帝王院高等学校
平穏に過度なスパイスを入れれば地獄です
懺悔を一つ、聞いて下さいますか。
あれは6月の事でした。故郷では今頃梅雨と呼ばれる季節でしょう。

先程まで自分の腹の中に閉じ込めていたそれが、大きな大きな産声をあげました。私はその時、死にも等しい恐怖を感じたものです。


「佳子」

それはもう、憧れたものです。
日本人にしては背が高く、常に自信に満ちた男の人でした。

彼の周囲には才能に愛された人ばかり、バイオリンの弦が切れる度に、敢えなく切れては血を流す指先を握り締めて、己の力量に歯噛みするような私とは、到底別世界の住民でした。


「知ってるか、敬吾の名前はお前と俺から一字ずつ取ったんだ。親父も母さんも、お前を娘のように思ってくれてる」

勿体ない、私には勿体ない、素晴らしい家族でした。
自分に自信が持てない事が何よりの罪でしょうか。私は、私より先に赤子を抱き上げた人をただただ見上げるばかり、その時はただ、どうやって。

「敬吾は二人が引き取ったそうだ。お前には迷惑を掛けないようにすると言ってたが、念書でも書かせようか?」
「…」
「とは言え、日本人は知りたがりが多い。海と砂丘くらいで娯楽のない田舎の港町じゃ、対外的に俺が祖父の振りをする事になるだろう。お前が嫌ならテレビの前で義弟が出来たと言い触らしても良い。丁度、来週オーストリアのテレビ取材が入ってる」
「…」
「一人息子の俺が早々自立してしまったから、寂しかったんだろう。もう少しマメに里帰りしておくべきだった」

どうやって罪悪感から逃れようか・と。
いつもより饒舌な人の言葉を聞いているばかり、口を開けばみっともない事を言ってしまうと思いました。

「そうだ、この子の名前は佳子がつけたら良い」
「あー」
「見ろ、毛がしっかりしてる。俺に似たな。ぱっちりした目は、ママに似たのかなぁ」
「あーうー」
「………もう、良いわよ。これ以上、私を惨めにさせないで」

どうやってその子を殺してしまおうかと、ただ、そればかり、狂った様に。

「少し寝るわ。…疲れたの」
「そうだな。先月まで公演が続いていたし、次のオファーについてはマネージャーと話し合う席を用意する。ゆっくり休め」

凡人が努力と言う鎧を纏い、天才の群れに擬態していただけなのです。必死に必死に駆け上がった階段の先、辿り着いたゴールは決してゴールなどではなかった。
ピアノは私を選んではくれませんでした。だからバイオリンは私の唯一だったのです。


「そうだ、ヨーロッパに拠点を置く事にした」

誰もが耳を傾けてくれなかった私の音は、高野省吾と言う一人の天才によって、花開いた様に思えました。
彼の才能を、彼のオーラを、私は心から愛したのです。だからこの愛が受け入れて貰えた時、舞い上がった私は、唯一だったバイオリンが唯一ではなくなってしまったのでしょう。

「ママにお休みを言って、パパと散歩に行こう」
「あーうー」

窓の外には白く、黄色い花が咲き誇っています。
春に咲く紫苑、それはハルジオンと呼ばれる慎ましい花でした。



「…馬鹿みたい。パパだなんて思ってもない癖に」

花言葉は追想の愛。
いつか愛した人を信じられず、我が子さえ愛せない私には、似合いの花ではありませんか。





所詮凡人だった私に、新しいオファーなど届きませんでした。
引き換えに天才に囲まれタクトを振り続けた夫は、最早私の手には届かない高みまで上っていたのです。

それなのにあの人は、健吾と名付けた息子が初めて玩具のピアノを叩いたその日に、我が子を誇らしげに抱き上げて、この子は天才だと叫んだのです。
私にはとてもそうは思えませんでした。誰の子か判らないなんて、母親として失格でしょう?

DNA鑑定を考えました。考えただけです。怖くて怖くて、確かめる事など出来ませんでした。

その子は確かに私の子でした。母親を偽る事は不可能だからです。私が産みました。今でもその痛みを覚えています。堕胎したかった。殺してしまいたかった。流産すれば良いと、出産ぎりぎりまで仕事をしました。
飛行機にだって乗りました。だって産みたくなかったのです。だって私の子なのですから、私には殺す権利だってある筈でしょう?

