帝王院高等学校
After a storm comes a calm.
一体どのくらい時間が経ったのか、睨み合う二人の男はじりじりと間合いを詰めては、どちらから仕掛けるでもなく、睨み合ったまま、じりじりと離れていく。
その繰り返しを窺っていた高坂日向は暫く固まっていたが、いつまでも同じ動きを繰り返す二人を見ている場合ではないと、手首まで浸かった水底を押して、立ち上がった。

「…おい、いつまでやってんだよ。認めたかねぇんだが、そっち、豊幸祖父さんだよな?」
「おう、デカくなったな日向。再会の挨拶は後にしろ、今は油断出来る状況じゃねぇんでな…」
「ああ、何となく…っつーか明らかにそうだろうとは思ってんだが、俺にとっちゃ他人だが、祖父さんにとっちゃ、そいつは父親なんだろ?何マジに構えてんだよ」
「馬鹿野郎、構えもするわ!」
「トヨちゃぁあああん!!!」

ぼりぼりと頬を掻きながら首を傾げた日向に、くわっと牙を剥いた祖父が振り返った瞬間、その悍しい絶叫は響き渡ったのだ。
目を見開いたまま硬直した日向の網膜に、先程まで日向を痛め付けていた男が、デレデレと鼻の下を伸ばしている姿が映る。日向の父である向日葵が飼い猫に見せる様な、およそ筆舌に尽くし難い、締まりのない顔だ。

「ひ!ひぃ!寄るな、抱きつくな、テメェぶっ殺すぞカス親父!」
「トヨちゃん、カスなんて言うもんじゃないぞ。お前はお父さんの顔を忘れたのか?ああトヨちゃんトヨちゃんトヨちゃん、こんなにシワシワな爺に成り下がって…でもお父さんには判る!」
「黙れ!何でテメェだけ若いんだよ、納得行かねぇ…!くたばれ糞親父、テメェなんざ閻魔様に金玉潰されやがれ、カス畜生…!」

日向は目を見開いたまま、口元に震える手を当てた。
日向の記憶にある祖父とは、日向が生まれる前に妻である日向の祖母を亡くしてからは、寡黙で厳格で、日本最大組織を率いる王様然した姿しかない。組長と呼ぶに遜色ない、カッチカチな男だった。浮気しまくって妻から度々刺されていたと言う、組員から聞いた話が信じられない程には。

「はぁ。トヨちゃんの匂い…」
「ひぃ!嗅ぐなぁあああ!!!」
 
それが、どうだ。
無表情に思えるほど顔立ちが整った男に羽交い締めにされ、あちらこちら嗅がれて喚いている祖父は、どの角度から見ても涙目だ。日向はごしごしと目を擦ったが、見間違えではない。めちゃめちゃ泣いていた。可哀想な程に。

「ひ、日向の前でいつまで俺様を馬鹿にしやがる!死に晒せドカスがぁ!!!」

ああ。
背中の虎も泣いている様に見える。
半狂乱でべりっと父親を引き剥がした祖父は、そのままシュタタタっと日向の方まで駆け寄って来るなり、しゅばっと日向の後ろに隠れたのだ。

「トヨ…こほん、豊幸。それは我が高坂には似合わない、罪深い子だ。お父さんが今から再教育をするから、お前はお父さんの後ろに来なさい」
「あんだとテメェ!俺様の孫に何が再教育だゴルァ!何処に目ぇつけてやがるカスが、日向は立派な孫だ!殺すぞカスが!」
「…何だと?笑わせるな、悪しき雲隠に犯された曾孫など、私は認めんぞ」
「上等だ…!テメェが認めねぇっつーなら、」

日向を挟んで再び睨み合う二人に、日向は沈黙を守った。どう見ても祖父は曾祖父にビビっていたが、どうも睨みが怖いとかではなく、単に父親の溺愛っぷりに引いているらしい。日向すら引いたので、無理もないだろう。



