帝王院高等学校
確実に死神は近づいてきています
「お、親父ィ!頼む、この子を助けて…!」

物心つくまでは、医者である多忙な両親に代わって祖母に育てられた事もあり、我ながらませた子供だったと思う。仕事主義で厳格な父親には逆らってばかり、そんな旦那の言いなりにしか見えなかった母親には期待していなかった記憶もあるだろうか。

「死んじゃう!俺の血が使えるなら幾らでも抜いてくれて構わねェから…!頼む、おね、お願いします…!」

人生で初めて、冷静であろうと何度唇を噛み締めても涙が止まらなかった日の事を忘れはしない。
形振り構わず抱き抱えた我が子が産まれた時でさえ、涙など流しはしなかった。だから止め方が判らない。さぞみっともなかっただろう。さぞ愚かしく映った事だろう。けれど、いつか捨てた職場に戻り土下座する事など、酷く簡単な事に思えたのだ。

「手術室の用意を!」
「…何を勝手な真似をしとるか、榊」
「院長が何を仰っても、俊江先生のお子さんを見捨てる訳にはいきません」

いつか捨てた職場だ。
いつか裏切った医局長の力強い言葉を聞きながら、震える唇をただ、噛み締める。礼の言葉さえ満足に言えやしない、さぞみっともなく映っただろう。呆然としている他人の視線に晒された。表情一つ変えず、無言で去っていく父親にひたすら頭を下げ続けるばかり。

「お願いします、助けて下さい…」

他に出来る事など何もなかった。
白衣を捨てて母親を選んだ瞬間に、自分は医者ではなくなったのだ。



「俊を助けて下さい、おね…お願いします…」

救えたかも知れない幾つもの命と引き換えに、たった一人の、愛しい男の手を掴んだその時に。










医学部を目指すと初めて口にしたそのときに、祖父から十字架を奪った。

孫娘には甘い鬼と呼ばれた男もその時ばかりは困り顔で眉を下げたが、結局、最後には折れたのだ。



それが彼の弟の形見だと知ったのはいつだったか。
母曰く大叔父と言う、行方不明の男の名は、遠野夜人。行方不明なのに形見があるのは変な話だと思ったが、おっとりしている母親は疑問を感じなかったらしい。

家に居る時は寝る時以外、大体書斎に籠っている父親は、祖父とまるで違う人種だった。学校の男性教諭とも異なり、父親だと言われても他人と変わらない様にさえ思える。
学校の行事になど一度もやってこない。家庭訪問の時にも姿を見せない。基本的に病院に行ったまま、時折帰ってくるのは決まって真夜中、星月夜だ。

月はないのに星が綺麗な夜は、まるで天然のプラネタリウム。
静かな書斎をこっそり覗けば、開け放した窓辺で真っ暗な部屋の中、じっと外を見ている後ろ姿が見えた。


父親だと言う男が、部屋一面を覆い尽くした本棚の中の夥しい数のファイルに紛れ、日記の様なものを隠している事を知った。
それには小さな鍵穴があり、昼間こっそり家捜しをしたが、とうとう鍵らしきものを見つける事は出来なかった。




表紙にはオリオン座が描かれている。
冬の星座だ。




父親に関して唯一覚えているのは、彼の誕生日が毎年ある訳ではないと言う事。
それ以外の父親を、何も知らなかった。














「女王騎士がロンドンを取り囲んでいる」
「流石に逃げ場はない、か」

暗い真冬の夜にも関わらず、屋敷中の窓の外は燃える様に目映かった。文字通り、周囲を炎で取り囲まれているからだ。

「所で、ノストラダムスの予言は1999年ではなかったか、リヒャルト」
「兄上、今際の際にご冗談を」
「ふふ、陛下はこんな時までお変わりないようで、何よりですわ」
「そうですね、お義姉様」

屋敷の人間は、ただ一人を除いて皆、灰に似た銀髪か灰茶髪だった。

「ヴォイニッチ手稿に描かれたセフィロトを見つけられなかった事だけが、私の唯一の心残りだ」
「おお、神の遺産ですか。流石は兄上、志が高い」
「あら、ただの落書きではありませんの?」
「私達グレアムを以てしても半分以上解読出来なかったのです。きっと、この世界のものではないのでしょう」

屋敷の主たる男爵、エイト=キング=ノアだけがブロンドで、彼の妻もきらびやかなプラチナブロンドだ。
彼らはにこやかだった。屋敷ごと燃え落ちる寸前にも関わらず、いつもの様に。

