帝王院高等学校
大人には子供には判らない悩みがあります
その日は何処かで猫が鳴いている、月のない夜だった。
無機質な街灯だけが頼りの路地裏に、倒れ込む男達の中で唯一立っている男は、闇に融ける艶やかな黒髪を無表情で掻き上げ、ただの一言も喋らぬままに足を踏み出した。

「化け物、が…!」

辛うじて意識のあった男の、畏怖と非難に揺れる恨み言は届いたのだろうか。
街灯の下、ゆらりと振り返ったその背中は、逆光でその表情を覆い隠したまま。ふらりと、片腕を上げたのだ。


「かごめ、かごめ」

囁く様な声に、最早誰も口を開こうとはしない。
20人は居ただろう男達は、ただ一つの傷もなく息を上げるでもなく、ましてやこの状況で歌っている様な相手を前に、とうとう微かな気力を失ったのだ。

「籠の中の鳥は、いつ、いつ、出やる」

歌う声は徐々に遠ざかり、全ては夜の向こう。
静寂が訪れて尚、血まみれの男達はただただ、祈る様に息を潜め続けた。









バータイムのカルマは客層が昼間とはがらりと違う。
慌ただしいランチタイムには幾らかアルバイトを使っているが、ランチ後の休憩時間を挟んで再度門戸を開いたカフェは、メイン照明を落とし壁のランプシェードから零れる淡い青系統のライトを基調に、ボックス席を囲む水耕栽培のハーブ達を照らす様に施されたLEDイルミネーションで幻想的に彩られた。

「マスター、いつもの」
「お前はカルピスでも飲んどけ」
「はあ?カルピスって…餓鬼の使いじゃないんですけどお」
「じゃ、ホットミルクか」
「…カルピスのミルク割り!」

カウンターの左端、レジの真横に当たる席には星形のクッションと、その上にカルマ幹部で最も長身な男が猫背で腰掛けている。白い制服を纏っている昼間とは違い、夜は私服で店を営んでいる店長は、カウンター越しに不貞腐れている神崎隼人を認め、マドラーで掻き混ぜながら肩を震わせた。

「随分可愛くなっちまったな、隼人。最近は仲間から闇討ちされなくなったか?」
「マジ眼鏡掛けてる奴ってろくなの居ないよねえ。…知ってんならやめさせろっつーの、雇われが」
「餓鬼に凄まれても恐かねぇな」
「あは。流石、ヤクザに売られそうになってた元ホストの台詞は違うねえ」

つい先日盛大にバースデーを祝われたばかりの新入りは、痛々しいほど脱色した金の襟足をヘアゴムで纏め、素浪人の様な風体で吐き捨てる。
グラスの下にコルクコースターを敷きながら可愛いげがないと肩を竦め、眼鏡を押し上げた店主は小袋に入った豆菓子をカウンターへ放り投げた。

「ま、ファーザーが居ない時でも顔を出したって事は、上手くやってるっつー事だろう。子供は子供らしく、友達をバンバン増やしていけ」
「あのさあ」
「ん?」
「俺ねえ、…おめーみたいな知ったか振りする若年寄りがいっちゃん嫌い。無駄口叩いてないで皿でも洗えば?」

何と可愛いげがない子供だろう。
一般的に、この様な状況では『嫌な顔』をすべきだろうと思ったが、ぷいっとそっぽ向いた隼人はもうこちらを見ていない様だったので、榊は表情を変えなかった。
可愛いげがないとは思うが、それでも自分の息子に比べれば格段にマシだろう。流石にそれは口には出さなかったが、月のない夜は自我が外に零れ易いのは困ったものだ。

「さて、ラストオーダー貰いますよ。シゲさんは焼酎ロック。ゲンさんは…って、起きて下さいゲンさん、寝たらまた奥さんに叱られますよ」

バータイムとは言え商店街の中なので、営業は長くても十時までで切り上げている。九時半を回れば最終の注文を窺い、家では肩身が狭い常連が寝入って起きなければ、背負って連れて帰る事もあった。
この日は然程深酒しなかった客らは陽気な表情で、暗い中を家路に着いていった。それと入れ違う様にぞろぞろと姿を現したのは、大量の荷物を抱えたいつものメンバーだ。

