帝王院高等学校
男の思春期は長く尾を引くのです
音を発てる電気シェイバーを片手に、もう片手で散った首筋から肩口に至るまでの毛を叩き落とした男は、湯船でぐったりと倒れている人を見やり、シャワーのコックを捻った。

「こらこら、寝返り打つと溺れるぞ」
「う…?う、ん。ごめ、ゆーちゃん…」

背が高いだけに手足の長い体躯には、目も当てられない程のキスマークが散っている。男らしく抱えて連れてきたのは良いものの、このまま寝かしてしまうと運び出すのは難儀だ。

「もう出よう。颯人、俺に掴まって?」
「ん………ぇ?」
「何?」
「髪は?!」

うつらうつら船を漕いでいた瞳が見開かれ、信じられないものを見る目で凝視してくる。どうやら完璧に眠りは覚めたようだが、今度は違う意味で溺れ掛けている恋人を慌てて引っ張りあげながら、さっと体をシャワーで流してから湯船へ降りた。

「さっきはカーッとなって辞めるっつったけど、その前に沢山の人に謝らないといけないって思ったんだ」
「う、うん」
「反省の気持ちを伝えるには、まずこれかなって」
「だからって柚子姫がスキンヘッドなんて…!」
「変?」

何とも言えない表情の恋人へ首を傾げれば、心優しい彼はふるりと首を振る。然しわざとらしいほど目が合わないので、頑なに振り返らない背中を何ともなく眺めていると、何だかムラムラしてきた。
仕方ないだろう、大人の階段を登ってしまった18歳など、誰しもこんなものだ。多分。

「颯人、坊主の俺は嫌い?」
「き、嫌いとか思ってないよっ?」
「じゃあ、何で俺の事見ないの?やっぱりしつこかった?尻軽の癖に童貞捨てた途端彼氏面すんなって思ってる?」
「違っ!だって…もにょもにょ」
「もにょもにょ言ってるの可愛いね。誘ってる?」
「違っ…わないけど、違う!は…恥ずかしいんだもん…」

ムラッとした下半身を湯船の中で宥めつつ、膝の上に乗せようとした恋人の長い足に舌打ち一つ、

「高坂君みたいな舌打ちした…」
「…は?俺をあのヘタレと一緒にしないでよ。…じゃない、忘れて。ごめん、今のは八つ当たり」
「ん」
「信じられないかも知れないけど。これでも俺なりに、頑張ってたつもりだったんだよ」

抱っこしたいとは言い出せず、二人ではやや狭い湯船で膝を抱えてみる。学年上位は一人部屋とは言え、空室の帝君部屋に比べれば狭いものだ。本来三年帝君部屋である筈の場所は、いつの間にかソファとテーブルが置かれた談話室に摩り替えられている。それを誰も気にする事などない。

「…つもりじゃ、ね。俺は最初から最後まで高坂が憎かったんだ。今になってみると言える事だけど」
「ゆうちゃん?」
「アイツが昇校して来なければ、お前があんな目に遭う事はなかった」
「それは違っ」
「判ってる、でもそう思ってしまうのをやめられなかったんだ。守ってやれなかったのは俺だって同じだったのに、今でも心の何処かで恨んでるんだ。だから目が鈍った」

帝君は絶対であり、中央委員会は絶対であり、唯一神は人の形をしている、ただそれだけの話だ。何処かで間違えた。

「嵯峨崎佑壱を傷つければ、高坂を俺と同じ気持ちにさせられるんじゃないかって思ったんだ。…本当に馬鹿」

カルマに入り込めれば、と。
企てて、ミイラ取りがミイラだ。学園外に神など存在しないと思っていた。井の中の蛙が見たのは、洗練された指揮者の姿をした、夜に生えるもう一人の神だったのだ。