「ナターシャ、女王の愛した犬は殺されてしまったらしい。複製は所詮複製、偽物のペットは詐欺と言われても仕方あるまい。なぁ、リファエラ」
「お兄様。産業革命でフランスを捨てアイルランドに移り住んだ私達が、いつか裁きを受けるのであれば、それはかつての大洪水だとリファエラは思っておりました」
「ああ、それこそノアの一族には似合いの末路だ。が、現実は火炙りとはな」

彼らは一人として悲観した様には思えなかった。
全て幻かも知れない。

「私達の間に子供が居なかった事は、僥倖だろうか。私の愛しいクイーンメア、最後まで私と共に居てくれるか?」
「勿論、喜んでお側に」
「僕らもお側に居ますよ、兄上」
「私達グレアムは、ノアの在る所が世界ですから」

死は恐れるものではなかった。
怪我を癒す事は出来る。けれど、死を免れる事は出来ない。それなのに愚かな女王は、愛犬を失った悲しみで狂う間際だった。

「先祖代々薬師として栄えた家名を陥れてしまった。全ては愚かな私の罪だ。許してくれるか、諸君」
「勿論ですわ、陛下」
「それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」
「キングダムクイーンもハーデスも、私達を従える事など出来ないのです」

誰が慰めても彼女の苦しみは癒えない。心の喪失を埋める薬を、グレアムはとうとう作る事が出来なかった。

「それでは皆、タルタロスへの船を待とう。…但しリヴァイ、お前は連れていけない」

そのきらびやかな金髪を紅蓮の炎光で染め、夜空めいたダークサファイアを笑みで染めた男爵は囁く。長兄でありながら、兄と呼ぶ事が罪の様に思えるほど、彼は優しかった。残酷なほどに。

「アランドール=アシュレイ」
「は。此処に」
「アイリス=テレジア」
「お呼びでしょうか、陛下」
「私達の愛する末の弟と共に地下道を下り、グリーンランドの友の元へ逃げろ」

彼は何の罪もない従者の全てを逃がそうとした。
けれど最後まで共にと誰もが口を揃え、仕方ないとばかりに、妊娠していたメイド長と、子供が産まれたばかりだった執事、それと自分より若い従者達数名に、命令したのだ。

「リヴァイ。ヨーロッパの何処にも、我らの楽園はなかった」
「兄上、私もお側に…」
「聞きなさい、リヴァイ。お前は私達の母様方が最後に残して下さった、我らノアの唯一の光だ」

最後の慈悲は、残酷なほどに優しい命令だった。

「私達の宝に幸があらん事を」
「我儘を言って皆を困らせるんじゃないぞ、レヴィ」
「ご機嫌よう、レヴィ」
「お兄様の様に素敵な紳士におなり、レヴィ」

何が光だ。
優しかった兄姉の誰一人として救えずに、泣き叫んで駄々を捏ねる事も出来ず、執事に抱えられて暗い暗い地下道を抜け、燃え落ちる屋敷をただただ見ているだけしか出来なかった、脆弱な子供ではないか。








「屋敷跡を探らせた者からご報告を。生存者は0。ご遺骨は勿論の事、…残ったものは何もなかったそうです」
「そうか」

八代男爵、キング=ノア=グレアムの真名がリヒト=グレアムだと知ったのは、彼がノヴァとして天に召された後だ。
彼こそが『光』だった。金の髪を唯一与えられた黒の一族の、優しかった兄男爵こそが、神だったに違いない。

