帝王院高等学校
白昼夢と言うからには真っ白ょ!
弱い癖に強くなりたいなんて・と。
誰かが何処かから笑う声が聞こえる。

『お前の目には何が見える?その光は本当に、眩いものなのか?』

忍び笑いは繰り返し問い掛けてきた。答えを求められている訳ではない事を何故か知っていて、だから答えはしない。白昼夢か単に幻聴か、それは大抵、僅かな微睡みの中にのみ現れるのだ。

『人は人のまま人以外の何者にもなれやしない。獣は理性を知って野性を忘れ、厳しい掟に縛られては生きられない。お前を縛る社会は人の作った人だけの世界だ』

弱い生き物。
脆い生き物。
繰り返される呪文の様な台詞、まるで己に言い聞かせているかの様に。

「俺は初めから一つの狂いなく、俺だ」

積み重ねられた白紙の書物に囲まれて、静かに膝を抱えている。全ての物語を読み終えてしまったからだ。認められていた文字は全て、まるでブラックホールに呑まれた様に消えていった。吸い込まれる様に。吸収してしまったからだ。

「俺は全てを決して忘れない」
『それは脆いからだ』
「俺は全てを抱いて離しはしない」
『それは弱いからだ』
「俺と言う人形に蓄積し続けた全ての罪を浄化して、俺は結末を迎える事が出来る」
『人間の癖に神にでもなるつもりか』

密かに噛み締めるその笑い声は、段々小さくなっていく様な気がした。ああ、きっと、目覚めがやって来たのだ。



「…終了です。回答用紙を回収します、筆記用具を置いて下さい。そのまま動かない様に」

唐突に訪れた目覚め、暫く放心した様に動きを止めて、机の端に置いていた眼鏡を前髪越しに見つける。テンプルを掴み片手で眼鏡を掛けて、回収されていった回答用紙を見送った。
記入した覚えがとんとないが、裏返していた回答用紙を教官が回収する際、表面の文字らしきものが透けて見えたので、解答欄を埋める程度は済ませているものと思われる。

「以上で全教科が終了しました。お疲れ様でした、忘れ物がないよう確認してから退室して下さい。受講札を玄関で回収しますので、お預かりしていた学生手帳はそこで返します」

試験監督の教官が告げた台詞に溜息一つ、久し振りに袖を通した学ランが窮屈だったのでボタンを外した。誰しも入学から時が経てば、成長するものだ。

「…ズボンの裾は問題ないのに、やっぱ袖が短い、つんつるてん。足の長さは変わってないっつー事?」

深く考えれば傷つくだけに違いないと、早々に考える事を放棄する。試験中の大半を寝過ごしたからか、思考がふわふわ落ち着かない。
緊張の余り眠れなかった、そんなつまらない言い訳など、シビアな受験競争には何の意味もなさないものだ。とは言えこれは、受験の予行練習の様なものだった。本番の緊張は如何ばかりか。

「まァイイか、どうせ次に着るのは卒業式だ。万一の時は、誰かに借りよう」

割り振られていたロッカーに預けておいた荷物を取り出して、学ランの下に着ていたシャツの襟元を掴んで中へ風を送り込めば、チラチラと窺ってくる他人の視線に気づく。緊張から解放された気楽さで鼻唄など歌っていた為に、恥ずかしさから咳払い一つ。

「なぁなぁ、お前見掛けないけど何処のコース?学ランって事は第七高専?あのさ、それってカルマだろ?」
「見た事ないデザインだけど、もしかして海賊版?それとも自作?模試受けるの今回が初めて?」

それと同時に、他校の制服を纏う数人に囲まれた。
何の話だと暫く迷ってから、彼らの視線が自分の胸元にある事に気づいたのだ。それと同時にスリーウェイバッグの中から、マナーモードに設定した携帯がバイブレーションする感触を認め、眼鏡を押し上げる。

「これは貰ったんだ」
「そうなんだ。誰のデザイン?ケンゴ?カナメ?」
「海賊版なんか勝手に作ったらマズイんじゃねーの?最近ケルベロスが大分大人しくなったっつってたけど、シーザーが命令したら殺人もするらしいぜ。気をつけろよ」

海賊版とは何だと首を傾げている合間に、彼らは帰途へ着いていった。真っ黒な学ランの高校はこの辺りでは珍しくないので、ブラウンのブレザーを纏っている彼らは大人びて見える。

