帝王院高等学校
夢視る者達へ捧ぐ序曲
産まれた時代が悪かった、と言う言い訳は無駄だ。
この時代に産まれた貴方の弟として産み落ちたから、私は貴方に恋をした。


「…兄さん」

貴方以外を好きになる事など決してない。
貴方が私の全て。
だからこの報われない想いを白日の元に晒して、貴方を私から解放しようと思う。

「ごめん。俺なんかが弟でごめん。弟なのに好きになってごめん、兄さん」

父だと思っていた遺影の中の人が本当は弟で、兄だと思っていた人が本当は甥で、だから、何だと言うのか。人の命を救うまるで英雄の様な人を好きになった自分は、何処まで愚かなのか。

「…兄さんの恋人を笑って受け入れてやれない弟なんか、居なくなった方がイイに決まってら」

兄が大切に持っていた十字架を一つ、盗んで行こうと思う。
兄の叔父、自分にとっては本当の兄に当たる子供の形見を握り締めて、後は思い出だけあれば生きていける筈だ。

「恨むぜ、親父。…アンタが再婚なんかしなければ、俺が産まれる事もなかったんだ」

もう、人を好きになったりしない。
もう、手に入らない幸せを望んだりしない。



「ばいばい、馬鹿な俺を愛してくれた家族」

自分が遠野夜人でなければ良かったのだなんて、馬鹿な事を考えるのも今夜で最後だ。





全てを消し去る新月の夜、夜の名を持つ自分は、誰も知らない所へ征こう。
産まれながらに死んだ兄の形見のロザリオを握り締めて。







(好きでもない男に抱かれても)
(悦ぶ我が身の浅はかさよ)
(太股の付け根に五つの黒子がある事を)
(知ったのは初めて好きな男に抱かれた時に)



「リヴァイ」

(星の様だと笑った)
(神々しいまでに白銀の髪へ指を絡ませる)
(神の真名を呼べる権利を与えられた)
(彼の名は、結び付きを意味するそうだ)

「どうした、私のナイトメア」
「…呼んだだけ」

(まるで私達の事の様ではないか)


「我が名を呼ぶのは、未来永劫お前だけ」
「出来もしねェ約束すんな、馬鹿。俺は今だけで充分幸せなんだ。…未来なんか要らねェよ」
「時を止めたいか」
「出来るもんならな」


(彼はまるで月の化身)
(私は星から生まれた夜)




「では永久の誓いを」
「…誓い?」






The end of the nightmare
夢視る者達へ捧ぐ序曲







「九番目ではない私が天と地を穿った暁に、お前の時が正しく廻るよう」
「…何だよそれ。相変わらず訳判んない事ばっか言いやがる、馬鹿レヴィ」









初めて抱いた後悔を覚えているかい。
成す術なく打ち拉がれ、己の弱さに慟哭した日の事だ。

幸せとは風前の灯火に似ている。
吹けば忽ち消えてしまう、それはそれは淡い、一握の光なのだ。





天網とは神の描いたシナリオ。
その脚本に失敗など、有り得るのだろうか。








「…お父さん?」
「悪いな、起こしたか。夜勤だったんだろ?」
「何時に寝てもこの時間に目が覚めるから気にしないで。それより、」

新婚家庭を邪魔するのも忍びなく、二世帯住宅へと改築してからは長らく足を運んでいなかった母屋へ久し振りに顔を出した。

「うちの人の書斎に何か用?お父さんの荷物は全部あっちに移した筈だけど…」
「ま、気にすんな。お前の幸せの為に一肌脱いでやろうと言う、粋な親心だ」
「はぁ?なぁに、にやにやして」

寝起きの愛娘は化粧っけもなければ、手入れが簡単だと言う理由で学生時代から変化がない、伸ばしっぱなしの髪を適当に結っただけの姿で眠たげだ。

「何だ、お父様が引退した途端に腑抜けたか。客に茶くらい出さんか、馬鹿娘」
「引退って…勝手に借金なんかするから追い出されるのよ。全く、今回と言う今回は、お父さんの味方は居ませんからね」
「ふん、ロマンが判らん奴ら共め」

