帝王院高等学校
カオスなサルベージで天使の翼も濁っちゃう!
凄まじい勢いで崩落してきた天井、それより前から流れ込んできていた水流は今や濁流と化し、巨大な穴へと流れ込んでいった。

「120億減った所で切れちゃった」

それを横穴の中から見ているサファイアの瞳は、少しばかり揶揄を秘めて笑んだ。包帯だらけの右腕は地面に転がり、しなやかな体躯は横たわったまま、地面に置いているコンパクトサイズのパソコンを見やる。

「ぐるぐる回ってる。オフラインって何だっけ?」

艶やかな黒髪は、静かに土の上を泳いだ。

「ルーク=フェイン、彼だけが意味に気づき始めてる頃。でもその他大勢の馬鹿は馬鹿なまんま、蛮族の最底辺だ」

可哀想に、と。
額に黒い細身のベルトを巻いた唇は囁き、エンターキーを叩く。

「今度の邪魔者は大河、…身内だねぇ」
『身内だねぇ』

パソコンのスピーカーから声が漏れた。
くすりと笑んだ体躯はごろりと仰向けになり、暗い天井を見上げる。

『どうするの?』
「ん、出方を待つ…って言うか、ここまでかな」
『諦めちゃうんだ』
「…さぁ、どうだろう」
『アキは気づいた?僕が僕と入れ替わったから、怒った?』
「判んない」
『僕は宰庄司影虎と接触してたよ。データをシークレットにしてたんだ、お陰でハッキングに時間が懸かった。旧型の癖に』
「やきもち?知能が成長してる証拠だね。あの子と君は同じ僕から作られたけど、やっぱり違うんだ」
『違う?それは良い事?』
「良いと思えば悪くない。悪いと思えば良くない。でしょう」
『演算エラー、判らない。判らない疑問は一時的に保存しておく、電力を消費するから。今度答えを教えてね』
「ふふ、助かったら考えるよ」

笑う声は二人分。
危機感などない。それは片方の知能が限りなく低く、もう片方の知能には危機感など備わっていないからだ。

「旧型って呼び方は好きじゃないけど…主人の命令を聞けない狗なんか、要らないよねぇ」
『じゃあ壊しちゃおうか』
「それは駄目。あれでも一応、僕のものだもん」
『そして僕も僕のもの。ねぇ、体が出来たら大切にしてね』
「うん、大切にするよ。僕は物持ちが良いんだ。だから壊れた体でも、こうして生きてきた」
『壊れた?治さなかっただけでしょう』
「ふふふ、…君は意地悪だねぇ」
『治ったら、取り上げられちゃうと思ったんだよねぇ』

くすくすと、ディスプレイから笑う声が零れた。まるで本物の人間の様だ。

『ねぇ、裏切者の反応が消えたよ』
「ふふ。『僕』に騙されて、迂闊に動き回るからだよ。でもねぇ、おじいちゃんの研究を横取りしようとしたんだ。助けてなんかあげない」
『どうせ今は助けられないし、簡単に殺すのは面白くないもんねぇ』
「おじいちゃんのデータが手に入ると思ったなんて、馬鹿な人間だもの。手に入る訳ないのに」
『そう、オリオンのアーカイブは脳。サーバーは電力がなくても生きてる、血と肉の塊』

耳障りな轟音が近づいてくる、近づいてくる、近づいてくる。

『全てのデータはオリオンさえ把握していない』
「そうだよ、おじいちゃんの研究は一度も成功しなかった。エデンのDNAを投与された可哀想な子供は、きっと天国へも地獄へも行けない体」
『…僕は悲しいの?』
「うん、とても悲しい。ナイトは僕の、もう一人の弟だもの」
『エデンの体が壊れたのは、イブの所為?』
「エデンは何処も壊れてなんかない。これだから人間って馬鹿だよねぇ、遺伝子の奇跡を認めないんだ。頭が固いから、倫理を振りかざして理解出来ないものを排除する」