「海の向こうに見えるのは、カナダか」
「リヴァイ様」
「私は亡き兄上の爵位を引き継ぐ事にした。リヴァイ=グレアムは屋敷と共に燃え、灰の町で灰と化した名だ」

これは絶望なのか。

「グリーンランドに神の木はない。最早、この島に留まる理由はないだろう」

兄が救おうとした女王を殺す気にはなれない。グレアムは人を救う家だ。化け物と陰口を叩かれようとも、誰一人として、恨んでなどいなかったと思う。

「ハドソンまで船を頼めるか。そこからは、私一人で行く」
「いいえ。我らも地の果てまでお供致します、レヴィ=ノア=グレアム」
「…そうか。有難う、アランドール」

ヨーロッパに楽園はなかった。
ならば海の向こう、未だ見ぬ楽園を探しに行こう。



「見つからなければ作るだけだ」

神を失った憐れにして愚かしい欧州など、放っておいても冥界の門に食われる寸前だ。








光に満ちた国があるそうだ。
遥か彼方海の向こう、一昔前まで黄金の国と呼ばれていたらしい。

それは世界の東の果て。
極東の島国は太陽が昇る、日本と言う。


一度目は近づく事さえ出来なかった。
海を轟く巨大な竜巻、唸る空の何と悍しい事か。

あれは台風と言うらしい。
あの異常気象のお陰で、あの島国は他国のどれとも違う独特の文化を築いてきたそうだ。



何年経ったのか。
朽ちていく記憶を繋ぎ止め繋ぎ止め、仲睦まじい兄夫婦の事ばかりを近頃良く思い出す。

死ぬ時まで手を繋いでいた、金と銀の髪。
あの二人の様にと妻を娶ったが、やはり、呪われたノアに子供を作るのは難しいらしい。


記憶にない父母は奇跡を起こしたのだ。
兄姉の全てが腹違いだったが、それでも皆、仲良く暮らしていた。正妻である長兄の母と妾も姉妹の様に過ごしていたそうだ。

それがどうだろう、一人目の妻は妊娠の兆しがない。
二人目の妻は妊娠こそ果たしたが、失敗した。
三人目の妻はわざわざ面白い血を選んでみた。我が家を火で包んだ、悍しい女王騎士の家系の娘だ。



奇跡は待つものではない様だった。
リヒト=キング=ノアは正しかったのだ。自然界の神の慈悲を与えられていないグレアムは、つまらない倫理に従っては幸せなど得られはしない。

フランスでは悪魔や魔女と謗られた。ただ人より薬に詳しかっただけだ。ただ救いたかっただけだ。それなのに迫害された。

産業革命で技術を求めていた先進国に求められ、女王の慈悲に跪いた。それなのにそれが気に食わない貴族らからは謗られ続け、女王への恩を返せば、それが仇となりイギリスから消されたのだ。


アメリカ大陸は広かった。
静かなグリーンランドを時折思い出す。漠然と、広大に広がる地平線、水平線、世界で最も大きな島だと知ったのは、地球儀と言う面白いものを手に入れた時だ。

そう言えば、地球儀を初めて見た日本人は、日本列島のサイズを何度も何度も定規で確かめては、そんな筈はないと唸った。
それこそ太陽が如く燃える髪と目を持つ男だったが、あれは本当に人間だったのだろうか。

アメリカ大陸よりずっとずっと小さい島国は、地球儀で見れば人差し指で潰せる程の小ささでありながら、大陸相手に挑み続け、敗北した。
GHQの管轄下にありながら、独特の文化を近代的に変形させてきたそうだ。いつか蜃気楼の様に現れた真紅の男を拾った西海岸から、今では飛行機であの島へ行けるらしい。



とは言え、国籍のない身としては飛行機はどうも敷居が高い。
興味がない訳ではないが、ノアにはやはり舟が似合う。





そうだろう?











(蜃気楼を迎えに来た男がいた)
(飛行機で、文字通り空を羽ばたいたのだ)
(男の名は帝王院鳳凰)

(燃える炎鳥、不死鳥の名を持つ太陽の島の王)


(漆黒の髪に漆黒の瞳)
(それこそ日本民族の真実だと言う)
(珍しい色だ)
(黒に焦がれないノアが何処に存在する?)



(けれど私が求めているのは『王』ではない)





(私だけの、メアだ。)








別れの言葉もなく、つれない不死鳥と蜃気楼は鉄の翼で遥か彼方。

太平洋をゆっくりと巨大な方舟は泳いでいく。
別に居なくなった二人を追うつもりはない。惜しい人材だが、独特の文化を築いてきた島国だ。面白い人間は他にも居るだろう。何せあの国の男は侍、女はくの一だと言う。

行きの船旅は空ばかり見ていた。
星も月も雲も太陽も渡り鳥も、私には無関心だ。



帰りの船旅は夜ばかり見ていた。
髪も目も名前までもが黒に愛された子供だったが、彼はお世辞でも上手とは言えない発音で、誇らしげに己を『ナイト』だと言ったのだ。





(ああ)
(奇跡だ)
(運命と言っても良い)



(ナイトメア)





(冥界に住まう黒の男爵にとってそれは、さぞ幸せな悪夢である事だろう)










