帝王院高等学校
審判の日―クロノス・インスパイア―
「アシの小屋よ、アシの小屋よ、壁よ、壁よ。アシの小屋よ聞け、壁よ、…察せよ」

歌が聞こえる。

「ウバルトゥトゥの子、シュルッパクの人よ。
 家屋を壊し、舟を造れ。
 持物を諦め、己の命を求めよ。
 品物の事を忘れ己の、命を救え。
 あらゆる生命の種を、その舟へと運び込め」

悲しいのか、楽しいのか、それとも、そのどちらでもないのか。その声からは、何一つ窺えない。

「六日と七度の夜、風と洪水が世界を襲い、嵐が文明と大地を殴り続けた」

ぺたぺたと、何かが貼り付く音がする。
からからと、何かが廻り続ける音がする。

「ギルガメシュの詩を知る者よ、イブの子、アダムの子、父なるゼウスの慈悲を喪った羊達よ。…時空の審判に裁かれよ」

その日、男は静かな宵闇に同化したまま、微笑を湛えて呟いた。
彼の手に握られたペイントローラーには、毒々しい程に赤いペンキが纏わりついている。

「全ての罪を白日の元に。
 全ての贖いを白日の元に。
 歪んだ時間の流れを巻き戻せ。
 禁忌は今尚、紅い」

うっとりと、彼は歌う様に。

「俊秀の子は鳳凰。
 秀之の子は豊幸。
 鳳凰の子は駿河。
 豊幸の子は向日葵。
 命を救い、命を育み、命を繋げ。

 俊秀の子は雲雀。
 雲雀の子は白雀。
 芙蓉の子は緋連雀。
 雀の系譜を空へと還せよ。

 リヒトの子はリヒト。
 光の子は光。
 紡げや歌え。
 リヴァイの子はハーヴェスト。
 リヒャルトの子はリリア。
 リリアは一人目覚めた娘。
 災害で葬られた屋敷から、狼に救い出された哀れな子。

 舟を造れよ。
 定められた寸法の元、川を下り狼の街へと逃れるばかり、たった一人の狼の子。

 リリアの子はカミュー。
 リリアは己の出生を知らぬまま、狼の町で狼の子を産んだ。
 リリアは一人泣いている。

 緋連雀の子は斑鳩。
 斑鳩の子は涼女。

 涼女の子は。
 カミューの子は。
 崩壊した世界を照らす、『光』となるや」


それは一人、誰にも聞かれる事のない詩を歌う。
まるで物語を描くかの様に。


「アシの小屋、壁、エデンから落とされた地を這う子よ、罪を犯したアダムの子孫よ、イブの子よ。帆を張り、櫂を削り、舟を造れよ。

 死んだ狐と狗と狸の躯を抱き締めて、征けや、往けや、千の道。
 紅い鳥居を越えて往け。行っては戻れぬ仏の定め。

 白い白い道の果て。
 白い白い雪の中。
 天の恵みを失いし天神は、今際の際に契りを交わす。

 舟を造れよ。
 舟を造れよ。
 櫂は何処ぞたるや。
 櫂はなく、流れ流され、空の子は閉ざされる。

 雪深い遠野の地へ隠される。
 黒き髪の女の国に。
 黄泉に。黄泉に。黄泉比良坂に。



 女は兄を待ち望む。愛しい愛しい男の愛を。
 裏切った男の約束を果たす為だけに。











全ては、始まりを迎える為に。」







Cronos inspired
Program of the Genesis.



