帝王院高等学校
あんまノロマノロマとお言いでないよ
我が輪廻に絡む、全ての遺伝子へ。
 (呪われた系譜を宿した者達へ)
  (憐れなほどに愛しい、粉々に砕けた破片達へ)




「…?」
「だから十年前の消印なんだって」

迎えの車に乗って間もなく、運転手が渋い表情で口を開いた。
習慣と化しているフラッシュプレイヤーを聴いていた為、ヘッドフォンを外しながら聞き直せば、丁度赤信号で停止した途端、運転手は一通の封筒をダッシュボートから取り出す。

「十年前って、まだ所属じゃなかったですけど?」
「だろ?!可笑しいと思って一度は捨てようとしたんだけど、差出人の名前があの大企業と同じ名字で…郵便局に問い合わせたら、確かに昨日届いた手紙だって言うんだ。そしたら社長が…」
「面白いから俺に渡せって?」
「そう言う事」
「あの人らしいけど、俺が移籍するって言い出すとは思ってないんですか」
「おいおい、冗談はやめろって!…いや、これは見たくないなら良いんだ。かなり怪しいし」
「ふーん…。確かに十年前の消印、宛名は間違いなく俺の名前」

毒々しい程に赤い、封筒には黒文字の宛名。
流暢な字だと膝の上の赤を一頻り眺めて、封筒の角を指で摘まみ、恐る恐る持ち上げた。

「軽い。これ、ただの奇抜なファンレターじゃないんですか?」
「こっちはお坊ちゃんを預かってるんだぞ!」
「はぁ、そうですか。大変ですね、社会人って」
「大変だよ!労ってくれても良いんだぞ?!…秋葉原で買った金属探知機には引っ掛からなかった」
「経費?」
「当然だろうが、薄給舐めるな。…とは言え油断するなよ?お前は今売り出し中の、」
「帝王院財閥に『シン』なんて奴はいない」
「シンじゃなくてカイだろ?差出人は帝王院神威って書いてあったぞ?」
「まさか。マネージャーはこれが神威に見えるんですか?」

ひらりと持ち上げた封筒の裏を見せれば、ハンドルを握りながらちらっとこちらを見た運転手は、驚愕した様に目を見開いたのだ。

「はぁ?!気色悪い…!俺が見た時は確かに帝王院神威名義だったぞ?!」
「でもこれには帝王院神って書いてある。ご丁寧にSMってイニシャルつき。余程の当て字じゃない限り、神でSはシン以外に考えられない訳でしょう?…ほら、危ないから前見て下さい」
「お、おう…」
「でもまぁ、かなり趣向を凝らしたラブレターって事は判ったかな…」
「ストーカーだけに留まらず犯罪者ってのは、凡人には考えつかない事をするもんだ」
「ああ、何かの番組で特集してた。サイコパス」
「あんなのは気味が悪い奴ばっかだ。その手紙はやっぱり読まず捨てろ、社長には俺から上手く言っておくから」

人通りが少なくて助かった。
賑わう国道から逃げる様に、抜け道抜け道へと進んでいく運転席を横目に、首に引っ掛けたヘッドフォンから漏れる音を聴きながら、


「…東雲恭様、か。十年前に俺の名前を知っていたストーカーなんか、存在したんだ」

呟いた男の唇は微かに笑んだ。
無機質な眼差しの、ほんの近くで。








生きとし生ける者へ。
絶望ばかり強く残し、ささやかな喜びを容易く忘れてしまう者へ。

目には見えない、けれど何よりも強い繋がりを知っているか。
小指と小指を繋ぐ赤い糸に似た真紅の絆を。


血に刻まれた記憶は螺旋となり、見えない絆を描く。
俺は俺と言う個に流れる全ての糸を紡いで、一つの物語を作りたいと思っている。



その物語のタイトルを、知っているかい。










「…あ?親父が来日した?」

半裸の女を膝に乗せたまま、携帯へ喋り掛ける男の青い瞳にLEDによるイルミネーションが映り込む。
今度こそ最後の最後だぞと叫んだディスクジョッキーは、然しその台詞が既に何十回目かは気に留めていない様だ。穏やかな春の朝には似合わない、滝の様な汗を滴らせながらライトを浴びている。

