帝王院高等学校
いざゆかん!負け犬根性を叩き直せ!
何処かで音楽が鳴っている。
音がぼやけている様な気がするのは、古びたレコードの如く、酷い音飛びが混ざっているからかも知れない。

「…」

無人の遊園地。
見渡す限り色とりどりの艶やかな遊園地ならいざ知らず、白と黒のコントラストだけで描かれた景色は、まるで墨絵の様に現実味がなかった。

「あ。空だけ灰色だ」

首を伸ばし見上げた空は、ふわふわと柔らかそうな雲が泳いでいる。きっと色がついたら真っ青な空なのだろう。けれど目に映るのは、グレーの空だった。


きょときょとと見渡してみても、人の気配はない。
音飛びの激しいBGMに混ざり、がやがやと人込みの喧騒が聞こえてくるのに、誰も居ない。
メリーゴーランドも観覧車もカラカラと回っているのに、ジェットコースターもコースをぐるぐる回っているのに、此処には自分しか居ない様だった。

わざわざ無駄に広い敷地を隅々まで確かめる必要はない。
何処まで行こうと自分はきっと一人だ。いや、絶対的に。

「久し振りに見たなー、この夢」

寝ている時、人は何処までも無防備だ。
起きている時間の方がどうしても長くなるのは単純に、この意味のない夢を見たくないからだった。
けれど今日はいつもより酷い。いつもは無音で、いつもは全てが綺麗な灰色なのだ。

けれど今、空以外の全てが白と黒だけで構成されていた。
輪郭のない景色は、影絵の様にさえ思える。

「ふーんふんふん、ふんふんふーん♪」

ああ、暇だ。
退屈で退屈で仕方ない。この夢はいつも、恐ろしいほど長いのだ。たった一時間程度の仮眠でも、体感は一日程度。一人きりの音のない夢がどれほど退屈か、見た事のある人間にしか理解して貰えないだろう。

「あ、これってもしかして、かごめかごめ?」
「当たり」

色のない遊具をぼんやり眺めながら、お世辞でも上手いとは言えない平凡な鼻歌を歌っていた山田太陽は、聞いた事のある童謡だと気づいた。
独り言の様な呟きに、かなり近い所から返事があったので顔を上げる。

「何だ、お前さんもいたのかい」
「いるよー。だってここはアキちゃんの夢だもん」

今よりずっとずっと小さい自分が、メリーゴーランドのカボチャの馬車らしき輪郭からひょっこり顔を出していた。それには綺麗に色がついていたので、景色と同化する事はない。寧ろくっきりと小さい自分の顔だけが浮き上がって見える程だ。

「ねー」
「何だい?」
「アキちゃんの魔法ね、もう掛かってないよー」

ぐるぐる、メリーゴーランドの割りには早い速度で回り続けるカボチャの馬車。一言を告げては通り過ぎていく幼い自分を暫く眺めてから、太陽は下がり気味の眉を寄せた。

「解けたってコト?そんな筈はないよ、俊は記憶がないんだ」
「あのねー」
「…」
「帝王院のねー」
「…」
「魔法がねー」

ぐるぐる。
ぐるぐる。
ちょっと早すぎるのではないだろうか。たった一言言う度に通り過ぎていく速度は、余りにもメリーゴーランドとは掛け離れている。寧ろコーヒーカップの様だ。

「使えるのがねー」
「あのさー、お前さん、降りたら?」
「はーい」

まともな話にならないと溜息混じりに吐き捨てれば、元気な返事と共に、目の前に今の今まで馬車に乗っていた子供が立っている。
然し、山田太陽はこの程度で驚く様な性格ではない。何せ相手は自分だ。

