帝王院高等学校
面映ゆい事態に遭遇しても平常心で!
落ちる。

音のない世界で唯一、闇に呑み込まれていく漆黒を見た。
決して白くはない肌が、この時ばかりは酷く浮かび上がって見える。

「っ、俊!」
「いけません!崩れます!」

ああ。
世界は黒一色だ。
(伸ばした手は穹を描いた)
(足元が崩壊した瞬間の話だ)
(人とは何と脆い)

「おい、そこ退けや!」
「っ、ケンゴ?!やめ、」

迷いなく闇へと飛び込む緋色を見た。
ああ、それはまるで一輪の太陽の様だ。
(だから言っただろう)
(日向、太陽、裕也)
(『緋』はいつも、夜を追い掛けているのだと)



「おいで」


音のない世界。
足元へ目を向けた瞬間、闇の中から女の笑い声を聞いた様な気がした。
少なからず聞き覚えのある声だ。

「だから言ったでしょ。お前は産まれてはいけない子」
「…」
「他人を踏み台にする事でしか生きられない、穢れたブラックシープ」
「Yes I know, so what?(それがどうかしたのか?)」

指先から冷えていく感覚をどう形容すれば適切であるのか。目の前で闇から引き摺り出る様に、顔を現した女は嘲笑っている。

「神への威嚇。陛下への憎しみが創った、秀皇の本心。ルーク、それがお前」

末端が冷たい。それともそれが、指先なのか爪先なのかさえ理解していない、現実世界ではほんの数秒の間に、考えていた事は一つ。(ただの雑音だ)(ノイズ)(幻聴にすらならない)(弱い女の戯れ言)



「Don’t talk to me, you stank hoe.(死人が今更何を宣うか)」

(生きている内は、笑った顔など見た事もない癖に)





そうだ。
夜は余り好きではなかった。子供の頃の、外を知らなかった頃の話だ。

とは言え、今も同じ様なものだろうか。
日差しからは嫌われ、外界からはひたすら隔絶されている。異端を廃絶する様に。
誰が見ても自分の容姿は日本人のものではないと知っていた。けれど国籍は一つだけだ。つまり人に認められた名前の事。

(優しい父親は、日が落ちると寮と言う所へ帰ってしまう)
 (彼の名が『大空』だからだろうかと考えた)
  (一歳の祝いに貰った絵本で覚えた漢字だった)
(寮に居場所がないらしい有能な父親は、いつもデスクに向かっている)
 (彼の声を聞く事は殆どない)
  (母親と言う名の女を見る父の目は、凍てつくほどに冷たかった)
(全身真っ黒な三人目の父親は静かに眠っている)
 (こっそり外した包帯の隙間から、私はそれを盗み見ていた)
  (何度も。何度も。何度も。飽きもせず、何度も)



「…秀隆」
「クゥーン」
「いつもお守りをさせて悪いな。何か飲もうか」

ひでたか。
二人の父親は同じ名前だと知っていた。けれど片方の父親の名をどう書くのかは知らなかった。別れるまで。
物静かな男はいつも書類を見つめ、近頃では笑顔など見た事もない。
人間とは到底思えない乾いた声で話す男がやって来る度に、父親の生気が減っていく様な気がしていた。幼心に。

「ミルクで良いか?」
「クゥーン」
「ああ、トイレに行きたくなると困るのか」
「クゥーン」

クロノスリングと言う指輪をあしらった、真っ赤な首輪が似合う真っ黒な父は、とても優しい目をしている。

「神威はお前に良く懐いてる。オオゾラにもだ。…俺よりずっと」

おおぞら、大空。
明るい内にこっそりとやって来る、明るい男の事。
今になれば授業中にも関わらず、彼は頻繁に足を運んでくれたものだ。
絵本、見えなくても触るだけで楽しいボードゲームの駒、クリスタルで出来ているんだと言われて持たされた駒は、自分と同じルークと言う名前なのだと聞いた。その二つの塔は、盤上の左右隅に置くのだ。

「これは不信感、だろうか。義兄さんへの感情が腹の中に溜まっていくのが判る…」
「クゥーン」
「なのに俺の声は義兄さんには効かない。…それが全てだと思わないか、秀隆」

人の言葉が判るのか、夜も更けて零時を過ぎた真夜中に、同じ名を持つ二人の父親は度々話していた。まるで親友の様に。双子の様に。二人の父親は、いつも。決まって夜。

「一度、だけ」
「クゥーン」
「あの人が俺を見てくれている内に、叶えたいんだ。そうじゃないと、高校生なんて…あの人にはただの子供じゃないか」

此処で目を覚ました事が知れれば、秘密の会話は終わってしまう。
人間のヒデタカは『悪い、起こしたか』と言って居なくなってしまうだろう。いつかの様に。
体の弱い祖母に甘えてはならないのだ。多忙な祖父に構ってくれなどと、一体どの口が宣える?

