帝王院高等学校
ハニー☆甘さの欠片もありゃしないッ!
神崎隼人と野上直哉を張り付けた男は、慌ただしい天井が軋む音を聞くなりバックステップでその場を離れた。
その瞬間落ちてきた真っ赤な塊とオレンジの作業着一名、何が起きたのか理解していない表情で尻餅をついている男と目が合う。

「…やぁ、三年Sクラス帝王院クン。と、ハヤトさんと眼鏡君…」
「三年Eクラス松木、」
「ダメッ!俺の下の名前は出しちゃダメなのッ!大人の事情があるんだYOッ、帝王院クン!」
「おめーは単に作者が名前考えてねえだけだろうがあ、あほー!」
「にゃははは」

凄まじい表情の隼人に怒鳴られた作業服は照れた様に笑ったが、もぞもぞと周囲を取り囲む真っ赤な鼠を真顔で見つめるなり、油が切れた機械人形宜しくギギギと隼人を見たのだ。

「ハヤトさんッ、たーすけてー」
「いやあああっ、あほが喰われたあああ!!!成仏してえええっっっ」
「そんなっ、工業科の松木何某先輩がレッドサムライに包み込まれてしまうなんて…!」
「ふむ」

二人をぽいっと捨てた神威は放心している同級生を無表情で眺め、崩落した天井から覗いている青褪めた男らへ目を向けた。

「鈴木教諭、外は大儀ないか」
「は、はい!こちらは何とか!それより松木は無事なんですかっ?!」
「案ずるな、赤い突然変異種は人体に害をなさないと思われる。察するに、突然変異種が狙うのは『カリウム』だ」
「カリウム?!陛下、一体どう言う事でしょうか?!」
「バイオジェリーはシアンカリウムを体内に有する猛毒種。同じく、血液中にも微量のカリウムが存在している。確証には至らんが、恐らく最たる要因に近いだろう」

油の匂いに反応するバイオジェリーは有機物を溶解する能力があり、主に商業専修コースの農業実習班が出す農作物のゴミや、廃棄物処分場で分別された生ゴミ、プラスチック製品などの処分に使われているものだ。普段は生徒には決して知られないよう地下で飼育されているが、今の大惨事に至っている。

「そなた、それでもカルマか。鼠に守られている様では、誉れ高いカイザードッグも知れている」
「シーザーだっつーの!ABSOLUTELYの総帥だか何だか知らねぇけど、うちの総長のこと馬鹿にしたら許さねぇからな!」
「ほう、随分と威勢の良い事だ。お前が鼠に襲われ犯された町娘の様な表情を晒しておった事は、ファーストには内密にしておいてやろう」
「………ウン。お願い、絶対副総長には言わないでネ、帝王院クン」

だが目の前に犇めく赤いバイオジェリーは、神威の予測通り、放心している作業服には傷一つつけていない。ちょろちょろと逃げ回る黒鼠に集団で襲い掛かる赤鼠は、じゅわっと黒鼠が溶ける度に、かさかさとオレンジの作業服に寄っていった。

「ぎゃー!また来たーッ!」
「鈴木教諭、外には何色のバイオジェリーが溢れている?」
「最初に一匹黒いのが現れたんですがっ、何処からか真っ赤な奴らが大群で現れまして!」
「そうか。ならば一斉にそこから落とせ」
「え?!」

隼人と野上の姿が見えない事には気づいているが、微塵も狼狽えない男は蜂蜜色の眼差しを眇め、黒鼠をおしくらまんじゅうで溶かしている赤を見やる。まるでオレンジの作業服を黒鼠から守っているかの様な赤鼠達は、やはり神威には寄ってこない。

「バイオジェリー自体、人に限らず有害である事は揺るがん。可能な限り触れぬよう、一同に細心の注意を強いる必要はあろう」
「畏まりました!他に我々はどうすれば宜しいでしょうか?!消火器が必要ならっ、」
「いや、消火剤の主成分は炭酸カリウムだ。シアンカリウムに属するバイオジェリーには効かん。水がなければ火を使うだけ」
「…火?あっ、了解しました!暫くお待ち下さい、陛下!」
「任せた」