「で、何だって?」
「あのねー、帝王院のねー、魔法がねー」
「何だろ、メリーゴーランドから降りても苛々するかもー」
「使えるのがねー、一人とは限らないよねー?」

がりがりと頭を掻いた太陽は、にこにこと愛想の良い幼い自分を見つめたまま、一つ瞬いた。

「俊以外ってコトだろ?遠野課長も使えるんだ」
「あはは。違うよー」
「違うって、何がさ」
「朝と夜がある様に、表には必ず裏があるでしょ?」
「そうだね」
「だったらね、空蝉もそうなんだよ」
「何だよ、いきなりそんな話」
「始まりの『は』、Hの系譜は『緋』と『符』」

耳障りなBGMが音を増した。

「王には影が存在するんだ。帝王院と灰皇院の様に、必ず」
「何が言いたいのかなー?」
「光の系譜は集ったよ。自分を否定されて、あとは狐狗狸を揃えるだけ」
「へー。それって、何かコックリさんみたいだねー」
「あのねー、にゃんこがいたんだよー。にゃんこがねー、アキちゃんを見てねー、ゴロゴロってねー」

かごめかごめ、下手なオーケストラが奏でる不協和音。
ああ、まるで音響式信号機の様な音が、飛ぶ、飛ぶ、耳障りなまでに何度も、何度も、何度も。

「にゃんこは仲間外れなんだって。ね、呼んでもね、すぐには来ないから可愛いんだって。しーくんがゆってたんだ。アキちゃんはね、にゃんこなんだよー」
「そんな事言ってたっけ」
「しーくんはワンコだから、アキちゃんのお友達にはなれないんだよねー」

にたり。
目の前の子供の唇が、顔半分を覆い尽くす程に吊り上がった。

「うーん。ホラーだねー」
「あはは、アキちゃんは仲間外れにならなきゃいけないんだよっ。あはは、あははははは!だってね、アキちゃんはね、星座にも干支にも入れないんだもん!あははははは!あははははは!あははははは!!!」

ごろごろと、笑い転げる自分をただ、眺めている。
何の感慨もない。いつかこれに呑み込まれるのではないかと怯え続けて、感覚が麻痺したのかも知れない。

「お日様、まーるい、まーるい、お日様♪アキちゃんの名前、変だね、変だね、だってね、灰原は灰色なんだもんね」
「そうだね。帝王院の影、皇は朝でも夜でもない灰色の家名」
「あのねー、緋はねー、血の色なんだよー。だからねー、帝王院はねー、いつもいつも真っ赤なんだよねー。血がねー、繋がってるからねー」
「お前さん、何が言いたいんだい?」
「お前さんの足元には何色の影があるのかな?」

ニタリ、ニタリ、ニタリ。
とうとう顔中が唇で覆われた子供の台詞に従うまま、太陽は己の足元を見た。



「うん。何にもないや」

ああ。
白と黒の世界。灰色の空。なのに自分の影など、そこには存在しない。

「緋色の王は裁かれるんだって。あのね、狐も狗も狸、地を這う犬だからー」
「イヌ科だからってコトかい」
「だったらアキちゃんは、何だろうねー。にゃんこ。にゃんこはね、バステト。女の神様なんだよ」
「ばすてと?」
「バステトの正体はライオン。雄の代わりに狩りをする、牝ライオン。大好きな人の為に何でも出来るんだよ。浮気されてもね、許せるんだよ。だってね、ライオンはね、ハーレムを作るんだもん」

耳障りなBGMに、いつの間にか歌声が混ざっている。
化物の様な表情で笑い転げる子供を真っ直ぐ見つめて、太陽は瞬いた。

「判った。俺は、灰色の皇なんだね」
「あははははは」
「偽りの光のドレスを脱いだ本質が、お前さんなんだろ。きっと」
「あははははは!アキちゃんはにゃんこ!気紛れなにゃんこ!しーくんはね、アキちゃんのことをね、可愛い可愛いってゆったんだよ。なのにね、アキちゃんがちょいと余所見してる間にね、他のにゃんこを見つけてしまったんだよ。酷い。酷いよね。でもね、アキちゃんはね、しーくんを許してあげたんだよ」
「そう」
「だってね、しーくんはね、王様なんだもん。だってね、アキちゃんはね、皇なんだもん。皇帝にはなれないただの皇、東に追いやられた灰色の榛原」
「…そっか」
「十口だけがね、許されたんだよ。裏切った癖にね、宮様からね、屋敷を託されたんだ。だから叶には四つの宮がある。龍の宮、明の宮、宵の宮、月の宮」
「うん、お前さんは良く知ってるね。それって、お祖母ちゃんから俺が聞いた話とおんなじだ」

