帝王院高等学校
いつやるの?!今!今!今ァ!
「なぁ、お前さ」

それはいつもと同じ様に。
つまりは何の脈絡もなく、だから昨日までと何ら変わらないその瞬間、日常と言う不変であるべき普遍に亀裂が走る音を聞いたのだ。
例えるのであればそれは、ヴァイスとシュバルツが交わる、グラオの世界。
(昨日までの白に)
(黒い染みが落ちる最中)
(灰色の世界へと誘う入り口)

「何か、近くね?」

最初は脱色剤の鼻につく匂いに文句ばかり吐いていた子供は、綺麗なキュルビスに染まった髪を弄りながら、フローリングに敷いたキルトラグの上に寝転がったまま。いつもと同じ怠惰なスタイルで雑誌を眺めた姿で。
だからいつもと同じ様に、その背中に頭を乗せてすぐにでも夢の中へ旅立つ間際だった自分の眠気が何故消え去っているのか、など。
改めては、知りたくなかった。

「…近いって、何がだよ」
「何つーか、パーソナルスペースって聞いた事あるっしょ?」
「さぁ?意味判んね」
「だからよ、最近俺らさ、何だかんだブレザー着てる訳だし」
「最近っつーか、昨日からな」

中等部始業式典は昨日、なのにもうサボっている今現在。
昨日初めてやって来た異邦人。ならぬ昇校帝君と一悶着起こしたばかりの高野健吾が、前期必須カリキュラムであるドイツ語の授業をサボったのは、別に神崎隼人の顔が見たくないと言う訳ではなかった。と、思われる。

「つーか寝そうな時に意味判んねー話すんな」
「あ、悪ぃ(´・ω・`) …じゃねー。オメーな、授業中に寝んなし」
「あー?授業中に寮戻ってグラビア見てるのは良いのかよ」
「これは立派な大人になる為に必要な教材っしょ!(´Д`)q」
「垂れた乳で大人になりたくねーな」
「オメー、ンな事言ってると一生童貞で終わるぞぇ?」

パラパラと雑誌を捲る音が聞こえた。
ちらりと閉じていた瞼を開けば、俯せで寝転がった健吾はその艶やかな頭しか見えない。何度も何度もブリーチを繰り返し、カラーリングを施したオレンジ色の地毛は、栗色の茶髪だと知っている。

「童貞の何が悪い」
「俺がホモから言い寄られるのって、童貞臭が滲み出てるからだと思うんだよ(´皿`) 隠し切れねーフェロモンっつーか?」
「だったらオレも言い寄られんじゃねーか?」
「ユーヤは声変わりしてっから良いんだよ!」
「意味判んねーぜ」

健吾が声を荒らげる度に、背中が上下した。
それと同時に跳ねる頭には構わず、藤倉裕也は開けていた目を閉じる。話はこれで終わりだとばかりに寝る態勢だが、そうは問屋が卸さなかったらしい。

「だから、あんま引っつくと暑くね?」
「ケンゴ、だからの使い方おかしくねーかよ」
「何やかんや春な訳だし(´・ω・`)」
「…嫌なら着なきゃ良いだろ。別に式典以外は私服で良いんだからよ」
「や、だって、カナメは制服着てるじゃん。総長は授業出ねーから知らねーけど…」

彼にしては煮え切らない台詞だと、何故かその時は気づかなかった。恐らく、嫌な予感を振り払う様に、話を終わらせたいと焦っていたからかも知れない。

「総長は帝君だから授業出ないのは仕方ねー。つーか、去年から中央委員会書記になったんだろ?」
「じゃねーって。ンな話はどうでも良いっしょ、俺の背中はオメーのテンピュールじゃねーんだべ?知らんかった?(*´Д`)」
「…あー、それなら知ってるぜ。ベルリンの日本食レストランでスゲーのあったよな。レモンの天ぷら」
「Scheißdeutschen!(馬鹿か!)」
「マジかよ。お前は今、世界中のドイツ人を敵に回したぜ?」
「お寝惚けジャーマニーに教えてやんよ、Kissenの事だっつーの(´Д`)」
「最初から枕って言えや、全く日本語が下手な奴だぜ」