「お待たせしてすみません。計器トラブルで病院と連絡がつかないので、保険医の先生方にご協力頂く事になりました」
「学園長、隆子先生、微力ながらお手伝いさせて下さい」

学園の保険医を引き連れやってきた遠野院長に、何となく場の緊張が解れた。遠野一族で最も気弱と自称するだけに、つい数分前に居なくなった俊達のお陰で残った面々の表情が和らいだ。
例外は、俊が食い散らかした朝食の残りを摘まんで腹を満たした、この男だけだ。

「直江、人様の学校で大きな顔をするな恥ずかしい。じっちゃんが笑われるんだぞ」
「…あのな、じっちゃん。俺を幾つだと思ってる?」
「ふん。面だけは若い頃の龍一郎に似た癖に中身は美沙そっくりな泣き虫が、泣いて吠え面掻くんじゃねぇぞ!俺が築き上げてきた遠野総合病院の名を辱しめたら、許さんからな」
「判りました判りましたっ、人様の学校で大きな声を出さないで下さい!」

黙っていれば男前な遠野直江院長は、閉口している保険医らと共にそそくさと踵を返す。

「夜刀殿、何のお構いも出来ず心苦しい限りですが、私共は此処で失礼を。今後共何卒、」
「良い良い、堅苦しいのは顔だけにしろ。それより駿河、」

隆子夫人の療養に当たって、学園と遠野病院が連携する事になったのは、理事長不在の理事会役員には既に通達された。学園長である帝王院駿河の名の元に、学園内の教職員の耳にも間もなく入る事だろう。
役員名簿から消されても平然としている元理事長と藤倉理事については、駿河学園長や遠野夜刀がわざわざ説明するまでもなく、勝手に行動する手筈だ。どうせ何かを言った所で素直に聞いてくれる気はしない。

「…落ち着いたら戻ってこい、話がある」
「承知しております」

何せよ、冬月龍一郎の身柄を守らせるには元男爵は最適だ。遠野夜刀の打算を、恐らく帝王院駿河も理解していた。

「では行こうか隆子」
「はい、旦那様。皆さん、折角訪ねて下さったのに、おもてなし出来なくてごめんなさいね…」

年齢こそ仙人レベルだが、元気は有り余っているらしい遠野夜刀に力強く頷いた学園長は、珍しい大人数の来客や孫との対面で疲れ気味の妻の車椅子を引いてやる。
立ち上がろうとした叶兄弟を片手で制したのは学園長で、文仁はともかく冬臣は主人の命令を的確に理解した様だ。現時点での警護対象は、帝王院駿河ではなく、遠野夜刀と言う事らしい。

「隆子ちゃんよ、動いてないと気が滅入る気持ちは判らんでもないが、体あっての物種だ。時にはゆっくり休むのも、大事な仕事だぞ?お医者の言葉だ、聞いといて悪い事はない」
「ふふ。はい、有難うございます夜刀さん。改めて直江先生、宜しくお願い致します」
「私からも改めて願い奉る。妻を宜しくお願いします、遠野院長」
「はい、任せて下さい。微力ながら努めさせて頂きます」

何と頼もしい、とばかりに目を輝かせた帝王院夫妻に、祖父の睨みを浴びながら気弱な遠野直江は乾いた笑みを零した。

「それじゃ、じっちゃん、皆さんに迷惑だけは掛けないように」
「煩い、お前は俺を誰だと思っている。鬼神と呼ばれた遠野夜刀だぞっ」

ちらりと叶冬臣に視線を走らせた若き院長は、何やら物言いたげに思えたが、結局無言で中へと入っていく。
今の視線の意味を暫く考えたが答えらしい答えを得られなかった冬臣は、目があった極道に意味ありげな笑みを向けて怯えさせてから、彼の隣の曰くアンドロイドを見たのだ。

冬臣の目にも、それは生々しい人間にしか見えない。
眠たげに瞼を閉じたり開いたりしている様子など、どう見ても年頃の女性だ。外見だけの年齢であれば二十代、空を固めた様なオリエンタルブルーの双眸は、確かに二葉や亡き父親のそれにそっくりだった。


「邪魔が居なくなった所で貴様らに話をしてやろう」

学園長夫婦を孫に押し付けて、遠野夜刀は車椅子の上で頬杖をついた。
突如表情を変えた男の醸し出す雰囲気はそれまでのものとは明らかに違っている。警戒した皆に気づいたのか、男は深い皺が刻まれた顎を撫でると、艶やかな漆黒の眼差しを眇めたのだ。

