帝王院高等学校
さァ皆さん、約束の地へと急ぎましょう。
「お兄さん、こんな所で何してるんですか〜ぁ?」

例え新歓祭一般公開期間であろうと、決して開放しない完全非公開の領域がある。帝王院学園で最も有名なそれは、中央委員会管轄領域だ。
普段余りにも縁がないフロアに足を踏み入れようとしている今、緊張しない者はいない。帝王院学園の一般生徒は、だ。

などとガチガチに固くなった表情で、騒がしい部活棟周辺を避ける様に遠回りに遠回りを重ねて漸く辿り着いたのは、人気のない中央キャノン。
可能な限り人の目を避けたいと宣った癖に、堂々と廊下を進んでいく背を追い掛けていた三年Fクラス平田太一の背後から、何の気配もなくその声は掛けられた。

「ねぇ、お兄さん」
「な、何?!おみゃー、今どっから涌いて出やした?!」
「君じゃなくて、そっちの綺麗なお兄さんに言ってるんだよ」

平田よりずっと下にある円らな瞳、一見すると女子高生だろうと思われる女が冷や汗を垂らしながら振り返った平田越しに、ニマリと唇を吊り上げた。ただでさえ周囲を警戒しながら歩いていたつもりの平田にとって、何の気配もなかった事への驚きはひとしおだ。

「ふむ。さっきから執拗に気配を消してついてきた癖に、白々しい事を言うな」
「えっ?!」
「やだ〜、気づいてたのに知らん振りしてたんだ〜ぁ★カッコE★」

中央キャノン一階、ぐるぐると迷宮の様なフロアを巡り続けていた理由は、この女の所為だった様だ。
ただでさえ緊張していた平田は最早言葉もなく、見つめあう二人を恐る恐る窺っている。

「お兄さん、意地悪は駄目だよ」
「意地悪?」
「ステルスの回線を遮断してるでしょ?お陰でねぇ、スッゴく不便なんだ〜★」
「誰かと間違えているんじゃないか?」
「間違い?」
「中央キャノンは部外者立ち入り禁止だ。一般客は出ていってくれるか」
「え〜?部外者じゃないも〜ん。何で私が部外者だって判るの?お兄さん、先生じゃないでしょ?」

にたり、にたり、顔立ちは可愛らしいが、その笑みは背筋を凍らせる。可愛いものは女も男も愛でられる平田の額に滲む汗の粒が大きさを増したが、見つめあう二人は少しも狼狽えた様子ではなかった。白々しい程に。

「お兄さん、似てるって言われるデショ?あのね〜ぇ、学園長の息子がね〜ぇ、テレビに出てたんだって〜ぇ」

あざとい所か狂気さえ感じる、ねっとりとした声だ。
蛇に睨まれた蛙と言う言葉があるが、今の平田の心境は間違いなく蛙だろう。

彼女が何を言いたいのかは判らないが、彼女視線を平然と受けている男は『だから何』と言わんばかりの無表情だ。

「帝王院秀皇はぁ、私の大切な陛下の〜ぉ、でっかいでっかいお邪魔になるんでぇす。邪魔なものをお掃除しなければなりませぇん。オールキル★」
「俺は君を知っている。君は俺を知っている。嘘と真実と虚構と崩壊、日は緋に符は負に朝と夜と始まりと、終わり」

狂った女を前に、ひたすら静かな声で呪文の様な台詞を口にした男もまた、狂っているのではないかと思えた。



「Close your eyes.」

微かに細められた漆黒の双眸に、世界が凍る音を聴いたのだ。















時の流れは三つ。
(過去)
(現在)
(未来)

巡る四季は四つ。
(春)
(夏)
(秋)
(冬)


通りゃんせ、
通りゃんせ。

行きは良い良い、
 (往きは宵宵)
帰りは恐い。
 (還りは強い)



征けや征けや白日へ。
戻れや戻れ、落日へ。

世には黎明と落陽。
(通りゃんせ)
 (通りゃんせ)



未練は枷となり業として刻まれる。
未練を還せよ。
過去へ遡り浄化せよ。





全ては赦される為に。









(六芒星が交わる時)
(描かれる十二芒星は何を描く?)