自分は自分が邪魔な存在だと知っているではないか。
サラ=フェインと言う女がやって来て、包帯越しに投げつけられたあの言葉を、覚えているだろう?

「…映画なんて、やっぱり子供っぽいか?」
「キューン…」
「研修で何年もまともに休んでないって言ってたんだ。だから、その、息抜きになれば良いと思って。…ああ、いや、違う、こんな事をお前に言っても仕方ない。情けないな、年上の女性の扱いは慣れてる筈なのに」
「クゥーン」

二人共、小さな小さな声で話している。
寝ていると思っている子供を起こさない様に、だろうか。それともただ、誰にも聞かせたくなかったからだろうか。

「卒業まで待ってくれるとは限らない、よな。だってあんなに素晴らしい人が他の男に取られないなんて、ある筈がない」
『ね、神威』
「決めた。俺は頑張るぞ、秀隆。誰に何と言われようと、例え義兄さんだろうと」
『お母さんが出来るかも知れないよ』

ああ。
期待していたのだ。あの時、愚かにも、浅はかにも、心身共に幼かった我が身は、それを待ち望んでさえいた。

「…例え、相手が神であろうと。」

絶望への一本道を流されている事も知らず。





「ね、神威」
「何でしょう、父上」
「お前さんにねー、弟か妹が出来るかも知れないよ?」
「…私に?」
「だから今度こそ皆で守るんだ。…メイの様に、手放したりしないように」

二人で名前を考えよっかと、彼は唆す様に言った。
何かを吹っ切る様にわざとらしいほど明るく、快活な声音で。ほんの数分だけ外して貰える包帯、敏感な皮膚は時々醜く爛れるが、怪我は男の勲章なのだ。治れば何の問題もない。
(どうせ優秀にして寡黙な父親が包帯を外す事はない)
(気づかれないまま消えていく、ほんの軽い火傷)
(瘡蓋が剥げ落ちれば新しく再生するのだ)
(生きている内は)

「妹だったら、やっぱ陽子ちゃんかなー」
「ヨーコ?」
「あはは。ごめんごめん、それパパの文通相手だったよー」
「ぶんつう」
「そうだよ。お互いに、手紙を交換するんだ。会えない代わりに、ね…」

起きながら夢を見ていた。

「あれ…?初めて書いたのに、神威は字が上手いねー。お前さんは何処まで天才なんだろ。末恐ろしいよ」
「すえおそろし?」
「ああ、気にしなくていい。お前さんの名前はね、こう書くんだ。帝王院神威。…あはは、やっぱり『威』が難しいかな。ゆっくり、一つずつ書いてごらん」
「はい」
「はー…。それにしても寒くなってきたねー。もうすぐクリスマスだよ。去年は、」
「七面鳥とポトフを食べました」
「覚えてるのかい。子供は覚えてる事が少ないとは言え、お前さんは何でも良く覚えてるね…」
「それは良くない事ですか?」

それが終わりのない夢だと信じて疑わなかった。

「…いいや。昔、空蝉から消えた月の代わりにお前さんが産まれたのかも知れない。だってお前さんは、まるでお月様みたいだ」
「お月様?」
「ああ、今度夜にこっそり見せてあげる。紫外線の少ない、新月間際の細い月がいいかな」

確かに、あの時までは。



















(踊る様に)
(祈る様に)
(嘆きながら)
(一切の容赦なく)

(ただ)

















(迷える者達よ)
(回帰せよ)











「…おや?」

突き刺さる様な殺気…いや、殺気と言うには余りにも生暖かい視線に気づいた。何にせよ、他人の気配に聡いのは生まれつきだ。気づいたからと言って、どうする訳でもない。

少なくとも、相手の出方を待っている間は。

「あは、あっは、あはっ」
「あの楽しげな笑い声は…」

毎年行われる主君の誕生日、笹の葉が繁る川沿いに佇む大きな邸宅の中は、人で溢れていた。
京都の夏は盆地特有の心まで蝕むような湿気に包まれ、人の頭を狂わせるのかも知れない。今年は蝉が例年より多い気がしたが、暫く経てば少しずつ減っていくだろう。秋へ近づく度に。

