帝王院高等学校
万歳三唱で歓喜のプールに飛び込むにょ!
『Rettung von Tyrannen ketten!(支配からの脱出を!)
 Großmut auch dem Bösewicht!(犯した罪にも平等の慈悲を!)
 Hoffnung auf den Sterbebetten,(絶望の果てにも奇跡を、)

 Gnade auf dem Hochgerich, Auch die Toten sollen leben!(死して尚、我らは生きねばならない!)』


歌、だ。
快活な歌声が聞こえてくる。いや、思い出しているだけ、だろうか。

『An die Freude!(自由を歌え!)
 An die Freude!(喜びを歌え!)』

何度死んだのか覚えていない。
過ぎた痛みはとうに麻痺し、最早快感にすら感じていた。

腕は何処にいった?
足はまだ、あるのか?
指は尚、両手に揃っているのだろうか。
判らない。判らない。判らない。ああ、心地好い痺れだ。死が近づいてくるのが判る。


「…ああ、弱い弱い」

誰かが呟いた。笑みを滲ませて。

「流石、私の出る幕はなかったか」
「ご冗談を、貴族様にこないな事させられません。汚れ仕事とは、汚れた者がすれば良いのです。これ以上、汚れようがないのですから」

目が霞む。
聞こえてくる音が、正しい言葉として脳まで届かない。他人の会話がまるで音楽の様だ。

「喜ばしい事だ。弱いとは即ち、平和である事の証明」
「おやおや、物は言いようですねぇ。つまりいつ死んでも誰を恨めやしない、虫けら同然だと?」

歌だ。
歌が聞こえていた。


『Ihr stürzt nieder, Millionen?(そこでただ平伏するか、子供達?)』

遠いいつかに聞いた、白い病院の、歌が。

「…ざけんじゃ、ねぇ、糞が…」

死ぬかも知れない時に第九とは、クリスマス気分か。
余りの愚かさに笑えてきたが、好き勝手宣われているのは意味が判っていなくとも、何となく判る。

「カルマ舐めんなや、オカマ野郎が」
「おや、虫の息で何を言うかと思えば、男爵は男ですよ?」
「今のは私に言った様には思えなかったが」

漆黒の髪に漆黒の瞳、日本人特有の男は男とは思えない美貌を歪めて笑っていた。その隣で佇んでいるだけの男は、神々しいまでの金髪の下で、ダークサファイアを細めている。

「…気に喰わねーぜ。楽しそうな面しやがって」
「ええ、楽しくて楽しくて、後で雲雀様に呪われても構わないとさえ思えるんですよ、今は」
「まさか連帯責任ではないだろうな。私は呪われたくはないんだが」

雲雀、芙蓉、有り得ない事だ。
有り得ない事だが、何度か殺され掛けて嫌でも理解した。女と見間違えんばかりの男は、まず間違いなく叶二葉の同類だ。

「へぇ、同類ですか?」
「怖い怖い。我が子から睨まれて笑っていられる君は、少しばかり呪われた方が良いのかも知れないな」
「ふふ。誰に呪われようと謗られようと構いませんよ。犬を人として扱って下さった、私の神は雲雀様だけなのです」
「その神を孕ませるとは、君も罪深い男だ」
「本能ですよ。狼は番を一度定めると、生涯替える事はないのです。逃がさぬよう己を植え付けて、雌の母性で縛り付ける。…どうですか?貴方も男なら覚えがあるでしょう、リヒト=エイト=ノア」

起き上がるのもやっとながら、黙って聞いていたお陰で幾らか判ってきた事がある。藤倉裕也は沈黙したまま息を整え、隙のない二人を窺った。
突如現れたかと思えば、何の説明もなく飛び掛かってきた黒髪の男は、まずもって忌々しい事に、高祖父の叶芙蓉でまず間違いない。思い返せば、見覚えのない女には既に会っている。見覚えがないからと言って、あれは誰だなどと悩むだけ無駄だ。

