帝王院高等学校
悩むくらいなら闇の深淵にダイブしろ!
「よいしょ!大丈夫か、佐倉?」
「有難う、加賀城君っ」

凄まじい地響きと共に崩れた階段の瓦礫、剥き出しの金属の下で瓦礫を掻き分けた赤毛は、ライターを片手に同級生へ手を差し出した。

「あち!…ふーふー、ユーヤさん、やっぱライターじゃ色々無理だよ。つーか何で二本も持ってたの?もしかして吸ったの?ユーさんに叱られるよ?アレ吸ったの?」
「泣き言かよ。因みにそれはさっきBBQやってた奴らからパクった奴だ、オレはO2しか吸ってねーぜ。変な噂が立ったら殺すぞシロップ」
「ぐぎぎ…!ほざいてる場合か!助けろユーヤ、シロップ!カナメが漬物になっちまうべ!(ノД`)」

地響きのお陰か否か、ぱらぱらと降ってくる天井を見上げれば幾つか亀裂が入っている。隙間から微かな明るさが見えない事もないが、その程度では照明の代わりにはなりそうもない。

「カナメ!生きてっか!(;´Д⊂)」
「ケンゴ、俺はこっちです!」

ドカンと言う凄まじい音と共に吹き飛んだ瓦礫の下から、額を切ったらしい錦織要が飛び出してきた。丁度獅楼の背後辺りだった為、獅楼が灯したライターの火に照らされた要は血みどろだ。

「かかかカナメさん?!」
「掠り傷だ。この程度で騒がないで下さい」

額から滴る血を、男らしく前髪を掻き上げる様に拭った要は、真顔で宣った。芸能人が裸足で逃げ出しそうな美人の台詞とは思えないが、カルマにしてみればいつもの要である。心配する方が野暮な話だ。

「ぎょひ、そっち?!( ̄▽ ̄;) じゃあこのケツは?!」
「ケンゴ、それセントラルゾーンだぜ」
「ご、ごめんね、高野君。俺のお尻が錦織君と似てた所為で…」

見事な混乱具合だ。
日向の尽力により、ほぼ全員が大きな怪我もなく外に出られたまでは良い。全員で佑壱を待つ間に崩落が始まり、数分前の地響きでほんの束の間の休息は終わりを告げた様だ。
歩くのも困難を極める暗さの中から、痛いだの怖かっただの、微かな声が聞こえてきた。責任感が強い獅楼は、ライターを灯した裕也の顔を確認するなり手当たり次第の同級生を救出し、今に至る。

「げっ、今のユウさん大丈夫だったん?!(;´Д⊂)」
「あー。完璧、見えねーな」

要ほどの流血はないものの、多かれ少なかれ負傷しているクラスメートを横目に、裕也が覗き込んでいる辺りへ近づいた要は、立ったまま口を開いた。

「お前、何であの人の肩を持つんですか」
「あ?誰の事だよ」
「高坂日向ですよ。あんな奴にユウさんを渡すつもりですか」
「渡すとか渡さねーとか、オメーこそ何様のつもりだよ。副長は物じゃねーぜ」
「は、それはどうですかね。俺には、お前こそ人を人だと思ってない様に見えますが」

何だ。
二人の会話を聞いていた全員の金玉が凍った気がする。真顔で泡を吹いた獅楼に痙き攣った健吾は、素早く獅楼の手からライターを奪った。

「うぜー。この状況で喧嘩売ってんのか、テメー」
「ふん、お前などに売ってやるものなどない。寝言は寝てほざきなさい、弱虫が」
「笑かすぜ。下駄の鼻緒より切れ易い最近の若者って奴かよ、オレこそオメーなんかに使う無駄金なんざ持ち合わせてねーぜ」
「ユウさんに万一の事があれば俺はお前を許しません」
「はっ。だったらテメーが何とか出来るのか?口ばっかで行動が伴ってねー癖に、ガタガタ抜かすな」
「…んだと?」

