帝王院高等学校
罪に濡れた永劫輪廻の系譜
最初の半年は一日に三度食事が運ばれてくる、まるで牢獄の様な本に囲まれた部屋で過ごした。
事あるごとに馬鹿だ馬鹿だと嘆く教育係は、その内に字が読める様になっても、褒めてくれた事など一度もない。

いつからか細い棒の様なもので叩かれる様になった。
我慢する事は得意だったし、その痛みを痛いと言うだけの知識がなかったので、だから彼の逆鱗に触れたのだろうか。

いつからか変な笑みを浮かべる様になった教育係は、天使を人間に戻すプログラムと言うものを始めた。服で見えない位置に傷をつけられたり、運ばれてきた食事を目の前で捨てられたり、酷い時は数日ほどトイレを使わせて貰えなかった。
排泄と言う、動物の最も無防備な光景を、他人の目に晒さなければならない人間の感情はどんなものだと、狂喜が滲む笑んだ双眸に尋ねられた時の事は忘れない。

「さて、今の感情はどんなものだ?」
「…」
「ふん。死人の分際で睨む事を覚えたか。…穢らわしい」

その図書館には、その狂った教育係の他には、機械の様に食事を運んでくる人間しか来なかった。人間になる為のプログラムは日毎、体も心も蝕んでいく気がする。

「『楽園』で産まれた『アダム』には、宿るべき感情が欠如していた。…それがどうだ、今では他人の前で糞尿を撒き散らし、飢えに耐えきれず羊皮紙を噛みきるなどと」

彼女らはどうしているだろうか。
彼女らの憧れた『外の世界』には、目映いほどに青い天井がある代わりに、眠っている間さえ紡がれていた音楽も、薪を足さねば消えてしまう松明もないのだ。

「お前達は本来、殺されていた筈だった。裏で糸を引いていた元老院が、神の怒りを逸らす為に」
「…でも、生きている」
「私達が隠してやったからだ」

青カビの生えたオレンジを食べる事も、乾燥した柘榴の粒で口の中を切る事も、焦がしたパンの耳を湯に落としてコーヒーだと言い張り、皆で笑う事もない。

「お前らはシリウスの手で産み出された。然し真実を知る権利は、誰にも与えられている。それが例え、死人であろうと」
「真実…?」
「お前は完全なる『体』だ」

それは、知らなければならないのだろうか。
知らないまま『自由』に憧れている時の方が、何故、幸せに思えたのだろう。


「さて、では卒業試験をしようか。此処から出たければ、此処で学んだ全てを集結して『正しい自己紹介』をしろ」

ああ、どうして。
未だ会う事も許されぬ神よ、貴方に一つだけ、尋ねたい事があるのだ。


「…我が名、は」

外の世界には、あらゆる所に石像が置かれている。
目の前の狂った男ですら左胸へ手を当て、地を舐めんばかりに平伏する、その像は神の姿だと言った。

「キング、ノア、グレアム」

初めに覚えさせられたのは、その三つからなる単語を繋いだ、神の名前。

「及第点、と言った所か。陛下がお呼びになられている。至急身を清め、失礼のない態度でご挨拶を」
「先生、ご挨拶、とは?」
「言葉を一々区切るな、等しく全ての人間を虫と思え、そう教えただろう?それに、私はもうお前の教育係じゃない」

たった半年弱で殺したいとさえ思った男の手に引かれ、その静かな図書館から追い出される様に外へ出た瞬間の事は、忘れないだろう。



「Good luck, Rord ADAM.(ご武運をお祈りしております、アダム閣下)」

左胸へ手を当てた彼は、深く頭を下げた。
彼の旋毛を見たのはそれが、初めてだったのだ。






お前達は二人で一つだと。
物心ついた頃、食事と共に初めてやって来た『食べられないもの』は、小さい人間だった。

光が見えない母は皺だらけの手で、赤子の輪郭を確かめるように慈悲深く撫でると、そう言ったのだ。


お前達は、二人で一つだと。
お前は今日から兄になるのだと。
この子はお前の妹だと。

だから、その子供が初めて『兄様』と喋ったその日に宿ったこの感情は、恐らく『愛』だったのだ。




「そなたが十人目か、弟よ」

初めて見た『神』は、波一つない教会の外にある水面に映る顔と、まるで同じ顔をしていた。けれど全く違うのは、纏う存在感そのものだ。

「陛下、お戯れを。それは弟君などではございません」
「やれやれ、特別機動部長は相も変わらず頭が固いのう。よいではないか、陛下が弟と思えば弟で」

左元帥は黒のスーツで身を包み、印象的なエメラルドの瞳で静かに見据えてくる。まるで異端な何かを見る目だ。
片や目元に若干皺のある白衣の男は、微笑んでいる様な表情と声音ながら、何処か寒々しい目を向けてきた。まるで獲物を狙う獣の様だ。