「あれえ。誰かと思ったらあ、ブヨーくんじゃん」
「ブヨーではありません、芙蓉です。久し振りですねぇ、龍流兄さん」
「やあだ、昔みたいに『たちゅるにいちゃん』って呼んでくんなきゃやだあ」
「所で、そちらの方はどなたですか?」
「あっは、無視ですか。ねえねえ、セーヤくん。あのねえ、この子ねえ、カノーフヨーくん。美人だけどねえ、男の子なんだあ」

ふわふわと風もないのに跳ねる猫毛、長く伸ばされた前髪で目元が見えない年上の幼馴染みは、一年振りでも全く変わった様子がない。記憶では高等教育に進んだ頃合いだが、初めて認識した三歳の頃から精神面の変化はない様にさえ思えた。

「ねえねえ、短冊に何て書いた?僕はねえ、女の子になりたいって書いたんだあ。よいよねえ、女の子。女の子は謎めいててさあ、飽きないじゃん」
「兄さん、まずご挨拶させて頂けませんか?折角紹介して下さったのに、雑談への切り替わりが早過ぎますよ」
「えー?あは、ごっめーん。そっかあ、今のはちょっと、早かったかあ」

但し、体格だけは良い。去年よりも目に見えて背が伸びている。
ただ背丈があるだけで、明らかな栄養失調だ。全体的にひょろりとしている。そして良く喋る。案外明るい性格なのだろう、見た目は不審者な割りに。
他人の感情の機微が、病的なまでに全く理解出来ていないのは、彼の生い立ちによるものだ。空蝉を取り纏める四家の一角、今は無人の白虎と言う離れに、彼らは十数年前まで暮らしていた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「ああ、良い、冬月のこれにはもう慣れた。君は…冬月の弟ではないよな?」
「はい。初めまして、叶芙蓉と申します。今年13になりました」
「…そうか、若いのにしっかりしている。初めまして、遠野星夜です。歳は冬月と同じ15歳だよ」

ああ。
この男からは清らかな気配を感じる。初対面の相手には警戒から入る叶芙蓉が、努めて身構えても長続きしない程には。

「綺麗な言葉を使われますねぇ。東京の方ですか?」
「…ああ、まぁ、今はな。生まれたのは東北の寒い土地だったそうだ」
「あは!雪の中で生まれたセーヤくんとお、冬月くんが出逢うのはあ、運命だったのでーす!運命、うんめ〜い」

ひょろりひょろりと、風に揺れるすすきの様に落ち着きがない男を認め、叶芙蓉が溜め息を吐くのと、遠野が吹き出すのは同時だった。

「お前さっき帝王院公爵にも言ってただろう?…恥ずかしかったぞ」
「申し訳ありません、龍流兄さんがご迷惑を」
「ぶー。ブヨーが僕のお兄ちゃんぶってる、精通してない癖にー」
「お、おい、おま、冬月…!子供の前で何て事を!」
「おや?出ますよ、ちゃんと」

にっこり。
ただでさえ線が細く、生まれつき色の白い芙蓉は度々女と間違われる。

「これでも一応、十口の世継ぎですからねぇ」
「…だよねえ。火の宮様よりずーっと、早死にしそうだもんねえ」
「ふふ。ですから、春から高等教育を受けています。当主としては当然の責務ですが、兄さんは『わざと』馬鹿な振りをなさってらっしゃる様ですねぇ」

その妖しいまでの中性的な微笑みを真っ正面から受け止めた男共は動きを止め、冷や汗を垂れ流す遠野の傍らで、もう片方は揶揄めいた笑みを放った。

「まあね。此処だけの話だけどさあ、雲の宮様ってえ、いつ見ても不細工だよねえ。眉毛太いし」
「ひぃのみやさま?冬月、それは先程お会いした火の宮様の事か?」
「…失礼ですよ龍流兄さん、今の発言は撤回なさい」
「あは。こんくらいよいじゃない、大殿は一人娘が可愛くて堪らないんだ。…お陰で、愚か者が息子をつがわせようとしている・ってねえ」

くつくつ、面白くもない癖に笑う声。
事情が読めないらしい遠野星夜は、冬月龍流の様子に不審げだったが、聡明にも沈黙を貫いた。
場が場と言う事もあり、若い彼は緊張しているのだろう。