裕也の手からライターが落ちるのと同時に、互いの胸ぐらを掴み合った要と裕也の腕が離れた。二人の中央に、凄まじい勢いで落ちてきた踵が突き刺さったからだ。
目を丸めた要の隣、真顔で「きゃー」と呟いた藤倉裕也に表情などないに等しい。この闇の中、獣の如く踵落としを決めたのは勿論、この男だ。

「はいはい、喧嘩はその辺でおしめーな?(´▽`) まだやるっつーなら、オメーら二人共この俺がぶっ潰すべ?」

しゅぼっと獅楼から奪ったライターを灯した健吾の笑顔が、要と裕也の目に映る。気まずげにそっぽ向いた二人を見やり頭を掻いた健吾は、心配げに様子を窺ってくる皆を見回し、息を吸い込んだ。

「コイツら馬鹿だからよ、テンパって内輪揉めカマしてんだべ」
「テンパるって、ケンゴさんじゃあるまいし…いた!」
「オメ、シロップの癖に俺を何だと思ってたん?死ぬの?(・∀・)」
「だ、だってぇ…」
「最近さ、ユウさんが光王子にけしからん事やってるっつー噂が広まってんだろ?(//∀//) ヤキモチ焼いてんだ、俺らユウさん大好きっ子だからw」

饒舌な健吾のわざとらしい程の笑顔に、そんな筈はないと判っていながら、皆は安堵の表情に染まる。要と裕也は健吾を挟んで睨み合っているが、ライターの火程度ではそれも長くは続かない。

「おれだってユーさんのこと大好きだよ。でもユーさんを理由にして喧嘩するのは、良くないよ」
「うひゃw…たまに痛いとこ突くよな、シロップ」

何とも言えない表情の獅楼は、灯しすぎて熱を持ったライターを振って冷ましながら、近づいてくる足音に耳を澄ました。

「あっちから誰か来るよ。警備の人かな?」
「いやあああ」
「ぐわぁあっ」

首を傾げた獅楼がライターの灯を灯すより早く、乙女な悲鳴と異常に男らしい悲鳴が聴こえてきたのだ。ふっと火が消えた健吾はもう一度灯そうとして、ライターに帯びた熱に驚いて飛び上がる。

「あち!…え?何、何事?!おい、今の悲鳴ってハヤトっしょ?!」
「ぐわっ、僕に触るんやなかレッドサムライ!」
「いやあああ!あっ、そこに猿います?!高野健吾君は居ますかあああっ」
「キモ!ちょ、健吾君?!(;´ω`;))) 神崎きゅん、お探しの高野きゅんはこの辺に居るでしょ?!つーか野太い悲鳴ってもしかして野上?!嘘だべ?!(;´Д⊂)」
「こげな鬼ごっこは好かん!好かんばってん、逃げるが勝ちとよ!消火器の中身が水だって言った奴はぶちくらすばい!!!ぐわぁあああっ、また服の中に入ってきたーっ?!」
「助けてぇ!くろすけを赤すけが食べてるのよお!いやあああっ、隼人君の頭に乗ってるの何なのお?!」
「は?グフッ!(´°ω°`)」

獅楼が火を点けた瞬間、健吾にコアラ宜しく抱きつく眼鏡と、その隣、華麗に避けた裕也の姿と、巨大な何かに真っ正面から貼り付かれている錦織要の姿が照らされた。

「…ハヤト、オメーそれは多分やばいぜ?」
「ヤバイわよお!ヤバイに決まってんじゃない、馬鹿あ!あんなキモいネズミを片っ端から食い散らしてんだよお?!何あれ何あれ、レッドスクリプトが実体化しちゃったのお?!」
「何ほざいてんのか判んねーぜ。んな事よりハヤト、オメーが抱きついてるの、カナメだぜ?」
「へ?」

