帝王院高等学校
死に物狂いの修行は心臓が三つは必要です
絶対に倒せない相手と、守ると約束した相手。
いわゆる究極の二択を突き付けられた時、どれを選ぶのが正解だと思う?


どちらを選ぶのか?
(必要なのは私情だけ)(好ましくない方を捨てるのか)

どちらも選ぶのか?
(まるで子供の様に)(喚き散らすには歳を取りすぎた)


または、どちらも選ばないのか?
(それは究極の自己犠牲)


「What do you know, EDEN?(楽しいね、エデン)」
「チョロチョロ逃げてんじゃねぇ、糞餓鬼ぁ!」
「遅い遅ーい♪」

嵯峨崎佑壱の答えは至極単純、問い掛けてきた奴を消す、だった。
片方を捨てねばならないのであれば、もっと単純な話、一人を消せば良いのであれば。

「ねぇ、何でそんなに恐い顔をしてるの?」
「Ofcourse, kill you bastard.(テメーをぶっ殺してぇからだ)」
「Amazing, separate the sheep from the goats.(良いね、それで要らない方は決まった?)」
「2−1の1が、テメーに変わったってだけだ。観念して大人しく爆ぜろ、醜く内臓と言う内臓を飛び散らせてシね!」

それは選択肢にないもう一人であっても構わない筈だ。と言うのが、彼の結論である。足し算が怪しかった訳ではない。多分。

「はは、口が悪いよエデン。可愛いワンコじゃないとシスター…パパに、嫌われちゃうよ?」
「…黙って消えろ。いやこの俺自ら消してやる、黙って殺されろ」
「だから、パパと間男のどっちかを捨てろって言ってんの」

天も地もない、白い世界のあちらこちらに、毒々しいほど赤い薔薇が咲いている。それは酷く現実味のない、なのに余りにも生々しい夢だった。

「何が間男だ」
「駄目だよ。ご飯を作って食べさせて、下手に情が生まれてる事、とっくに気づいてるんだから」
「さぁて、何の話だか」
「要に言われなくたって、僕は僕をこの世で最も理解してるよね、エデン」
「黙れ」
「だから僕は知ってるよ。エデンはパパに嫌われたくないんだ。だから見て見ぬ振りをしてる。気づいて指摘して捨てられるのが恐いから」

勘に障る笑み目掛けて振り回した拳は目的を達成した筈だ。けれど煙の様に溶けた顔は、瞬きする間もなく遠く離れた所で再び笑っている。

「狼さん、狼さん、手の鳴る方へ♪」
「猛烈にムカついてきた」

成程、触れないのであれば倒せないと言う事か。だがそれがどうした。

「どっちも捨てられないってさ、You are wolf in sheep’s clothing.(狼って言うか偽善者)」
「目の前の餓鬼を捨てりゃ終わる話だ。安心しろ、燃えるゴミに出してやる。跡形なく灰になれ」
「17歳の僕は悪い子だ。だから楽園から追放された。もう天国には帰れない」
「あれの何処が天国だ、年中薄暗い湿った洞窟中の何処が。…つくづく笑わせやがる」
「まるで冷蔵庫の中。ストーブに薪をくべると果物が腐り易くなるのに、イブは寒い寒いって言うんだ」

サボりがちな担当者、度々物資の供給は途切れ、老いた女と食の細い女は、食べない日もあった。育ち盛りな子供に多く与える事で、あの淋しい教会は辛うじて良い記憶で残っているのだ。

「ある日、松明の薪が足りなくなった。その薪をストーブにくべてしまうと、外を照らせなくなってしまう」
「やめろ」
「でもイブは寒い寒いって」
「やめろ!」

そんな事は知っている。
聞きすぎて音の飛んだレコード、古ぼけた沢山の本、老婆の目が見えない事を逆手に取って、彼女の宝物を燃やした犯人は。

「シスターは最期まであると思ってたかな。レコードと同じ棚に、沢山の本」
「………」
「どれも宝物だって言ってたのに。僕はシスターが大好きだったよね。ただ、それ以上に、イブから褒めて貰いたかったんだ」

ナイフがあれば投げつけたのに、と。
己の拳で戦ってきた事だけが自慢だった筈の佑壱が仄暗い感情で心を暗く染めた瞬間、笑っている子供の眉間に銀の刃が突き刺さった。

「何を吃驚してるの、エデン。此処はお前の中。嵯峨崎佑壱と言う人間の願望の全て。望んだ事は全て実現する。神の手が届かない、僕だけの世界」
「俺だけ、の」
「そう、僕だけの」

