帝王院高等学校
愛さえあればイジメも許されますかっ?
「…都心とは思えないな。この辺りは静かだ」
「あー、連休前の日曜日だもんねぇ。早い所は今の内から休んでるそうですよ。何だっけ、9連休だっけ?羨ましい話ですねぇ」

徐行表示に従って、タクシーのホイールは無人の商店街をゆったり滑っていった。
窓の向こう、シャッターが降りている店先を物珍しげに眺めていた男は、運転手がハザードを点滅させた瞬間、組んでいた足を解く。

「此処がお客さんの言ってた喫茶店だと思いますよ。ちょっとした有名所でね、以前は毎週土日は人が集まってたもんです」
「…そうですか」
「店と同じ名前のカルマっつー不良らしいんですがね、何が良いんだか。見目の良いアイドル気取りの子供らに、きゃーきゃー騒いでましたわ。それが少し前から、」
「幾らですか」

長話に興味はないとばかりに、彼は溜息混じりに財布を開いた。
若者に人気のカフェになどおよそ無縁そうな、パリッとした仕立ての良いスーツで身を包む、雰囲気のある男だ。

「有難うございました。また宜しく」
「…どうも」

空港から此処まで結構な金額だったが、一万円札で支払いを済ませ釣りは不要だと言った彼に、運転手は判り易く愛想笑いを深め、トランクに詰んでいた荷物を下ろして走り去っていった。
残された男は暫く商店街を眺め、人の気配がしないウッドテラスを横目に、カフェの入口へと足を進めたのだ。

開かないだろうと思っていたドアへ手を伸ばせば、かららん、と。レトロな音が響いた。
タクシー運転手の前評判を差し引いても、普通の喫茶店と何ら代わり映えしない。まず入ってすぐ左手にレジ、それから伸びているカウンターは広く、サイフォンなどの本格的なコーヒー器具が望める。
コルク造りのコースターが幾つも立て掛けられている小さなマガジンラックには、見覚えのある洋楽のCDがディスプレイされていた。


「…誰も居ない、のか?」

若者に人気のカフェと言う枕詞に相応しくなく、落ち着いた内装の様に思える。掃除も行き届いており、ボックス席の境に置かれた手書きの看板には、『店長おすすめ日替りランチ』と流暢な字で書かれてあった。

「店長は高校生だと聞いていたが…」
「あっら?お客さん?」

カウンターの内側、コーヒー器具とカップが並ぶ棚のまだ裏、対面式キッチンの様な造りになっている恐らく厨房の辺りから顔を覗かせたのは、若い男だ。白いシャツに黒のスラックス、片手に腰に巻くタイプのロングサロンを携え、もう片手に箒を持っている。

「すいません、うち今日は10時からなんです。ランチタイムに出直して貰えます?」
「あ、いや、息子が世話になっているそうで、今日は挨拶に来ただけなんだ」
「へー、息子?」
「つかぬことを窺うが、君が店長の嵯峨崎君かな?」
「いや、俺は臨時バイトの斎藤です。『さ』違いっつーか、店長の榊は今ちょっと買い出しに出てて、」

からん、と。
再び鳴いたドアベルへ目を向ければ、眼鏡を押し上げながら入ってきた男と目があった。

「あ、丁度帰ってきた。榊、清子さん何か言ってた?」
「ナツメグだけ買いに来るなってよ。…また訳の判らない古本売り付けられた」
「ヒュー、流石は商売上手な清子さん。あ、こちらお前に用があるって」
「どうも?」

紙袋をカウンター越しにバイトの青年へ渡した男は、日本人離れしたスタイルの男だ。180cmはとうに越えており、腰の位置も高く、目鼻立ちもしっかりしている。
暫く見つめてしまったからか、榊と呼ばれた男は怪訝げに眉を潜めた。

「君、幾つだ?」
「は?…21、ですけど」
「…21?それは失礼した、私と変わらないくらいかと思ったものでね」
「あー、そうですか。老けてるってのは、良く言われます」

痙き攣った笑みを浮かべ、カウンターの内側へ入っていった男はさりげなく眼鏡を押し上げる。世界中を駆けていると、外見と年齢が合わない人間など幾らでも居るものだ。
それにしても二十歳そこそこの人間には思えない雰囲気を纏う男を横目に、スーツの内ポケットから取り出した名刺入れを開く。