瓦礫を踏み台に、身体能力に恵まれていたらしい作業服は天井を掴むなり、しゅばっと穴から外に離脱した。赤鼠が無害だと判るなり強気な表情で、颯爽と赤鼠らを蹴り落としている。

「にゃはは、こっちは俺に任せろ帝王院!あ、これでABSOLUTELYに貸し一つだな」
「何を宣っている。弱味を握っているのは私の方ではないか、生娘が」
「良く考えたらよぉ、総長が俺よりオメーの言う事なんか信じる訳ねーじゃん。誰が考えたって、追っ掛け回してくる鬱陶しい総帥より、可愛い舎弟を信じるわよ〜」
「…鬱陶しい?俺が?」

双眸を見開いた神威の美貌に怯んだオレンジは、腰が引けたまま神威の視界から逃げた。足元に赤鼠が集まってきても動きを止めたままの男は、軈て、眉間に深い皺を刻んだのだ。



『カイちゃん、あっちいけー』
「私が、鬱陶しい…?」

囁く声音の異常な冷たさも、深まるばかりの眉間の皺も、見る者はない。

















人の目を避ける様に忍び込んだ先、暗さに慣れない目を凝らすと、盛り上がったブランケットが窺える。規則正しく上下する様子が判る所まで近寄らば、微かな寝息が鼓膜を震わせたのだ。

「…起きて下され龍一郎兄、儂がお判りにならんか」

カーテンに閉ざされた暗い部屋の中、ベッドに繋がれている男が横たわるその前で、老いた彼は膝を崩した。

「大殿に許しを頂いて参りました。後生じゃ、目を開けて下さらんか」

枕元の人影は眠っている様だ。
灯りをつけていない部屋は、カーテンの隙間をほんの僅かに外の光が縁取っている。防音の部屋だけに、換気扇の音が細やかに聞こえてくる程度だ。

「…あれから実に50年近く経ちますのぅ。あの日、兄殿に小僧と謗られた儂も、今年70歳になる。加賀城は未だ、許されざる家名でしょうや?」

返ってくる言葉を待っている様ではない。
膝を下り、正座したまま力なく項垂れて、彼は眠り人の手首を縛るロープを撫でた。

「皇の名を持つ若様の子が、冬月たる兄殿の血を引いていると聞かされたその時から、加賀城が罪を購う日は近いと思っておりました。伯母にして義姉でもある舞子姉さんの死に際を看とれもせず、極めて悍しい事に、鳳凰公に刃を向けた事さえ知らず。次に次にと死んだ、祖父母と叔母の身を嘆いてさえおった」
「………暗い…」
「龍一郎兄っ?!」

ぽつりと漏れた言葉に顔を上げれば、縛られた手首を持ち上げた眠り人の双眸が開かれる。窓際を見つめる瞳を覗き込めば、もう一度、その唇は「暗い」と今度ははっきり囁いた。

「こんなに暗いと何も見えん。おい、電気つけろ」
「は…はい、ま、窓を、開けましょう」
「龍人はまだ起きないのか」

震えながら立ち上がった加賀城財閥元会長が手を伸ばし、カーテンを引き裂く様に開いた先、穏やかな朝日に照らされた木々の緑が広がっている。

「龍一郎兄、」
「朝食は家族揃って採るのが我が家の仕来たり。父上より後に起きてはならん」

静かな声が鼓膜を震わせ続けた。
恐る恐る振り返れば、漆黒の瞳孔を細めた男は横たわったまま、茶掛かった瞳で朝日の恩恵を受け止めている。未だに眠っているかの様な声音は淡く、今にも再び寝入りそうだ。
酷く幼い動作を呆然と眺める加賀城は、男の言葉をゆっくり咀嚼する。誰かと間違えている様だが、指摘して良いものだろうか。

「龍人も父上も朝が苦手過ぎる、枕を引き剥がしても起きない。巳酉伯母様、笑っていないで叱って下さい。…母上の御御御付が、冷めてしまう」
「みどり?」
「あの男は冬月の人間ではない。流次叔父上、あまり我儘が過ぎると、俺がその首を貰うぞ…」