けれど幼い自分は笑顔のまま、ゆったりとそのナイフを抜いたのだ。

「大人になったつもり?僕は違うって判ってるよ。諦める事に慣れただけだ」
「…寝言はあの世でほざけ」
「一番信じて欲しい人を信じられなかった癖に、見放されたとか、裏切ったとか、そんな事ばかり気にしてる。見返りが欲しい癖に、他人に与える無償の施しに酔ってるの」
「煩ぇ」
「報われない子供達に与えるおやつは、子供達よりもずっとお前を満たした」
「煩ぇっつってんだろうが!」

此処で死ねば眠る本体も死ぬのではないかと、考えてしまうほどには。
自分はきっと狂っている。既に。
(死に場所は唐突にやってくるものだ)(選ぶつもりなどない)(一番大切なものを捨てた日から)(ただの一度も)

「黙って聞いてりゃグダグダ知った様な事ほざきやがって!テメーが俺なんかの筈がねぇ、悪夢が勝手に人様の自我を語るな…!」
「問1、目前の難題から逃げる事は、正しいか間違いか」
「んの餓鬼、逃げてんのはテメーの方だろうが!ぶっ殺すぞコラァ!」
「答え、どちらでもない」

ふわりと、目には見えない翼でも生えているかの様に、左右色違いの双眸を笑みで染めた子供が舞い上がった。

「エデン、頑固過ぎるよ。強い意思と頑固は違うんだ。知ってるでしょ?」
「っ、Shit!舐めやがって…!」
「愛されたかった。愛されたかった。愛されたかった。望まれなくても捧げ続ければいつか同じ様に愛して貰えるなんて、現実には有り得ない事を僕は知ってる」
「いつまで歌ってやがる糞が!」
「背中に翼を刻んでも、お前は何処にも飛べやしなかった。そんな首輪で繋がれたまま、お前は何処へ飛べると思ったの?」

どう足掻こうと届かない天空から、いつかの幼い自分は見下してくる。ずしりと重くなった喉に手を当てれば、有刺鉄線の様なものが見えた。
まるで茨の様に地面から伸びているそれは、喉にぐるぐると巻き付いているのだ。唐突に。たった、今。


「選ばないなら選ばせてあげる。ほら、」
「…嵯峨崎」

つかつかと、琥珀の瞳を持つ男が近寄ってきた。
生々しいほど精巧な、目尻の切れ上がった鋭利な眼差しが静かに見つめてくるではないか。名前を呼ばれた事に一瞬動きを止めれば、目の前に凄まじい早さで蹴りが飛んできた。

「テメっ」
「選べ。俺様か、俊を」
「煩ぇ!テメーの言いなりには絶対ならねぇっつーの、ハゲが!」
「だったら要らないのは、俊か」
「殺すぞテメー!」

ああ、もう、此処まで忠実な夢などあるものか。

「選べ。そして掃き捨てろ。その腕には二人も、抱えられない」
「…の、野郎!俺の夢の中で勝てると思うなよ、ど腐れビッチが!」

記憶そのままに、襲い掛かってくる高坂日向の動きはリアルだ。油断する暇など一瞬もない。気を抜けば負ける、何故ならば全力でも勝てた試しなどないのだ。

「駄目だよエデン。そう、これは夢の中。だからこそ少しでも苦手意識があると、お前はもっと弱くなるよ?勝てないって一度でも思ってしまうと、」
「ぐっ」
「チェックメイト」
「…ほらね?負けちゃった」

蹴り払われて、倒れ込んだ次の瞬間には、日向にマウントを許している。腕力では負けるつもりはないが、握力は負けているのだ。圧倒的に、それは証明されている。

「歌ってあげて、ベルハーツ。僕はお前の声が嫌いじゃない。抱っこして貰って背中を叩いて貰って自分のじゃない鼓動を聞いて、あの時きっと、幸せだったんだ」
「勝手な事をほざくな糞餓鬼!黙ってろ高坂、歌ったら殺す!」
「ねぇ、クラシカルなレクイエムをちょうだい?」
「…アメイジンググレイス」

だから日向の手に顔を鷲掴まれたまま、幼い笑い声を舌打ちしたい気分で聞いていた。
誰が船乗りだと舌打ちしたい気分だったが、目の前の男より上手い舌打ちなど出来ないだろう、などと考えてしまうから勝てないのだ。

