帝王院高等学校
Opportunity only knocks once!
(憎い)
(憎い)
(ああ、そうだ)
(憎くて憎くて、全てを壊してしまいたいんだ)



「………ろ」



(憎い)
(邪魔でしかない役目や)
(受け継がれてきた使命だの)
(それら全てをもっと早く捨てていれば)





後悔などしなかったのに



「起きろって!」
「…は?」

長い夢を見ていた気がする。
目の前に覗き込んでくる瞳を見つけ、瞼を開いているのに未だ覚醒しきっていない額に手を当てた。
呆れ混じりの溜め息が近くから聞こえて、覗き込んでいた顔が離れていく、気配。

「や〜っと起きよったもぉ。おはようさん。どない寝汚いねん、朝やで朝、8時過ぎとるで!」
「あ、さ?」
「朝!モーニング!とっくの昔ぃに、朝ご飯届いてるっつーの。今日はトーストとチーズオムレツや、冷めたらよう食べへんメニューや」

聞き覚えのある声だ。
そして、見覚えのある背中だ。

「お前、目覚ましまくりテレビいっつも楽しみにしとるのに、見逃してもうたんやで?あ、今日な、魚座5位やでー」

カーテンをしゃらりと捲る音、窓が開くのと同時に顔を撫でた風の気配に目を瞑り、東雲村崎は弾かれた様に起き上がる。

「えっ?は?!何?!」
「何やないてヒガシグモ、まだ寝とんか?早う顔洗って来ぃ、5秒でな。今日はこれもぉ、完璧遅刻やんけ」

ああ、間違いない。
持ち上げた己の手の小さい事、久し振りと言うには鮮やかすぎる景色に、二度と見る事はないと思っていた男が、あの日と同じ笑顔でダイニングテーブルの上のトーストを指差す光景を、見ている。

「二年生からは自分で起きる練習せなあかんて知ってるやろ。それともあれか、信者に起こして貰わな僕ぅ起きられへんて、泣くんか?はっは!」
「何、………何の冗談やの?」
「はぁ?何か言うた?ええから仕度せぇへんかい、これやから坊っちゃんはあかん。どうせ、俺に着替え手伝わせたろ思てんやろ?しょうもな、5秒で飯食え5秒で」
「あ…や、そんな事思てへんて…」
「ぷっ。さっきからお前何で関西弁やねん、下手いわぁ!」

からからと、トーストを齧りながら笑うルームメートは、いつか見たまま少しも変わらず、あの日と同じだった。
有り得る筈がないと転がる様にベッドから飛び降り、洗面所ではなく、ダイニングテーブルの相手に近寄る。

「何ぃ、変な顔しとるで、クモ?歯ぁ磨かへんまんま飯食う気か?信者共にまた怒られるんとちゃう?」
「ほ、ほんもんや。ほんもんの羽柴?何で?羽柴?」
「はぁ?ほんもんに決まってるやんけ。つーかキモい、人の頭触んなや。その下手な訛りもやめぇ、殴るで然し」

目立つ顔立ちではなかった。
髪型も面倒臭いと言う理由で、いつからか自分でシェーバーを使い剃っていた坊主頭。眉に掛かる前には剃り落とされる黒髪は、チクチクと固い。
ああ、感触がある。

「どうでもええけど、後5分しかないで」
「5分?…あ、そうか、初等部の授業かいな」
「今日はいつもと何か違うな?昨日変なもんでも食べたんちゃう?」
「食べてへんて。変なんは、俺やのうて、全部や全部」
「それ、俺の真似しとるん?東京育ちが大阪に憧れる気持ちは判る、大阪の魅力はそら半端ないで。しゃあない、着替え出したるさかい、顔だけでも洗っときや」
「待っ、」
「お前、そんなんでも一応、ヒガシグモ財閥の坊っちゃんやろ?」
「シノノメて何回も言ったやろ」
「はっは!ツッコミおもんな!流石はクモ」

揶揄めいた顔が、唇の端に付いたマーガリンを舐めとりながらクローゼットへ向かう。夢の様だ。まだ寝ているに違いない。そうだ、こんな生々しい光景、逆に信じられない。悪い夢だ。幸せな、悪夢だ。

「何や、今朝は上が騒がしいなぁ。またどっかの親衛隊が騒いではるんやろか。クモは何処やと思う?俺は陛下の親衛隊やと思う。白百合様の親衛隊は、よう躾が出来てるって噂やんか?」