まるで抱き枕を抱え込むかの様に抱きついている神崎隼人は、がちで泣き出す5秒前の表情で抱え込んだ腕の中の何かを見やる。同じく健吾に抱きついていた野上は逸早く復活したらしく、恥ずかしげに健吾から離れていた。

「…ぐすん。カナメちゃん、さっき振りい」
「降りろ」
「うっ、隼人君の頭に乗ってるの取ってえ。赤すけ取ってえ…」
「降りてから殺されるかそのまま逝くか、選びますか」
「うわあん、カナメちゃんの馬鹿あ!何でもするからあ、取ってえええ!頭の赤すけ、取ってえええ!」

自分より圧倒的に大きく、つまりは重いだろう隼人を軽々張り付けたまま、舌打ちを噛み殺さんばかりの表情で隼人の頭に乗っているコンクリートの欠片を掴んだ要は、背筋が凍るほどの笑みを浮かべて隼人の額を叩いた。掴んだコンクリートで、だ。
沈黙している全員が同情の眼差しで隼人の背中を見つめているが、未だに要に抱きついたまま震えている巨体は気づいていない。

「ほら、取れましたよ」
「うっうっ、まさか素手で取ったわけえ?やだあ、汚い手で触んないでよお、馬鹿あ」
「本気で死にたいのか?」
「ごめんなさい。…って、何それ、ただの石じゃん」

凍える要の声に渋々目を開けた隼人は、抱き込んでいた要の頭から身を離し、要が握っている破片に眉を潜めた。そうして漸く、頭に乗っていたのは赤い鼠などではなかったのだと気づいたらしい。

「あは。…ご迷惑お掛けしましたあ」
「何でもすると言いましたね?」
「え?そんな事ゆってな、」
「ハヤト」
「すみません言いました」

パキョ。
要の手の中で砕けたコンクリートを見つめた神崎隼人は、神々しい笑顔で親指を立てる。同じく神々しい笑顔を浮かべた要と言えば、ビビった健吾が裕也に抱きついて震えているのにも構わず、ビビったその他大勢が放心している事にも構わず、麗しい笑顔で「今日一日俺の犬」と吐き捨てた。

「一日、って…いつまで?夜まで?」
「明日の朝まで」
「ええー」
「返事が聞こえませんねハヤト。鼠がどうだのほざいてましたが、犬なら犬らしく溝鼠やカピバラの一匹や二匹捕まえてみなさい」
「いやそれ猫だし、カピバラの単位って多分『匹』じゃなくて『体』だと思うし」
「ハヤト」
「ワン」

現代国語が苦手な要に笑顔で睨まれた神崎隼人は、良い笑顔で吠える。今からコイツはモデルなどではない、ただの犬だ。鼠に怯えるワンコだ。

「所で野上委員長、貴方まで我を忘れてましたが、何があったんですか?一歩先に逃げたものとばかり思ってましたが…」
「光王子にご尽力頂いて、第4キャノンまで行ったんだ。だけどそこで…」

辛うじて着ているシャツも髪もボロボロな野上は、隼人ほどではないが今にも泣きそうな表情で眼鏡を忙しくなく押し上げる。テンプルが歪んでおり、掛けられているのが奇跡なほどの有様だ。

「と言う訳で、陛下のご命令で水を用意しろと言われた工業科の皆さんが消火器を運んできて下さったんですが、中身が水じゃなくて普通の鎮火剤だったんです…」
「お陰様で怒った黒すけが、」
「おや、ハヤトは人の言葉が喋れましたっけ?」
「…ワン」

叶二葉か。
隼人はそう突っ込みたかったが、全力で耐えた。高々破片で怯えて半泣きだった姿を皆に見られてしまっている今、両肩をオレンジと緑から宥めるように叩かれても、有り難くなどない。寧ろ怒りしかない。