その子は天才などではない筈です。何せ、凡人である私が産んだ子なのですから。


貴方の子供を産むべきは、私のような女では決してない。
例えその子が私のバイオリンをたった四歳で弾きこなしてしまったとしても、貴方の指揮に的確に応える天才的な演奏が出来たとしても、私は決して、その子を愛す事は出来ないのです。



だって、私の子なのですから。






「健吾!」

いつも自信に満ちた男が、誰からも認められた鉄壁の天才が、初めて声を荒らげる様を見た様な気がする。記憶は曖昧だ。

ゴムが焼けるような匂い、火薬の匂い、地獄の様な光景で誰かが悲鳴をあげている。
不協和音。全ての音が五線譜に刻まれていくのを見ている。絶対音感と言う特技は、いつか自分を誰よりも間近で否定したものだ。

「健吾!しっかりしろ健吾!おい、健吾!」
「あ、貴方…」

いつか殺してしまいたかった息子が、真っ赤に染まっている。
まるで映画を観ている様だった。現実味がない。叱っても叱っても言う事を聞かない我儘な子供が、真っ白な表情で目を閉じたまま、まるで人形の様に動かないのだ。

「救急車…っ、救急車はまだか!」

赤い赤い、それは人の体を流れているもの。



いつも自信に満ちた子でした。
(一緒に暮らしている内に似てきたのでしょうか)(その頃には本当に)(その子はあの人の息子ではないかとすら、思ったものです)

幾ら天才だからと言って、何度駄目だと言っても親の言う事なんて少しも聞いてくれません。
(1億以上する国宝級のサックスを雑に扱うのです)(夫は笑っていました)(一度も叱ってくれません)


確かにその子は天才だったのでしょう。
私の絶対音感ではとてもそうは思えませんでしたが、天才アーティストと呼ばれる誰もが、手放しで誉めてくれる子でした。

とても私が産んだ子とは思えませんでした。




子供の流す血を初めて見た日、初めて抱いた後悔を忘れる事はないだろう。
一時間も懸からなかった筈なのに、何年も待った様な気になった。

漸く聞こえてきた救急車のサイレン、体の中央が無惨に飛び散っている我が子の顔だけは、綺麗なものだ。

血の気がない真っ白な表情はまるで人形の様で。
いつも駆け回っていた足は触るととても冷たい。
どんな楽器も玩具の様に奏でてしまう指先は力なく、何度呼んでも、生意気な目を開く事はなかった。


内臓の大半が機能停止したと言う。
一切の躊躇なく俺の体を使ってくれと宣った夫は冷静で、血も内臓も何なら心臓もやると怒鳴った。

可笑しな話だ。
世界中を飛び回る天才指揮者が、アメリカの病院で日本語で怒鳴り散らかしたのだから。きっと彼もまた、冷静などではなかったのだ。気づかなかっただけで。


「や…やめてよ!」
「佳子?!」
「あ、あの子、あの子は貴方の子供じゃ…っ」

体が震えた。
(恐怖で)

いつか殺してしまいたかった子供の血を見ただけで、目の前が真っ暗に染まってしまった。
(誰か助けてくれと叫んでしまいそうだ)


「馬鹿な事を言うな、健吾は俺の子だ!」
「っ」
「頼む、俺の子を助けてくれ!何でもするから、頼む!」

何度叱っても言う事を聞かない我儘な子供は、集中治療室の中。
繰り返し叫ぶ男の声を震えながら聞いていた。この体に存在するものであればどれ一つ残らず使ってくれて構わないから、どうか。我が子を助けて欲しい。





「高野健吾4歳、か」
「あ…貴方は…」
「お前の息子はO型で間違いないな?」
「そ、そうです、O型です…!」
「お前の息子はノアの目に留まった、本物の天才だ。死なすには些か、惜しい」

どうしてこんなに愛しい子を殺してしまいたかったのか。
今ではもう、思い出せもしなかった。


「神の遺言に従って、神の童には一度限りの奇跡を与えてやろう。」


(サンフランシスコは雨でした)
(昼なのに暗いその日)
(黒髪の医者は赤い赤いをシリンジを一つ)