けれどその時までは無意識だった。それが悪い事だとは思いもしなかった。言っただろう、当たり前だったからだ。

「ヒロニャリ、最近可愛くねーぞぇ(´・ω・`)」
「馬鹿抜かせ。どの角度から見ても可愛い中学1年生だろうが」
「お前そろそろ170cmあるんじゃね?」
「ねーよ、多分」

もぞりと、健吾の尻が揺れた。
昨日までは嫌がる素振りなど見せなかった癖に、どうやら若干本気で距離を置きたいと言っている様だ。理由を聞いても、十中八九本音は言わないだろう。見た目に反して、頑固な男だ。

「あー、えっと、…俺やっぱ授業出よっかな(//∀//)」
「5限と6限はドイツ語と中国語だぜ」
「オメーはドイツ人だけど!俺は日本人だし!」
「英語ドイツ語、中国語にオランダ語まで喋れる癖にかよ」

産まれた時から、世界中の演奏家が集まった楽団で暮らしてきた子供は、音楽を奏でるのと同じ様に、様々な言葉を話す。だからこそ天才だと謳われたのだ。

「Kommt nicht infrage.(意味判んねー)」
「テメ(;´Д⊂)」
「何が言いたいか知らねーけど、7限の音楽鑑賞に出たいなら、それまで寝かせろや」
「………出ねーよ。ンな単位にもなんねー、面白くなさげな授業(ヾノ・ω・`)」

彼は未だに楽器を愛している。
己のカルマを刻む様に、その胸元の指揮棒が告げていた。

「もう良いっしょ、俺も寝る。腕枕しろし(°ω°`)」
「おー、オレテンピュールで爆睡しろや。つーか、良く考えたら、レモンはイタリアのもんだぜ…」
「寝言は夢の中でほざけっての。俺ら、レモンの天ぷらなんか食った事ねーだろ」

わざとらしい程の狸寝入りと同時に、頬に溜め息が掛かった気がする。


「誰と間違えてんだ、馬鹿め」




















「良いか、大人しく車の中で待ってろよ?」
「「はーい」」
「………約束だぞ」
「指切りげんまん?」
「嘘吐いたら針千本?」

最後まで何か言いたげな、明け透けに言わば疑いの眼差しで遠ざかっていった背を暫し目で追い掛けて、同時に煙草の火を消した二人はそれぞれ左右のドアに手を掛け、躊躇わずに外へ降り立った。

「お、潮の匂いが濃い。さっき見たか?」
「見ましたとも。海でしたな、兄貴」
「海と聞いて血が騒がない男なんて居ると思うか、なぁ?」
「いやー、居ないでしょうなぁ。ねぇ?」
「千葉の海岸沿いのケアホーム」
「グループホーム立花って書いてましたな」
「将来的に俺も此処にお世話になるかも知れない訳だし、下見しても良いんじゃない?」
「榊さんは大人しく待ってろって言ってましたけどね〜、男前ポーズで〜」

真っ白い病院の様な建物の駐車場に降り立って暫く、部外者は退散とばかりに、車で上ってきたばかりのなだらかな坂道を徒歩で下れば、遮るもののない大海原の水平線と淡い色合いの春空が見えてきた。