「櫂はない、舟は何処ぞへ流れるや。櫂もなく、回帰せしめし魂よ、王の屍を越えて征け。閉ざされた雪の向こうへ真っ直ぐに。千の鳥居を越えて征け」



Over drive:Day of Wrath
 審判の日






「死んだ狐と狗と狸の骸は何処ぞへ行った?」



















はたりと我に返った瞬間、真っ先に目を向けたのは、自分の両足が地面を踏んでいる事だった。

「な、に…?」

混乱していたのだ。それは見た事もない、飴色の床だったから。
昔通っていた地元の古びた小学校が、こんな色合いの廊下ではなかっただろうか。などと、この状況で考えている事は馬鹿みたいな話だ。

「どこ、ここ?」
「とうとう…」
「?!」

人が居るとは考えもしなかった。
変な話だ。今の今まで仲間とクラスメートが居たのだから、どうして今、自分は一人なのだと思ったのか。
理由などない。ただ、此処は余りにも静かだったからだ。

「とうとう、この日が来てしまいました。悲しい…悲しい事です…」
「なっ、なに、アンタ誰なわけ?!」

嫌に肌の白い、日本人形の様な女が立っている。
真っ黒なワンピースを纏い、生気がない頬の白さを差し引けば、かなりの美人だ。
だからと言って鼻の下を伸ばす様な可愛らしい人生は、残念ながら歩んではいない。自分は自分の可愛いげのなさを知っている。誰よりも。

「さぁ、食事は家族で頂きましょう」
「………はあ?」
「それこそ、我が家の、たった一つ限りの家訓です」
「何わけ判んない事ほざいてんのお?ねえ、ほんと、頭大丈夫ですかあ?」
「ふふ」
「何、気色悪い…」
「目の前に人が倒れています。辛そうに呻いています。助けてくれと、彼らの手は私へ伸ばされました。それなのに私は、どうする事も出来なかったのです。悲しい…悲しい事です…」

歩く動作もないのに、ゆらゆらと女は近づいてきた。
まるでホラー映画だ。それも上級の。安いホラーの様に判り易く怖がらせようとしている訳ではないのに、それでも異様に恐いと思える、余りにもシュールな光景だった。

「貴方は私の記憶を共有せねばなりません。貴方には私の血が流れている。蛇の様に」
「は…?」
「抜け殻を残すのは蝉だけとは限らない。貴方は私の望みを果たさねばなりません。それが血に刻まれた、正しい系譜なのです」
「あー、これ百パー変な夢観てる。夢って事はあ、本体は生きてるって事だねえ。マジかあ、流石は神に愛された隼人君だよねえ。あは」
「医療は」

神崎隼人の記憶に今の今まで存在していなかった見覚えのない女は、隼人の目の前まで近づくと、艶やかな黒目を足元へ注ぐ。

「医療は沢山の人々を救うと言います。そう、龍流さんは仰いました。いずれ昭和の世では為す術のない不治の病ですら、癒せる日が必ずやって来ると…」
「たつる?誰それ、新キャラ出さないで欲しーんですけど?つーか勝手に隼人君の夢の中に出てこないでくんない?」
「それなのに私を、龍流さんを、どうして殺したのですか?」
「っ、な?!」

足元から、深紅の刃が幾つも飛び上がってきた。
辛うじて急所を躱した隼人の足や脇腹を掠めた赤い刃は、まるで巨大なメスの様にも思える。

「けれど私は、敢えてその罪を赦します」
「っ、痛…!」
「さぁ、食事は家族で頂きましょう、隼人さん。メインディッシュは、あの穢らわしい男達の、真っ赤な、心臓…」

突き出たメスに囲まれた女は、生気のない唇に笑みを浮かべた。その瞬間、女と隼人の間に、長いテーブルが姿を現したのだ。

「な、ん」
「義姉様が用意して下さったのです。…ふふ。ねぇ?見事な蘇芳でしょう、隼人さん」

最後の晩餐に描かれている様な卓の上には、幾つもの皿が並んでいる。口にするのも憚られる様な血に濡れた肉の塊は、生体図鑑の中で見る様な、正にそれそのもの、悍しい人の生々しい臓器だ。

「ご覧下さいな、伯父と叔父…。ふふ、ねぇ、貴方はどちらの心臓がお好き…?」
「う、げ…っ!気色悪い事抜かしてんじゃねえ、糞女…!悪魔祓いしてやるもんねえ、エコエコアザラク〜!」
「私の前に人が倒れています。どうしてでしょう、その姿は龍流さんに良く似ているの…」
「あったま来たー!てんめー意味不明な事ばっか喋んな、直ちに俺の目の前から失せろっ!」
「隼人」

