帝王院高等学校
やるせない事態に遭遇したら探求心で!
「何なのこのジェラート…?!うっま」

ぶるんと弾けた巨乳。タイトなワンピースを纏った女は、レンズが無駄に大きいサングラス越しに艶やかな色合いのジェラートを見やる。
ぎゅっと握り締めたスプーンでざくざく掬い、かぱかぱ食べ進めていく早さは、確かに彼女の感動を伝えていた。

「はー…。朝からベーグルとジェラートなんて贅沢なんだわー」
「食べ過ぎだよ、アンタもう若くないんだからさ」
「あんだって?お母様に向かってその口の聞き方はなんなの、山田夕陽。そこに直れ」
「何だよそのテンション。うざいんだけど」

朝早くから叩き起こされたらしい美貌の息子は、母親とは違い素っぴんでもサングラスなどは掛けていない。

「さっきの子、感じ良かったんだわ。ほら、アンタのとこの副会長さん。二年生なんだっけ?」
「ほんとアンタって顔さえ良ければ良いって感じだよね、あのデカいだけの男が気に入ったわけ?」
「言い方に刺があるんだわ。ただ、礼儀正しくて好青年だったって言ってるだけじゃないよ。めっちゃイケメンだったし」
「ルーイン=アラベスク=アシュレイ、中等部から入ってきた留学生だよ。まだ2年ちょっとだけど、二年進学科の次席だから、首席の遠野会長に気に入られたみたいだね」
「遠野和歌君、会えなくて残念なんだわー、イケメンクォーター会長見たかった!」
「大きな声出すなよ、恥ずかしいな」

彼らは朝から賑わっているアンダーラインから外に出て、並木道沿いに設えてあるオープンテラスの様なテーブルつきのベンチを占拠し、優待チケットで手に入れた様々な料理に舌鼓を打っている。とは言え、元気良く腹へ納めていくのは母親だけで、息子は甘めのコーヒーを舐めているだけだ。

「ここだと隼人君とかカナメ様に会えると思ってたんだけど、来ないわねー」
「ちょっと、カルマカルマ煩いよ。自分が興奮して寝らんなかったからって、人のこと起こすし…」
「こんな広い学校でお母さんを一人にしてアンタ平気なわけ?そもそも男子校なんだわ」
「何が言いたいんだよ」
「襲われたらどうすんの?」
「ああ、相手が?」

空になったジェラートのカップが飛んできた。
辛うじて避けたが、山田夕陽の額にぴちゃりと溶けたジェラート液が振り掛かる。

「きったな!」
「はー。陽子ちゃんつまんないんだわー」
「は。誰が陽子ちゃんだか」
「殴るわよアンタ。隼人君のLINEにメッセ送ったけど反応ないしー」
「浮気や遊びは好きにすれば良いけど、アキちゃんに迷惑掛けないでよ。同級生が新しい父親になるかもなんて考えたくもないね」
「えー。カナメ様はともかく、隼人君は旦那にしたい感じじゃないのよねー。見た目はパーフェクトなんだけど、ちょっと気を使いすぎなんだわ」
「見た目も中身も完璧なオバサンから言われたくないだろうね、あっちも。僕から見れば、錦織要の方が扱い難そうだと思うけど?神崎隼人はただの馬鹿だろ」
「判ってないのねー、アンタ。これだから童貞は…」
「あのさー、僕が童貞でアンタに迷惑掛けた?」
「アンタは人間嫌いだから結婚は無理かもね。下手したら太陽の方が、やる事やってんじゃないの?」

呆れ半分、足元に転がったカップを拾った。投げた張本人が知らん顔で緑茶を啜っているからだ。

「僕の兄さんを勝手に汚すなドブス」
「あはははは、やだわー、誰が何だって?あはははは、今の大空に言っとくから」
「…マジ女を見る目ないよね、父さんって!」

テーブルの下、身長を補う高いパンプスを履いた母の足が、ぐりぐりと息子の爪先を踏んでいる。此処で山田太陽ならば「あはは太ったねー」とでも答えるのだろうが、山田夕陽は何事もなかったかの様に足を振り払って遠ざかっただけだ。
痛いと騒ぐのも、やり返すのもプライドが許さない。

「そろそろ起きたかしら、あの子」
「アキちゃんは左席委員会の副会長なんだから、きっと疲れてるよ。朝9時からオバサンの顔なんか見たくないんじゃない?」
「ほー。アンタ、ここで吊るされたいんだわね?」
「そう言や、近頃は横暴な嫁に愛想を尽かして離婚したがる夫が増えたそうだね?」
「はっ。離婚、離婚ねー?名字が山田から村井に戻るだけだわ。だから何?って感じー」
「あっそ」
「お義母さんから頼まれてるから、我慢してきたとこもあるし」

