはい、ホットケーキが焼けたよ、隼人」
真っ赤な皿に、真っ赤なパンケーキを乗せた祖母が、優しい笑顔で振り返る。悍しい女の声など聞いてもいない。見つめるのはただただ、存在する筈のない祖母の顔だけだ。
「たんとおあがり。お代わりが欲しかったら何枚でも焼いてあげるよ」
「ばーちゃん」
「何だい、隼人」
「じーちゃんに会ったよ」
「そうかいそうかい」
「どう見てもアラサーのオッサンだった」
「そうかいそうかい」
「でもねえ、声がねえ、一緒だったんだあ」
「そうかいそうかい」
「じーちゃん、ステルシリーに居たの?」
「お祖父さんはお医者さんだよ、隼人」
「…そうだよねえ」
湯気を発てる毒々しい程の赤。
何のホラー映画だと他人事の様に考えた。カトラリーを差し出されても、受け取る気力はない。
「さぁ、お座り隼人」
にこにこと、記憶のままの祖母を目の前に、ふらふらと足が勝手に席へと近づいていく。抵抗する気力はない。
「今夜は星が綺麗だね」
「…ほ、し?」
ああ、そこで漸く、天井が夜空なのだと気づいた。
けれどこの地獄の様な世界で、毒々しい程に赤い肉を頬張る生気のない女を視界の端に、今は。
「ばーちゃんに、もっと色んな話を聞かせておくれ。夜はとても長いからねぇ」
「…うん、よいよ。ねえ、何から聞きたい?」
「そうだねえ、ゆっくり聞かせておくれよ」
例えこれが地獄だろうと構わないとさえ、考えている。
「罪深い子」
「それ以上、何の罪を着ようと言うの」
走れど走れど、その声は追ってくる。何処までも。すぐ真後ろから追い掛けてくる。少しも離れず、ぴたりと。
「ついてくるな…!」
「罪深い子」
「人様の命を削って助かった癖に、何を考えているの?」
「罪深い子」
「ピアノもバイオリンも、愛しているのはお前じゃない」
「「高野健吾の指だけ」」
走れど走れど何処までも白い世界、天地の境が判らなくなる程に真っ白な氷原。岸は見えない。何も見えない。ついてくるのは女の声ばかり。いつか死んだらしい女の、罪を知らしめてくる刃の様な言葉だけだ。
「親の死に目にも会えない子」
「親にすら愛されなかった子」
「初めて出来た友達からも見離された」
「当然よね。お前の所為で神に愛された神童は死んでしまったのだから」
「やめろ!煩いっ、お前なんかが俺の人生を語るな!」
「自分を偽るなんて愚かな子」
「優しい優しい仲間に囲まれて勘違いした子」
「お前は騙し続けた」
「ファーストを慕う振りをして監視していただけ」
「っ、黙れ…!何も知らない癖に!」
耐え切れず振り返った瞬間、錦織要は後悔した。
そこには女の姿など何処にもない。男の足元で泣いている、幼子が見えただけだ。
「…これ以上醜い喚き声を聞かせるな青蘭、耳障りだわ」
「清原涼、清原涼…!(ごめんなさい、ごめんなさい…!)」
思い出したくない事ばかり。此処では勝手に再生されるらしい。
寒くもないのに喘鳴する要の口から零れる吐息は白く濁り、大気で凍り続けた。
何度も何度も謝る子供の声を目を逸らす事も出来ずに聞きながら、震える膝を叩くので精一杯だ。
「おのれ、吾を裏切った女の血を引いた童と同じ空気を吸うのも穢らわしい…!」
「っ」
「いつの間に美月に取り入った貴様!ええい、目障りでならん!死ね!消え去れ!この世から!断りなく吾の目に映るな!下等生物が!」
「ひ、」
「喋るな!喚くな!貴様に許した覚えなどないわ!」
見るな。幻覚だ。ただの映画だと思え。何も考えるな。
繰り返し唇を噛みながら己を納得させたが、そんな事を考えている時点で答えは知れていた。気にするなと思えば思うほどに気にしている証ではないか。
「青蘭、青蘭、怪我はないですか、青蘭…!」
口の中が鉄臭い。
ああ、唇を噛み切ってしまったらしかった。情けない話だ。とうに忘れたとばかり思っていた父親の姿と、忘れたくても忘れられない脆弱な幼少時代を見ただけでこれでは、到底カルマを名乗る資格などない。
「っ」
「どうしました、また誰かに殴られたんですか?何故吾を呼ばなかったんですかっ」