「シーザー見た事ある?」
「ポストカードとかネットはあるよ。最近学園に来てたんだよね?…僕、その時は陛下のご命令で星河の君を監視してたんだ」
「隼人が捕まった時の事か。自力で逃げたんだろ?王呀の君が怪我したって聞いたけど」
「高野君が殴り込みに来たよ。王呀の君の怪我は、白百合閣下が…」
「いまいち状況が判らないんだけど、何で王呀の君を傷つける必要があったんだろうね。…クラスメートじゃなかったら近寄りたくもない、叶は頭が可笑しい」
「はは…」

二葉をまともだと思っている者は、少なくとも三年生には居ない。

「陛下とは違う意味で、神様みたいだった。どうしても一度、話を聞いて欲しかった」
「シーザーに?」
「うん。…許されたかったのかも知れないね。陛下よりずっと人に近くて、誰もを受け入れてくれそうに見えたんだ」
「ね、紅蓮の君に何したの?」
「それに関しては未遂だよ、今の所は」
「今の所?」
「王子の酔狂が過ぎた。いや、高坂も被害者なのかも。真相は判らないけど、嵯峨崎が王子に言い寄ってるって言う話が、隊員達の間で流れてる」

二人を近くで見ている者からすれば、可笑しい話だ。日向が言い寄っているのであれば、理解出来ない事もない。ただでさえ幼い頃から閉鎖空間で暮らしてきた妄信的な生徒が多い中、下手な噂は火がつく前に消すべきなのだ。

「なのに、それに関して高坂が何も言わないのが痛かった。表向き俺の取り決めに従ってる振りしてるけど、見えない所で暴走してる隊員は少なくない。叶みたいに完全な制圧は、力のない俺には無理だ。…それこそ自分の体を使いでもしないと」
「でもそれは、前の風紀委員長と同じ事してるんだよ?」
「………そうだね、馬鹿だった。聞きたくないだろうけど、神崎隼人が最も使える駒だと思ったよ。って言っても、直接何かをして貰う訳じゃない。ピロートークって奴。使えそうな奴の弱味を握るんだ」
「…」
「最低だと思ったろ?」

ぷくりと頬を膨らませた恋人に苦笑いを零し、膨れた頬を小突いた。本人から聞いた訳ではないが、カルマでは諜報役だったらしく、人についての知識を多く有していた隼人は最適だったのだ。
かと言って興味がある事を知られれば教えて貰えないので、いつもそれとなく聞き出すのに苦労した。
捻くれているかと思えば、時々無垢な子供の様に純粋な二つ下の後輩は、抱き合う最中よりも、事後に甘えてくる時間の方が多かっただろうか。

「好きだった?」
「隼人の事?」
「ん」
「見た目と名前だけだよ。ひょろ長くて、颯人ロスだった俺にはこれ以上ない心の拠り所だった。それだけ」

自分で剃っただけに、所々チクチクする頭を撫でながら、懺悔する様に宣う。何一つ隠すつもりはないが、吐き出す度に己の恥を晒している様に思えた。自分がこれなのだから、高坂日向は如何程なのか。

「やっぱり、ゆうちゃんは反省しなきゃ駄目」
「はい…」
「でも紅蓮の君には謝らなくても良いんじゃない?」
「へ?」

他人の恥を笑う権利などない事は、言われなくても痛いほど理解しているが、だ。

「僕、神崎君、嫌いだな」
「えっ」

湯船で長身を縮める様に膝を抱えたまま、ぷいっとそっぽ向いた頭を見つめたまま、ぱちぱちと瞬いた。それは嫉妬なのだろうか?だとしたら、身に合わない幸福を感じずには居られない。反省しなければならないのに、鼻の下を伸ばしてどうするのか。

「もう近づいちゃ駄目だからね。星河の君にも紅蓮の君にもFクラスの奴は勿論、工業科の奴らも駄目だよ」
「颯人がそんな事を言う様になるなんて…」
「ゆうちゃんに近づいた奴らは殴るから。今までずっと我慢してたけど、恋人になったらやきもち焼いても良いんだよ。陛下がそう仰ったんだ」