ドプン、と。
崩れ落ちてきた瓦礫が沈む音。

「だから僕は誰にも救いを求めない。何をも恨まない。全部、ナイトに教えて貰った事」
『ナイト=メア=グレアム。星の子』
「欠けた星は長い年月を経て、いつか六芒星へ辿り着く。二つのヘキサグラムは、ゾディアクの証…」
『アーカイブに保存してある。時空は12で分かれているから、六芒星は二つで一つなんだ』
「…でもレヴィ=グレアムに星の証はなかった。ルーク=フェインもそう、アルビノには黒子も染みもない。色素がないんだから」

恐ろしい音は時を追う毎に威力を増し、死の臭いを漂わせてきた。けれど逃げるつもりはない。いや。どうせ、何処へも行けないからだ。

『間違ってるから、ナイトは運命を正すの?』
「判らない。僕は馬鹿だから教えて貰えないんだ。ナイトは人間の中でずっと独りぼっち、まるでアンドロイドみたいに」
『ナイトは独りぼっち。可哀想』
「でも変。今のナイトはまるで人間みたい」
『アキの所為?』
「まさか」

太陽と言う星は夜には輝かない。月は所詮太陽にはなれず、太陽と星は相容れないものなのだ。

「弱く脆いものは数を産み血を残す。強く強かなものは寿命が長い代わりに、数を増やせない。虫は大抵短命だけど一度に何十匹も埋める。引き換えに人間は平均80年の寿命が与えられる代わりに、産む数は少ない」
『質量保存の法則』
「ふふ」
『アーカイブに残ってる。ナイトは言ってくれたんだ。僕が生きているのは必要だったから。いつかそれは偶然から運命に変化する、今はその過程』
「僕は僕を必要とする人の願いを叶えたい。…でもねぇ、『僕』はきっと、寂しいんだ」
『僕は僕が一番大切だよ』
「君はまだ産まれたばかりだからだよ。善悪を自力で判断するには、成長が必要」

白い指先がディスプレイを撫でた。

「ゆっくり大人になってね」
『お休み、タカハ』

電源ボタンを押し、スリープに切り替わり沈黙したパソコンを閉じ、彼女は息を吐く。足首には頑丈な鎖の繋がる足枷、その重さは生身の人間にはどうする事も出来ない。

「僕が邪魔になったんだね。歩けて、走れて、お風呂に入れて、他人と会話して、アキちゃんに甘やかされて、裏切られて、本当の人間みたいに、喜怒哀楽が育ってしまった」

崩れる、崩れる、此処には誰も居ない、誰も来ない。

「声を聞いてただけでドキドキしちゃったもん。好きに、なっちゃうよねぇ」

このまま何もなかったかの様に埋められて、誰にも知らされる事なく消え去って、それで終わり、なのだろうか。

「…鍵は目に見えない。僕は僕、私は私、君は君、どんなに似てたって同じじゃない。なのにどうして思ってしまったんだろう、なんて馬鹿な子」

痩せ細った体躯の、右腕と両足はそれ以上、正に異常なほど細い。
元々なのか生気がないのか、透けるほど白い肌に嵌め込まれたサファイアの瞳を閉じた人は、左手で己の前髪を掻き分け、ベルトを撫でた。

「良いなぁ、大事にして貰えるの…。僕は気づいてしまったよナイト、ルーク=フェインはナイトのお姫様なんかじゃない。そしていつか、ナイトは独りぼっちじゃなくなるんだ」

