帝王院高等学校
さもあらん!狂犬の前で油断は命取り?
天才だ天才だと言われ続け、難関名高い大学に現役で受かりスムーズに大学院へ進む頃には、自分は数学に愛されているのだと信じて疑わなかった。

「私と物理、どっちが好きなのよ」
「その問いに対する答えが判らないなんて、君は見た目通り馬鹿なんだな」
「っ、何ですって?!」

数学は美しい。
ピタゴラスが天才を集め、平方根の魔に取り憑かれてしまったのも無理はない話だ。飾り立て、厚く厚く塗り立てて漸く人前に出られる程度の女とは、比べるべくもないではないか。

曰く健全な交際と言うのはハイスクールで諦めた。
子宮で物事を考えると言う生物は余りにも美しくない。その点、同性は良い。駆け引きはあるが、そこには打算がなかった。欲が一致すれば、一夜限りの恋人関係に異を唱える男は限りなく少ないからだ。そう、女の柔らかい体は確かに悪くはないが、セックスなど昂りを吐き出せば終わる。相手が女から男へと変わっただけで、マスターベーションよりは実に美しい行為だ。
けれどどんな美しいものにも、必ず欠点がある。

例えば歪み一つない満月を数学で現せば、πを代用せねばノートが何冊あっても足りやしない。
天才と謳われたピタゴラスが死んだ理由もまた然り。彼は数学と女で身を滅ぼした。

この世には矛盾が存在するからこそ、人は正しいものをより強く求めるのだ。
答えられない事を認めたくないから。その上で、答えられないものを解き明かしたいから。理由など実に簡単だった。

「やぁ、元気かいテイラー准教授。君、チェスは知ってる?ルークはマンハッタンと密接な関係にあるんだ」
「キング、クイーン、ビショップはチェビシェフでしょう?スミス教授、次のレポート課題はユークリッドノルムですか?1ブロックの距離は実にまちまちなので実測はお薦めしませんが」
「それで悩んでるんだよ。座標法は工学でも物理でも必須項目だろう?然し出し尽くされたピタゴラスだと、生徒が対策を練りすぎていてオリジナリティがない」

世に言う天才の大半は、血が滲む思いで努力した『凡人』だ。
本物の天才と言うのは、その時代、未だ誰も解き明かしていない謎を解き明かしたほんの一握りの人間を指す。先人が解き明かした謎の残骸を幾ら暗記しても、それは他人の功績を掻き集めただけだ。

「オリジナリティですか。…難しい課題ですね」
「なくはない、我々が新たな謎そのものを見つけていないだけさ。この世は謎で溢れてる」

数学者は常に新たな謎を探し続けている。

「例えば昨日冷蔵庫に置いといたプディングが、今朝にはもうない」
「食べたんじゃないですか?どうせまた徹夜したんでしょう?」
「トランス中は記憶がないんだ、犯人は本当に僕なのかね?」
「私に聞かれましても」

解けない数式は存在しないと言えるのは、先人が幾つもの方程式を世に産み出し、誰もが解ける術を遺してくれたからに他ならない。

「飢えているものは目先の餌に飛びつき、本物のご馳走に気づかないと言う諺があるそうだよ。夜食の寿司が今朝には異臭を放ってた」
「次は生物から食べて下さい」



前置きは以上だ。
天才と呼ばれ続け、特に苦もなく博士課程を満了し、特に悩む事なく大学へ残った天才が、己を凡人だと知ったのはそれから随分後の事だった。

21世紀は謎が枯渇している。
地球が誕生し今の形のホモサピエンスが世界を支配して何年が経つのか、正しく答えられる者が世界に何割存在するのか。判らないとしても、それが恐ろしく長い期間である事くらい理解出来るだろう。
その恐ろしく長い期間に、天才が何人産まれたのか。
何人の天才が謎をレイプしてきたか、わざわざ解説するまでもない。彼らはこの世を丸裸にしてきた。後に残された我々が新たな謎を産み出す難しさは、筆舌に尽くしがたい。