(星か)
(太陽か)



(それとも、文字盤か)







おいでおいでと、雲の下から声がした。
丸い丸い目映い日を追って飛び続けて、たった一度、興味が雲の下に向かっただけ。

分厚い雲の下には海と大地が広がっている。
小さき小さき人が寄り添って暮らしている。
お日様が帰っておいでと呼んでいた。けれどどうしてももう少し、もっと近くから、彼らの姿が見たかったのだ。

「私は飛ぶ者。地に降りる事は出来ない」

ならば地を這おう。
大きすぎる龍ではなく小さき小さき蛇として、ああ。

お日様が泣いている。
だって知らなかったのだ。人は蛇に騙されて楽園から落とされた天使の末裔なのだと、人は罪深い咎人であるのだと、だからお日様の威光を与えられていないのだと、だから分厚い雲の下の暗い暗い世界だけしか赦されていないのだと。

「私は知らなかった」

私を神と崇めた人々が鋭い刃を振り上げた意味も、お日様が咽び泣く意味も、私の体が真っ二つに裂けた意味も、












そう、何一つ。








無知とは罪である。
罪とは神への反逆である。

嵐は神の嘆きである。
水害は人に与えられた裁きの試練である。

モーゼは海を割り人を導いた。
けれどモーゼは、人に課せられた108の罪を裂く事は、ついぞ出来なかったのだ。











「お前が星夜の息子か」

疲労の色を隠しきれていない、王となるべく産まれた男。
初めて彼を見たのは終戦の混乱の最中、父の一周忌を迎えた時だった。

「…お初にお目に掛かります。本来なら父を伴わねばならないご無礼、平に。俺…私は、」
「良い、子供が気を遣うのはよせ。名乗るのは私からだ」

慈悲に満ちた男だった。
家族と共に病院を失ったばかりの遠野夜刀には、正に天上界の住人とさえ思えるほどには。こんな子供の元にわざわざ挨拶をしてくれる様な相手には、余りにも思えなかった。

「悔やみが遅れた非礼、こちらがまず詫びねばなるまい。お前の父である星夜は、今のお前程の時分から知っている。我が名は帝王院俊秀、星夜の子の名を聞いても良いか」
「は…はい!畏れながら手前は遠野夜刀と申します」
「ヤトか。字はどう書く?」
「父の誕生間もなく死に別れまた伯父殿から頂戴し、読みを改めまして、夜の刀と」
「ああ、星夜の双子の兄の話は聞いている。夜の刀と書いて、何と呼んだ?」
「名をヤマト、遠野夜刀と書いて、ヤマトと申すものと生前の父から」
「そうか」

ひれ伏せた頭を上げるのが憚られた。
静かな俊秀の声は心さえ呑み込む様な、人智を超えた何かを秘めている。年若い遠野夜刀は、それでもせめて父を忍ぶ弔問の礼を返さねばならないと気丈に顔を上げ、父より年配の男をまっすぐ見つめたのだ。

「惜しい男を亡くした」
「勿体ないお言葉、光栄至極に。本人も草葉の陰で喜んでおりましょう」
「立花方は幸い、戦の被害は少なかった様だな」
「はい。沿岸に暮らしておりましたが、街の被害に比べるまでもなく、命あっての物種と申しております」
「今後は決めておるのか。病院を建て直すか、あちらへ移るか」
「…数年前に祖父の元に赤子が生まれました。名を夜人と申します。今は手前の弟として育てておりますが、いずれは父の病院を二人で建て直したいと考えております。とは申しましても分別のない子供の戯言、聞き流して下さいますよう…」
「良い。父に良う似て誠賢い男子だ、我が子もお前の様に聡明に育っておって欲しいものだ」

そう言った俊秀の元にもまた、息子が居るらしい。
聞くところによると夜刀より幾らか年上で、息子が産まれるのと時同じく、帝王院の屋敷は京都から東京へ移されたと言う。

「立花の先代と跡取りはどちらも兵に採られたと聞いたが、嫡男は残念だった」
「最高学府の卒業を控えていただけに、家族共暫く帰還を待ち続けていましたが、先日漸く、戦死の沙汰が届きました。戦死したのは22の春だったそうです。生きていれば、25になる頃でしょう」
「十重二十重に厚く弔ってやろう。愚かしき昭和政府の暴虐に振り回された、尊い犠牲を…」

元々は京都に大きな神社を保有していた帝王院は、二次大戦が始まる前、別の戦で日本が沸いていた頃に東京にも屋敷を構えたそうだ。
江戸時代には公家派は京都から出る事を許されなかった様だが、財閥化した関係で、明治時代の文明開化と共に首都進出を果たしていたらしい。今では東京で暮らしていると言う。

