帝王院高等学校
つまりパーソナルレコードですか?
「カエサル、顔を見せてくれないか」

安いクラフトシザーで気になる都度適当に切っていると言う髪は長さがまちまちで、アシンメトリーと言い張る男に生徒は誰も、笑っていた。
皺だらけの白衣は襟元が黄ばんだまま、無精髭は日に日に伸びていく。ゼミの研究員が指摘するまで伸び続け、やはりそれも、気が向いた時に剃るのだ。

「起きているんだろう、カエサル」
「…私の顔など見て何の足しになる」
「足しってね。可愛い孫の顔を見たいと願わないグランファは居ないものなんだよ、カエサル=ルーク」
「下らん」

退屈凌ぎの大学生活を許されたのは、この男が居たからだ。畏れ多い世界の神が指定した、大学一つ分の広いようで狭い世界には、人と雑音が溢れている。

「この世に退屈なものなんてないんだ。世界は謎で包まれている。…そうだね、祖父に名前を呼ばせない意地悪な孫の様に」

幾つもの論文を世に送り出し、名誉を築いた数だけ自力で登り詰めた男は伝説の様に語られている。IQ200を超えた天才学者の日課に、ランチタイムの散策が書き加えられたのは恐らく、自分の所為だと理解していない訳ではない。無論、彼もまた、退屈凌ぎの様なものだろう。

「もう講義には出ないのかい。学長が残念がっていたよ、どんなジャンルだって君の知識の前では丸裸だ。…そう、特に天文学の講義は良かった。人類最たる謎である宇宙すら、君の前では整列したルービックキューブなんだろう」
「何が言いたいか要を得んな」
「フルUVコーティングした君だけの庭に、無粋なマスクは必要かい?」

言葉遊びの様に彼は良く喋った。
言葉選びは決して上手くはなかったが、その饒舌さは生徒から慕われている事を鑑みても、悪いものではないのだろう。けれど雑音は等しく全てが雑音だ。それ以外の何物でもない。過去のどれを遡っても、そう、神でさえ。

「面があろうがなかろうが、私は私以外の何者でもない。時間の浪費は合理的ではないな、ブライアン」
「それは違う。君らしくないなカエサル、タイムパラドックスを覆すつもりかな?神ですら不可能な事だ」

神威、と。
呼ぶ事を許さなかった見返りに、彼は皇帝の名を呼ぶ様になった。子供じみた仕返しの様だと思ったが、拒絶するのが面倒だっただけだ。カエサルだろうがカイザーだろうがシーザーだろうが、好きに宣えと放置して、季節は一巡した。

「昨日の君は今日の君とは違う。今の君ですら一秒後にはもう居ない。僕達は今と言う一瞬を生きて、さっきと言う一瞬に命を削り落としているんだ」
「そなたらしくない、文学的な台詞だ。教える科目を変えた方が良かろう」
「…全く、君はいつでも鉄壁のガードだ。これならまだ、怒鳴り散らしながら殺そうとするミッドナイトサンの方が、よっっっぽど子供らしい!」
「そうか」
「彼はテイラーを殺そうとしてくれたよ。彼は将来を約束された子なのに、ミッドナイトサンが誑し込んだんだ…。そりゃあ、あの顔とサファイアで迫られたらコロッと行くさ。学者だって男なんだもの…」
「何が言いたい」
「ケルベロスは今頃何をしているかな」

退屈をしない男だと思う。
思うが、昼寝の邪魔でしかない。化物が住まう温室に寄り付く者はなく、この男だけが例外だ。叶二葉が運んでくる日替わりサンドイッチと美味くはない茶を糧に、分厚いガラスの向こう、紫外線を遮られた青々しい空を見上げているばかり。