「お前らにも言いたい事があろうが、俺は人の話を聞くのは好かん。勝手に喋るから大人しく聞いとけ」
「はっ、勝手なじい様だ」
「文仁、」
「ふん。へらへら嘘臭い面しとるお前より、そっちの餓鬼の方が可愛いげがある。これだから京都の奴は、男も女もいけ好かん」

107年の人生に何があったのか、ぺっぺっと唾を吐き散らしたジジイはただでさえ深い皺を益々深め、車椅子の上で貧乏揺すりする。然し凝った造りのマッサージチェア…否、カスタム車椅子はびくともしなかった。

「あの車椅子、実用化したら売れそうだなぁ」

ヤクザの瞳に¥マークが浮かび、その言葉を聞き止めた実業家叶文仁の目が細まる。T2トラジショナルは日本各地のリゾート開発から経営が基盤だが、某医療器機メーカーの大株主でもあるのだ。
脇坂と文仁はどちらからともなく見つめあった。が、ヤクザは叶が苦手だったので、そっと…とはとても言えないぎこちない仕草で目を逸らす。シカトされ慣れていない文仁の目尻が痙攣した。マジで激怒する寸前だ。

「男同士で見つめあうな気色悪い。これだから男子校出は好かん」

然し、叶二葉に顔も気の短さも似ている叶文仁が唸る前に、マッサージ機能を起動させた年寄りは、己の曾孫が迸るまでの腐男子に転職した事も知らず宣った。

「ったく、先々代の俊秀さんは人格者だったが、事子育てに関しては底抜けの阿呆だ。娘を失った悲しみから、鳳凰と異性の接触を全力で遠ざけた結果がこれだ…あっあっ、そこ、らめぇ!あふん」

ウィンウィン唸るマッサージローラーに、あんあん喘いでいる107歳に突っ込む者はない。喘ぎ方が曾孫そっくりだが、それに関しても突っ込む者はなかった。

光華会総統、高坂組ブレーンと名高い漢字の漢と書いて男脇坂、彼が知る限り遠野俊と言う男は、任侠を極めるべき天賦の才を備えた最強の極道(顔)だ。
あふんあふん喘ぐ様な男(顔)ではない。

帝王院秀皇の華々しい経歴をしっかり記憶している一同は、目付きさえ除けば彼そっくりな俊を同時に思い浮かべた。冬臣と脇坂の脳裏を華麗に遮っていった主人公は801倍美化されているが、文仁の脳裏を華麗にクネった主人公は、ただただ気持ちが悪いだけだ。
喘いでいる107歳に負けず劣らず。

「…曾孫が曾孫なら、曾祖父も曾祖父か。帝王院唯一最悪の汚点が跡取りとは、先が見える」
「よさないか、言い過ぎだよ文仁。申し訳ありません、遠野さん」
「ふん、尻の青い台詞を吐きやがる。遠野は代々争いを好まん家系だ。家業にも現れておろう、命を摘み取る輩はどうしても許せん」
「おやおや。それは皮肉ですかねぇ?」
「鳳凰が唯一同等を認めた俺に手を出すのはやめておけ、叶文仁」

叶冬臣の揶揄めいた笑みを見つめたまま、遠野夜刀は吐き捨てた。頬杖をついたまま、文仁へは目も向けずに。

「遠野は争いを好まんが、人を殺す知識だけは貴様らより数万倍上だ。救った命より失った命の方が遥かに多い。判るか若造、その意味が」

遠野夜刀は喧嘩をしない。
口は悪いが人を殴る事などなかった。但し、それは己の拳だけを見ればだ。

「メスの役目は、知っての通り人を切り裂く事。それ以外に何の意味もない。刀と同じく刃が欠ければ捨てる。救うも奪うも、選ぶのは刀を握った医者の判断一つ。俺は外科医だ。救う事がどれほど難しいか知る反面、命を奪う容易さも知り尽くしている」
「…ちっ」
「躾がなっとらんな、叶不忠の孫は」

遠野の台詞に、叶兄弟は目を見開いた。
京都から一度も出ないまま死んだと思っていた祖父の名が、まさか彼の口から出てくるとは思わなかったからだ。

「私達の祖父をご存じでしたか?」
「俺の父親は俺が中学の頃に死んだ。名を遠野星夜、双子の兄が居たが、当時『鬼子』と呼ばれた病で生後間もなく死んだ」

冬臣の質問には答えず、遠野の口は滑らかに動いた。

「江戸の末だ。蘭学に通じていた遠野はそれが病だと知っていたが、当時東北で暮らしていた祖父母は鬼を産んだと迫害され、故郷を捨てた。名をつけられる前に死んだ俺の伯父の病名は、現在の医学ではアルビノと呼ばれるものだ」