「挨拶が遅れて申し訳ない。私はこう言うものです」
「ご丁寧にどうも。あ、うちは名刺がないんで口頭で失礼します。店長の榊雅孝と申します………ショーゴ=コーヤ、さん…」

名刺に目を落とした男が、暫くしてから目を上げた。
何度も名刺と顔を往復している所を見るに、『似てない』とでも思っているのだろう。余りにも聞き慣れた台詞なので、言われた所でどうと言う事でもない。

「高野省吾です。健吾がこちらでお世話になっているそうで。皆さんの話はリヒト…裕也君から、少し」
「ああ、そう言う事でしたか。どうぞ座って下さい、ろくに準備が出来ていないので、コーヒーくらいしかお出し出来ませんが」
「いや、邪魔になるだろう。私はすぐに、」
「いえ、健吾のお父様を何の持て成しもなく帰したとあっては、オーナーから叱られます」
「オーナー?」
「嵯峨崎佑壱。未成年なんで自分が代行していますが、この店の本当のオーナーです」

手慣れた動作で冷蔵庫からフィルターを取り出しながら、彼は笑みを零した。やはり年齢に似合わない、酷く大人びた笑みだ。
高野省吾は数々の楽団で指揮棒を振ってきた経験から、己の目と耳に絶対的な自信があった。何か事情があるのだろうと心の中で己を納得させて、疑問の追求を控える。

「失礼だとは思ったが、暫く帰国する暇がなかった。だからと言う訳でもないが、その筋の人間に幾らか調べさせていたんだ」
「興信所ですか。ま、調べられて困る事なんて…ああ、夜遊びですか?健吾なら、最近は大人しくしてますよ」
「嵯峨崎君はあの嵯峨崎財閥会長の次男、クリスティーナ=レイの息子だそうだな」
「腕利きの探偵を使ってるんですね。ハリウッドのトップシークレットを、そこまで簡単に調べる事が出来るとは」
「…昔、サンフランシスコでキング=ノアにお会いした事がある」

カシャン・と。
ティースプーンを落とした男を見やった。一見する所、無表情にさえ思えるその表情は、一般の21歳では有り得ないものだ。少なくともグレアムを知らない人間であれば、浮かべる筈がない。ささやかな狼狽さえ、だ。

「すまない、余計な事を言った様だ」
「いえ、手元が滑りました。それで、今回の帰国は新歓祭ですか?」
「元気にしている所を見たら、すぐに戻るつもりでね。本来、昨日には着いていた予定が延びてしまったもので」
「…ああ、テロがあって空港が閉鎖したらしいですね」
「良く知っているな。マイナーニュースだったろうに」
「まぁ、店長なんてやってると、それなりに時事は気に掛けているもんで」
「気をつけた方が良い」
「は?」

サイフォンから立ち上る香ばしい薫り、テラスに続く全面ガラス張りの大きなサッシの向こう、グリーンカーテンに水をやっているバイトの青年を横目に、足を組み直した。

「君の日本語は少しばかり訛りがある。海外に渡航した日本人に良くある、鼻に掛かったイントネーションだ」
「…」
「斯く言う俺も、以前帰国した際、死んだ両親に指摘された事がある」

一人称をわざとプライベートな『俺』に変えれば、眼鏡を外した男は深い息を吐く。予想通り、伊達眼鏡の様だ。

「成程、見た目はともかく、流石は父親か。底意地が悪すぎる」
「誉め言葉だな。誰にも言わないと約束しよう。純粋な好奇心だ、本当の年齢は?」
「………46」
「何だ、四つ下か。それは整形?流行りのアンチエイジング?さっき入ってくる時に歩き方がぎこちないと思ったんだが、怪我か?」
「過ぎた好奇心は身を滅ぼす」

かたり。
湯気が漂うソーサーが目の前に。先程までの粗野な愛想笑いを削げ落とした日本人は、今や惚れ惚れする程の無表情で吐き捨てた。

「…天才と名高いアジア出身のコンマスが、とんだ悪戯小僧とはな」
「分厚い猫の皮を被っている癖に、俺ばかり悪者にしないでくれるか。苛めて欲しそうな顔をしている方が悪い」
「良く今まで刺されなかったものだ」
「ああ、今の妻から良く言われる言葉だ。目を吊り上げて喚き散らすのが彼女のチャームポイントでね」
「それがチャームポイントとは」
「俺の嫉妬を引きたくて浮気する様な女だが、そこがまた良い。苛め甲斐がある」