静かな母屋は、数年前まで自分が住んでいた時とは、何処か空気が違う様な気がする。
祖父である遠野一星が一代で築いた遠野病院を、父の代で関東屈指の医療法人である立花グループと縁を結び、遠野夜刀の代で帝王院学園最上学部医学課程を軸に、経営不振の病院を吸収し規模を増した。

「祖父さんから始まった病院を日本一、世界一にするのが俺の夢だ。それはお前も知ってるだろう?」
「はいはい、目標は高く…でしょ」
「勿論だとも。目標こそが、男の粋ってもんよ」

高度経済成長と共に走り抜けてきて何年が経ったのか、恋愛結婚と言えど、経年劣化するものだ。病院に人生を捧げてきた遠野夜刀の夫婦仲は、一人娘が高校を卒業する頃には他人同然だった。
男には妻にも言えない秘密があるものだが、一つだけ言い訳をするとしたら、浮気などではないと言っておこう。情けない事に、鬼とまで謳われた医学界の神話…自称だが、遠野夜刀は還暦を迎える遥か前から男として終了していた。

「目標だけ一心不乱に見つめていると、他のものを失うわよ」

嘆かわしい事だ。
すっぽんもマムシも効果はなかった。医者にも勝てない病はあるものだ。

「ふん。お前、年々美沙江に似てきたな…」
「そりゃそうよ、母娘だもん」

Erectile Dysfunction、同じEDでも摂食障害のEating Disorderとは似て非なるもの。謂わば、据え膳食べられない病である。男の死を意味するそれは愚息と言う名の婿曰く、インポだ。
あの親を親とも思わない男は一度殴ってやりたいものだが、運動神経が生まれながらに壊死している遠野夜刀の攻撃力は、メスがなければ皆無に等しい。何せゴキブリに勝てない鬼だ。

「お母さん、またお友達と旅行に行っちゃったわよ」

麦茶と共に軽食を運んできた娘が、ダイニングテーブルにトレーを置いた。耳が痛い話が始まる気配に遠野は顎を掻いたが、女には強く出られない性分だ。大人しい娘相手でも、卓袱台を引っくり返す様な真似はしない。
第一、ダイニングテーブルとは大抵重いものだ。

「そりゃ良かった、煩ぇのが居なくて清々するわ」
「またそんな憎まれ口。きっと自棄になってるだけだから、ちゃんと向き合ってあげてよ」
「あー、気が向いたらな」
「もう」

困った様にたしなめる娘の声は聞こえない振り、テーブル脇の箸立てから一膳拝借し、茶碗を持ち上げた。

「お父さん、どうせ暇なんでしょ?一度お母さんと旅行にでも行ってきたらどう?」
「暇って、誰の所為だ誰の!揃いも揃って父親を追い出しやがって!改装工事が終わったら復帰するから首洗って待ってろ!もぐもぐ」
「今度のは5年は終わんないわよ、幾ら懸けたと思ってるの?独断で500億だなんて…。お母さんと龍一郎さんじゃなくても怒るわよ」
「大体、何が海外旅行だ。飛行機なんざ鉄の塊に、この遠野夜刀様の命を任せられっか」
「お父さんは時代に乗り遅れてるの。その内、車だってバイクだって、空を飛ぶ日が来るかも知れないじゃない」
「そんな日は一生来んで良い。俺が信じるのは新幹線だけだ、田中角栄こそ日本の宝だった。それをよってたかって頭の悪い馬鹿共が…」
「お父さん、食べるか喋るかどっちかになさいよ」

食べる量は普通だがスピードが早い娘はあっという間に食器を下げ、冷めた目で茶を啜っている。娘に叱られたくない台詞トップテンに入るだろう台詞に沈黙し、遠野は空いた茶碗を無言で差し出した。

「おかず足りてる?おつけものがあるわよ、頂き物の糠漬け」
「つけもんは好かん、年寄り臭い。戦後は食い物に難儀して、じいさんが趣味で浸けてた糠漬けで何年も何年も…」
「はいはい、お父さんだって若くないじゃない…。何でお喋りな癖に、お母さんの前じゃ無口振ってるの?」