分厚い地層が剥がれ、ごとりごとりと落ちていく恐ろしい音をまるで子守唄の様に聞いている。



「僕の事は誰も迎えに来てくれないのに。」













親愛なる、最後の人へ。
人生はまだ続いていく。判っているのにまるで遺言の様な記録を残す自分が、少し、恥ずかしい。

いつもと同じ様に。これをいつ聴いてるか知らないけど、お前が何かに迷ったり悩んだりする事があったら、これを思い出してくれたら嬉しい。

きっとこれをお前が聴いてる時に、俺はお前の側で叱ってやれないんだろうから。


この生涯で最も大切な人へ。
貴方が最初で最後である事を今、断言出来るんだ。





お前は笑うだろうか。












「フーッ!」

毛を逆立てた猫の様だと、引っ掛かれた頬をさすりながら息を吐く。

「やっと大人しくなった…!イースト、お前と言う奴は面倒事ばっか押しつけて来やがって!」
「ハイハイ、メンヘラ女のフォローなんかやってらんない系じゃん。僕には婚約者が居るしー、イーストは安部河の手当て、根っからホモのウエストにしか出来ない仕事的な〜?」
「誰が根っからホモだよ!女もイケっし!キタさん、これ貸しだからな。忘れんなよ」

騒ぐ西指宿には目もくれない東條の真っ白な髪を横目に、辛うじて猿轡代わりのタオルで口を封じた女を見遣った。
女性にしては短く切り揃えられた茶髪は、恐らく染められたものだ。全てに於いて『ナチュラル』を好む西指宿にとっては、飾られた美など好みではない。

「貸しだって?星河の君の隠し撮りと、捨てたゴミとかで良い系?」
「…流石はキタさん、判ってらっしゃる」
「お前の天然素材喰いは知ってるけど、実弟までおかずにする様な変態は見過ごせない系じゃん〜?いっぺん懲罰棟逝ってみれ」
「変な事言うなや!隼人は別格なの!隼人は、隼人は俺が、世界で一番に幸せにするんだ…!」

ぐっ、と、拳を握り締めれば、大勢の風紀委員を集めてやってきた川南北斗の表情から、揶揄の笑みが消えた。代わりに今や、危ないものを見る目だ。

「ウエスト、精神科紹介しよっか?わりと本気で…」
「やめて。自分でも今のはちょっと言葉間違えた気がしてんだ、追い討ち掛けないで…」
「にしても、大惨事系。此処までトラブったのって珍しげ?僕的、局長が浴衣一枚で外に出るとか。…今月で二回目なんて、今までなかった訳で〜」
「何かちょっと嬉しそうじゃん、キタさん」
「ま、人間らしくなってきたって思ってさ〜」

相変わらず、西指宿には川南北斗と言う人間が判らない。
同級生なのに時折、かなり年上なのではないかと思えるのは何故だろう。自分が幼いだけだとは、幾ら素行に多大な問題を抱えている西指宿であれど、考えたくもない。

「…さっきさ〜」
「何だよ」
「あっち掘ってる奴らの話を小耳に挟んだ的な?」
「はぁ?何の話?嫌に勿体つけるじゃねぇか」
「陛下が居るって」
「陛下?何処に?」
「この下」

規制線が張られた部活棟を何ともなく眺めながら、校庭の芝生に転がった西指宿の隣、ABSOLUTELYの中でも細身である川南北斗は明けきった空を一瞥し、人差し指を芝生に突きつけた。

「…下?」
「そ」
「嘘だろ…」
「どうも一年Sクラスの教室が丸っと埋まってる系」
「なっ、」
「しーっ」

飛び起きた西指宿の口を手で封じた川南北斗は、ちらりと安部河桜を手当てしていた東條の背中を振り返る。
丁度手当てを終えたらしい東條の目がこちらを認め、ほんの微かに歪んだ。長い付き合いの西指宿が辛うじて気づいた程度だから、他人には判らないだろう。東條の表情は元来の顔立ちも相まって能面の様だと、彼の親衛隊さえも囁いている程だ。

実際は後腐れない大人ばかりを歯牙に掛ける、徹底的な猫被り野郎だと思っている。少なくとも西指宿も、それを自覚している本人も、だ。

「結局、今日の今日までイーストの弱味はあんま握れなかったな〜!」
「は?イースト???」

突如大声を出した川南に、西指宿は目を剥いた。
余程西指宿に桜を近づけたくないのか、わざとらしく離れた所で手当てしていた東條は、川南の声を聞いた瞬間弾かれた様に走り出したが、