痛いほどの非難の目に晒されながら、口をつけたコーヒーは美味い。お世辞ではなく、これが日本で飲めるのであれば上等だ。喫茶店の真価はコーヒーの味で決まると言っても過言ではない。

「…それより、近頃アメリカがキナ臭いのは知っているか?」
「アメリカが?」
「『中央市』」

背筋がぞくりと冷えた。
コーヒーを出してやった、とばかりに仕込みを始めていた榊が肩越しに振り返り、凍る様な目を向けてきたからだ。
自他共に認めるSの高野ですら勝手に零れる笑みを耐えられないのだから、正常な人間など一溜まりもないだろう。明らかにこれは普通の人間ではない威圧感だ。

「帝王院学園は恐ろしい場所だ。逆に言えばあれほど安心出来る場所もない。可愛い息子を預けるには、これ以上ない場所だった。…少なくとも、今までは」
「…そなた、何を知っている?」
「妻のパトロンに『名無し』の富豪が居るんだ。表向きはヒューストンで精密機械メーカーをしているが、シャドウウィングと言う特別製の車を製造している」
「………想像以上に、知りすぎているらしい。死にたいのか」
「そんなヘマはしない」
「過信は身を滅ぼす」
「それは口癖か?それとも、君は身を滅ぼした事があるのか?」
「教えてやる必要はない」
「成程、榊は友達居ないだろう?」
「え〜?ダチ居るよな、俺が!」

いつの間に店内へ戻っていたのか、ヘラヘラ笑いながら箒と霧吹きを手に近寄ってきたバイトは、硬直している榊を横目にシャツのボタンを外した。正規の客ではないとは言え、来客中とは思えない態度だ。

「つーか、おっさんさ、さっきからうちのミヤビちゃん苛めないでくれます?」
「ミヤビちゃん?」
「あんま太郎を苛めると、シーザーに目をつけられまっせ」

繰り返すようだが、高野省吾は己の目と耳に絶対的な自信があった。地方から東京の有名音大へ進み、在学中にその腕を買われて渡航し、現在に至るまで己の腕だけで上り詰めてきた自負があるからだ。

「…やはり、世界は広いな。斎藤君だったか。君は、どうも俺と同じ側の人間らしい」
「…は?」
「嫌だなー、何なんスか、おっさん。だから俺はただのバイトですって、小遣い稼ぎの臨時バイト」
「斎藤呉服屋、いや、武蔵野貿易か。君の祖母君は、イタリアンマフィアの出だろう?」

知らなかったのか、目を見開いた榊は裸眼のまま、古い付き合いだと思ってきた悪友を凝視している。くるくると箒の柄を回したまま、ぼりぼり頭を掻いている男は奇妙な笑みだ。
 
「おっさんさ、何処の興信所雇ってんだよ、マジで…」
「君の曾祖父は有名なゴッドファーザーだった。それこそ、中央市に名を与えられる程に」
「武蔵野…?」
「あーあ、平々凡々に気楽な呉服屋の跡継ぎで終わりたかったんだけどな。…すんこに黙っててくれるんなら、俺はお前の正体を『あの方』に教えないって約束するぜ、太郎ちゃん」

遠野俊の実家の隣に住んでいて、遠野俊が引っ越してきた頃に両親の離婚を期に、以来流行らない呉服屋の跡取りとして、適度に反抗期を迎え、今では更正して?
頭の中でぐるぐると走馬灯の様に考えを張り巡らせている榊を横目に、高野は頬杖をつきながら足を組み替えた。

「気になると知りたくなるのは人間の性だ。俺はこのお陰で何度か痛い目を見たが、性分は中々直るもんじゃない」
「良い歳して、おっさん息子にそっくりだ」
「有難う。俺もそう思う。娘にも祟ったのか、15歳で子供を作られてしまった。この歳で孫が居る」
「ワォ。マジか、凄ぇ」
「しかも健吾より年上だ」
「やっる〜ぅ♪」

からっと笑えば、微動だにしない榊を余所に、バイトもまた笑った。どう考えても笑っている場合ではないだろうが、どうやらこの場にはまともな人間は居ないらしい。

「おっさん、さっき王様に会った事があるっつってたな。あ、俺実は読唇術が出来るんだよ、気にすんな」
「嘘吐け。何処かに盗聴器でも仕込んでるんじゃないのか?」
「はは、やめろよ、榊が警戒するだろ〜?」