冷えて固いトーストを無理矢理腹へ納め、ネイビーグレーのシャツに、サスペンダーつきの黒いパンツを履いて。
学籍カードを入れた紐付きのパスケースを首に下げ、鞄は共通の革製。小学生には重いと、その鞄は不評だった。

「…クモ?お前やっぱ可笑しいで、何ぼーっとしてん、生きてる?」
「え?俺、ぼーっとしてる…?」
「それやそれ。お前、いっつも自分のこと『僕』言ってるやん。何で今日は『俺』になってん」
「そっか、この頃は一人称が違ったのか…」
「はぁ?あ、どうせ遅刻やし、掲示板見てく?昨日のテストの結果出てるし」

初等部には帝君制度がない。進学科振り分けがないからだ。
それでも二年生以上はテストの得点が公開される為、皆の成績は大体判る。

大きな掲示板に向かってぎこちなく操作している後ろ姿をただ見つめたまま、東雲は抱えた鞄へ目を落とした。

「…夢にしては生々し過ぎるよな?タイムスリップっちゅー奴やろか。それとも俺の記憶が間違ってた?東雲村崎26歳、職業、世界史・数学・政治経済担当の教師…村ぱち先生は、俺の思い込み?」

掲示板を眺めている背中を横目に、懐かしいアンダーラインの景色を見渡す。地下だ。近頃はフードエリア程度にしか用がなかったので、初等部エリアは久し振りに見る。
何処もかしこも昔のままだと考えてから、そもそも昔にタイムスリップしているのだから、変わっている筈がない事に気づいた。

「ちっきしょ、やっぱ100点1個もないわ。代わりに0点1個取ってもうたぁ。またオカンから絞められる、最悪や」
「…え?あ、ああ、そっか、残念だったな」
「寝坊助クモ、お前また満点やったで。ルームメートなんにとんだ裏切りや、仮面ブルーが仮面レッドの彼女取るくらいの裏切りやぁ…」
「どんな修羅場やねん」
「はっは!今のツッコミはちぃっとばかしおもろかったわ」

遅刻しているのに堂々と、朗らかに笑っている。
そう、いつも元気な男だった。父親を早くに亡くし、シングルマザーで育ったと言うだけにしっかりしており、同級生からは兄の様に慕われている人気者。冗談めいた事ばかり言っているかと思えば、一人の時は冷めた表情で遠い何処かを見ていた。

「すんませぇん、二年二組羽柴夏海、諸事情により遅刻しましたぁ!諸事情っちゅーのは、同室の東雲村崎君が朝食のトーストに中って瀕死の重傷だったからでぇ、優しい僕ぅは見て見ぬ振りが出来へんくて、今までカイホーしてたんですわぁ!」
「羽柴ぁ、食中毒は『重傷』じゃなくて『重体』、トーストの食中毒は聞いた事がないぞぉ。嘘を吐くなら、もっとうまく吐け」
「さーせん!本当は俺が寝坊しました!優しい東雲君は俺を待っててくれたんです、叱らんとってやって下さい!」
「判った、でも羽柴は後で説教な。放課後職員室に来る様に」
「ちょ、待って、嘘やろ?!職員室てめっちゃ遠いがな!俺に罰ゲームさせるつもりなん?!おいおい、鈴木先生、それって虐待やで?」
「来るだけで帰って良いから来い。罰ゲームって言うなら、往復30分の徒歩だな」
「そんな殺生なぁ!あかんて、俺5分以上歩けへん体なんですぅ!先生ぇ、堪忍やぁ、堪忍してやぁ!他は何でもするさかい、職員室はやめてぇ!先生ぇ、俺の体好きにしてかめへんからぁ!」
「ちょ、誤解を招きかねん発言はやめなさい!お前は本当に8歳か!」
「まだ7歳やって。せんせ、ほんまは7歳のピチピチバデーに興味あるんやろ?先生もまだ若いもん、ほんまは撫でたり舐めたり吸ったりしたいんやろ?」
「阿呆か。…判った判った、もう良いから、席につきなさい」
「先生ぇ、めっちゃ愛してるよぉ!!!俺が大人になったら抱いたるさかい、待っててな?」
「先生を揶揄うのはやめなさい、羽柴君っ」

クラスメートの誰もが笑っている。
堂々と教室前方の出入口から入っていったルームメートは、教育実習生相手に漫才の様なやり取りをして、東雲にウィンクを送ってきた。
遅刻した理由は東雲だ。それなのに誰もが彼の寝坊だと信じている表情で、中断していた授業は再開された。