おいおい、待てよ帝王院神威。お前は本物の神様なのか?
いや、そんな事を考えている場合ではない。クラスメートなのにほんの昨日までまともに話した事もなかった帝君は、何年も伊坂颯人と言う人間を側仕えとして拘束していた、憎たらしい男だ。憎みこそすれ、感謝している場合ではない筈だ。

「僕が退院後に復学した事は、陛下にお願いして高坂君にも内緒にして貰ったんだよ。高坂君と白百合のお陰で、あの時の犯人は殆ど退学してたけど、本当はFクラスに何人か残ってたんだ」
「っ、嘘?!誰だよ、俺が八つ裂きにしてやる…!」
「大丈夫、退院して戻ってきた頃から中等部の2年間、陛下のバトラーになる為に鍛えたんだ。高等部に上がった頃、残ってた奴ら全員ボコボコにして、懲罰棟に放り込んでやったよ」
「は…颯人がそんな事出来るようになってる、なんて…」
「でもちょっとやり過ぎちゃって、Fクラスから目をつけられちゃったんだ。祭美月君はシカトしてくれてるけど、彼ってほら、神帝陛下をライバル視してるから…」
「何もされてない?!幾ら祭でも、颯人に手を出してたらどうにかしてぶっ殺す…!」
「大丈夫だよ。祭美月君は蘭姫の隠し撮り写真を上納すると、結構優しいんだ」

どう言う意味だと瞬いて、思い出した。
余り知られていないので無理もないが、一年の錦織要は祭楼月の隠し子だ。祭美月の腹違いの弟に当たる事は、何となく知っていた。流石に兄弟仲までは知らないが、叶二葉と祭美月が度々顔を合わせている事は勿論知っているし、叶二葉と錦織要は同じ日に外泊届が受理されている事もある。

「祭君は錦織君が心配なんだ。だから陛下が来日なさった時に敢えてFクラスに降格して、自由に動ける環境を整えたんじゃないかな」
「良く知ってるんだな、颯人は…」
「陛下がそう言ってた」
「…ちょっと。さっきから陛下陛下って、まさか颯人、アイツの愛人だったりした?」
「なんて事言うの?!陛下は僕をペットみたいに思ってらっしゃっただけなんだ!」
「ペッ?!」

帝王院神威に対する殺意で目の前が真っ赤に染まった。それに気づいた恋人は狭い湯船の中で慌てて身を翻し、真っ赤な顔で頭を振った。

「ち、ちが、そうじゃないっ。陛下はお昼寝が趣味なんだよ…。日差しに弱い方だから、完全UVの屋上庭園とか、リブラの空中庭園とか、色んな所でお昼寝なさるんだ。バトラーの仕事がある日は、僕達が陛下をお探ししてランチを運んだりしてるの」
「…ああ。じゃあ、その時に無駄話をしてるって事?仕事の締切が差し迫ると、高坂が目を吊り上げて探してるよね」
「大体見つかるんだけど、いつも陛下の推理通りなんだよ。今日は三時間で見つかるとか、全部当たってる」
「本気で隠れる気はないって事、か。あの高坂が遊ばれてるんだ。…今更ながら、凄い人だな、あの人は」
「初めて僕の所へ来て下さった時もそうだったよ。中央委員会会長になったから、罪のない生徒を辞めさせる訳にはいかないって…」
「は…?」
「『私が全て跡形もなく片付けるか、そなた自らが過去を清算するか』、選べって」

そうして弱かった伊坂颯人は、醜い傷が残った顔を鏡で初めて真っ直ぐ見つめ、選択した。己でけりをつける、と。

「アメリカに連れてって貰って、手術を受けたんだ。整形手術が成功して傷が目立たなくなると、ストレスで見えなくなってた目が完全に見える様になった。Fクラスのカリキュラムにある武術の授業を特別にマンツーマンで受けさせて頂いて、…一番辛かったのは、東雲先生のフリースタイルアーツだったかな」
「東雲村崎先生の個人レッスンなんかあるの?」
「財閥の長男として、昔から徹底的に鍛えられたって。先生のお婆様が大の格闘技ファンで、お母様も若い頃は自衛隊に入ってた事があったそうだよ」
「はぁ〜…?何それ、初めて知った」
「だから先生は、武術を通じて交流する外の学生に憧れたんだ。いつか財閥を継ぐ時までは好きな事がやりたいと思ってたけど、結果的に、教師として学園に戻った」

