帝王院高等学校
生きとし生ける者への讃美歌
「…珍しいお客様だわ。こんにちは、お一人かしら?」

庭先で本を読んでいた人は、足元に走った気配に顔を上げる。
見れば、花壇の片隅に身を潜めている小さな生き物の小さな瞳と目があった。

「あっちの山から来たの?立派なご神木があったでしょう?…あら、栗鼠だと思ったら鼠ちゃんなのね」
「チュー」
「まぁ、可愛らしいご挨拶有難う。貴方はきっと神様のお使いね」

ゆったりと微笑んだ人は、読書の共に手ずから用意した茶器の隣、外国の珍しいチーズアソートから一つ摘まみ、ころりと芝生へ転がしたのだ。

「近頃寒くなってきたから、お山の木の実は枯れたのかしら。お腹が空いたでしょう、貴方チェダーチーズはお好き?ブルーチーズは私には苦くて、料理長にお渡ししたの。お夕飯に出るかしら…」

キャンディーサイズのチーズはあっという間になくなり、彼女は笑ってもう一粒、今度は自分の足元へ転がす。幾らか躊躇いながら、腹を減らしていたらしい大振りの鼠は近づいてきた。

「ねぇ、私のお友達になって下さる?糸遊さんは下の娘さんが手が離れたと思ったら、もう孫が産まれてお忙しいでしょうし、可憐さんは私に会わせる顔がないって言うのよ。陽炎さんとの結婚式にも呼んで貰えなかったわ」

きっと私は嫌われているのね、と。
本に栞を挟みながら囁いた人は、膝掛けを畳み、肘置きに乗せた。

「そうそう、瑞穂さんからお手紙が届いたの。糸遊さんからは関わっちゃいけないって言われているから、この手紙の事は、私達だけの内緒よ?」

鼠は人の話など聞いてはいない。
微笑ましげに毛で覆われた小動物を見つめ、本に挟んだ栞を見やった。栞と呼ぶには些か大き過ぎるそれは、消印のない封筒だ。

「瑞穂さんはお父様の血の繋がらない母上で、お祖父様の後妻に入られた方なの。瑞穂さんが産んだ娘さんは瑠璃子さんと言って、私の義理の叔母に当たる方だけど、私とは三歳しか離れていないの。もう一人、藍子叔母様はお父様とは一つ違いの妹で、賢くてお優しくて、西指宿子爵の弟さんに嫁いだのよ」

一つ目の食べっぷりに引き替え、二つ目のチーズは中々なくならない。初めのものより大きなチーズを敢えて選んだのは、小さな客人の長居を求めているからだろうか。

「男の子を産めなかった瑞穂さんが、私を嫌っている事は知っているわ。瑞穂さんは加賀城宗家の末娘だけれど、分家である私の家の方が今や立場が上なの。宗家から分家の後妻に入るなんて不名誉な事なのよ」

困ったわね、と囁く声は穏やかだ。
にこにこと鼠の挙動を見つめる眼差しは柔らかく、奏でる言葉はお伽噺を語り聞かせている様にしか思えない。

「帝王院の宮様へ嫁ぐなんて、こんな名誉な事はないわ。瑞穂さんが旦那様を慕っていた事は知っていたの。私には良く判らないけれど、旦那様のお顔は男前だそう」

健気に餌を貪る鼠も喉が乾くだろうと、彼女はカップに添えた下皿に白湯を注ぎ、驚かせない様にゆっくり足元へ下ろす。

「瑞穂さんはその昔、旦那様とお付き合いされていたそうよ。けれど旦那様が海外へ渡ると同時に破局したのかしら。それとも、愛人じゃ駄目だったのかしら?旦那様は沢山のレディーとお付き合いなされていたそうだもの」