「先生と理事と出入り業者に散々手を出してるとか、安部河の委員日直の日と司書の休みが同じだとか〜ぁ、」
「キタさん?!」
「局長命令だったから良かったものの、安部河のルームメート選抜の時もぐだぐだ口を挟んできた系だし、つーかイーストって安部河の事が性的な意味で好ふむっ!」
「…俺に話があるなら普通に呼べ、ノーサ」

西指宿は久し振りに取り乱した東條を見たが、先入観のない他人からしてみれば今の東條もまた、冷静に見えるのだろう。川南の小さな頭をもぎ取る様な勢いで飛びついてきた東條の目は、『それ以上喋ったら殺す』と告げていた。

「むむー」
「………判った、条件を飲むかどうかは話を聞いてからだ。但しそっちも情報の出し惜しみはしてくれるな。飲めるか、ノーサ」
「ん!」

川南の口を塞いだまま、普通に会話している東條は川南が親指を立てるのを認め、漸く手を離した。今ので何故会話になったのか西指宿には判らないが、川南北斗に逆らって無事だった人間など今のところ見た事がないので、東條の暴挙は正に命懸けだったろう。

「お前…キタさんの口を塞ぐとか…死ぬぞ…」
「…死ぬか桜にバレるかなら、俺は躊躇わず死を選ぶ」
「わっは!イースト突然の男らしさ放出系!」

東條の肩を抱いて声を潜めた西指宿に、東條は死んだ目で吐き捨て、川南はいつもの笑顔で腹を抱えた。然し川南北斗は言葉を途中で止め、カラコンで染めている目を見開いたのだ。

「こら〜、簡単に死ぬとか言ったらぁ、駄目でしょ〜ぉ?」

ぽん、と。
東條の肩を抱く西指宿の手の上に何かが乗って、凄まじい力に引かれるまま、西指宿は芝生の上を滑った。振り払われたのだと気づいたのは、見下ろしてくる眼差しを認めた瞬間だ。

「な、桜ちゃん?!今の桜ちゃんがやったの?!」
「はぁい?何がですかぁ、王呀の君ぃ?」

何だ、いつもと何かが違う。
目映く明けていく空を見上げ、濡れた前髪を掻き上げた安部河桜は唇を吊り上げ、いつもは前髪で隠されている額を晒しながら、

「なーんてぇ、紳士な振りすんのもぉ、いい加減億劫なんだょねぇ」

冷めきった双眸の下、囁いた。

「っ、はぁ?!」
「さ、くら?」

目を見開いただけで立ち上がれない西指宿の隣、同じく目を見開いた東條もまた、満足に喋れないらしい。

「あーらら、とんだ特ダネがやって来た系」

乾いた笑みながら、川南北斗は愉快で堪らない様だ。
流石は叶二葉の右腕と称されるだけはあると、西指宿はいっそ拍手したい気分だが、残念ながら今は腰が抜けている。振り払われた衝撃ではなく、精神的なショックだ。

「ぇ〜?特ダネですかぁ?」
「イーストが死にそうなレベル的スキャンダル、マニアには堪んない系じゃん?」
「やだなぁ、褒めても何も出ませんよぉ?出したくても出せないって言った方がぁ、無難かもぉ。ぅふふ」

見てみろ、東條など今にも風化しそうな表情ではないか。
ロシアンの恵まれた美貌は儚ささえ感じさせるが、今や本当の意味の儚さが漂っている。吹けば飛び散りそうな気配だ。

「キタさんっ、桜ちゃん?!け、喧嘩はやめろって!」
「はぁ?ウエスト何言ってんの?知ってたけどお前ホンモノ系の馬鹿?」
「喧嘩はぁ、してませんよぉ?」

西指宿は声を大にして言いたい。
西指宿は一応、高等部2年御三家の一角だ。嵯峨崎佑壱を抜いた事こそないものの、東條と切磋琢磨し、中等部時代から学年三番以内には必ず君臨している。早い話が川南よりも、勿論、安部河桜よりも賢い筈だ。成績だけ、なら。