「…っ」
「声が出ないんですか?!青蘭?!」
もう良い。
何処へ逃げても意味はないのだろう。目を塞いでも、耳を塞いでも、記憶に刻まれたものを消す方法はない。
「そうか、吾の言葉が判らないんでしたね…。然し吾は日本語が喋れない…李!李は居ませんか!」
「俺は此処に居る」
「汝、何故青蘭を守らなかったんですか!吾が命じた筈ですよ!」
「俺が守るのは王の身だけだ。弟であろうと、青蘭は俺の王ではない」
「殺されたいのか汝は!」
「是。お前に殺されるのであれば本望だ、王」
日本の記憶は殆どが施設だ。
母親の顔など本当は殆ど覚えていなかった。あの施設のシスターが、一枚だけ写真を持っていたから知っていたに過ぎない。
天涯孤独だと言った女は、何の経緯があったのか、シスターと縁があった様だ。産んだものの邪魔になった子供を施設に預けて、若い男と逃げたに違いない。だからそう思って生きてきた。そうでなければ、余りにも惨めだからだ。
「良いですか青蘭、吾は今日から日本語の勉強をします。だから汝も今日から中国語の勉強をしなさい。と言っても我が国は余りにも広いので、とりあえず初めは香港で使われている辞書を使いましょう」
女は身勝手で自分本意で男を手玉に取る事を楽しむ、つまらない生き物。そう思っている。口煩く頭の悪い、穢れた生き物だ。
俊の掟がなければ、わざわざ女に優しくしてやろうなどと思った事はない。
「洋蘭、何処ですか洋蘭!」
「煩ぇ喚くな糞が、息の根止めんぞ餓鬼」
「吾と汝は同じ歳でしょう、餓鬼が餓鬼とは笑わせる」
「あ?殺されてぇのか、ブス」
だってそうだろう?
寄ってくる女はいつも、要の持つ名前か体に用がある。時折顔だけを望む女も居たかも知れない。浅はかにして愚かにも程がある下等生物、だからこそ許せる。初めから己と同等とは思っていないからだ。格下から何をされても腹など立たない。
「うわー!誰か止めろ!李と洋蘭が庭で殺し合いを始めやがった!若様も居るぞ!」
「ユエに報告はするな。李は大河社長からの預かり、洋蘭は叶からの預かりだ…」
「李はともかく叶の餓鬼はどんな躾されてんだよ、あんなもん餓鬼の動きじゃねぇぞ!」
いつの間にか膝が崩れていた。
膝を抱えて氷の上に座り、目の前の立体的な映画を静かに見ている。あの時は判らなかった異国の言葉が無抵抗で網の中に流れ込んでくるのは、若干笑えるかも知れない。
李と二葉の喧嘩は半日決着が着かなかった。
然し最終的には美月に殴られた李が二葉に謝罪した事で、一応は二葉の勝利と言えるだろう。要が引き取られて間もなくだから、二葉がグレアムに飛ばされる間際だ。
「に、にいはお」
「ああ、青蘭。段々上手にナリマシタネ」
「…ありがと」
「吾から贈り物がアリマス。部屋にピアノ用意シマシタ」
あの頃、頼れるのは兄だけだった。唯一と言っても良い。
美月が一度だけ要を連れて家を出た事がある。あの時は父が用意した殺し屋が要を狙っていると聞いて、逃がそうとしたのだ。
然しすぐに捕まり、美月は屋敷へ、要は日本へ連れて行かれた。父から、美月の目に入らない所で始末しろと命令があった様だ。
それ以前に、日本国籍の要が日本で死ぬのは当然だろう。中国で身元不明の遺体が出れば、裏社会では幾らかの噂になる。
「…これ、触ってもいいの?」
「ハイ。青蘭の為に用意したデス」
然し目論見は寸前で李によって阻まれ、屋敷に連れ戻された筈だった美月は日本まで追い掛けてきた。大河の嫡男である朱雀に借りを作ってまで、要を探しに飛んできたのだ。
この所為で美月は朱雀に逆らえなくなり、これに目をつけた祭楼月の手回しで、美月は大河の跡取りの世話係にされてしまう。要はそれも自分の所為だと思っていた。
今になれば、何と目まぐるしい日々だ。
あの頃は広すぎる美月の部屋の片隅、クローゼットと呼ぶにはやはり広すぎる12坪の部屋で、最も存在感を放っていたグランドピアノだけが癒しだった。