『王家の間者から先程極秘裏に通告がありました。間もなく日本が闇に覆われると…既に手遅れかも知れませんが』
「はっ。面白ぇ、とうとう奴らが攻め込んできやがったって訳だ。これで日本はジ・エンドだ、良かったな」
『社長に連絡が取れなくなってから随分時間が経っています、小朱』
「真っ先に喰われるのは帝王院、東雲、加賀城、叶と嵯峨崎は残れたとして、アジアは名実共に中華人民共和国のもんだろ。どうした、もっと喜べよ」

下から突き上げるように女の体を揺らせば、鳴り響くBGMに合わせて喘ぐ唇をすぐ近くに見た。女の利点は柔らかい体だが、痩せ過ぎた女は薄い皮膚の下から固い骨の感触が、余りにも生々しい。

『すぐにお戻り下さい。社長が直々に出られる事態なのです。ご存じでしょう?帝王院財閥は、』
「…どうなろうと構うか。俺はもう東京にもそっちにも戻らねぇから、自分らの問題は自分らで片付けろ」
『小朱!』
「很漂亮(綺麗だな)」
「ん、…なに?」

耳から囃した受話口の声には構いもせず、目があった女に笑みを浮かべながら呟いた男は訝しげに首を傾げた女を認め、漸く己が日本語を話していなかった事に気づいた。

「なぁ、従兄弟なのに再従甥って関係は日本語で何っつーんだ?」
「…はぁ?知らんわそんなん、こんな時に何考えてんの?」
「お前の骨が当たってイケそうにねぇ」
「っ、ほんま最低!死ねっ、アホ朱雀!」

振り上げられた女の平手を軽く避けた金髪の男は、半分脱げ掛けているボトムスを適当に引き上げ、右手で携帯をポケットへ放り込むのと引き替えに、左手でもう片方のポケットからスマホを取り出す。

「おーい。総長、もう帰りはるん?」
「もうも何も、とっくに朝になってんだろ」
「嘘っ、もう9時なん?!」

夜通し騒がしいクラブから外へ出れば、眼球を突き刺す様な日差しに目を細める。それと同時にコンタクトレンズがごわごわと違和感を発したが、男は構わず人気を避ける様に路地裏へ身を翻した。


「何がグレアムだ、ゼロの後釜の分際で調子に乗りやがって…」

乱れた髪を手ぐしで整えながら、もう片方の指は忙しなくスマホを滑る。

「…帝王院秀皇が姿を現したのと同時に、グレアム総襲とはな。腐れ叶二葉と馬鹿嵯峨崎はともかく、高坂の野郎はもう少し賢いと思ってたぜ。所詮、小日本か」

漸くメモリから掘り出したナンバーへ素早く発信したが、無愛想な女のガイダンスで繋がらない。

「裕也の野郎が出ねぇのはいつもの事として、健吾の番号なんざ知らねぇぞ。…青蘭も出やしねぇ」

ふーっと、長い溜め息を吐いた男は最終手段で、最も掛けたくない男のナンバーを掘り出した。勝手に登録されたものだ。それも、高野健吾と言う、ただの馬鹿に。

『はあい、こちら隼人君のケータイだよお☆ただいま隼人君は売れっ子故にちょー多忙だからあ、ピーっと言う発信音の後にメッセージを残してもよいよ?』
「待て、何で出ねぇ。おい、バ神崎の癖に居留守使ってんじゃねぇ!俺のコールには一秒で王道しろっ、バ神崎!」
『ピー』

どうやら『応答しろ』と言いたかった様だが、それを指摘する者はなかった。










タイトルは『生涯』。


ありとあらゆる糸を紡いで、それは漸く形を表すだろう。そうしてそこで、初めて名を知るんだ。

己の本当の名を。
俺と言う人間の崩壊と共に。









(幾つもの過去を紡いで)
(今と言う現在を呑み込み)
(未来へと誘われるだろう)







さァ。
時をせ。





(届かぬ未来ではなく、)
(狂った今でもなく、)














(時の始まりまで)