「You have to use it, stealthily at night.(夜にこっそりと)」



言われた通り、危篤状態だった息子に針を刺しました。赤い赤い液体は間もなく私の息子の体へと流れ込み、翌朝には目を覚ましたのです。

奇跡だと誰もが口を揃えました。やはりあの子は神に愛されていたのだと、一睡もせずに祈り続けた夫の顔には大粒の涙が、まるで世界を濡らす雨のように。

あの医者には二度と会えませんでした。
それが例え悪魔の使いであったとしても、構いません。



私はその日だけあの子の母親として行動した。
いつか殺そうとした我が子をこの手で救う事が出来た。






それでもう、満足だったのです。














並ぶ姿を改めて見ると壮観だ・と、藤倉裕也は心の中で独りごちた。
理由はどうあれ、どんな状況でも人の視線を計らずも惹き付ける圧倒的な存在感。下らない世間話の様な会話が鼓膜を震わせて尚、高尚な会話を交わしている様にさえ思えた。

「おのれヒロアーキ、いずれその粗末な裸を同人誌に書いてやる。けほっ」
「ろーじんし?」

あの二人は著しく別格だ。揃えばそれはこうも明らかに知らしめられる。

「ユーさん、ユーさぁぁぁん、おーい」

俊を差し出してしまった獅楼は健吾に蹴り飛ばされて、白衣の男の足元で穴の中を覗き込んでいた。いつの間にか紛れ込んでいるが、あの男は誰なのか。

「おい、ハヤト。あれ誰だよ」
「うっさい、今ボスが大変なの!」

要の背後から神威を睨み付けている隼人は、脇腹を抑えたまま振り返りもしない。どうして気にならないのか裕也は首を傾げたが、何となく堅気の匂いがしない白衣の男は、頭に黒鼠を乗せたままにも関わらず、動じた様子がなかった。

「ち!しぶてぇ奴らだねー。ぽっくり逝けよ、ぽっくり」

バズーカ宜しく肩に火炎放射器を担いだ山田太陽の舌打ちは、徐々にヤクザじみてきている。

「ガス切れみたいだよー。仕方ない、カイ庶務をぶっ殺すのは今度にしよっかー」
「残念ですねぇ。所で先程、安部河君がウエストとイーストに苛められていましたが、どうしますか?」
「そうだねー、桜が平気だって言ってたから任せてきたけど…西指宿自治会長はさくっと泣かす。あやつは俺のお尻に指を突っ込もうとした奴だ」
「さくっと死なす事にしました」
「言っとくけどお前さんの所為だからね?コンビニに掛けたらあやつがやって来たんだからね?」
「川南北斗が来る手筈だったんです。何処で間違ったのか…お任せ下さい、この叶二葉が全力で西指宿麻飛を苛めますので」

何故か鼻眼鏡を掛けている叶二葉については誰も突っ込まないので裕也もまた放置していたが、先程から二葉の視線がチクチク刺さるのでシカトし続けるのも限界に近い。どうやら太陽を逃がした時の恨みを、二葉は忘れていない様だ。
全力で苛められる予定の西指宿に同情しない事もないが、義弟の隼人は一ミリも同情した風ではない。本当に血が繋がっているのか裕也は他人事ながら首を傾げた。

「山田、白百合をちゃんとしつけとけや。睨みで死にそうだぜ」
「ふーちゃん、藤倉は俺の頼みを聞いてくれただけなんだから睨まないの」
「ハニーを500円で売ろうとしていた男を庇うんですか?」
「思い出したぞ藤倉!お前さんと言う奴は俺を540円(内税)で売ろうとしたね?!」
「忘れてたのかよ」
「でも俺は広い心で許すよ。だってお前さんは左席委員会運動部長だからねー」
「何と広い器の持ち主でしょう。それでは私も藤倉君を許す事にします。何せこの叶二葉は、左席委員会副会長補佐官ですからねぇ」
「「「は?!」」」

錦織要、神崎隼人、高野健吾の声が見事に揃った。

「いやいやいや?!左席委員会は満員っしょ?!(;´Д⊂)」
「寝言は寝てる時に言え洋蘭、お前は中央委員会会計だろうが!」
「アンタ隼人君を殺そうとしてくれたよねえ?!隼人君は許した覚えがないんですけどお?!つーかサブボス、アンタこそそいつの所為でケンゴとユーヤからボコられそうだった事、もう忘れたわけー?!」
「え?あ、そう言えばそんな事あったっけ?」
「誤解ですハニー、私はただハニーを遠野猊下に奪われたくない一心で、うっかりやきもちを…」