それには何か事情があるのだろうかと思ったが、それ以上の事は知らない様だ。選りすぐりの教師陣の中でも異端である東雲村崎は、歴代碑に名が残る、在学当時中央委員会会長だった経歴を持つ男である。生徒内にも隠れファンは存在するが、何せあの服装なので、表立って騒ぐ者はない。

「そんな権利ないって判ってるのに、俺は陛下に嫉妬してしまうよ。颯人を守るのが、どうしていつも俺じゃないんだろ…」
「僕だって男だよ。ゆうちゃんより大きいし、こう見えて一応、Fクラスの生徒だし」
「…光炎親衛隊隊長なんて言っても、知らない事ばかりだ」

反省に後悔を織り混ぜたぼやきを漏らせば、伸びてきた手が頭を撫でた。チクチクする、と微かに笑った声を見上げれば、淡い笑みが網膜に写り込む。幸せ過ぎて泣きそうだ。

「あの紅蓮の君をどうにかしようなんて考えるくらいだもんね。思うんだけど、彼は神帝陛下の従兄弟だよ?」
「…でもそれを忘れるくらい、紅蓮の君には存在感がある。カルマの副総長ってだけでも手に負えないのに、本当、何で制裁しようなんて思えるんだろう」
「そこまで追い詰められてるのかな、皆。大好きな高坂君が嵯峨崎君に取られちゃうかもって、心の何処かで気づいてしまったとか」
「…多分それが正解だ。だから俺も、高坂が憎くて仕方なかった。最近だ。前までそんな事なかったのに。高坂が部屋に誰かを泊まらせるなんて、今まで俺達親衛隊員でも有り得なかったから…」

今のは未練がましかっただろうか。ざりざりしている剃り残しを撫でていた手が、ぴたりと止まる。

「ゆうちゃん、やきもちの顔してる。やっぱり高坂君が好きだったんだね」
「って言うか、多分、兄貴みたいな感じだよ」
「ゆうちゃんが高坂君のお兄ちゃん?」
「颯人があんな目に遭ってから言わなくなったけど、高坂の片思いがずっと続いてる事は近くに居た俺が一番知ってたからさ。だって、派手すぎて趣味じゃないとか言ってた癖に捨てないでクローゼットに仕舞い込んでたお母様手作りの着物を、あのムッツリスケベ、嵯峨崎に着せてたんだ!」
「わー…」

お茶会の席に待ち兼ねた日向が姿を現し、鬱屈していた隊員らを癒す会になる筈だったのに、何故かそこへ乱入してきたのは、あられもない姿の嵯峨崎佑壱その人だったのだ。
ただでさえ良からぬ噂で一喜一憂していた隊長らは凍りつき、均整の取れた絞まった褐色の肌に着物一枚羽織っただけの男を担ぎ、王子様は颯爽と消えた。隊員の誰一人として、何のフォローもせずに。

「目の前が真っ白だよ。他の隊員が暴走し過ぎない様に、天の君への悪を俺が買って出てた。…国際科の奴を利用して、交互にね。その所為で隊員の中に『帝君だろうがバレなきゃ良い』って言う考えが産まれ始めてて、風紀が目を光らせてる時の君よりも嵯峨崎の方が手を出し易いって考えが産まれたのも仕方ないのかも知れない」
「…追い詰められて、判断が出来なくなってる?」
「そして俺には止める力がない。嵯峨崎相手に神崎隼人は何の役にも立たないし、シーザーには一度も会えなくて、とうとう俺こそ、帝君だろうがバレなきゃ良いと思ってしまった」