「あっは。あはっ。本当に馬っ鹿だなあ、あの人」

ティーカップからスポイトで抜き取った液体をシャーレに落とした男は、薬品が詰まっているらしい瓶から一滴落とし込み、変色したシャーレに眼差しを細めた。

「僕が死んだら、家財を自由に出来るとでも思ってるみたいだねえ。あは。あは、あはっ、ひっ、あは!げほっ」

何が可笑しいのか、男はティーカップに注がれた赤みの強い紅茶を掴み、笑いながら口をつける。

「…うんうん。よいよ、お望み通り早死にしてあげようねえ。生きてる年数が増える度にさあ、下らない記憶ばかり蓄積されてくんだあ。流石に頭が可笑しくなっちゃうよ…」

クスクスと、何が可笑しいのか肩を震わせながら。
糊の効いた白衣を翻し、男は日差しが翳った窓の外へ目を向けたのだ。

「何で皆、そんなにお金が大事なんだろ?一歩外に出ると空襲で田畑も家も何にもないのに。お金よりずっと、命の方が大事じゃないのかなあ…?」

その時、酷く控え目なノックが聞こえてきた。蚊が鳴くようなこの音は、可愛らしい妻のものだろう。確かめるまでもない。

「入っておいで、糸魚くん」
「…龍流さん、お食事が出来ましたよ」

控え目に開けたドアの隙間から、小さな頭をひょっこりと覗かせた艶やかな黒髪の人を見つめ、淡い笑みを零す。

「もうそんな時間だったかあ。夏は日が長くて、ついつい時間を忘れちゃう。僕はダメな主人だねえ、忘れる訳ないのにねえ」
「お…お仕事は…」
「ん?」
「た、龍流さんのお仕事は…順調、ですか…?」

中へ入ってこれば良いのに、慎ましい妻は決して書斎には入ろうとしなかった。劇薬指定の薬品も多く置かれているが、一度として入るなと言った事などない筈なのに。

「ん。順調、順調、順風満帆ですよー。可愛い奥さんと子供達に囲まれて、いつ死んでも悔いはないかなあ」
「龍流さんが亡くなったら私も死にます」

うっとりとする様な笑みを浮かべた妻は、ゆっくりとドアを開いた。子供を産んだばかりとは思えない細い体躯に漆黒のドレスを纏い、まるで未亡人の様だ。

「冬の月は、凍る様な純黒にこそ映えるんだ」
「はい」
「僕は必ず君より先に死ぬから、追ってくるのはいつでもよいよ、糸魚くん」
「いいえ、すぐに参ります。ほんの少しの暇もなく」

真っ白な肌に真っ黒な髪。

「へえ、少しもないんだ?」
「はい。ほんの一秒すら惜しいので、私と一緒に死にましょう。駄目ですか?」
「…あは。よいよ、一緒に逝こうかあ。そしたらさあ、どっちも寂しくないもんねえ?」
「はい」

けれど妻の本当の髪は見事な白一色だと知っている。幼い頃に、心を砕かれたからだ。己の本名さえ忘れてしまう程の。

「…あのねえ、正式に龍人は死産って事になっちゃったんだあ。姉さんだけは最後まで反対してくれたけど、父さんは頭でっかちで困るねえ」
「良いんです。私達だけは、龍一郎と龍人を認めているのですから」
「そうだねえ。僕、姉さんに同じ事を言ったんだよねえ」
「龍流さん、そのカップはどうしました?」
「姉さんが淹れてくれたんだ」
「冷めてしまってるでしょう?温かいお茶を淹れますから、お食事にしましょう。我が家は家族全員で食事を採るしきたり」
「うん、そうだった。今夜の御馳走は何かなあ」
「芝海老のかき揚げです」
「よいねえ、僕の好物ですねえ、糸魚くん」

毒入りとも知らず、異国からやってきたカップを大切そうに両手で握った妻の為に、ドアを開けてやる。ぺこりと品良くお辞儀をした妻は、しゃなりしゃなりと外へと出ていった。
後を続く様に廊下へ出れば、西日が遠退いていく。

「そうでした。巳酉お義姉様は、あの小男とご一緒にお出掛けです。今夜は戻らないと…」

振り向きもしない妻の背が、カップを持ち上げるのを見た。どうやら先程の嘘はバレバレだったらしい。本当に慎ましい妻だ。
ゴクゴクと喉を鳴らす音をただ、聞いている。彼女はそれを何か知りながら、それでも飲み干しているのだ。止めても無駄だと、痛いほど知っていた。

忘れられない呪いが掛かっているからだ。

「そっかあ。ごめんねえ、嘘吐いて」
「良いんです。龍流さんが私に何をなさっても、私は龍流さんの妻なのですから」
「早く行かないと、おちびさん達がお腹空かせてるねえ」
「はい。参りましょう、貴方」