「…糞猫、俺はぶっちゃけテメーが嫌いだ。いつの間にか俺よりデカくなりやがって。チビはチビらしく地に這いつくばってりゃ良かったんだ」
「それなら捨てるのは俺様だ。選択はなされた」
「なしてねぇ!テメーの思い通りになると思うな…!オカマ侍らせて一生粗末なプライドに閉じ籠ってろ、ハゲが!」

怒りで目の前が真っ白になったお陰か、苦手意識が霞んだらしい。辛うじて日向の腕を振りほどけば、投げ飛ばした日向と入れ違いに、今度は黒髪の男が飛び込んでくる。

「さァ。俺と遊ぼう、お母さん」
「っ、最悪…!」
「ははははは」

形ばかりとは言え引き分けが多かった日向よりずっと、勝てる見込みのない相手だ。苛立ちを煽る幼い自分の笑い声に、逐一構う余裕などありはしなかった。これまた忠実な再現性に舌を巻くより他ないだろう。

「なァ、イチ」
「ぐっ、やめ…っ」
「俺と日向、どっちが欲しい?」

無表情で的確に急所ばかり狙ってくる男の漆黒の眼差しは、現実の彼よりのものよりずっと冷たく感じる。その圧倒的な強さから、だろうか。

「そして俺と日向どっちが要らないのか、此処で選んでくれないか、俺の可愛いワンコ」

静かな声で尋ねてくる癖に、答える暇など与えては貰えない。生きているのが嘘の様に何度も、嵯峨崎佑壱の体は地面を滑った。
軽々しく、命の重さを感じさせない程、弱々しく。何度も。

「どうして選ばない。どうして選んでくれない。俺はこんなにもお前を、愛しているのに」
「っ、ぐ、はッ!」
「2−1の1が、お前になってしまうぞ、イチ」

何度も血を吐き、何度も血を流し、なのに意識はしっかりしたまま、痛みはあるのに気を失う事はない。最早拷問のレベルを越えている。

「い、やだ」
「何が」
「総長の命令でも、聞けない時はあるんですよ…」

現実ならば死んでいる。夢だから死ねない。
何が可笑しいのか判らないが、嵯峨崎佑壱は零れ落ちる笑みに身を任せて、唇を震わせた。

「目、を、塞いで、耳を塞いで、年下のアンタを捕まえて、逃げられない様に、俺は。…それが自分の願いだったのか、単にアンタの計画通りだったのか、もう、んな事はどうでも良い…」
「そうか」
「…俺をリコールして下院選挙になれば、満場一致でアンタが中央委員会会長ですよ、総長。その時はもう、外部生は遠野俊じゃなくなる…」
「そうか」
「…アダムへの憎しみを俺で果たせば良い。貴方にはそれが許される。なぁ、…そうだろ、帝王院俊。いや、違う」

静かな声に目を向ければ、無表情で足を振り上げる姿が見える。殺意など感じない。彼には殺意など一度も感じた事がないからだ。

「ナイト=ノア=グレアム」

飼い主の名前すら満足に知らなかった愚かな犬には、相応しい末路ではないか。左胸に手を当て、唯一神などと宣うには疲れ果てた。
確かに自分の頭が蹴り潰される音を聴いた。どうせその程度では死にはしない。



「はい!今ので十回は死んだね、エデン」

愉快げな声が、やはり楽しげに手を叩いた。
何時間ビーチボールの様に転がされ続けたのだろう。途中からは覚えていない。抵抗する隙のない、人が蟻をいたぶる様な暴力に晒され続けただけだ。

「勝てるかも知れないけど勝った事のない相手と、出逢ったその日に負けて平伏した相手。確率的に、高坂日向の方がイージーだったかな」
「…は、圧倒的にテメーをぶっ潰す方がイージーだろうが、糞餓鬼」
「糞餓鬼じゃないよ。僕は『天使』だもん」

何がエンジェルだと、血唾を吐くついでに舌打ちした。
夢の中だ。今だけは品のない行為も許される、と言うのはやはり、言い訳だろうか。

「…何が天使だ。まともじゃねぇ女から産まれて、コーヒー豆を挽かなきゃなんねぇ事も知らなけりゃ、石榴一つまともに剥く事も出来なかった、世間知らずの馬鹿じゃねぇか」
「そう、シスターはケトルに豆をそのまま入れるんだ。だからいつも、彼女のコーヒーは薄い。美味しくないから飲まないんだ。大人は匂いだけで良いなんて、嘘」
「…はは。馬鹿な婆さんだった」