チーズを囓っていた鼠が顔を上げれば、丁度厨房の方から誰かの怒鳴る声が聞こえてくる。聞き覚えのある恫喝は料理長のものだ。また鼠が出たのかも知れない。

「藍子叔母様はとても良くして下さるし、従姉の智子さんは、産まれたばかりの敏史ちゃんを養子に下さったわ。糸遊さんが教えてくれたけど、又甥って言うのよ。今は私の義弟。とっても可愛い子なの…そうね、丁度やって来た新しいお客様みたいに」

芝生を駆ける微かな音が聞こえてきた。
足元の鼠より一回り小さな鼠が現れ、警戒する様に動きを止める。笑った人は新たなチーズを摘まみ、ころりと放り投げた。

「それもこれも、一人娘にも関わらず、私が駿河しか生めなかったからよ。駿河は帝王院を継がなければならないから、加賀城分家はお父様の代で終わりでしょう?」

腹が膨れたのか大きな鼠の動きは鈍い。
チョロチョロと芝生を駆けたかと思えば、花壇の縁で動きを止めた。帰ってしまうのかと暫く様子を見ていると、そのまま動かなくなった鼠はもしかしたら寝ているのかも知れない。
人間に馴れた鼠だと微笑み一つ、最後に残ったチーズを頬張ろうと持ち上げれば、後からやって来た鼠のまだ後方にも、小さな鼠が見える。もしかしたら親子か兄弟かも知れない。

「藍子叔母様にとっては可愛い孫の敏史ちゃんを、私の所為で奪ってしまった。瑞穂さんのご両親は分家である私達を快く思っていないのよ。分家の分際で、帝王院と縁組を結んでしまったから」
「ヂュッ」
「ヂュヂュッ」
「あらあら、喧嘩しないで、もう一つチーズが残っているわよ」

ぽろりと転がしたチーズに、かさかさと二匹の鼠が重なりあう。食べ掛けのチーズを放置して二匹で一つのチーズを囓る様は、仲睦まじげに思えた。

「せめてお父様が亡くなる前に、跡継ぎを差し上げたかった。婿を取るべきだった私に、帝王院への嫁入りを許して下さった、そのご恩に報いるべきだったのよ」

近頃、何故か体調が優れない。
難産だった出産で体力を使ったからだと主治医には言われたが、それにしても毎年悪くなっている様に思えた。けれどそれを口にすれば、心優しい夫が心配するかも知れない。

「私が死ねば、瑠璃子さんが後家に入るのかしら。瑞穂さんは娘を鳳凰様の妻にする事で、望みを叶えたいのかも知れない。でもその為にはきっと、私は邪魔なのよ。だから心配性な糸遊さんは、私と加賀城の縁を切りたがっているの」

帝王院舞子は笑顔に本音を覆い隠し、残り少ない茶を啜った。

「記憶にはないのだけれど、子供の時に患った麻疹で死にかけた事があるそうなの。その後遺症で私は馬鹿なのよ。馬鹿だから本を読むにも時間が懸かるの、旦那様の書斎には本が沢山あるのに。どうして私は馬鹿なのかしら、この絵本は駿河のお下がりなの。難しい漢字は読めなくて、平仮名だけの絵本なのよ」

だから本に挟んだ手紙は、読んだものの殆ど意味は判らなかった。きっと人に見せてはいけない内容だと思ったので、手紙に添えてあったチーズは有り難く頂いたが、手紙はこのまま、誰にも見せずに仕舞い込むしかないだろう。

「あら、貴方達も寝ちゃったの?」

小さな二匹の鼠が、何故か腹を見せて動かなくなっていた。
キャンディーサイズのチーズは五つだけ、学園に通う生徒の保護者でもある理事の一人から貰ったブルーチーズには手をつけていない。今日はチーズに縁がある日だ。

「最後の『死ね』だけは読めたわ。糸遊さんには言っちゃ駄目なのよ。高森伯爵様は加賀城宗家と縁があるお家柄だもの、ご迷惑は掛けられないでしょう?私は馬鹿だけど、嫌われるのはとても辛いわ。皆さんと仲良くするには、どうしたら良いのかしら…」