「縁、切るぞ。」

低い声で吐き捨てた祖父は、日向の背中に張り付いたままだ。
まさかの絶交かよと遠い目をした日向は、然し急速に青褪めた男を見てしまった。

それはもう、山田太陽に嫌いと言われた従弟の表情に匹敵する、今にも誰かを殺しそうな…いや、一般論では今にも死にそうな表情だと言えるだろう。
絶望して虐殺を始めるのは、叶二葉だけで十分だ。

「と…とととトヨちゃん…っ?!ととと父さんと縁を切ったら、おおお、親子じゃなくなるんだぞっ?!判っているのか!」
「知るか黙れカスが!テメェなんざ今から親父でも家族でもねぇ!他人だ他人、真っ赤な他人!カスはカスの国に失せろドカス!」
「そ、そんな…!天かすを数えるが如く、何度もカスカス言わんでも良いだろうに…!」
「黙れカス、うどんの具にするぞカス」
「トヨちゃんに食べて貰えるなら、父さん…」
「黙れ、それ以上喋るな宰庄司カスユキ!縁切られるのが嫌なら謝れ。ひなちゃんに謝れ糞野郎、向日葵よか余程可愛い俺様の孫に!永久に跪いて伏して詫びろカスが!」
「…おい、ひなちゃんはやめろ」

心の底から絞り出す様な声を奏でた日向に、ビクッと震えた亡き祖父は「すまん」と呟いた。
じりじりと近づいてくる曾祖父を痙き攣りながら見つめていた日向は、目の前でガクリと崩れ落ちた男の旋毛を見たのだ。

「す…すまなんだ、ひまちゃんの息子…」
「いや、俺は別に…」
「甘やかすんじゃねぇ日向!そいつは人の目を見ただけで感情を読みやがる、糞野郎だ!甘やかすと調子に乗るぞ!」

実の父に対して、祖父の辛辣な態度は凄まじかった。否応なく自分の父親に対する態度を鑑みた日向は、今後はもう少し大人になろうと思ったものだ。
見てみろ、息子にカスユキと呼ばれた男の様を。
哀れなほど無表情で号泣しているではないか。滝の如く泣いている。何となく捨て犬の様だと考えて、日向は肩を落とした。

こんな時にまで、マッチョなハニーが頭の中に登場したからだ。元禁煙者だった癖に歯が白い、陸サーファーだ。

「祖父さん、そろそろ勘弁してやれや。泣いてんじゃねぇか」
「やだね」
「アンタそんな性格だったか?」
「良いか日向。お前は甘ぇ、だがそんな所もじいちゃんは可愛いと思ってる」
「真顔で言うな。俺ぁ、もう18になんだぞ」
「可愛いもんは可愛いんだから仕方ねぇだろ。テメェは幾つになろうが、俺様の孫だ」
「そりゃ、そうだけどなぁ…」

悪いばかりではない気がしてきた。
二度も佑壱を消してしまい、傷心な所に殺され掛けて、目が覚めたら二葉に八つ当たりでもしなければやってられないとも思ったが、こうして数年前に死んだ祖父の姿を再び目にする事が出来たのだ。
子供扱いには辟易するが、恥ずかしさの一枚下には、やはり嬉しさがある。

「ぐすんぐすん」

わざとらしく鼻を啜る男に目を向けた日向は、背中に張り付いている祖父からさりげなく離れた。祖父と孫の会話を果てしなく羨ましそうな顔で見つめられたら、気不味いにも程があろう。

「あー、何だ。アンタら、とりあえず和解しろって。俺はこの通りピンピンしてっから、祖父さん、手打ちにしてくれよ」
「ちっ!可愛い孫にそこまで言われたとあっちゃあ、しゃあねぇか…」

渋々宣った豊幸の台詞で、無表情に満面の笑みを浮かべた男は立ち上がった。そのお早い立ち直りっぷりに、逆に感心する程だ。

「つーか、さっき雲隠を取り込んだだの言ってたけど、あれって何なんだよ」
「ああ、テメェがまぐわってる桐火様の血縁のこったろ」
「あ?まぐわってる?」
「嵯峨崎佑壱っつー餓鬼だ」