そんな筈はない。
けれど胸が締め付けられる程に聞き覚えのある柔らかな声に、灰の双眸を見開いた隼人は、震えながら振り返った。



「早かったね、隼人。学校は楽しかったかい?」

恐ろしい刃の向こう側、まるで彼岸花の様にさえ思える刃の山に埋もれる様に佇む人は、懐かしい、最愛の祖母の姿をしている。

「………ばー、ちゃん?」
「可愛い、可愛い、ばーちゃんの宝物。お帰り隼人、お腹が空いたのかい?」
「何で、ばーちゃん、が…」
「甘いホットケーキを焼こうかねぇ。ばーちゃんの料理は田舎臭くて、お前は好きじゃなかったろう?」
「ち、が」
「さぁ、お祖父さんが帰ってきたら、ご飯だよ」

記憶通り、正に完璧に、一寸の狂いなくそれは、優しかった祖母そのものだ。

「ばーちゃんにはね、家族が居ないんだ。戦争でね、ばーちゃんのお父さんもお母さんも死んでしまったんだよ。産まれたばかりだったばーちゃんを助けてくれたのは、ばーちゃんの親を殺した敵国のお医者さんだった」

疑うべくもなく、過去をそのまま具現化した様に正確に、優しい彼女の皺が刻まれた目元は、記憶に埋もれた幼い頃を呼び覚ました。

「日本に行ってみたかったのさ。お祖父さんは、その願いを叶えてくれたんだ。隼人、お前のお祖父さんは何て優しい殿方だろうね。お前もそう思うだろう?」

呪いの様だ。一度聞いた話は忘れない。思い出さない限り意識すらしないが、確かに記憶に残っている。
ああ、今の様に。

「そっ、か。うん、そうだ、やっぱ、夢、だあ…」
「隼人、今夜はオムライスとエビフライだよ。お前の誕生日だからねぇ」
「…ばーちゃん」
「早いもんだ、もう六歳かい。良かったねぇ、隼人。お祖父さんがランドセルを買ってきてくれるよ」
「あ、は。ねえ、ばーちゃん。隼人君さ、もうねえ、15歳なんだよ…」

淡い笑みを浮かべた彼の灰色の瞳がくしゃりと歪んで尚、優しい微笑みを湛えた祖母の表情は変わらない。

「さぁさ、お腹がいっぱいになったらお昼寝しなさいな。ばーちゃんはずっと隼人の横にいるから、心配は要らないよ」
「…嘘つき」
「おいで、隼人」
「最初から、何処にも居なかった癖にさあ」

それはまるで、隼人の声など聞こえていないかの様に、穏やかな表情だ。



















薔薇の匂いに包まれている。

そう思ったのは、目の前が一面、薔薇に敷き詰められているからだ。
実際は匂いなど嗅いでいる余裕などなかった。覚えているのは、たった今の今まで、落ちていくオレンジだけだったのだ。

「…おい、何処だよ。ケンゴ?」

あの時、暗闇に同化した黒髪は見えなかった。
可笑しい話だ。飼い主の危機など、今は全く考えていない。恐らく、あの崩落の瞬間さえ。

「っ、ハヤト!カナメ!おい、誰か居ねーのかよ?!」
「…こんにちは、芙蓉君。いつから王子様になってしまったの?」

笑う声音に振り返れば、黒い三つ編みを下げている女が花畑に座り込み、朗らかに笑っている。
それほど目立つ容姿ではないが、記憶のどれを掻き漁っても、見覚えのない顔だ。

「オメー、誰だよ」
「私はアカリ。自分の娘を忘れてしまったの、芙蓉君?」
「俺はフヨーじゃねーぜ、裕也君だぜ?つーか、娘なんて居ねー」
「変な事を言う人。私は知っているわ。貴方はリヒト」
「何で…」
「何故ならば貴方は、雲雀の血を継ぐ空の子だから」