「リヒト、エイト…?」

ノア、それがグレアムを差すのは勿論知っていた。
エイトがそのまま8を示すのであれば、帝王院神威のカイが十を示す様に、そのまま八代と置き換えれば繋がるのではないのか。
そこまで裕也が考えた時に、二人は揃って目を向けてきた。まるで裕也の頭の中を読んだと言わんばかりの、満面の笑みだ。

「そう、私は君が良く知るイクスルーク=ノアの、立場上、祖父兄に当たる」
「そして私が朱雀の曾祖父、お前の高祖父です。理解しましたか、十口裕也」
「誰が十口だよ。オレは藤倉だぜ」
「おやおや、親に逆らうとは、やはり緋連雀の子とは思えませんねぇ」
「だったらこうしよう。お前は叶裕也ではなく、リヒト=グレアムだ」

中性的な美貌の芙蓉と並んで全く目移りしない、神憑った美貌の男がさらりと宣った台詞で、裕也は眉を潜めた。頭の中はそれなりに回り続けているが、無意識で神崎隼人の名前を呼びそうになる程度には、パンク寸前だ。

「いや、どう考えても可笑しいだろ。何でオレがグレアムなんだよ、グレアムは陛下とユウさんだろうが」
「全く、愚かしい程に頭が悪い子ですねぇ」

鼻で笑いやがった。
自分より幾らか背が高い男爵はともかく、裕也より僅かに背が低い芙蓉に嘲笑われるのは、腹が立つ。何しろ顔立ちこそ違うとは言え、パーツごとに窺うと、やっぱり二葉にそっくりなのだ。腹立たしいにも程がある。

カルマは基本的に叶二葉が嫌いと思って貰えれば、正しいだろう。二葉に喜んで近づく様な物好きは、遠野俊以外には存在しない。
裕也の記憶する限り、笑顔で「この世から消えろ」と宣えるのは、帝王院学園広しと言えども、山田太陽くらいだ。あれはもう、同じ人間として数えてはいけないのではないかとすら思っている。最近までろくに話した事もないが、段々馴れ馴れしさが増した様な気がしないでもない。向こうも裕也を苦手だと思っていた様だが、言わせて貰おうか。

オレもお前が苦手だぜ、と。

「そう言えば娘も誰に似たのか馬鹿だったので、緋連雀に似たのでしょうかねぇ。雲雀様の万物を見渡すお力は流石に継げなかったとしても、私は此処まで馬鹿ではありませんでしたよ」
「そうか。我が弟リヒャルトも、聡明な子だった」
「あ?リヒャルトだと?アンタ、レヴィ=グレアム以外に兄弟が居たのか?」

真に受けるつもりはなかったが、こうもドラマティックにシナリオが敷き詰められていれば、無視する方が難しい。幻覚なのか夢なのかさえ判らない中、自分の妄想だと片付けるには、余りにも出来すぎていると感じずには居られなかったからだ。
肉体的には疲労困憊だったと思う。夜中ずっと動き回って、いきなり水攻めに遇い、てんやわんやの内に気不味かった健吾と話せる様になったまでは、良かったとしても、だ。

「ああ、妹も弟も居た。私達はリヴァイ以外がフランス生まれでね、父には姉妹の様に仲の良い三人の妻が居たんだ。故郷を追われたのは妹のリファエラが産まれた頃だから、リヒャルトは二歳だったか」
「おい、待てや。オレの妄想範囲をフライハイし過ぎだぜ?何だよ、もしかしてこれって現実なのかよ」
「おやおや、一面薔薇だらけの世界なんて見た事があるんですか、お馬鹿さん?」

藤倉裕也は前動作なく、新たな魔王に蹴り掛かった。が、容易く押さえ込まれ、ぽいっと投げ飛ばされた。

「…くそが」
「ほう。見た目に似合わず、手が早い子だ」
「緋連雀に似ましたね。あの子は顔立ちこそ私に似ましたが、にこりともしない可愛いげのない娘でした。それに比べお顔立ちこそ少々あれでしたが、いつも微笑んでおられた雲雀様の何とお可愛らしかった事か…ふぅ」
「おい、オメー今さらっと嫁さんの悪口言ったよな。つー事は、オメーの嫁さんって不細工なんかよ」