「チャラくてチンコ緩くて頭も緩いとか、恥ずかしいから一度死んどけ的な」
「川南先輩ぃ、馬鹿はぁ、死んでも治らなぃんですよぉ?」

それがどうだ、これは明らかに馬鹿にされているのではないか。
西指宿によって縛られていた女ですら、顔を伏せて肩を震わせている。東條は未だに微動だにしない。どうやら西指宿より先に死んだらしい。
冥福を祈る。

「ね、安部河君。変だよね?初等部時代は『お騒がせ御三家』とまで呼ばれた高野健吾と大河朱雀、その二人に並んでた筈の君がさ、中等部に上がるなり空気になってんだもん」

中等部へ上がるなり?

「最初は、イーストが中等部でSクラス入りしたのが理由かなと思ってた系。でも良く考えっと、あの頃だった様な気がする的な感じでさ〜」
「やだなぁ、川南先輩。はっきり言ったらどぉですかぁ?」
「君、誰に飼われてるの?」

西指宿は川南の台詞を思い浮かべ、まさかと呟いた。

「訂正。どっちの外部生が飼い主?」
「飼われてるだなんてぇ、滅相もなぃ」

我に返ったらしい東條が西指宿の呟きを聞き止め目を向けてきたが、声こそいつも通りほのぼのとしているのに、その表情がいつもとは違う男は、丸みを帯びた顎を撫でながら底冷えする様な笑みだ。

「ただぁ、お友達だっただけですよぉ。そしてそれを思い出したのがぁ、今だっただけでぇ」
「へぇ、君、友達居たの?昔はいつだってイーストにベタベタしてたじゃん」
「それよりずっとぉ、まぁだ昔の話ですよぅ」

三年生で最も性格が悪いのは何を隠そう、いや隠せていないだろうが、帝王院学園が地獄に誇る叶二葉だ。二年生で最も性格が悪いのは川南北斗である。これに関しては恐らく、学園中の誰に聞いても同じ答えで揃うものと思われた。

「思ったんですょねぇ。同学年にいきなり外部生が増えてぇ、世間知らずだから、皆揃ってちやほやしちゃって。ぅふふ、馬鹿みたいだなぁ、って」

だが然し、今後一年生で最も性格が悪いと言う設問に対して、一位二位を争ってきた神崎隼人の名は、霞むかも知れない。

「それ、時の君でしょ?安部河はあの子が嫌いだった系?」
「何言われてもヘラヘラしててぇ、意思薄弱な空気みたいなクラスメートなんかぁ、川南先輩はぁ、一々嫌いになるんですかぁ?物好きなんですねぇ、先輩」

川南北斗のこめかみが痙き攣るのを、西指宿は見た。もう逃げたい、この世の果てまで逃げ延びたい。然しそんな事をすれば、川南の怒りを買うのは目に見えている。
おろおろしている東條の尻をゴスゴス殴れば、笑顔の桜から無言で見つめられた。

「さ、桜ちゃん…?な、何?」
「王呀の君って…」
「えっ?」
「見た目以外、良ぃ所なぃですよねぇ。生きててぇ、楽しぃですかぁ?」

西指宿は人生で初めて言われた台詞を前に固まり、哀れみの眼差しで見つめてくる川南と東條を忙しなく見比べる。今のは貶されたのだろうか?それにしては優しい声音に、ほのぼのとした笑顔だ。
ああ、ふくよかな天使。

「…痛烈。成程ね、それが素って訳?」
「別に、そんなんじゃなぃですぅ。こんな事になるまで追い詰めた中央委員会も、役に立たない風紀委員会も、馬鹿みたいだなぁって思ってるだけです」