にまにま。
記憶そのままの祖父の顔で、記憶にはない下卑た笑みを浮かべている顔を見つめ、日向は動きを止めた。

「奴は良い極道になる」
「男の癖に髪を伸ばす様な若造、高坂の敷居を跨がせる訳にはいかんぞ」
「煩ぇ、テメェは組を俺様に任せたんだろうが。死んだ奴は口を挟むな」
「トヨちゃん、その道理だとお前も死んでる訳だから、ひまちゃんしか口を挟めないと言う事にならんか?」
「揚げ足取ってんじゃねぇ」
「すまない」

祖父と比べても遜色ない程の存在感と威圧感を持ち合わせながら、少し睨まれただけで躊躇わず謝る曾祖父のヘタレさに、感心している場合ではない。
余りの事態に我を忘れるほど停止したが、今の状況が夢に近い状態だとすれば、日向の有した記憶を全て共有していても、何ら可笑しい話ではないのだ。

「…桐火っつーのは、帝王院俊秀公の嫁さんの事だろう?嵯峨崎会長の父親と、その桐火さんは関係があんだな?」
「悪いな日向、その辺まで俺様は知らねぇ。おい、カス親父。説明しろ」
「カス…」
「祖父さん、大人げねぇぞアンタ」
「ちっ」

ぷいっと祖父豊幸はそっぽ向いた。
昔からこの猫っ可愛がりだったなら、父親を鬱陶しいと思うのも無理はないと同情したが、今はそれ所ではない。
ふるふる震えながら涙を耐えている哀れな男を一瞥し、日向は無言で祖父を見据えた。無言で、と言う所が味噌だ。
幾ら大人げない態度で知らん振りをしている極道でも、孫に無言で責められたら、いつまでも無視は出来ない。代々笑えるほどに反抗期が凄まじい高坂の男は、子供が出来る度に立場が逆転するのだ。

「…ちょ、おい、無言やめろ。じいちゃん泣くぞ」
「…」
「ひ…日向、だから、おい、無言やめろっつってんだろうが!何なんだオメェは!別に、相手が男だからってどうだの言った訳じゃねぇだろうが!その冷たい目やめろ!おい、聞いてんのか日向!コラ!」
「曾孫よ。それ以上豊幸を興奮させると、泣くぞ」

無表情で宣った曾祖父の目前で、崩れ落ちた祖父が声もなく涙を溢れさせるのを日向は見た。成程、これは確かに親子だ。はらはらと滝の如く涙を滴らせる泣き方が、哀れなほど似ている。

「ああ、泣いた。昔、向日葵にホモは出ていけと宣って本当に出ていかれた時も、三日三晩泣き腫らしたからな…」
「マジかよ」

日向の父親が、祖父に逆らう様を見た事はなかった。
日向の記憶する限り、高坂組を向日葵に譲ってからの豊幸は、総括組織である光華会会長として、向日葵を含む全ての組員から親父と慕われる、そんな男だったのだ。
声もなく腹這いで泣くような男ではなかった様に思うが、もしかしたら、違ったのかも知れない。ああ、祖父の背中の虎が号泣しているではないか。見事な刺青なだけに、哀れさが増す。

「よちよちトヨちゃん、お父さんが抱っこしてあげよう」
「触るなドカス、死ね!」
「ふ。お父さんはもう、死んでいる」
「畜生…!」

初代組長と二代目組長の微笑ましい睨み合いは、若干変態度が高そうな初代に軍配が上がった様だ。ぼりぼりと頬を掻いた日向は、悔しげに地面を殴る祖父の背を宥める様に叩き、息を吐いた。
そう言えば、地面にたゆたっていた水が、いつの間にか綺麗さっぱりなくなっている。