痛い所を突く娘だ。
遠野は若い頃、笑い声が独特すぎるのと、お喋りが好きすぎる性格でモテる数だけ振られてきた。今の妻と結婚を意識した時に悪癖を戒め今に至るが、お陰様で夫婦の会話など今の今までないに等しい。

「…男には色々あるもんだ」
「そんな事ばっか言ってるとお母さんから捨てられるわよ?」
「はいはい、判った判った。んな事より龍一郎は帰っとらんのか」
「ええ。近頃難しい手術が重なっていて、困った事にあの人じゃなきゃ対応できないのよ。榊先生は腕は良いのだけど、まだお若いから無理はさせられないでしょう?」
「榊?ああ、泣き虫研修医か。血を見ただけで泣き喚いてた餓鬼がなぁ、まさか厚生労働省に怒鳴り込みに行くとは思わなかった」
「助けられる命を助けられなかったんだもの、無理もないわよ」

遠野夜刀が一ヶ月前まで院長を勤めていた病院には、ほんの去年まで研修医だった外科医が居る。若いながらに勤勉さは文句ないが、遠野が知る限りは頼りない男だ。いや、だったと言おうか。
彼が始めて受け持ったのは、生まれながらに心臓疾患を抱えていた患者だった。移植を必要とする状態だったが、法整備が間に合っておらず、未成年だった事もあり海外の受け入れ先を探していた事を覚えている。

然し渡航費に保険適応外の莫大な手術費、シングルマザーである母親に支払えるとは到底思えない。幾ら借金しても構わないと泣いて土下座した母親に絆され、数年懸かって漸くドナーが見つかったと言う吉報を得たのが、ほんの一ヶ月前だ。
然し渡航を控えた数日前に体調が悪化し、患者は帰らぬ人になった。

「流石に一介の外科医が、大臣を出せって暴れちゃったのは不味かったみたいでね…。丁度お父さんが辞めた頃だったから、」
「広瀬と二階堂が龍一郎に責任を擦り付けようとしたって、アレの事か」
「…笑い事じゃないわよ、もう」

話は聞いている。
独裁者を地で駆け抜けた遠野夜刀の席に、母方の縁者と言うだけの異邦人が収まったとなれば、副院長と事務長は面白くない筈だ。予想より早かったが、遅かれ早かれ新院長の進退について追い詰められる状況になるだろうと想定していた。手腕が問われた男と言えば、実に単純明快、

『自分の頭もメンテナンス出来ん奴が人の体をメンテナンス出来るか、甚だ疑わしい。貴様ら初等教育からやり直せ』

医局で院長を陥れようとした二人は逆に皆の前で罵られ、その日の内に病院から出ていったそうだ。この件に関しては口外するものはないだろう。何にせよ政府が事件の一切を隠した事は、辞めた二人は知っている事だ。その理由は、遠野夜刀、トラブルの当事者の榊雅尚以外は知らない。

「お二人が辞めてしまったのは残念だけれど、大事にならなくて良かったわ」
「…ま、龍一郎が睨めば泣く子も政府も黙るってな」
「え?」
「何でもない。おい美沙、目玉焼きが固いぞ、次は半熟でお代わり。大体目玉焼きの時は米だろうが、この俺にパンなんぞ出しおって」
「もう、文句言うなら食べなくて良いのに…」

愚痴を零しながらも大人しく台所へ向かう娘の背を一瞥し、遠野は目元を和らげた。どんな子でも、育てた親は可愛いと思うものだ。その娘の幸せの為であれば、亡き友人達の代わりに鬼と化す事も躊躇わない。