空いたカップから、淡い笑みを浮かべた妻は手を離した。
高価なものだが、二人共、廊下で砕けたカップを拾う事はない。

「あの男が触ったものなんて、もう必要ありませんね?」
「うんうん。糸魚くんは自由だ。本当は姉さんも自由なんだよ。天は人の上に人を作らず、また人の下にも然り。けれど現実は、そうでない事の方が多いってさあ、福沢先生の著書に書いてあるんだよねえ」
「あの男とあの小男を私は家族とは認めません。家族以外を信じてはいけないのです。私は龍流さんを裏切る事はありません。妻とは、最も近い家族であらねばなりません」

少女の体躯で少女の無邪気な笑みとは程遠い、妖艶な笑みを浮かべた黒と白のコントラスト。唯一、仄かに色づいている妻の桜色の唇に笑い掛けた。

「うん。僕の家族は、君と子供達だけ」
「龍流さん、お優しいお義姉様は家族にいれて差し上げましょう?私、糸遊お義姉様と巳酉お義姉様、お二人共家族だと思っています」
「糸遊くんは…まあ、女の子には優しいもんねえ。男にとっては凄く恐いけどねえ…」

漸く見えてきた家族の憩いの間。
姉と義弟は仲が良いので、歌舞伎座に芝居でも観に行ったのだろうか。義兄は愛人の所だろう。出来る事ならそのまま帰ってこない方が互いの為だ。

「ねえ、糸魚くん」
「はい、何ですか龍流さん」
「お金ってさあ、必要かなあ」
「どうしてですか?今日のお食事は、お義兄様から頂いた芝海老とお庭で採れたお野菜なので、お金は懸かっていません」
「僕の奥さんはやりくり上手だねえ」
「我が家には龍流さんと子供達が居たら、私は満足です。お金は人を狂わせると、糸遊お姉様から教わりました」
「うん」
「龍流さんは何をなさっても宜しいのです」

再び、妻は同じ言葉を口にした。
一度聞いた話を忘れられない事は、彼女も知っている。それなのに敢えて口にしたと言う事は、彼女なりの意思表示なのだろう。

「家をね、売ろうと思う」
「はい」
「そんでね、日本で一番大きな病院を作るんだ。戦争で傷ついた人を全員助ける事が出来る、天国みたいな病院なんだよお」
「病院に天国だなんて…ふふふ、龍流さんは不思議な事を仰いますね」

笑う妻の表情の何と愛らしい事か。
一度記憶した嫌な思い出を忘れる事など出来はしないが、それでも朽ち果てていく感情の何処かが、温まる様な気がした。一瞬でも。今だけだとしても。

「龍流さんの様に全部は無理ですけれど、私、覚えます」
「うん?」
「あの男が龍流さんに何をしたのか、克明に一つ一つ、編み物の目を数える様に覚えます」
「どうして?」
「死ぬ前に私の記憶の全てを子供達に伝える為です」
「…へえ」
「古くより、仇討ちは罪にはなりません。あの男を合法的に殺すには、私達が死ぬ必要がありますでしょう?」

ああ。
賢い妻だ。蛇の名を持つ姉よりも、龍の名を持つ自分よりも、ずっとずっと、彼女の方が絡みつく様に。

「私、あの男だけは天国へは連れて行かせたくないんです。蜘蛛の糸と言う小説をご存じですか?近頃、ご婦人方に人気がおありの作家様の」
「小説は読まないからねえ」 
「ねぇ、龍流さん。私の様な暗い女、蛇の様だとお思いですか?」
「うん」
「だって私は冬月糸魚。哀れな魚に糸を垂らし、釣り上げて吊り上げ、骨まで残らず喰らい尽くす女なのです」

恐ろしいほど美しい笑みを浮かべた妻は、くすりくすりと肩を揺らしながら並んで眠る双子の元へ近寄っていった。子供らを見守る表情の穏やかさがまた、恐怖を煽る。


「うーん。女の子はミステリアスでよいねえ」

にこにこと宣えば、双子の片方から馬鹿にする様な目で睨まれた様な気がした。あの目付きの悪さは、間違いなく長男の方だ。

「龍一郎は僕が嫌いなのかなあ?もしかして僕もお父さんをあんな目で見てたのかも知れないねえ。あは、あは!因果だねえ!あはっ!」

そんな筈はない。まだ子供達は生後二ヶ月なのだから。
世間一般の親は、そんなたわいもない台詞を吐くのだろうか?