男は新たな謎を見つける事を諦め、既存の方程式の矛盾や、他人が発表してきた論文の矛盾、またはその応用を主なライフワークとして、天才学者が一同に介す学会に発表してきた。
陰口を叩く者は勿論少なくなかったが、二十代で准教授の地位を得たのは少なからず功績が認められたからに相違ない。

スポンサーも、研究員からの信頼も、その上、恋愛の相手にも苦労しなかった男は、己の人生はこのまま永久に順風満帆だと思っていた。
呆気ないものだ。ノストラダムスの世界滅亡予言が外れたと嘲笑う人々に反して、男の自信に満ちた人生は確かに、その時終わりを迎えていたのだから。



「ご機嫌よう、リチャード」

嫌いなものは『無駄』だと宣った子供が、酷く魅力的な笑みを浮かべて近寄ってきた時は警戒したものだ。
同じ時期に三人の天才が現れた。否、二人の天才と、一人の『天災』だろうか。数学に愛されていると思ってきた自分の目の前で、真の数学の女神に愛されてた子供が笑っている。

彼らは凡人には目も向けなかった。
一人は世界中の言語に通じているとさえ噂されている、ブラッディローズの髪を持つ子供。
一人は世界中の謎を至極簡単に見つけてきては簡単に解き明かしてしまう、黒髪の子供。

「…君が話し掛けてくるのは珍しい事だ」
「おやおや、珍しい?」
「失礼、初めてだった」
「うふふ」

その二人の天才すら霞む『天災』は、存在そのものが神の暴走としか思えなかった。姿形、声、纏う存在感すら、人とは到底思えなかったからだ。
天才が通う事を許された大学に、それは寄生した。人の枠組みで讃えられる天才共を、まるで嘲笑うかの様に。

「とても退屈なんですよねぇ、近頃。サリーのババア…失敬、サラエナ教授は、何通心を込めたラブレターを出しても再提出しろと怒鳴るんです」
「………それを僕に言ってどうしろと?彼女は語学教授だよ。ジャンルも地位も違う」
「ねぇ、想いが伝わらないのは悲しいでしょう?」

悪魔は常に、魅力的な姿で現れ、唆す。
人は悪魔に抗えない。だから悪魔狩りを生業にしている者が過去に存在した。非科学を嘲笑う利己的な数学者にとっては、見下す様な人種だ。確かに、その時までは。

「貴方がどれほど枢機卿を恋慕っても、私のラブレターの様に、それは無駄なのです。あの方はいずれ自由を掲げる大陸を支配し、世界の皇帝となられるのですからねぇ」
「何が言いたい…?」
「可哀想に。報われない愛を抱き続ける虚しさを、私なら理解してあげられますよ。貴方と私はとても近い。そうでしょう、リチャード=テイラー」

自分を凡人へと叩き落とした悪魔は、そうして容易く心まで侵食していく。

「タイトルは『相互代数』。…求めるものが得られない者同士、仲良くしませんか?」
「…相互代数?流石に、面白い事を言うね」
「部分補完は私達の特技ではありませんか。平方根の様に」

苦手な人間にほど優しくされると絆されてしまうものだ。
パートナーのDVを受け入れてしまう人の気持ちが、痛いほど判ってしまった。
期待していない優しさとは、まるでサプライズプレゼントの様なものだ。心構えがなかっただけに受ける感動が格別だった。

「そうだ。貴方には私の名前を教えてあげますよ、リチャード」

それは最早、毒だ。



「ネイキッドと言うのです」

手の届かない相手を慕うより、目の前の相手を愛する方が簡単だった。などと言う理由では決してない。
悪魔の様な美貌に抗えなかったと言うのもまたつまらない言い訳だ。凡人は天才に焦がれる。服従を望む。