「…龍流さんよ、アンタとんだ馬鹿を遺していってくれたもんだ。だが俊秀様の助言通り、アンタと鳳凰の代わりくらい務めてやる」

馬鹿な世の中だ。
善人ほど早く死んでいく。鬼と呼ばれ自分の家族も守れなかった男が、人の命など守っている気になって天狗になるのは、如何に烏滸がましい事か。

だから人の領域を踏み越えようとする馬鹿息子には、幾らでも痛い目に遭って貰わねばならない。けれど善人にはしてやらない。娘の為に、血反吐にまみれて長生きさせる為だ。

「榊先生、あれから何だか逞しくなってきた様に感じるの。第二外科部長も今の彼は扱き甲斐があるって仰ってたわ」
「ふん、あれは優しすぎる。血が苦手な泣き虫が胸部外科に異動を希望するとは、正気の沙汰とは思えん」
「将来的には第一外科に戻るんじゃないかしら。ほら、面接の時に総合診療に携わりたいって言ってたんでしょう?」
「知らん。俺が重点的に話を聞いたのは女医だけだ」
「…お父さん、お母さんから八つ裂きにされるわよ?」
「俺の心配をしとる暇があったら、早く孫の顔を見せんか馬鹿娘」

頬を染めた娘が若干乱暴に皿をテーブルに乗せた。
リクエスト通り、今度の目玉焼きは黄身がぷるぷると震えている。すると電話がなり、応対した娘は判り易い程に満面の笑みで頬を染めた。

「判りました、すぐに行きます。はい、じゃ」

己の新婚時代もこんなものだったかと、勝手知ったる娘夫婦の炊飯器を空けて丼に山盛りの飯をよそう。遠野家の大食いは血筋だ。死んだ弟もまた大食いだったが、遠野とは違い、根っからの甘党だった。
そんな事を考えていると、くるりと振り返った娘と目が合った。電話はとうに切っている様だ。

「ごめんねお父さん、呼ばれてるの。私、今から行かなきゃ」
「龍一郎か?」
「ええ。産婦人科に新しい機材を入れたからテストするって。持っていかなきゃいけないものもあるから、準備するわね。食べたらお皿はそのままにしといて良いから」
「ふーん」
「あ、お釜の中のご飯全部食べて良いわよ。昨日は私しかいなかったから、三合しか炊いてないの」

慌ただしく着替えに向かった娘の背を横目に、艶やかな黄身へぐさりと箸を突き刺した。


「…一昨日せっついたお陰で孫の受精日が判った、夜刀様おめでとー、わーい、嬉しいなー」

複雑だ。
複雑な親心と言うものを還暦過ぎて知らされる羽目になるとは思わなかったと溜め息一つ、タワーの様な丼飯に潰した目玉焼きを豪快に乗せた。

「いや、目玉焼き一つで足りるか。…仕方ない、足りない分は醤油ぶっかけて喰おう。醤油は日本の宝だ、宝。畜生」

娘しか作らなかったのは失敗だったのだろうか。
静かな家が嫌で帰りたくないのだと素直に言える性格だったら、醤油と間違えて黒蜜をぶっ掛けてしまった悲しみが、少しはマシだったのかも知れない。

「あーあ。どいつもこいつも俺を蔑ろにしやがって…」

半ば自棄で掻き込んだ甘い飯を茶で流し込み、独り言に飽きた男は首に下げた十字架を襟から引っ張り出した。
後悔の数だけ雁字搦めになってしまうのは、古今東西、どの雄でも変わり映えしないらしい。

「後で悔いても遅いっつーんだよ、馬鹿息子が。」

一つは死んだ祖父と共に墓の中。
一つは自分の首元に、父親達の形見は残っている。双子として産まれ、片方だけが死んだ、悲しい兄弟の証。それはまるで自分達の様に。



「…なぁ、お前もそう思うだろう、馬鹿夜人」

後悔を知っている癖に、防ぐ方法が判らない。
人とは何と哀れな生き物だろうか。























「良いかァ!ほ、本当に外すから…包帯外しちゃうんだからな?!」
「ああ、その台詞は実に二十回目だ。代わりに私が外してやろうか、ナイト」
「コラ!俺にやらせてくれるっつっただろ、引っ込んでろレヴィ!」

賑やかな瞼の向こう側、父親が叩かれるいつもの音をBGMに、呆れた様な溜め息の二重奏を耳元に感じる。右側からはやれやれと言わんばかりの布ずれの音、左側からは鋭い舌打ちが聞こえてきた。