八つ当たりの様に、左席委員会会長の靴箱へ赤文字の手紙を放り込む回数が増えた。最後は脅迫文でしかない。レッドスクリプト、カルマの皇帝が用いるコンサートへの招待状。受け取った者へは地獄に等しい絶望を。

「…見たんだ」
「何を?」
「遠野俊が、レッドスクリプトを書いてた」
「………えっ?」
「少し前に、リブラに落書きされてたろ?皆、あれはシーザーが書いたと思ってる」
「う、うん」
「でも俺は見たんだ。あれを書いたのはシーザーじゃなくて、勿論隼人でもなくて、遠野俊」

外部生の癖に。
神からクロノスを与えられ、目立つ生徒ばかり侍らせ、高坂日向の怒りを買い、入学式典当日には親衛隊の誰もがその名を記憶した。
目立ちすぎる程でもないが、平均よりは背が高い以外に特に目立つ容姿ではなく、けれど外部受験で帝君の座を手にした。そんな男、今まで一人も存在しなかったのに。

「天の君の採点、知ってる?」
「いや?」
「フルスコア、総合2000点だって」
「な、何、それ?!…化け物じゃんか!」
「開始数分で解答欄を埋めて、残りは寝てたそうだよ。外部受験者は毎年多いけど、普通科希望だったのは天の君だけだったんだ。筆記試験より面接が重要視される工業科とか体育科の外部生は、時々居るでしょ?でも天の君だけ、面接がない普通科受験」
「…」
「全試験をマイナー言語で回答したんだって。日本語だったのは自分の名前だけ。そしてテストの裏に、設問の構成改善案が書かれてた。あの問題は物足りないからもっとこうした方が良いとか、この問題文は言い回しが下手だとか」

冗談だろうと思ったが、中央委員会役員専属バトラーの役職についていたのだから、上院理事会から下院に回された試験結果を知っていても変ではないかと思う。

「特に天の君の小論文を、陛下は暫く読んでた。何故この学園を受験したのかって質問に対して、たった一行しか書いてなかったのに」
「え、一行?」



「『この学園が男子校だったから。』」























「何かトラブってるみたいだー」

夜明けと共に騒がしくなってきたと、人気のない建物へ身を潜めた男は、外の様子を窺うべく屋上までの階段を登りきった。
若干息が上がっているのは運動不足かと嘆息一つ、返事が返ってこない事に眉を跳ねて振り返れば、先程まで一緒に居た筈の友人らの姿がない。

「…小林先輩?秀皇?」

あの二人も、若く見えるが年相応に運動不足だったのだろうか。
自分の歩く速度はそれほど早くない筈だと、山田大空は形の良い眉を潜め、潜ったばかりの煤けた戸口から屋内を覗き込む。薄暗い階段には、足音は聞こえてこなかった。

「変だねー。階段を登り始めた頃まで、二人共居たのに」

登ったばかりの階段を降りて探すべきか、大人しく待っているべきか。暫く考えながら脇腹をさすった男は、現状、死んでいる筈の自分が下手に動くよりは大人しくしているべきだろうと座り込んだ。

「やっぱ携帯は使えないかー。電波障害かなー」

ポケットから取り出した携帯を開けば、愛する妻と入籍してすぐ初めて遠出した時の思い出の写真がディスプレイを飾っている。十人に尋ねれば十人が平凡だと答えるだろう、極々普通の顔立ちは今より若く、幸せを噛み締める様な淡い笑みは擽ったさすら感じさせた。
この頃の妻は天使の様だったと、鼻の下を伸ばした男は広い額の上、髪の生え際を撫でる。

「おーい!消火器足りねぇぞ!」
「クソっ、何だこの鼠!俺の後ばっか付いてきやがる!」
「おい、カルマー!消火器持ってきたぞー!」

朝っぱらから元気な声が聞こえてきた。
屈んだまま屋上の隅まで忍び寄り階下を覗けば、部活棟方面までオフホワイトの作業着達が何やら運んでいるのが見える。消火器と言う事は火事かと考えたが、目を向けた第五キャノン方面からは煙などは窺えなかった。