「近くに見えたのに歩くと結構あるな、やっぱり」
「市街地からかなり離れてるし、この辺り一帯が敷地なのかもよ。あ、飛行機…」

青空をボーイングが飛んでいく。有名な空港が近いのは知っているが、飛び立つ間際のジェット音は物凄い迫力だ。

「乗ってる時は判らないが、騒音以外の何物でもないな」
「でもないと困るしな。アンタだって、明日にはアレに乗って帰るんだろ?」
「まぁな」

ガードレールで舗装されている峠の崖縁で一息吐いて、腕に掛けていたジャケットのポケットから取り出した携帯を見やった男は、揶揄めいた笑みを浮かべる。

「何処かから下に降りれそうだと思わないか、千明」
「木の間から砂浜見えるけど、この崖を降りるのは無理じゃね?」
「昔は港の岩礁から海に飛び込んだりしたもんだがなぁ。流石に50歳を回ると無理か」
「諦めて歩けって」

文句を吐きながらまた暫く坂を下れば、途中でガードレールが途切れた。
海沿いの木々を掻き分ける様に、コンクリート造りの古びた階段が下に伸びている。かなりの急勾配だが、手すりの様なものはない。

「これは………結構高いぞ」
「でもこの下で、海が俺達を待っているのであ〜る」
「仕方ないな、水着のギャルに待ってるなんて言われたら、そりゃオジサン頑張っちゃうわ」
「居ねーよ、四月末に水着のギャルなんて。つーかギャルって言葉のチョイスな。古っ、マジいにしえ」
「いにしえって言うな(`・ω・´)」

肩にジャケットを放る様に引っ掛けた男の台詞に、一瞬顔文字が見えた様な気がする。が、傷一つないブランドものの革靴で軽快に階段を下りていく背は、後ろから見ても歌っている様に見えた。

「ショーンってあれだ、全身が音楽で出来てるみてぇ」
「…は?何だって?」
「いんや。なぁ、アンタってアーティストって奴だろ?」
「って言うのは、お前みたいな髪型の奴を言うんじゃないのか?」

覚束ない足元を注意深く窺いながら、踏み外さない様に一段ずつ下りていく。ビルの三階分以上はあろう高さから見える眼下は、未だ遠い。

「俺のお洒落ヘアーは別にどうでも良いんだよ。音楽やってなかったら、何になりたかった?」
「俺か?さぁ、どうだろうな。考えた事もない」
「音楽一筋って奴かよ。流石だね」
「と言うより、外に出られるなら何でも良かったんだ」
「外?」

肩越しに振り返った男は、上質なシャツのボタンを幾つか外しながら再び下へ下へと下りていく。潮の匂いが濃くなる気配。生暖かい風が頬を撫でた。

「知らない住民が居ないくらい小さな港町の、真新しい事なんか何もない田舎に嫌気が差した。15歳の時だ。今の健吾と同じくらいの時だった」
「都会に行きたかった?東京生まれの俺には判んねぇけど、上京してくる奴らは大体そんな事言ってんな」
「少し違う。別に何処でも良かったんだ。ただ代わり映えしないいつもと同じ毎日に、満足するのが嫌だっただけ。不満がない事が不満だった…ああ、言葉にするのは難しいな…」
「判る様な判んない様な」
「国語と数学と化学が苦手だった」

深刻な声音だ。
どんな顔をしているのかと思ったが、ざわざわとざわめく木々の向こうに広がる海が近かった為に、意識はそちらへ逸れる。

「寧ろ勉強全般が嫌いだった。方程式だの使いもしない漢字だの発電の仕組みだの覚えて、将来何の役に立つんだ」
「それなりに立つんだろ?俺も成績悪かったし未だに追試浸けだから偉そうな事ぁ言えねーけど、ケンゴは無茶苦茶頭良いじゃんか」
「佳子に似たんだ」