無垢なまでに神々しく微笑んだ男は軈てゆったりと目を閉じ、健やかな寝息を発て始めた。

「みどり、りゅうじ?龍一郎兄は一体何を…」
「父の姉と、腹違いの弟の名だわ」

ノックもなく静かに開いたドアの向こうから、白衣を纏う男が姿を現す。緊張で表情を引き締めた加賀城の目には、白衣の隣に金の髪を持つ長身が移り込んだ。

「声が聞こえた様だが、龍一郎はまた寝たのか。そんなに私に会いたくなかったのか?」
「陛下、師君は儂の肩を握り潰すつもりかのう?悪いがネルヴァ、人払いを頼まれてくれるか」
「構わないのだよ。…彼は良いのか?」

エメラルドの瞳を向けられ、僅かに怯んだ老体に構わず、金髪を張り付けた白衣は室内へ足を踏み入れた。
窓辺に佇んだままの加賀城には目も向けず、一人で歩き回らない様に施されているのであろう兄の手首の枷を見つめ、息を吐いたのだ。

「絶対記憶を誇る冬月当主たる者が、アルツハイマーで自我を失うとは、斯様な笑い話があるものかのう。あれほど探し続けて漸く再会した兄が、手負いの獣の様に繋がれておるとは…」
「急ぎ龍一郎の脳を調べ、新薬を試すべきだ」
「ほっほ、人の脳は未だ謎に包まれておる。進行を止める投薬は、遠野夜刀の元でなされておったんだろう?最早、儂に出来る事などあるのかのう」

学園長夫妻の寝室は、学園長執務室の奥の扉を開いた先、書斎と並んでいる。廊下からは執務室の扉を越えねばならず、部外者は入ってこれない仕組みだ。

「…何をしに来おった、グレアムの犬が」
「私は犬ではない。ナイン=ハーヴェスト=グレアムだ」
「そう邪険にするでない、加賀城の。師君らの過去に何があったかそれなりに把握しとるが、儂が偉そうな口を叩ける立場ではない程度心得ておるわ。顔も知らぬ前大殿とその妻に対して同情はあるが、儂らには加賀城に恨みはない」
「…」
「師君の帝王院に対する忠義はよい。どうだ、加賀城の。一つ面白い話をしてやろう」

喰えない男だ。見た目が娘より若く見える為に、どうしても油断してしまう。中身は79歳になる年寄りだと知っていても。

「龍一郎が捨てた日本へ戻ったのは、夜人が両親の死を知った61年前だ」
「何じゃ、藪から棒に…」
「前大殿の元に子供が出来た頃に当たる。つまり、駿河の宮様が生まれ落ちた頃だのう。夜人が死んだのは儂らが18になる前の年末。3月3日生まれの駿河坊っちゃんはその頃、奥方であられた舞子様の腹の中だ」
「確かに、一ノ瀬の家に産まれた儂が、祖母兄に当たる加賀城の分家筋に養子へ出された頃、義姉上は既に帝王院へ嫁いでいた。…宮様が産まれた時の事は、今でも覚えている」

帝王院学園が創立したのは、70年以上前になる。
その頃は小学校として今の初等部しかなかった学園の、第一期生徒名簿に加賀城敏史の名があった。当時中等部以上は存在しなかった為、外部進学した加賀城だが、帝王院駿河の入学と同時に学園拡大の話が浮上していた事を覚えている。帝王院学園は、帝王院駿河の成長と共に拡大した様なものだ。

「儂は今回の一件、龍一郎が全ての絵図を書いたのではないかと考える」
「何を言うかと思えば、弟でありながら貴様は何をほざいておるか!」
「加賀城敏史、斯様に喚き発てるな。龍一郎が眠っている」

朝日に照らされた神々しいブロンドの下、ダークサファイアを眇めた男の静かな声に、場は静まり返る。

「シリウスの言い分は理解した。龍一郎が何を思い何を願ったのか、私には知る義務があるだろう」
「…ナイン、龍一郎の隣に潜り込もうとするのはやめんか。この部屋は宮様夫婦の寝室だぞ?念のため言っておくが、冬月は灰皇院四家の一角だった。判っておるのか」
「知っている。それがどうした」
「こらっ、龍一郎の頭を嗅ぐのはよさんか!」