「バイオジェリーはそもそも二十日鼠を凶暴化させた改造種だぜ。触っただけで火傷もんだ、逃げて正解だろーな」
「つーか、あのネズミいつの間にこんな増えてたん?アンダーライン最下層の廃棄物処理施設でさ、飼育されてる筈っしょ?…ま、第四保健室にはうじゃうじゃ居るみてぇだけど(´°ω°`)」
「第四保健室?では倉庫棟に?」
「ありゃ、カナメ知らんかった?(°ω°`)」

離宮は五つの離宮と、渡り廊下を支える支柱により形成されている。
全ての校舎から繋がっていない、ぽつんと立っている三階建ての塔は、屋外授業用の教材や屋外活動を主にする部活動の物置である倉庫の役目を果たしており、一階には屋外でのトラブルに対応する為の保健室があった。

「第二キャノンの保健室は、隣の準備室をカナメの兄ちゃんが私物化しちまってる所為で誰も寄り付かねーしな(;´Д⊂)」
「つーか、んな所でベラベラ話しながら固まってても仕方ねーだろ。そろそろここも崩れそうだぜ?」

そもそもは週三日、非常勤の保険医が駐在していたが、去年年齢を理由に退職してしまった為に、学園は保険医不足で、今は殆ど無人と化している保健室だ。
始業式典と同時に就任した冬月教諭以下、全四名の保険医がシフト制でそれぞれの保健室を回っているそうだが、中央キャノンからは直行出来ない事もあり、やはり手が間に合っていないと言う話は、普通科や体育科の生徒であれば知っている。

「然しユウさんを残して行くわけには、」
「おい!」

徐々強さを増していく震動が、一際強まった。
教室方面を心配げに覗いていた要の腕を裕也が引いた瞬間、突き出していた太い金属が、コンクリートを破壊しながら床へと飲み込まれて行ったのだ。

「な、は、離して下さいユーヤ!ユウさん、ユウさん?!大丈夫ですかっ、ユウさん?!」
「うぜ。助けてやったのによ。ハヤト、任せたぜ」
「危ないってカナメちゃん!つーか暗いし本気で危ないから、やめなさい!」

裕也の手が離れ、今にも崩れていく教室内へ戻っていきそうな要を羽交い締めにした隼人は、叫びながら首を傾げる。確かに暗いが、暗いながら、要の顔も裕也の顔もちゃんと見えているのは何故だ。
教室が沈んでいく恐ろしい光景が何故、見えるのか。
獅楼はライターを握ったまま、野上に抱きつかれた時にライターを落とした健吾は、何も持っていない。

ギギギ、と、要を捕まえたまま振り返った隼人は、目映い光を見た。
それに気づいた皆も隼人の視線の先を見やれば、その光はくるりと回転し、誰かの顎を照らしたのだ。

「……アンタさあ、気配がないのはいつもだけど、何してんのお?」
「バイオジェリーを駆逐する為、共に戻ってきたまでだ」
「いやいや、そうじゃなくてえ、まず懐中電灯で自分の顔を下から照らすのやめよっか?ガチバイブスきもいんですよねえ」
「面映ゆい事を宣う男だ。俊がトイレに入る度に電気を消してこれをしてやると、泣き叫んで喜ぶと言うのに」

そりゃ泣き叫ぶだろう。うっかり想像した隼人も泣き叫びたい気持ちになった。

「てんめーは鬼か!今度ボスにンな事やりやがったらマジぶっ殺すぞ!」

唸りながら怒鳴った隼人の腕の中、放心している要は顔色が悪い。同じく、僅かに身構えている裕也の隣で唇を痙き攣らせている健吾も芳しくない笑みを浮かべており、憤っているのは誰が見ても隼人だけだった。

「陛、下」
「…の野郎!」

宰庄司を背後に庇いながら呟いた溝江の声で、弾かれた様に殴り掛かったのは川南北緯である。然し懐中電灯を握った片手で軽やかに振り払った男は無表情のまま、前髪を掻き上げた。