「セカンドの下らん呼び名もそなたがつけたらしいが、由来は何だ」
「珍しいね、君から質問が届いたのは随分久し振りだ。内容がミッドナイトサンの事じゃなければ、もっと良かったのだけど」
「答える気がないのであれば去れ」
「…つれないなぁ、もう!二葉の髪は真っ黒だろう?それに日本では『宵』と呼ばれていると言っていたから、ミッドナイトはそれから取ったんだ。…サンは、説明が必要かい?」
「…」
「彼には理性がないね。ネイキッド、君がつけた名前は本能剥き出しのあの子にはお似合いだ。でもどんな硬質なものにも急所はある。ダイアモンドが火に弱い様に、太陽に黒点が存在する様に、彼のウィークポイントは『太陽』だ」

閉じていた瞼を開けば、木々の隙間越しに日差しが見えた。紫外線を限りなく除去する最先端の特殊ガラス越し、手を伸ばせば届く様に見えても、幻想でしかない。人の手には決して触れられない星、生き物が住めない星。

「彼の論文は良い。目立ちたくないと言うから僕名義で発表しているのは心苦しいけれど、それよりずっと、彼のレポートは素晴らしいよ。あれは哲学と言うより文学だ」
「レポート?」
「アンネの日記を読んで彼は泣かなかったんだ。サリー教授はお怒りで、ミッドナイトサンに宿題を出した。題材は『ラブレター』、サリーを納得させるラブレターを書いてこいってね」
「サラエナ=ロングブーツ文学教授の趣味に興味はないが、他人の悲劇を涙する者が善であるかは、多大なる疑問を持った」
「名作を否定するのか、本の虫カエサルともあろう君が」
「ならば尋ねよう。アンネだけが哀れなのか」
「…え?」
「子供が無惨に死んだ。人はそれで涙する。だがその子供を殺したのは紛れもない、人だ。争い、殺し、略奪するのは肉食獣の本能に等しい。だが人はそれを悪と呼び、己より哀れな者を同情する。それは真に善であるのか?」
「………それは卵が先か鶏が先かと言う、メビウスクイズだよ。争い、殺し、略奪するのは確かに本能なのかも知れない。けれど人も象も大切な人が死ねば悲しいと感じる」

偽善だと言えば、そうだと男は頷いた。

「そうさ、人の慈悲の心なんて偽善だ。どんな綺麗事を言った所で、食べて生かされている現実は変わらない。生きるには犠牲が必要不可欠なんだ。だから葛藤しながら生きていくしかない。僕も、君も」
「私に葛藤と言う感情は存在しない」
「存在する。だって君は人間じゃないか」
「Black sheep(仲間外れ)」
「…カエサル」
「十番目の贄、X(イクス)。それが私の全てだ」
「違うだろう?君はX(カイ)だ」
「…貴様に我が名を呼ぶ権利を与えた覚えはない。目障りだ、消えろブライアン」

ブライアン=C=スミス、彼のミドルネームこそカエサルだと知ったのは、いつだったか。






時の針は巡り続けた。
飽きた広いようで狭い世界を振り返る事はなく、ただ時間の浪費を眺めるかの如く、退屈でしかない日々を過ごしている。

「マジェスティ。お暇でしたら気持ち良い事をしましょう」
「私達全員、愛して下さいませ」

女を見分ける最も単純な方法は体だ。
他人の声も顔もどれも同じに見える、などと宣えば、己の認識力不足を肯定する様なものだろう。
退屈だと言った時、楽しい事をしようと囁いた女がいた。今では顔も思い出せない。好奇心は一人に対して一度まで、持続させる能力もまた欠如したらしかった。


顔は覚えない。
それなのに欲情しない女が現れる。理由は単純、一度抱いた女だからだ。勿論、それすら記憶していない。けれど体は正直に、二度目は反応しない。つまり飽きたからだ。


「成程、つまり9999人目でしたか」
「何?」
「おや、ご存じでない?陛下はいつもそうではありませんか」

来日してすぐ、雄の能力すら欠如したと吐き捨てた時、女より美しい男は満面の笑みで嘯いた。至極楽しげに、哀れむ様な眼差しで見下しながら。

「蔵書の数も、作った石細工の数も、お手持ちの仮面の数も、精神を砕いた囚人の数も、ああ、そう、現在登録されているランクCまでの本部社員の人数も、全て9999なのです」
「ほう」
「切りが悪くて心苦しいんですよねぇ、流石に。次はどんな切りの悪さが増えるやら。ふぅ」
「ならば数を愛するそなたの為に、次こそ万を越す退屈凌ぎを探す事にしよう」
「へぇ。それでは完全なるメモリアルを楽しみにしてますねぇ。嘘つきノストラダムスを蹴散らして下さい、マジェスティ」