掃除をする者はなく、風も吹かない、地中の教会。
いつもひんやり涼やかだったあそこには、苔以外の植物など存在しなかった。生きる粗大ゴミを隔離する、ゴミ箱だったのだ。

「イブが母親だって知ったのは外に出てから」
「…外?笑わせんな、セントラルの何処が『外』だ」
「そこで僕はエンジェルからプリンスになった」

初めて招かれた玉座、12人の大人達が着席している円卓の最奥に腰掛けるブロンドのダークサファイアは囁いた。

「神から与えられた名前はファースト」

それは一人目の証。
忘れ去られた教会から外へ出たのが一人目だと、神は過去を封じたのだ。本当の一人目は処分されてしまったから。
ああ、それでも。それら全てを知ったのはずっと、後の話だ。

「僕を消せば自分も消えてしまうんじゃないかって、考えてるね」
「…黙れ」
「僕は何でもお見通しなんだよエデン。だって僕は、お前だもん」

それなのに、それ以上を知ろうとしなかった。
自分の母親の出生に関わる『ロード』も、神威の父親に関しても、全てから。目を逸らした、これは罰なのだ。

「神に気に入られる為なら何でもした。教育係に気に入られたくて、何冊も本を読んだ。喋れる言葉は幾つもあるのに、知ってる言葉を字で書けないのは苦痛だった」
「…」
「でももう、歌ってくれって言ってくれたシスターは何処にも居ない。毎晩掛かってた音楽もない。静かな眠りはストレスが溜まるんだ。徐々に寝起きが悪くなった。低血圧だから?それとも、濃すぎる血が急速に酸化して、万年貧血だったから?」

あの時はひたすら嬉しかったのだ。

「それとも、目が覚めて静かだと、独りぼっちを思い知らされるから?」

シスターでもイブでもましてや時折食事を運んでくる能面じみた男らでもなく、初めてバイクに乗せてくれたエメラルドの瞳を持つ大人が、神と崇める皇帝に名前を与えられて、舞い上がっていた。大人の男と会話する事は、余りにも新鮮だったからだ。

「痛いも恐いも言葉としては知ってたのに、それをいつ使えば良いのか知らなかった」
「…もう黙れ、殺してやっから降りてこい餓鬼」
「頑張っている内に天才だって誉められる様になって、だけど神様にそっくりな目鼻立ちをした、本物の王子様が現れてしまった」
「Behave yourself in mine.(喋り過ぎだ)」

ごろりと、薔薇の芝生で仰向けになる。
ふわふわと天空を漂っている子供は空中で足を組み、怒りを通り越して呆れる態度だ。我ながら的確に心を抉るフレーズをチョイスしている辺り、清々する。

「素直になりなよ、エデン。僕には嘘も虚勢も通用しない。だって僕はお前」
「認めたくねぇな」
「まだ抵抗する?」
「お前が本当に俺だっつーなら、判ってんだろ?」
「判るよ。本当に今の僕は頑固だね。諦めが悪くなった」
「はっ。こちとらテメー以上の悪餓鬼共を見てきてんだよ、本当の『外』に出てから十年も経てば、考え方も変わるもんだ。お陰様でな」

人間、そうそう変わる事など出来はしない。
上手だと褒められるのが嬉しくて歌い続けたいつかの様に、言葉を覚える度に天才だとエクセレントだと褒めちぎる教育係の様に、それが今では、美味しいと褒められただけで苦労が報われる、母親の様な気持ちに刷り変わっただけ。

「本当に欲しいものは、簡単には諦めねぇもんなんだよ。母親に売られた実家を買い戻す為に、小学生の頃から働いて汚い大人に揉まれて捻くれた馬鹿みてぇに」

本人には言わないが、初めから思っていた事だ。
要に言った台詞は全てではない。隼人を信頼していると言うよりは、羨んでいるのだ。あの諦めの悪さは佑壱にはないものだと、出会った頃からその点は買っている。

「裕也も健吾も完全に類友だ。要が俺に近づいてきたのは裏があるたぁ、端から判ってた。でもあの二人は違う。あれは俺に近いものを感じやがっただけだ。…諦める事に慣れた、変な同族意識」
「誰かに従って生きる方が楽だもんね」
「我ながら、痛ぇ所を突きやがる」
「依存の矛先が変わっただけじゃん」
「…さて。生憎、それに対してこの俺ですら否定の言葉は持ち合わせちゃいねぇが、」