何だか頭が重い。
息苦しい様な気もするが、日が傾く前に息子が戻ってくるだろう。昨年新設したばかりの初等部校舎は真新しい木の匂いに包まれていると、理事からは微笑ましい感想を掛けられる。

「私が先に死んでしまったら旦那様は悲しむかしら。旦那様の方がずっと年上だけれど、出来れば私は旦那様より先に死にたいわ。旦那様が死ぬ所なんて見たくないの。だって悲しいんだもの。でももし旦那様もそうだったら、どうすれば良いのかしら」

三匹の鼠は静かに動きを止めたまま、乾いた風が吹き抜けた。晩秋の午後は何処となく物悲しい。

「旦那様の子供を産むのは妾でも良いのよ。そうすれば駿河を加賀城の跡継ぎにする事だって出来る。敏史ちゃんを瑞穂さんの元から、智子さんの所へ返してあげられるわ。旦那様と言うのは、愛人を囲うものなのよ」

閃いたとばかりに手を叩いた人は、腰掛けていたベンチから立ち上がる。そろそろ帰ってくるだろう息子を迎える為に、玄関へ行こうと思ったからだ。

「沢山の愛人が居れば、私が死んでも旦那様が悲しむ事はないわ。ああ、馬鹿な私にしては良い事を思いついた、これはきっと奇跡よ。そうと決まったら早く死にたくなってきたわ」

物騒な事を笑顔で呟きながら、絵本を抱えた人は裏庭から離れていく。彼女と入れ違いにやって来た料理長は生ゴミを抱え、いつものように花壇の肥料にしようとスコップを握っていたが、鼠の姿を認め眉を跳ねたのだ。

「でもその前に、私も孫と遊びたいの。駿河のお嫁さんは何処に居るのかしら、糸遊さんのお孫は女の子だったわね。あの子はどうかしら、名前は確か………栄子ちゃん?」

然し夢見る様にふわふわと、晴れやかな笑顔で歩く人は気づいていない。

「雁が巣へ帰っていくのが見える。秋だわ。読書の秋。糸遊さんには二人の子供が居る。栄さんと隆乃さん。隆乃さんは一昨年ご結婚したばかりだから、お嫁さんにはなれないわね…」

死んだ三匹の鼠に飛び上がった料理長が、無人の裏庭で慌てている事など露ほども知らずに、舞子の文字通り舞う様に歩く人は視界を掠めた羽根に微笑んだ。

「チャバネセセリ。お山には年中色んな虫が居るわね」

季節外れの蝶だ。茶色い蝶は蛾と酷く似ている。

「羨ましいわ。私にも翼があったら、天国からでも旦那様の所へ飛んでこれたのに。鳳凰様の翼は日本を舞っているのよ。だから旦那様は、私を運命の妻だと言って下さるの。鳳凰と舞子、糸遊さんからも運命だと言われたわ。でも私には判らない。だって私は馬鹿だもの」

彼女は喋らない生き物に良く語り掛けた。
同世代の友人らは舞子との会話を嫌った為、人間の友人は彼女には殆ど居ない。数少ない友人である高森糸遊は伯爵家の妻として、母として、多忙故に暫く顔を見ていなかった。
もう一人の友人である嵯峨崎可憐は傾き掛けた家の再建で奔走し、この数年は日本に居る事の方が少ないらしい。

一度だけ、舞子は保護者から言われた事がある。
貴方は良いわね、帝王院に嫁いだから何もしなくて許されるの、と。それを言った女の子供はいつの間にか学園から姿を消し、後日、言った女の亭主から謝罪を受けた。

糸遊は当然だと鼻で笑い、幼い生徒らは友人が消えた事に然程悲しんだ風でもない。けれど舞子は可笑しいと思ったのだ。自分が馬鹿なのは本当の事で、事実、満足に字も書けない。
一般の女性が普通にこなす家事もしない、子育ても、殆どが家政婦の手を借りている。だから『何もしていない』と言われるのは当然で、優しかった両親が家から出したがらなかったのもきっと、それが理由だと理解していた。 