「ただの経過観察だと言ったのに、いつまでいちゃいちゃいちゃいちゃしてやがる…」
「ほっほっ、まぁ、よいではないか。のぅ、ナイン」
「…ああ。お二人の仲が睦まじい事は、グレアムの誇りだ」
「ちっ!」
「これ龍一郎、陛下の前で舌打ちなどするでない。本当は師君の方が弟なのではないか?」
「馬鹿を抜かせ低脳が、俺は貴様の産声を記憶している。現に貴様は何一つ俺に勝っていないだろうが。身長、記憶力、IQ診断、大福早食い記録どれ一つとしてな!バーカ!バーカ!」
「ち!貴様ぁ、黙って聞いておればこの俺が馬鹿だと?!表に出ろ龍一郎っ、たった1cm大きいくらいで兄面しおって!今日と言う今日は許さんぞ、覚悟するがよいわ!」

賑やかさが増した。余りにもいつもの日常だ。
殴り合う様な音が聞こえてきたのと同時に、チュッチュッと言う音も聞こえてきた為、ナイン=ハーヴェスト=グレアムは自ら目元の包帯を解く事にした。
衰えていく視力の回復させる為の手術から早半月、解いた包帯を手の中でしっかりと確かめてから、瞼に力を込めた。

「あっ。ハーヴィ、俺が見えるか?」
「…畏れながら」
「そ、そうか…」

真っ先に気づいたのはやはり、彼だった。
視界が闇に包まれてから何日経ったのか、心配を掛けている事は理解している。但し、皆が思うほど悲観していない。

「だ、大丈夫!今回のは進行を止める意味合いの手術だって龍一郎も言ってただろ?次の手術までに体力つけて頑張ろうな!ほ、ほら、レヴィも何か言いなさい」
「何故?」
「何故だと?!テメ、テメェと言う野郎は血も涙もねェのか!」
「母上、お気遣いなく」
「お、おま、は、はははハーヴィ、ははは母上?!母上って、俺か?!この俺かァ?!」
「はい。目が再び見える様になったらそうお呼びしろと、陛下が」
「レヴィー!!!コラっ、お前は息子に何を教えてんだ!」
「待ちなさいナイト。満更でもない顔をしている癖に、どうしてお前の手はウォールマーケットの下落より早いんだ?」

見えない事は淋しいのだろうか。
普通はそうなのだろう。けれど、産んでくれた母親にさえ抱いて貰った記憶のない自分にとっては、艶やかな黒い髪と目を持つ彼こそが母親の様に思えた。

「うわあん、龍一郎が垂れ目パンダって言ったあ!俺が一番気にしておる事なのにい、うわあああん」
「お…おい、泣くほどじゃないだろう…?」
「うわあああん、うわあああん」
「わ、判った、俺が悪かった!後でわらび餅を買ってきてやるから、泣き止まんか!ええい、男の癖にメソメソしおって愚か者が!」
「龍一郎が叩いたあああっ、うわあああん、うわあああん」

だから視界が黒で塗り潰されても、恐怖など微塵もない。
龍一郎が好きだと言う本も、龍人が好きだと言う映画も、見えないからと言って、だから何だと言うのか。

「兄弟喧嘩もイイ加減にしとけよお前ら、仲直りしないと今夜は激辛カレーにするぞ」
「「ごめんなさい」」
「はい!俺の尻を撫でてるレヴィ=ノア=グレアム!お前は今夜は牢屋で寝ろ!」
「何故だ」
「俺が組織内調査部長だからですー。子供の前で変な事する社長は有罪だからですー」
「ハーヴィ、オリオン、シリウス。…お前達は何か見たのか?」
「「「何も見ていません」」」
「っ、お前ら四人共、今夜は飯抜きだバッキャローめぇえええ!!!」

バシバシバシバシンと軽快に叩かれた頭は、見えようが見えなかろうが痛い。

「ナイトが私達の育児放棄を宣言した。息子達、今夜は『外』で食事をしようか」
「畏れながら、陛下はご自分の立場を存じておられないご様子。食事ならばこの冬月龍一郎がささっと拵えて、」
「龍一郎、残念だが師君に家事能力はない。火事になるのがオチだわ」
「ああッ、ハーヴィの包帯を巻き直してやるつもりがミイラみたいになっちまった!ごめんっ、ごめんなハーヴィ、やり直すから!」