白衣に首根っこ掴まれた金髪は、名残惜しげに眠っている男から手を離した。見るも無惨に肩を落とし、何故か加賀城の背後に回り込んでくる。

「龍一郎は元老院が総力を挙げて探している」
「…元老院?それは誠か、男爵」
「我が家の爵位は既にカイルークに譲渡したものだ。円卓に委ねられない今の元老院は、私の権限を以ても把握していない。カイルークにしても大差ないだろう」
「元老院は貴様らの管轄ではないと言いたいのか?同じ組織にありながら、何をぬけぬけと…」
「そなたらの憤りは理解しているつもりだが、龍一郎に関しては争う理由はなかろう。手を貸せ、加賀城敏史」
「然し儂は…」

頭を下げていると言うには偉そうな台詞だが、言い淀んだ加賀城は手を貸す事を躊躇っている訳ではなかった。

「儂は、その昔帝王院を裏切った女の…」
「よい。それら全て、駿河公は知っておる」
「なっ、大殿が仰ったのか?!」
「孫が本校に昇校すると決まった頃、儂は遠野総合病院へ潜り込んだ。その時は儂本来の姿で駿河公にお会いしたが、灰皇院の話はその時に少しだけのう。今から三年前の話だ」
「三年前…」
「龍一郎が死んだと聞かされたのは、それから間もなくだった。儂は龍一郎を見つけた訳ではない。何しろこの20年近くは探そうともせなんだからのう。逃げた筈の兄が日本の病院で院長に収まっておるなど、ついぞ考えもせんかったわ。それこそ龍一郎が賢い所以だ、人の裏を掻くのが兎角上手い」
「冬月、貴様は何を何処まで掴んでおるんだ?腐っても貴様は龍一郎兄の片割れ、帝王院に仇なした点では加賀城と同格じゃ。グレアムの計略が何に至るかは知らんが、」
「元老共の考えは易い。この世を真なるノアで統治する、それだけだわ」
「真なるノア…それが龍一郎兄に関わるのか」
「然り。龍一郎が駿河公を院内に匿ったのも、元老の目を逸らす為ではないかと睨んでいる。…これ、ナイン!」

話し込む内に、再びベッドに潜り込もうとした金髪はスパンと頭を叩かれ、加賀城は目を丸めた。年寄りにしては手が早い。

「師君!龍一郎は儂の双子の兄だぞ!儂の目が黒い内は兄に勝手は許さんぞ!儂の龍一郎に勝手に触るでないわ!」
「狡いぞシリウス、血縁関係を出されては私に勝ち目はないではないか。私は素直にそなたへ龍一郎を見つけたと教えてやったのに、何故同衾を拒む?」
「何が悲しゅうて実の兄が男と寝る様を見せつけられねばならんと宣うか!師君は不能なのだから、いつまでも見苦しい真似はよせ!」
「な」

ガーン、と顔に書いてある。
石の様に固まった金髪に同情しない事もないが、騒ぎを聞き付けたのか加賀城の背後でガチャリと開いたドアから、白髪の男が入ってきた。

「随分大人げない真似をするな、シリウス。みっともない声が外に漏れていたのだよ。陛下に対して何と言う無礼な言葉遣いをするのかね、君は」
「…く、すまんのう、少々取り乱した。所でネルヴァ、この部屋は安全だったか?」
「ああ、君から預かったジャミング装置を隣の書斎に取り付けてきた。これで盗聴の心配はないのだろう?」
「ならばよい。年若い東雲は些か頼りないからのう、年寄りには年寄りにしか出来ない方法で、手を回すまでだ。…ネルヴァ、そこの不埒者を取っ捕まえておけ!」

何度叩かれてもベッドに潜り込もうとしている金髪に、流石に呆れたらしい秘書はエメラルドを細める。

「畏れながら陛下、オリオンは私にとっても大切な方です。同じ特別機動部長の役にあった縁により、この場はシリウスに同調します。失礼をお許し下さい陛下、」

ドスッと主人の腹に真顔で一撃くれた男は、ぽてっと倒れてきた金髪をひょいっと肩に担ぐ。ぱちぱちと手を叩いた保険医の傍ら、着物の袷を意味もなく撫でた加賀城も何故か安堵の表情だ。