「私が死んだとしたら、飛べない私はきっと此処へは戻ってこれない」

けれど現実は、それを指摘した人間が間違っていた事になったのだ。

「でも、もし宮様が私の元へ飛んできてしまったら、その時こそ私達のご縁は運命と呼べるのだと思うわ。私は私を愛して下さった鳳凰の宮様を心から愛しているの。本当の本当は、誰にも渡したくないのよ」

彼女はいつも微笑みを讃え、等しく全ての生命を愛した。己を謗る者も慈しむ者も分け隔てなく愛し、心の底から世界の美しさを信じていたのだ。

「だから私達のご縁が運命だった時、鳳凰ちゃんは舞子のものになるよ。そうなったらもう誰にもあげないわ」
「嗚呼、何処の蝶々が迷い込んでいるのかと思えば、鳳凰ちゃんの愛しい愛しい舞子じゃないか!」
「あら、お帰りなさい旦那様。今日は会社にお泊まりになられるんじゃなかったんですか?」
「嫌だい嫌だい!さっき鳳凰ちゃんって言ってたじゃないかッ!ワンモアプリーズ、俺の目をしっかり見つめたまま言ってごらん舞子。そうすればこの帝王院鳳凰、心も体も何ならお土産のチョコレートも、一つ残らず舞子のものになるぞ?」
「チョコレート!」

彼女の願いを知る者はない。
もし知るとすればそれは、死ぬ間際に彼女が残した手紙を手にした者だけだろう。

「舞子、チョコレートが欲しければ呼んでごらん、鳳凰ちゃん…と!ハァハァ…」
「旦那様、私の一人言を聞いてらしたのね?」
「照れてる舞子はまるで天使の様だ。鳳凰ちゃんは胸が苦しい、助けてくれ」
「不整脈かしら?」
「…ただいま帰りました、母上、父上」

がばっと抱きついてきた夫の尖った唇が吸い付いてくる刹那、大人びた子供の声に揃って目を向ければ、冷めた表情でランドセルを背負っている帝王院駿河がさらっと通り過ぎていった。

「………なぁ舞子、近頃駿河が冷たいと思わんか」
「まぁ、面映ゆい。今の旦那様のお顔はタコみたいで面白いわ」
「タコ…」

どぱっと弾ける涙を迸らせた男を撫でてやりながら、舞子は胸の痛みから目を逸らす。
秋は何となく物悲しくなる季節だ。心配する事など何一つありはしない。

「ねぇ、鳳凰ちゃん」
「何だい俺の大事な舞子ちゃん」
「そろそろ孫が欲しいの」
「ふむ、成程。だが駿河はまだ7歳だ。もう少し俺で我慢しなさい」
「はぁい」

この世は綺麗なもので溢れている。
…そうだろう?
















この世の何を犠牲にしても構わないとさえ思えた穢れなき魂が、誰かの悪意によって傷つけられていた事を知った日。
万人に平等であるべき王は、慈悲の心を失ったのだ。


「久しいな、加賀城瑞穂。俺を覚えているか」

呆けた表情で腹にナイフが刺さった娘を抱いて、老いた女は腰を抜かしたまま見上げてきた。聡明で美貌に恵まれた女は何人もの男を渡り歩いたが、その悪名のお陰で、最終的には格下の家の後妻として自由を奪われたのだ。

「お前は俺の妻に随分面白い話をしていたそうだな。知らなかったとは言え、一度として誤解を解けぬまま逝かせてしまった我が身の愚かさが、何と呪わしいか。お前にはその欠片でも理解出来るか?」
「ほ…鳳凰、様っ」
「俺の妻に迎えさせたかった大切な娘が死ぬ光景はどう映る?母親の望み通り、舞子に毒を送り続けた穢らわしい女など、この俺が迎えると思ったのか?」