「…この失態は貴方の責任だがね、コード:シリウス。陛下がお許しになったからと言って、全てが不問だとは思わない事だよ」
「ふん。よいだろう、それが何ぞやらかしおったら、この儂自らの手で解剖してくれるわ」
「お二人共、陛下の御前ですぞ」

円卓の様に配された、巨大なテーブルの椅子の数は12。
その中央に立たされたまま、円卓の奥のまだ向こう側、一人だけ玉座に座る神は最も遠い位置から、マイクを通した声が届くばかり。他の12人からは、誰一人として好意的な雰囲気は届かない。

「アダム、と言ったか。それでは些か不便があろう。そなたにコードを与える」
「…コード?」

ざわざわと、円卓がざわめいた。
口論していた玉座から最も近い位置の二人も、驚いた様に目を見開く。

「ベテルギウスには先に通達している。そなたはこれより、アダムの名を捨て、ロードを名乗るが良い」
「ロード」
「地に上がれぬ盲目なる私に代わり、道標となれ」

暗い、暗い、ダークサファイアは囁いた。
彼は神であり兄でありそして、誰だったのだろう。

「ただのバックアップに名を与えるなど、我が主とは言え、些か酔狂が過ぎるわ」
「…陛下のご命令なのだよ。口を慎む事だね、コード:シリウス」

ざわざわと、他人が蠢く気配。
好意的な雰囲気は微塵もない。ならば全身を刺すこれは、彼らから立ち上る嫌悪感なのだろうか。

「出来損ないであればそれで良いのだよ。体さえ残れば、いずれ陛下の脳を移植する事が出来るのだろう?」





外の世界には、悍しいものばかりが存在している。
あの小さく狭く暗い常世の教会が何故楽園と呼ばれるのか、理解するまでそう懸からなかった。

「イブが処罰される?!」
「左右両元帥の決定だ。恐らく、翻る事はないに等しい」
「何故、そんな…。私達は陛下のご命令通り慎ましく暮らしてきたのに、どうして…」

外の世界には、そのまだ外がある。
まるで宇宙の様だ。宇宙の外にもまた宇宙があるのだと、夜空を見上げ星だと思っていた光の一つ一つこそ銀河なのだと、知識として知った日の事を思い出した。

「日本からやって来た男がイブを誑し込んだそうだ。二人で逃げようとした所を、取り押さえられたらしい」
「まさか、イブが裏切ったのか?…そんな筈は、」
「男はコード:アビスレイ、アメリカへ留学後パイロットの免許を取得、6ヶ国を理解するスキルを買われ、元老院アシュレイ長老の推薦もあり入閣した」
「アシュレイ…。それは、エアリーの」
「アビスレイの父親は、レヴィ=ノヴァの盟友だったそうだ。本来ならば死刑に等しい冒涜だが、命だけは免れた。だが、イブはどうだろう」

日本へ向かう飛行船の中、日本からやって来た『光』の名を持つ見知らぬ男へ、ただ。

「…どうすれば、イブを助けられる。先生、良き知恵を教えて欲しい」
「今のお前には無理だ」
「それではイブが消されてしまう!」
「お前は神を越えられると思っているのか?」

腹の奥に轟く醜く黒い何かを募らせて、今。

「…但し、対抗する事が不可能だと言っている訳ではない。日本へ送還されたとは言え、監察処分が下されたアビスレイは対外実働部の部長へ推挙されるだろう」
「何故、そんな大役を?区画保全部のランクBが、枢機卿になれるのか?」
「それはあの男の監視役が、他でもないアシュレイ長老の娘だからだ」
「…は?」
「アビスレイ。嵯峨崎嶺一の子を、エアリアス=アシュレイが身籠った」
「そんな筈はない!エ、エアリーがそんな男の子供なんて…!有り得る筈が、」
「この世に絶対と言う言葉は、神にのみ与えられるものだ。そう教えただろう、ロード」