「ふふ。相変わらず、冬月様は野心を拭いされない様で」
「まあ、本当なら火の宮様はお馬鹿君と結婚した筈だった訳でえ、そうなると姉さんも僕も産まれてなかった訳だからさあ。恨んでるみたいだよお、表立って火の宮様に言えないだけにねえ?…下らないと思わない?」

良くも自分の父親を此処まで馬鹿に出来たものだ。

「家族より強い絆の空蝉に、僕らは唯一の異端なんだよねえ。宮様に逆らうなんてさあ、あの榛原でさえ一人も居なかったんだよお。主人に牙を剥く馬鹿犬の子供なんだあ、僕」
「…おや、まるで誰かに言われた様な口振りですねぇ」
「えへへ。お母さんがねえ、初めて僕とお話ししてくれた時にねえ、言って下さったんだあ」

灰皇院四家のどれを見ても、冬月ほど家庭内調和が取れていない家もないだろう。血の繋がりがない家族が多い十口や雲隠でさえ、家族間の結束は強い。

「僕の名前はお母さんがつけたんだよお。空蝉は空から産まれた空の子だからねえ、いつか空に帰っていける様に、『龍』なんだあ」
「榛原の殿方は空そのものを名乗り、雲隠は姿なき名を名乗り、明神は名を存在させない」
「あは。そう、全ては空蝉…蝉の抜け殻である様にねえ」

子供を突き放す様な台詞を吐く母親を、けれど息子は未だに慕っている様だ。声音にも前髪に隠れていない口元にも、嫌悪は見てとれない。

「抜け殻の癖に御主人様を恨むなんて、馬っ鹿だと思うでしょ?死ねばよいのにねえ、あいつ」
「おやめなさい、龍流兄さん。人に聞かれますよ」
「あは」

雲隠桐火との結婚を逃し、別の女と結婚した冬月の現当主の元には、一人目に娘、二人目に跡継ぎである息子が出来た。以降、夫婦関係が悪いのは風の噂に聞くほどだ。


「…恨みはどの記憶よりも強く残るものだ、冬月」

染み渡る様な声で呟いた男に、龍流と芙蓉の視線が注がれた。事情は判らないながらも、彼なりに友人を慰めているつもりなのだろう。

「セーヤくんはそうなのー?僕はねえ、全部残ってるよお?よい事も、よくない事も、ぜ〜んぶ。あは」
「十の幸福は一の憎悪で容易く上書きされる。人には百八の煩悩があり、除夜の鐘で拭わねばならない。けれどそんなものは迷信だ」

もしかしたら、彼はとても賢い男なのかも知れない。冬月龍流に対等に付き合える人間など、少なくとも身近には居ないと芙蓉は思っていたからだ。

「迷信では人は救えない。富士山に登れば長寿が約束されるだの、富士の灰を飲めば不老不死になるだの、この世は嘘ばかりだ。人の煩悩が消える事はない。努めて表に出さないよう、腹の奥にひた隠しにするばかり」

清らかな言葉は真っ直ぐに刺さる。研ぎ澄まされた刃の様に。

「お前は人の感情が判らないんじゃない。自分の感情を殺し過ぎて、麻痺しているだけだ、冬月」

ぽかんと、口を丸く開いている龍流は大人しい。芙蓉は口元に手を当てて、微笑を零した。

「おやおや、龍流兄さんのご友人とは思えないですねぇ」
「セーヤくんはねえ、双子だったんだってえ。お兄さんがねえ、居たんだよお」
「…居た?」
「ああ、死に別れたんだ」

何の感慨もない声で吐き捨てたのは、ふわふわと跳ねる猫毛で両目を隠している男ではなく、不思議な色合いの双眸を持つ男だ。慌てて謝ろうとした芙蓉の気配に気づいたのか、彼は彼を呼ぶ女性の声に顔を向け、挨拶もそこそこに離れていった。