自分は、自分の最も傷つく言葉を知っている。

「弱い奴ほど高い所に登りたがる」
「…さぁ、選んで。僕の要らない方を棄てちゃおう。イブがレコードプレイヤーを捨てた様に」
「…はっ。何で俺がテメーの言いなりになると思ってんだ?」
「問2、我が家の家訓を答えよ」
「降りてこい弱虫、ぶっ殺してやる」
「答え、弱きは滅せよ」

幼い自分が右腕を振り上げたのを見た瞬間、左胸が裂ける音を聴いた。パイプが破裂する様に吹き出す深紅を他人事の様に眺めて、声もなく崩れ落ちる。

ああ、これは死が近い。
治らない今、例えこれが夢の中であっても、心臓が破裂すれば確実に死ぬ。人とはそう言う生き物だ。
けれど悪くはない。一矢報いた気分だ。呑気なまでにヘラヘラしていた幼い自分が、今では笑顔を消している。それでこそ本当の自分なのだ。


「どうして選ばなかったの?」

霞む視界に二人の姿が見えた。
黒髪、金髪、共通点など何もないと思ったが、そうでもなかったのかも知れない。そう言えば二人共、誕生日が同じだった。

「理由なんざ、ねぇよ」
「自分に吐く嘘ほど無意味なものはないよね。言いたくないだけ」
「獅子座だから」
「そう、ライオン。プライドと言う群れを作って生きる弱い生き物。僕はアリエスだから関係ないよね、エデン」
「…関係ねぇ、か。確かに、そうだ」
「飼い主に逆らえなくて、約束を破る勇気もなくて、だから自分を消そうとした可哀想なエデン。でもね、それを選択した時点でお前は間違ってるんだよ、エアフィールド。だってお前は、無意識に今、消えたくないと望んでしまった」
「違、」
「だから今、此処で最も強いのは、羊」

目の前に、足が降りてきた。
ばさりと音がして、やはり翼でも生えていたのかと倒れたまま見上げれば、



「How do I know my zodiac?(己の星を覚えているか)」


真っ赤だった長い髪が、急速に白く変色していくのを見たのだ。


























「おーい、お兄ちゃんだにぃ。ヨーヘー?」

ボロボロの熊さんが覗き込んだ倉庫棟の裏手、鍵が壊れている小窓から無理矢理中に入り込んだ男は、傷だらけの肘を口許に寄せて舐めながら、深く息を吐いた。

「部屋に居らなんだで此処だと思ったんだが、朝っぱらから何処に行っとりゃーすの」

叶二葉に制裁された傷は決して軽くないが、まがりなりにもレジストの総長である平田太一にこの程度の怪我は日常茶飯事だ。高坂日向からカフェカルマの花壇に植えられた事もある熊さんは、規制線が張られている窓の外をちらりと一瞥し、此処に来るまでに忍び込んだ小保健室で手に入れた傷薬を吹き掛けた。地味に痛い。

「あんの葱頭、いっぺん痛い目に遭やぁええんだわ。ケンゴを独占しとる上に、人を白百合に売りやがって…」

巨体を丸め息を吐き出せば、忍び込んだ窓ではなく施錠されている筈の戸口が音を発てた。不味いと慌てて立ち上がったものの、時に既に遅し、ガチャっと開いた扉の向こうには、黒髪を苛立たしげに掻き上げながら入ってこようとしていた美形の姿がある。

「…誰?」
「そっちこそ、こんな所で何をしているんだ」
「それは…ね」
「此処は何処だ?」

苛立たしげに前髪から手を離した男は、平田より細身で背も低い様だが、異常に雰囲気があった。中央委員会が誇る御三家に匹敵する様な存在感で、何しろ顔が異常に整っているではないか。
誰かに似ている様な気もしたが、それが誰だったかを思い出している余裕はない。工業科が有する倉庫塔に、部外者であるFクラスの生徒が忍び込んでいたと風紀に知られれば、あらぬ疑いを掛けられるからだ。