「随分、勇ましい挨拶だ。ノーサとは違い、そなたは思慮に欠けると見えるな、2年Sクラス川南北緯」
「気安く呼ばないで。畏れながらカイザーグレアム、何しに来たのか知らないけど場違いだから消えてくれない?この非常事態によりによってアンタなんかの顔、わざわざ見たくないんだけど、俺ら」

流石は隼人部隊、なまじ可愛らしい顔立ちをしているだけに凄むと威力を放つ北緯の雰囲気にも、中央委員会会長帝王院神威の表情は崩れない。

「この程度が非常事態だと?」
「今すぐ消えろ。俺達はアンタを、総長の身内とは認めない」

それ所か不思議そうに首を傾げた男は金の双眸を細め、囁く様に吐き捨てたのだ。
たった一言、



「ならば私の顔が見えぬまで跪くが良かろう」

その声で、獅楼以外の全てが崩れ落ちた。
何故か自分だけ立っているものの、恐ろしさの余り声が出ない獅楼は皆をキョロキョロと眺めたが、要の手首を掴んだまま座り込んでいる隼人を見るなり別の意味で腰を抜かす。
あの隼人が俊以外の声で腰を抜かす光景など、見る日が来るとは思わなかったからだ。

「な、何、」
「…成程。やはり忌まわしき明神の血か、排他音域に相違があると見える」
「っ、ぅえ?!」
「まぁ良い、そなたこれを持っていろ」

ぽいっと神威が投げつけてきた懐中電灯を掴んだ獅楼は、自分の足元に赤い何かを見つけた。何処かで見たと考えながら手を伸ばせば、神威を真顔で見上げていた裕也と目が合ったのだ。
そうか、これは、裕也と掘り起こしたタイムカプセルの様な箱から出てきた、あれだ。

「直ちにその場を離れよ、一年Sクラス神崎隼人、錦織要。どうやらこの場は、既に現世のものではないらしい」
「っ、はあ?!人様を威嚇しておいて何訳の判んないこと、」
「離れろハヤト!」

気丈に噛みついた隼人の背後を見やった要は、隼人の背中を殴り付ける勢いで飛び退いた。驚いた獅楼は悲鳴を噛み殺したが、それ所ではない。
要と隼人がたった今の今まで座り込んでいた場所が、その向こうの教室ごと崩れてしまったのだ。懐中電灯で照らす先、恐ろしい光景が広がっていた。音を発てながら沈んだ床には、ぽっかりと巨大な穴が空いているのだ。

「な、んだよ、ちょっと、あぶな…っ」
「案ずる必要はない。無用な空洞は塞げば良い、それだけの話だ」

あの向こう側には、日向と共に、佑壱が居たのだ。
どれ程の怪我なのか把握していないが、それでも動くのも辛いほどである事だけは獅楼には判っていた。いや、獅楼以外の皆もまた、判っていた筈だ。

「それだけ、って?!ユ、ユーさんが、居たのに!ひ、光王子様だって…!」
「万一ファーストや高坂が死んだとして、困る事はなかろう。そなたは何が言いたいのか、年相応の文章描写を用いて発言せよ」
「っ、困らない?!何言ってんだお前!ユーさんは身内なんだろ?!何でそんな酷い事っ、」
「耳障りだ、声を荒らげるな」

ああ、もう、お世辞でも鍛え抜いているとは言えないが、それでも恵まれた体格に生まれ、短い間だがそれなりのトレーニングもしてきたつもりだ。
それなのに何故、あんなに憧れて、ああなるのだと目標に掲げて、何日も寝ないで覚えたカルマ試験を辛うじて突破して、やっと、自信が持てる様になってきたのに。それなのにどうして今、目の前のたった一人を殴る事さえ出来ないのだろう。


「っ」

加賀城獅楼はじわりと浮かんだ涙を耐える方法を考えていた。
情けない己を見限ったのかも知れない。ただの現実逃避かも知れない。
大好きな佑壱を助ける事も出来ず、先輩とは言え獅楼より線の細い北緯が勇ましく挑んだと言うのに、自分は立ち上がる事すら出来ないのだ。