何処で父の死を知ったのか、見た事もない上等な車があばら家の前に停まっている光景は、余りにも現実味がない。今も、ふわふわと地に足がついていない感覚。

「私に出来る支援は惜しまないつもりだ。まずはお前の進学に懸かる全ての費用をこの私に負担させて欲しい。無論、今後進学するつもりがあれば、弟の分もだ」
「は?!あ、いや、その…願ってもないお話ではありますが、何故、そこまで…?」
「私は何も慈善をしたい訳ではない。ただ、代わりに、傷つき絶望したこの国を救ってはくれんか」
「は…」
「これは私にはどうにもならん重責だ。金が幾らあろうと、医者なくば怪我も病も治せはせん。希望なき国に明日はない。治癒なき怪我に明日はない。無能な老いぼれの頼み、叶えてくれんか」

深々と、彼は頭を下げた。
十代の子供に、自分の息子より幼い子供に、何の躊躇いもなく。

「い…医療を志す者が患者を救うのは義務、です。自分の様な子供に、畏れ多くも帝王院様自ら頭を下げられずとも…」
「間もなくお前は統べる者となろう」

この世の全てを見通しているかの様な漆黒の眼差しが、再び仏壇へと流れた。

「今は仕える身であれ。この私が仕えるに値しないのであれば、他の誰でも良い。仕える価値のある人間に」
「何を仰いますか!滅相もない…!」
「本来なら息子にするべきなのだろうな」

彼はともすれば無愛想にさえ思える顔立ちに、微かな笑みを浮かべたのだ。ふわりと、儚げに。

「娘に出ていかれ、間もなく授かった息子と引き換えるが如く、妻を亡くした。立て続けに家族を失い、住み慣れた京の屋敷を見るのも辛く、以降、生家には戻っていない」
「…お悔やみを」
「良い、遥か昔話だ」

それなら息子はどうしているのかと思ったが、それ以上彼が口を開く事はなかった。控えめに佇んでいた黒服の男達が「大殿」と言い、長く仏壇を拝んでいた男はゆっくりと立ち上がる。

「私が信用に値すると感じた折りは、連絡を寄越して欲しい。先程の言葉は偽りのない本音だ。支援は惜しまない」

差し出された名刺を受け取った。
何を言えば良いか判らず震える手で握り締めた名刺を暫く眺めていると、男は最後に、遠い何処かを見やり、目を細めた。

「この家には白き守り神が住まうか」
「………は?」
「或いは、誰かを待ちわびているのか…」

それはまるで独り言の様だった。




(彼は化物と呼ばれた男)
(化物に認められた鬼は人ではないのか?)
(夜の家から星が欠けていく)
(顔も知らぬ伯父)
(優しかった父)
(厳格だった祖父)


(得なければ失わない事を知った。)



早くに父を亡くし、跡継ぎである息子を亡くした母方の家と共に病院の再建に奔走しながら、遠野夜刀が最難関の医学部へ進んだのは18歳の春だ。
幼い叔父はすっかり夜刀を兄と信じ、小学校へ通い始める事になってから、千葉の立花に任せる事になった。去年体調を崩し床についている祖父の代わりに、今は義理の祖母に病院を任せている状態なので、介護と仕事と子育ては無理があるからだ。

幸い、立花の次男と夜人は歳が近かった。
未だに戦争の傷跡が深く残っている東京よりは、穏やかに暮らせるかも知れない。
そうは思いながらも、昨日まで「兄ちゃん兄ちゃん」とついて回った弟が居なくなるのは、兄としては信じがたい程のダメージだ。現役合格を果たす為に、死に物狂いで勉強浸けの生活を送ってきた夜刀の高校時代は、正に弟だけが癒しだった。


そんなやさぐれモードの遠野夜刀は、桜舞い散る四月のキャンパスで、颯爽と女性の視線を浴びた。
中学時代・高校時代、共に勉強と弟と時々家の手伝いで時間を費やしてきた夜刀は、自分の外見が女性受けが良い事をこの時に知った。

若さ故のプライドと言おうか、結局進学に必要な費用は、勉強と弟と家の手伝いでのそのまた合間に働いて働いて、夜刀自らが捻り出した金で賄った。
それは帝王院俊秀を認めなかったからではなく、逆に畏れ多過ぎて、真に受ける事が躊躇われたからだと言えよう。何か裏があるのか、揶揄だったのか、努めて夜刀はそう後ろ向きに考えた。そうでなければ初対面の子供に高額な支援をするなど、有り得る筈がないからだ。