優雅に鼻眼鏡を押し上げている二葉は、ぶるんぶるんエンジンを吹かしている大型バイクの上、生き残った鼠が近寄ってきた瞬間目も向けず踏み潰し、焦げた前髪を気にしている太陽を見やる。

「陛下が殉職なされば、名実共に私はフリーと言う名のフリーエージェント宣言を発動します。山田太陽左席委員会副会長の補佐官になる為に」
「いやいやいや?!アンタそもそもステルシリー副社長っしょ?!(;´Д⊂)」
「落ち着きなさいケンゴ、とりあえず俺達が力を合わせれば殺せない相手ではありません。叶二葉を殺しましょう」
「カナメちゃんこそ落ち着こっか?隼人君とお猿、二人掛かりで勝てなかったんですけどねえ?あは、あは」
「あー、四天王が揃えば、いけんじゃね?」

ぼりぼりと喉仏を掻いた裕也が呟けば、狼狽えていた隼人と健吾も表情を引き締めた。鼻眼鏡を掛けている阿呆を前に、何だか負ける気がしないカルマ4匹は、

「あはは。いいねー、じゃあ俺もそっちのパーティーに入ろっかなー。魔王をぶっ飛ばすぞー」
「待って下さいハニー、私も仲間になります。魔王をぶっ飛ばしましょう」

太陽が要の隣でキリッと眉を吊り上げた瞬間、鼻眼鏡をぽいっと外した二葉までもパーティーに入ってしまった為に、打倒魔王戦を開始出来ない。
何故だ。叶二葉を倒そうとしたのに何故、叶二葉がカルマ四天王に並んでキリッとしているのか。残念ながら、四人の中で最も賢い神崎隼人に皆の視線が集まったが、隼人にも判らなかった。

「あは。何かよく判んないけどさあ、左席に入りたいんだったら、眼鏡のひとは新入りなんだし、先輩の言う事は絶対なわけでえ…なんてねえ」
「うんうん、神崎の言う事は一理あるよねー。三年生だけど左席の中じゃ後輩だもん、抹茶入りおっほ〜いお茶買ってこい」
「洋蘭、ジュース買ってこい」
「うひゃ、早速タイヨウ君とカナメが白百合パシってるぞぇ(・∀・)」
「あー、野菜ジュース買ってこい」
「黙りなさい」
「「「「さーせん」」」」

調子に乗った一同は、笑顔の二葉に負けた様だ。
自然に謝ってしまった隼人はパシってはいないが、要だけは今にも舌打ちしそうな表情で二葉から目を逸らし、バイクに跨がったまま動かない白衣へ目を向けた。

「ハヤト」
「なーに、カナメちゃん」
「あの男、さっきから動いてませんが…」
「へ?」

然し隼人が振り返る前に、それまで沈黙していた二人の声が聞こえてきたのだ。






「同人誌?」
「それすら、淘汰したのか?」

怪訝げに首を傾げる黒曜石に似た双眸が、話は終わりとばかりに反らされる。金の眼差しを眇めた男はは無意識に手を伸ばし、その肩を掴んだ。
けれどその手を振り解かれて、何を思ったのだろう。

「もし俺が淘汰したと言うなら、必要なくなったからだ。俺が掻き集めた破片の中にその単語は存在しない」
「掻き集めた…記憶を、か?」
「もうイイか、イチが待ってる。要、隼人、健吾、裕也」

足元に寄ってきた一匹の赤い鼠を、然し俊は振り払わない。

「そこにイチがいるんだな?」

その代わり様子を見守っていた周囲を見渡し、暗い口を開いている大穴を見やる。けれど近づく事は出来なかった。白く、妙に長い指先に、手首を掴まれているからだ。
肌の色合いの違いが明らかに判る。同じ男の手なのに、別世界の住民の様に。

「…何?まだ俺に用があるのか?」
「何故だ。同じグレアムでありながらファーストは残り、何故、俺は破棄された」

引き換えに、神威は肌の違いなど気にしてすらいない。
冷静にさえ思わせる無表情は、然しいつもより早い口調で呟いた。

「困ったねィ。さっきからチミは何を言ってらっしゃる、」
「お前は俺より酷い」
「ぇ?」

宙を掻く指は力なく落ち、全身を緩やかに支配していくのは、抗えない無気力感だ。
けれど表情には出ない。仕草にすら出ない。神に等しい皇帝として育てられてきた男が、最初に捨てたものこそ、人間らしさだったからだろうか。

