帝王院高等学校
限りなくドロドロしてこそ、愛!
「ご馳走さん」

その手が漸く箸を手放した時、彼らは示し合わせた様に同時に時計を見やった。所要時間、実に二時間弱だ。
見守る、と言うより開いた口が塞がらないままただ見ていたと言った方が正しいだろう。部屋の主とその従者はこの二時間、口を開く余裕もなかった。

話し掛けようとする度に「お代わり」と繰り返されて、用意した料理では足りず、学園中の屋台施設から掻き集めた料理でもまだ足りず、遂には災害時の保存食まで開封して漸く、此処まで辿り着いたのだ。
例えるならトライアスロン、ただのマラソンではない。山あり谷あり食料危機の、熾烈なフードファイトのゴールなのだ。

「や、悪いね、ごちになっちまって。所で、お主は…ジェイだっけ?」
「いえ、ジェイではなくジエ、祭美月です」
「ふんふん。で、そっちのパツキン兄ちゃんはミー?」
「李上香…好きなようにお呼び下さい、母上」

しーしー。
歯並びの良い口を豪快に爪楊枝で掃除している茶髪は、ジョークの様に膨れた腹を撫でながら、しゅぱんと爪楊枝を投げつけた。

「何がファラウェイだ」

プスッと額に刺さった男は、顔に巻いている黒布に爪楊枝を刺したまま背を正す。

「ファラウェイではなく、母上と申し上げました」
「母上?何ほざいてんだお主、イケメンなだけに可哀想な奴だなァ」
「イケメン…。俺などをその様に勿体ないお言葉でお褒め頂き、真に有難うございます。ですが母上、先程のお答えを頂いておりません」
「だから母上はやめェイ。あー、お腹一杯になると全部がどうでもイイわねィ、ケフ。久し振りにうまい餃子喰った、安っぽい焼きそばもまァまァ喰えたし、ちょっと横になってもイイかね」
「一大事でございます母上、吐息がニンニク臭いです。お口ケアの清涼剤がありますので、どうぞ」
「あン?お主よ、女子力高ェじゃねーか。見習わなきゃ駄目かァ?」

祭美月は空いた食器を片付けながら、どうしたものかと腕を組んだ。それと同時に室内の電話が鳴り、二度目のコール音を待たずに受話器を取った。殆ど脊髄反射の様なものだ。

「はい、はい。…そうですか。畏まりました、直ちに引き上げます」
「つーか、さっきは腹減ってて流してたけど、ここ何処だっつってたっけ?」
「第二キャノン一階、小保健室です。…ああ、明るくなったので見えるでしょうか。窓の向こう、地下への階段の後ろに白い建物が二つあります。小さい方は北棟です。横長く大きい方は東棟、寮敷地東側を占めている」
「ふーん。んな事は聞いてねェんだな、お姉ちゃんは」

ばさばさと、それまで大人しかった籠の中で鳩がざわめいた。
声を潜めて話し掛けていた受話器から顔を上げ、肌を焼く様な静かな殺気に目を向ける。それを目の前で浴びている男もまた、美月からは横顔しか見えないが、身構えている様に思えた。

「帝王院学園、…高等部だったよなァ?だったら此処に『義兄さん』が居るんだ。お姉ちゃんさァ、そいつに大事な用事があんだよなァ」

さすり、さすり。
狂気さえ感じさせる意思の強い眼差しを見開き、唇を吊り上げた女は、然し優しい手つきで腹を撫でた。

「父親になる前に、子供の憂いを取り除いてやりてェと思ってんだよ。判る?…判んねェよな、俺だって『ここ』に人間が宿るまでは、他人の血を見ても何にも感じなかった」
「…母上は、何を仰っておられるんですか?」
「そう、母親になるんだ。この世で一番大事な子供の子供を産んで、そいつは俺の人生で二番目に大事な存在になる。でもそれだけだ。残念だけど、この子は産まれてこれない」

受話器の向こう、通話は切れていない筈だ。
それなのに向こうからは沈黙が続いている。恐らく聞こえているのだろうと考えて、密かにスピーカーのポタンを押した。

「俺がまともな人間じゃないからだ。だから家はまともな人間に継がせる。どの道、産まれても親父から消される」
「…消される?」
「マリア様は一人で妊娠しても許して貰えたのに、俺は駄目なんだって。でも仕方ねェよな、鬼に寄生した虫なんか、まともな筈がないだろ。忘れたいのに忘れられない事ばかり記憶してく、自分の頭の中を何度も潰してやりてェと思ってきた。それすら出来ない。死ねば家族が悲しむ、小さい頃から何度も見てきた光景だ。だからせめて脳の中を改造出来たら、忘れられるかも知れないと思った」
「では、何を忘れたいんですか?虫である己を?許されない現実を?」
「忘れる事は罪じゃない。けど、乗り越える事は勇気だ。俺にはそんなものはなかった。でも秀隆には、乗り越えさせてやりたい。あの子は俺の、人生で唯一の宝物なんだ」
『それはそれは素晴らしい意見だ、遠野俊江君』