箒を手に、きゃぴんとポーズを取ったバイトは、ビクッと肩を震わせた店長に満面の笑みだった。


























「いやー!隼人君のあんよに何か登ってきたあああ!!!」

神崎隼人は元気に泣き叫んだ。緊急事態ではあるが、健全な15歳とは思えないガチ泣きだ。

「案じるな、ただのバイオジェリーだ。俺の記憶にはない毒々しい色合い、恐らく新種と見えるが、触れても最悪肉と骨が溶けるだけ。一匹二匹では死にはしない。かなり痛いだけだ」
「へへへ陛下!それって案じる必要のないものですかね?!」

何も出なくなった消火器を神崎隼人が投げつければ、わらわらと散らばった赤と黒の集団の内、何故か赤ばかりが隼人の足を登り始める。
最早形振り構わず悲鳴をあげている次席の醜態に、哀れクラス委員長は混乱の余り、隼人の足に群がる鼠を素手で払っていた。

「く、黒いのはじゃんじゃん溶けてます!でも消火器の中身が水じゃないと効果がないなんて盲点でした!」
「水であれば何でも良いが、著しい水不足に陥った今、消火剤では足留めにしかならん。今暫し待て、俺の膀胱に尿が貯まれば形勢逆転も考えられる」
「おおおおしっこ?!駄目です陛下っ、畏れながら陛下がそんな事をなさってはいけません!」

出すなら僕が出すと、男らしくベルトに手を掛けた野上は間違いなく混乱している。一匹残らずこの場に留めておかねば、第五キャノン地下のクラスメート達の身が危ういからだ。

「で、出ない…!こんな時に限って出ないなんて!畜生っ、さっき紅蓮の君の立派なアレを見てしまって、チビっちゃったからだ!僕のバカ!」
「…何、ファーストの立派なアレだと?構わん、詳らかに説明せよ」

きらっと腐った目を輝かせた…気がしないでもない帝王院神威は、こんなんでも中央委員会会長だった。その余りの美貌にパンツを下げている野上が顔を染める程には、イケメンだった。然しそれら全てが台無しなほどに腐っているのだ。

「成程、ではファーストは排泄したゴミ袋を高坂の靴箱に仕込むと言った訳だな?」
「そうです!紅蓮の君は光王子と犬猿の仲でいらっしゃるので、例え先輩であっても手を抜かないのだと思います!」
「いやあああ!!!ユウさあああん、ボスううう!!!たーすけてえええ」

戦力にならない隼人は涙ながらに逃げ回り、転がっている消火器を転がしたり躓いて転びそうになったり、とてもではないが芸能人とは思えない有様だ。天井から覗いている外野からも、ブーイングが届く程に。

『ハヤトさん、アンタ今最高にダサいわ〜ん!』
「うっせー!人の苦労も知んないあほ共、とっとと水持ってきやがれえ!いやあああ、赤すけが黒すけに群がってるううう、きもいいいい!!!」

水で溶ける黒鼠に対して、徐々に増えてきた赤鼠は、水だけでは動きが悪くなる程度だと判ってきた。
大きめに開けられた天井の穴から、ロープで繋がれたバケツが降りてくるなり無表情で受け取った銀髪と言えば、悶えている隼人の悲鳴など何処吹く風だ。
佑壱が日向の靴箱にスカトロ過ぎる悪戯をする時は一秒たりと見逃さず撮影しようと心に誓い、あれ、それってもしかしたら俺様副会長×悪戯っこ会長じゃね?と、無表情でハァハァしている。神威にしてみれば日向も佑壱も受けにしか見えないが、萌えには時に妥協が必要なのだ。


「む。これしきの水ではどうにもならんな」

それにしても、地獄の鼠は一向に減らない。初めの内は良かった。
黒鼠だらけの時はまだ、工業科の作業場や倉庫などから運ばれてきた『水入り消火器』のお陰で、駆除がスムーズだったのだ。然しそれに赤鼠が混じる頃、事態は急変した。それはもう劇的に。

「いやあああ、鼠が鼠を溶かしてるううう!!!キモいキモいキモい、もうやだー!隼人君のキャパ越えてるんですけどおおお!共食い?!共食いなのお?!」
「そう狼狽えるな。寝惚けたファーストがアレを抱えてベッドに戻るなり首筋に噛みついた瞬間など、BL所か猟奇映画かと思った程だ。共食いなど人の世界でも良くある習慣だろうに」
「あって堪るかあ、ばかー!おめーはあれか、デリシャスボスを食事的な意味で食べるつもりだったのお?!何様なの?!隼人君だってまだ食べて貰った事ないのにい!」
「星河の君!何だか色々刷り変わってます!」