上から見たら判らなかったが、砂浜は幾らか離れている様だ。階段の先は、波が打ち付ける岩場らしい。釣り人くらいしか足を運ぶ事もないのではないだろうか。

「奥さん」
「または、健吾の母親。向こうは俺を夫とは思ってないだろうからな」
「悲しい事言うな。虚しくなんねぇの?」
「慣れた」
「絶望的だよそれ」
「生真面目で負けず嫌い。下手に生真面目な所為で自分に自信が持てなくて、融通が利かない女」
「それってSにはご馳走じゃん」
「俺だって毎日苛める訳じゃないぞ?時々ぐうの音もないくらい陥れてやりたいとは思うが、勿論フォローする。そもそも、相手に悟らせない悪戯じゃないと意味がない」
「何それ怖い」
「彼女は、端から日本で終わる事なんか考えてなかった。地元から離れる為に音楽を選んだ俺には、彼女のひたむきさは眩しかったものだ」
「ああ、価値観の違いって奴。良い意味で」
「そう、良い意味。いつから狂ったんだろうな…」

先に岩場に辿り着いた男が、空気を吸い込みながら噛み締める様に呟くのを聞いた。知り合ったばかりの他人の前で、随分無防備だと思ったが、逆に然程知らない人間だからこそ、誰にも言えなかった弱音の様なものが吐けたのかも知れない。

「他人の餓鬼なんか引き受けちまうからだろ」
「あれは一因でしかないさ。遅かれ早かれ、佳子は俺から逃げた」
「もう。聞いてる俺が悲しくなってきただろ、やめろよ」
「結婚する前からだ。彼女が俺を男として見ていない気がしていた」
「はぁ?」
「何て言えば良いのか…男と言うより、憧れの指揮者?狭いアジアの若き天才なんて持て囃されていた時期があるんだ、これでも」
「おいおい、自虐的になんなよ。クラシックは良く判んないけど、俺だってショーンが有名人だって事くらい知ってるかんな?」
「ああ、それだ。音楽を聴くだけの一般人から受ける称賛と、音楽をやってる人間からの称賛は違うんだ」
「無知と有識の違いって奴?」
「んー。ある意味、嫉妬が目に見えた方が勝った気になる」

確かに国語が苦手だと言う意味が判った。
高野省吾と言う人間は、どうも口下手と分類される人種なのだろう。意味が判らないと首を傾げれば、キョロキョロと岩場を窺った男は、足元を覗き込んだり岩の隙間に手を突っ込んだり慌ただしい。

「うーん。ちょっと判ってきたぞ、ショーン兄はすんこよりだ」
「は?すんこ?」
「日本一口下手な男、すんこ」
「すんこ」
「遠野俊って言う、俺の愛弟子」
「おお、愛弟子か。舎弟だの弟分だの言ったか?」
「はは、ビーバップ世代だね〜。あのすんこを舎弟にしたがる奴なんか存在すっかな」
「?」
「兄貴、嵯峨崎佑壱は勿論知ってるんだろ?」
「ああ、嵯峨崎財閥の次男だろう?カルマと言うチームで暴れまわってるらしいな。タクシーで聞いた」
「ケンゴはカルマの初期メンバーで、今は幹部四天王の一人。大体いつもユーヤと二人組扱いだ」

ふじつぼを見つけたらしい男は、岩に張り付いた物体を四苦八苦しながら引き剥がそうとしているが、すぐに諦めて立ち上がった。上等なスーツ姿が、背景の岩場とはミスマッチだ。

「リヒト…裕也君にはいつも面倒な役を頼んで、申し訳なく思ってる。健吾を一人日本に残して行けるのも、あの子のお陰だから」
「そっか」
「ほっほう、その辺りの事情は承知してる?」

探る様な大人の目に見据えられ、気後れ気味に頬を掻く。暗い世間話かと油断していれば、結局はそう言う事らしい。ただの好奇心だろう。本当に、親子そっくりだ。

「例えば今日までの妻が明日には他人になるかも知れない。ああ、妻じゃなくても、友人でも良い」
「…タチ悪い」
「有難う」
「誉めてねぇっつーの。言っとくけど無駄だから」
「無駄か」
「知らなきゃ良いものを知る必要はないっつーこった。頭の中に存在しない知識を、喋る恐れはない訳で」
「成程」
「だから俺は、榊が誰であろうと知りたいとは思わない。知る必要もないと思ってる。だってさ、榊は榊なんだよ」