「…西園寺。俺が来年受験する学校だな、きっと」

試験の手応えを話しながら去っていく背を横目に、バッグを漁り取り出した携帯を開けば、再び震え始めた。画面には着信の表示、日曜日の午後には何となく似合わない相手だ。

「海賊版って何だ?」
『…は?回転焼きだと?』

どうやら「もしもし」を省略した問い掛けは、彼の理解の範疇を越えていたらしい。虚を衝かれた様な彼の地声は、元々慎ましい股間が竦む程には威圧感がある。
無言でプチっと終了ボタンを押してしまったが、悪気はない。

が、罪悪感から目を逸らす事を許さず、再び携帯は容赦なく震え始めたのだ。こっちが震えたい気分だと呟いて、他人の視線を浴びながら廊下を進む。

「…はい」
『スんません、何かこっちの電波悪いみたいで切れちまって!この詫びは指を詰めて、』
「詰めんでイイ、詰めんでイイ。詰めるのは裾だけにしなさい」

まさか声が怖くてうっかり切ったとは言えず、伸びてきた前髪を弄りながらバッグを抱え直した。

『あの、返事貰ってないのに電話してスんません、もしかして寝てました?何回かメール入れたんスけど…』
「すまん、見てない。今日はテストがあったんだ」
『へ?つーか今日って日曜っスよ?学校あったんスか?』
「ん、模試」
『模試…総長、大学受けるんスか?』
「いや?」

大学など受けるつもりはない。
来年は高校受験を控えた中学三年生だ。然しそんな事は、それこそ中学三年生の彼には知った事ではないだろう。

「そうだイチ、こないだ貰った新しいカルマのシャツ、これは誰のデザインなんだ?さっき聞かれたんだ」
『は?誰のデザインも何も、総長のは総長だけの特注っスよ。背中に俺の直筆ロゴが入ってるでしょう?総長って』
「大丈夫だ、恥ずかしくて背中は誰にも見せられない」
『な』

ガーン、と言う擬音が聞こえてきそうだ。
模試受験生に渡される名札をポケットから取り出し、きゅるりと鳴いた腹を撫でながら、階段を三段抜かしで駆け降りて、警備員が佇む塾の入口で眼鏡を外す。

「…Close」
『総長?』
「ああ、何でもない。ちょっとお腹が減り過ぎて死にそうなだけだ」
『いつもの奴っスか』
「さーせん。お恥ずかしい限りです。朝ご飯が鶏ガラだったんで」
『な』

目があった警備員は遠い何処かを見つめ、名札を握らせても微動だにしない。ざわめく出入口から外へ出れぱ、目映い青空が目に入った。

『何で…何で俺にコールしてくれなかったんスか…!ぐすっ』

何故か受話口から鼻を啜る音が聞こえた様な気がするが、いつもの事なので気にはしない。

『か、金がないならいつでも俺が…っ!っ、判ってまス、総長は俺からの施しなんて求めてねぇって事は…!でも、でも鶏ガラは出汁を取るもんであって、食いもんじゃ…!』
「あ、そうだイチ」
『ぐすっ、何スか総長?金が駄目なら米?!』
「米?いや、そうじゃない、制服が窮屈なんだ」

鶏ガラと大量の即席キリタンポがぶち込まれた、母親の得意料理の一つ、曰く韓国風トッポギと言い張るただの味噌汁は、巨大な鍋一杯ずつ豪快に貪ったものだ。
ついでに町内会長の奥さんから大量に貰ってきた芋を庭先で茹でて、母方の実家の冷蔵庫からパチってきたバターを悟りの表情で丸々1パック投入したじゃがバターに至っては、ぷよぷよが俺を呼んでいると宣って二次元に飛び立った父親は一口しか食べていない。

「上だけでイイんだが、誰かLサイズの学ラン持ってないだろうか」
『それなら今年脱退した三島が持ってるんじゃないっスかね。俺とあんま体型変わんなかったんで、LかLLだと思いまス』
「そうか。俺が電話したら出てくれるだろうか」
『つーか総長が電話したらアイツ死ぬっスよ。とりあえず俺から連絡入れときます。実家の畳屋で暇してると思うんで、呼んだら即来ると思いまス』
「判った、有難う。…そうだ、来週ケンゴの誕生日だったな。皆、集まるのか?平日だけど」
『あー…多分、無理かもです。俺ら全員選定考査があって、三日間出られないんスよ』
「そうか。じゃあ、来年はしっかりお祝いしよう」
『何言ってんスか、別に祝うのは当日じゃなくても良いんスって。総長が祝ってやってくれただけで、あの馬鹿泣いて喜ぶっスよ』