誰もが賑やかに、それはそれは大層幸せそうに笑っている。この世界はそれが全てだ。
それが、全てだった。




















「おう、準備はどうだ、すんこ」
「…千明兄ちゃん」

部屋の窓がコツリと鳴いて、夜の狭い庭を覗き込めば、敷地を囲む柵の向こう、縁側に寝転がる人影を見た。

「来週には居なくなるなんて、未だにピンと来ねぇな。まぁ、何だ。友達が出来なかったら千景に頼んでやるから、安心しろ」
「ん」
「おいおい。そんなんじゃ誰も近づいて来ねぇぞ?おら、少しは愛想良くしろって。とりあえず笑顔だ。笑ってみろ」
「ん」
「…うっわ、キモい」

素直に笑みを象れば、怪しい者を見る目で即答が返ってくる。理不尽さに打ち拉がれたが、恐らく顔には出ていないのだろう。これはもう病気だ。

「眼鏡外すなよ。笑顔ってのは心から笑ってないとバレるもんだ。特にオメーは目が印象的っつーか、アレだからなぁ…」
「…やっぱアレか」
「そんだけ父親そっくりなのに目だけ母ちゃん似って、難儀な奴だな…」
「さーせん」
「んな事より、大丈夫かよ」
「何が?」
「いんや?お前が大丈夫なら、良いんだよ」

暗い庭に浮かぶぽっかりと光を灯した縁側は、純日本家屋だ。造りも大きさも異なるが、母方の実家を思い出す。あそこにも日当たりの良い縁側があるからだ。

「帝王院学園のクラス分けは特殊だってよ」
「ん」
「お前、何クラスになんのかな」
「AクラスかBクラス、それとSクラスのどれか」
「そっか」
「兄ちゃんは、専門卒業したらどうするんだ?」
「どうだろうな。ババアはまだくたばりそうもねぇし、暫く親父ん所で経営とかの勉強させて貰うのも悪くねぇかって思ってんだけど、ババアが煩いだろうな」
「再婚はしないのか」
「仲は悪くねぇんだが、考え方が合わねぇもんは仕方ねぇ。ババアは外で自由に働きたい、親父は嫁を家から出したくない、な?決して交わらねぇ感じ、判るだろ?」
「平行線」
「あー、それそれ」

ひらり、と。
白い何かが視界を掠めた。それは向こうも同じだったらしく、縁側に寝そべったまま目で追って、舞い込んできたそれを指で摘まんでいる。

「お前ん家の桜だ。今年は全国的に繁ってんだってさ」
「繁る?」
「んだよ、揚げ足取んなよ。わんさか咲いてんだから、気前の良い話だろ?お前の幸先を祝ってるみたいじゃねぇかよ」
「ん」
「こーら、遠野俊君。『ん』じゃなくて『はい』だろーが。それもとびっきり可愛い感じだ。カマトトぶりぶりでやってみろ」
「はァい」
「うっわ、キモッ」
「…」
「あ、あはは、すまんすまん、冗談だって…」
「俺は傷ついた」
「本気と書いてマジすまん。可愛い可愛い、今の感じ。良いかすんこ、近頃は可愛い男がモテる時代だ」
「知ってる。可愛い受けがモテないBL漫画はない」
「BLな、BL。あれ流行ってんだってなぁ。イマイチ恋愛に興味ねぇ俺には良く判んねぇわ」
「勿体ない。千明兄ちゃんはイイ攻めになる」
「あ?何、俺そっちなん?」
「襟足が長いのは攻め」