「ヒーっ、もうこんな時間かよ!うちの副長やべーって、俺ら8時過ぎまで授業だっつーのに、それから買い出しに連れてくか普通?(;ω;`) 完全に虐待っしょ!(ヾノ・ω・`)」
「あの、ケンゴさん、ユーヤさんが立ったまま寝てるけど…。起こしても起きない」
「北斗、じゃなくて北緯だっけ…?あー、もー、何でABSOLUTELY幹部の弟なんか入れたんスか、副長!(; ´艸`)」
「あ、あの、その」
「紛らわしいからオメー今からホークな?(´°ω°`) キィは総長だけの呼び名だしよ(ヾノ・ω・`)」

大量の袋を抱えた健吾と北緯が、客が引けたばかりの店内に入るなりボックスに崩れ、口に袋を咥えた作業着の三人が鼾を発てている裕也を担架宜しく抱えて入ってきた。
一人で先に来ていたカウンターの隼人は『働かざるもの食うべからず』のカルマ憲法の元、先程まで客が座っていた席のグラスなどをトレーに乗せ、無言でテーブルを拭いている。

「要はどうした?」
「あ、カナメさんは外で女と揉めてます。呼び戻しますか?」
「放っとけ。おい健吾、裕也を叩き起こして荷物片付けろ。ナミオは隼人の手伝い、その他は静かにテラスの掃除だ。騒いで余所様に迷惑掛けたら、連帯責任で全員ぶっ飛ばす」
「えー!Σ( ̄□ ̄;) 俺ら今まで買い出し付き合ったのに?!くたびれたっしょ、休ませろし!」
「あ?テメー、この俺に逆らうつもりかコラァ。働かざるもの、」
「うひゃひゃ…食うべからず?やりゃー良いんしょ、やりゃあ!ちっきしょー、人使い荒いんだもんな…(´;ω;`)」

帝王院学園の進学科に所属する幹部らは、カルマの中では平等だ。学園内では媚びへつらわれる立場ながら、カフェの中では副総長にしてオーナーの嵯峨崎佑壱ですら掃除に精を出す。
何もしなくても腹が減る年頃の彼らは、常になく真面目に短時間で片付け終えると、眠たそうな表情であちらこちらに転がりながら、腹が減ったと合唱した。

「良し、夜食に素麺茹でるか。凝ったもん作ってる暇ねぇしな」
「明日日曜なんで油替えするでしょ?余った野菜と肉で天ぷらでもしますか?」
「「「いやっほー!天ぷらだー!!!」」」

現金なものだ。
今の今まで倒れていた子供らの騒がしさに、厨房へ足を向けていた佑壱と榊は目を見合わせて肩を竦める。態度こそ悪いが、店のモップ掛けを念入りに済ませた隼人の目が何処となく輝いているのを認めた佑壱は、エプロンを腰に巻きながら鼻で笑った。

「メインディッシュはイカ天と海老天、後は仕入れてきたばっかのフルーツトマト天だ」
「トマトの天ぷら?!(°ω°)」
「マジっスか、それ食えるんスか」
「ふん、ケツの青い奴らだ。良いか、噛むとあっつあつの甘酸っぱい汁が滴り落ちる、外パリパリの食感を思い浮かべてみろ…」

声を潜めた佑壱の台詞に、暫し沈黙した男達は次々に口許を拭う。限界を越えた空腹を前に、まともな思考力は存在しない。

「あー、全然判んねーけどうまそうだぜ」
「もう何でも良いから口に入れたいっしょ(*´3`)」

からん、と。
ドアベルが鳴いた。
戸口へ目を向けた皆は、頬に手形を浮かべた青髪を見やり囃し立て、すぐに大人しくなったのだ。


「通りゃんせ、通りゃんせ」

どさりと崩れ落ちた錦織要の向こう、笑みで目を細めた黒髪の男が佇んでいる。腹を押さえたまま苦悶の表情で顔を歪めている要は声もなく呻き、賑やかだった店内は水を打ったように静まり返った。

「…静かな夜だ。耳を澄ませると、猫と女性の泣く声が聞こえてきた。遠くの様で、近いようでもある。それは現世か常世か」

その声が一歩進む事に、世界は音を失っていく様だった。
開いた瞼の裏、漆黒の眼差しは何の感慨もなく店内に注がれる。けれど血まみれの男は、何を見ている風でもないのだ。ただ、目を向けているだけだった。その瞳には何も映っていない。