「宮様!羽柴の所為で遅刻なされたと言うのは本当ですか?!」
「おのれ、あのゲス庶民め!東雲財閥の跡取りでらっしゃる村崎様を遅刻させるなど、言語道断の所業!」
「はいはい、信者乙。お前らも飽きへんな、毎日毎日隣のクラスに来るて、はっ!…まさか、クラスに友達居れへんの?可哀想」

ああ、賑やかな光景だ。
いずれ中央委員会役員になる三人の喧嘩じみたやり取りを、東雲はまるで夢の中に居る様な表情で眺めている。いつこの夢が覚めるのかばかり気にして、会話が耳に入ってこない。

「宮様!部屋を替えて貰いましょう!やはりこんな男と同室など、いけません!」
「そうです、こんな品のない男、宮様の悪影響になりかねません!」
「はいはい、品はのうても下品はあるってな。お前ら大概クモ離れせぇへんと、友達出来んで?」

夢の様だ。
今はもう、これが悪夢でも何でも構わない。元の時間軸に戻れなくても構わない。

「み、宮様…!僕達のこと嫌いになったりしませんよね?!」
「ぼ、僕、宮様に嫌われたら生きていけない…!」
「関根も湯川も、将来が心配やわぁ」

このまま数年後に待ち構えている『あの日』まで、今から行動する事が出来るのではないか?(無駄だと頭の中で声がした)(聞こえない振りをした)(夢と現実の境界線など誰が決めた?)

「あー、しんど。笑い過ぎて死に掛けたわ、アイツらほんまおもろいなぁ。今度はどないして遊んでやろ?」
「…羽柴君」
「あん?何かいつもより大人しいやん、どした?」
「今度はどんな手を使っても、俺が守るから」
「は?」
「だからもう二度と、俺を庇わないで欲しい」

目を丸めたルームメートに、きっと東雲の言葉が正しく通じている事はない。

「は?何や、ほんまに今日のクモは変やで然し。熱でもあるんか?」
「や、熱なんかないって。そうだな、あるとしたら35℃くらい?ほら、羽柴は『5』が好きだろ?」
「へぇ、よう俺のこと見てんのな。惚れたらあかんで?俺には、『男子校卒の男は外の奴らより女にモテる説』をケンショーする使命があんねや」
「…知ってる。でも5年後には、親衛隊侍らせて中等部一の下半身ゆる男になるから、検証は諦めた方が良いな」
「…はぁ?何や、今日のシノは予言者かいな」
「ああ、何かそんな気分かもな。今なら何でも出来そうな気がするんだ」
「阿呆。予言っつったら、1999年に世界が終わるって奴やろ?俺そう言うの信じてないし、ノストラダムスの真似なんて受けへんから、やめぇや」

判っていても言わずには居られなかったのだと、それは、誰に向けた言い訳だろうか。

「そう言や、二年間の交換留学あるやんか。あれってクモも行くんやろ?」
「…行くよ。お母様の言いつけだから」
「そっか、ヒガシグモ財閥やもんな、そうやわなぁ。関根も湯川もついてく言うてたし、寂しくなるな。…俺も行きたいなぁ」
「来たら良いだろ?」
「無理言わんといてや。そないな大金、ボシカテーにある訳ないやんか。やっぱ俺は日本民でええ!日本最高!」

確かこの時、お金を出すからついてきなよ、などと宣って、叩かれたんだったか。今になれば誰が見ても悪いのは自分だ。
それなのに叱られたのは彼だけで、だから、せめて今は同じ過ちを犯すまいと口を固く結ぶ。

「お土産待ってんで、クモ君。僕ぅら、友達やん?」
「良し、任せとき。期待してろ」
「何や、今日のクモは喋り方が他人ほどちゃうのぉ。何で泣きそな顔してんの?」
「泣きそうな顔してる?俺?」
「判った。お前、ほんまはまだ眠たいんやろ?」



(憎い)
(憎い)
(守る価値もない男を庇った親友すら憎い)
(彼を傷つけた全ての人間を壊してしまいたい)

(ああ)

(憎い)
(憎い)
(何も彼も全てを憎悪する)
(憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて、)