(廻せ)

(廻せ)


(左に)
(右に)





(時計の針は縦横無尽)












「あらー?新会長が居ないじゃん、まだ来てないの?」

腕をぐるぐる回しながらやって来た彼は、随分ゆったりしたネイビーグレーのブレザーを持て余している。始業式典の進行表を熟読していた男はそこで顔を上げ、俯き加減で口元を押さえた。

「坊っちゃん、見栄を張りましたか?ブレザーのサイズが合ってませんよ」
「…とんだ挨拶だねー、新副会長。見栄って何ですか、俺はこれから大きくなる男ですよ。Lサイズにしといたって良かったくらいだ」
「坊っちゃん、俺とは何ですか俺とは。曲がりなりにも、榛原家最後の当主であらせられた晴空様の子孫である大空坊っちゃんは、今後灰皇院の再建を、」
「判〜った!判ったからー!始業早々小言はやめて下さいっ、小林先輩!」

榛原大空は話を打ち切ると、ずかずかとステージ裏から幕内を覗き込んだ。

「そろそろ集まってきたなー。秀皇は何してんだろ、まさか就任式出ないつもり?」
「皇子は帝君挨拶もあるんですよ?昨夜体調を崩されたと聞きましたので、お母様の所では?」
「えっ、隆子おばさんが?!」
「大丈夫です、軽い風邪の様ですから。大事がないと宜しいですね、まだまだ冷え込むので」
「そうだねー。俺…僕、後でお見舞い行こっかな」
「それが宜しいでしょう。晴空様以降、男子に恵まれなかった榛原が坊っちゃんと言う新たな跡継ぎを得たのです。明神でありながら小林に嫁いだ祖母を憎む気持ちはありますが、それでも落ちぶれた宰庄司に比べるまでもなく、この小林守義こそ榛原大空坊っちゃんを陰日向からお守りするべくして生まれたうんぬんかんぬん」

話が長い。
素直に聞いている暇はないとばかりに、大空はステージへ目を向けた。
その瞬間、炸裂する様に響き渡った悲鳴に肩を震わせたが、理由はわざわざ確かめるまでもない。ああ、頭が痛い。

「…小林先輩、幾ら灰皇院が分裂したからって、結局俺達…僕達は空蝉な訳ですよね?」
「まぁ」
「だったらあそこの馬鹿殿をどうにかして下さい」
「無理です。何せ皇子には私の心理テストが効きません。弱味を握らずに相手を従わせる方法は、肉体的な力か、権力か」
「…」
「残念ながら、帝王院秀皇より秀でた人間が学園に存在しない限りは、独裁政権は確定的です。幾ら馬鹿でも仕事が出来る人間は重宝します。幾ら馬鹿でも」

何度扱き下ろすのか。
気持ちは判らないでもないと思いながら、大空は芸術的な寝癖を直しもせず、堂々と寝坊したらしい男が壇上に上がる光景を眺めた。

「オオゾラ、小林先輩、おはよう」
「…ふん」

朝一、大人げない喧嘩をしたばかりの一ノ瀬が大空に勝ち誇った表情を見せつけてきたが、内心の怒りを顔には出さない。何故なら、大空の隣で眼鏡を押し上げた男が心底馬鹿を見る目で溜め息を吐き、

「1年Sクラス一ノ瀬薫、君は直ちに壇上から降りなさい。君の出番は、現時点で中央委員会会長である私が正式に呼んでからです。今の君はただの生徒、気が早すぎますよ」
「だ、だったらそこの榛原は?!」
「はぁ?大空坊っちゃんを守るのが私の義務ですよ。それを高々中央委員会交代挨拶の為に、ほんの数分とは言え側を離れるなんて事があって良いと思うのですか?これだから世間知らずな子供は手に負えませんねぇ、大空坊っちゃんを自分と同格に並べ立てるなど言語道断。懲罰棟へ放り込まれたいのですか尻軽が」