いつから。
いや、もしかしたら初めから。
目の前の子供はずっと、ただひたすら今の今まで機会を窺っていたのかも知れない。いつか山田太陽を喰らい尽くし、榛原太陽として生まれ変わる為に。

「しーくんがゆってたでしょ?離れ離れになった皆を、集めるんだって」
「うん」
「だからね、お前さんはもうね、要らないでしょ?」
「そうなのかな」
いばい、偽物のアキちゃん」

今、漸く気づいた。
色のない世界でそれだけが唯一、真っ赤である事に。ニタリニタリと笑む、その大きな唇だけが、色を持っている事に。



やだね

だから山田太陽は笑顔で吐き捨てた。
ぴたりと動きを止めた子供の前までつかつかと歩み寄り、決して長くはない足を振り上げて、無邪気な微笑みを浮かべたまま、躊躇わず小さい顔を踏みつけたのだ。

「黙って聞いてれば、お前さんは誰に口を聞いてるんだい?子供は子供らしく、いつまでもこのクソつまんない遊園地で遊んでなよ」

ぐりぐりと、子供の頭を踏み潰しながら笑顔で吐かれる言葉は柔らかい。

「口裂け女じゃあるまいに、お前さん気持ち悪いんだよねー。大体さ、俺の顔で勝手な整形しないでくんない?」
「や!離してよー!やめてよー!痛い、痛いよー…!」

猫の様なアーモンドアイで弧を描き、甘える仔猫の様なあどけない表情で、けれど何処までも平坦な声音を奏でる太陽は、耳障りなスピーカーへと目を向けた。
足はとめどなく踏み潰し続けている。離せと暴れ回る幼い肢体は、庇護欲を刺激される様な涙声で、今も尚。

「あんま喚かないでねー。これ以上耳障りな音出されるとさー、殺したくなるやないか〜い

ぶちりと。
切れたスピーカーと同時に、足元からも同じ様な音がした気がする。



「あ。
 小さな猫ちゃんが死んじゃった。…可哀想」

太陽と同じ名を持つ男はただ、その瞳に笑みを描いた。

















嗚呼。



私は落ちる。
落ちる。
落ちる。



…堕ちる。







何処へ?











桜だ。
見事に満開の真っ白な山桜が、たった一つ。けれど艶やかに咲いている。

「…風流ですねぇ。四月の末だと言うのに」
「こんにちは」

そう宣ったのは、金髪の男だった。
金髪は見慣れているが、高坂日向と同じ生まれながらの艶やかなブロンドは濃い程に目映く、甘い甘いサファイアの双眸とのコラボレーションが彩るコントラストは、目に痛い程だ。

「こんにちは?」
「うん。こんにちは」

さりとて、今の今まで見ていた光景が、突如として全く違う光景に擦り替わっている事に気づいた男は、然し少しも表情を変えないままゆったりと首を傾げる。
何の前触れもなく現れて挨拶をしてきた男に対しての返答は、別に挨拶を返した訳ではなかったが、相手は満足げに頷いて整った顔に笑みを浮かべた。

「私の18年に満たない記憶で何度か、その顔を見た事がありますよ」
「そうなんだ、覚えててくれて嬉しいな」
「貴方を黒目黒髪に染め変えると、冬臣兄さんに余りにもそっくりなのでねぇ。忘れようにも忘れられないと言った方が、ある意味では正しいのかも知れません」
「君はお母さんにそっくりだね、二葉」