「何処って、倉庫塔だで。もしかしておみゃあさん、一般客かね?」
「一般客…」
「あ、もしかして西園寺関係者でござらっせる?」

それなら色々セーフではないかと目を輝かせた平田は、然し漆黒の目を向けてきた男が、若い頃の学園長の写真に似ている事を思い出して目を丸めた。

「あら?」
「いや、俺は帝王院関係者だ。部下とはぐれて困っている。『俺を案内して欲しい』」
「何処に?」

良い声だな〜、と他人事の様に考えながら首を傾げれば、彼は僅かばかり目を見開く。艶やかな漆黒の眼差しは、瞳孔の位置が判らないほど真っ黒だ。

「珍しいな。お前にはポリシーと言うものがないのか」
「何なの、今どえらい失礼な事言われた気がするだに」
「失礼ついでに」

つかつかと近づいてきた男が手を伸ばしてきたので、平田は無意識で避ける。然し気づいた時には壁に押し付けられており、爪先が浮いていた。
自分より細い人間が弱いとは限らないと、知っていた筈なのに、だ。

「おみゃあ何すんのっ?!」
「何、可愛い後輩を脅迫しようかと思っただけだ。気にするな」
「脅迫?!」
「外ポケットに学籍カードを入れる生徒の大半は、選定考査を経験していない。君は選定考査の経験はあるか、三年Fクラス平田太一君?」
「アリマセン」

片腕で胸ぐらを掴み体格の良い平田を持ち上げた男は、空いた片手で平田のブレザーから学籍カードを引き抜いた。余りにも鮮やかなお手並みに、やられた被害者が感嘆する程だ。

「おみゃあさん、どえりゃー男前だのに、ヤクザかね」
「失礼な奴だ。休む暇なく働いている真面目な会社員に向かって…」
「そっちの行動もえらい失礼と違う?」
「成程、一理ある。面映ゆい意見だ、三年Fクラス平田太一」

何だこの偉そうな男は、と。
基本的に楽天家な平田が珍しく太めの眉を寄せれば、奪ったカードを内ポケットにしまってくれた男が手を離した。殴ってやろうかと一瞬悩んだが、勝てそうな気がしない。

「アンタ、何処のチームだの」
「チーム?」
「どう見ても堅気じゃにゃあね」
「…ああ、思い出した。誰かに似てると思えば、可憐さんか」
「カレン?!」
「俺を皇子と呼んだ、勇ましい姫君を思い出した。有難う、君のお陰で少し気が晴れた」
「は、はぁ?それは良かったね…?」
「ああ、実に悪くない気分だ。あの人は俺の憧れの姫君だった。賢い人だった。料理も上手だったが、如何せん、目付きが恐ろしく悪かった。そこもまた良い」
「は、はぁ、さいですか…」

マイペースなのか、今の今まで人様の胸ぐらを掴んでいたとは思えない男は、平田のブレザーの襟を爽やかな笑顔で整えて、黒々とした眼差しを眇めた。
ただでさえ雰囲気のある美形のその様は、恐ろしい以外の何物でもない。チビりそうな気配だが、既にチビっていたかも知れなかった。

「で、だ。すまないが、俺を人目につかない様に、息子の所まで連れていってくれないか」
「………息子?ちぃとみゃあ待って、アンタ幾つ?」
「35歳」
「はぁ?!どえらい童顔っ!」
「誉めてるのか?どうも貶されている気がするが…」
「誉めてる誉めてる」
「そうか」
「オッサンの息子がうちの学生だに?何年生?」
「一年生…だが、そっちじゃない。もう一人の、出来が良すぎて困っている馬鹿息子に、今すぐ会いたいんだ」

声を潜めた男から、殺気の様なものを感じた気がする。
ゾクゾクゾク、と、悍しい早さで背を駆け抜けた寒気に悲鳴を飲み込んだ平田太一の顔色は、叶二葉を目前にした時よりもずっと悲惨だ。
山田太陽を見掛けた時のグレイブ=フォンナートが赤かったり青かったり奇妙な顔色を晒しているが、今の平田もまた、似たようなものなのだろうか。形振り構わず言いなりになってしまいたいと言う欲求が、首をもたげている。

「そ…その息子の名前は?」
「君と同じ三年」

ああ。
良く良く見やれば、学園長よりもずっと、彼に似ているのかも知れなかった。特に今の恐ろしい目付き、腰に響く様な低めの声も、あの叶二葉よりずっと恐ろしい男に、そっくりではないか。


「名は、帝王院神威。」

なのに何故、想像している男とは全く違う名前が飛び出したのか。
そもそも同級生と言うだけで何の接点もない中央委員会会長にどうやって会うと言うのか、残念ながら純粋な素行の悪さと頭の悪さでFクラスを余儀なくされている平田太一18歳には、一ミリも理解出来なかった。

兄より賢い自称双子の平田洋二17歳が此処に居たとしても恐らく、答えは出なかったに違いない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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