「…何か騒いでるなーとは思ってたけど、この所為でアンダーラインに人が多かったのか」

地上より地下の方が人の目は少ないだろうと、鬼常務探しに出発してすぐアンダーラインに降りたものの、早朝にも関わらず起きている人間達が慌ただしくしている光景を認め、早々に退散してきた経緯がある。
理事長に目立つ動きは控えろと言われている手前、本来、山田大空は時計台から出てはならないのだ。判ってはいたが、仕事仲間が行方不明とあれば、大人しくもしていられないのが社長の業だろう。

大丈夫だと信じてはいるが、万一の事があったらと言う不安も拭えず、敷地内に居る事を信じて探し回る事しか出来ない。元々は物心ついた頃から通っていた母校にも関わらず、自由に動き回る事も出来ないのは情けない話ではないか。
古い記憶とは違う今の学園はまるで見知らぬ土地の様で、不安は中々消えてならない。

「まだかなー、秀皇達…」

とにかく、何やら騒がしい生徒らに見つからない様に膝を抱え、使い物にならない携帯をポケットへ仕舞い込んだ。油断しているつもりはないが、未だに謎が多い男爵家の組織が本当に行動をしているのか疑っている。

男爵グレアムと縁が切れてしまえば、キング=グレアムには帝王院帝都と言う日本国籍しか残らないらしい。そもそも帝王院帝都と言う名は、学園長がロードに与えたものだ。若かった大空達がキングだと信じていた、金髪の悪魔。
あの全てを呪っている様に思えた恐ろしい男に、学園長にして義父となった帝王院駿河が『帝』の文字を与えたのは、単純に、駿河もまたロードをキングだと思っていたからに他ならない。

然し実際、帝王院秀皇が高等部卒業式を待たず行方不明になるのと時同じく、帝王院学園理事に収まった帝王院帝都は、その時既に、ロードからキングに刷り変わっていた。
大空にも秀皇にも、彼が最上階の歯車部屋から落ちていく光景は焼き付いている。大事な家族だった、黒い毛並みと犬と共に。

「理事長は何を考えてるんだろうねー。僕が死んだのが好都合って事は、裏を返せば、生きていたら不味い事が起きるって言ってる訳だ」

事情は聞いた。然し納得はしていない。
グレアムでは血よりも統率符を重要視すると言う。サラ=フェインがロードの命令で秀皇に近づいた事は、当時から知っていた。スタイルが良く、男を魅了する色気を漂わせていたキャラメルブラウンの髪の女を、あの頃どれほど憎んだか。若気の至りだ。

「サラの事は毎日死ねばいいと思ってたけど、神威の事は可愛くて仕方なかったんだよなー…。真っ白で、瞳だけ真っ赤で、夜泣きしないし、いいこだった」

産まれてすぐに、サラ=フェインが双子の片方を処分しようとしている事を聞いた秀皇と共に、大空は捨てられそうだった子供を保護し、中国へ連れていかせた。
秀皇が祖父である鳳凰の残した手記を両親に内緒で読んでいた事が発端で、この件に関しては、二人だけの秘密だ。

「李君もいいこだ。…だから、争わずに済むならその方がいいに決まってる」

中国の事実上の支配者である大河の当主、大河白燕は駿河学園長の従兄弟に当たる大河白雀の一人息子である。叶の跡取りだった当時二十歳の男と駆け落ちをした帝王院雲雀の曾孫に当たり、歳は一回り以上離れているものの、秀皇の又従兄弟だ。
帝王院鳳凰の結婚が遅かった為、従兄弟同士である白雀と駿河に面識はないと思われる。

現在の帝王院駿河ほどの年齢で病死した大河白雀の後を継いで、若くして大河の当主に祭り上げられた大河白燕の妻は、米軍将校の妾の娘だ。
その将校の本妻の娘は、グレアムに最も近いステルシリー幹部に嫁ぎ、実家とは絶縁状態に陥っていたそうだ。