「日本に居られへんかったら、オカンも俺も、じっ様の機嫌窺わんでも、ええんやろうになぁ…」






あの日、自分が壊れる音を聞いたのだ














「…ち。女々しい夢でも見てんのか、お前は」

左胸に走った痛みに舌打ちし、彼は眉間に手を当てた。

「羽柴がああなったのは、俺の所為じゃない。…悪いのは全部、帝王院と東雲だ」

苛立ちを滲ませた、唸りにも似た声を聞く者はない。
倒れている男達を山の中に放置した男は、再び舌打ちを放ってから、眉間を押さえていた手を離す。

「何が『村崎』だ。嵯峨崎なんぞと下手な同盟関係を築くから、余計な奴らからも目をつけられた。悪いのは全部、帝王院だ。…どうして俺が皇なんかにならなきゃならないんだ」

他人の為に死んでやるものか。
他人の為に生きてなるものか。
何の疑いもなく言われるままに生きてきた昔とは、違う。

「…同じ雲なら、俺が狗になっても良いだろう?」

ああ、左胸が痛い。自分が悲しんでいるのが判る。
嫌な事は全て忘れて、楽しい以外は全部押し付けてきた報いだ。そう考えても、痛みは共有される。同じ体を持つ限り、ずっと。ずっと。ずっと。

「羽柴を元に戻せば、終わる。その為にはステルシリーに選ばれる必要があるんだって、判ってんだろうが、村崎」

神よ。
それが悪魔でも人の形をしていても構わない。
神よ。
それが銀髪でも黒髪でも構わない。

「帝王院の所為で起きた過去は、帝王院が灌ぐべきなんだ。…なぁ、そうだろう?」

神よ。
神よ。
神よ。

「だから、神になって貰わなきゃ困るんだよ。宮様なら俺達の気持ちを判ってくれる。だから、遠野俊と嵯峨崎佑壱は殺すんだ」

泣くな。
何十人も居る内の一人だ。教え子なんてこれからまた、何人も増えていく。だから今だけ見て見ぬ振りをしろ。それだけで良い。


だから、



「宮様にはナイト=ノアになって貰わなきゃ、羽柴は戻ってこない」

痛みは全て、置いていけ。
















知っているか。

チャンスと言うものは、奇跡へと続く入口の様なものだ。
何千何万もの扉を潜り損ねては、人は後悔を覚えていく。積み重ねていく。失敗の数だけ、潰した機会の数だけ。

何故ならば、チャンスの扉は目に見えないからだ。
通り過ぎた時に『もしかして』と、漸く気づくほど、それは儚い夢の扉。


けれどもし、開く事が出来たなら。
何万何億と通り過ぎた扉のドアノブに手が届いたら、開いた先に待ち構える門番は、どんな姿をしている?



さァ。
お前は奇跡へと辿り着けるのだろうか。





このたった一度限りの、出逢えただけで奇跡的な扉を潜って、今。

















「あ、ぁ…」
「どうした、関根」
「ああぁあああぁあああああ!宮様!宮様ぁあああ!」
「な!しっかりなさい、関根?!駄目だ、紫水の宮様が不足して禁断症状が出ている…!」

テールコートを翻した、どの角度から見ても執事っぽい男が発狂し、同じ出で立ちの仲間は、胸元から取り出したパスケースをパカッと開いた。

「これを見るんだ関根元中央委員会副会長!」
「あ…ああぁ…み…宮様…はぁ…宮様の…お写真…っ?!」
「そうだ!良く見なさい、村崎様のお写真だぞ!既婚者である私はもう暫く禁断症状が出る畏れはないが、お前は恋人と別れたばかりだろう!ゆっくりたこ焼きを頬張る宮様を見るんだ…!命を落とすぞ!」
「はぁ、はぁ、はぁはぁ、宮様はぁはぁ、美味しい…たこ焼きをハムハムなさっておられる宮様のお写真…美味しいよぉ…はぁ、はぁはぁ…」
「ふぅ!危機は一時去ったか…」

東雲村崎を世界の中心から見つめ続ける元ABSOLUTELY幹部は、どちらも見事なイケメン執事だったが、誠に残念な男達である。
日中は東雲財閥会長秘書を努めているが、ちょっと目を離すとすぐに東雲村崎の所に行ってしまう悪癖があり、今もスコーピオ周辺でうっかり村崎を探している所だ。

「はぁ…村崎様ペロペロ…村崎様ペロペロ…はぁ」
「第四キャノン周辺は規制されていた様だ。目に見えた混乱は今のところない様だし、取り急ぎ会長にご報告し、我々は我々で宮様をお探ししよう」
「わ、判った…。はぁ。すまないな湯川、私とした事が我を忘れてしまい、迷惑を掛けた…」
「私達は、宮様をお守りする同志だろう?例え火の中水の中関西の中、何処までも紫水の君をお慕いし続けるのが我々の使命だ。他人行儀な事を言うなよ、関根…」
「心の友、湯川よ…!」