ああ。
これは、憎しみだ。激しい嫉妬が腹の中で唸り、吼えている。音もなく。

「エアリアス=アシュレイは本来、完全になられたキング=ノアの伴侶となるべき女だった。それがどうだ、卑しくも高々日本の男を選び、禁忌を犯した。監視役などつまらん名目だ。あの女は、ステルスを裏切った」
「違う!」
「何が違う。私が信じられないのであれば、ナゴヤシティーへ連れていってやろう」

緑豊かな東の島国は、太陽が昇る国だと言う。
唯一の家族である妹への心配と、見知らぬ異国への不安と、見知らぬ男への燃え滾る憎しみを抱えて、太陽の元へ降り立った。



「この子がゼロ、私の王子様よ。ね、貴方のブロンドに負けない綺麗な髪でしょう?」

いつか愛した人は母親の表情で豊かに微笑んだ。
男は嫌いだと言ったその唇で、優しく抱いているのは男の子だ。

「クリスの事は大丈夫、心配しないで。だからもう、私に会いに来ては駄目よ。貴方はもう、アダムではないのだから」
「…どうして、僕では駄目だったんだ」
「アダム」
「どうして君がこんな目に遭わなければならない。全てアビスレイの所為じゃないか!」
「それは違うわ」
「僕についておいで、エアリー。今の僕は陛下の権限を与えられたんだ。だから、」
「この子は私の子ではないの。レイとクリスの子よ。…お願いよ、この事は誰にも言わないで」

絶望の色を知っているかい。
それは暗く黒い、醜い何かなのだ。





「おはようございます、義兄さん」

汚いものなど何一つ知らない子供が、手放しで慕ってくる。私はお前の兄などではないと、一体どれほど。

「今日は中等部で式典があるんです。義兄さんにも是非見て頂きたいと、」
「わざわざこの私が足を運ばねばならないほど、それは重要なのか?」
「…いえ。過ぎた事を申し上げました。お許し下さい」

一体どれほど呑み込んできただろう。
大切な妹は監禁されたまま、泣いているかも知れないのに。この世は醜いものばかり、綺麗なものは、外へ出してはいけなかったのだ。



「…陛下。私は陛下の味方です」

女の体は柔らかい。
同じ顔と、同じ体、それだけで誰もが神と呼ぶ卑しいクローンに、女は囁き続けた。

「…耳障りだ。用が済んだら出ていけ」
「陛下、」
「そうだ。良い事を思いついた」

茶色い髪、白い肌、それはいつか愛した人に良く似た女。似ているだけで別物だと知っているから、愛す事など絶対に有り得ない。

「お前、秀皇の子を産め」
「………え?」
「ナイトから銘を手に入れられれば、私は兄上に並ぶ事が出来る」
「…」
「そうすればイブを守る事も、エアリーを救う事も出来る筈だ。…ふ。目障りだと思っていたが、漸く秀皇を好ましく思えてきたぞ」

この世は醜いものばかりだ。
愛しい人の後ろにいつも隠れていた少女の事など、思い出す事もなかった。


「出来ないのか、サラ」
「…仰せのまま、に。愛しています、陛下」

彼女の捧げる愛もまた、自分に向けられたものではないと思っていたからだ。









(醜いものばかり知っていき)
(いつしか醜いものになった)
(兄さん兄さんと笑い掛けてくる子供が)
(まるで天使の様な彼が)
(堕落してしまえば良いのに・と)


(私はお前の兄などではない)
(出来の良い偽りの弟よ)
(お前こそ神に愛された、神の弟たる子よ)
(お前の名はナイト)
(私には与えられなかったその銘が)
(何処までお前を守ってくれるものか、見せてくれないか)



(そうして私を殺し、罪の味を知るが良い。)





「耳障りだ。下がれ」
「貴様、誰に口を聞いている」
「そなた以外に誰がある」

包帯で眼球を覆われた、白髪の子供。
あらゆる色素が欠如したそれは、罪の証そのものにさえ思えた。

「私に逆らうのであれば、幼子であれど容赦はしない」
「己が神であると盲信する、そなたこそ幼子ではないか」

それは幼子の姿をしていた。
けれどそれはきっと人間ではなかった。何故ならば子供の名には、神の文字があったのだ。

「5つ目の星が消えた。6つの輪廻は繰り返される」
「…何を宣っている。気色悪い餓鬼が」
「お前の死を贄に、転生は完結する。帝王院天元が残した遺言のままに」
「まだほざくか、貴様」
「良かろう。そなたはどうせ、今聞いた全てを記憶していない。私は待ち続けるだけだ。神々の欲を固めて産まれた存在として、招かれざる者の死を、今は待つ」
「私は全てを手に入れる。死ぬのは貴様らだ、下等生物」
「Close your eyes.」