「裸とは、情熱的だね」
「触れてみたいですか?」
「聞くのか?」
「ふふ、駄目ですよ。子供に手を出すのは犯罪ですからねぇ」
「…意地悪だね、君は」

天才とは、文字通り天より才能を与えられた絶対なる勝者を指す言葉だ。







「Excuse me. Is there a flower shop near here?」
『すみません。ここの近くにフラワーショップはありますか?』 

凡人は努力をしない者を指す言葉である。と、頑なに信じている。
今の自分のように、スマホへ話し掛ければ世界中の言語に翻訳してくれる便利なサービスを手放しで信じる人間は、決して天才にはなれない。
今ではそれすら心地好く感じるのだから、おめでたい話ではないか。

「この近くだと地下鉄乗り場の向かいにあります。地図を書きますので…」
「Thank you.」

早めのチェックアウトついでに、スマートフォン に翻訳を任せれば、どうやら望み通り通じたらしい。拙いながらも英語で心地好く返事をくれた日本のホテルマンは、差し出したチップを頑なに受け取らなかった。


「…日本人は頭が可笑しいのか?ラウンジでもチップを受け取るスタッフは居なかったが、何故だ」

判らない事はググる。
学者にあるまじき怠惰と詰られても仕方ないだろうが、便利になり過ぎた世間が悪いのだ。判らない事は判らないその時に最短ルートで調べる、合理的ではないか。アメリカ合衆国に於いて合理的であるのは善だ。

「成程、おもてなしの心か。…ほう、見返りを求めない善意が日本人の美徳とはな。この国は天国なのか?」

ガラガラとキャリーを滑らせながら、ホテルから外へ出た。
白い雲が生える青い空、桜は何処だと辺りを見回す事はない。既に散った事は検索して知った。

「桜の花束を持っていきたかったんだが、売ってないものは仕方ない。幾ら聖書と物理書が枕代わりの私でも、花言葉の一つや二つは知っている」

愛を告げる花束の代名詞と言えば、薔薇だ。
だが単に真っ赤な薔薇を束ねただけでは余りにも芸がない。凡人が平凡な花束を差し出した所で、あまねく天才とは須く見向きしないものだ。

「こんな単純な論理和に気づくのが遅かった。私∨君、いずれどちらが正しいか証明された時に、この愛の確率密度は実測値を示してくれると期待して………いや駄目だ。舞い上がっているなリチャード=テイラー、お前は一度数学から離れるべきだ」

何せこの数年、何度となく愛をしたためたメールを送り続けたが、遂に今日まで一度も返事はなかった。そもそも見てくれているのかすら怪しい。確実に見ていないだろう。あの男は無駄をこよなく嫌っているからだ。

「Osiri、地元の事は地元の人間に聞けと君が言うから従ったんだが、あったぞ、踊り場南口。『はなだらけ』と言う店は此処であってるか?」
『現在地は「ぱんだらけ」前です』
「ぱんだらけ?何だそれは」
『ベーカリーショップです』
「…フラワーショップは?」
『検索中』

無駄を嫌っている癖に、人の不幸は大好物だと公言しているから救われない。叶二葉こそ矛盾そのものを形容した様な男だ。

『付近に営業している花屋はありません』
「因みに、はなだらけと言う店は何処にある?」
『現在地より880メートル北西、地下鉄「踊り場北口」前、日曜定休日です』
「ジーザス」

そう、似て非なるショップへの地図を懇切丁寧に書いてくれた日本人への何とも言えない今の感情は、黙って飲み込もう。わざわざ戻ってクレームを入れるのも面倒だ。

「さっきのホテルの裏じゃないか。最悪だ、あのホテルマンは地元の人間じゃないのか?…そうだな、昔ケンブリッジに住んでいると言って、イギリス人は出ていけとパブで怒鳴られた事を思い出した。私は産まれも育ちもニューヨーク、陽気なアメリカンなのに…」