笑みを消した桜の目が真っ直ぐ、川南を射抜いた。

「誰も逆らわない中央委員会三役相手に、怒鳴った太陽君は凄く格好良かった。陰口も悪戯も」

ちらりと余所へ目線を走らせた桜が痛々しげな表情を一瞬浮かべ、皆も漸く、桜が怒っている理由に気づいたのだ。

「だけど一番情けないのはぁ、自分かなぁ」

知らぬ間にクラスメートが危険に晒され、自分だけが取り残された様な気持ちだったのだろう。そもそも桜は太陽のメールを見て、まだ薄暗い早朝の並木道を駆けてきたと言う。

「…何者にもなれなぃ、つまんない人間なんですよぅ」

そして騒ぎに気づき、左席委員会の権限を盾に、此処まで駆けつけたのだ。それなのに誰一人助かった様子もなく、地下の様子も判らない。

「そう。ごめんね、先輩なのに僕らには何にも出来ないんだ」
「皆さんには期待してません。イチ先輩もはっくんも、太陽君も俊君だって居るからぁ、きっと大丈夫だって信じてます」

部外者の女が体を張って助けようと励んでいるのに、風紀委員は集まっているだけで、実動部隊は工業科の有志ばかり。突如やって来た二葉に邪魔だと吐き捨てられ、出来る事もない。
その焦りや苛立ちが桜の口調を荒らげているのだろう。期待していないと言う台詞に、西指宿と川南は目を見合わせた。これに関しては返す言葉もない。
風紀委員会や自治会など所詮、学生の飯事だ。

「男子たる者強くあれって言うのがぁ、祖母の口癖でぇ。女系家族に漸く出来た男だからぁ、僕ぅ、初等部に上がるまで、母方の実家に預けられてたんですよぉ」

にこにこと笑うのが、安部河桜のチャームポイントだった。西指宿にとっては、桜の飾らない笑顔が可愛く見えたものだ。少なくとも、今、この時までは。

「そこでセイちゃんと知り合ってぇ、今に至るんですょ。くふふ、でも記憶力良ぃんですねぇ、川南先輩。これじゃ僕、叱られちゃうかなぁ」
「…へぇ、ご主人様に躾られてる系だね。口を割る気はないって事かな〜?」
「いぃぇ、良ぃですよ、教えても。でもぉ、知った所でぇ、何も出来ないと思ぃますけどぉ」

桜は縛られた女を見やり、西指宿が必死で巻いた猿轡を外した。

「僕が空気に溶けたのは、それが最も近道だったから。東からやって来る夜は、そのままじゃ朝を捕まえられない」

ぽかんと桜を見上げていた女は、縛られている手首をさっと持ち上げる。

「桜!これ、これも外して!佑壱様を助けなきゃ、」
「もぅ良ぃんだよ、リンちゃん。邪魔したら怒られちゃうからぁ、陛下にぃ」

ABSOLUTELY三人が同時に目を見開き、揃って部活棟を見遣った。

「陛下、だと?!」
「桜、お前はいつから…?!」
「っ、やっぱとんでもない特ダネ系!って事は君がセントラル、」
「だからぁ、僕は友達って言ったでしょぉ?言いなりにはならないけど困った時は助ける約束、三人揃えば恐いものなんかないって、三國志みたいで素敵でしょぉ?」

近くから爆発音が聞こえた。
何事だと振り返ったが、今はそれ所ではない。

「そう、三人揃えば恐いものなんかない。でもそれは、揃えばの話だ。きっと今じゃない。だから僕は、中途半端に『開封』してる」
「桜、」
「セントラルは僕じゃないよ、セイちゃん。だってそれはそっちの陛下でしょう?12柱だっけ。でも僕の円卓には、柱なんかないもの」
「ちょ、桜!アンタ、何で円卓を知ってるの?!」