笑う声がスピーカーから零れ、ざわめいていた鳩達が静まる。
顔を向けてきた二人の視線から離れる様に、美月は電話口から体を遠ざけた。独り言じみた話の全容は美月の聡明な頭を以てしても理解し切れていないが、電話の相手には通じたのだろうか。

「誰だ」
『我は大河白燕、中国に巣食う虫の様なもの。汝など我に比べるべくもなく、可愛らしい羽虫だわ』
「…偉そうなオッサンだな、お前さん」
『我は秀皇の従兄の様なものだ。歳は大分離れておるがのう、亡き父は駿河様の従兄弟の立場にあった』
「あ?」
『我ら大河は総じて、帝王院を裏切り陥れた罪を購わねばならん。我が身に宿る叶の血脈が吠えるのだ、主人に逆らうなかれと。…受け継がれてきた罪は、我の代で精算せねばならん』
「それは勝手にやれよ、俺には何の関係もない」
『父も我も、妻を亡くした。目の前に居ればその様な愚行、許す筈もない。然しどうだ、残ったのはたった一人の息子だけ』
「息子、だけ」
『…父も我も、残った子供を慈しむ事を忘れ、愚かなまでに強くなる事ばかりを優先してきた。それはまた、新たな罪を産むだけではないのか』

静かな、優しい声音だ。
語り掛ける男の声を聞きながら、美月は音もなく息を吐く。大河社長の持論は幼い美月の心を打ち、辛い生活を送ってきた義弟を慈しむ感情を生んだものだ。
然しいつからか、恐らく寮生活で離れてからだ。美月には要の考えている事が判らなくなった。この数年は満足に話した記憶もない。会話の糸口すら見つけられないとは、幾ら成績が良かろうと情けない話だ。

「後悔した?奥さんが死んで」
『しない筈がない』
「…だろうな。だったら秀隆も、俺に何かあったら、後悔するのか」
『死ぬのであれば、せめて目の前で』
「でも…」
『我には汝の気持ちが判る。だからこそ一人で出来る事など限られておろう?』
「だったら一人じゃなければイイのかよ」
『さもあらん』
「お主、パイエンだっけ?従兄弟だか再従兄弟だか知らねぇけど、秀隆を助けろよ」
『我には遠野への義理も冬月への義理もないが?…寧ろ、皇からは憎まれておろう』
「んな事どうでもイイ。俺は秀隆を苛めた義兄が許せないだけだ。痛めつけて土下座させなきゃ、秀隆は過去に囚われたままじゃねェか」

ダークサファイアの瞳を素早く戸口へ向けた男が、顔を覆ってきた布を外すのを見た。相変わらず野性の獣の如く気配に敏感な男だ。美月も戸口へ目を向けて、組んでいた腕を解く。

「俺は秀隆が大切なんだ。こんな女に好きだって言ってくれる物好き、他に居ねェ。あの子の為なら何でも出来る。親父を殺してもイイ、患者を見捨ててもイイ、腹の子を一度だけ、抱かしてやりたい」
「それなら、準備は念入りに行うべきだろうに」

がらり、と。
開いたドアの向こう、数人の男達を従えた白髪頭が見えた。

「…あ?」
「待たせたな、勇ましい蝶よ。我こそ中国を統べる王、大河白燕だ」

最早電話は必要ない。
美月はスピーカーを落とし、深く頭を下げた。

「ルーク=フェインに流れる株式を買い戻す為、加えて汝の願いを叶える為、わざわざお忍びでやって来てやったぞ」
「…声だけじゃなく、見た目まで偉そうなオッサンだな。イケメンじゃなかったら殴ってたぞ」
「汝こそ、偉そうな子供ではないか。まぁ良い、手始めに日本円にして250兆ほど用意した」
「250兆?!」
「ふん。今やステルスの巣窟と化した帝王院財閥の前では、ほんの小銭だわ」