紫外線の最も少ない夜、つまりは新月に。
外した仮面、素顔で町中を歩けば、時折勇ましい男達が寄ってくる。女は目を合わせれば面倒なので、選択肢などないに等しい。



埋没した記憶の底にABSOLUTELYと言う名がある。
遥か昔、世界がまだ深紅の塔にしか存在しなかった頃、それは父と呼んだ男のものだった。冠を許された者、クラウンを指し示す中央委員会会長は、高等部三年間にただ一度として表舞台に立つ事を許されず、卒業を控えた寒い夜に姿を消したまま。
歴代碑も残されていない。理由は単純に、引退していないからだ。卒業式典に出席していないからだ。

「帝王院秀皇はこの世から消えた。…現在は、何と名乗っているのか」

何処にも存在しない帝君。
探そうとして諦めた。いつかもう一人の父が諦めを滲ませた、けれど幸せそうな表情で教えてくれたからだ。母が出来るかも知れないと。二人だけの秘密だと。秘密と言うからには、守らなければならないものなのだろう。恐らく。

「遠野俊江に婚姻歴はない。出産歴もない。ならば絵本を楽しみに待つ『男児用スニーカー』の持ち主は、私と引き換えに、国籍がない」

人を殴る事に飽きた時、それが999人目だった事に気づいた。
黒猫が嘲笑う幻聴。増えるどころか減っている。10分の1だ。




来日してから一度、黄昏の町中で面白い男を見た。晩夏、秋の初めだった。
記憶している理由は些細なもの。仮面越しに睨み付けてくる他人を眺めていた時に、何の前触れもなく現れたからだ。

つまり、何の気配もなかった。足音は勿論、息遣いさえも。


「お嬢さん」

それは自分を女だと思ったらしい。
小賢しい事に、それは自分よりも随分背が低かった。顔の大半を邪魔臭い前髪で覆い隠している癖に、アメジストを思わせる紫のサングラス越し、オーケストラを見据えるかの様にゆったりと、まるで指揮者の様に。

「お怪我はありませんか」

そう、子猫と戯れるかの様に数人を倒した末、投げ掛けられたクリアな声音を忘れる事はない。
黄昏の中、穢れ一つない漆黒はそのまま去っていった。やはり足音はない。それが向かう先に夜が訪れるのではないかと思うほど、静かに。





「おや、それではカイザーに会ったんですか」

やはり黒猫は、愉快と言わんばかりの満面の笑みで嘯いた。

「カルマの主人ですよ。愉快な事に、陛下が来日なさるまで、皇帝とは彼を称える敬称でした」
「ファーストが負けた相手か」
「ええ」
「面映ゆい話を聞いた。そなたこそ、人の身の上で神と等しく崇拝されし皇帝に負けたらしいな」
「…おやおや、とんだデマですよ陛下。困りましたねぇ、負けたも何も、そもそも戦ってすらいないのに」
「ああ、勝てなかっただけと言う事か」
「そう言う事にしておきましょう。所で陛下、来日なさって記念すべき一人目が誰だったか、覚えておいでですか?」
「大河朱雀」
「エクセレント。それでは千人まで残り一人、相手はお決めになられましたか?」

飽きたと言えば何を言われるのか。
然し飽きたものは飽きたのだ。だから提示したゲーム、勝ち負けは暗い町中から紙の上に舞台を変える。

「ならば最後は、神だ」
「…おや?神とは、まさかキング=ノヴァ?」
「いや。あの様な老い耄れを打ち負かした所で得るものはない」
「うふふ、仮にも前皇帝陛下を老い耄れ呼ばわりですか…」