ちょっと惜しかったかも…などとは、思わない事にする。



何にせよ、遠野夜刀のキャンパスライフは明るかった。
初めて足を踏み入れた大学の敷地内を、不特定多数の女性から視線を浴びながら闊歩し、入学式の会場へ向かう、その間だけは。



「な」

会場で遠野夜刀は感電した。ビリビリと。
学部ごとに分けられた席に、女性だけならず男からも視線を浴びまくっている、自棄に目立つ男が居たからだ。
男はピシッと背を伸ばし、椅子に座ったまま微動だにせず壇上を見つめていた。無論、予定時間にはまだ早い会場のステージには、誰の姿もない。

あの男の隣にだけは座りたくなかった。どうしても。
然し男を遠巻きに見つめている誰もが近づけないのか、僅かに離れた所から、けれど一時も目を逸らすまいとばかりに、その男を見守っている。夜刀にはその男の頭にウンコでも乗っているのかと思える程に、皆が彼を凝視している。熱すぎる目で。

故に、余りにも目立ちすぎる男は何故か隅っこに座っているにも関わらず、その隣の椅子を除いて全ての椅子が埋まっていた。後から気づいた事だが、別の学部の生徒も騒ぎを聞き付けて見物に来ていたのだろう。
夜刀はどうしてもあの男の隣には座りたくなかった。然し他の席が空くまで待ちたくもなかった。どうして俺が待たねばならないのか、そもそもあそこしか空いていないのだから仕方ない。何やかんや自分に屁理屈じみた言い訳をしつつ、渋々、心の底から渋々、夜刀は決意を固めた。

「おい。隣、良いか」

夜刀は努めて横柄に宣った。これが彼の他人に対するデフォルトコミュニケーションだ。
大先生と呼ばれていた夜刀の祖父、遠野一星は厳格で鬼の様に怖い男だが、その息子の星夜は若先生と呼ばれ、優しかった為に誰からも慕われていた。然しお陰様で悪餓鬼達からは「鬼の子は鰯」と揶揄され、幼い頃から医者になるべく勉強していた夜刀は度々苛められたものだ。

馬鹿はやる事も馬鹿。と、殆ど相手にしていなかったが、夜人が産まれるのと同時に、夜人まで苛められたら困ると、夜刀は悪餓鬼共を狩る事にした。極端な男なのだ。
然し遠野夜刀は喧嘩が出来なかった。勉強しかした事がなかったからだ。然し無駄に知識はあった。それなので、とても子供とは思えない嫌がらせをする才能を開花させる事に成功した。これが鬼の夜刀の所以である。

夜刀にいびられた悪餓鬼は胃を痛め、心を病み、次々と遠野診療所にやって来た。お陰様で儲かる。ガッポガッポ儲かる。一石二鳥だ。夜刀は苛めがなくなっても嫌がらせを続行した。理由は単に、儲かるからだ。
悪餓鬼共は優しい星夜が嫌いな訳ではない。だが一星は死ぬほど怖い。見た目も喋り方も、全てが怖い。出来れば診療所にはあんまり行きたくない。なので夜刀への苛めはなくなった。どころか、揃って夜刀の元を訪れ、涙ながらに許して下さいと声を揃えたのだ。

嫌がらせで稼ぐ術にハマっていた夜刀は、ちょっとやり過ぎたらしい。お陰様で祖父にバレて拳骨を浴びたが、反省など更々していない。先に苛めてきたのは向こうだったからだ。


そんな遠野夜刀は、自分が一番だと思っている。
生前の父が事ある事に「お前は親父そっくりだ」と言っていたが、一星と夜刀は確かに似ている。顔立ちも偉そうな態度もほぼ全てがコピーだ。ただ一星は嫌がらせなどしない。根は優しい男だ。

だが然し夜刀に慈悲はない。敵は敵でしかないからだ。
目の前に人が倒れていれば、祖父も父も躊躇わず助けるだろうと夜刀は思う。然し夜刀は、それが日本人でなければ恐らく助けないだろうと思った。札束を投げられたら判らないが。
長い苦学生時代に働きすぎたからか、夜刀は銭ゲバのレベルをカンストしていた。世の中はお金だ。高度経済成長の今、金さえあれば夜人にコロッケを喰わせてやれる。夜刀はコロッケが好きだった。米がなくても芋さえあれば腹が満たされる、正に最高の料理だ。