「男爵を一撃で沈めるとは、流石はグレアムの駒か。若いのにやりおるわ…」
「何、ネルヴァは帝王院学園理事の一人。ステルスから抹消された今、儂共々帝王院財閥の犬も同然だ。のう、藤倉理事」
「全く、君はいつも唐突な思いつきを口にする。然し一理あるのだよ、陛下に手を上げた私にはもう、第一秘書を名乗る権利はないのだから」

にやっと笑い合った二匹の狂暴なジジイに、哀れ加賀城獅楼の祖父は若干尿漏れした。チビったのではない、年齢故の尿漏れだ。

「清々するのう、ネルヴァ…いやカミュー。師君は元々、人の話を全く聞かんナインを怒鳴り散らかしておったが故に、第一秘書の座に就いた」
「怒鳴り散らかした?!こ、この忠実な秘書が、男爵をか?!」
「若気の至りをいつまで掘り返すのかね。昔の話だよ」
「ほっほ、師君の驚いた表情は愉快愉快。加賀城の、儂ら年寄りで手を組み、孫達の平和な学園生活を守ってやろうではないか。どうだ?」
「ふん、私には孫は居ないがね。…無論、リヒトの為ならば命も惜しくはないが」

ぽいっと理事長をソファに捨てた白髪は流し目で年上二人を見やり、何となく勝ち誇っている様に思えた。

「孫など所詮、子供が産んだだけの他人だろうに。それに引き換え、我が子は自分の半身の様なものだよ。可愛さの度合いが違うと思うがね」
「孫には孫の可愛さがある!ふん、儂の隼人は師君の息子などより、よっっっぽど!可愛いわ!」
「儂の獅楼は天の宮様にも劣らん立派な孫じゃっ!藤倉、貴様の息子がどれ程の物か知らんが、発言には気をつけろ若造!」

これには冬月・加賀城の眉間に皺が寄ったが、もぞっと動いたベッドの上でぱちっと目を開いた男がむくりと起き上がった為、それ以上の喧嘩には発展しない。ただの親馬鹿談義だ。

「クソ煩いぞ貴様ら…。俺の睡眠を妨げる者は何人たりとも生かしておかん、仏に祈るが良い」
「…龍一郎、寝起き一発目に枕を投げつけるのはよさんか。何で儂の顔にどんぴしゃなんだ、本当にボケておるのか?」
「誰が呆けているだと?…それにしても龍人、何だそのつまらん白衣は。白衣を舐めてるのか」

朝日に慣れないのか、眩しげに右目を眇めた男の恐ろしい眼差しは真っ直ぐ、顔で枕をキャッチした保険医に注がれた。どう見ても彼を知る誰もが冬月龍一郎だと認める横柄な態度で、ビシッと白衣を指差した男は宣ったのだ。

「常日頃、白い白衣を着るなと言っておろうが低脳が。だから貴様はいつまで経っても馬鹿なんだ、この垂れ目馬鹿」
「白くない白衣があって堪るか!貴様に馬鹿呼ばわりされる謂われなどないわ、この吊り目低脳が!研究しか能がない分際でほざきおって!」
「何だと?!兄に対して何と言う無礼な態度だ貴様ァ!腐った性根を叩き直してくれる、そこに直れチビ!」
「ええい、1cmしか変わらん癖に喧しいわっ!よくも今まで好き勝手してくれたのう、今日と言う今日は許さんぞ!腹を括るがよい、龍一郎!」

垂れ目を吊り上げた保険医もまた、恐ろしい形相で叫ぶ。
目を見合わせた白髪二匹の背後、ソファで寝返りを打った金髪はころりと転げ落ち、無表情で痛いと呟いた。

「全く、何年経っても顔を合わせる度に喧嘩が出来るものだよ。今日こそシリウスが勝つのかね」
「…儂が言うのもどうかと思うが、藤倉、男爵が膝を抱えておる様じゃが?」
「困ったものだね。私はもう第一秘書ではなく、駿河学園長に投資している一介の理事に過ぎない。理事長を解任された元男爵に貸してやる手はないのだよ」