吹き飛んだらしい。
舞い散る赤い花びらを数え終わる内に、どさっと薔薇畑に沈んだ裕也は息を吐いた。判った、認めよう。相手の動きが早すぎてついていけない事だけは、認めよう。

「負け惜しみですか」
「違ぇよ、オレが負けてんのはスピードだけだ。アンタの一撃一撃は軽いっつってんだ、んなもん。ユウさんの早さ威力共に色々ヤベェ拳骨に比べたら、わざわざ避けるまでもねーな」
「はは。成程、今のは君の負けだ、十口」

負け惜しみではない。
何度か死んだと思えるほどに痛め付けられた割りには、それほど危機感も恐怖心もないからだ。

「アンタの嫁の悪口を言うよか、総長の前で猫苛めた方が簡単に死ねそうだぜ」

これなら本気で怒った時の俊とは比べるべくもなく、拳骨でカルマの狂犬共を怯えさせている佑壱よりも、可愛らしい。
但し芙蓉は佑壱とは違い、的確に人の嫌がる台詞をチョイスして笑顔のオプションと共に投げつけてくる。口下手な裕也には、拳よりも余程痛いのが言葉だ。言い返して勝てる気があんまりしなかった。

「おやおや、それは鳳凰の宮様の…。それはそうでしょう、全ての系譜を一身に紡ぐ方相手に、我々の誰が敵うものですか」
「は?豆腐が何だって?」
「系譜と言ったでしょう、馬鹿息子。全く…お前にしても朱雀にしても、少しお勉強が足りませんね」
「何で朱雀が出てくんだよ」
「当然でしょう?本来なら大河朱雀こそ、我が叶の当主であるべきなのです」

目を丸めた裕也は暫く考えて、確かにそうだと微かに頷く。
芙蓉が駆け落ちなどせず、万一、帝王院雲雀と祝福された結婚をしていれば、産まれた息子は叶白雀として叶家の跡継ぎだっただろう。

白雀の妹である緋連雀が、裕也の曾祖父である藤倉涼也と出会ったのは日本ではないので、そうなると裕也は産まれていなかった事になる。
運命とは数奇なものだ。

「それを馬鹿息子め、『俺は普通の男の子になりたい』などと宣って、私に一言も告げずに家出したんですよ!」
「あ?普通の男の子だ?何だそれ」
「ほう、哲学的だな」
「そうかよ?」

男前過ぎる顔に笑顔を湛えている男爵は、この状況でも冷静ににこにこしていた。もしかしたら天然なのかも知れないと思ったが、思っただけなので良いだろう。どうせ向こうにはバレている。

「何が普通ですか!本来なら叶の一人として大殿に仕え、死してお命をお守りすべきなのですよ!それが普通になりたいと宣いながら、マフィアになるとは何事ですか!けしからんにも限度があると言うのです、馬鹿息子が!」
「すまん」

ぽつりと、荒ぶる芙蓉の語尾に、男の声がついてきた。
キョロキョロと辺りを見回した裕也は、背中に何かが張り付いている気配に眉を潜め、しゅばっと振り返る。

「た、ただの銀行だと思ったんだ、俺は…」

何だ、この男は。
裕也の背後で膝を抱えた男が、ふるふると震えている。まるで捨てられたチワワの様に震えながら、無愛想な顔をそろそろと芙蓉に向けていくのを見た。

「ごめん、お父さん…」
「今更謝っても遅いのです。大体、どうして私に一言もなく出ていったのですか、お前は」
「か、母ちゃんが、男は旅をするもんだって言ったんだ」

ああ、嫌でも判った。
誰かに似ていると思ったのだ、目の前の男が。それはそうだろう、そっくりだった。震えるチワワの様な態度はともかく、大河朱雀の父親に、余りにも。最早クローンだ。目鼻立ちが、学園長の帝王院駿河にかなり似ていると思う。叶方の顔立ちではなく、帝王院の顔立ちなのだろうか。