ざぱりと、寄せて返した波しぶきが皮膚を叩く。
濡れた頬を拭ったのは二人同時で、弾かれた様に空を見上げたのは目の前の男だけだ。

「…何だ、この音」
「何?」
「あっちだ」

鋭い眼差しで小さな砂浜の上空を睨んだ男は、歪む空へ指を差した。

「うひゃひゃ!見ろよ千明、あそこだけ空が歪んでやがる!」
「ちょ、」

駆け出した男の、まるで子供の様な笑い声が響くばかり。

















「俊」

ああ、まただ。
静かな静かな声が、近づいてくる。

何の足音もなく。
まるで、鬼火の様に。

「とし。とし。俊。何処へ隠れた、私の俊秀…」

ああ。
ただちょっと、息子の顔が見たいと思っただけなのに。

「何処へ隠れても私にはお前が見える。俊、俊、俊秀…」
「もう許してくれ、桐火」
「私を一人にするつもりなのか」

火だ。
静かな山間の屋敷に、ゆらゆらと。黒くも赤い、火の玉が漂っている。

「誰にも私が見えない。この腹を痛めて産み落とした、愛しい鳳凰にさえ…」
「それはお前が常世の住民だからだ」
「私を残し外へ出る事は許さない。俊、俊、愛しい俊秀…」

雑念が多い様だと息を吐き、妙に静かな庭先を一瞥した。
相手にしても意味はないと知っているのに、この声を聞いてしまえば黙ってはいられない。逃げられないと言う事だ。大切な妻と同じ、その声からは。

「早く早く、千本の鳥居を戻っておくれ」
「…」
「天神の細道に迷い込む前に」

離れた所に、鬼灯が一つ、実をつけている。

「そこにいるのか、桐火」
「私は此処に居るよ、俊秀」
「いいや。我が妻は、お前の様な怨霊では決してない。…黄泉へ還れ、母なるイザナミの元へ」

胸元に忍ばせておいた塩を取りだし振り掛ければ、亡き妻の声は人のものとは思えない断末魔を残して消えた。先程までの奇妙な静寂に、夥しい程の蝉の鳴き声が戻ってくる。

「本物のお前は、声すら聞かせてくれないのに。…桐火、神木に傷をつけた俺は未だに生き永らえ、どうしてお前が先に逝ってしまったのか」

近頃結婚したばかりの息子の元に、孫が出来るまでは。
今はそんな淡い望みばかり抱えている。百まで生きたいと言うのは流石に図々しいだろうと目を伏せれば、ざわりと、森が一度嘶いた。

「………?」

この目には、現世と常世が見える。
産まれた瞬間から、現実と幻想の境が曖昧だった。それは陰陽道に連なる系譜だと言う証であると共に、己が人ではないのだと思い知らせる証でもある。

「白狐」

戦争が終わり、日本は海外の文化を受け入れた。
茶葉の代わりに焦がした豆を使う家政婦、人と共に建物の形も変化していく。
そんな外の世界から離れた山奥に、白い狐が現れた。これには余りにも現実味がない。

「近頃、イザナミの姿が見えない。桐火が死んだ頃からだ」

然し帝王院俊秀にとって、この世もあの世も大差なかった。
俊秀には産まれた瞬間から、黒い影が見えている。それは徐々に女の形を成していった。
その女は常に目を閉じている。けれど時折、その瞳が見開かれている時があった。その女が見ている人間は、間もなく死んでしまう。俊秀がそれに気づいたのは三歳になる頃だった。
一番始めは祖父。次は祖母。そして両親。最後に見たのは、妻を見つめる黒い女の影。

女とは思えないほど強く、勇ましいまでに逞しかった妻は、それを話しても一切驚かなかった。寧ろ死期が前もって判るのは便利だと、笑い飛ばしながら宣った程だ。

「桐火が連れていったのだろうか。俺はあの影が陽炎を見ていた事を知っていた。故に、陽炎が姿を消した時は、生きているとは思いもしなかった。だが、我が子、鳳凰が連れて帰ってきた」