そもそも定期的に取り替える義務のある防災設備は、それぞれのクラスに振り分けられた経費で賄う仕組みになっており、設置した設備の数だけ更新年度に予算が組まれている。
にも関わらず、全学部の中で最も防災設備を必要とする筈の工業科らが運んできた消火器は、8割方、中身が水で置き換えられたデコイだったのだ。

「陛下っ、今後消火器の取り替えは、コスト削減も兼ねて半分ずつにするべきでは?!」
「ほう。つまり使用期限の切れた消火器の幾つかに、今回の様に水を詰めておけと言うか」
「経費をケチったのは悪いと思いますけどっ、工業科以外の消火器は中身が消火剤で使い物になりません!」

こんな消火器使えるかと、半狂乱の野上は真っ赤な消火器を男らしく投げつけた。それによって数匹が屠られたが、うじゃうじゃ犇めいている今、雀の涙である。
消火器は正しく使いましょう。

「確かにEクラスの横領は見過ごせんが、それは俺ではなくセカンドの職務だ。追って三年Sクラス叶二葉より工業科の教職員・生徒一同にそれなりの対応があるやも知れんが、私としては誉めてやらん事もない。大儀だ」
「もういっそ、ラストサムライごと燃やしてしまいませんか?!そして燃え尽きた頃、消火剤を撒けば良いんですよ!ははは、燃えてしまえ!全部燃やしてしまえぇえええ!!!」

濃すぎる一年Sクラスを纏めている内に、野上直哉は人としての何かを見失った様だ。神威は無表情で面映ゆいと呟いたが、全く面映ゆくはない。哀れだ。

「そうか、肉を切って骨を断てと言うか。勇ましい男よ、流石はクラス委員長」
「いやあああ、また登ってきたあああ!!!何でさっきから隼人君にばっかり寄ってくんのよお、ばかあああ!!!」

何故か赤鼠にモテモテな神崎隼人は、逃げ回りすぎて息絶え絶えだった。田舎育ちで体力にはそこそこ自信のある野上はその度に消火器を振り回し、辛うじて隼人を救っているが、どちらも満身創痍だ。その割りに鼠は増えるばかり、減る気配がない。

「な、何、何なのよお…!隼人君が何したってゆーの?!ただイケメンで優秀で天下無双なだけなのにい!」
「流石は星河の君っ。こんな時まで自画自賛に余念がないなんてっ」
「ふむ。我らが級長はさらっと毒を吐く様だ」

野上の軽やかな皮肉で若干ハートにダメージを受けた隼人は、八つ当たり宜しく神威を睨んだ。
何故だか判らないが、鼠達は神威にはそれほど近づかない様に見える。野上は靴の底が抜けるほど踏み潰した所為で殆ど裸足同然だが、隼人ほど追い回されてはいない。
けれど特に赤い鼠らは、何故か隼人が動く度にガサガサと、隼人を追い掛けた。

「や、やっぱりーっ!!!こいつら隼人君を狙ってるっ!」
「ふむ。恐らく血に寄っているのではないだろうか。怪我をしている脇腹から、逃げ回る度に血が滴っている。そろそろ安静にせねば死ぬぞ」
「言われなくても安静にしたいっつーの、あほー!ストーカーの霊が乗り移ってるんだよお、きっとーっ!誰なのお?!隼人君のストーカーなんて星の数ほど居るのにー!」
「えっ?!星河の君、ストーカー化したファンが思い余って自殺したんですか?!」
「知んないけど多分してない。してたらあ、今頃センテンススプリングに狙われてえ、あれこれ毟られてるよねえ」

下半身は弛いが修羅場はない、神崎隼人の何とも情けない持論はともかく、神威の手からバケツを奪いそれを踏み台に天井の穴にぶら下がった隼人は、ゼーハーゼーハーと荒く息を継いだ。