ビシッと指を差して宣えば、腹をぼりぼり掻きながら人に指を差すなと怒鳴られた。正論だ。

「喪黒かお前は。俺にドーンすんな、BLにドーンしとけ。あれだろ、壁ドーン的なアレがアレでアレなんだろ?」
「確かに壁ドンはあらゆる意味でアレがアレしてアレ故にハァハァし過ぎて辛い」
「あんまハァハァばっかしてると友達が出来ねぇぞ。そう言う趣味は小出しにしてけ、小出しに」
「俺には難しい。何故ならば俺は、」
「いつでも全力投球だからだ。ってか」
「はァい」

しゅばっと片手を挙げれば、あちら側も片手を挙げた。ふらふらと酔っ払いの様に腕を振った男に、同じくふらふらと手を振り返す。
面倒見の良い男だ。昔は度々駄菓子屋の前かコンビニの前で見掛けたが、毎回沢山の友達に囲まれていた。

「すんこ、返事だけは可愛いぞ。良いか、中学時代みたくぼっちになりたくなけりゃ、今回は間違えんな。カルマにも置き手紙残して来ちまったんだ、戻れない覚悟はしてるだろ?」
「やっぱりイチは俺様ワンコ攻めにはなれない」
「ん?何様ワンコだって?」
「本当に猫が犬より弱いのか、俺には判らない。けれど辿り着く先は同じだ。この世は愛と絶望で満たされている」
「相変わらず訳判んねぇなぁ、俺の弟子は。でもまぁ、単純に楽しんで来いや」
「ラジャ」
「太郎ちゃんの事はまぁ、俺に任せとけ。あんなデカい事故起こしといて、嘘みたいに甦った途端喧嘩強くなってたり脈絡なくホストになったり医学部受験してたりする様な奴、目が離せねぇもんなぁ。面白すぎて」
「千明兄ちゃん」
「何だ〜?」
「それは恋の始まり」

机の上からもぎ取った眼鏡を素早く掛けて親指を立てれば、ぽかんと目を丸めた男もまたつられて親指を立てている。

「ハハン。さてはオメェ、俺をホモにする気だな?そりゃ俺レベルの男前だったら男からもモテてしまう可能性を多大に秘めてる訳だが…」
「ん」
「…ん、じゃねぇ。馬ぁ鹿、冗談だっつーの。男前っつーのは秀隆さんみてぇな人を言うんだ。お前が羨ましいぜ、イケてる若い父親が居てよ」
「何だ、話し声がすると思ったら」

背後から聞こえてきた声には、わざわざ振り返らない。気配に気づいていたからだ。
足音もなく寄ってきた男から肩を抱かれ、寝転がっていた男が慌てて起き上がる光景を横目に、掛け慣れない眼鏡を外して柄を両手で引っ張る。

「いつも俊と仲良くしてくれて有難う、千明君」
「こんばんはっす、秀隆さん!すいません、煩かったっすか?」
「いやいや。この子が、君からまた新しい服を貰ったって喜んでた。お礼を言わないとと思ってたんだ」
「いえいえ、趣味みたいなもんなんで。学校でも家でも理解して貰えない俺のデザインを褒めてくれる物好きは、俊君しか居ないんですよ」

大人とは大変だ。
わきわきと広げて伸ばした柄から目を離せば、まるで狸と狐。これに狼が加われば、こっくりさんが揃うのではないかと思い至って、口元を押さえる。

「じゃ、お休みなさい秀隆さん」
「お休み、千明君」

大人達は窓を閉めるまで白々しく笑顔だった。
その目が笑っていない事には気づいていたが、だからどうだと言うのか。

「風呂に入れ、俊。今夜はお前が最後だ」
「判った」

父親が風呂掃除をしない日はいつも、それが父親そっくりな別人だと知っていた。

「母ちゃんは?」
「町内会長のお姉さんの通夜に行った。後で迎えにいく」
「ん。途中で入れ替わらない様に気をつけて」
「ふ。…秀隆は方向音痴だからな」
「犬なのに」
「人間の所為で鼻が利かなかった」

頭の中で誰かが嘲笑う声がする。
けれどそれを言った所で、理解してくれる人間など存在しない事を、知っていた。

「遺伝子は二重の螺旋を描く。まるで、二人の縁が結びついた様に」
「…俊?」
「9番目を反転させれば、6番目…」

最早自分は、何処にもいない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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