流石は氷炎の君と名高い、中等部二年帝君の台詞は弾丸の様だ。凍りついた一ノ瀬を困った表情で撫でた男と言えば、教職員席を一瞥し、怪訝げに首を傾げる。

「オオゾラ、父さんがお前を見ているんだが、何かしたのか?」
「俺じゃないやい。学園長はお前さんの情熱的な寝癖を嘆いてんだよ」
「母ちゃんの手鏡で確かめたんだけどな」
「隆子おばさんの部屋で寝たの?もしかして看病?大丈夫なの?」
「ああ、さっき計ったら熱は下がってた。もう大丈夫だ」

それなら仕方ないと、大空は派手な寝癖へと手を伸ばした。
母親思いの遅刻を咎める事は、流石に出来ないからだ。












(そして再び、戻せ)











ひっそりと滑り込んだ車のエンジンが止まり、人の良さが滲んでいる顔立ちではあるが、お世辞でも整っているとは言えない、随分ずんぐりむっくりな男が運転席から降り立った。

ああ、彼の緊張が伝わってくる様だ。
暑くもないのに額に汗を滲ませ、忙しなくネクタイの結び目を弄りながら、トランクの天板をコンコンと小さく叩いた男は、中から応答の声を聞くと、大きく息を吸い込んだ。

「っ、ごほっ、げほっ」

そして、吐く途中で噎せた。

「し、しおちゃん…着いたよ…っ」
「近くに誰も居ない?」
「い、居ないと思う」
「ほんとのほんと?」
「ほんとのほんと、だよ」

汗ばむ額を拭いながら、キョロキョロと地下駐車場を窺った男は、人の気配がない事を念入りに確かめた上で、まるで悪さをするかの様にトランクを開く。
中には、眩しさに一度目を細めた女の姿がある。

「し、しおちゃん、大丈夫?怪我はない?」
「平気。変な事をお願いしてごめんね、岳士くん。どっかの記者に見られたくなかったから…」
「わっ、判ってる、よ!僕なんかとしおちゃんが一緒に居たら、可笑しいよねっ」
「…もう、何でそんな事言うの?誰もそんな事言ってないじゃない」
「ご、ごめん…」
「悪いと思ってるなら二度と言わないで?」
「ううう、うんっ。二度と言わないよ…!」

吃りながらコクコク頷いた男は、そっと女の手を取ると、エスコートをする様に彼女が降り立つのを手伝った。

「はー、やっと出られた。ふー…肩凝っちゃったな」
「だ、大丈夫?ぼぼ僕、肩揉もうか?」
「有難う、平気」

先程までは今にも死にそうな緊張で表情を凍らせていた男は、ゆっくりとトランクから出てきた人が乱れた髪を掻き上げる様子を真っ赤な顔で見やり、目が合うなり恥ずかしげに目を伏せる。

「もう、困った岳士くん。まだ私の顔に慣れないの?」
「ごっ、ごめっ、んね…!ぼ、ぼく…っ」
「あは。私達夫婦になるんだから、目は逸らしちゃ駄目でしょ?」

尖らせた唇に人差し指を当て、若干あざとい仕草で小首を傾げた女に、男は滝の様な汗を垂れ流した。彼の心拍数が心配だ。

「し…しおちゃんが僕の奥さんになるなんて、まだ信じられないよ…。こんなに綺麗で優しいしおちゃんに出会えた事が、ノロマな僕の人生最大の奇跡だ…っ」
「…本当、岳士くんを見てると悪い事してる気になるわ、私」
「えっ?」
「んーん。いつも言ってるでしょ?岳士くんはノロマじゃない、すっごく優しいの。ね?早く私の顔に慣れて?」

こてりと小顔を傾げた人を前に、男は口元を覆いながら膝を崩し掛けたが何とか踏み留まり、コクコクと子供の様に大きく頷く。

「う、うん…!頑張って慣れるよっ!任せてっ、ぼ、僕は、しおちゃんの夫になるだけじゃないんだっ」
「岳士くん、大きな声出しちゃ駄目。誰に見られてるか判んないんだから」
「う、うん、ごめん…」

然程背も高くなく小太りな男は肩を落としたが、それを認め揶揄いじみた笑みを浮かべた女は、細く白い手を伸ばした。

「ね。ついてきてくれるよね、岳士くん」
「うっ、うん!一緒に、僕らの息子に会いに行こう」
「…本当に、有難う。大好きよ、岳士くん」
「僕も大好きだよ、詩織ちゃん」

仲睦まじく手を繋ぐ、傍目には正反対な二人が薄暗いコンクリートを歩いていく足音が、続いている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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