然しその腹違いの姉妹は、どちらも若くして亡くなっている。
先に大河白燕の妻だった大河朱花が息子を庇い銃殺され、その数ヵ月後に、コード:ネルヴァの妻だった藤倉涼女が同じく銃殺により死んだ。
怒り狂った大河白燕が中国国内から全ての反乱分子を断罪した話は、日本にも届いている。十年程前の話だ。ワラショク社長として海外出張も少なくなかった山田大空の耳にも、当然届いた。勿論激しく驚いたものだ。身内の不幸に等しいのだから。
然し当時遠野秀隆として帝王院の全てを忘れていた秀皇に聞かせる話ではないと躊躇い、結局、出来る事は何もなかった。大空にとってもまた、大河白燕は義理の又従兄弟に当たるにも関わらず、だ。

「ほんと、あっちでもこっちでも争ってばっかりだなー。しみじみ思い返すと、やんなっちゃうよ…」

彼の亡き妻が残した一人息子は暫くアメリカの祖母の元に送られたが、妾として日陰を生きていた女の唯一の支えだった娘が異国で死んだ事で、心を病んだ様だ。それから間もなく彼女は亡くなり、庇護を失った大河朱雀と言うたった六歳の子供は、従兄弟である藤倉裕也と共に帝王院学園へ入学した。

ステルシリーを激しく憎悪していた学園長が二人の入学を許した要因は、彼らがどちらも、帝王院駿河の遠い甥に当たるからだ。
大河白雀の妹、大河緋連雀の曾孫に当たる藤倉裕也の父親が如何にステルシリーの幹部であろうと、帝王院駿河の慈悲は等しく差し向けられた。

一人息子を失い、孫の存在も知らず、それでも彼は帝王院の名のままに、王の様な慈悲で学園に住まう生徒らを見守ってきたのだ。
仮にも一度は養子に迎え、名前まで与えた男の顔を見れば憎悪は募るばかり、だから遠野総合病院に入院した。離れる為に、計画を立てる為に。

これも全て、お喋りが好きな年寄り共から聞いた寝耳に水な話だったが、改めて考えてみると、何ら可笑しい所はない。
だが然し、確かにどちらかと言うと顔に似合わず臆病な所もあるが、思慮深く心根の優しい帝王院駿河が、ただそれだけの理由で学園を離れたりするだろうか?

「神威に爵位を継がせて、理事長は日本に戻ってきたんだっけ?それまでは一年の半分くらいあっちで過ごしてた…。じゃ、何でそのままじゃ駄目だったんだ?」

何処かで何かが可笑しい様な気がするのに、答えは出ない。大空は独り言の様に呟きながら表情を歪めていくが、やはり一人の考えでは限度がある。

「別にたった九歳の子供に爵位を譲んなくても、帝王院帝都として理事長に収まってたんだ。それなのに全部捨てて日本に来た所為で、学園長は入院する羽目になったって事だろ…?何で捨てようと思ったんだ?神威をロードの息子だと思ったから?僕らが李君の毛髪をDNA鑑定に出した事は、当然僕らしか知らない訳で…」

サラ=フェインのDNAはその時に使ってしまい、以降鑑定はしていない。
然しあの時、70%を越える適合率が結果として証明されたのは忘れていない。数値が低い事は疑問だったが、親子関係が立証されない場合は0%が出ると言われて、納得せざる得なかった過去がある。

双子の兄である神威もまた同じ遺伝子を保有している筈だと仮定して、神威は秀皇の息子なのだと信じた。
何より、神威の血液型はAB型だ。あの頃は疑いようもない、それこそ唯一の真実だった。

「…もー、判んないなー!」
「おやおや、元気な声が出てますねぇ」
「ほへ?!」

揶揄う様な笑みに飛び上がれば、いつの間に開いていたのか、屋内への入口が開いている。
すらりと長い足の持ち主が、藍色のスーツを纏い立っていた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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