何の前触れもなく呟かれた台詞に、山田夕陽は眉を潜めた。母親は父子家庭で育った為、母方の祖母は居ない。己の母親を毛嫌いしている山田陽子が口にする「おかあさん」が他に存在するとすれば、それは父方の祖母だろう。

「え、それって美空お祖母ちゃん?」
「そーよ。大空は縁切ったつもりなんだろうけど、お義父さんも時々連絡くれるわ。父さんとたまに釣りに行ったりしてるって」

つまり、両親の祖父同士は定期的に連絡を取り合っているらしい。夕陽に続いて太陽が寮生活を始め、それまで同居同然に暮らしていた母方の祖父は、近畿支社が出来てから取締役として飛んでいった。と言っても数年前に名目上引退し、今は相談役として出社しているらしい。

「長良川の写真を撮るのが楽しみらしいんだわ。そう言えば、会社に出てるのは週三って言ってたかしら」

なので未だに岐阜県で単身赴任状態だが、祖父の出身は名古屋なので暮らし易いのかも知れないとばかり思っていた。

「…今ね、山田会長の生家がある三重で暮らしてんの。お義父さんとお義母さん、二人でね」
「YMDの創設者、山田大志の大豪邸だろ?固定資産税、凄そうだよね…」
「お義父さんがリコールされてから暫くは大変だったみたいよ。お義母さん、何度か実家を売ろうとなさったらしいんだわ。でも、お義父さんが止めたって」

曰く、己の力不足で会社を傾かせてしまった負い目から、抱えた負債は自分で返すと奮闘したらしい。父方の祖父は、帝王院財閥の傘下にある企業の血筋だった為、そちらで働いたそうだ。妻には迷惑を掛けたくないと、彼なりに必死だったのだろう。

「何かね、観光地みたいになってるそうよ。父さんが色々相談に乗って、お客さんから入館料みたいなの貰ってるんだって。社会見学とかで団体客も入るから、年金と合わせても、食べてくのは困らないらしいんだわ」
「祖父ちゃん、相変わらずそう言うのやり手だよね。ワラショクって名前つけたのも、祖父ちゃんなんだろ?」
「真面目だけが取り柄で面白味のない親父だと思ってたけど、大空と出会ってからの父さんは、毎日楽しそうだったわ。勿論、アンタ達が産まれた時も、誰より喜んだのは私でも大空でもなく、アンタ達の祖父さんよ」

それは知っている。
祖父の孫可愛がりは今思い出しても凄かった。太陽にも夕陽にも、何かにつけて天才だ天才だと誉めまくり、我が子の様に側に置きたがった。先に夕陽が西園寺学園に入ると決めた時も、最後の最後まで反対していた事を覚えている。
太陽の転校が決まった時など、両親揃って祖父から怒鳴られたらしい。

お前達は子供が可愛くないのか、と。

「ね、それって、父さんは知らないよね?」
「まーね。父さんと大空は仲良くやってるけど、アイツ、自分の家の事は一切喋んないでしょ?っつーか、過去の事は何にも言わないの」
「うん」
「仕方ないわよね。私だって、お義母さんからこっそり連絡貰わなかったら、本気で大空は天涯孤独なんだと思ってた」
「いつ?」
「アンタ達が産まれて、暫く経ってからだったわ。あの頃、榛原は自己破産寸前だったみたい。お義父さんはお義母さんに迷惑掛けたくなくて、離婚も考えてたそうよ」
「婿入りした家を潰し掛けたら、無理ないね」
「お義父さんは騙されたの。大空だってそれは判ってる筈よ。じゃなきゃ、幾ら株主に自分の名前があったからって、実の父親を罷免する?」

流石は左席委員会会長、と。
山田夕陽は内心で冷めた笑みを浮かべた。使えない人材は手早く切り捨てる、実業家に迫られる冷徹な決断を榛原大空は僅か14歳で下したのだ。実父を陥れると言う、余りにも過酷な方法で。

「会社が抱えた負債は次の社長に渡ったわ。理由は単純、その新社長が銀行と組んで、お義父さんを陥れた男だったからよ」
「え、初耳なんだけど…」
「大空がやりそうな事でしょ?自分の株式を放棄して絶縁されたって事にすれば、悪者は榛原のお義父さんだけ。幾らお義母さんが山田会長の孫だからって、あのままだったら資産をなくしてた筈だわ」
「だったらどうやって?」
「大空の名義に変えてたみたいね。一切合切」
「は?」