さてと。
話が華麗に逸れたが、遠野夜刀は決して目を逸らすまいと、皆の視線を一身に浴びている男を真っ直ぐ睨み付けた。
近くで見れば見るほどにいけすかない顔をしていると思ったが、どことなく威圧感を秘めた黒い双眸は、ちらりと夜刀を一瞥しただけで、すぐに壇上へと戻ったのだ。一言も喋らずに。

「…お前、この俺を無視するとはイイ度胸じゃねぇか!」

遠野夜刀は無視された事がなかった。無視するのはいつも夜刀の方で、それは相手が悪餓鬼の場合に限る。
がーっと怒鳴った夜刀は、再び目を向けてきた男が見事に整った容姿に僅かばかり困惑を滲ませたのを認め、どかっと隣へ座った。しゅばっと持ち上げた足を組み、わざとらしく肘を当てながら腕を組む。

「ふん、とんだ礼儀知らずが入ってきたもんだ。日本最高学府も落ちたもんだな」

わざとらしく大きな声で宣い、不特定多数の視線に晒されながら、夜刀はちらっと隣を見た。きょとんと夜刀を見ている男は、それでもまだ喋らない。

そこで漸く、夜刀は思い至る。もしかしたら耳が聞こえないのかも知れないと。それならば今の夜刀の態度は間違っているとしか言えないだろう。
謝るべきか、いや然し手話は詳しくない、どうしたものか。怒鳴った挙げ句に軽いとは言え肘鉄まで喰らわせて、今更どう取り繕っても遅すぎるのは誰にでも判る。

「な、何か言えよ、お前…」

だらだらと冷や汗を垂れ流した夜刀は然し、入学式の開幕を告げるアナウンスが響くなり口を閉ざした。ただでさえ周囲から好意的ではない視線を浴びせられており、これ以上の失態は己の為にならないであろう事を本能で気づいていたからだ。

『本年度新入生代表、帝王院鳳凰君』

日本最高学府の式典は滞りなく進み、新入生挨拶へと差し掛かった。
そこで呼ばれた代表の名に夜刀は軽く目を開くと、キョロキョロと周囲を見回したのだ。

文系を馬鹿にしている訳ではないが、理数学部の誰かだろうと思ったからだ。同じ大学でも学部ごとに偏差値の偏りがあり、倍率以上に医学部の偏差値もまた高い。
然し理数学部の偏差値は、その医学部よりもまだ、高かった。勉強だけで人生を費やす覚悟を持った変人でもない限り、希望しない学部だとすら思っている。

夜刀の知人にそんな変人が居た。
父の古くからの友人で、父が死んだ時に真っ先に駆け付けてくれた男だ。然し葬式に白衣を着てやって来た男は、何日風呂に入っていないのか、鳥の巣の様な髪型でわんわん泣いた。夜刀と祖父である一星がドン引きする程に、わんわんと。

「はい」

理数学部の方面を窺っていた夜刀が、ビクッと肩を震わせたのも無理はない。静かに立ち上がった隣の気配には気づいたが、すぐ近くから聞こえてきた嫌に威圧感のある声が、およそ人のものとは思えなかったからだ。



果たして、新入生代表の男は無駄のない所作で壇上に上がり、その恵まれた容姿で会場を支配した。
彼の挨拶をあの時まともに聞いていた人間などいないに違いない。老若男女問わず誰もがあの時、その美貌から放たれる王者の風格を秘めた声を呆然と聞いていただけなのだから。



遠野夜刀は思い知った。
この世には顔も頭も金にすら恵まれた男が存在するのだと。夜刀が認めざる得ない相手、帝王院鳳凰は帝王院俊秀そっくりな声をしていた。顔立ちは似ていなかったが、恐らく母親似なのだろう。

その日から鳳凰の信者が現れた。
帝王院財閥の一人息子と聞き付け、彼に近寄らない人間などほぼ存在しなかった。夜刀の様な例は珍しかったに違いない。

夜刀は鳳凰を存在しないものとして考え、学生生活を開始した。
同じ医学部を志す者としてライバル視するのは可笑しいと、己を納得させたからだ。


「あ?何だよ、初めての講義に帝王院鳳凰が居ないじゃねぇか…」

然し鳳凰は医学部ではなかった。
本が好きだと言う理由だけで文学部だったらしい。それを知ったのは、初めての講義だった。
それなら何故あの時、医学部の席に座っていたのか。何故新入生代表挨拶をしたのか。夜刀は混乱した。もしかしたら帝王院財閥の息子だから、大学が贔屓したのではないかと。