微笑んだ女が赤い花びらに変わり、弾ける様に消える。

「何だよ…これ…」
「ふふ」

呆然とその光景を眺めていた藤倉裕也は、再び背後から聞こえてきた笑い声に肩を震わせた。
この声は、酷く聞き覚えがあるからだ。

「雲雀(ひばり)、緋連雀(あかり)、斑鳩(まどか)、涼女(すずめ)」
「………マジ、か…」
「私の母は、藤倉涼也と叶緋連雀から産まれた、藤倉斑鳩。そして私は、パパと米軍将校のファミリーネームを捨てて、大好きな人のお嫁さんになったのよ。
 …ねぇ、リヒト。素敵な物語でしょう?」

恐る恐る振り向いた先、真っ赤な花で冠の様なものを作っている女の指は、刺が食い込み血だらけだった。その程度では動じない豪胆な性格だった事を、どうして今頃思い出すのか。
藤倉裕也の殆ど変わらない表情が、目に見えて崩れた。

「Mama」
「狼の街で狼の子孫と結ばれた、私の物語を聞いてちょうだい。リヒト。『緋』を繋ぐ、朝の子」
「…勝手に死んで勝手に生き返って、いきなり何ほざいてんだ?意味不明だぜ、寝ても良いかよ」
「良いわよ。懐かしいわ、いつも枕元で絵本を読んであげた」
「絵本じゃねーだろ、大河ドラマの解説じゃねーか」
「言ったじゃない、お母さんは殿様の家系に産まれたんだって」
「で、殿に憧れたってか。単純過ぎじゃね?」
「私は全てを捨てても構わなかったんだ」

見た目は日本人の癖に、日本語が下手な女だった。
生前の彼女が話した日本語のイントネーションが可笑しい事を知ったのは、高野健吾に指摘されてからだ。残念ながら、自分にもそれが遺伝してしまったらしい。いや、覚えてしまったからか。

「曾祖母様の様に、愛した人の為なら躊躇わない事が私の望み。曾祖父様の様に、愛しい人を守り抜くのが私の願い。そうして私の元に目映い光が産まれた」
「………」
「神様からの贈り物、リヒト。貴方は私達の『光』」

儚げにすら思える相貌に騙され、迂闊に近寄れば痛い目を見る。
女だてらに国防大学へ進み、米軍に所属していた様な余りにも勇ましい女だ。身体中に傷跡があった事を覚えている。
そんな女を苛めて追い出そうと画策したドイツの人間共は、何と愚かなのか。神経質なドイツ人には理解出来なかったに違いない。母は日本人の見た目をした、典型的なアメリカ人だったからだ。

「今日もまた花瓶を壊した。さ、今日の執事長のお説教は何時間?可笑しいわね、私に聞かれたくない話はスペイン語なのに、お説教は英語なんて、眠たくなるんだ。嫌になっちゃう」
「そうかよ。…っつーか花瓶壊すなや」
「リヒト、シチューを作ってるから、手を洗ってきなさい」

ああ、思い出した。
いつかこんな事があったのだ。母に促されるまま洗面台で手を洗っていると、通り掛かった家政婦長が腕に抱えていた洗濯物の籠が、頭に当たった。
彼女はわざとらしく謝ってきたが、あれは不注意で当たったのではない。わざと当てたのだ。最早、殴る様に。