趣味の悪い夢だと思ったが、それにしては小説かドラマか、普段の自分が考えもしない生々しさだ。死人が生きているかの様に、目の前の男は姿形も声もはっきりとしている。

「この目は倫理に反して産まれた子の証、などと考えた事がありました」
「酷いね。君の目は、僕にそっくりじゃないか」
「そうですねぇ。貴方の父親はヘーゼルだった」
「うん。僕は母親方に似たんだ。だからお母様の瞳と良く似ている。産みの母親と育ての母親は、従姉妹に当たるから」

長閑だ。舞い散る純白の花びら、たった一株とは思えない大きな幹に繁る花の、何と豊かな事か。けれど散れば終わりだ。
後は汚れて、干からびて、誰からも見向きされずに風化していく。

「そう言えば先程、貴方の偽物が現れましたよ。技術班のアンドロイドよりずっと生々しい、偽りの人間体で」
「困ったな、僕は僕しか居ない筈なんだけどな」
「何も困らないでしょう?冬臣兄さんの魂胆通り、我が家は帝王院に従う振りをして、私をステルスから切り離す事に成功しました」

叶二葉はいつもと何ら変わらない、完璧なまでの愛想笑いで腕を組んだ。
これが夢だろうと幻覚だろうと、自白剤を打たれた程度ではいつもと変わらない訓練を受けてきた自分にとっては、余りにも些細な事だ。

「私に与えられた力に怯えているからでしょう。私が邪魔になっても、本来なら、彼らには私へのアポイントメントさえ満足に取る事が出来ないのです。それが実の兄であろうと」
「…悲しい考え方をするね」

人の気配があれば目を覚ます。
どんな状況にあろうと、殺気には殺気を。ほんの少しの油断も許さず。

「感謝しているんですよ、これでもねぇ。高名なヴィーゼンバーグの聡明な脳を与えられ、少々では死なない叶の体。お陰様で面白おかしく暮らしています」
「それは良かった」
「だから貴方は何の心配もなく死んで下さい」

二葉は手袋越しに眼鏡を押し上げた。
遺影でのみ見た事のある両親と姉が生き返れば良いのになどと、ただの一度も考えた事がないからだ。

「お前には和が足りない様だ」
「和とはまた、風流な事を仰いますねぇ。親だからと言って子供を所有物の様に呼ぶ。貴方はまるで日本人の様ですよ」
「僕は宮廷がどうにも苦手でね。マナーとか作法とか、そんなのが嫌で嫌で仕方なかったんだ」
「うふふ。変な人ですねぇ。それなのに、マナーにも作法にも煩い日本に帰化したんですか?」
「そうだよ」
「高々、少しばかり見た目が良い女の為に?」
「違うよ。桔梗ちゃんは、全部が素晴らしい女性だった」
「おやおや、死人にのろけられるとはねぇ」
「ごめんね?」

全く、この世には想像も出来ない事が起こるものだ。
これが夢なら目の前の男が山田太陽とは似ても似つかない理由が判らないし、幻覚であれば少々錯乱していても可笑しくはないだろうが、今の所、思考回路ははっきりしていると思う。

「お前は怒ってるのか違うのか、判り難いなぁ。京都の人は皆そうなんだ。笑いながら怒る」
「私をお前と呼ぶのはやめて頂けますか、二度目ですよ」
「ああ。そうか、今のは僕が悪い」

試しに円周率でも唱えてみようか。一日では足りないだろうが。

「桔梗は体が弱くて」
「ええ、知っています」
「お義父さんは、桔梗を家から出す事を嫌った」
「その様ですねぇ」
「僕らが知り合う前、桔梗は臓器移植を受けた。不慮の事故で亡くなったお義母さんの遺言通り、たった一度だけ、アメリカで」
「………は?」