「雲雀様が?」
「俺の奥さんになる人が香港に居るから…ぶらり片道切符で会ってこいって…」

それにしては俊には全く似ていないのだから、血も宛てにはならないらしい。無愛想な所はまぁまぁ似ていなくもないが、あの目付きの悪さは確実に遠野の血なのだろう。
裕也は俊の母親を知っている。普段はばっちりメイクして円らな瞳をキープしているが、あの目は母子そっくりだ。

「それで、会えたんですか?」
「まだ産まれてなかった…ぐす」
「あ、ああ、そうでしたか」
「帰りたくても帰りの切符代を稼がなきゃならなくて、でも香港は言葉が違うから、俺、俺は、頑張った…」
「なんと…」
「でも雇ってくれる人が皆怖くて…スラムの皆が優しくしてくれて…それで…戸籍がない人でも雇える会社を作ろうと思ったんだ…」
「し、白雀、お前と言う子は…!」

ぶわっと涙を浮かべて崩れ落ちた叶芙蓉の前で、震えながらボロボロと涙を零している、どう見ても裕也と大差ない年頃の男は、とうとう「父ちゃん」と宣いながら泣き崩れた。
ぱちぱち拍手している男爵を横目に欠伸を発てた裕也は、何処を突っ込むべきか暫く考え、諦めたのだ。

「あーもー、何もかんも、面倒くせー」
「現実逃避かね、リヒト=グレアム」
「アンタこそリヒト=グレアムだろうが、っつーか、母ちゃん方が叶と帝王院だってのは知ってんだ」
「ああ、そうだな」
「つまり、親父方がグレアムなのかよ」

推測は簡単だ。
そうでなければ、ドイツ貴族でしかない父方がステルスの幹部に収まるまでの経緯が、想像出来ない。そこそこの天才になど目をくれない、本物の天才だけが選ばれる、セントラルとは正に人外魔境だと聞いている。

「ユウさんすら『普通』だって思ってんだ。アンタらグレアムってのは、頭が良すぎて殺されたんだろ?」
「どうだろう。確かに薬学に精通していた我らは、当時の民には想像もつかない世界を知っていた。神の手記とも謳われるヴォイニッチ手稿を揃え、永く解析していた父から受け継いだ時、私は18歳だった」
「設定が練り込まれてんのな」
「まだこれがただの夢幻だと思うか?」
「いや。空想を現実の様に話す人を、オレらは知ってる。アンタの子孫が神帝なら、オレらの飼い主は皇帝だ」

服に張り付いた薔薇の花びらを何となく一枚ずつ手に取り、晴れ渡る空に透かしてみる。葉脈が見えた。花びらでも葉脈と言うのだろうかなどと考えて、眩しさに目を細める。

「…あ?そう言えば、空なんてあったかよ?」
「どうやら、神の子が選択した様だ」
「は?神の子って、マジェスティかよ」
「違う、父は父、誰の子でもない」
「あ?」
「ほら、近づいてくる気配がするだろう?」