「初代。アンタの言う、悪しき雲隠が何なのかは知らねぇが、それが嵯峨崎と関係するっつーなら、答えはタブレットか?」
「…少ない情報から自分なりに構築する力量は、認めざる得んか。左様、鬼を束ねる灰皇院統括、雲隠とは現在の嵯峨崎で相違ない」

どうも『馬鹿ほど可愛い』タイプらしい。
日向の冷たい眼差し攻撃で心に傷を負ったらしい高坂豊幸を、満面の笑みで撫でてはその手を払われている男は、一代で高坂組を興した男とは思えない蕩けた表情で吐き捨てた。
ぐるぐると獣じみた唸り声を放ちながら父親の手を噛んでいる虎…ならぬ二代目は、考え込んだ日向に気づいて、ぱしっと父親の手を払う。

「あんま難しく考えんな、日向。俺様ぁ、死ぬまで地毛だったが、コイツぁ禿げてたからな」
「…あ?マジで?」
「禿げてはいない。五十を過ぎた辺りで、後頭部が少しばかり侘しくなっただけだ」

亡くなる直前、幼い日向が慕っていた頃の姿である祖父が、地面に胡座をかいてビシッと父親を指差した。差された男は真顔で首を振ったが、呟かれた台詞はほぼ肯定している。
無意識で己の頭を触った日向は、安定の絶壁具合に鋭く舌打ちした。それと同時に視界の二人がビクッと震えた事に気づき、首を傾げる。

「………親父、親馬鹿かも知れねぇがよぉ、向日葵の面で金髪っつーのがまた、あれだと思わねぇか…?」
「向日葵より大きい所が何とも言えんな。何と恐ろしい様か…睨まれた瞬間、殺さねば殺されると思ってしまった。許せ」
「だから簡単に殺すなっつってんだよ。テメェの頭はどうなってやがる、戦争組が」
「我ら皇四家に赤紙が届いておれば、今頃アメリカ大陸など存在せん」

何とも恐ろしい会話がぼそぼそと繰り広げられていた。
佑壱と大差ない身長の祖父と、それより若干低い様に思える曾祖父が並んで胡座をかく様を見つめながら屈み込めば、二人は日向の足を何故か凝視したのだ。

「「長…」」
「は?」

ナガとは何だ。
眉を寄せた日向を余所に、こそこそと顔を寄せあった親子は信じられない物を見る目を向けてくる。生まれてこの方ずっと足が長い日向にとっては、胴が長い二人の驚きが理解出来なかったのだ。

「親父ぃ、見たか!日向の足が糞程長ぇ…!」
「怯むな豊幸。生粋の倭民族たる者、足の長さではなく男の器で勝負するべきだ」
「あっちのデカさって事か…」
「そうだ」

呟きながら日向を見据えてきた祖父と、こくりと頷いた曾祖父の嫌に静かな眼差しが、何故だろう、日向の股間に集まっている様な気がした。
痙き攣った日向はすぐに立ち上がろうとしたが、背後から何かに抱きつかれて身動きが出来ない。

「おうおう、チンコの一本や二本、大人しく見せてやれや」

ああ。何だ。
嫌に聞き慣れた声だと、後ろから両手を掴まれるのと同時に口を塞がれた日向は、祖父からスラックスのファスナーを下ろされながら、目だけ必死で背後へ向けた。

「「な」」

悲しい程に開放的な股間にはもう、構うまい。
何が悲しくて、顔も知らない曾祖父と死んだ祖父から男の子の大事な部分を凝視されねばならないのかは判りたくもないが、お陰様で日向を軽々捉えている男の顔はしっかりと確かめた。

「テ、メェ…!嵯峨崎かよ!何の真似だゴルァ、つーか何度出てきやがる糞犬が!」
「あ?誰が嵯峨崎だ馬鹿野郎、俺ぁ高坂だハゲ」

日向が暴れたからか、それとも捕まえているのに飽きたからか、褐色の手を離した男に怒鳴りつければ、ダークサファイアの双眸が何故か同じ高さにある事に気づく。
日向の知る限り、佑壱は祖父と然程変わらない身長だ。数値で言えば182cm、単純に日向より5cm低いのが正解である。