その冷ややかな漆黒の双眸は、悍しい程の殺意で燃え上がっている様に思えた。言葉もなく震えたまま、帝王院鳳凰より幾らか若い女は頭を振り続ける。

「知っているだろう、俺は一度見たものを忘れない。舞子の形見である絵本から何通もの手紙が出てきた。…全てお前の字だ。言い訳があるなら聞いてやろう、加賀城瑞穂。だが何を聞いた所で、娘は生き返らない」
「お…お許しを…!」
精々苦しんで死ぬが良い

世界を跪かせる声に、女は呼吸を忘れた。

「俺は舞子以外に触れた事などない。それがどうだ、我が妻はお前と俺が恋仲にあったと誤解したまま死んでしまった。その誤解を解くには、天へ召された妻の元へ行かなければならない」

徐々に顔色を失っていく女を静かに見据えたまま、彼女が抱き抱えている娘の腹に刺さったナイフを抜き取った男は、王者に許された威厳に満ちた眼差しに笑みを滲ませ、女の手に握らせたのだ。

「俺はこの世の全てを憎んでいた。何故ならばこの世には醜いものばかりだったからだ。争い、傷つけ、裏切り、都合の悪い時ばかり頼る。人間はこの星で最も醜い獣だ。俺は全てを呪っていた。外に出て初めてそれを知り、海を渡った先にさえ美しいものなど存在していなかった事にもまた、絶望した」

自立呼吸の方法を忘れた女が意識を失う前に、恐ろしい催眠は解ける。簡単には死なせないからこそ、苦しんで死ぬ事になるのだ。

「俺の世界に存在した人間は、舞子だけだった。たった一輪の蒲公英を踏んだ俺を平手で叩き、美しい顔を怒りで染めて『お花さんに謝りなさい』と言った舞子だけが、帝王院鳳凰の全てだった。けれどそれを、貴様らが奪ったんだ」
「ひ…!」
「俺は貴様らを許さない。何故ならば俺は帝王院鳳凰、人の輪廻から外れた陰陽道の血を継ぐ『陽の王』だからだ」

この国を照らす太陽は核を燃やしている。
この国を地獄の炎で二度も焼いた、憎むべき核で世界を照らしているのだ。ああ、この世は穢らわしいものばかり。神々しい神の実態は、恐ろしいミサイルとどう違うと言う?

「咎人に慈悲など必要ない。お前らは日の届かぬ西の果てに沈め。加賀城智子はお前が13で産んだ娘だそうだな、瑞穂。加賀城の恥を分家に押しつけ、それだけでは飽き足らず、我が帝王院の財産にまで目が眩んだか」
「っ、あ、あ…!」
「智子自身、己の出生を知らんらしい。あれは舞子と親しくしていた。貴様の娘を育てた藍子の手前、智子の命までは取るまい。だが瑠璃子と貴様の命は今宵で終わる。精々俺を憎悪しろ。奈落の底で憎み、謗り、穢れた業火を燃やせ。…灼熱の如く」
「っ、化物が…!」
「燃ゆる業炎は全て、この鳳凰の餌だ」

憎しみに染まった女の双眸を手で覆った男は、最後に神々しい笑みを浮かべ、たった一言、囁いた。慈悲さえ感じさせる柔らかな声音で、親が子に語り聞かせるが如く、穏やかに。



「二度と廻(めぐ)らぬ朝を希(こいねが)い、己の犯した過ちを悔い続けろ。」













初めて世界の光を見た日、輪廻が巡った音を聞いた。
欠けた月が満ちる様に、一つでは儚い星が幾つも組み合わさって星座を描く様に、歯車は廻り始めたのだ。


愛しい、愛しい、愛しい、悲しい。
この身に流れる血が囁いている。踊る様に歌う様にそれはまるでピエロの様に、忙しなく語り掛けてくるのだ。


幸せな。
幸せな物語を。
永遠に失わない、たった一つの幸福を。

そうしてそれは、血に根付いた本能だと知った。
遺伝子に刻まれた物語だと気づいた。


俺は重ねた血の数だけ物語を刻んでいる。遺伝子に。本能として。
俺は本能が求めるままに全ての物語を補完した。自らの脳に。血と交わった知識は漸く形を成し、鼓動と言う名の刻を刻み始めていく。