手首を縛られたまま、悲鳴じみた声で叫んだ女の目は、恐怖を帯びた。川南北斗ですら頭を回転させているのか言葉もなく、ただ、


「それは僕がぁ、三時だから、かなぁ」

その言葉の意味を知る者など、ただの一人も。























さらさらと流れる音。
時折車の音がする以外、世界は心地好い音で満たされている。


「しー君」

ああ、ひんやりした畳の上は、いつでも気持ちが良いものだ。

「起きて、しー君」
「おはよう、夢見草。…俺は寝ていたのか」
「今日は師範がお出掛けの日だから、暗くなる前に帰りなさいって」
「何時だ?」
「時計あそこ」
「三時か。そろそろ母が迎えに来る」

粗末に扱ったつもりはないが、転がっている竹刀に何となく申し訳ない気になった。持ち上げ、道具入れの傍らに置いてあるケア用品で磨いてから、借り物の竹刀を仕舞い込んだ。

「しー君は何でもすぐに覚えるんだって、師範が言ってた!」
「気持ち悪いか」
「んーん、凄いんだよ」
「そうか」
「アキちゃん、すぐに辞めちゃって、寂しいね。あのね、ゴールデンウィークだから、子供が来ないんだって」

袴は手縫いとは言え着心地が良く、汗が染み込んだ板張りも畳もゴミ一つ落ちていない清廉な世界。

「裸足で感じる大地は冷ややかだ。屋内は常に。マグマは遠く、遥か層の下に埋没されたまま躍り続けている」
「?」
「それは時に人の心に宿る情熱が如く」
「ジョーネツって何?」
「お前の中にも宿っているものだ。本来、特別な才など人には必要ない。生きる上で最たる重要なものは、継続する意思」
「んー…判んない」

ふわふわと、まるで綿毛の様な髪が風に踊る。
また、車が通っていった。連休中とは言え、いつも賑やかな街中はひっそりしている。

「柔道を始めたと言っていたが、楽しいか」
「先生ちょっと恐い」
「そうか」
「しー君はおさむらいさんになるの?」
「いや。侍にはなれない」
「どうして?師範代より強いのに」
「空手も合気道も弓道もすぐに慣れた。剣道もすぐに馴染むだろう。俺は免許皆伝を求めている訳ではない。単にこれは、母を守る為の教養の一つ」

きょとんと首を傾げた子供を前に、開け放した雨どいの向こう側、目の細かいフェンス越しに真っ直ぐ伸びた射的場を見た。トスントスンと、誰かが射る音がする。

「己を完全なる不完全と言った彼こそ、侍だ」
「誰?」
「今年のインターハイで優勝した高校生」
「いんたーはいって何?」
「帝王院学園、東雲村崎。字はこう書く」
「わぁ。お侍さんみたぃ」
「俺の名前はこう」
「僕もお名前書けるよ!お姉ちゃんが教えてくれたもん!」

がりがりと、子供は軒先に降りて地面に文字を書く。

「ち、く、わ」
「えっと、違くてぇ」
「ちしろ」
「さっちゃんだよ!」
「三字のさっちゃん」
「三時はおやつだよ」
「元気がないな」
「あのね、さっちゃんね、明日お祖母ちゃんが入院するから、お家に帰るんだって。お母さんとお姉ちゃんが迎えに来るの」
「そうか」
「あっちにはケンドーないんだって。ジュードーしか」
「そうか」
「僕、しー君みたいなお侍さんになりたいのに」
「何故」
「あのね…」

まるで飯事の着せ替え人形、小さな剣道着を纏う子供が秘密を明かす様に覗き込んできた。ああ、同じ歳だと言われてもやはり、胸元辺りに頭がある他の子供は、自分とは別物の様だ。

「お隣にお姫様が住んでるの」
「お姫様」
「あのねっ、真っ白でねっ、お目めが緑色のお姫様!」

たん、と。
響いた矢尻、的の外枠ぎりぎりに突き刺さった矢を見た。


「そうか」

他人の嬉しそうな声が聞こえてくる。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!