こんな話は知らない。
知っているのは、イギリスから留学名目で日本にやって来た父親が母親と出会い、様々なコネで帰化した事くらいだ。

やはり幻覚ですらないだろうか。
だったらこれは自分の妄想が描いた夢なのだろうかと、叶二葉は目を細めた。流石に少しばかり混乱してきたのかも知れない。

「桔梗の具合は思わしくなかったんだ。お義父さんは、奥さんと娘を同時期に亡くすかも知れない恐怖に苦しんでいた」
「まぁ、宜しいでしょう。起きろと思っても起きないのが夢、目が覚めるまでの暇潰しに聞いて差し上げますよ」
「これは夢じゃないよ、二葉」
「おやおや、それでは何なのでしょう?」
「神の脚本なんだ」
「おや?」
「今は日蝕の間際。月が太陽を呑み込もうとしている、最後の凪ぎ」
「文学的な表現ですねぇ。つまり嵐の前の静けさと言う事ですか?」

にこりと、男は微笑んだ。

「桔梗ちゃんはA型じゃなくAB型だった。知らなかっただろう?」
「…今更、それがどうかしましたか?貴方はO型ですよねぇ、アレクセイ=ヴィーゼンバーグ閣下」
「桔梗ちゃんが教えてくれたんだ。O型は行動力があるんだって」

白々しい愛想笑いを得意とする兄とはまるで違う、無邪気な笑い方だ。これがヴィーゼンバーグ公爵だったのかと疑うほどには、余りにも毒気がない。

「守矢は僕を今でも恨んでるかな」
「知りませんよ。あの人は未だに小林の姓を名乗ってらっしゃる、我が家とは無関係な人ですからねぇ」
「お義父さんも守矢も、桔梗の事が大切で大切で、大事に仕舞い込もうとした。間違えんだ」
「間違えた?」
「初めて見た外、初めて見た異国に憧れて、桔梗は家出をしようと企んだ。どうせ長くないなら死んでも構わないから、もう一度、アメリカに行きたい。それが彼女の望み」
「…初耳、と言いたい所ですが、彼女に海外への渡航歴はない筈ですよ?」
「あるよ。一度だけ、彼女は遠い身内に会った。それが、僕らが出会った切っ掛けでもあるんだ」
「誰ですか?」

足音が、背後から響いてきた。
今度は誰だと振り返れば、黒髪の女が立っている。

「ふふ。こんにちは」
「貴方はどなたですか?」

ああ、平凡な顔の女だ。

「不忠の由来は、二度と不義を犯さない戒め」
「ふさただとは私の祖父の名ですねぇ」
「叶が裏切る事など有り得ないのに」
「おやおや、何が仰りたいのか理解に苦しみますが」
「天神の子は天で産まれるそうよ。馬鹿みたいね」
「困りましたねぇ。古今東西、先の見えない株と話の通じない女は手に負えません」
「お父様には黒い女が見えるそう。私にも見えるわ」

頭の痛い子なのだろうと愛想笑いで目を逸らした二葉は、先程まで居た筈の、遺影で見た父親と同じ顔をした男が居ない事に気づいた。

「手の込んだお芝居ですねぇ…」
「あの黒い影は人の罪を視ている。じっと、其処に在るだけ」
「怪談ですか?余り得意ではないんですよねぇ」
「あの影には人の死を操る力なんてなかったの。けれどそれが強く存在を放つのはいつも、死に絡んだ時なのよ」
「殺した人間が生き返るなんて話が有り得れば、我が家の商売は上がったりですよ」
「十口が首を跳ねるのはいつも、罪人だけ」
「…そうですとも。警察と言う組織が設立された頃、叶の役職は死刑執行官でした。司法が整っていない頃のねぇ」
「誰にも言ってはいけないのよ。お父様は仰ったわ、化物と謗られるのは自分だけで良いと」

ぶわり。
平凡な顔立ちの女が桜の花びらと化し、はらりはらりと散った。背後に撒き散らされた花弁には気づいていたが、そこには先程まで父親を演じる金髪の男が立っていたのだ。