「何故奪われたものを奪い返そうとしない。お前は俺から父上を奪った。だから俺はお前から父上の全てを奪った。なのに何故、奪い返すどころか、手放したんだ」
「そうなのか?ふむ…でも、俺は何も盗られてないぞ?」
「覚えていないだけだ。お前が名乗るべき姓も、お前が継ぐべき爵位も、お前が預かるべき統率符さえ、俺が奪った」
「良く判らないが、盗られていても俺は全く覚えてないんだから、怒る理由にはならない。名字は元々遠野だ。地味で平凡でチキンな俺にキラキラネームはハードルが高過ぎる。だから気にする必要はないぞ。忘れてイイ」
「それほど、私は酷い事をしたのか、俊」

謝れば許されるのだろうかと、白銀の男は膝を地に下ろす。他人が目を見開く事にも構わずに。
悲鳴じみた雑音が鼓膜を震わせたが、雑音が言葉として認識される事はない。

雑音はただただ、雑音であるままだ。

「さァ、俺に聞かれても」
「私にお前の魔法は効かないらしい」

二人の手は、離したのか振りほどかれたのか。

「俊、答える必要はないよ」

面白くないとばかりに口を開いた太陽は、軋む空間の音に目を細めた。遊んでいる時間は流石にもう、ない。

「本人が言う通り、そいつはグレアムの癖にお前さんから帝王院を奪った敵だ」
「…」
「榛原の能力は明神には効かない。明神は耳が目だからさ。全ての音が感情として見える。だから、世界中を探せば効かない奴なんて何千人もいるんだ。騙されちゃ駄目だよ、俊」

見ていた誰もが、その答えを知らない。
俊を一瞥した太陽は仕方ないとばかり頭を掻いて、目が合った二葉に頭を振った。
灰皇院に伝わる悍しい特技は、各当主だけが知る秘密だと聞いた。末っ子の二葉には教えられない。



「Close your eyes.」

地に沈む様な声だ。
囁く様に、けれど重圧する様に奏でられた声で、獅楼と神威以外が頭を押さえて目を閉じた。
片目だけ閉じたウィンクの様な体勢で眉間を押さえた太陽は流石だが、隼人も二葉もやはり素直に目を閉じているのを見るにつけ、太陽は舌打ちせんばかりの荒んだ表情だ。

「俊、する時は一言掛けてからにしてよねー…」
「ごめん。でもこれではっきりしただろ?」
「…もういいよ。お前さんは俺の頼みなんて聞いてくんないんだもん」

太陽の言葉に目元だけで笑った男の、漆黒の眼差しは、ゆらりと。表情一つ変えずに立っている、白に愛された男の、唯一色を帯びた黄金を見据えたのだ。

「確かに、効いてないな」

諦めた様な声音だ。
轟く恐ろしい音すら掻き消す、余りにも静かな。

「それは、…俺が言ったのか?」
「ああ。どう言う意味だ」
「む。…本当に、俺がそう言ったのか?神威に?」
「証明する術はない。お前が信じぬのであらば、致し方あるまい。…全ては己が招いた事だ」
「困ったな。全く以て俺と言う男は一体、どんな高校デビューを果たしたんだィ?」
「…俊?」

困った様に首を傾げた男の夜色の眼差しに、黒髪が掛かる。
細められた意思の強い眼差しはやや翳り、ただ、困惑しているのだと知らしめた。

「俺には全てが在って、何一つ存在しない。それは俺が生まれた、月隠の夜から始まった」

いつか二葉を『夜の太陽』と言った男がいたと、帝王院神威は心の中で思い出す。それならば目の前のそれは、淡い星の光を抱く星月夜のスクリーンの様だ。
誰よりも感情豊かに見える。誰よりも愛情深く見える。

「特別な人には効かないんだ」
「………何?」
「好きだとか嫌いだとかじゃない。そうじゃないんだ、…多分」
「…」
「だから、単純に、特別な人には掛けられない。それもたった一人。何と言うか…一人しか存在出来ない存在、と言うしかない。でもそう、こんな事を聞かされても、迷惑だろう?」

手が、視界を覆う様に広げられていく。
投げ掛けられた言葉の意味を計りかねた思考回路が、生まれて初めて混乱の極地を彷徨う内に、眠りを誘う様な声が、全ての音を奪ったのだ。