哀れで愚かな子供は、眠っている合間にのみ、幸せを見る。

「我が名はイクス=ルーク=フェイン。十番目にして、輪廻と輪廻の、交点。『X』」
「…我が名は、キング=ノア=グレアム」
「私はそなたに感謝している」
「私は全てを憎悪してい、る」
「その穢らわしき命を以て、私の関心に根づき続けるが良い」

いつか。
あの寂しくも幸せな楽園で見た水面や、傷一つない鏡の向こうの世界に映るそれは、深い深い、宇宙の様な藍色だった筈だ。


「神の子が罪を犯す度に月は欠け、星の光は強くその存在を放つだろう」

それならば今、眼前で静かに笑みを描いたその深紅は、夢なのか、現実なのか。







(黒い何かに喉笛を咬みきられた瞬間、)
(真っ赤な月を視た)


(キラキラと)
(天国を模したステンドグラスの破片は幻想的に)
(汚いものなど何一つ知らなかった子供の表情を)
(絶望で染めて)


「あ、あ」


(唸り続ける狼の様な黒い犬は熱く)
(無意識に伸ばした手は、)
(あれほど傷つけた子供がそれでも伸ばしてくる手を、求めて)


「…すまない、秀皇」


(星が煌めく空に)
(そして割れた窓の向こうに)
(真っ赤な月を視た)




「私の罪はあの悪魔そのもの、だ」

それは真っ赤な首輪。それは真っ赤な双眸。二つの紅月。
銀色に煌めく十字架を最後に、二つ、視たのだ。





神への反逆から産まれた十字架の名は、X。
蠍の名を持つ赤い塔の中に閉じ込められたままでなければならなかったあの無垢な悪魔は、いつか外の世界を知ってしまうのだろうか。

ああ、最後に願うなら。
こんな穢らわしき命にさえ手を伸ばし、あれほど傷つけられて今尚、そうも悲しい表情で涙を零す美しい黒が、これ以上、悲しまない様に。

私はお前の兄などではない。
神を名を語る偽りの塊、天地の狭間で産まれ、外の世界を知らずに死ぬべきだった愚かな魂だ。

最初から最後までただ、お前がとても、羨ましかったのだ。



私は兄などではない。
私は神などではなく、ただの弟になりたかった。




「陛、下」
「静かに眠れロード。これ以上そなたに、生きる権利は許さん」
「あにうえ…」
「そなたの犯した罪は一つ残らず私が購おう。…良い夢を」

私は最後まで貴方の名前を知らなかったのだ。
変な話ではないか。貴方は私、私は貴方であった筈なのに、どうして同じではなかったのだろう。

「安らかな眠りが永久であるよう」

愛を知らなければ憎悪を知る事もなかった。
産まれてこなければ、死を恐れる事もなかった。



(悔しいのか?)
(悲しいのか?)

(判らない)

(生きているのか)
(死んでいるのか)

(判らない)

(暗いのか眩いのか)
(愛しいのか憎いのか)
(私が誰であるのか、)



(それすら・も)





「おはよう」

それは唐突にやって来た。
目が覚めた瞬間を覚えている。いっそ恐ろしいほど鮮明に、今も尚。

「僕、は…」
「神が人を見捨てる事を元老院は認めなかった。何故ならばグレアムは人の命を救う、薬師の家だからだ」

真っ黒なそれは静かに囁いた。
小さな頭、静かな眼差し、それら全てが真夜中の様に凪いでいる。

「…お前は」
「お前は?」
「誰、だ?」
「誰であって欲しい?」
「そう苛めるでない」

かつり、と。
鼓膜を震わせる音へ目を向ければ、白髪が混ざる黒髪を撫で付けた目付きの悪い男が、再び杖で床を叩いた。

「此処は現世と常世の狭間、『失楽園』。虚無へ還った幾重の物語を保管する、混沌の書庫だ」

彼は鉄格子の向こう、本棚に夥しい数の本を並べている。
鉄格子の内側には漆黒の子供だけ。そちらは静かに、真っ直ぐ、見つめてくるばかり。

「お前の名は?」
「…何故」
「罪を知らぬアダムか、神に背いたロードか」
「…」
「そのどちらでもないのか」
「何が言いたい。…死ぬ筈だった私の眠りを覚まし、二度も兄上に背けと?」
「人は求めるものだ。お前は今、何がしたい?」