「十口であれど、能力のある者は姓を名乗る事が許される」
「…おや」
「我が兄、愚かしき芙蓉の様に」

女が砕けた花弁の褥の上に、今度は艶やかな黒髪の幼い子供が現れた。
それは徐々にゆらゆらと揺らめき、陽炎の様に成長していく。そうして最後には白髪の老人へと姿を変えたのだ。

「お祖父様?」
「叶に二度の罪は許されん。良いか、お前は宮様に逆らってはならんのだ」
「ですから、私は今の今まで己を犠牲にして陛下に仕えて参りました。この天に愛された美貌を多忙なスケジュール故に度々疲労で染め、何人の老若男女が心を苦しめた事か…」
「榛原は一血で続く。誰とも混ざらず誰とも関わらず、常に榛原は灰のまま」
「…おや。漸くハニーに関する話ですか?」
「芙蓉は十口を離れ、雲隠を名乗る事を約束された。それなのに大殿を裏切り、何故、我らを奈落へ陥れたのか」

ああ、また、それか。
芙蓉、叶芙蓉。帝王院の娘と駆け落ちしたと言う、祖父の腹違いの兄。

「クモガクレだか雲まみれだか知りませんが、ハニーが出てこないなら聞きませんよ。この私の5分は、億の金が動くのです」
「裏切る勿れ。桔梗の様に、容易く赦してはならん」
「顔も知らない母親の様にと言われましてもねぇ」
「裏切る勿れ」

何度同じ事を言うのか。
まるで呪いの様だと息を吐いた瞬間、それこそ顔も知らなかった祖父の胸元から、桃色の花弁が吹き出すのを見た。


「な、」

舞い散るなどと言う、可愛らしいものではない。
間欠泉が噴き出す様に弾丸の如く、それは吹き荒れたのだ。二葉の存在ごと、まるで呑み込まんばかりに。

「………幾ら薔薇も霞む美しい私とは言え、此処までフラワーシャワーの洗礼を受けるとは、夢にも思いませんでしたねぇ…」
「私の子は元気にしているだろうか」

女だ。
またも女の声がすると目を上げれば、真っ赤な髪の女が立っていた。

「おや。アマゾネス?」
「何の才もなく十口へ落とされた、私の息子は」

ぱちぱちと二葉が珍しく瞬いたのは、女の割りには筋肉質だったからだと言っておこう。鍛え抜かれた体躯には豊かな胸がついている。結構なサイズだ。

「ふむ、山田太陽君のお母様に負けず劣らず。然し私は、ハニーの退廃的なまでにぺったんこなお胸が三度のフレンチトーストより好きなのです」

ふっと紳士的な笑みを浮かべた二葉は眼鏡を押し上げ、意味もなくくるっとターンを決めた。

「シス」
「はい?」
「シスAB型と言う血液型を、貴方はご存じ?」

無表情な女が、ゆらりとぶれる。
また陽炎の様に揺れた人の形は、溶ける様に黒髪の女へと形を変える。先程の赤毛の女とも、その前の平凡な女とも似つかない、恵まれた容姿の女だ。

「陽炎さんが仰ったの。旦那様の血は、大層珍しいそうよ」
「コロコロコロコロとまぁ、七変化ショーですか。性悪だの二重人格だのあらゆる誉め言葉を頂いてきましたが、これを見るに、本当に私は多重人格なのかも知れませんねぇ」
「それはとても素敵ね、二葉さん。レディーはお化粧とドレスでおめかしをしないと、人様の前には出られないのよ」
「おや、私には神に恵まれたこの美貌があります。化粧も衣装も薔薇ですら、この私を彩る要素にはなり得ないのですよ」
「あら、そうなのね」