知っているつもりで何も判っていなかったのだろうか。
憧れた佑壱が慕っているから、皆がそう呼ぶから、だから自分もそれに従っていただけで、心の何処かでは未だに認めていないから、勘違いしたのだろうか。

外部入学の庶民、実はそれがカルマの総長だと言われても頭の何処かできっと納得していなくて、だから左席委員会会長だと言われても本当の意味では理解していなかったのだろうか。
だから彼に並ぶ神帝もきっと、大した事などないのだと。思っていたのだろうか。だから今、先輩と言うだけの三年生一人を前にして、満足に喋る事すら出来ないのか。

「些かの退屈凌ぎに、疑問に答えてやろう。一年Aクラス加賀城獅楼」
「おれの、疑問?」
「その人の言葉を聞いては駄目です、シロ!」

悲鳴じみた声を放った要の顔色は悪い。
隼人は呆然と巨大な穴を見つめたまま、健吾は呼吸を忘れた様に動きを止めて、裕也は俯いている。北緯の肩は小刻みに震えて、他の皆は、どんな表情なのだろう。

「その鼠らは元々、私を殺す為に造られた」
「っ、は…?」
「然しあらゆる怪我が常人の20倍の早さで完治する穢れた血を以て、その企みは消された」
「やめて下さい!シロ、相手にするな!」

カサカサと何かが這う音がした。何かが爆発する様な音がした。遠くで何かが燃える様な匂いがする。
音はただ、それだけ。耳障りだと言う言葉をまるで全員が守るかの様に、奇妙なまでに誰も口を開かない。


「私と同じく、人として欠如したファーストの生死は俺の管轄ではない。全ては、バステトの元だ」

カサカサと音がした。
たん、と、足音がした。

「狂った遺伝子。罪深き男爵の犯した罪の成れの果て。自らを人体実験の検体に差し出した銀髪のノア、レヴィ=グレアムのDNAから造られたマリアの血は、その色を以て息子に受け継がれている」

それを見ていた同級生の数人が顔を逸らし、耳を塞いでいる。
涙で歪んだ獅楼の視界には、無表情のまま、赤い何かを踏みつけている白銀だけだ。

「人間の生命を司る猫を模した神バーストは、女の姿をしているそうだ。ファラオに従う従順な従者が堕落した後、どうなると思う?」

また、遠くで破裂する様な音が聞こえてきた。また、近くで何かが崩落する音が聞こえてきた。

「天使は悪魔に。大天使は魔王に。ならば女神は何に成り得るか。表裏一体。朝の対は夜。女の対は男。荒ぶる猫は獅子。愚かにも光の名を持つ獅子は宣った、己こそ神に等しい立場にありながら、地中で生まれた憐れな子供を『天使』と」
「何言ってんのか、判んない」
「ならば我が身に流れる悪魔の血は、アダムか、キングか、確率的には罪深きノアの血こそが最も高い。だがそれを知る術はない。故に俺は、レヴィ=ノヴァの血を認めない」

何分経ったのか、焦げる様な匂いが強まっていく。それなのに何故皆、動かないのか。何故、皆。黙っているのか。

「輪廻は繰り返される。欠けた月が満ちる様に、消えた星は永き時を経て紡がれていく。一つ増え、二つになれば、三つ、四つ、五つ。ペンタグラムの対は太陽。けれどヘキサグラムの対は誰も知らない。理由は単純明快、未だ証明に至っていないからだ」