ぶつぶつ宣うアメリカンは、此処が叶二葉を産んだ国だと言う事を今の今まで失念していた。日本は天国ではない、魔王の国だ。



「………眠れなかったから早めに出発した所為か、既に疲れた…」

ああ、考古学者を心から尊敬する。
どんな場所へも颯爽と飛んでいっては駆けずり回り、あくせくひたすら掘り返しては次から次に過去の遺産を見つけ出す彼らの体力と気力は、世界中の学者の中でもトップクラスだろう。今は心からそう思える。

「Osiri、休める場所を探してくれ…」
『50メートル先を左折、スタバを見つけました』
「日本に来てまでSTARBUCKSは見たくない。めいどかふぇはないのか?学生が噂していた、ジャパニーズめいどかふぇ」
『メイドカフェは秋葉原に腐るほどあります。秋葉原は腐った人間の聖地です』
「まさかゾンビが蔓延っているのか?!…よそう、聖書と十字架を肌身離さず持っているが、聖水は携帯していない」
『懸命な判断です』

ほんの数十分歩いただけで、もう死にそうだ。

「ふぅ。…ミッドナイトサン、年甲斐もなく本気を出した教授がどれほどのものか教えてあげよう。手始めに君の美しい黒髪に似合う、黒薔薇を100本束ねた花束を用意するよ。チープな青薔薇じゃ、どうせ受け取って貰えない」

ぶつぶつ独り言を呟きながら、ホテルで書いて貰ったメモを捨てられず片手に持ったまま歩く男は、街のオブジェらしい奇妙な物体と遭遇し、暫く足を止めた。

「…何だ、何故街中にグロテスクな目玉が堂々と飾られているんだ?Osiri、お台場で新種のポケモンに遭遇した。名前は…フジティーヴィー」
『是非とも捕獲して下さい。ご武運を』
「フジ…フジ…フジヤマか!そうだ、富士山は是非とも観ておきたかったんだ。Osiri、此処から富士山まで何ブロックだ?」
『ブロック測定不能。現在地からはおよそ118kmです』
「そんなに遠いのか?富士山は東京の中央にあると思っていたが…Osiri、富士山は山手線で行けるのかね?」
『山手線の山は富士山の山ではありません。よって超無理です』
「君が超無理と言うなら仕方ないな。諦めて別の花屋を探すよ」
『懸命な判断です』
「STARBUCKSで在日アメリカ人を見つけられる事を祈ろう。トールで足りるだろうか」
『ベンティをお勧めします』

黒薔薇の花言葉を調べなかったのは彼のミスとしか言えまい。

「ホットをベンティで飲めと言うのかね?」
『大は小を兼ねます』
「…君が言うならそうしよう。だがコールドだ」
『懸命な判断です』

工学部が開発したAIのモニターとは言え、音声を二葉に似せたのはミスだったのかどうかは、考えたくなかった。
幾ら数学を愛していても、時には答えを必要としない場合もあるものだ。

「Osiri、さっきから日本人が私を見ているんだが、何故だ?」
『Osiriは日本名で尻と言います』
「はは、SiriはAppleのAIだろうに。いつの間にアップデートしたんだ?君も冗談を言うようになった」
『リチャード、知らぬが仏と言う言葉をご存じですか?』
「君が答えたくないならGoogleに尋ねるまでだ」
『懸命な判断です』

人間だもの。
スマホから「プゲラ」と聞こえてきた瞬間に芽生えた殺意を、数学を愛する男は必死で噛み殺した。

『所でリチャード、スマホに話し掛けるのは一人の時だけにした方が宜しいでしょう。寂しい独身だと公言している様なものです』
「Iced black venti please.」

カウンター越しに痙き攣った愛想笑いを向けてくるスタッフを前に、陽気なニューヨーカーは無表情で注文しながらスマホの電源を叩き切った。
所詮機械相手に怒るだけ無駄だからだ。