遠野家で最も少食な父は一升の米を用いたキリタンポを5本程残してくれたので、抜け目なくそれも食べてきたのだが、やはり道中ワラショクで眼鏡を光らせて購入した割引パン5個ではランチにもならなかった。

「んー…そうだ、新しいバイト始めたんだ」
『あれ?花屋で働き始めたんじゃなかったんスか?』
「いつの話をしてるんだ。あそこは一週間でクビになった」
『今度は何したんスか』
「俺は思うんだ、接客中に暴力は良くない」
『ふは!どうせ相手が悪かったんでしょ?わざわざ総長が殺さなくても、言ってくれれば俺が潰してやったのに…』
「それだ。イチ、お前は俺が命令したら殺人もするんだって言われてたぞ。そんな関白宣言はした覚えがないんだがなァ…」
『ご命令とあらば大統領でも構いませんよ、Because I am Caesar's pets dog.(何せ俺はシーザーの犬なんでね)』

改めてきゅるりと鳴いた腹をさすった遠野俊は空を見上げ、ふわふわの雲が唐揚げに見えると、眼鏡越しに双眸を細める。電話口から聞こえてくる可愛いワンコの可愛くない声から、さらっと目を逸らしたのかも知れない。

「そうだ。イチ、俺はさっきまで神様だったんだぞ」
『何言ってんスか、総長は俺の中で既にオンリーワン神っスよ。んな事より総長、そろそろ梅雨に入るんで寿司の食い納めしませんか?』
「お寿司…?お、お前は俺をどうするつもりだお転婆さんめェエエエ」
『やっぱこの時期、生物を扱うのは躊躇われる季節っスもんね。今年は梅雨が遅れたんで、暑くなるのも相まって暫く鬱陶しいっスよ』
「た、たま、玉子のお寿司だと何巻まで食べてもイイんだろうか…?じゅる。ま、巻き寿司は鉄火巻なんて我儘は言わない。たくあんでも胡瓜でも美味しいですじゅるりらじゅるり。…すまん、涎と胃液が止まらない有様で俺はもう駄目かも知れない…」

ぱたりと倒れ込みたい気分だったが、赤で灯っている信号に従って足を止めた途端、数台のバイクが青信号にも関わらず車道に停まったまま、ヘルメットを外して見つめてきた。ああ、嫌な予感しかしないのは何故だ。

「イチ」
『何スか?…250ccの音がするっスね。この音はホンダの…』
「車種はイイ。すまん、お寿司パーティーには出られないかも知れない。俺の葬式はその辺で枯葉と一緒に燃やしてくれ、出来れば焼き芋を焼いてくれ。あの世に持っていくから…」
『ああ、早速絡まれてるんスね。流石総長』

楽しげなワンコの声に溜息一つ、シャツがどうのと凄みながらいきなり胸ぐらを掴まれたので、ズレた眼鏡が割れない様に外す。携帯と共にポケットに突っ込んで、飛んできた拳を受け止めれば、騒がしい複数のエンジン音に紛れ、地響きの様な音が近づいてくる事に気づいたのだ。

「テメェ、人の話聞いてんのか眼鏡!こんなデザイン見た事ねぇぞ!何処の餓鬼が売り捌いてやがった、ああ?!」
「それは糞みてぇな不細工が気安く着て良いもんじゃねぇんだよ!殺すぞ餓鬼ぁ!」
「あらん?」

先頭にも関わらず発進しない複数のバイクを遠巻きに、進めない車達がクラクションを奏でている。然し車道の信号が切り替わると、赤だった歩行者用信号が青へと色を変えた。
暴力は良くないと言ったばかりなので数発殴られておこうと顔を上げれば、ただでさえ騒がしいバイクの群れに、今の今までなかった筈の大型バイクが紛れている。黒地に赤いロゴが入った奇抜なフルフェイスが、黒いサンバイザー越しに見つめている様な気がしたのは、勘違いだろうか。

「さーせん、後ろのナナハンもお仲間かィ?」
「あ?!何勝手にほざいてやがる、後ろだとぉ?!」
「おめーら、コイツ剥くぞ!オタク野郎がカルマ気取りやがって、後悔させてやる!」
「剥いて後悔すんのはテメーらだがな」