苦笑いを噛み殺す様な表情の母は、サングラスの位置を手で整えながら、氷だけ残ったコップを諦め悪くズーズー啜っている。

「だからお義母さんには、名目上資産がなかった。勿論、婿入りとは言え、榛原姓のお義父さんの旧姓は宍戸だから、そっちにも飛び火しても可笑しくない。事実、保証人に宍戸の身内が居たそうよ。ただ、宍戸は帝王院財閥に縁があるわ」
「成程、そう言う事か…」
「幾らやり方の汚い地方銀行でも、帝王院の怒りを買うのは得にはなんないでしょ?」
「その上、自分は帝王院財閥の養子に入った。榛原大空の所有資産は、その時点で帝王院駿河の名義に変わるって?」
「そう言う事。馬鹿な地方銀行はすぐに吸収合併でなくなって、ヤマダエレクトロニクスは今のYMDテクノロジーに名前を変えた。新社長は焦ったでしょうね、榛原に押し付けるつもりだった借金が、全部会社に残ったんだから」
「ざまーみろ」
「幾らやり手の男でも、大空を怒らせた。大空はお義父さんにも怒ってたらしいわ。のうのうと騙されて、馬鹿みたいだって」

アンタそっくり。
吐き捨てる様な台詞に横っ面を殴られ、夕陽は沈黙した。確かに自分の性格は間違えなく父親譲りだろう。それは、認める。

「ま、今の話、太陽だけは知ってるんだわ。とっくにね」
「えっ、何でアキちゃんだけ?どう言う事だよオバサン!」

真顔の母親にテーブルの下で足を踏まれたが、痛いだの言っている場合ではない。山田夕陽は物心ついた頃には既に世界一の山田太陽親衛隊員だった為、太陽にのし掛かる全ての重責を自分が負う覚悟を固めていたのだ。

「っ、何でそんな勝手な事するんだよ!兄さんがまたあんな目に遭ったら、今度はアンタの所為だよ!」
「…煩いわね、不可抗力だっつーの」
「はぁ?!」
「だって、あの子に会いに来たんだもん。お義母さん」

故に、太陽が肺炎を患い、数週間生死の境を彷徨った11年前、榛原の力を失っていると聞かされた時からずっと、太陽には家の事情を隠してきた。父親である大空と共に、今の今までだ。
まさかそんな事があったなど、都内とは言え外界から隔絶された西園寺学園に通う夕陽は知りもしなかった。いや、両親の仲が良好でさえあれば、ひねくれた母親が今まで隠さなければならない事もなかった筈だ。全てはひねくれた父親の因果応報、か。

「アンタ、二歳くらいまで歩くのも覚束なかったの覚えてる?」
「いきなり何?少しは覚えてるけど…」
「それに引き換え、太陽は生後一年で走るわ喋るわ、成長が早かったんだわ。今は成長止まってるけどね」

太陽が聞けば鼻血を吹き出すだろう母親の辛辣な台詞に、弟はやはり沈黙した。太陽に「小さい」と「薄毛」は禁句だ。

「お義父さんね、結局、会社が抱えた負債をコツコツ返済したの。人がいいって言うか、馬鹿なのか」
「馬鹿だろ、どう見ても」
「持ってた株式を売却して半分。幾らあったのか知らないけど、食べるのも控えて毎年毎年、20年間、YMDにお金を払い続けてきた。世間的には落ちぶれたYMDを盛り返した敏腕社長なんて、今の社長を誉めてるわ。お義父さんが返済してきた事なんて、誰も知らないのに」

自分の事の様に悔しそうな台詞だ。
性格は魔女だが、案外涙脆い女である。何だかんだ悪い人間ではないから、心底ひねくれた大空が選んだ女なのだろう。息子にとっては、恐ろしい母親だが。

「アンタ達が産まれた頃だから、まだワラショクが上場した頃の話よ。父さんがね、榛原のご両親に株を買ってくれって言ったの。これからワラショクはどんどん大きくなるから、それで借金を返してくれって」
「で、馬鹿正直に買ったの?」
「買ってくれた。最初は一万円。大空の会社が大きくなりますようにって」
「ふーん」
「でも可笑しいんだわ。幾らあったか知らないけど、総資産5000億のYMDが倒産寸前に陥る負債が、たった20年で返せるもの?」
「…配当金が多かったってこと?」
「宍戸プラントの支社で専務やってたそうだけど、幾らお給料貰ったって知れてると思わない?」
「確かに」
「だから、こないだ大空から色々話を聞いて、今まで考えてたんだわ。きっと、榛原に誰かが手を差し出してくれてたんだって。それで、父さんにさっきメールで聞いた」