「…フレンチトーストがある」

そのお陰か否か、軽食にそれを見つけのは幸いだ。

「Osiri、テイクアウトで20人前ほど用意出来るか尋ねてくれ」

電源を入れ忘れていたのは明らかなミスだった。




















「終戦を待たず父親が死に、祖父夫婦が立花の援助を支えに持ちこたえて来た診療所を、今の総合病院へと育てられたのは、帝王院俊秀様の莫大な援助があったからだ」

答えられない謎掛けなどあるものか。
たった今、その謎掛けを投げ掛けてきた男は皺の溝を確かめるかの様に顎を撫でて、別の話を口にしている。

「今の価値にして実に1000億相当の寄付を快く下さった。当時、戦後の貧しかった日本を導く為、俊秀様は奮闘された様に思う。鳳凰を海外で学ばせる許しを出したのも、今後の日本の為だと言っておられた」

京都の神社を継がず手離したのも、神仏に祈るより自ら行動すべきだと考えた帝王院俊秀が手を差しのべ、今に至るまで隆盛している企業は少なくない。

「俺の知る時代と今の時代で最たる違いは、貧しさを知るか知らないかだ。目先の事すら見えない中、差し出される手がどれほど有り難いかあの時代を生きた者は知っている。有り難い事だ。己の食う米もない時代に、あの方は財産の大半を費やした。鳳凰が継いだ頃は、この山も抵当に入っていたそうだ」
「帝王院財閥がそこまで陥っていたと言うのは、初耳ですねぇ。…成程、遠野さんが前大殿を『陽の王』と呼ばれていたのは、それが原因ですか?お二人は親しかったのでしょう?」
「馬鹿め、そりゃただの皮肉だ。俺は有言実行の男だが、あれは何も言わずに行動する奴だった。大学時代にはまともに口を聞いた事もない」
「そうでしたか」
「根暗に根暗と言っても面白くないだろ?…っつーのは、建前だぁな。俊秀さんが亡くなって以降も、当院に出資を続けてくれた鳳凰には感謝してる。情けねぇ事に、本人には一度も礼を言った試しがない」

自分の意見を口にする事も出来ない時代があった。正しい事が決して正義ではない時代があった。自由の意味を履き違えている今の時代が悪いとは言わない。全ては昔の話だ。

「だからこれは罪滅ぼしだな」
「罪滅ぼし?私達が貴方の昔話を聞かされる事ですか?」
「隠し事は苦手だから言っておく。俺はお前みたいな男は心底嫌いだ」

今は戦後ではない。
スパッと冬臣に毒を吐いた年寄りに、茶を啜っていたヤクザが噴き出した。直撃した相手は笑顔だ。

「僕、怒る所ですか?」
「…すまん。じゃなかった、すいません」
「ヤト殿、脇坂さんが僕に敬語使ってます!これは何か企んでいますねぇ」
「アンドロイドとは言え、お前の人格はアレクセイ=ヴィーゼンバーグだろうか。生きてたら還暦くらいだろう、つまりお前の方が年上だ。可笑しくない」
「そんなものですか?」
「そんなもんだ。21世紀のロボットならビシッとしろ、ビシッと」
「はい!」

コードを繋がれたまま勢いよく挙手する姿に、叶兄弟は目を見合わせた。

「………冬臣ちゃん。俺、思い出したくない事を思い出したかも知れない」
「ん…。確かに、あの子はお父さんにそっくりだねぇ。認めるしかないかな、文仁?」
「冬ちゃん!文ちゃん!やっと僕がパパだって判ってくれたのかい?!」
「煩ぇ、機械野郎が!親父は死んだ!遺言は『桔梗ちゃん、僕の豆大福食べて良いからね』だ!」
「文仁、我が家の恥を叫ぶのはよしなさい」

苦笑いを浮かべた冬臣の言葉に、叶文仁は両手で顔を覆って俯く。アーカイブに保存したと満面の笑みで宣ったサファイアの瞳は、豆大福…と呟いたヤクザに、それが自分の好物だと耳打ちだ。