人生で唯一勝てなかった事を忘れる事はない。
それは高等部一年の夏、高等部二年の夏にはもう、神は姿を消していた。








「ご機嫌よう、マイルーラー。相変わらすお美しいですねぇ、私には負けますが」
「…セカンドか」
「楽しい楽しい始業式典のしおりを持って参りました。陛下のイメチェンは知られておりませんので、お着替えの時には必ずウィッグを被る事をお忘れなくっつーか問題起こして手ぇ焼かすなよ俺はアキの写真を撮ったり録画したり糞程忙しいんだからな」
「セカンド、そなたこそもう数匹猫を被っておけ」
「おや、私とした事が」

高等部三年、最後の年だ。
口煩い黒猫は朝から誰より騒がしく、言葉通り忙しなく去っていった。
眼下を見やれば窓越しに、薄紅色の桜が舞い踊る世界。



「男子校だったから」

近頃、酷く面白い名を見た。
いつかもしかしたら母親になるかも知れないと思った事のある女と一字違いの、外部生だ。願書の保護者欄は父親の名前だけが記入されていた。それだけならば何も可笑しい所はない。

入試が満点だった。それでも有り得ない事ではない。今まで誰一人、樹立していなかっただけだ。外部生帝君、珍しいが、ただそれだけ。
何せ、自分こそが外部生帝君なのだから。

「…そなたが、姿を消した神たるか」

それは挑んできた。
帝王院学園に対する明らかな挑戦状を入試と言う形で投げつけてきた。
記入した文字の全てが日本語ではなかったのだ。本来なら無効でも可笑しくはない。教官が読めない回答など、採点するまでもないからだ。

然しそうすれば、理事会は負けを認めた事になる。
たった一人の15歳の子供に、『採点出来ない』と認めた瞬間、敗北するのだ。それは有り得るか。否、有り得る筈もない。

『上院理事、賛成多数により、本案を可決します』

理事長以外の満場一致で、遠野俊の合格が決まった。
何故あの男だけが挙手しなかったのかは、興味すらない。



「化けの皮を剥いでやろう、帝王院神」

神が消えた夏の日、8月18日、降り頻る雨の中、二回目に見たそれは知恵の輪の様な言葉を投げつけてきた。忘れる事はない。その答えを知るまでは、恐らく。



「…人に紛れた人神皇帝を探すまでの、暇潰しに。」


(1000人目は引き分け)
(1001人目には逃げられた)
(戦う前に)
(興味だけを奪われたまま)


帝王院神と言う男と遠野俊は恐らく同一人物だ。
何故ならば、純朴な羊の皮を被った帝君は、まず間違えなく自分と同等の知能を持っている。三日側で見ていれば判る事だ。

嵯峨崎佑壱の語学力に等しいだろう。
叶二葉の数学力に等しいだろう。
高坂日向の危険関知能力にも引けを取らないものと思われる。
東雲村崎に微々たる警戒もない。つまり、あの男は彼にとっての敵にはならない。

(それは1002人目、などではない様だ)
(女は体を見れば違いが判る)
(けれど男は?)

一週間もすれば、神と皇帝は同一人物なのではないかと考える様になった。半月も経てば、己の想像が確信に近い事を嫌でも理解する。
何故なら、遠野俊はそれを隠していない。初めから一つも、隠していないのだ。



「俊」
「なァに、カイちゃん」
「同じTシャツを何枚も持っているのか」
「そーょ。イチ先輩から貰ったにょ」
「成程、背中の文字は手書きか」
「はァ。ねね、カイちゃん。スープバーでコーンスープは色々ギリギリだと思わない?見て、コーンちゃんが詰まり気味でチョロチョロ出てくるにょ」
「そうか」
「何で蛇口から具を出そうとするのかしら…もしかして新手の苛め?!ハァハァ」

それなのに、鼓膜は素直に認めてくれない。
賑やかな心拍数、跳ねるリズミカルな足音、そのどれもに聞き覚えがなかったからだ。

「時にカイちゃん、割り箸をうまく割る裏技ってありますか?」
「俺が割ってやろう」
「だから裏技っつってんだろうがァ、オタク舐めてんのかコラァ。自力でやらせろィ。もっと僕の可能性を引き出してちょ」
「そうか」
「うまく割れたらイイ事ありそうな気がするにょ。そーれ!」
「…」
「…」
「どんまい」
「ん」