ひしっと抱き合う変態同士の友情が深まった所で、コホンと言う咳払いは落とされた。
村ぱちポラロイドを握り締めた二人はそこで振り返り、目に見えて青褪めていく。

「関根秘書、湯川秘書。いつまで遊んでおられますか?」
「「有村執事長?!」」

ビシッとオールバックに、変態二人が着ているテールコートと同じものを纏った無表情の男は、握っていた懐中時計に目を落とし、冷たい眼差しを眇めた。

「幸村会長の命で学園の状況を確認しに行った筈の貴方々が、その場で動きを止めてから、実に4分と言う無駄な時間を消費している事をご存じでない様だ。これ以上の職務怠慢は業務違反として、人事に進言する必要があると判断します」
「「!」」
「さすれば如何様に転じるか、判らないお二人ではありますまいな?」
「そ、そんな…!」
「ご無体を仰らないで下さい執事長!只今ご報告に上がりますので!」
「ならば宜しい。直ちに職務に戻りなさい、宜しいか?」
「「はい!」」

しゅばばばばっと走り去っていった二人を冷たい眼差しで見送った男は、ぱちりと閉じた懐中時計を胸ポケットへ仕舞い込み、スコーピオを見上げたのだ。

「全く、会長は勿論、本日は大殿がお見えになられると言うのに、警備が余りにも手薄過ぎる。我が東雲財閥の精鋭をお貸ししましょう。宜しいでしょうか、奥様」
「大殿様や隆子さんにもしもの事があれば、旦那様も私も、胸を痛めます。是非そうして下さいな、有村執事長」
「畏まりました」

穏やかな笑みを浮かべる女性が頷けば、深々と頭を下げた執事長はすぐに携帯を開き指示を出す。

「それにしても、私達が来るのが遅すぎました。まさか学園がこんな騒ぎになっていただなんて、…最早忌々しい理事長を殺したくらいでは収まりませんわ。貴方もそう思うでしょう、有村執事長?」
「仰る通りでございます。畏れ多くも帝王院総本山に巣食う虫には、これ以上好きにさせる訳には参りません」
「そうよ…。駿河公が如何に素晴らしく慈悲深い方だからと言って、隆子さんは旦那様の従姉でいらっしゃるのよ。代々、高森は大殿の奥様に仕えて参りました。貴方も存じているわね?」
「左様でございます、隆子様は奥様の大切な方。この私に何なりとお申し付け下さい。雲隠の当主であらせられます奥様の命とあらば、卑しい命に替えてでも…」

厳格な執事長は膝を着き、深く深く頭を下げた。
にこにこと頷いた女は赤い時計台を見上げ、ポキッと首の骨を鳴らしたのだ。

「お祖母様の名誉の為にも、嵯峨崎さんに負ける訳には参りません。有村執事長、村崎さんを呼び戻し、大殿と隆子さんの警備に就かせなさい。こんな時に教師を優先するなどと宣う馬鹿者は、東雲には必要ありません」
「御意。恭様は如何致しますか?」
「困った息子達だわ。何度言っても帝王院学園の入学を嫌がって、芸能人だなんて弱々しい子に育ってしまったあの子は放っておきなさい。年を取ってからの子だから、甘やかしてしまったわね…」

ふぅ、と。
切ない溜め息を吐いた人は、スコーピオ一階の芝生に設置されているベンチに腰掛け、豊かな木々を眺めた。

「並木道のフラワーガーデンは見事だったけれど、此処は味気ないわね。聞いたわよ、執事長。チューリップが咲いたんでしょう?」
「恥ずかしながら、ヒヤシンスでございます」
「良いわね、恋人と育てる鉢植え。そこに咲くのは愛の花…」
「恥ずかしながら、恋人と呼べるのかどうか」
「あら。あれから何も進んでいないの?」
「旦那様よりお借りした借金を返済するまではと、己に課したまででございます」
「お堅い執事長さんだこと。貴方は強く正しいわ、とっても素敵よ」
「畏れ多い事でございます」

彼女が脱いだ靴を、執事長はきっちりとシートの隅に揃える。
しゅばっと取り出したふかふかなクッションをきっちり敷いてやり、執事長に礼を言った人はクッションの上に腰掛けた。