「月はなく、星もない、ただ息を潜めて朝を願う寂しい夜だ。遠い朝を待つ間、眠る様にたゆたいながら、歌う様に話をしよう」

月に一度、銀皇帝が闇に染まる新月。
その日のみ彼は暗黒皇帝と呼ばれ、人の枠組みから逸脱し、まるで神の様に慈悲深く囁くのだ。

「初めまして、俺の大切なカルマ達」

そうして今夜もまた、彼はそう囁いた。
彼の言う『初めまして』の意味を理解している者など、恐らくこの世界には存在しないだろう。

「今夜もまたお前達の物語を俺に分けてくれ。…何故ならば俺は、眠る様に立ち止まったまま、いつか歌う日を待っている」

その声を聞いた誰もが、起きながら眠っているかの様に、下がりゆく瞼に身を委ねた。














ああ、蝉が鳴いている。
まるで歌う様に、それは運命へ捧げる愛の歌。



俺は初めから一つの狂いもなく俺だった。
けれどそれは、作者の後付けでしかない。


主人公には必要のないものだ。
家名も家族も過去も、主人公には何一つ必要のないものではないか。ならば抱えた全てを捨てねばならない事に気づくだろう。俺がこの世で最も大切なものさえ忘れなければ、間違える事などありはしない。

例えばこの物語の歯車が、万一噛み合わない事があったとすれば、それはそれが運命だっただけ。


俺は結果を知っている。
美しき悲劇に辿り着く運命の物語。実らぬ愛こそが美しいのだ。俺は己の身に合わない愛が手に入るなどとは考えていない。俺は己の愛が報われる事など考えた事もない。願った事もない。祈った事もない。

だから、与えられる事を望みはしない。



ただ判りきった結末を迎える前に、約束を果たしたかっただけだ。













「…とんでもねぇ安請け合いしちまった」

凄まじい目付きに睨まれながら、どうしたものかと彼は天を仰いだ。
両手足を縛られ転がされながらも、恐ろしい目付きで睨んでくる白髪混じりの男は、暴れ続けて埃まみれのスーツに構わず、今尚ビチビチと釣れたてのマグロ宜しく跳ね回る。

「ちょ、暴れないで下さい!丁重に見張ってろって言われてるんですから!怪我なんかさせたら、自分が初代から叱られるんですよ…?!」
「もがー!ふがががー!ぐるぐるる…!」
「ああ…このオッサンかなりヤバい奴だ…」

此処に来た時にはもう、縛られた男のものと思われる眼鏡は無惨に転がっており、落としたのか踏んだのか、レンズが片方外れていた。後ろ手に縛られているにも関わらず転がり回るスーツの男は、白髪こそ多いものの40代程度思われる。

「あ、ちょ、落ち着いて下さいって…!ほら、暴れっから財布落ちましたよ!」
「わうわうわう!がう!」
「犬かよ…」

高等部三年Eクラス平田洋二、夜明け前から発生している校舎の水害騒ぎで引っ張り出された工業科の一人である彼は、担任の教師から頼まれた機材を取りに行く道中で呼び止められ、現在に至るのだ。
現在地は校舎から大分離れた山中、一括りに工業科と呼ばれているが、やっている事は大半農業である彼のホームグラウンドでもある菜園の傍らにある、山小屋の中である。

「う…う…ごほっ、ごほっ」
「…大丈夫っすか?猿轡に亀甲縛りと来れば、そりゃ暴れたくなりますよね…」
「うう…」
「同情はします、本音は助けたいと思うんですが、こっちも事情があるんです。すいません、出来るだけ大人しくしてくれませんか?」

校舎裏手の高台にあるテニスコートから、まだ山の中に入った場所にある小屋は、通常は講師兼用務員が待機していた。基本的に教職員はリブラ南棟で寝泊まりしているが、学園内とは言え片道20分以上懸かる為に、いつからかこの小屋を宿舎代わりに利用し始めたらしい。
山小屋とは名ばかりのロッジ風の造りで、風呂こそないがトイレとシャワーは設置されており、暮らせない事はない。年々高齢化しつつある講師陣の体力を鑑みても、利便性は抜群だろう。と言っても、年配の講師らはトラクターやセグウェイを乗り回しているので、生徒の立場からしてみれば笑い話である。

「っと、初代は何を考えてるんだよ。卒業前に、ヤバい事に巻き込まれるのは勘弁なんだが…」

講師の大多数は、テニスコートとは反対側の記念碑の丘を下った先にある帝王院財閥本宅と往復し、食堂で使う野菜を栽培しながら、農業コースの生徒らの教員も兼ねていた。
大抵が地方で農家を営んでいたがリタイアした人々で、栽培のノウハウを教える講師扱いになっている。中にはそこそこ若く、教員免許を持っている人も居るので、彼らは校舎で教鞭を奮う事もあった。