「色々吹き込めば、それはもっとお前らの父親に似てくる。俺が龍一郎に話して聞かせた鳳凰の根暗時代…もとい独身時代は、そりゃ最悪なもんだった」
「最悪?」
「俺が知る限り、帝王院鳳凰に敵は存在せんかったな。嫌に『目』で語る男だった。無口に癖に、好き嫌いははっきり視線に出る」

思わせ振りな遠野夜刀の台詞は、そこで一度途切れた。
和菓子談義をしているヤクザとロボットに、茶道の免許を持っている文仁も加わり、三人の雰囲気は悪くない。それを横目に、冬臣は冷めた茶へ口づける。

「違っていたら申し訳ない」
「言ってみろ」
「貴方は前大殿に『男爵に会わせろ』と言った。然しその願いは叶わなかった。その結果が、レヴィ=グレアムの補完でしたね」
「ほー。流石に噂に聞く叶当主だ、頭は確かに悪くねぇな。そんで?」
「会えなかった理由は、鳳凰様の意思ですか?」

値踏みする様な冬臣の視線に、遠野は微かに眉を寄せた。可愛いげのない子供だと思ったのは、これが三人目だ。

「帝王院鳳凰、遠野龍一郎」
「おや?」
「貴様は三人目だ。が、四人目でもあるかも知らん」
「どう言う意味ですか?」

学園長が手配したらしい茶器が運ばれてきた。
スコーピオに滞在している職員は、誰もが一級のバトラーだ。カップが空くのを見計らった様に現れた所は、流石と言うしかない。

「冬月龍流が見合い結婚をしたのは38歳。嫁が極度の人嫌いで、自宅で出産している。当時存命だった龍流の父親と、龍一郎らを取り上げた助産婦が懐古主義者だったらしい。愚かにも、二時間遅れで生まれた次男は死産として届けられた」

そのお陰で、僅かに途切れた会話は摩り替わる。
短い息を吐いた叶冬臣は追及せず、目の前に置かれたカップを一瞥し、礼をした。冬臣が手土産に持ってきた玉露の香りだ。

「龍流と芙蓉は仲が良かった。どちらも同時期に同じ大学へ入学した同期同士だったが、叶芙蓉の方は入学間もなく姿を消した」
「雲雀様の話をご存じなのは、やはり先代の大殿からですか?」
「唯一絶対の相違。鳳凰の記憶力は確かに凄まじかったが、流石に産まれた瞬間の記憶はない」
「覚えている限り、私の記憶は二歳頃から始まっています。文仁はどうだ?」
「…少なくとも、喋れる頃からの記憶しかないよ」

手早く人数分の茶を淹れて下がっていったバトラーを横目に、誰からともなく茶へ手を伸ばした。余りにも薄い色合いの湯からは、芳醇な緑茶の香りが放たれている。

「お前達の祖父と実姉の自由と引き換えに監禁されて暮らしてきた男が、漸く父から自由を得たのは二十歳を過ぎてからだ。迎えた敗戦と言う形の終戦で、鳳凰と我が国は夜明けを迎えた」
「えっと、一回整理しても良いですか?それ、学園長の父親の話ですよね?」
「お前は要領が悪い男だな、眼鏡」
「眼鏡って…」

高級な茶より酒かコーヒー牛乳が飲みたかったヤクザが口を開けば、ジジイから痛烈な一言を食らい黙るしかない。

「人の記憶ほどあてにならん物はない。それは俺の持論の一つだ。だが、広い世界には例外が存在する」
「産まれた時でした、ね。面白い事を仰ると思いましたが、それでは…」
「冬月は覚えているぞ。俺が知る限り、龍流も龍一郎も自分が産まれた瞬間をはっきりと答えた。時間も、その場に居た助産婦の行動もな」