「ちょ、ちょっとお、そこのカイチョー…!てんめー、どうにかしやがれえ…っ」
「俺の事は気安く俺様陛下と呼ぶが良かろう」
「はあ?絶対イヤなんですけどお。よいから早く何とかして!いやあ、集まってきてるー!」
「水がなければどうにもならん。良し、放尿せよ」
「モデルにンな事出来っかあ!!!…うっうっ、何か隼人君の心が乾いてきたかもお。ここ、いつから砂漠だったの…?オアシスはどこなの…?」
「喉が乾いたのか?…致し方あるまい、口を開けろ」
「へへへ陛下?!」

無表情でスラックスのファスナーに手を掛けた美貌を見つめ、野上は眼鏡を吹き飛ばし、ぶら下がった神崎隼人はパサッパサな笑みを浮かべる。

「何を隼人君のお口にぶっ込もうとしてんのか知りたくもないけどお、どっちを飲ませようとしてんのかも知りたくないんですけどお」
「何と笑いが判らん男だ。お前と俺は決して判り合えない運命らしい」
「つーか判り合いたくないんですけどお」
「お前は一度ヒロアーキの爪の垢を煎じて尻の穴に詰めよ。それでも妖狐顔か」
「いんちょ、このひと何ゆってんのか判んないんですけどー」
「えっと、今のは僕も判んなかった様な…」
「案じるな、俺は総じて天才型と謳われるAB型だ。凡人に理解出来んのも無理はない」

わらわらと、バケツの上に赤と黒が群がっていく真上、エビフライ型のAB型は天井の穴を掴む両腕をぷるぷる震わせた。怒りやら呆れやらで今にも落ちそうだ。

「は…隼人君もAB型なんです、けど!」
「頑張って下さい星河の君っ!今手を離すと大変な事に…!」
「うぬぬ…!カ、カルマは諦めない、にょー!」

確かにカルマで最も諦めの悪い、根に持つ男は必死で唇を噛み締めたが、精神的持久力に引き換え体力はないので、そろそろ駄目な気配しかしない。
隼人がぶら下がった分だけ鼠に群がられている野上も逃げ回るのに忙しく、今にも落ちそうな隼人を無表情で眺めている神威は何処までも無表情だった。

「ぐ…!ぐぎぎ…!あ、諦めないもんねえ…!は、隼人君は、一人で頑張れる子だもんねえ!はあ、はあ…」
「そうか」
「運命だか何だか知らないけどお…っ、あの時こうしてればああしてればなんてえ、弱虫の逃げ口上じゃんか…!カ、カルマはあ、逃げたりしねーっつーのっ、負けて堪るかあああ、くそがあ!!!」

ぶらぶら垂れ下がる隼人の爪先に、積み重なった鼠の頂点が今にも届きそうな瞬間、ぎゅっと目を瞑った隼人の両手はコンクリートから離れる。
然し体は浮いたまま、鼠達を踏んだ気配もない。

「う、え?」
「求めていない救いを好まぬ相手から与えられた場合、得る感情はどんなものだ?」

酷く近くから聞こえてきた囁きに隼人が目を開けば、ぽかんと見つめてくる裸眼の野上と目があった。恐る恐る見やった腹にその腕は巻き付いており、足元には散らばっていく鼠と、先程まで群れに埋まっていたバケツが見える。

「………てんめー、何のつもりだこらあ」
「悲しい事だ。お前は今一声に重みがない。そう舌足らずであれば、身に合わぬあざとさを被るも道理だ」
「馬鹿にしてんのお?!巻き舌が出来るからって勝った気になんないでくんない?!隼人君だってもしかしたら今後声変わりするかも知んないし、」
「ほう、まだか」
「………中一ん時にしたけど…」
「望みは限りなくないに等しい」

神威が溜息をわざとらしく零した瞬間、鼠が愛らしく鳴いた。
但し愛らしいのは泣き声だけだ。

「きゃー!ちょちょちょ、水まだあ?!早くしてよお、まだあ?!」
「どうしましょう陛下!これ以上この場に留まるのは危険だと思います!でも戻るのはもっと危険ですよね?!ラストサムライを皆の元に連れていくのは、やっぱ不味いですか?!」
「そなたら、気安く俺に抱きつくな。俊に要らぬ嫉妬をさせるではないか」
『『ぎゃー!!!』』

ああ。
天井から響いてきた悲鳴に嫌な予感しかしないと、中央委員会会長に張り付いたモデルと眼鏡は震え上がった。

「あ、あは、あは、あは…」
「そ、外にもラストサムライが居た、なんて…」
「ほう、面映ゆい」

うぞうぞと蠢く穴の向こうのそれは、毒々しい程に赤い。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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