「お前………いきなりデカくなってねぇか?」
「誰がデブだと?」
「そうじゃねぇ、何か髪も長い様な気がするっつーか、そうだ、お前、メッシュはどうした!」

日本一の嵯峨崎佑壱フェチを自負している日向は、間違い探しの様に目の前の佑壱をじっくり眺め、声を荒らげた。
他にも、首輪がないだの、顔回りの肉が減っている気がするだの、本人しか判らない様な小さな違いを探し出しては指摘し、ムキムキの腕を組んでいる赤毛が口を挟む隙はなかった。

日向らしからない狼狽だが、肩で息をしながら全ての間違いを探し終えた本人だけは、気づいていない様だった。

「阿呆程小せぇ所まで隈なく探してくれて有難うよ、んな事より社会の窓が全開だぜ?それで誘ってるつもりか」
「………あ?」

褐色の指が示すまま己の股間へ目を落とした日向は、唯一佑壱の肌よりも濃い部分を見つめ、真顔でファスナーを引き上げた。ついでに背後の二人を凍える眼差しで睨み付けるのも忘れなかったが、その前に二人共、泡を吹いて倒れていたのだ。

「いや、それにしても悪かねぇな…」
「何をぶつぶつほざいてやがる、嵯峨崎」
「神の脚本って事だろ。お前らしくなく理解が遅ぇな、日向」
「何を、」

にやにやと顎を撫でている佑壱を睨もうとした高坂日向は、そこで全ての動きを止めた。全てだ。心臓も血液も、もしかしたら細胞の隅々まで凍っていたかも知れない。

「おあ?何だ、どうした?」

怪訝げな佑壱が覗き込んでくる。
それでもまだ、中央委員会副会長はダイアモンドの様に動かなかった。毛先まで余す所なく硬直している。死後硬直にしては早すぎるので、多分生きていると思われた。
背後の二匹は日向の股間と言う名の兵器を目にした瞬間泡を吹いて倒れたので、死んでいるかも知れないが、だ。

『日向』
『ひなた』
『HINATA』

帝王院学園高等部進学科、三年Sクラス高坂日向は、頭の中でエンドレスにリフレインしていた。横文字で言うんじゃねぇ、つまり際限なく繰り返していたのだ。リピートアゲインである。

つんつん日向をつついている嵯峨崎佑壱そっくりな筋肉男は、暫く様子を窺っていたが、いつまでも動かない日向に痺れを切らしたのか、ぎゅっと右手を固めた。
と思った瞬間、日向の頭にその拳骨は電光石火の如く落とされたのだ。

「「ヒィ!」」

泡を吹いていた極道二匹が飛び上がり、日向は声を出す事なくどさりと崩れ落ちた。


「俺を無視するたぁどう言う了見だコラァ、高坂日向」

今度こそ死んだかも知れなかったが、拳骨を落とした男は倒れた日向を軽々片手で引っ張り上げ、鋭い牙を剥いた。
タンコブをこさえている癖に痛がる素振りなく、やはり未だに放心している日向の目を、至近距離で見据え、恐ろしい笑みを浮かべている。同じ程度の身長だが、筋肉量と毛髪量で圧倒的に日向を越えていた赤毛の威圧感に、哀れ瀕死の極道親子は抱き合って震えているではないか。

「ふん。ドヘタレが、この俺の鍛え抜かれた体に飛び付かない高坂日向なんぞ、生ゴミ以下だ。粗大ゴミの日に出す」

ぽいっと日向を放り投げた佑壱は、見上げてくる極道親子を見やり、なけなしの眉を跳ねた。そして顎を逸らし、ただでさえ腰を抜かしている二人を更に見下す様な態度で、獰猛な笑みを浮かべたのだ。