遠野俊は誰なのか。
浮かんだ疑問に対する答えは、今を以て尚、得られていない。


(そもそも遠野俊は存在するのか?)
(浮かんだ微かな疑問からは目を逸らした)
(己に不都合な答えを想像するからだ)

(女は二度抱く事が出来ない)
(けれど二度目も三度目も存在する事を知った)

(男に欲情はしない)
(例えそれが二葉だとしても)
(ならばこれは例外だ)
(唯一の)




(遠野俊は、)










(人、なのか?)













「次の皆既日食は数十年振りに日本列島を真の闇へ染める」

出だしはその一言、沈黙は重いが煩わしい程ではない。

「神光たる太陽を守護する『雲』は嘘つきの東雲に擬態し、ヴァルハラは神鳥を失い『灰』原へと色褪せた。凍れる『月』は神の慈悲を失い闇へ染まり、神を照らす『明』は衰退するばかり」
「嘘つきの東雲ですか。それは良い…」
「東雲の歴代当主には名が二つある。奴らの縁は平安から続くものだ。流石は華族の長、されど一度として帝王院を超えた試しはないと言われている。なればそれは、何故の理由があるのか」
「マスター、目的地を補足しました。…JAPANです」

巨大な戦艦が空をたゆたう。
黎明に迎えられた男達は若干興奮した様に窓へ張り付き、見ていた女達からは揶揄めいた笑みが零れる。

「落ち着きなさいな、それでもABSOLUTELYなの?」
「ふふ。マジェスティ直々のご命令に興奮しないなんて無理な話よ、あたしだって興奮してる」
「無様なものね、コード:ヒストリア。そんなんだから貴方、いつまで経っても対陸情報部のままなのよ」
「…ちょっと、アンタそれどう言う意味?」
「さぁ?気に障ったなら謝るわ」

女の会話は恐ろしいと呟いた男らは、他人の振りで眼下を見つめたまま。


「さて、我らが神のご機嫌を窺いに行こうか」






















口笛で行進曲が吹けると宣った男は、宣言通り一通り吹き終えると、それは優雅にお辞儀したのだ。

「ヒュー♪流石は音楽に愛された男。やるじゃん、おっさん」
「お兄さんだろ?」
「や、十分おっさんだろ。孫持ちの癖に、ジジイじゃないだけマシだと思え」
「違いない」

賑やかな後部座席をフロントミラー越しに一瞥し、ハンドルを握る運転手は無言で何本目かの煙草へ火を着けた。

「おい、榊。吸い過ぎだぞ」
「何だ、おっさん吸わない口かよ?俺は専門学校通い出してやめた口だけど、やっぱ世界の指揮者はチゲーな」
「馬鹿言え、オペラ歌手じゃあるまいに指揮者は吸っても構わない。ただ、安い紙巻き煙草より葉巻が好きだ」
「きゃは!マジ根っからおっさんじゃねぇか!面白ぇな、アンタ」
「アンタじゃない、省吾さんだろ?」
「ショー兄?」
「おお、悪くない」
「顔はともかく中身は健吾にそっくりだ」
「そうだろう、そうだろう、何せ健吾は俺の子だ」

随分ゆったりと笑う声と、ミラー越しに目が合う。

「誰にでも人に言えない事の一つや二つあるだろう?俺の場合、それは大学時代」
「急に話が飛んだな」
「年上の女だった。才能に関しては、努力がそれほど報われないタイプの、まぁ、この世界では掃き捨てるほど存在する内の一人」
「ひっでーな」
「今になってみると切っ掛けなんか思い出せもしない。俺はただの気紛れか気分転換か…あっちはまぁ、付き合っていた男に悩んでいた様だから、男に対する当て付けか」