「…あの、何か飲みます?亀甲縛りは外せませんが、猿轡だけなら大丈夫だと思うんで。あ、これ財布、ポケットに入れときますね?」
「うう…」
「あ、名刺も落ちてました。…一ノ瀬さんって言うんですか、これもポケットに失礼します」

最上学部の別キャンパスに農学部もある為、新歓祭の期間中は全ての講師達がそちらへ移動していて、今は無人だ。
人様の冷蔵庫を勝手に開けるのは気が引けるが、平田にしてみれば勝手知ったる講師らの仮住まいである。畑に顔を出す度に、作業で疲れた生徒らの憩いの場所にもなっている小屋の中で、遠慮などない。

「あちゃー、…大したもんねぇな。あの、何でも良いですか?」
「う」
「ほいじゃ、良いっすか、タオル外しますから暴れないで下さいよ?マジで年上を殴ったりとかしたくないんで…」
「う。う」

申し訳なさそうに頷いた男のタオルを外してやれば、怒鳴られるくらいは覚悟したものの、大きく深呼吸した男は大人しく体を起こした。
両手足を縛られた上に、羞恥を煽るだけの厭らしい縛られ方をしているが、器用に胡座をかいている。

「…君、工業科か」
「あ、えっと…」
「別に後から報復したり理事会に訴えたりしない。どうせあの人から脅されたか何かしたんだろ?あの人を人と思わない、下劣な眼鏡に」
「す、すいません。三年の平田です…」

ああ、流石は大人の男と言いたい所だが、彼の怒りはその静かな口調からも滲み出ていた。亀甲縛りと言う笑いを誘う姿だが、笑う事を許さない凍えた雰囲気を放っている。

「手は解いてやれないんで、このまますいません。お茶、良かったらどうぞ」
「悪いな。怒りで喉が乾いてたんだ」
「は、ははは…」

ペットボトルのキャップを捻り口元へ運んでやれば、男は大人しく口をつけた。噎せ込まない様に注意しつつ幾らか流し込めば、満足げな吐息が零れる。
仕立ての良いジャケットの上からロープで念入りに縛られてはいるが、出来る男と言った雰囲気だ。

「あのド腐れジジイ…こほん。小林さんとはどう言う関係なんだ?」
「初代は昨日お会いしたばかりで、何とも…」
「さっきから言ってたな。その初代と言うのは何だ?」
「あ…自分らレジストと言うチームで頭やってて、あの人は俺らのチームの創設者で初代総長なんですよ」
「…レジスト?聞いた事ないな」

どうやら目が悪いらしく、目を細めたり眉間に皺を寄せたり忙しない男を認め、落ちていた眼鏡のフレームを拾う。外れていたレンズを窺えば、傷などは見当たらない。
パコッと嵌め込めば、若干つるが歪んでいるものの、掛けられない事もない様に思えた。

「あの、もしかしてOBの方ですか?」
「俺か?そうだ。チームとかには入ってなかったけど」
「先輩も工業科ですか?」
「や、俺はSクラスだった」
「ブッ」

ティッシュでレンズの汚れを磨いてやりながら、想像だにしなかった台詞に吹き出す。卒業生とは言え、元進学科の人間をこんな山奥に監禁するのは幾ら何でも大事件だ。大先輩ながら、曰く『あのド腐れ』は何を考えてるのかと思う。

「え、Sクラスってマジっすか?!ちょ、本当に後から訴えたりしないで下さい…!」
「ああ、約束する」

怯えながら眼鏡を掛けてやれば、男は少しばかり目付きを和らげ、軽く頷いた。目付きの悪さは視力による所が大きいらしい。

「君に恨みはないよ、安心しろ。出来れば俺を解放して欲しい所だが、若い子に叶を敵に回させる訳にはいかないからな…」
「叶?」
「あの腐れ小林の本名は叶と言うんだ。確か君と同じ三年生に同じ名字の生徒が居たろう?その子の叔父になる」
「か、叶って、じゃあ初代は白百合の身内なんですかっ?!うっわ、最悪…!ABSOLUTELYに弱味握られたらやっべーな…」
「ABSOLUTELY?何だ、まだあるのか」
「…え?レジストは知らないのに、ABSOLUTELYは知ってるんですか?」
「知ってるも何も、ABSOLUTELYを作ったのはうちの会長と専務…あ、いや、忘れてくれ」

しまった、と言う表情で目を逸らした男の台詞を硬直したまま反芻し、レジスト副総長は魂を抜かした。もしかすると、今の状況はSクラスがどうの所の話ではない、と言う事か?