そんな馬鹿なと目を見開いた文仁は、然し表情を変えない冬臣を見つめ、言葉を飲み込んだ。有り得ない話ではないと、何処かで納得していたからだろう。

「どう足掻いても冬月の記憶力は認めざる得ない。龍一郎を間近で見てきた俺が言うんだから、お前らが何を喚こうと無駄だ。龍一郎は医学部5年間で外科と内科を学び、研修医当時から甚だ他を圧倒していた」
「理解しているつもりです。雲隠の恵まれた身体能力、明神の獣じみた読心術、冬月の神憑り的な記憶力、榛原の傀儡術、どれ一つをとっても叶が敵うものはありません」
「そこだ。何でそうも認められた灰皇院は、揃いも揃って帝王院の手駒だった?それだけ粒揃いの変人奇人が存在して、何故一度も下剋上を考えなかった?歴代帝王院当主全てが、鳳凰や駿河の様なお人好しだった証拠はない」
「答えは一つでしょう。灰皇院は帝王院の影だからです」
「違うな。叶冬臣、お前は判ってる筈だ」

冬臣は唇を吊り上げた。
彼もまた遠野を試したのかも知れない。

「…圧倒的な違いがあります。灰皇院を統べる四塔の当主は、それぞれ一つの技術を磨いてきました。敢えて言うなら血で繋いできた家ではない。力一点主義。能力を有していない者は、例え雲隠に産まれても十口へ落ちます。帝王院学園で言う降格に等しい」

逆に能力さえあれば、どの家系に産まれてもそれぞれの家に召し抱えられる。まるで昇校制度の様に。

「叶芙蓉、私達兄弟の祖父兄は雲隠への婿入りを求められていました。十口の中でも類稀なる身体能力を誇っていたそうです」
「鳳凰から話は聞いている。芙蓉は、当時産まれて間もなかった雲隠糸遊の叔母との結納の為に帝王院邸宅に招かれ、祝言の前日に帝王院雲雀と逃げた」
「本来なら雲隠としてお守りするべき雲雀の宮様と共に姿を消し、叶は京都へ退去しました」
「違うな。残されただけだ」
「…は?」
「江戸の末まで帝王院は京都で暮らしていた。元は平安京に仕えた陰陽師からなる神社守の家だ。東京に移ったのは、明治からだと鳳凰から聞いている」

初耳だとばかりに沈黙した兄弟を見やり、遠野は人の悪い笑みを零した。身の置き場のないヤクザとアンドロイドは揃って何処ぞを眺めているが、遠野に呼ばれて現実逃避をやめたらしい。

「俺ばかり喋らせおって、貴様らも何か喋らんか若造!」
「と言われても、自分は部外者ですんで…」
「つーかお前は誰だ眼鏡、名を名乗れェイ!」
「眼鏡って…。自分は脇坂と言います。職業は…飲食店の経営などを少々…」
「何が飲食店の経営だヤクザの癖に。駿河が高坂っつっとったろ」
「知ってるなら言わせんで下さい!」
「高坂向日葵は宍戸葵の息子だ。良い女だった。死んで20年程経つが、俺の死んだ嫁の親戚に当たる。遠縁だがな」
「あ?!じーさんが親父の親戚だって?!そうか、じーさん、あのトシの身内なんだっけ…」
「阿呆極道が、だから親戚なのは嫁っつっとろうが。トシっつーのは俊江のこったな?葵の息子は俊江の尻を追っ掛けてたからなぁ、あれに比べたらシューベルトのがよっぽど男前だわ」
「は?シューベルト?」
「俺の孫婿、秀隆の愛称だ、可愛かろ?駿河には悪いが、シューベルトはもう遠野のもんだ。奴め、この俺を殿と呼びおる。くぇっくぇっ」

奇妙な笑い声を響かせた年寄りに、皆は言葉もなく沈黙した。
学生時代の帝王院秀皇を知る一同は「馬鹿殿」を想像したが、言わない方が懸命だろう。

「結論から言えば血。全てはそれが原因だ」

←いやん(*)(#)ばかん→
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