ぽいっと、ケチな母親が使っている数年もののスマホを投げて寄越してきた。表示されている文字の大きさに痙き攣りつつ、受信メールに目を通す。

「ねー。あそこの赤いの、何か知ってる?」
「は?今話し掛けんなよ、お祖父ちゃんのメール読んでんだから。…句読点くらい打って欲しいよ、読みづらい」
「森の中にこっそりと佇む何か。でっかい円盤が見えるんだわ、これで好奇心を刺激されない奴なんか存在するっ?」

ずずず、と。
意地汚く最後までお茶を飲み干したらしい女が立ち上がる気配、視界の隅で激しく揺れた肉の塊に、山田夕陽は呆れ果てた溜息を落とした。

「子供みたいな探求心は結構だけど、足を掬われない様にしてよ…」
「親にそんなナマほざくのは、百年早いっつーんだわ、包茎が」
「いつ僕の見たの?…被ってねーよ」

ギラッと輝く目でほざいた母親を横目に、次男はそれ以上の会話を諦める。

「太陽が大人しくなったのは、アンタが怪我してからなんだわ」
「………は?」
「それまでは幾ら駄目だって言っても、屋根に登りたがったり、庭で特撮ヒーローの真似して飛んだり跳ねたり、そりゃ騒がしい子だった。インドアな私と大空には全く似てなかったんだわ。生んだ私も、太陽は大空の子じゃないかもって思った程」

全く以て何と言おうか、兄の性格は父ではなく確かに母譲りだ。
だが然し、榛原の力を見事に引き継いでいた太陽が他の男の子供だと言われても、大空は納得しないに違いない。だから遠ざける事で守ってきた。なくなったのであれば寧ろ良かったのだと、榛原の縁を綺麗に切る事で太陽を守ろうとしたのだ。

「帝王院に入れるってね、私は反対だったわよ。大空は何考えてるんだって、父さんと同じ意見だった」
「…」
「それでも結局、こうなってんの。…大人には色々あんのよ、アンタには理解出来ない色々が」

けれど榛原の祖母は、太陽に会いに来たと言う。曾祖父と同じ声を有した、孫に。榛原の当主になるべき、太陽だけに。

「さ、腹ごなしに散歩に行くわよ。運が良けりゃ、シーザーに会えるかもしれない。ドラクエ世代の血が滾るんだわ」
「そうですか…」

こうなっては会話など通じない事を、ブラコンは痛いほど知っていた。何にせよ、男ばかりの山田家に唯一君臨する魔女は、最強なのだ。

















落ちる、落ちる、何処までも、落ちる。





瞑っていた瞼を開いた瞬間、全身を支配していた落下の恐怖と重力が綺麗に消えている事に気づいた。
余りの事態に反応が遅れた体と完全に停止した思考。見渡す限り青空に包まれた世界の大地は、見渡す限り真っ白な氷原だったのだ。

「寒………くない?」

雪はない。
音もない。
吐く息が白い事に気づいて薄着である体を見遣ったが、錦織要の五感が寒さを訴える事はなかった。

「何なんですか、一体」

想像の範疇を軽々と越えている。
ぽつりと零した独り言じみた声も、静かな氷の大地に呑まれる様な気がした。

「総長?ユウさん?!ケンゴ!ユーヤ!ハヤト!ホーク!シロ!」

一通り叫んでみても、要の声は木霊さえしない。
何処まで果てしないのかと、半ば呆然と地平線を見つめ、要は弾かれた様に走り出した。

「皆!何処に居るんですか?!総長ー!ユウさーん!返事をしなさい、ハヤト!」

走れど叫べど景色が変わる事はない。また、呼び声に返ってくる言葉もない。
混乱した頭が、息が切れるまで走り続けた果てに、疲労した体とは真逆に冷えてきた。漸く今の状況が現実のものではないのだと悟り始めた。つまりは、夢。それにしては嫌に生々しい気がする。

「っ。…はぁ。あのまま落ちた衝撃で、脳震盪でも起こしたのか…?我ながら情けない」

諦めて息を整え、冷静に状況を把握しようと試みる。
焦るだけ無駄だ。皆の安否が心配ではあるが、俊と佑壱がこの程度でどうにかなる筈がないと思い至り、僅かに焦燥感が鎮まった。