暗い世界はまるでこの世のものではない様で。もしかしたらこれはただの夢なのかもしれないとさえ、思った。変な話ではないか。死後の世界など想像した事もなかった。

「………エアリー、は。元気だろうか…」
「それは初めて聞く名前だ」
「エアリアス=アシュレイは死んだ。覚えておらんのか、お前が死んだ前年だ」

甘い、甘い、果物の香りがする。気の所為だと思ったが、間違いではなかったらしい。鉄格子の向こう、巨大な本棚の前を歩いている男は、片手に湯気を発てるマグカップを持っている。

「そう、だ。エアリーは死んだ…」
「お前が死んだのと同時にセントラルから神が消え、お前の片割れは外へ上がった。間もなく子供を産んだが、テレジアの死を期に改革が行われたらしい」
「…改革?」
「今のステルスの王は、キングではない。ルークだ」

恐ろしい名を聞いて飛び起きたが、体が満足に動かず崩れ落ちそうになった。軽やかに支えられ、目前で艶やかな黒を見やる。

「………秀皇…?」
「違う。それは俺じゃない」
「そうだな。…似ている様で、全く、違う」
「俺の名を知りたいのであれば、まずお前から先に名乗るべきだ。アダムか、ロードか、それともそれ以外か」
「私に名前などない。産まれてくるべきではなかったんだ」
「じゃあ、産まれ直せばイイ」

表情一つ変えず、それは酷く淡々と囁いた。

「丁度、知り合いに不幸があった。お前が望むのであれば、物語を書き替える事が出来る」
「そんな事が出来る筈がないだろう」
「出来る」
「何故そんな事が…」
「俺には陰陽師の血が流れているからだ」

漆黒の眼差しは光一つなく、生きている様で死んでいるかの様に温度を感じさせない。およそ倫理や独特に外れた台詞を吐くには若すぎる唇は、饒舌に言葉を紡ぎ続けていく。

「お前は帝王院秀皇を恨んで死んだ」
「違う、恨んでいるのは秀皇だ…。あれほど幼い子に、私は酷い事をした。…全て、八つ当たりだ」
「名無しはスケアクロウ。仲間外れをブラックシープ。けれどそれら全て、俺は既に記憶している」
「何を言っている…?」
「顔を変え、記憶を塗り潰せば、人は生まれ変わる。それが例え、死人であろうと」
「…」
「お前の望みは、愛か、憎しみか?」

望みなど、幾ら考えても思いつきはしない。
ただ叶うのであればもう一度、妹と呼べる唯一の家族をせめてもう一度、この目に写してみたかった。

「エアリーには子供がいた。違う、あれはクリスの子だ。…確か、名は、ゼロ」
「それがお前の望み」
「…そうかも知れない」
「ゼロ。アーカイブに保存してあるか?」

漸く、黒い眼差しが逸れた。
それだけで呼吸が楽になった様な感覚に、深く息を吐く。何処がどうとは言えない。ただ、酷く威圧感のある子供だ。

「ああ。クロード=ゼロ=アシュレイ、帝王院学園に通っている。現在、13歳」
「…クロード?」
「ああ。じーちゃん、ぴったりな物語の筋書きを思いついた」

亡き最愛の友が、度々浮かべた悪戯な笑みを思い出した。マイペースで明るく、いつも笑っていた、亡き笑みを。

「ロードとクリスティーナ、二人の友人から名を貰い、少女は仮初めの母となる。母を失った子供は絶望に暮れ、悲しみを分かち合う友を求めるだろう」
「…我が孫ながら賢い男だ。だが過ぎた脚本は、人の道を外れる。お前にはもう少し、人の機微を教えておくべきだったか」
「じーちゃんには無理だ」
「ふ、違いない。確かに俺が言えた義理ではないか」

くつくつと、肩を震わせる男はマグカップを煽り、ぱらぱらと本をめくる。そうして本を読みながら机の上のポットへ手を伸ばし、無造作に置かれていた幾つかのマグカップへ、湯気を発てる何かを注いだのだ。

「俺は雲隠であり冬月であり帝王院であり遠野である」
「そうだ、それで良い。何物にも縛られず自由であれ。それが友を裏切った老い耄れの、唯一無二の願いだ」
「俺は全てを記憶し吸収し、いつか歌を歌う」