「母ちゃんのシチュー、台所の何処にもなかったぜ。家政婦長が洗剤を混ぜるのを見てた他の家政婦が、オレが手をつける前に捨ててくれてたんだ」
「あ、そう」

悪い人ばかりではなかった。
執事長と家政婦長が結託していた為に、皆、表立って逆らえなかっただけだ。父方の大叔父に命じられ、仕方なく従っていた者も居ただろう。

「丁度良かった、何かしょっぱかったんだ、あれ」
「塩入れすぎただけじゃねーか。いつも通りだろ」
「失敗したのをカミューに食べさせる訳にはいかないんだもん。リヒトに証拠隠滅して貰いたかっただけだから、気にしないで」
「おいおい、夢の中まで最悪かよ。息子を塩浸けにするつもりだったなんざ、どんだけ相変わらず大雑把だよ。オレ、悲しくなってきたぜ」
「私の失敗はたった一つ。カミューに嫌われたくなくて、お屋敷の誰一人も、殺せなかった事だけ」

無邪気な程の笑顔を前に、微かに目を見開いた裕也は眉を潜めた。
幾らリアルだろうと、これが現実ではない事などとうの昔に気づいている。そうでなければ見渡す限り果てしなく広がる薔薇園など、この世の何処に存在するのか。

「赤い花、私の妹の名前と同じ。朱花は素直で良い子だ。躊躇わず人を殺せる私と違って、心が清らかだった」
「あ?清らかだと?朱雀の母ちゃんは、息子にピストル向ける様な人だったって聞いたぜ?」
「そう、でも私は引き金が引ける。急所を一発で貫ける」
「オレを殺せたって事かよ」
「そう。カミューに命令されたら躊躇わない」
「母ちゃんは親父の言いなりだもんな」
「でもそうしなかったのは、私の弱さだ。カミューの子を傷つける人間なんて、一人残らず殺しておくべきだった。私はなんて、弱虫なの」
「しなくて良かったよ。殺人者の息子になるのは、勘弁して欲しいぜ」

呆れた生々しさだ。
夢と現実が混ざり、訳が判らない。

「新婚旅行に行ったんだ。忙しいカミューに我儘を言って、」
「日本だろ」
「京都。曾祖父ちゃんと曾祖母ちゃんが育った所に、行ってみたかった」
「…そんな話、聞いた事ねーぜ」
「話してないからね」
「知らねー話も出てくる夢なんか、あんのかよ」
「四季の歌」
「あ?」

ぶちり、ぶちり、大雑把な母親は薔薇を引きちぎり、下手な冠を編んでいる。円を描く様に編んでいる端から解れて、ばらばらと花弁が落ちていく様は滑稽だ。

「貸せや、オレがやってやる」
「出来るの」
「オレに不可能はねーぜ。多分」
「そうね、アンタは殿様の血を継いでるから」
「ああ、それ。さっき狼がどうだの言ってただろ、それって親父の事かよ」
「今のアンタは良く喋るのね」
「まーな」
「昔は一日中ジオラマを見てた癖に」
「オメーが買ってくるばっかで作らねーから、オレが代わりに作ってやってたんだろうが。難易度高ぇにも程がある江戸の城下町なんて買ってきやがって、お蔭で、」

薔薇の棘を指で潰しながら、裕也は言葉を止めた。
そうだ、生前、母親が最後に買ってきたプラモデルは幾つもの大きな箱にパーツが入っていて、日本語の説明書と何度もにらめっこをしながら、裕也は黙々と作り続けた。
仕事で父親が居ない間の屋敷は、自室だけが憩いの場だったからだ。

「…お蔭で、あれ完成しなかったぜ」
「そう」
「家政婦長のババアが勝手に捨てちまったからよ」

けれど、漸く天守閣が完成した頃、母はこの世から消えた。
目の前で薔薇の様に真っ赤な血を流し倒れる光景を、どうして忘れられないのか。どうしてそれ以降、眠る度にその夢を見るのか。
不思議でならなかった。余りにも不思議で。