俺は陰陽を渡る、朝と夜の全て。
太陽と月の狭間、自らの魂を燃やし輝ける星の全て。





朝をたゆたい、夜を泳ぎ、黎明を抱き、黄昏に委ねる魂。





目を開け。
何も描かれていない見果てぬ白日の向こう側へ征こう。
愛する唯一の君の幸福と引き替えに、絶望の黒日に染まる為だけに。

その時俺は、本物の俺として生まれ変わるのだと思う。
その時俺は、命を燃やし歌う一匹の蝉の様に弱く脆く気高く強く歌いながら、自分の為だけに、愛を歌うから。









その時君は、笑ってくれるだろうか。


















The hymn for the earth.
生きとし生ける者への美歌





交響曲第番:月隠の鎮魂歌
 The first number: Dark moon requiem










「良い事でもあったか?」

夕食の最中、いつもより帰りが遅かった父親は背広を脱いだだけのワイシャツ姿で首を傾げた。

「父は若い」
「ん?」
「俺と並ぶと兄弟に見えると言われた」
「誰に?」
「一年も通ってるのに弓道がうまくならない女の人」
「ふむ、その人は不器用なんだな。狙った所に矢を当てれば良いだけで、簡単だと思うが」

アパートの大家から貰った年代物の七輪で秋刀魚を焼いていた母親は、ベランダから焼けた魚を投げてくる。しゅばっとそれぞれの皿に収まった何匹目かの秋刀魚は、やはり良い香りを漂わせていた。

「母はこっちを見ていないのに、何故皿にきっちり入るんだろう。俺にはまだ判らない事が多い」
「落としたら勿体ないからだろう?」
「まるで弓道みたいだ」
「待て俊、お前はまだ子供だから、内臓は食べない方が良い。残しなさい」
「うまい」
「む、通な台詞を言うな息子よ。確かに新鮮な秋刀魚は内臓がうまい」
「シューちゃん、大根おろし足りてる〜?俊、秋刀魚の骨は残しなさいょ?全く誰に似たのか、アンタ食い意地張ってんだからァ」

部屋の中で焼くと煙で恐ろしい事になる木造二間のアパートは、間仕切り代わりの襖を取っ払えば、わりと広いワンルームと大差ない。
家賃は安いが築五十年は下らないだろうアパートの住民は部屋数の半数にも満たない為に、ベランダで秋刀魚を焼こうが迷惑を訴えてくる事もなかった。数少ない入居者は水商売の女性と、男やもめの長距離ドライバーだ。

「この大根は大家さんの家庭菜園で採れたものらしい。無農薬だから美味しいだろう?」
「無農薬でも農薬を使っていても、俺にとって大根はいつでもうまい」
「そうか。確かに父さんも、大根が不味い時は一度もないな」

二階建て木造モルタルアパートは、元々八部屋あったらしい。
然し一階部分は、数年前まで大家の息子夫婦がリフォームして住んでいたそうだが、家を建てて出ていった。
本来は一階に並んでいた筈の四部屋分を繋げてリフォームした所為で、外はボロいが中は分譲マンションに引けを取らない。その為、二階の狭い四部屋と比べて家賃が跳ね上がってしまい、借り手がつかないと言う。元に戻すにもコストが懸かる事もあり、大家は半ば諦めていた。

「は〜。焼きながら食べてたからかしら、何だか食べた気になんなかったァ」
「ママ、パパの秋刀魚を半分こしよう」
「あらん?それだとシューちゃんは三匹しか食べられないじゃない、イイのょ。仲良く4匹ずつにしましょ」
「母、大根おろしは足りてる。ご飯が足りない」
「きゃ!やっぱり6合じゃ足りなかったわねィ、大根サラダがあるからギリいけると思ったのにィ。…明日お米買いに行かなきゃ」