歌だ。
歌が聞こえている。

わんわん泣いている親子には構いもせず、金色の男爵が指差す眩しい太陽を仰ぎ見た。


「おわぁあああああ、落ち、落ちまくってるぅううううう!!!」
「………あ?」

眩しい、眩しい、光の塊の中から、歌が聞こえてくるのだ。

「いやー!死ぬ、これマジで死ぬ奴ぅううううう!!!ユ、ユ、ユ、ユーヤ、たーすけてー!!!(ノД`)゚。」
「け、ケンゴ…?!」

だから、まるで万歳をするかの様に腕を掲げた。

「マジかよ!おま、マジか!」
「たーすけてー(ノД`)゚。」

それが歓喜の歌だと気づいた訳ではなく、光の中から真っ直ぐに落ちてくるそれをただ、捕まえる為だ。






















目を開いた瞬間、遠野俊は凄まじい重力を全身に感じたのだ。
不味いと腕に抱えた体を庇う様に態勢を入れ換えたが、その所為で背中から落下している己を守る術はなかった。

「っ。死んでも離すか…!」

健吾の声はない。
がらがらと落ちてくる瓦礫を、暗闇の中で気配だけを辿り振り払えば、背中が衝撃に包まれる。

「ぐっ」

流石に一瞬、息が詰まった。
然し落ちた瞬間、次には無抵抗なまま、浮遊感に包まれたのだ。

「はふん。…あっ、ちょ…、待っ、あふん、いやん、止まらない…!」

ぼよん、ぼよん、果てしなく浮いては落ちるを繰り返し、まともに息を吸い込めたのは、恐ろしいほど大きな風船の様なものに助けられたと把握してからだった。


「………はい?
 すみませんが、何事ですか?何故に落ちて三秒でトランポリン気分?…って、不味い」

それと同時に、抱き締めていた健吾を手放す。本能だ。気配が次々に落ちてくる事に気づき、暗闇に目を凝らしながら、体が感じるまま、落ちてくる体を次々に受け止めていった。
肩や背中に瓦礫と思われる破片が刺さっている事には気づいたが、今は抜いている暇はない。

「よっ、と!大きいと思ったら、最後は裕也か。良し、皆、大きな怪我はないな」

手始めに出血の後が酷い隼人のブレザーを脱がせ、自分に刺さったコンクリート片を抜きながら、隼人の脇腹の怪我を確かめる。
若干火傷の様なものもあるが、手当てが間に合えば悪化する事はないだろう。健吾の剥がれ掛けた顔の絆創膏を剥がしてやり、俊は着ていたバスローブを脱ぎ捨てた。

「要は額を切ったのか。何にせよ、皆、掠り傷で良かった。傷が残らないとイイんだが…」

びりびりと躊躇わず破り、上半身部分の布で皆の手当てを施してやる。健吾を抱えていた分、重みが増したからだろうか。自分が真っ先に落ちていて良かったと、手早く処置を施してから一息吐いた。

「流石に、俺の股間に当たっていた部分で皆を手当てする訳にはいかないからな。裸のままで居る訳にもいかないし、とりあえず残った布地は巻いとこう…」

然し太陽と二葉の姿はない。
それ以外は皆、気絶しているのか目を覚まさないが、記憶している限りの全員が揃っていた。他に居ないのは、アンドロイドの曾祖父だけだ。

「…あ。もしや、あれか?」

落ちてきたらしい天井を見上げた俊は、遥か頭上にふよふよと浮かんでいるバイクに気づき、暗いながら明るい理由を知ったのだ。
然しふよふよと降りてきたバイクには、誰も乗っていない。

「俺らが乗っていた方の、シャドウウィングだな。お前、俺についてきてくれたのか?」

賢いバイクだ。
対人センサーで皆を踏まない所を選び、ゆっくり降りてきた。然しもう一つ、頭上に光が見える。

先程の位置よりまだ遥かに上、もう一つ光っているバイクが見えた。
それからずるりと落ちてくる人影を認め、俊は眉を潜めた。視力には自信がある、あれは太陽を抱えた二葉だ。距離は恐らく十メートルもないが、どうも意識がない様に思えた。

「よいしょ」

バイクの灯りを当てれば、やはり丸々と空間を埋めている黒いボールが見えたが、そのボールの隣に、落ちてきた皆を横たえている。
元教室と思われる空間には、今や余分なスペースなどない等しい。殆どがコンクリートに埋まっており、俊が落下した時も、コンクリートを突き破ってからボールに救われたのだ。

「俺だから無傷なんだと思おう。タイヨーはともかく、二葉先生は普通の美人なお兄さんだ。美人は怪我をしたら駄目だ」

オタクはナチュラルに平凡を謗らったが、悪気はない。勿論、振られた腹癒せでもない。単に事実だ。俊から見ても、太陽と二葉は、二葉の方が圧倒的に美人だった。優先順位だ。