ああ、神よ。
学ランを脱がされながら、目元を覆っていた前髪を無意識に掻き上げた男は荒みきった目付きで青空を見上げた。何となく曇ってきた様な気がする。

「その人の背中を見ろ、この俺がしっかりがっつり書いてるからよ。それ見てまだ意味が判らねぇなら、…この嵯峨崎佑壱様がテメーら全員後悔させてやるぜコラァ」

ヘルメットを外した男の燃える様な長い髪が舞い、信じられない物を見る目で見つめてきた他人に、俊は精一杯微笑んだ。つもりだった。

「ひ…!し、ししし、シーザー?!コイツが?!」
「スッ、スイマセンデシタぁあああ!!!」
「あーあ、逃げ足だけ無駄に早い奴らだ。総長、大丈夫っスか。迎えに来るのが遅れてスいません」
「うん、来てくれって言った覚えがない様な気がしないでもないよーな?えっと、有難う?」

派手に居なくなったバイクの少年達には最早目もくれず、バイクから降りて歩道に上がってきた男は見えない尻尾を振り回している。誉めてくれと言わんばかりの表情だが、俊は心を鬼にした。

「イチ、お前は何歳だ?」
「今更何スか総長、15歳っス」
「バイクの免許は?」
「…えっ?何言ってんですか総長、こ、これは自転車です!免許なんて…ハハハ…ハハハハハ…」
「笑い方がテラアメリカンだな、イチ」

目に見える冷や汗を滝の様に垂れ流している男を見つめ、それ以上の追及は諦める。何にせよ、無駄な喧嘩をせずに終わったのは、佑壱のお陰なのだ。

「はァ。もうイイ、そのまま押して歩けるか?」
「あい」
「何で俺の場所が判ったんだ?」
「GP…ごほっ、あの、匂いで何となく」
「イチ」
「スんません」

全く、近頃は真面目になったと思っていただけに、やはり自分の育て方が悪かったのだろうと肩を落とし、外は暑いので学ランを脱いだ。

「あ、そう言えば衣替えの時期だった。道理でブレザーが目立った訳だ…」
「衣替えって何スか?」
「制服が夏服に変わる事だ。イチの学校も夏服だろう?」
「…夏服?」

首を傾げた佑壱は曖昧な表情で頷いた。
何となくカルマのメンバーはプライベートな話をしない者が多いので、互いに知らない事だらけだ。気が向いた時にカフェに集まり、好きな時に帰っていく。ただそれだけの関係で繋がった曖昧な関係でしかない。

『弱いものを集めて、神にでもなったつもりか』
「総長っ」

頭の中で響いた声に意識を奪われた瞬間、腕を掴まれた。
ぼんやり見上げれば、赤信号が見える。目を腕へ向ければ、褐色に焼けた手が肘を掴んでいた。

「危ないっスよ」
「イチの手、熱いなァ」
「…あ、スんません。汗掻いてたっスか?」
「あ〜!シュンシュン見っけ〜!」

聞き慣れた声と共に目の前で停まった黒塗りのベンツ。フルスモークのパワーウィンドウがするする降りて、傍らの巨大な犬が、ただでさえ吊り上がった奥二重の目を吊り上げる光景を見た。

「やァ、ピナタ」
「シュンシュンはやっぱり黒髪の方が似合ってるー。ね、俺とデートしよーよ☆」
「糞猫は黙って山に帰れ」
「犬が人様の言葉喋ってんじゃねぇよ」

どうしてこの二人は顔を合わせる度にこうなのか、考えるだけ無駄だ。仲良しなのは結構だが、今はそんな事よりも大切な事がある。

「イチ、お寿司パーティーにピナタも呼ぼう」
「総長、高坂は忙しいそうなんで『二人で』帰りましょう。ね、商店街の鮮魚店に新鮮なネタ頼んでるんで」
「シュンシュン、もしかして歩いて帰るの〜?ダメダメ、曇ってきたし今日暑いから焼けちゃうよ?送ってってあげる☆」

ドアから降りてきた金髪の天使はキャラメル色の円らな瞳を笑みで染めて、佑壱を体当たりで弾き飛ばし、ガシッと両手を掴んできた。
この可愛さを前に断れる男など存在するのだろうかと、空腹で益々荒んできた目を細めた童貞は考える。答えはない。答えはないが、バイクのハンドルを掴んでいた為に体当たりから逃げられなかった佑壱は、怒りで震えている。

「有難う、ピナタ。でも明日から雨が続くだろう?晴れ納めで、暫く散歩したい気分なんだ。だから俺達は歩いていくよ」
「え〜!」
「は、ざまーみろ淫乱猫。プ」
「…判った。じゃ、俺もシュンシュンとお散歩する」
「んだと?!テメーなんざお呼びじゃねぇ、チビは帰ってママのおっぱいでもしゃぶってろ!」