「…失礼な事を言ってしまいましたか?」
「よいんじゃない、気にしてないってゆってたしい」
「龍流兄さんは記憶力は優れてらっしゃいますが、それ以外は底抜けにお馬鹿ですからねぇ。ふぅ。まぁ良いでしょう、ひとまず私は大殿にご挨拶を…」
「やめとけばあ?あのねえ、おとーさんねえ、おかーさんに叱られてたからさあ」
「宜しいですか龍流兄さん、大殿と桐火様をお父さんお母さんなどと呼ぶのは失礼ですよ?」
「ブヨー、若いのに堅いよねえ。龍流くん、悲しいなあ」
「おやおや、記憶力以外与えられていないのに、その記憶力までなくしてしまったんですか?お馬鹿さんな龍流兄さんに何度でも教えて差し上げますよ、私は芙蓉です」
「ブヨー」
「ふぅ。…まぁええ、龍流兄さんなんやいつでも殺せますよってなぁ」

呆れ混じりに呟けば、目の前のヒョロ長い男は息を急き切らす様に腹を抱え、笑い転げた。これ以上は相手にするだけ無駄な様だ。

見れば、ただでさえ寡黙で大人しい帝王院当主が、青を通り越して白い顔で正座されられている。その隣では真紅の瞳を持つ恐ろしい程の美女が、無表情で立っていた。

「お誕生日に叱られるなんて…今度は一体どんな夫婦喧嘩でしょう」
「ふ…ふふふ…ふ。お父様はお客様にご挨拶なさっただけ…」

背筋が凍る様な声音に、叶芙蓉はぴたりと動きを止める。
気配には聡い筈の芙蓉が気づかなかった理由は単純に、何の気配もなかったからだ。
恐る恐る振り返れば、邸宅の庭に設えられた植え込みから、黒い何かが顔を出している。…ああ、顔だ。確かに顔の様だが、それは黒いほっかむりを被っている様に見えた。無情にも。

「女性のお客様に…『美しいお嬢さん』だなんて…ふ…ふふ…ふふふふふ…何て迂闊なお父様…ふ…お母様が『伝説の除夜のケツ』を鳴らしてしまうのも…無理はない…く…くく…っ」

芙蓉の背後から「きゃー」と言う笑い声混じりの悲鳴が聞こえてきた。振り向く必要はない。

「あ、あの、お久し振りです、雲雀様」
「…」
「何故目を閉じていらっしゃるのですか?」

沈黙が落ちる。
何処からどの角度でどう補おうと『変な人』でしかないそれは、帝王院俊秀がこの世で最も可愛がっている一人娘の、帝王院雲雀だ。

「こ…」
「こ?」
「こんな根暗で足が短くてマロ眉な小娘の名前を覚えているなんて…」
「は?」
「きっと私なんかに媚びへつらってお父様の覚えをめでたくする魂胆なのよ…ふ…侮れない…ふふ…十口ィ」

ああ、めっちゃ怖い。
然し口が裂けても言えやしない。背後で笑い尽きて死んだ様に動かなくなった男の事など構わず、『トクチィ…』と呟き続けるほっかむりをただ、見つめたまま。

「ひ…雲雀様…?」

困惑する叶芙蓉に何を思ったのか、不審過ぎる帝王院雲雀はしゅばっと植え込みの中に潜り込み、カサカサカサと言う音を残して何処ぞに去っていった。らしい。

「あは!ゴ、ゴキブリみたいだったねえ!あは、あはっ、あっ、あはっ!」

冬月龍流の笑い声以外何も聞こえない事に気づいた芙蓉が振り返れば、曰く『G』の両親は揃って美貌を真顔で染めて、娘が消えた植え込みを眺めていたのだ。

「………雲雀は何か悪いものでも食べたのか、桐火?」
「拾い食いはするなと言い聞かせた筈だが、我が娘ながらあれの考えている事は窺い知れん。誰に似たのか…」
「すまん」
「…俊。すぐに謝る男は好かんと言った筈だが、オレを怒らせたいのか?」