「二葉先生がタイヨーを離してくれたら楽なんだが…どうも意識がなさそうだなァ」

落ちてくる二人を、巨大なゴムボールで助ける事は不可能だろう。予想出来ないバウンドで寝かせている誰かに当たれば二次被害、万一ボールでは間に合わない荷重であれば、助かる前に割れる恐れもある。
ただでさえ、俊が健吾と落下した瞬間に凄まじく跳ねているのだ。崩れた瓦礫に挟まっている風船に、無傷で落ちるのは難しい。

「すまん、お前は邪魔にならない所に退いてくれるか?」

声紋センサーがついていると言うのは聞いていた。
俊の言葉に従う様に、隅へ駆けていったバイクを横目に、落ちてくる二人がすぐ目の前に見えた瞬間、壁を駆け上がる。

「タイヨー、すまん」

空中で太陽のバスローブの襟を掴み、するんと二葉の腕から引き抜いて、全力でボールに向かって投げつける。どうやら太陽は50kgそこそこしかないらしく、面白い様に吹き飛んだ。
落ちる二葉の背に手を差し入れ、そのまま着地した俊はお姫様抱っこのまま二葉を下ろし、ボールに当たった瞬間吹き飛ばされた太陽を見上げ、落ちてくるのを受け止めた。

「良し、楽勝だったな」

太陽のデコにタンコブが出来ていたが、主人公は見て見ぬ振りをする。ちょっとボールに投げつける時の力が強すぎた様だ。
だがまぁ、豪快な歯軋りをしている太陽は大丈夫そうなので、気にしない。

この程度ではないと困るのだ。
榛原の当主はこうでなければ、平然と人間を従えて心など痛まないとばかりに冷静を保つ事など、出来ないのだから。



「ごめんねィ、タイヨーちゃん。もう少し、我慢しててちょーだいな」

唇に笑みを刻んだ男は、落ちてきた後、真っ先に抱き止めた男へ目を向ける。手当てして転がしている皆を股越し、ふわふわと、踊る様に。
パンツ一丁で、破れたバスローブを胸元に巻いただけの姿だと言う事だけ忘れれば、この状況で笑えるのはまともには思えない。ただ、それを知る者はなかった。一人も。

「…寝顔も美人ね、カイちゃん」

にこにこと、艶やかなプラチナを撫でる唇は囁いた。
閉ざされた瞼を撫でる指は何処までも優しく、見つめる眼差しはまだ、優しく。

「真っ黒な地獄の中で、見上げた光の何と眩しい事か。歓びを歌え、雨はもう止んだ」

歌う様に、けれどただただ呟く様に。
それは囁き続ける。たった一人に。

たった一人、引き裂いたバスローブではなく自らの指で汚れを拭ってやり、自らの舌で汚れを拭ってやり、まるで甲斐甲斐しい召し使いの様に、傍らで。
目覚めを待つかの如く膝を着いたまま、飽きもせず静かに、眠る様を見つめ続けた。


「…雨は、止んだ?雨なんか、降ってたか?」

怪訝そうに、漆黒の眼差しは瞬く。
それまでの愉快げな雰囲気は消え、夢から覚めた様な表情だ。

眠る美貌を撫でていた手を弾かれた様に引き剥がし、眉間に皺を刻んでいく。

「す、すまん、俺みたいな地味平凡短足男が気安く触って、申し訳ない」

何に言い訳をしているのか。
自分でもそう思ったが、がりがり頭を掻いた所で、触るのが躊躇われる程に綺麗な顔をした男が瞼を開く事はなかった。

「…」

いかん、目が逸らせない。ならば見ない様に背を向ければ良いのだと、トランクス一丁でくるっと後ろを向く。トランクスで胡座をかくのは中々にスリリングだと思い、しゅばっと正座し、そのまま暫く瞑想する事にしたのだ。