笑顔で睨み合う二人を余所に、点滅を始めた信号を慌てて渡った。あっ、と声を揃えた二人は、赤信号に妨げられ、道の向こうだ。

「ほら、お互いばかり見てるから信号を見逃すんだ」
「「見てない!」」
「仲良しさんだなァ」

にこりと微笑めば、二人は揃って顔を染める。
ああ、やはりそっくりではないか。そうも似ているのだからもう少しほのぼのと仲良くすれば良いのに、何故拗れているのだろう。思春期だからかも知れない。

「ちょ!待ってよシュンシュン〜、コイツと二人にしないで〜」
「はぁ?こっちこそテメーと二人なんざ願い下げだっつーの!カマトトぶりやがって女男が!」
「…どっちが女男だ暑苦しいロン毛晒しやがって!海に帰れサーファー気取りが!」
「上等だ!やんのかコラァ!」

ああ、元気で大変宜しい。
だが然し、通り掛かった皆がビクビクしているので、俊は仕方なく振り返って汗で張り付いた前髪を掻き上げた。少し切った方が良いのかも知れない。

「いつまでもそこに突っ立ったまま喧嘩するなら、今すぐ俺が貴様らの息の根止めてやろうかァ、あァん?」

ビクッと肩を震わせた二人は、わざとらしい程の笑顔で手を上げ、青信号を渡りきった。
昨今、小学生でも手を上げて歩道を渡りはしない。


華麗な職人技で寿司を握りまくる赤毛が、日向にだけは『おかかおにぎり』しか握ってやらなかった事を叱る前に、とりあえずカッパ巻きの胡瓜だけを片っ端から食べ尽くした藤倉裕也を、カフェの裏に呼び出す事にする。
せめて酢飯と海苔も食べなさいと。

まぁ、胡瓜抜きのカッパ巻きをも美味しく食べた自分が言える立場ではないだろうが。
























「…糞二葉、奴は生かしておかねぇ」

ざぶん、と、暗い湖から顔を出した男は、ボインっと凄まじい弾力に弾かれて噎せ込んだ。余りの暗さに何も見えない。

「プライベートライン・オープン、明かりを」
『了解』

ぶわっと弾けた光に目を眇め、舌打ち混じりに辺りを見回す。盛大に膨らんだ巨大なエアバッグが高坂日向の視界の大半を埋め尽くしたが、畳一枚分くらいはありそうな大きな瓦礫に俯せで倒れている赤毛を見つけるなり駆け寄った。

「良し、新しい怪我はねぇな。何が衝撃を与えると500倍に膨らむだ、確実に500倍じゃねぇ…!」

一年Sクラスの教室ごと、まるでジェットコースターばりのエレベーターに乗ったかの様に落下したのはほんの数分前だ。

二葉からお情け程度に渡された道具袋の中身は、日向も世間話程度に聞いていた便利グッズが幾つか入っていたので、落下する前に準備をしておいた為、気絶している嵯峨崎佑壱は勿論、日向も大きな怪我はない。
大半の準備時間を佑壱だけに費やした為、擦り傷や打ち身程度は数えきれないが、動けない程ではなかった。

「ちっ。技術班のモニターだけはごめんだっつったのに、あの野郎…」

但しエアバッグが膨れる瞬間の衝撃の方は、精神的なダメージが酷い。二葉に対する殺意は過去最高潮に燃えている。
そもそも絶叫マシンで絶叫しない男、それが高坂日向だ。絶叫している余裕がないとも言えよう。事実、佑壱と安部河桜に連れられて行った遊園地で、吐きそうになったのは記憶に新しい。

世界中のマッドサイエンティストを集めた集団は、男爵グレアム家が抱える最強最悪のチームだ。常に少数精鋭体制だが、自らをモルモットと呼ぶような変人しかいない為、数の変動が凄まじい事も知られている。
それもその筈、その変人共を統括しているのが何を隠そう、帝王院学園の恥、叶二葉だ。それ故に、試作段階の最新グッズが二葉の手に届くのは日常茶飯事で、極々稀だが帝王院学園出身の研究員も在籍する事がある。
若い頃から特許を抱えていた様な天才だが、ステルシリーに入るなり漏れなく天才から変人に変わるのだから、魔王部署の恐ろしさが垣間見えるだろう。哀れな話だ。