それから間もなくアメリカであの騒ぎが起こり、健吾が大怪我するのと同時に、益々屋敷から出る事が難しくなった。祭の不手際だと大河グループの傘下が俄に声を揃えていたらしく、楼月の立場が危ぶまれていた事もある。
これに一石を投じるが如く、美月が帝王院学園への入学を決めた。今になれば、自分が国外へ出る事で、要を香港から遠ざける狙いがあったのだろう。然しこれと同時期に楼月は最強の刺客を要へ送り込んだのだ。
「おや?」
「は?」
過去を思い返していた要の前に、それは何の前触れもなく現れた。
要からは背中しか見えないが、真っ白なブレザーに真っ白な皮靴を履いた男など、心当たりは少ない。
「何ですか次は。全く、何故何の断りもなく私の夢の中に勝手に出て来たんですか祭美月、錦織要?」
そしてその背は、要の目の前で首を傾げると、仲良くピアノを弾いている子供二人を躊躇わず蹴り飛ばし、ネクタイを締め直す様な仕草を見せた。
「いやー、微笑ましかったじゃんかー、小さい錦織君と小さい祭先輩のツーショット。かわいいかったし」
「何か仰いましたか?」
「あっ。見て見て、今度は錦織君と凄いかわいい子がお話ししてるよー、あはは…」
酷く近くから聞き慣れた声を聞き、弾かれた様に隣を見た要は目を見開く。膝を抱えている要の隣で、同じく膝を抱えて座っている男は、余りにも見慣れた男だったからだ。
「や、山田君?」
「はいよー。何か久し振りな気がするねー、錦織君。元気?」
ひらひらと、要の隣で山田太陽は手を振った。
幻覚や夢にしては余りにも生々しい、今の状況に似合わない暢気な表情だ。いや、太陽の顔立ちを避難している訳ではないが。
「あらー、二葉先輩、何で俺のかわいいネイちゃんと錦織君を蹴ったのかなー?」
「この世に私より可愛いものなど存在してはならないからです」
「いやー、絶対今のは他の理由がありそうだよねー。例えば錦織君を殺そうとしてた過去を俺に見せたくなかったみたいな、確実に自分本意な理由がー」
「おやおや、誤解ですよハニー。私は醜い祭楼月から錦織要を守ってあげた、言わば救世主なのです。ねぇ、錦織君」
くるりと振り返った二葉はいつも通りの完璧な笑顔で眼鏡を押し上げ、要を見下してきた。無理もない、こちらは座っているのにあちらはモデル立ちだ。
「あ、錦織君が固まってる」
「うふふ。この私の美しさに見惚れて声もないのでしょう」
「あはは、さっき俺を殺そうとした癖に言うよねー」
「何度も謝ったじゃないですか、土下座で!」
「何でもかんでも土下座で許されると思ってんじゃないよー。大体さー、貴葉さんがお前さんに無惨な姿でぶっ殺されてる光景見せつけられて固まってた俺を、お前さん躊躇わず殺そうとするんだもんねー」
「大体、夢の中で人の夢に干渉したと言われて納得する人間が何処に居るんですか!宜しいですか山田太陽君、私はもうアイラブユー」
「あはは、知ってるっつーの、お座り」
「はい」
何が起きているのか。
しゅばっと膝を抱えて目の前に座った二葉と、最初から座っていた要と太陽は三人で顔を付き合わせている。氷原の真ん中だ。何が起きているのか。
少なくとも錦織要には少しも判らない。
「じゃ、混乱して訳が判ってなさげな錦織君。二葉先輩みたいに錯乱して片っ端からぶっ殺すのはどうかと思うけど、レベル上げにスライム乱獲するのは俺も良くやるから、気兼ねなくヤっといで」
にこりと宣った太陽の台詞も、
「つーか、錦織君のダンジョンは一面真っ白でタンスも壺もないんだねー。二葉のダンジョンも桜が一本生えてただけだし。俺が触るなり枯れちゃうし。失礼しちゃうよねー、片っ端からぶっ殺すしかないねー」
「流石はマイクロノスハニー、早くも『腐滅組』は悪の道を突き進んでますねぇ」
やはりにこにこと宣った二葉の台詞も、片っ端から意味が判らなかったからだ。
ばさり、ばさり。
拾っては砂を叩き落として閉じた本を、放る様に積み重ねていく。
ミュージカルじみた己の声を聞きながら、理解する事を否定したつもりで、短い息を吐いた。
「緋の系譜とは、火の系譜の事か」
「火」
「光の源」