狐はじっと、こちらを見ている。
帝王院俊秀には幼い頃から生きてはいないものが見える。触る事は出来ないが、声も聞こえる。ただそれだけだ。
時折、俊秀を騙す悪霊が現れるが、彼らから直接触れてくる事はない。帝王院の一族には幾重にも結界の様なものが張られている様だ。並の雑霊は近寄る事さえ出来ない。唯一の例外は、死神の様な黒い女の影だけ。

「雲雀は元気にしているだろうか。芙蓉は雲雀を、大切に慈しんでくれているだろうか。俺の大事な娘…、桐火の子を」
『お前の子孫に神が産まれる』
「…神?」

理知的な面構えをした、真っ白な狐が初めて喋った。

『玄孫』
「俺の孫の孫が神だと?」

俊秀以外には見えない聞こえないそれは、幼い頃には良く見ていたものだ。今では夢の中に時折現れる。予知の様に、必ず選択を突きつけられるのだ。

『朝と夜が交わり、時の流れが巻き戻る』
「朝と、夜」
『その時、選択は成されよう。天守が辿った黄泉への道を征くも引き返すも、選ぶのはお前ではない』
「あまつのもり…始祖、帝王院天元の事か?ならば誰が選択を迫られる?」
『天守は龍の生まれ変わり…』
「龍」
『空を駆け、決して地とは交わらない「空」の子』

未だ、俊秀は現実とは違う次元に迷い込んでいるらしい。
ぽつりと実をつけた鬼灯の隣で、神々しい狐は語り続ける。神の使いの様に。

『三度天守が生まれ変わる時、それは108の贖罪を経た後、真の闇に黄泉さえ呑まれた刹那』
「…」
『お前は今、振り返ってはならない』

狐はその台詞を最後に、露の様に消える。
振り返るなとはどう言う意味だと首を傾げた瞬間、背後から女の忍び笑いが聞こえてきた。



「…そうか、居なくなった訳ではないのか」

その影は常に瞼を閉じていた。
彼女の目が見開かれている時は常に、誰かの背中を見つめているのだ。そうして、彼女が見つめていた相手は遠からず死ぬ。
一人残らず、どんなに足掻いてもそれは覆らなかった。一度として。
赤い、赤い、火の名を持つ赤毛の妻を思わせる鬼灯の実が、石榴の様に弾けた。ぶわりと全身を包む温かい何かに目を閉じれば、女の忍び笑いが遠退く気配。

「桐火、俺を守ってくれたのか?」
『前だけを見ろ』

幻だろうか。
勇ましい、亡き妻の声が聞こえてきた気がした。

「ああ。お前以外の女を見る必要は、俺にはない」

騒がしいほどの蝉の鳴き声、先程まで庭先の光景だったのに、今は木々深い森の中だ。
目の前に巨大な御神木が見える。

「…神よ。俺の後ろにイザナミの姿がある。だが俺は、まだ死ぬには早いらしい」

皺だらけの手を伸ばし、神々しい淡い光を放つ幹に触れた。



「ならば死ぬまでに出来る事をやっておくべきだ。姿を見る事は不可能に近い、子孫の為に」

漆黒の瞳に笑みを描いた男の放つ神々しいまでの威圧感を、見たのは大樹だけだ。





















「空なる蝉の躯は、如何なるか」

縁側に腰掛け、将棋の駒をつまみながら呟いた男は、庭に大音量で響く蝉の鳴き声には構わず、ぱちりと駒を打った。

「民の数が減り、食糧難。いなごの様に蝉が喰えれば…この国はまだ、先が明るいのではないだろうか…」
「何ぶつぶつ言ってるの?」
「!」

ビクッと肩を震わせた男の指先から、ぽとりと歩が落ちる。
恐る恐る振り返った男は、赤子を抱いた妻が訝しげに見つめてくる様を認め、頬を染めて俯いた。

「うわ、一人将棋…」
「…言うな」
「そろそろお友達を作った方が良いんじゃない?」
「言うな…!」
「怖い声を出しても無駄よ。私には貴方の『声』は効きませんからね」