眠たげに目を閉じた傍らを見やり、遠野はコンセントと呟く。片身が狭そうに座っていた極道はこれ幸いに立ち上がり、テラスからリビングへと消えた。

「20年程前に、貴様ら灰皇院仲間の冬月龍一郎が二体のアンドロイドを造った。恐らくコイツは、俺のアンドロイドの対だろう」
「話が飛びますねぇ」
「ふん、賢い頭で精々話の断片を繋げていけ。初めから正解を貰えると思ったか、世間知らずが」
「これは手酷い。それでは、最後まで伺いましょう」
「父親と言うものは、どんな馬鹿な子供でも可愛いと思うもんだ。出来が悪ければ悪いほど、手が懸かれば懸かるほど、その傾向は強いかも知れん」

脇坂が運んできた延長ケーブルを突き刺せば、暫くして目を開いた女はぱちぱちと瞬いて、ふわりと笑んだ。

「ヤト殿かたじけない。内部バッテリーが切れました」
「お前、アナスタシウス展開だろ?あれは消費電力が激しい」
「良くお判りになりますねぇ。そうです、僕はアナスタシウス。電力が落ちたお陰で、アーカイブロックがリセットされました」
「お前を作ったのは龍一郎だな?」
「ごめんなさい、そのデータはありません。メインバンクの解除権限は、コントローラーにしかない様です」
「ほー、お前には操縦者がいるのか?」
「はい。僕の娘、キハです」
「何だと?!」

遠野と同じく頬杖をついた姿で沈黙していた文仁が声を荒らげた。彼にとっては死んだ妹の名が出てきたのだから、無理もないだろう。

「おい、貴葉が生きてるっつーのか?!」
「落ち着きなさい文仁。信じ難い事だけど、有り得ない話ではない」
「でも冬臣兄さん、だったら誰が何の為に隠してるんだよ」
「18年前、うちの病院に二人の患者が運ばれてきた。一人は頭に被弾した子供、一人はその子供の母親だ」

文仁の悲鳴じみた台詞に冬臣が口ごもった瞬間、遠野はゆったりと口を開いた。二人の狼狽などお構いなく、独り言の様に。

「娘の方は搬送までに時間が懸かりすぎて、蘇生を施したが脳死状態、希望は皆無だと思われた。目の前で娘の惨い光景を目の当たりにした母親は妊婦だったが、そのショックで早期破水、予定日より一月早く帝王切開で嬰児を出産。およそ1000グラムの未熟児は男児、二ヶ月入院した」
「…叶二葉、私の二人目の弟です。お陰様で今では立派に育ってくれましたよ」
「俺の娘が最後に診た患者だ。小児科と産婦人科を兼任していたからな」
「それでは一ノ瀬美沙先生は…」
「院内に何人も『遠野先生』が居れば混乱するだろう?俺と龍一郎は遠野院長、遠野副院長で区別出来たが、娘には母方の姓を名乗らせた。あれの母親の故郷も東北でな」

苛々と足踏みしている文仁の肩を叩いて宥めながら、冬臣は無言で頷いた。当時高校生だった冬臣が父親代わりとして、新生児室で処置を受けていた二葉に付き添っていた為、担当医だった優しげな女医の事はしっかり記憶している。

「叶も賢い家系とは聞いたが、冬月ほどではないだろう?」
「私も聞いた話でしかありませんが、恐らくそうだと思います。彼らの記憶力は、人の枠組みを逸脱していたと」
「は、所詮噂レベルだ。冬臣兄さんより賢い奴なんか存在する訳がない」
「威勢が良い餓鬼だが、嫌いじゃないな。お前は中々に粋な男だ、叶文仁」

褒められるとは思わなかったのか、文仁はその美貌を哀れなほどに崩した。馬鹿にされていると憤るべきか、言葉を額面通り受け取るべきか、計り兼ねている様だ。

「一つ聞くが、だったらお前達は産まれた時の事を覚えているか?」
「…は?」

竜神とまで謳われた叶当主の視界で、鬼が嘲笑った。

←いやん(*)(#)ばかん→
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