ぱちんと、美貌の女は嬉しそうに手を叩いた。見た事のない女は名乗らない。当然だ、遺影の中の両親ならばともかく、エキストラに名などある筈もないのだから。

「あらあら、私はエキストラではないわよ」
「おや、それは失礼しました」
「ねぇ、旦那様の愛人になってちょうだい」

にこにこと、女は宣った。
二葉の思考を読んだかと思えば唐突に意味の判らない事を宣い、若干、いや、かなり頭に来る様な気がする。所謂デンパは、男も女も好きじゃない。

「残念ですが、私には山田太陽君と言うそれはそれは素敵な王子様が居るのです。出直して頂けますか?」
「どうして?朝と夜は結ばれないのよ」
「は?」
「だって貴方は宵の宮じゃない」

柔らかく微笑んだ女の背後で、ぶわっと桃色の花びらが舞い踊った。
それはまるで真紅の翼の様だと思った瞬間、どすりと。二葉の左胸に何かが刺さる様な感覚が、沸き起こったのだ。


「………おや?」

じんじんと、痺れる様な感覚。
何だこれはと暫く己の胸元を見つめた。

ああ、そう言えば、自分は浴衣を着ていた筈だ。いつも通り、寝間着代わりのものを。
なのに今は、何故か制服を着ている。見慣れた白のブレザー、胸ポケットの縁を這う刺繍の下に、突き刺さる銀色の十字架は、何だろう。

「ねぇ、痛いでしょう?」
「…痛い?そんな筈がないでしょう、私には、痛みを感じる神経がないのですから」
「だったらどうして、貴方は座り込んでいるの?」

無邪気な問い掛けに二葉は瞬いた。
ああ、本当だ、いつの間にか膝をついている。屈み込んだ覚えなどないのに何故、腰が崩れているのか。

どくり、どくりと、左胸が脈動を伝えてきた。
どくり、どくりと、滴る真っ赤な液体がブレザーを汚していくのを見ている。

「何が…」
「ねぇ、芙蓉さんがどうして雲雀お義姉様を選んだのか、私には判るわ。だって家族だからよ」
「おねえ、さま…?」

息が勝手に荒れていた。
呼吸が浅い。肺から酸化した酸素ばかり排出されて、新しい酸素が間に合わない様な気がする。

「緋の系譜は血が犯した罪を灌ぐの。そうして負の系譜は血に罪を刻み続ける。それは王と影。正しくあるべき王の犯した罪、それこそが灰皇院の全て。
 貴方は影なのだから、王に赦しを乞わねばならないのよ」

空気。
空気は何処にある?
普段は意識せずとも勝手に注がれてくる空気は、今、何処にあるのだ。

「貴方はタナトスの子。貴方は死神の花嫁。だから旦那様にお願いして、赦して貰わなきゃいけないわ」
「何、を、訳の判らない事を…」
「犬なのに猫と呼ばれて喜ぶなんて、変だもの」

燃える様な真っ赤な翼で舞い上がった女が、一匹の猫を落としてきた。
毛並みも瞳も真っ黒な猫は黒い炎を放ち、また、陽炎の様に揺れながら人の形を描いていく。


「ねぇ」


ああ、悪夢だ。
愛しい人に良く似た黒髪黒目の彼は、産まれたままの無防備な姿で佇んでいる。真っ直ぐに二葉を見つめてくる瞳は、裸体と同じく無防備なほど後ろに気づかない。

「ふーちゃんの大事な仔猫ちゃん、貴方のお家は何処ですか?」

その背後に、真っ赤な翼をはためかせた女が降りてきた。
美しい女だが、先程の女とは全く顔が違う。今度のそれは、遺影の中で見た母親にそっくりだ。

「ねぇ、二葉。猫は裏切るから殺してしまおうよ」
「や、め」

太陽の背後に降りた女は、巨大な鎌を持っていた。まるで死神の様に。
蒼い眼差しを歪めて、見惚れるほど艶やかに笑っている。一言も喋らないマネキンの様な太陽の背後で。満足に喋る事も出来ない自分の、眼前で。


「二葉は良い子だから、嫌なんて言わないよねぇ?」

サファイア。
つい最近、それもほんの近い日に、それを見た覚えがある様な気がした。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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