ああ、この匂いは、桃、だろうか。

「お前は憎しみを捨て、愛を選ぶのか?」
「それが、許されるのであれば…」
「良し。まずは名前を決めた」

鉄格子の外から差し入れられたカップを両手で受け取った黒髪が、振り返りながら囁くのを聞いた。その手が受け取った二つのカップの内、一つを差し向けてくるのを恐る恐る受け取る。

「やはり名前がないと不便だろう?」

囁く声を聞きながら、覗き込んだマグカップの内側。
甘い香りを漂わせるフルーツティーに映る顔は、自分が知る誰の顔とも違う、まるで別人だったのだ。



「さァ、願いを叶える為に準備を始めようか、太郎。」




















「…ナツメグが切れてた」
「おはざーす」

まな板の上の肉を塊を横目に、手にした瓶の中身が空である事に気づいた。その瞬間派手な音で鳴り響いたドアベルに、片眉を跳ねる。

「だからいつも店の備品を壊すなっつってんだろうが、覚えろ馬鹿」
「人手が足りなくて困ってるのぉって泣きついて来た所為で、朝っぱらから手伝いに来てやってる俺様に向かって何だその言い方は。もっと神を崇める様に媚びへつらえ」
「俺は神なんて信じないっつってんだろうが。敢えて言うなら、ファーザーが俺の神だ」
「あーやだやだ、可愛い弟分がこんな変態に愛されちゃって。兄ちゃんはすんこの将来が心配」
「誰が兄ちゃんだか。寝言は新聞が読める様になってからほざけ」
「読めるっつーの、番組欄はな!」
「そいつぁ天晴だ」

ずかずかと入ってきた男が、カウンターの上にどさりと袋を置いた。甘い香りが漂ってくるのに息を吸い込めば、テーブル席の椅子を整えながら、悪友は得意気に笑ったのだ。

「あ、それ母ちゃんからオメーに土産。お得意さんから大量に貰ったから、店で使ってくれってさ」
「珍しいな、桃か。ランチで出すにはコストが懸かりすぎるんだ、有り難く頂くって伝えてくれ」
「年々所帯じみて来たな、お前。十代の頃は将来ヤクザだろうなって思ってたけどよ、まっさかこうなるとはな」
「誉めてんのか、貶してんのか」
「やぁだ、誉めてるわよぉ、榊きゅん。流石は名前に神を宿す男!」

茶化す声に苦笑い一つ、空き瓶を燃えないゴミ用のペールへ放り捨て、解凍までもう暫く懸かるだろう肉塊から目を逸らす。携帯が震えたからだ。

「悪い、親父から電話だ。武蔵野、タイマー鳴ったらオーブン止めてくれるか」
「オッケー。期待の一人息子が医学部休んだまんまこんな所で働いてりゃ、そりゃ父ちゃんも心配だろうよ」
「こんな所、な。オーナーが聞いたらお前ぶっ殺されんぞ?」
「ぐ!ちょ、ケルベロスには言うなよ!」
「どうだかなぁ?」

先程派手に鳴いたドアベルを小さく揺らし、外へ出ると同時に携帯と煙草を同時に取り出した。
明けたばかりの週末の朝の商店街には、学生は愚か、猫の子一匹見掛けない。

「もしもし。…ああ、元気だ。問題ない。心配するな、大丈夫だ。…判った。彼女には後程連絡を入れておく」

火をつけ吸い込んだ煙を吐き出せば、紫にくすんで大気へ消えていった。鳥の鳴き声が聞こえてくる。

「相変わらず随分心配症だな、明神。…案じる必要はないだろう、兄上がオリオンを見つける事は有り得ない。ファーザーの暗示は絶対だと、私もお前も知っているではないか」
『然し立花から連絡が入ったんだ。前院長と共に、院長の行方が判らないらしい!ど、どどど、どうしよう…っ』
「…落ち着け、また血を吐くぞ。オリオンのラボを片付けてきたばかりで目立つ行動は本意ではないが、…仕方ない。急ぎオリオンの元へ行けば良いんだろう?仕込みが終わるまで待て、サボると甥に叱られる」
『もうっ、幾ら甥っ子が心配だからって、ヤクザに殴られたり安月給でこき使われたり、君は一応今は僕の息子なんだけど?!判ってるのかなっ、まーくん!』
「…まー君はやめてくれ。これでも40をとうに過ぎている」

騒がしい『父親』の涙声に零れた溜息は何処か、笑っている様だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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