「羊が一匹、ラム肉が二匹、手羽先が三匹…違う、手羽先は三羽だ、落ち着け遠野俊、お前の心には邪念が宿っているぞ…!」

童貞は混乱している。混乱したまま中国の歴代王朝を早口で数え、最後に中華が食べたいと宣った所で瞑想する事は諦めた。煩悩を消すのは無理だ。腹が減ってきた。我ながら燃費が悪すぎる。

「隼人、要、健吾、裕也…そうだ、イチを探してやらないと保健所に連れていかれ………ないか。忘れてた、イチは人間だった」

ああ、イケメンだ。流石は俺の可愛いワンコ、イケメン過ぎる。起きている時も寝ている時もイケメンとは許しがたい、紫綬褒章を与えまくりたい程だ。遠野俊モンドセレクション金賞だ。全員に金メダルチョコを投げつけてやりたい、いや違う、食べ物を投げるのは良くない。

「………邪念とは、よこしまな念と書いて邪念と言う。よこしまとは風邪の『ぜ』、禅が足りんぞ遠野俊…。お前は地味平凡短足ウジ虫だが、誠実な男であるべきだ…」

ぶつぶつ宣いながら、ちらちらと童貞は背後を盗み見た。
キラキラ輝いている様な白銀の眠り人は、何故か髪型がオールバックで、噎せ返る程のアダルトフェロモンを漂わせている様に思えたのだ。童貞には眩しすぎる。けれどついつい見てしまう。

不細工とは美人に憧れるものだと無理矢理己を納得させて、童貞は顔を両手で隠してみた。指の隙間から神をも恐れない超絶美人が見える。
何故だ、何故俺の指の隙間はこんなにも締まりがないのか。アバズレ過ぎる。童貞の癖に、指の股が弛すぎる。

「斯くなる上は、死ぬしかない」

キリッと、遠野家最強の馬鹿は宣った。
帝王院一族最強のジミメンは宣誓した。
その眼差しに一点の濁りなく、タオルブラジャーを帯で巻き付けたトランクス男は、つかつかと亀裂に向かって歩いていったのだ。

教室のほぼ半分はボールと瓦礫で埋まっていたが、残り半分のまだ半分は、ぽっかりと空洞が空いている。自殺するにはもってこいの穴だと思った。見れば見るほどに素敵な穴だ。

「穴…何だ、そこはかとなく卑猥な言葉な様に思えてきた…」

穴と言う単語が脳を支配し、俊はふるふると頭を振る。
邪念地獄だ。このままでは、童貞の癖に不埒な真似をしてしまう。何かそんな気がする。そう、不埒な事だ。

撫でるだけでは物足りず、つまんでみたり、本当に同じ人間なのかうっかりシャツの下を確かめてみたり、そんな口ではとても言えない事をしてしまいそうなのだ。
そんなご先祖に顔向け出来ない真似をする訳にはいかないと、大したご先祖など居ない男は真顔で宣う。先祖の方が余程変態だ。何せ子供を作っている。

然し、童貞はそんな事まで考えが及ばなかったらしい。
無駄に男らしい表情で、史上最高に奴はキリッとしていた。嵯峨崎佑壱を前にした高坂日向にすら、今なら負けまい。無論、勝てはしないが。


「綻べども咲かぬ蕾もまた、散りゆくものなり。遠野俊」

心は決まった。
辞世の句もしたためた。中々良かった気がしないでもない。遠野俊モンドセレクション銅賞くらいには滑り込めた気がしないでもない。
あ、いや、やっぱ参加賞だろうか。いやいや、そんな事はどうでも良いのだ。

パンツ一丁(と、胸巻き)で死ぬのは我ながらアレな気がしないでもないが、最後にあんな美人を近くで見る事が出来ただけで、心残りはない。
カルマがそれなりに誇っていたシーザーは、そんな童貞臭漂う事を考えながら、しゅばっと穴へと飛び込んでいった。目撃者は居ない。



「あ………あ〜ああ〜〜〜♪」

落ちていく彼がターザン気分で宣った台詞を聞いた者も、幸いな事に、この場には居なかったのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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