睨み合う双子はさらっとシカトしたので、理事長は加賀城の手を借りて起き上がったのだ。秘書に至っては、一部始終見ていた癖に助けてくれなかったのである。






















「アンタはキングを憎んでた」

その言葉を吐き捨てた瞬間、パシンと何かが焼き切れる音を聞いた。

「私は何者をも憎まない」
「神と同じ瞳を持つ俺に嫌悪を感じる程に、いや、多分グレアムの全てを憎んでいたんだ」
「私は何者をも憎まない」

まるで機械人形か鸚鵡か。
同じ台詞が返ってくるのは単に、自分がその答えを知らないからだ。夢は夢でしかない。目の前の男が何を口にしても、全ては自分が望んだ台詞なのだ。

「アンタはずっと、ただの人間だったんだな」

また、パシンと。
自分は自分が最も認めたくなかった言葉を知っている。これはきっと、自分の何かを傷つけている音なのかも知れない。

「俺はアンタの瞳が羨ましかった。紅鏡、それは技術班にも作る事の出来ない太陽を讃える言葉だ。アンタが来るまで、赤は俺だけの褒め言葉だった」

ああ、幻だろうが夢だろうが、何と見事なブラッディアイズだろうか。
新鮮な血をそのまま固めた様な濃い赤の瞳、今では満月の様な黄金だったが、記憶に一番強く残っているのはやはり、彼本来の色だ。

「私は何者をも、」
「俺はまた、同じ間違えを繰り返した」

ひらひら、きらきら。
光のドレスを纏う神威の衣が、パシン・パシンと音を発てる度に剥がれ落ちて、この度に心を覆っていた虚勢もまた、剥がれていった。

「目を赤にしたって、アンタは俺を選ばない。そりゃそうだ、アンタがセントラルに来た頃には既に、総長は産まれてた」

どうして欲しいものはただの一つも、手に入らないのだろう。欲しいと望まなければ失わずに済むのだろうか。それとも、欲しくないものを失ったとしても、悲しみを感じないだけだろうか。欲しくないものを手に入れて、何になると言うのだ。

「…推測でしかない。どうせ俺が聞いたって、答えちゃくれねぇだろう?」
「そなたが望むのであれば」
「黙れ」
「そなたが望むのであれば」
「初めから、自分に弟が居る事を知っていたんだよな?アンタは帝王院秀皇がそうした様に、グレアムを憎んだ。自分こそがナイトの憎んだノアになる事で、いずれ弟が、自分に辿り着く日を待ってたのか?」

赤。カラーコンタクトでは決して真似出来ない、虹彩までもまでも艶やかな赤のコントラスト。神の証。

「脆弱なる者には死を。それこそが灰皇院の定め」
「…灰皇院?そりゃテメーの偽名、」
「そなたは知っていた筈だ。ただ思い出そうとしなかっただけ。いや、犬でありながら対等であると思い込み、哀れにも、主人と知りながら友である事を望んだ」

ああ。
目の前に見える彼は、恐らく戴冠した頃の姿だろう。腰ほどに長い銀髪、真紅の双眸、全てが十年前のものと符合する。

「そなたは知っていた筈だ。けれど今を生きるには過去が妨げとなった。必要なものばかりを選び、不要なものから目を逸らし続けた、これはそなたの罰だ」
「…はっ、そうかよ。御高説痛み入ります、陛下」
「そなたは間もなく死ぬ。弱いものを摘み取り永らえてきた、血の掟のまま」

きっと、そうなのだろう。全身が異常に冷たい。
(その姿は、あの日貴方に捨てられた時の事を思い出すには、余りにも十分だ)
(あの時、神の子は囁いた)
(何処へなりと飛んでいけと)
(五歳の私は引き留めて貰いたかっただけ)

「天の慈悲は解かれた。そなたは空から見離された、哀れな犬」
「俺の夢から出ていけ。アンタは他人だろうが…」
「問3、過去と現在、死に逝くそなたが選ぶべきはどちらだ」
「…知るか、失せろ」
「過去を懐かしむか、今を儚むか」
「…」
「選ぶつもりがないのであれば、その場で朽ちよ」

質問に答えるつもりなど欠片もない。
(相応しい言葉を知らない)
(欲しくないものを欲しいと言えない)
(欲しいものは手に入らない)