「Close your eyes. 全部忘れて、今度こそ良い夢を。」

無慈悲な神よ。
人が崇拝せし、無慈悲な王よ。


「…今、何をした?」

何故、その願いは叶えられないのだ。
何故、消えてなくならないのだ。
殺せと願ったからか。
これは死に等しい。
つまりは、罰か。


「本当に効かないのか」
「私はそう言った筈だ」
「そう、だな。そう聞いた」
「消そうとしたのか。今、私の記憶を」
「うん、でも失敗した。それだと話がおかしい」
「何だと?」
「ルーク」

奇妙な顔だ。

「やっぱりそうか。余りにも変わりすぎて、判らなかった」

唇の端を震わせて、笑っているのか泣いているのか、見ただけでは判断が出来ない。前髪に覆われた眼差しが微かに揺れている。

「赤かったのに」
「…眼、か?」
「そうだ。俺のルビー」
「夜は赤い」
「そうか」
「私を覚えているのか」
「忘れる筈がない。…道理で、効かない筈だ」

つい先程、記憶を奪おうとした他人の手が、頬へ躊躇いがちに伸ばされた。

「初恋の人には効かないんだ。正確には、思い入れの強いものには効かない。あとはそう…弱点は他にも、幾つかある」
「馬鹿な、事を。…有り得る筈ない。私がお前の」
「約束しただろう。いつか俺はお前を、」



蝉の音。
大音量で蝉の音が頭の中に鳴り響いている。



俊が何かを言っている。
何一つ聞こえてこない。
唇を読めば判る筈だと思った瞬間に、目の前で頭を押さえた黒髪が倒れていくのを見たのだ。




「俊、」


ミンミンミンミン。
ミンミンミンミン。
ミーンミーンミーンミーン。
ミーンミーンミーンミーンミーン。





目を閉ざせ

誰の声だ。
それは、誰の声だった?

全ては絶望の代償だ


蝉の音がやまない。
(頭痛がやまない)




さようなら、裸の王様
正しい時を廻せ









『蝉を取ってきたのか』
『夏は夜が美しい』
『百と八つの輪廻が巡り』
『お前がもし再び人として産まれたその時は』
『私の全てを以て、天地(あまつち)の天網を紡ごう』



『正しい輪廻を廻す為に。』



伸ばした手が愛しい人に届いたのか、誰か教えてくれないか。
















『ぬしさま』
『ぬしさま』
『その道へ行けば戻れなくなってしまいます』



『千の鳥居を潜ってはなりませぬ』







『天守(あまつのもり)さま』














ひたひたと、何かが零れる音がした。
唐突に覚醒し瞼を開けば、小刻みに震えている背中の下に気づいたのだ。

「…何だ、今の」

どうにも重い体を持ち上げれば、暗い中、目映いほどの光を見た。眩しさに目元を片手で覆い、傍らのそれを掴む。

ばちりと火花が散り、慌てて握った何かから手を離した。
ばちばちと静電気を走らせたそれは、分厚いスマホの様な箱形の何かだ。ピカピカと点滅した光は、ややあって照度を減らしながらも、何とか光を灯し直した。壊した訳ではないらしい。

「何だ、ビビらせやがって。………あ?」

重い重いと思えば、濡れた髪を固く編み込んでいたからだと判った。けれどその前に、足元に金色の何かを見たのだ。
壊さないよう箱形のライトには触らないよう、重ねた机の上から降りれば、暗い暗いと思っていた教室の半分以上が、恐ろしいほど大きい黒いもので埋め尽くされている。

「何だこりゃ。…風船?」

拳で軽く叩けば、ぼよんと凄まじい弾力で無効化された。
余りにも大きいので全容が判らないが、巨大すぎるゴム製のバランスボールらしきものの様だ。

「何がどうなったらこうなった」

嵯峨崎佑壱が寝かされていたらしい机の下、脚に背を預けて目を閉じている男を覗き込めば、想像通りの男だった。

「起きろ高坂」
「…」
「んだよ、寝顔なんざ久々見たぜ。良くこんな状況で寝られんな、こいつ」

自分が今の今まで寝ていた事には構わず、佑壱は髪に食い込んだ湿ったシュシュを外す。
貸してくれた隼人には悪いが、力任せに外すものではないらしい。


「…しまった、借りもんだったの忘れてた」

ぶちっと容易く切れてしまったからだ。
百円均一グッズだろうか、と言うのは、余計のお世話だろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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