「………あ、あの、本当の本当に後からABSOLUTELY率いて俺の所に総攻撃とかしないっすよね?!」
「するか!お前は俺を何だと思っているんだ!」
「怖い人!」
「ばっ、俺が怖い?!俺の何処が怖いんだ、俺より明らかに守義さんの方が怖いに決まってるだろう?!」
「は?!誰?!」
「ああ、もう、今頃滅茶苦茶怒ってんじゃないかなぁ…!迂闊に拉致られたりして、もし俺を探して秀皇を放っぽってたりしたらどうしよう、今度こそ榛原に殺される…!」
「こっ、殺されるって?!」
「その前に言う事があるんじゃないですか?」

がつんっ、と言う音と共に、木で作られた出入口のドアの下半分から人の足が飛び込んできた。何事だと声もなく飛び上がった平田の隣、ビクッと震えた男の弛い眼鏡がズレる。

「私以外の男についていくなと口が酸っぱくなる程言い聞かせてきたつもりでしたが、理解していなかった事に対しての謝罪と、弁解出来るのであれば言い訳を言ってみなさい」
「弁解はしません、無理に連れてきて貰ったのに甘かった俺が油断しただけです、ごめんなさい」
「素直で宜しい」

どうも老眼らしい男は、眼鏡がズレても問題なく見えている様だ。余りの出来事に言葉もない平田を横目に、下半身だけ突き出ている戸口を呆れ顔で眺めた。

「…ふぅ。あの野郎、敢えて私を畑に転がしてくれたお陰で、たった数段の階段を登るのに苦労しました」
「それで汚れてるんですか。頭に葉っぱついてますよ、専務」
「どうして小屋の入口に階段を付けようと思ったんでしょうかねぇ。時代に従ってバリアフリーにするべきです。時の流れと共に中央委員会役員の質が下がったとしか思えません」

まるで簑虫の如く、ロープで簀巻きにされている男が、仰向けで這いながら壊したドアを潜り抜けてきた。
肩から足首までしっかり巻かれているからか、背中を下にしたまま、膝を曲げたり伸ばしたりしながら、ズリズリと進んでくる光景はホラーだ。笑える光景なのに少しも楽しくない。

「ふぅ。参りましたね、これでは寝返りも打てない」
「そうでしょうね。…で、それどう言う状況なんですか?」
「お前が見つかったと言われて迂闊にも油断しました。安心しなさい、あの男は必ず苦しませて殺します。この際、叶を根絶やしにしましょう。明神に喧嘩を売った事を必ずや後悔させますよ…ふふ…ふふふ…」

割けた木板で眼鏡を落としつつ、平田を穏やかな笑顔で見つめながら裸眼で宣った男は、怯える平田の元までゴロゴロと転がってくる。
なまじ顔立ちが整っているだけに、気味の悪い光景だ。

「ひっ」
「…おや?何だか少し見ない内に若返りましたか?まさかまた何処ぞの男を引っ掛けたんじゃ、」
「アンタが話し掛けてるその子は俺じゃないし、『また』ってどう言う意味?ねぇ、叶より明らかに性格が歪んでる小林専務、『また』ってどう言う意味です…?」

まるで鬼の様な笑みを浮かべた白髪混じりの男に、ごろっと振り向いた簑虫はその弾みで眼鏡が元に位置に戻り、暫くして真顔で宣ったのだ。

「自分の胸に聞け。何だその姿、欲求不満ですか?」
「ひ、酷い…!大体これは不可抗力だろ?!昔の話をいつまでほじくるんだよ!お、俺ってそんなに信用ないの?!」
「あると思ってるんですか?」
「うっうっ」

何が何だか把握しきれない中、レジスト初代総長と目の前の簑虫の顔立ちが驚くほど似ている事だけは判る。

「大方、そこの子供と変な遊びでもしてたんでしょう?お前は昔からDクラスEクラスを侍らせて、女王気取りだった」
「何十年前の話だよ!」

兄と舎弟らを人質に取られた所為で、朝っぱらから大事件に巻き込まれている様な気がした哀れな生徒は、ひとまずどうやって逃げようか密かに頭を回していた。




















「Oh、神聖なハイスクールが大変デース」
「あたしの愛しいジャンプスーツが困ってマース、アイニージュショーカキ!」
「プリティーヒップな鈴木ティーチャー、貴方の老後はワタシに任せて下サーイ」