人の恋愛話には興味がないとばかりに、やや乱暴にハンドルを回した。想定外の来客諸々のお陰様で、今日のカフェカルマは臨時休業だ。それもオーナーには内緒にしなければならないのだから、胃が痛い。

「で、付き合ったの?」
「いいや。俺の留学が決まる前に会わなくなってた。あっちが何を思っていたかは知らないが、その頃には退学していたらしい。三浪して漸く念願叶ったと言ってたんだがな…」
「その時、腹に子供が居た?」
「健吾はともかく、娘が俺の子かどうかは怪しいと思ってた」
「あ?だっせーなショー兄、責任逃れかよ」
「…いや?彼女が付き合っていた相手が、妻子持ちの教授だったからな」
「うっへぇ、超修羅場じゃん」

月末の日曜とは言え、8時を回ったばかりの高速は快適だ。下手に車線変更を繰り返す馬鹿なドライバーも、速度を出せば良いと思っている馬鹿も居ない。

「恐らく彼女は答えを知っていた筈だ。母子家庭で裕福とは言えない生活で、彼女が何故シングルマザーを選択したのかは判らなくもない。ただ、過労で倒れ死を覚悟した彼女が、俺の名を娘に教えた理由は判らなかった」
「その人、死んだの?」
「いいや、生きているよ。倒れて間もなく結婚したそうだ。その頃には、派手な反抗期で男の所を転々としていた娘は、子供を産んでいた。再婚したばかりの母親には言えない。相手とはすぐに別れて、金銭的に困ったんだろう」
「そんで、押し付けてきたわけ。何つーか、あれだな…」

後部座席の重い話をBGMに、晴れた空の下、排気ガスに包まれた大気を貫く車の波。穏やかなのか、そうではないのか。外から見れば、この長閑な朝から、車内でこんなに重苦しい話をしているとは思わないだろう。

「困った事に、出生届すら出してなくてな。今の今まで居るとは思わなかった娘が、いきなり現れて孫だと言う。また運が悪い事に、俺は結婚したばかりだった」
「あー、それが健吾の母親な」
「そうそう。結婚した時はあれが24歳だ。旦那にいきなり娘と孫が居たと聞かされたら、そりゃ男と浮気されても仕方ない」
「されたわけ?」
「多分。嫁にとってはそれからが地獄の幕開け、ヘルズ行進曲」
「何それ、恐い」
「何人の男と寝たか知らんが、当然俺とも寝てる間に妊娠した。おっと、言いたい事は判るが落ち着け斎藤君。健吾は間違いなく俺の子だ」
「だだだって、ちょ、」
「頑なに堕ろす堕ろす喚いていたから、俺は敬吾…孫の名前だが、孫と自分のDNA鑑定をした。悪いが娘とその母親も呼んでな。勿論、向こうの再婚相手には言ってない」
「つまり、娘は自分の子供じゃなかったのか」

運転席から初めて割り込んだ声に、後部座席は沈黙した。どうやら当たったらしい。

「…マジかよ、ショー兄は他人の子供押しつけられたっつー事じゃん」
「何にせよ、人様の家庭を崩壊してくれた報いだ。俺はそれで復讐を果たしたつもりだったんだがな、当時生きていた俺の両親はそりゃもう怒り狂って、そんな道徳観がない人間に子育てをする権利はないと、敬吾の親権を返さなかった」
「えっ。ショー兄のご両親が引き取ったの?!待って、それって孫じゃなくね?!他人だろ?!」
「そう、だから敬吾は孫と言うより俺の義弟なんだが、本人には言ってない。最近漸く反省したのか、敬吾の母親が引き取りたいと言ってきた。両親の遺言で『敬吾を絶対あっちに返すな』と言われている。どうしたものか」
「すげーご両親…」
「高野家は代々苛めっ子気質なんだ。母さんはともかく、親父が凄かった。嫌いな奴を片っ端から胃炎にする様な男でな、しかも生前の職業は教師だ」
「はー、生徒何人殺したって?」
「それは知らんな。教師が何人か辞職したのは聞いた」
「マジか」