「確かに、無様な」
「っ?!」

静かな男の声に振り返れば、短い白髪頭の男が氷の上に立っている。今の今まで居なかった男は静かな表情で、上等な羽織を羽織っていた。

「愚かしい妹の血が流れる、脆弱にして罪深い子。お前には宮様に仕えねばならん、重大な責務がある事を努々忘れるな」
「言ってる意味が判りかねます。誰ですか、貴方は」
「瑞季だ」

夢だ。
夢である筈だ。
なのに男が告げた名には、全く聞き覚えがない。そんな事が有り得る筈がないと、要は眉を潜めた。目の前の男が誰かに似ている様な気がするのだが、全く思い出せない。やはり、混乱しているからだろうか。

「みずき?」
「お前の罪の裁量を、今一度問う」
「俺が一体何をしたと、」
「智子には寛大な慈悲が与えられた。そうして生まれた智香の子は、何故再び罪を犯したのか」

何の話だと再び要が口を開こうとした瞬間、純白だった氷原が濁っていくのを見たのだ。

「愛しい、愛しい、私の娘」
「?!」

今度は背後から、聞いた事もない女の声が聞こえた。

「この子の名前はカナエ。私の名前から一文字取って、香苗」
「な、にを」
「お母様は小笠原から出てはいけないと言ったのに、どうしてお前は都会に憧れてしまったの?」

ああ。
振り返った先の女とその腕に抱かれている赤子には見覚えはないが、彼女が口にした名前には、嫌と言うほど聞き覚えがあった。

「言ったでしょう、お前のお祖母様は帝王院に永遠の忠誠を誓ったの。だから遠く遠く離れた島で、二度と間違えない様に息を殺して暮らしたのよ」
「貴方、は」
「そう、私の名前は榊智香。神に仕える忠実な従僕」
「さかき、ちか」

榊。
まさかとは思ったが、鵜呑みにする必要などない筈だ。まともに聞いてやる馬鹿がどの世界に存在する?
そうだろう、これはただの夢なのだから。

「だけど私が間違っていたのかしら。あの人が海難事故で死んでから、香苗は島から出たがった。島の子供を助けようとして死んだのは、愚かな事だと言うのよ」
「…何の話をしてるんですか、貴方は」
「あの人が死んでから、私は神の名を名乗る事に畏れを覚えてしまった。榊の名は忠実な下僕の証だったのに、罪深い加賀城が頂戴するのは余りにも畏れ多い事でしょう?」
「加賀城?」
「だから私は元の姓に戻したの。それが何を招くか、深く考えもせずに」

ピキン、と。
そこで女は腕に抱いた赤子を残し、全身を氷で覆った。
目の前の出来事に腰が引けた要は青褪め、言い聞かせる様に何度も何度もこれは夢だと繰り返したが、彼女が腕に抱いていた赤子が一際大きな泣き声を放った瞬間、逃げる様に走り出したのだ。

「な、なん、何なんですか…!」

気持ちが悪い。
気持ちが悪い。
気持ちが悪い。
心の中を荒れ狂う、嵐の様な悍しい恐怖が消え去らない。

走れど走れど走れど真っ白な氷原、空は果てしなく青いのに、世界の何処からも温度を感じない。

「そ、総長っ、ユウさ…!」

夢だ。
夢である筈なのだ。
なのにどうして息が切れる?なのにどうして足が解れる?
夢は空想の産物で、自分の望みの具現化で、体は寝ているのだから疲労などする筈がないではないか。それなのにどうして心臓が跳ねる?息が荒れる?転んで打ち付けた頬が、痛い?

「待って。置いていかないで」
「!」
「愛して。愛して。奥さんが一番でも良いから、私に関心を向けて…」

ああ、嫌だ。
こんな声知らないと言いたいのに、立ち上がれないまま氷の上に這いつくばり、ぱくぱくと喘ぐばかり。

「どうして。お母さんとお父さんは仲が良かったのに。どうして。ねぇ、貴方はどうして私を愛してくれないの?」
「や、め」
「愛しているの、ユエ」
「やめろ」
「もう一度私を見て、楼月」
「やめろと言っている!」

振り返る事も起き上がる事も出来ないまま、要は氷の大地を殴り付けた。
息が荒い。肩が上下している。はぁはぁと耳障りな息遣いは自分のものだ。判っている。振り返りたくない。いつまでも氷を睨み付けた所で意味などない事は、自分が一番知っている筈なのに。