「…よう、初めまして義祖父様、義曾祖父様?」
「「!」」
「テメーらのお呼びで出てきてやった『悪しき雲隠』だ、宜しく」

ヤンキーが園児にカツアゲしている様な光景だった。
背中の刺青が見える様に、着流しの上半身だけ脱いでいる高坂豊幸と、ビシッと着物を着ている高坂秀幸は、顔から血の気と言う血の気を引かせた表情で、ただ呆然と赤毛を見上げている。

怯える二人を獰猛な笑みで眺めていた赤毛は、むくりと起き上がった日向の視線を受けて振り返り、真顔に戻す。

「やっとお目覚めか、王子様よぉ」
「………おい、テメェさっき何つった?あ?」
「ああ、『俺の体に飛び付かないテメーはカスだ』って奴か?」
「んな事ほざくと犯し殺すぞ!」

デカいタンコブを頭に生やしている男の叫びが木霊し、


「All right。カモーン、ひなちゃん?」

まるで猫を呼ぶ様に、人差し指を振った赤毛の恐ろしい笑みが、深まった。






















ぶらぶらと、揺れていた体が落ち着いていくのを感じる。
夢中で掴んだ何かを手放さない様に歯を食い縛ったまま、乳酸がたまり過ぎて痙攣している二の腕に力を込めた。

「ふ…っ、んの、」

無理だ。
ただでさえ左手では辛うじて何かを掴めたが、高坂日向を抱えたまま片腕だけで這い上がるのは無理がある。逆なら良かったのだ。利き腕は日向を抱いたままなので、日向をどうにかすれば何とかなる筈だ。

「…はっ、放り投げりゃ良いのは判ってんだっつーの」

さて、悩める所だ。
嵯峨崎佑壱にとって日向がどうなろうと、本当のところ知った事ではない。助けに来てくれと言った覚えもないし、勝手に現れておいて人様の足を引っ張る様な男、寧ろ奈落の底まで投げ捨ててやりたい気分だ。
と言う本音を踏まえた上で、深く息を吸い込んだ。

男が一度誓った約束を、反故にするのは嫌だ。それこそ日向からしてみれば迷惑この上ない話だろうが、一度助けると言ったのだから、助けるしかない。つまり、佑壱に選択肢などなかった。

「つーか、何か明るい様な…」

足元は暗く、辛うじて突き出たコンクリートが見えるだけ。ぴちゃんぴちゃんと水の音だけは近いので、想定通り、悪趣味なプールが出来上がっているのは間違いなかった。
どの程度の水量なのか正確な所は判らないが、日向からアンダーキャノンが浸かっていたと聞いているので、高層ビル一つ水没するレベルの水量であろう事は想像に難くない。

最悪、抜け場がなく溜まったままであれば、わざわざ体積の計算などせずとも、何となくやばいくらいの事は理解出来るだろう。
とは言え、校舎の遥か数十メートル地下に当たるのであれば、いつから存在する空間なのかは知らないが、満足なメンテナンスなどしていないと思いたい。あちらこちらが老朽化していれば、日向との話の中で想定した、山に水が流れていく可能性があるからだ。

「水が捌けるまで何時間懸かるか、…どうやったら判るんだ?足し算か?いや、引き算か。これだからはっきりしねぇ数学っつーのは嫌なんだ、定理だの方程式だの何かにつけて統一性がない。糞程みみっちぃ」

負け惜しみ、かも知れない。
数学は佑壱を愛さなかったのだ。そう、嵯峨崎佑壱は負けず嫌いの自尊心が高い子供時代を送った。それはもう、生まれた場所から離れて天才だの神の子だの持て囃される様になってからは、自分に出来ない事などないのだと思ったものだ。