ネクタイを解いて腹を撫でている父親を横目に、息子は空っぽの茶碗に大根サラダを盛りつけた。何本の大根を刻めばこの量になるのかと言うほど豪快に盛りつけられていたサラダボールは、それで空になる。

「ふむ。流石は成長期だ。俊、父さんの秋刀魚も食べて良いぞ」
「頂きま」
「アンタ食べながらお腹鳴らしてんじゃないの。しょうがないわねィ、余った骨をお煎餅にして、明日の朝ご飯用に仕込んどいたうどん茹でたげる」

そう言えば、ベランダで七輪を扇ぎながら何かを踏みまくっていたなと思い出した男共は、あれがうどんのタネだったのかと同じ様な仕草で頷いた。どちらも似た様な顔立ちである為、まるで双子の様だ。

「シューちゃん、おビールあるわょ。新聞屋さんに貰った発泡酒だけど。サラリーマンって毎晩おビール飲んで仕事のストレスを忘れるもんでしょ?」
「そうか」
「父、酔っ払って母に暴力をふるったら死ぬかも知れない。その時は母じゃなく俺を殴った方がイイ」
「…息子よ、パパの酒癖は悪くないから心配するな」
「七輪って便利ねィ。このままお鍋乗せたら揚げるも茹でるもガス代要らないじゃない、お財布に優しすぎざます!」

いつでも一人で騒がしい母親は、火が着いたままの七輪を部屋の中に運んでくると、冬は炬燵に替わる卓袱台を足で部屋の隅に蹴り退かし、まな板に乗せた生地をバイオリンの様に肩に担いだ。

「今から麺をがっつり放り込んでくから、浮いてきたらお皿に取ってドレッシングで食べなさい。シューちゃんのおつまみは後で骨煎餅作ってあげるわょ!」

しゅばっと包丁を握り締めた母親の笑顔は、単純に怖かった。にこにこと頷いている父親には何か別のものに見えているに違いないと、遠野俊は真顔で考える。
息子の気持ちなど知った事ではない母親は、しゅぱぱんと削る様に細ぎりにしたタネを鍋の中に放っていった。ぱちゃんぱちゃんと湯が跳ねるので、七輪の周囲はデンジャラスゾーンだ。

「母、それはうどんじゃなくて雑なワンタンな気がする俺は、間違ってるのか?」
「息子よ、あれは刀削麺と言う。生地を沸騰した湯の中に削り落とすエンターテイメント豊かな調理法で、中華料理の一種だ」
「そうか。覚えた」
「偉いな」

母親曰くドレッシングは、大根サラダにぶっかけたポン酢である。遠野家では酢と醤油を混ぜたものをドレッシングと言って憚らないので、突っ込む者はない。

「そう言えば、今年の夏は満月が4回あるそうょ。俊、アンタの誕生日が丁度ブルームーンだって」
「ブルームーン…青い月が見える?」
「違うわょ、1シーズンに4回満月がある時の3回目の事をそう呼ぶの。詳しくは自分で調べなさい!」
「判った、図書館で調べてくる」
「ああ、閏年で月の周期がズレたのか。思い出すな、俊が生まれた時は月隠だった。産まれるのを待っている間、外は真っ暗で…」
「あらん?そうだっけ」

餓えた息子はワンタンじみた麺に舌鼓を打ち、はち切れんばかりの腹を抱えて倒れた。

「…母、悔しいが今夜も俺の負けだ。もう食べられません、ご馳走様でした」
「くぇーっくぇっくぇっ。子供は遊んで食って寝れば育つもんざます、ちょろい小僧だぜ!」

今夜もまた、母親の勝ちだ。



「ブルームーン…」

それは赤い瞳を持つ銀に煌めく白い宝石と、どちらがより神秘的なのだろうか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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