笑いながら勝ち誇った表情の妻は、お客さんですよと呟いて子供を抱いたまま部屋を出ていく。効かない事など言われなくとも知っているとばかりに、拾った駒をパチッと強めに打って、男は腰を上げた。

「誰だ、こんな朝っぱらから…」
「昼なら良いのか?」
「?!」

ぶつぶつ呟きながら玄関へ向かえば、酷く聞き覚えのある声が聞こえてくる。再びビクッと肩を震わせた男は、部屋着代わりの浴衣の襟がずるりと滑り落ちるのと同時に、目を見開いたのだ。

「お前の元に娘が産まれた祝いに来たが、邪魔だったらしい。すまんな」
「ご機嫌よう、お邪魔してごめんなさい」
「お久し振りです、榛原のおじさん」
「おっ、大殿?!そ、それに舞子の方様…駿河の宮様まで?!こっ、この榛原晴空に直々に祝いとは、何たる光栄…!」

土下座せんばかりの勢いで玄関先にひれ伏した男は、最早両肩が丸見えだった。小柄な体躯に何の見栄を張ったのか、そこそこ大きめの浴衣を纏っているからだろう。

「駿河の宮様に於かれましては七五三の儀、誠にめでたき報せでありました」
「お前は一体何回祝うつもりだ晴空。駿河の祝いは半年前の話だぞ」
「駿河ちゃん、ご挨拶はちゃんとしなさい。もう五歳なんですからね。良いですか、お母さんと同じようにするんですよ。こんにちは!帝王院舞子39歳です!」
「母上…」

誰よりも元気良くしゅばっと手を挙げて宣った女に、哀れ男達は動きを止めた。家の主人である榛原晴空は土下座姿勢のまま舞子を見上げ、思考停止したらしい。瞬きさえしない。
一方、母の暴挙に遠い目をしている帝王院駿河の隣、妻のあどけなさに感電した男は、ややあってからぷるぷると震え始め、遂にはクネクネとクネりながら、ばんばんと壁を叩き始めたのだ。

「何たる…!何たる舞子の可愛さよ、いとおかし…!ハァハァハァハァ」
「父上…」
「お気を確かに大殿!確かに舞子の方様は大変お美しくあられます!」
「あれ?皆さん、いつまでそんな所でお話ししてるんです?」

呆れた表情の榛原婦人が赤子を抱いたまま姿を現し、駿河の挨拶に柔らかく微笑んでから、舞子を見た。

「やっだー、舞ちゃん久し振り〜!相変わらず美人ね〜。上がってお茶しましょう?ねぇ、良いでしょう?」
「あら。それなら遠慮なくお邪魔するわね、絹恵ちゃん」
「駿河ちゃんも上がって上がって。あ、そうそう、この子は私の娘で美空って言うの」
「まぁまぁ、初めまして美空ちゃん。ねぇ、駿河のお嫁さんになって下さる?」
「母上…」
「舞子の方様のお美しさには到底敵いませんが、中々どうして、我が家の娘も器量が良く…」
「確かに糸遊よりはずっと、ずーっと美人になるだろう。だが俺の舞子の前では…ハァハァ…ハァハァ………はっ!こらこら舞子ちゃん、チミは鳳凰ちゃんを置いて何処に行く?浮気はいかんぞ?帝王院全権力を行使して浮気相手を破滅に追い込むぞ?」
「父上…」

かしましい女性陣&人格に色々難があるらしい財閥会長の前で、帝王院駿河は遠い目でお邪魔しますと呟いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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