再び軽快な口笛が響いた。
貧乏くじを引きっぱなしの男とは思えないほど、マイペースだ。

「俺が浮気に気づいてない振りをした所為で、堕ろしたがっていた嫁は結局出産した…と言うより、出産せざる得なかった。俺としては健吾が誰の子でも構わなかったんだ。判るだろう、斎藤君。男が結婚する女とはどんな存在か、男の君なら」
「あー、まー、めっちゃ惚れてたっつー事だろ?」
「おいおい、恥ずかしいだろ。まぁ、めっちゃ惚れて手を出したんだが」
「おっさん臭ぇ」
「ふ」
「いやいやいや?誉めてないよ?どうにかしろよ榊、このおっさん頭が変」
「俺に振るな…」

小一時間走らせて、見えてきたジャンクションを降りる。気分転換ではないが近場のコンビニに駐車すれば、漸く新鮮な空気に迎えられたのだ。流石に煙草の匂いが籠っている。

「流石にコンビニは世界中何処にでもあるな。斎藤君、お兄さんがジュースを買ってあげよう」
「おっさんの癖に兄貴面するなっつーの。俺には可愛い弟が居るんだから!」
「何だ、一人っ子か末っ子だと思ったんだが、外れたか」

騒がしい二人が店内に向かうのを横目に、何本目かの煙草を取り出そうとして、空だと気づいた。
流石に吸いすぎているらしい。初めは不味いと咳き込んでいたものが、いつの間にか手放せなくなるのだから、時の流れとは恐ろしいものだ。



「榊雅孝。…お前と言う犠牲の元、自由を得た私を恨んでいるか」

車窓に映る他人の顔を見つめ、眼鏡を押し上げた。
ブルーライトを遮るレンズは若干黄味掛かっていて、濃紺の瞳を黒く染めてくれる。

「お陰でゼロの成長とファーストの成長を側で見守る事が出来る。悪いが、恨まれた所で今更譲るつもりはない。…冥福を」

全ては脚本通りだ。
たった七歳の子供が描いたシナリオ通りに、審判の日は近づいている。


「…ヘブライ語で、プリンセス、か」

いつか全ての罪を償ったその時に、愛しい人に会えるのだろうか。都合の良い幻想ばかり募り、積み重ねた期待の数だけ崩れ落ちる日を恐れたまま、今は。

時々、忘れていた記憶も思い出す。
いつも誰かの後ろに隠れていた、カフェオレ色の髪。目が合う度に象牙の頬を桜色に染めた、愛らしい少女を。

「皿がどうした?」
「はぁ、サラダ?何だよ、サラダ喰いたいなら先に言っとけよ榊ちゃん、ジュースしか買ってきてないっつーの」

賑やかな男達に感傷に浸る時間は断たれた。
放る様に渡されたペットボトルを受け取れば、それぞれ銘柄の違う煙草の封をぺりぺりと捲り、ほぼ同時に火を着けたのだ。

「チー、こっちは不味い。そっちと替えてくれよ」
「だからメンソールはやめとけっつったろ、ショーン」
「…チー?ショーン?いつからそんな仲良くなったんだ、お前ら」
「「コンビニで培った友情」」
「あ、そ」
「榊が冷たいぞチー」
「榊が暖かいのは辞めそうな従業員にだけだぜ、ショーン」

目下の悩みは二つ。
脚本に記されていない展開に対して、どう対応すべきか。

「で、目的の立花病院はこの道を真っ直ぐ進んで、海岸沿いに回った所らしい。さっさと用を済ませて帝王院学園に連れていってくれ、俺から逃げ回ってる健吾の出店に顔を出して手始めに驚かせたい」
「おっさん、息子を苛めて喜ぶ変態なのは判ったからさ、榊しか免許証持ってねぇんだぞ。少しは休ませてやれよ、大人だろ?」
「ドイツの免許なら持ってると行っただろ?無論、専属の運転手が居るからペーパードライバーだ」
「きゃは!それ何の役にも立たないやつー!ま、俺も遠乗りした事ないから高速走るとか無理だけどネー」

やると投げ寄越されたメンソール煙草1カートンを、どう処理すべきか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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