「麦茶を頂戴」
「ただいま」
「誰が唆したのか、恭を後継者にするだなんて馬鹿な事を言う人が未だに居るらしいの。東雲は高森と同じ、長男が継ぐ家なのに」
「直ちに調べ上げ、適切に処置致します」
「けれど私の前に連れてはいけませんよ、殺してしまうかも知れませんからね」

ゴキッバキッ。
上品な美貌に笑みを浮かべたまま、拳の骨を鳴らした東雲村崎の実母は、速やかにお茶の準備を始めた執事長を横目に、


「あら、やだわ…」

足元を這っていた黒鼠を、それはそれは上品な笑顔で投げつけたカップで叩き潰したのだ。

「真っ黒な鼠だなんて、醜いわ」
「奥様、お怪我は?」
「大丈夫、もう動かなくなったから」
「それはようございました」
「醜いものは嫌いなの。その上弱いものなんて、存在する価値もないと思わない?」
「は」
「脆弱とは神が与えた唯一の罪です。貴方の母方の祖父の行いの様に、人のものを奪うなどあってはなりません」
「仰せの通りでございます」
「そろそろ、目障りな男爵には消えて頂かねば、ねぇ?」

上品な茶の香りが漂い、彼女は笑みを深めた。

「この国は秀皇の宮様が統べるべきなのですよ。身内で争う事などあってはあらない、そうでしょう?」
「仰る通りでございます」
「貴方の祖父の様に、伯父の会社を奪う様な真似はしてはいけません」
「仰る通りでございます」
「亡き山田大志会長が、天国で悲しんでおられますよ。亡き鳳凰様もまた、悲しんでいらっしゃる事でしょう」

散る葉ですら穏やかな、春の日差しが降り注ぐ中。
ただただ平和な芝が、柔らかい風に撫でられてそよぐ光景。

「幾ら大殿が孫として可愛がっておられても、やはりあの子は目障りでならないの。判ってくれるかしら、有村執事長」
「はい。帝王院会長のお孫様は、俊様お一人でございます」
「そうよ。本来なら、雲隠は桐火様がお継ぎになるべきだったの。私の曾祖母は桐火様の妹。陽炎も糸遊も、雲隠を名乗るべき立場ではなかった。だから、二人が名を捨てたのは至極当然なのよ」
「はい」
「雲雀様と同じ『雲』である事を誇りにしている東雲は、没落寸前の所を俊秀様に救って頂いた、ご恩があります」
「はい」
「その大きなご恩を、お返しせねばなりません。そうでしょう?」

高級なカップから、ふわりふわりと香ばしい麦の香りが漂っている。安っぽい麦茶のパックを取り替えた執事長は、出涸らしの麦茶に砂糖をガッポガッポと放り込み、ぎゅびぎゅびと一気飲みだ。

「甘いものはストレスを軽減するそうよ、有村執事長」
「お心遣い、有難うございます」
「けれど雲雀様は行方知れず、鳳凰公が雲隠を継ぐ事など有り得ない。だってそうでしょう、宮様は天神なの。卑しい私達とは違い、天上人であらせられるのよ。そんな方に見初められた隆子さんは、私にとっては神様も同然…」
「はい」
「そして貴方達親子を救って下さった幸村様は、駿河公の右腕でいらっしゃるわ。何も知らない者達は帝王院と東雲を同等の様に言うけれど、とんでもない話よ」
「その通りでございます」
「有村執事長、キング=グレアムとルーク=グレアムが邪魔でならないの。あの二人が居るから、秀皇の宮様はお帰りになられなかった。俊の宮様を差し置いて帝王院を名乗るだなんて、殺しても殺し足りないの。ボコボコにしたいの。あんな罪深い男爵の血に染まった嵯峨崎佑壱も、耐え難いほど目障りなのよ…」

はらはらと、静かな涙がカップの中へ次から次へと落ちていく。

「貴方だけが頼りよ、有村執事長。お掃除が終わったら、特別にボーナスを弾むわ」
「…お任せを」
「この学園の本来の美しさを、一緒に取り戻しましょう」

出来る執事長は素早く新しい茶と取り替えてやり、微かに笑みを浮かべて頭を下げた。












門番が踊っているのを見たか。
振りかざされた大鎌が、ひらひらと舞っている様に見えるだろう。


さァ、あの悍しい道を越えていけ。
真っ直ぐ前だけを見つめ、走り抜けていけ。




奇跡はいつも、君の手にあるのだから。


←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!