「裏切り者だからよ」
「あ?」
「叶芙蓉…アンタの高祖父は帝王院を裏切った」
「知ってる」
「白燕が朱花を選んだのは、離れ離れになった私達家族の縁をもう一度繋ぐ為だと思ってたんだ」
「違ぇだろ、朱雀の親父さんはおばさんを本気で好きだったじゃねーか」
「アンタにも判ったのに、私には判らなかった。目が曇ってたからか」
「単に性格じゃねーの」
「はは。そっか、それなら仕方ないわ」
「何にせよ雑なんだよ。やる事なす事、全部」
「アンタのお祖母ちゃんね、凄く強い人だったよ。美人だけど何かにつけて後ろ向きで、お父さんは結婚するのに苦労したって」
「そうかよ。そんで浮気した挙げ句、歳の変わらない娘二人拵えてちゃ、世話ねーぜ」
「きつい言い方」
「惚れたやつなんざ一人で充分だろ、…出来たぜ」

裕也の大きな手の中で、綺麗な円を描いたローズクラウン。
おざなりに母親の頭にそれを乗せた裕也は、薔薇の絨毯の上で胡座をかいて、珍しく笑みを浮かべた。

「馬子にも衣装」
「殺す」
「それが可愛い息子に対する台詞かよ」
「目がカミューに似てなかったら眉間に風穴開けたぜ?」
「マジかよ。今だけ親父に感謝するわ。緑の目なんか要らねーけどな」
「帝王院の方々はどう?怒ってた?」
「さぁ、どうだろうな。学園長は最近まで会った事なかったから知らねーけど、隆子さんは良い人っぽいぜ」
「そう」
「つーか、学園長見て何となく思ったんだけどよ、朱雀と駿河学園長、顔が微妙に似てた」
「ふーん。男前なの」
「まーな。殿には敵わねーけどな」
「アンタの殿様はどんな人?」
「一言で言えば、訳判んねー感じ。優し過ぎて馬鹿じゃねーのと思えば、そうでもねーみたいだしよ」
「そう」
「カナメとケンゴが苦手みてーだ。カナメより、ケンゴの方が苦手なんかも知んねー」

ぽつりと、幻覚にしては生々しい母親へ零した台詞で、裕也がボリボリと頭を掻いた。

「あのよ、母ちゃん」
「昔みたいにママって呼んだら?」
「オレ15歳だぜ?年末には16歳の男の子だぜ?無理言うなや、ママとか恥ずかしいだろ、ママ」
「アンタって子供の頃から何にも変わってないのね。やっぱ私に似たんだわ、頭悪そうな所とか」
「馬鹿にすんなや、オレの通知表見た事ねーだろ」
「そりゃ、ないに決まってんじゃない。こちとら、アンタが入学する前に死んでんだから」
「だよな」
「私が死んだ事なんか試練ですらないわ。さっさと忘れなさい、馬鹿息子」

へらっと、笑うと崩れる美貌。
外見だけは大人しそうに見えるだけに、彼女に騙された人間が何人居ただろう。中国系アメリカ人だった彼女の妹はもっと派手な美女だったが、笑顔も美人だった覚えがある。

「忘れろ、かよ」
「忘れるのよ」
「オレの所為でケンゴが死に掛けたんだ」
「アンタの友達」
「オレがカナメを助けてくれなんて言ったから、自分は動く事も出来ねー癖に、叫んだから」
「うん」
「自分は何にも出来ねー癖に、頼ったりしたから」
「うん」
「オレの所為で、アイツは全部、なくしちまった」

薔薇の冠を被った人の手が、エメラルドの目元を撫でる。
音もなく零れ落ちる滴を拭う様に、何度も、何度も、何度も。

「…カナメは、ケンゴを見る度に痛ましい面をしやがる」
「罪悪感からよ」
「ケンゴはそれを知ってるから、何でもないって、思い知らせたいんだ。ンな事とっとと忘れて、お前は何も悪くねーから、勝手に怪我したのは自分だから、早く忘れちまえって…」
「男の子だね、ケンゴ君」
「男らしいにも程があるぜ。オレなら、助けた相手から近寄るなって言われたら、シカトする」
「はは。そうだね、普通はそうだね」
「他人の顔色ばっか窺うんだ」
「うん」
「母親の顔色、祖父母の顔色、父親だと思ってた人がもしかしたら他人かも知れないって知った時から、アイツは変わっちまった。…可哀想だ」
「アンタにはそう見える?」
「あの事故さえなかったらこんな事にはなってなかったかも知れねーだろ」