「テメェ、帝王院鳳凰ァア!面貸しやがれェイ!」

入学二日目、遠野夜刀は校庭で取り巻きに囲まれている帝王院鳳凰の前に立ちはだかった。幾ら俊秀の息子であろうと、不平等は許せない、それは祖父一星から受け継いだ正義の血でもある。
不平等…否、腐平等を眼鏡の底から愛している後の彼の曾孫には、その正義の血は受け継がれなかったと思われる。

「俺は遠野夜刀様だボケコラカスがァ!俺の目が黒い内は贔屓なんて許しません事ょー!!!」

鳳凰より10cmは背が高かった夜刀は、大学内でも長身の部類に入った。初日は鳳凰にキャーキャー騒いでいた女子達も、高嶺の花である鳳凰より、いずれ医者になる夜刀の方が現実的として、信者にはならず諦める事が多い。
医学部首席の遠野夜刀が学年首席の帝王院鳳凰に喧嘩を売ったと言う噂は、光の早さで広まった。

因みにこの時鳳凰は、夜刀が何を言っているのか理解出来ず、無言を通した。これによって夜刀の怒りはピークに達したが、コミュニケーション能力が0だった当時の鳳凰にそれを指摘しても、余り意味はなかったのではないだろうか。


帝王院鳳凰が初めて夜刀と話したのは、構内に野犬が住み着いたと言う噂が流れていた、梅雨明けの頃だ。
あの時代余り珍しい話ではなかった。今の様に室内犬は稀で、首輪すらつけていない犬が町中を彷徨う光景は、珍しい話ではなかった。

長雨で餌が満足に取れなかったのだろう。
犬が人を襲ったとして、射殺されたらしい。獣医学部が保有しているものだ。
けれどその犬には子供がいた。知っている女子生徒は可哀想だと嘆き、後味が悪い思いをしていた夜刀は子犬が捕まって処分される前に里親を探してやろうと、犬親子が住み着いたと言う図書館の裏に足を運んだのだ。


「腹が減っているだろう。だがそこで待ち続けても母犬は戻らない。何故ならば幾ら俺が待ち続けても、陽炎は戻ってこなかった」

遠野夜刀はその時初めて、まともに鳳凰の声を聞いた。
痩せ細る子犬が牙を剥きながら唸るのを前に、くたりと倒れた子犬を無表情で抱いている。
状況が把握出来ずに固まっていた夜刀に気づいたのか、彼はゆるりと振り返った。

「!」
「は…?」

そうして夜刀は、目を見開いたのだ。
はらはらと黒い双眸から滝の様な涙を溢れさせた男が、転がる様に駆け寄って来たら、無理もないだろう。

「俺はお前を記憶しているぞ遠野夜刀、お前は医者だろう!まだ息がある、この子を助けてくれ!」
「あ、は、や、え、ほぇ?!」
「頼む、この子を!」

どの子だとは流石の夜刀も言えなかった。
医学部一年、実習を控えた夜刀に犬の手当てなど最早不可能に近かったが、負けず嫌いな夜刀は頼まれたらノーと言いたくない男だったので、それはもう頑張ったのだ。
痩せ細って意識のない子犬を預かり、その子犬の兄弟犬から囓られたり吠えられたりしている鳳凰と共に、それはもう頑張ったのだ。

「良いか鳳凰、栄養だ!栄養さえあれば大体何とかなるもんだ!子犬に少しずつ根気よく水と粥を喰わせ続けろ!」
「承知した。したが、俺の指は使い物にならない。何故ならば子犬の牙で穴だらけになっているからだ。血が止まらない」
「そんなもんはちょちょいとヨードチンキ垂らしとけェイ!」
「む。痛い」
「痛いほど効いてるもんなんだ、我慢しろ」
「そうか」

こうして後に腐り果てたオタクを産み出す二人のマイペースは、ボロボロになりながら一匹の子犬を蘇生する事に成功した。獣医に言わせればかなり力業だが、若さ故の奇跡だったのかも知れない。

「お前、金持ちのボンボンの割りには中々やるじゃねぇか」
「ボンボンとは何だ」

この一件で夜刀は鳳凰になつかれてしまった。
夜人と離れ離れで寂しかった夜刀は悪い気がしなかったので暫く兄面をしたものだが、実は鳳凰の方が夜刀よりずっと年上だと知って、絶交を言い渡したのである。

単に、勘違いしていた気恥ずかしさからだと言っておこう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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