「…殺しても貰えないのか俺は」
「苦なく生きるには、そなたの血は濃すぎる」

何一つ選べずに、何一つ守れずに、弱いものは消えるしかないのだ。(祈りの言葉すら浮かばない)(ただ、朽ちるばかり)



「だったら未来を選びやがれ糞餓鬼!」

何処かで聞いた事のある声に目を見開いた。
今、自分は夢の中で幻でも見ているのだろうか。

「っ、な…?!」
「我が家の家訓は、『家族の敵は容赦なく滅せよ』だ。…目障りだルーク、テメーは俺の前に立つな」

決して倒せないと思っていたプラチナの喉を、片手で絞めている背中が見える。
艶めく褐色の肌、燃える様な赤毛が靡くその背中には、真紅の翼が轟く光景。

「な、んだよ、今度は…」
「よう、元気に死に掛けてるか糞餓鬼。雑魚らしい最期じゃねぇか。ちゃんと飯喰わねぇから、ンな醜態を晒すんだ」

振り返ったその背中は巨大な金色の蛇を抱いていた。先程まで目の前の男が鷲掴んでいた神威の姿はなく、俊や日向の姿もない。鮮やかだった薔薇が、急速に枯れていくのを見ている余裕もなかった。

「いや、マジで糞ダセェな、お前はよ」
「な、んだぁ?!喧嘩売ってんのかテメー!」
「格下に売ってやる様な喧嘩なんざ持ち合わせてねぇな。総長が言ってただろう?この世で最も強いのは王でも犬でもない。…ンな事も忘れたのか、テメーは」

今度は、誰だ。
見覚えがあるにも程がある不死鳥、隆起した筋張った筋肉、そのどれもが自分に良く似ているのに、髪に散りばめた白のメッシュがない。

それだけではない、少しずつ何処かが違う。
どう見ても自分より遥かに年上で、遥かに強そうだ。圧倒的に。勝てそうな気がしない。

「星の導きに感謝するんだな」
「…星の導きだと?テメー、さっきから何ほざいてやがる…?!俺はテメーなんざ知らねぇぞ!知らねぇ奴が何で人様の夢ん中にっ、」
「んなもん、『神の脚本』によるチート中のチートだ。喜べ糞餓鬼、二歳のお前だろうが17歳のお前だろうが18歳のルークだろうが、この俺の敵じゃねぇ。全員磨り潰して、味噌汁の具にしてやらぁ」

何より、自信に満ちたその表情が、自分とはまるで違う。その言葉通り、巨大な金色の蛇を己の首に軽々巻いて、彼は酷く満足げだ。

「ああ、薔薇が錆びてきた。そろそろ起きる時間だ。しっかりしろよ、『確約された十年後』に正しく辿り着く為に」
「お、まえ」
「あん?」
「つーか、何でエプロンしてんだ…?」
「あー、こりゃ寧ろ俺がぶっ殺してやりてぇわ。…馬鹿過ぎて泣けてきた」
「…テメっ、」
「俺は雲であり、俺は鳥であり、俺は犬であり、俺は人である」
「はぁ?何だ、いきなり…」
「俺は雲隠であり、俺は嵯峨崎であり、俺はグレアムであり、そしてそのどれでもない」

自信に満ちた勝ち誇った笑みを浮かべ、皆無に等しい眉の下、目尻に皺を刻みながらダークサファイアを眇めたそれは、褐色の首に大蛇を巻いて。

「脚本の通り歩めば、お前はいつか俺に辿り着く。選ぶのはお前だ。神には、人の心を操る力まではない」

すらすらと、歌うように。

「一体何の話を、」
「なぁ。お前は誰だ、嵯峨崎佑壱」
「誰…?お前、もしかして…」
「いつだって俺を助けてくれるのは、ルークでも総長でもなかっただろう?…でもそれは、」

そう、だから、その褐色の首に、だ。

(自分と同じ姿形をした)
(けれど『それ』がない自分は)


(まるで、別人の様で。)




「先に『約束』を果たして、いつか首輪を外した時にでも知れば良い事だ。」


その黄金の蛇の眼に、黒い星を見た気がした。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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