「命の灯火」
それは燃える。
血の如く光を帯びて、運命の様に、ごうごうと。
「俺は系譜を集め真実を知って、未来を見てしまった?」
「何が見えた?」
「何も見えなかった」
「俺が存在しなくても」
「羅針盤は廻る事を知ってしまっただけ」
「…だろうな。つまり、イチと日向と裕也、この三人で光は満ちたんだ」
「それぞれに翼を得て」
「朝は巡り来る」
「俺が存在しなくても」
かちり。
何処かで音がした。スイッチが入る様な、歯車が噛み合わさる様な、そんな音が。
「今のは何の音だ?」
「空に在りてされど飛び立つ者」
「名に翼を持つ系譜」
「雲雀、鳳凰」
「雲雀の子は白雀と緋連雀」
「緋は歩に」
「緋の娘は十口と交わった」
「雲隠焔の長男の名は、不要から産まれた芙蓉」
「罪の名を知っているかい」
「符でありながら緋を名乗り」
「灰でありながら白を名乗る」
「十口でも帝王院でもない末裔」
「大河と藤倉」
「時は巡る」
「…そうか、藤倉の頭文字」
「喜劇の様だろう」
「帝王院の血を引く符の系譜」
「飛べない緋の系譜」
「翼は朱雀に」
「裕也に翼はない」
「飛べない筈だった」
「リヒトの名を閉ざしたまま」
「灰であるべきだった」
「あの子さえ現れなければ」
「健吾?」
唯一の。
そう、たった一つの。脚本から逸れたキャスト、血の繋がらない演者。天網に交わらない例外。銀河にある筈のない星。たったそれだけ。
「高野健吾。
そうか健吾だ。きっと健吾だけが俺の業に重ならなかった」
その時、恐らく自分は考えた。
自分の見た未来は必ず訪れるのだと信じて疑わない。だからこそ、唯一の例外が例外でなくなれば、皆が例外なく家族であれば、絆が繋がれば、迷いなく未来に迎えるだろうと、考えたのではないか?
「隼人も緋…ああ、そうか。俺の血に最も近い、俺の家族なんだ。だから俺は試練を与える事にした。緋と符の均衡を調律する為に」
「重ね続けた罪の纏う負が余りにも強すぎる」
「果てしない絶望を祓うには余りにも淡い光達に」
「俺は慈悲を与えたつもりになった」
「己の罪から目を逸らす為に」
「…そうか」
「負は歩」
「それは駒」
「俺の造り上げた盤上で」
「王を追い詰める兵」
「ポーン」
「符の王は陰を司る」
「榛原太陽」
「宵の宮」
「終」
「さァ、俺は俺が過去に置き去りにした罪の名を、改めて知らねばならない」
「俺の根源を見つける為に?」
「須く喜劇だ」
「喜劇?」
「絶望など欠片として存在しない」
「何故」
「俺は禁断の果実を口にしたその日に、人の欲を知ってしまったからだ」
「俺は人間、なのか?」
「俺もお前も造り出されたシンフォニアでしかない。完全なる不完全、緋でも符でもない、仮初めの人形。人の形をした駒」
「駒」
「駒と狗は似ているだろう?」
「…ああ」
「俺は俺の魂胆に気づいてしまった。だから消されたに過ぎない」
「お前は誰だ」
「遠野俊と言う名の、駒」
「ポーン」
「そうだ。そしてお前はナイト。遠野秀隆をベースに書き換えられた、駒」
「人の形をした犬、か」
「本当の俺は俺が犯した罪を俺が知る事を許さない」
「…何故」
「何故ならば俺は、」
カチリ・と。
酷く近くからその音は響き落ちた。
「始まりと共に終わりを望んだだろう?」
それと同時に自分の鼓動が凍りつく気配。
酷く狭い世界の、酷く暗い世界の中央で、カチリカチリカチリカチリカチリカチリカチリカチリカチリと、時計が刻む針の音が大音量で響き渡った。
「終わりだと?俺が?何の?いつからそんな事、俺が?」
「お前は知らない」
「知る事も出来ない」
「アダムに罪を着せた咎人」
「お前は遠野秀隆のパーフェクトシンフォニア」
「脆い家族を守る騎士」
「無垢な白い子を守る犬」
「お前はポーンの裏側」
「脆い遠野俊の崩壊と共に産まれたに過ぎない」
何処かからか、軋む様な音がする。
←いやん(*)(#)ばかん→
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