華麗なる尻への回し蹴りが決まった。
華麗に吹き飛んだ男の名は帝王院俊秀、無表情にも等しい無愛想な真顔で滝の様な涙を迸らせている。

「…何と好い蹴りだ、桐火」
「照れるではないか。そう誉めるな」

女ながら男物の着流しを纏うその妻は、地に伏した旦那を片腕で引き摺りあげると、漸く、無表情に笑みを浮かべたのだ。

「オレの…私の可愛い俊秀…。お前は犬の様に這いつくばる姿が、よう似合う」

帝王院俊秀以外の心の声が、この時、恐らく揃った。


「あは。…キリカおかーさん、ちょー恐い」

然し口にしたのは一人だけだ。












神よ。
私にはただ一つ、願いがあったのです。


汚れを知らぬ子供達を。
分け隔てなく私を慈しむ、優しい魂を。



ただ。
命に代えても守りたかった。






「また来たのか」

森の奥深く、ひそりと佇む神木には、黒い男が住んでいる。
彼の肩には、真っ赤な火の様な紅葉が一枚、常に乗っていた。

「…ふむ。では、秀皇の子が神の名を持つのか?」

不思議だろう。
彼は全てが黒かった。髪も眼も、肌に巻きつく蕀の様な紋様すらも、全てが。

「雲雀には叶、鳳凰には加賀城、駿河には東雲。縁とはまるで楔の様に、系譜を紡いでいく。如何に離れようとて、必ず戻ろうとするものだ。戌であるお前には判るだろう、秀隆」

そう、彼には私の言葉が判る様だ。
私は気づいていた。彼から秀皇と同じ匂いがする事を。彼の声が、優しい駿河に良く似ている事を。

「我が家に神が生まれ落ちる。俺が最期に得た宣託は現実となったか」
『宣託?』
「俺には白狐に見えた。あれは、何だったのか」

帝王院の山からは、彼と同じ気配がする。
けれど何故か、私の帰る場所にはその気配がない。私はそれが不思議だった。

「我が子、鳳凰は空蝉の楔を絶ち切った。榛原の力を濃く継承した鳳凰の遺言に、雲隠の力を濃く継承した駿河が逆らう事はあるまい。…世は諸行無常の一言に尽きる」
『私をその名で呼んだ男が居た。貴方と同じ、黒を纏う男だ』
「鶻の孫だ」
『はやぶさ?』
「冬月鶻。俺の従兄に当たるが、俺が雲隠の当主を娶った事に憤り、京都から出ていってしまった」
『…何故』
「雲隠は代々短命な家だ。…何の因果か女系でな。男が滅多に生まれない。故に、若い時分から女共は子作りを急ぐ」

まるで獣の様だ。
静かな声音で呟いた男は、何ら表情が変わらない。呪いの様に巻きついた蕀にも構わず、神木に背を預けたまま。

「我が帝王院を誰よりも支えてきた家だ。争いが絶えなかった時代、幾つもの命を摘み取ってきた。故に、彼奴らは『狗』と謗られ続けてきた。全ては、帝王院の罪を被る為に」
『犬。私と同じ、雲隠』
「稀に、雲隠には血の濃い者が産まれる。他を凌駕する神憑った身体能力だ。それが男であれば、火種となりえる」
『…では』
「判ったか。雲隠に男が生まれた場合、生後間もなく榛原の当主が歌う仕来たり」
『歌?』
「帝王院に対する絶対的不変の忠誠心を強いる為に」

雲隠桐火は女として成長した11歳の時に、子作りを強いられた。彼女には生まれたばかりの妹が居たが、その子が育つまで待てなかったのだろう。

「だが桐火は家の決定に逆らった。ついでに、子供の頃の怪我が元で、片耳が不自由だった。それが理由か、榛原の催眠が掛からなかったらしい。灰皇院四家は、火種になりえる雲隠桐火の処分を決定した」
『死んだのか』
「いや。見えるだろう、この艶やかな紅葉が」

初めて淡く笑んだ男は、肩に乗せていた赤い葉へ指を伸ばす。彼が触れた瞬間それは、一房の鬼灯へと姿を変えた。

「これこそ我が妻、桐火だ。鶻との結納が破綻した後、俺の弟、秀之との婚姻を蹴り、俺を選んだ」
『犬が主人を選ぶのか』
「四家全ての力を濃く継承した俺は、幼い頃から遠巻きにされていた。人成らざるものが見えると言わば、化物と罵られても仕方ない」
『化物…』
「見ろ。死後、俺の魂は神の木に縛られた。我が子、雲雀と鳳凰の魂は既に浄化している。理由が判るか、秀隆」
『呪い』

彼は真っ黒だ。
闇へと闇へと染まっていくのが、犬である私にさえ理解出来る。

「俺の魂は間もなく消える」
『何処へ』
「伊耶那美の元だろうと思ったが、今となっては判らん。肉体を失い、魂だけ残り目覚めてからは、長い間この場に縛られ続けた。世界中に散った我が系譜が集う気配を感じながら、繰り返し日が昇るのを眺める…」

木々の隙間から空を見上げる漆黒の眼差しを追い、私は一つ、鳴いた。
まるで狼にでもなったかの様に。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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