遠くで赤い何が見えた。
すぐに消えたそれと同時に世界は震動する。凄まじい音と共に。

「俺は前帝の残した日記を目にした日、真理の扉と対面した。固く閉ざされた常世への鍵は、ノアを戴冠した今を以て未だ、手にしていない。故に認める材料には成り得ない。真実は未だ、パンドラの奥底で眠り続けている」
「…会長はユーさんが死んでもいいの?」
「人とは一つの例外なく逝く運命だ。ファーストが死ねばセカンド、セカンドが死ねば幾ら元老院であれど、クライストを無視出来ない。哀れだと思うか加賀城獅楼。現本家の跡取りたるお前は、加賀城が辿った末を知っていよう」
「…」
「山梨で慎ましく暮らしていた宗家が沖縄へ追いやられた理由を、聞いた筈だ」
「じいちゃんの伯母さんが、帝王院に嫁いで死んだからって…」
「否、義姉。加賀城舞子には警備がついていた。然し彼女は死んだ。当時は病として片付けられたが、駿河お祖父様の母親が死んだ理由は、財産に目が眩んだ後妻気取りの女らによるもの」

獅楼の目から一粒、涙が零れた。

「聡明にして清廉だった神の鳥は、事実を知ったその時に堕落したとされている。己の妻に長らく毒を飲ませ続けた女を、自らの力を以て殺したその時に」
「え?」
「加賀城の全てを呪って死んだ帝王院鳳凰の怒りは、今尚、消えていない。彼の呪いは委ねられた。一つの夫婦の元へ。決して東京へは戻れない。加賀城宗家の主以外は、名古屋を越える事を許されていない。理由は明確、帝王院鳳凰の残した唯一無二の遺言だからだ」
「それ、って」
「亡き嵯峨崎可憐は、幾度となく加賀城一門の没落を企てた。彼女が姉とも母とも慕った加賀城舞子の命を、加賀城の誰もが守らなかったからだ。高森の怒りを買った加賀城は未だ、東雲の監視の元にある」

獅楼は漸く、少しだけ、理解した。

「そなたの父は婿養子だろう。旧姓は、宰庄司虎吉」
「…」
「そなたの祖父が養子に収まった加賀城の宗家、長女の名を舞子と言った。加賀城舞子、死亡時の名は、帝王院舞子」

零人が何を考えて獅楼を利用したのか考え続けてきて、答えが見えた様な気分だ。溝江の隣で眼鏡を押し上げた宰庄司影虎を、獅楼は振り向かなかった。

「加賀城敏史の生家である加賀城分家は、加賀城の乗っ取りを企てるのと同時に、帝王院の後釜をも狙った愚かしい家名だ。帝王院鳳凰の妻が死ねば、分家の娘を後妻に据えられる可能性がある。幼かった敏史が、実質的に加賀城を手にするまで待てなかったお前の曾祖父、大叔母共の罪」
「…」
「彼らは悉く自殺した。理由は明らかにされていない。それから間もなく、前帝王院財閥会長である帝王院鳳凰は逝去している。因果関係は不明だ」

加賀城の婿に入り成功した獅楼の父親は、没落した宰庄司から嫌われていると聞いている。

「嵯峨崎財閥前会長、嵯峨崎可憐は、加賀城舞子が妹の様に可愛がった娘」
「ユーさんの、お祖母ちゃん」
「遺言は、加賀城宗家を富士より東へ送る事なかれ」

獅楼の従兄は加賀城とは名ばかりで、未だに山梨県で暮らしている分家の末端だ。彼の母親が獅楼の父親の妹、若くして結婚した。獅楼の父親は妹の結婚式で獅楼の母親と知り合い、結婚するに至ったのだ。
細々とした不動産業を営んでいる加賀城分家とは比べるべくもなく、加賀城本家である獅楼の実家は大きい。同じ華族だった宰庄司が未だに成功し続けている加賀城を疎ましく思うのは無理もないと、獅楼は考えている。


「おれ、やっぱ嫌われてたのかぁ…」

道理で、獅楼の母親が世話を焼きたがる筈だ。
そうでなければ加賀城と同等の家系だからと言って、嵯峨崎の跡取りに見合い話など持ってくる筈がなかった。獅楼は初め、母親の行動が零人に対して失礼だと思ったのだ。

それでも勘違いしたままの方が、楽だったかも知れない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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