どすどす慌ただしい足音が近づいてくる気配に、気を取られた瞬間、何かに躓いて転びそうになった。慌てすぎたと落ち着く為の深呼吸一つ、条件反射で目を向けた足元に落ちている白い何かへ手を伸ばす。

「何や、お面の屋台なんて出てたかいな?可愛いスヌーピーやん、…お、あっちにも落ちてる」
「あ、東雲先生。おはようございます」
「おはよーさんです、矢田先生。あっちゅー間に大変な事になったそうですね?」
「そうなんだよ、やっと第二キャノンの点検が終わってね。一息吐きたい所なんだけど、あっちの被害は見たかね?」
「第四でしょ?ブルーシートで完全包囲してたんで、状況を一通り調べるついでに一回りしてました」

並木道を越えた先、中央校舎へ続く緩やかな階段を登らずに芝生に覆われた外庭を歩くと、左回りで第三キャノン、右回りで第二キャノン方面に辿り着く。校舎外周が1km程あるので、体育科の生徒がランニングコースにする程だ。
その為、通常、生徒らは階段を登り改札口から離宮に向かう事が多く、中央校舎の地下からであれば一本道の最短ルートでそれぞれの校舎に向かえる上に、夏は暑くなく、冬は寒い思いをしないで済む仕組みだ。よって帝王院学園の制服は四季通じて衣替えがなく、式典時以外での私服登校が認められている。
髪を染めようがアクセサリーで飾ろうが、真面目に出席日数を稼ぎ、最低限の成績であれば卒業する事が可能な実に自由な校風が、社会に出た後で型にはまらない考え方を養うのだ。

「けったいな重機が見えましたけど、どないな具合なんです?」
「第四・第五の電気系統は壊滅的だね、あっちはテニスコートのナイター設備と同じ、主要アンテナに繋がってるケーブルで供給してたから…」
「あ、さっきちらっと聞きました。アンテナが落ちたて」
「第五キャノン地下の配線基板が壊れたらしい。あっち側は鈴木先生を筆頭に、腕のあるメンバーに任せてるんで、ひとまず安心だろう」
「Eクラス大活躍ですか。こんな時こそ、受け持ちの生徒に手伝わせたい所ですが…」
「冗談はやめて下さい東雲先生、Sクラスの生徒を巻き込んだら後が怖い…」
「Sクラス言うたかて、中身は十代の子供でっせ?腹も減れば、授業中に漫画読んだりもしますよ?」
「ああ、天の君ですか…。彼にも困ったものですね、東雲先生」

ほとほと困り果てた表情の教師に、東雲村崎は眉を潜めた。何か迷惑を掛けたのだろうかと考えたが、どうもそうではない様だ。

「彼が中央委員会を罷免すると言った話で、職員室は持ちきりだよ。幾ら左席委員会会長でも、過去にリコール実績はないんだ。遊び感覚でリコールを持ち出されたら、下院が機能しなくなる」
「いや、その程度でどうにかなる理事会じゃないでしょ?」
「然し陛下が理事長に就任なさったんだろう?」
「………は?何の話です?」
「帝王院理事長が引退して、ご子息の陛下が跡を継いだと聞いたけど、違うのかい?」

怪訝げに首を傾げた教師からは、嘘や冗談を言っている様な気配はない。無言で考えを巡らせた東雲は答えを出す事を諦め、作業に戻っていった教師に手を振った。

「あ、そうだ東雲先生!」
「はい?」
「早ければ後期にでも、先生のクラスに問題児が戻ってくるかも知れないよ」
「は?問題児て、誰の事です?」
「大河朱雀だよ。内密にお願いしますよ、実は彼の父親が来日したそうでね。それじゃ」
「えー、嘘やん。皇子と山田様だけでも死にそうなんに、とどめに大河かいな…」

いずれ東雲財閥会長になる男は、小豆色のジャージを意味もなくさすり、遠い目でスヌーピーのお面を眺めたのだ。


「村ぱち先生、ファイトやで…」

これ以上問題児が増えるのは、担任の精神的に辛すぎないか?

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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