「う…」
「ああ、起きたか?」
「あ…アメイジ…」
「何だ、どうした?おい、嵯峨崎?」
「う、う………死ね…高坂…」
「…」

エアバッグの紐を結んでおいた佑壱を仰向けに転がせば、苦悶の表情で巨大な風船を張り付けた男は呟いたのだ。しかもどうやら寝言らしい。すやすやと健やかな寝息が聞こえてきた為、高坂日向は真顔で赤毛を一発殴った。勿論、手加減はしている。
夢の中まで呪われる我が身を省みるのは追々にして、今は状況分析が先だ。

「…ちっ。どうもまだこの下があるらしい。この早さで水が抜けてくのを見るに、どっかにスライドレールが引っ掛かってんのか?…いや、底まで一直線なら水が抜けてくのは可笑しいか。この下に地面があるって所だな。言い換えりゃ、天井か」

二葉曰く『巨大な空洞』があると言う見知らぬ地下は、現在地よりまだ下だと思われる。天井を失った教室は、まるで空き箱の様に落下し、日向の予測では『巨大な空洞』の天井部分で動きを止めたのだろう。
そのお陰で、先に流れ込んでいた大量の水が、今の衝撃で下に流れ込んでいるものと思えた。

「厄介な造りだ。想像以上にしっかり造ってやがる、マジでいつからあるんだよ…」

神威と共に訪れた鉄格子の部屋もかなりの広さだったが、二葉が言うにはそれとは比べ物にならない大きさだと言うのだから、それなりの覚悟をしておかねばならないだろう。
このまま水が流れ落ちる勢いで崩れるのを待つのか、それとも便利グッズ最後の一つ、どう見ても手榴弾にしか見えないそれを使うのか。

「災害用マルチルーターと糞デケェバルーン、同じく糞デケェ嵯峨崎佑壱。八方塞がりだ。呪われてるとしか思えねぇ」

これも、あの人格崩壊者曰く『希望』の一部だとしたら、自分と言う人生には、希望など存在しないのかも知れない。などと考えた時点で、単に胃炎が悪化するだけだ。救いはない。

人として明らかに欠如している技術者や二葉より、その変人共が畏れ跪く男爵皇帝の方が明らかに『終わってる』のだろうから、神威の言う希望などろくなものではない筈だ。
期待した自分が間違っていたと、日向は乾いた笑みを浮かべた。

「今の今までバレなかった地下か。今回の騒ぎで水が流れ落ちてくれたお陰で、ソナーに映った訳だ。誰が何を考えて建設したか知らねぇが、人の仕事を増やしてくれやがる…」

とりあえず、手榴弾は除外だ。
自立起動型ルーターは出来る事こそ少ないが、電波が届けば力強い味方になる。今はルーターの外面に埋め込まれたLEDを光らせたり、内蔵されている超硬化繊維を紡いだワイヤーを引っ張り出すくらいしか使い道はないが。…便利な世の中になったものだ。最大の欠点は、技術班の作品は全てステルシリーの為のもので、一般販売をしない所に尽きる。

「証券会社が地下で近未来道具作ってりゃ、世話ねぇ」

落下した時に何度目かの水没を体験した日向の足元は、もう殆ど水はない。流れ落ちる音は聞こえるが、着水する音は遠い様に思えるので、まだまだ目的地は遥か彼方と言う事だろう。
崩れ落ちるのを静かに待つか、何とか強化ワイヤーを使ってレスキュー隊員宜しく下へ降りるのか。佑壱が転がっている瓦礫を片手で支えながら考えを馳せていると、自分の手に出来た擦り傷が既に瘡蓋になっている事に気づいた。

「…ふは、マジか、こりゃ凄ぇな。ああ、これなら少々寿命が縮まっても悪くねぇ」

くつくつと肩を震わせ、腕を背中へ回す。
伸ばした指先で張り付いたシャツ越しに背中を撫でるが、少し前まで焼けつく程の痛みを訴えていたそこは、何の痛みもなかった。これこそ魔法の様だと、忍び笑いながら手を離す。


「おい、嵯峨崎。お陰様で全く痛くないぞ」

難しい表情の寝顔を眺め囁いた。
空間の大半を覆っている巨大な風船がムードを台無しにしているが、それには目を瞑ろう。

「う、ぁ。……………兄、様…」
「…良〜し、二葉より先に帝王院をこの世から消そう。」

無粋な風船よりも恨めしいものが、この世には幾つも存在しているからだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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