事実、教育係からも記憶力は褒められた。どの国の言葉も滑らかに発音する才能は、類を見ないとまで謳われた。ほんの、数ヶ月の間は。


所で、算数や数学は、覚えただけではまるで意味がなかった。
それを知ったのは、教育係から渡された参考書を読み終わり、すぐに挑んだテストで明らかになったのだ。
佑壱が見た参考書には、例題が書いてあった。佑壱はしっかりそれを記憶した。何なら、あの時読んだ参考書を、その場で丸々書き写せた自信もある。

さて、お判りだろうか。
当然ながらテストに例題と全く同じ問題は、通常出ない。然しそれまで閉ざされた生活を強いられていた子供に対して、教師は参考書と同じ問題を手始めに出した。意気揚々と、赤毛の子供はそれを解いたのである。勿論、全問正解だった。

教育係はすぐに問題を練り直した。
これは天才だと期待した分、あれこれと引っ掛け問題を含めて、それはそれは練り直してくれた。意気揚々と、赤毛の子供はそれを解いたのである。数字が違う事は気づいたが、記号が同じなので答えもまた同じだろうと、自信満々に。

『5+1が、2…?』

当時、我らがオカンは二歳とちょっとだった。
褒めてくれと言わんばかりに見えない尻尾を振りまくる、それなりに可愛らしい小型犬だった。サイズは二歳の割りに大きかったが。

『だって1+1は2だもん。+がついたら2でしょ?』

オカンはどや顔をこの時に習得した。
思い出す度に頭で壁ドンしたくなる黒歴史だが、以降、嵯峨崎佑壱と算数の長きに渡る戦いは続いている。



一つ訂正しておこう。
苦手意識は芽生えたが、それでも四歳までには足し算から割り算に至るまで、そこそこ出来るまでには成長していた。先に大学へ入った神威を追うべく、神威に恥を掻かせられないと死に物狂いで苦手意識を克服したのだ。

然し、時期が悪かった。
そう、叶二葉と言う世界の魔王が存在したのだ。
お陰様で算数に対する苦手意識を忘れつつあった佑壱は、顔を合わせる度にやれ二次関数だの、やれ確率方程式だの、言葉自体聞いた事もない魔法の呪文(当時はそう思った)で追い詰められた。一時期は毎晩夢に出てきて、魘されたものだ。

ファースト=グレアムは、この時、叶二葉に対する言葉にならない憤りを、そっくりそのまま算数と言う存在に塗り替えたのである。此処までくれば、佑壱も算数も被害者だ。全ては性格が悪すぎた二葉の所為である。


以降、教科書に方程式だの定理だの出てくる度に、佑壱の脳裏に怒りが湧き、とうとう今に至るまで佑壱は理数を愛せずに育った。
それでも二葉の影に負けたくないので授業には出ており、テストでも満点こそないものの、それなりの点数は取れている。
オール満点の語学に比べればお粗末な点数だが、苦手意識の所為で目が拒絶する数学以外は、物理や地理、史学などは満点の方が多い。つまり、完全に二葉の所為で佑壱の数学は伸び悩んでいるのだ。

方程式だの、定理だの、今でも記憶するのも嫌だと思うくらい、二葉の苛めは凄かった。だからあっさり忘れる。テストの前だけ必要に応じて覚えておくのは、学年の誰もに負けたくないからだ。
一番こそが嵯峨崎佑壱に似合うと、俊に出会ってからの佑壱は努力を始めた。佑壱のイチは一番のイチだ。覚えとけ。


「おい、そろそろ起きろや、高坂」

ごつっと日向の額に至近距離から頭突きをカマした佑壱は、腹から絞り出す様に唸った。返事はない。然し、何となく日向の鼻の下が伸びている様な気がした。

「…マジでこの野郎、起きたら半殺しに処す」

何の夢を見ているか知らないが、無事生きて帰れた暁には、高坂日向を全力で叩き潰そうと嵯峨崎佑壱は固く誓ったのだ。


「ねぇ、誰か居るの…?」

頭上から、女の声が振ってきた。
まさかと上を見上げた佑壱の視界に、遠かった明るさが少しずつ近づいてくるのが、見えている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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