「な、にが、したいんですか…」

目が、熱い。
泣いてなどいない。泣く筈などない。記憶の奥底、最早それが過去の記憶なのか勝手に作り出した思い込みなのかも判らない、古びた記憶の中に。

「俺を捨てて男と逃げて殺された癖に、今更、何を…」
「楼月は私を愛してはくれなかった。楼月は親に愛されなかったから。実の弟に殺されそうになったから。可哀想な、可哀想な、ユエ」
「黙れ!」
「誰も信じられないユエ。あの人を理解してあげられるのは私だけだった。私達は愛し合ったの。心から」
「違う!黙れ!俺の中から出ていけ、今すぐ!」
「だけどお前を生んでしまった時に、過去を思い出してしまったのよ」

鼓膜を突き刺す様な音量で、調律の合っていないピアノの音が世界を包んだ。
無抵抗だった要の聴覚が麻痺し、指先まで痺れる。ジャーンッ!と言うまるで凶器の様な音が止まる事なく響き続けて、神経も思考も全てが、麻痺した。

「兄弟ですら殺し合う。お前が美月の刃になるかも知れない。愛人の子だった楼月は、正妻の子を殺して祭の当主になった。楼月は野望なんかなかったのに。いつか地位を奪われる事を恐れた弟に命を狙われて、変わってしまった」
「助け…」
「可哀想な、可哀想な、ユエ。一人ぼっちのユエ。寂しい月。誰からも守って貰えなかったユエ。美月が唯一の心の支えだった。せめてお前が女だったら、私はまだ、愛して貰えたの?」

助けて、などと。
ああ、今更、どの口が言えるのだ。
(勝手な事はするなとばかりに)
(助けてくれた人を遠ざけて)
(たった一人の友達を失って)
(大切なものなど要らないと)
(馬鹿みたいに何度も、何度も、何度も)



「お前の罪が明らかになった」

再び、男の声が聞こえてきた。

ああ、何時間経ったのだろう。
顔を上げた先、麻痺していたと思っていた鼓膜は正常に機能し、記憶の中の母親と同じ声で喋った女の姿はない。

「時空の裁きを受ける覚悟は出来たか、加賀城瑞穂の子」

冷たい眼差しで見据えてくる男からは、殺気などなかった。
まるで、人形の様に。


















落ちる、落ちる、何処までも、落ちる。






ああ。
私は此処で死ぬのだろうかと思い至るにあたり、腕に抱えた質量と熱を辛うじて生かす方法を、それはそれは無我夢中で手繰り寄せたのだ。
計算などではない。そんなものは不得意な部類だ。


何故ならば私は、ずる賢い人間などではなく、犬でありたかったのだから。



「っ、んの、糞がぁあああ!!!」

最後に見たのは赤い赤い、地獄への招待状。
他人を抱えた腕に重みなど感じなかった。無理もない話だ。凄まじい速度で落ちていくコンクリートを追う様に、自分もまた、落ちているのだから。

何かを強く、握り締めた気がする。
闇の中でバチリと火花が散った様な気がしたが、定かではない。嵯峨崎佑壱の視界は0だった。唯一と言って良い光源であるルーターは、悍しいレッドスクリプトを解き放った瞬間、光を失っている。
右腕に抱えた高坂日向を胸元へ深く手繰り寄せ、無意識に左手に握っていた何かを放り投げた。単に邪魔だからだ。

「ぐ…!」

…間もなくだ。
ほんの数秒が異常に長く感じたが、間もなく辿り着いてしまう。どのくらい最下層に水が溜まっているのか予想もつかないが、この勢いで着水した時に助かる確率は、一体どれくらいなのか。
ただのプールではない。夥しい数のコンクリートが同じく沈んだ、地獄絵図の様な有様だろう。これについては視界が黒一色で助かったと思わなくもないが、お陰で助かる確率を上げる方法もまた、0だと思われた。

宙を掻き毟る左手。
何か、何か掴まるものはないかと無我夢中で落下しながら腕を伸ばせば、爪先が何かに触れる。

「んの、」

本能だ。
それ以外に説明など出来ない。握力がどうだの腕力がどうだの、この瞬間、佑壱の脳に刻まれた豊かな言葉の数々を用いても説明など出来なかった筈だ。

「この俺を舐めんじゃねぇ、コラァ!!!」

ただ。
生に対する本能だとしか、今は。

←いやん(*)(#)ばかん→
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