勝手に再生する。
記憶とはいつも身勝手な映写機だ。忘れたい事ほど良く思い出す。勝手に。意思に反して。

「だってあの時、ケンゴの母ちゃんが言ったんだ。省吾さんの血は使わないでくれって」
「『あの子はその人の子供じゃないから』」

だから、その人の綺麗な血を勝手に使わないで。
健吾に良く似た愛らしい顔立ちの女が、般若の様な形相で叫んだ言葉だ。忘れる筈がない。

「マジで、あの時オレが餓鬼じゃなかったら、あのババアぶっ殺してたかもな」
「友達のお母さんを?」
「眉間に風穴」
「はは」
「笑い事かよ」
「アンタ、恨んでばっか」
「…あ?」
「だから榛原の催眠に惑わされる」
「…」
「ケンゴ君にあんまベタベタするなって言われて、悲しかっただろ?」
「………うっせーな。勝手に人の記憶知ってんじゃねーぜ」
「此処は四季の庭だからね」
「四季四季って、何なんだよマジで」

すくりと、立ち上がった母親が白いワンピースを靡かせた。
裕也のエメラルド色の双眸に映り込んだ白が、ひらひらと、まるで玉葱の皮の様に躍っている。

「時の鍵は犬に委ねられた」
「…んだと?いきなり何を、」
「対の十字架。約束は常に果たされない。カグツチを産んだイザナミは大火傷を負い、大地の底に帰依した。イザナギの慟哭は嵐を呼ぶ」

母親の声が、徐々に違う声へと変わっていく工程。
悲しげに、儚げに、生前の彼女とは似ても似つかない笑みを浮かべた人は、頭に乗せた薔薇へと手を伸ばす。

「一つはクラウン、一つはクロノス。対の十字架は決して結ばれない定めだった。今までは」
「…母ちゃん?」
「同じ時代に全てが揃わなかったから。狐、狗、狸、失った家族の代わりに、天の宮様は三種の神器で荒ぶる己を鎮めたの。千の鳥居を渡り、そうして干支を描いた」
「何の話をしてんのか、判んねーぜ」
「此処は四季の庭。四つの血が裁きを受ける、死期の際」
「しきの、きわ?」
「四年に一度の閏年が来ない年がある事を知ってる?閏年が招く災厄は、新月が多い事がある」
「閏年って」
「裁きを受ける双子は、やはり引き裂かれた。一人は産まれながらに死んだ龍、一人は産まれながらに罪を犯した龍」

ぼんやりと、母親の輪郭がぼやけていくのをただ、見ている。
何が起きているのか全く判らない。これは夢なのだと今更自分に言い聞かせた所で、目の前の母親は、余りにも生々しかったのだ。

「待てよ、母ちゃん」
「リヒトなき真の夜に、真の神は産み落ちる。一人生まれた天神が、愛しい女を転生させんが為に、陰陽道を学んだ様に」
「おい」
「…私が守ってやれるのは此処まで。リヒト、私の光。決して絶望してはいけない。お前は、光なのだから」
「待てよ、何処に行くつもりだよ」

神々しいまでの光の渦が、母親から弾けた。
耐え切れず目を閉じた裕也の全身を白で染め、やがて、跡形もなく消えたのだ。

「…な、んだ?」
「おや。光の癖に光に耐えられないとは、何と情けない」
「ふむ。そう苛めてやるな」

頭の上から、涼やかな声が落ちてきた。
弾かれた様に見上げた先、黒髪の男と、長い金髪を結った男の姿があったのだ。

「ご機嫌よう、十口裕也さん」
「健勝そうで何よりだ、リヒト=グレアム」

穏やかな笑みを湛える二人を前に、裕也の額から冷や汗が滴り落ちた意味を、何と説明すれば良いものか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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