がらがらと運び込まれてくる夥しい数のアタッシュケースを横目に、祭美月は久し振りに頭を押さえる。

「社長、もしやそれは、大河の全財産では…?」
「この戦争に負ければ、我ら無一文だ。のう、蒼龍」
「兄者の命令とあれば、猫の骨をしゃぶっても構うものか」

ああ、恐ろしい男の姿まで見えた。
これが戦争だと気づいていないのは、ポカンとアタッシュケースを見つめている彼女だけ、だろうか。






















「おやおや、私の山田太陽君に気安く触らないで頂けますか、お嬢さん。殺しますよ?」
「は?」

山田太陽の背中に張り付いていたものが、吹き飛ぶ瞬間。

「ご機嫌よう、冬臣兄さん、文仁兄さん。ではさようなら」
「おわっ?!」

背後から伸びてきた手に捕まった太陽の体が浮き上がるのと同時に、凄まじい早さで飛び上がってきた黒が、太陽の手を取ったのだ。

「タイヨー、大丈夫か」
「俊?え、何?!」
「おや、手を離して頂けませんか、天の君。これは私のものです、返して下さい」

山田太陽は今、空を飛んでいる。いや、飛んではいない。これは浮かんでいるだけだ。
右手は何故か空中に、左手はテラスの手摺に乗り上がった俊に掴まれたまま、ぶらぶらと。哀れなほど頼りなく、太陽の両足は垂れ下がっていた。

「あら…?貴方、白百合ちゃんね?眼鏡がないから判らなかったわ」
「ご機嫌よう、マダム隆子代理。陛下に代わって朝の挨拶に参りました、おはようございます」

太陽の頭上から聞き慣れた声が落ちてくる。
然し振り返る勇気も、足の下を見る勇気も、太陽にはなかった。何故こうも高い所に縁があるのか。
ティアーズキャノンの屋上も死ぬほど恐ろしかったが、たった数メートルの高さもまた、生々しいものだ。落ちたら痛いのレベルではあるまい。

「それにしても皆さんお揃いで。帝王院学園高等部三年Sクラス、叶二葉でございます。これはこれは帝王院駿河学園長、ご無沙汰しております」
「あ、ああ、おはよう、叶君…」

毅然と二葉を睨んでいる様に見える俊は頼もしいばかりだが、その祖父である学園長は残念ながら小刻みに震えていた。無理もないだろう、優秀だと信じてきた生徒が朝から大事件を起こそうとしているのだ。

左席委員会副会長誘拐未遂と言う、限りなくしょっぱい大事件を。

「ネルヴァは勿論、理事長のお姿も見えない様ですねぇ。ああ、それともいい加減出ていかれましたか?名実共に帳簿から名を消されてしまいましたから、長居されると陛下のお怒りに触れますからねぇ」
「帝都さんは冬月先生を呼びに行ったのよ。ルークは難しい年頃だから今は怒っているかも知れないけれど、いつか判ってくれると私は信じているわ。あの子は優しい子だもの…」

空中に浮いている太陽にとっては、長閑すぎて逆に恐い会話だ。
学園長夫人のマイペースさに感心している場合ではないのは、流石に俊も判っているらしい。

「ばーちゃん、め」
「…ごめんなさい、俊ちゃん」

嗜める俊の声に、夫人は申し訳なさそうに肩を落とした。
足元も頭上も怖くて見る事が出来ない太陽は、ぶらんぶらんと浮かんだまま息を吐く。現実逃避は命に関わるだろう。
例え、此処がスコーピオ二階の裏手だとしても。下が芝生の庭だとしても。平凡にはこの高度は、余りにも高過ぎる。リアルな高さだ。

「………白百合様、何だか太股が丸見え過ぎて目も当てられない感じですけど、かっこいいのに乗ってますねー」
「そうですか?これはファントムウィングと言います。高坂君と嵯峨崎君のピンチを颯爽と無視して、助けに参りましたよハニー」
「うん、何か良く判んないけど、そこは無視したら不味いよねー?」
「あの二人は放っといても死にませんよ。さぁ、遠野君から手を離しましょうねぇ、ハニー。さもなくば、積載しているマシンガンで一人残らず殺してしまいますよ…?」
「若!脇坂、只今参りました!」

呆然としている学園長夫妻の視線も、開いた口が塞がらないらしい文仁の視線も、息も絶え絶えに走ってきた脇坂が吹き飛ばされたロボットを踏み潰そうと、浴衣を纏う裸眼の叶二葉はただただ真っ直ぐ、太陽を見つめたまま微笑んでいる。
見上げた笑顔の眩しさに、山田太陽は不細工な顔を晒した。直視したのは二葉だけなので、今のところ被害はない。

「…俊、ごめん。離してくんない?ちょいと、殴りたい人がいるんだ」
「判った」

困り果てた下がり眉で呟いた太陽に、俊は素直に手を離した。
大岡裁きなら俊の勝訴だと呟いた帝王院駿河は放心気味で、脇坂は足元のロボットと、バイクに跨がる空中の二葉を何度も目で往復しては、げっと呟いた。

「か、叶二葉っ?!」
「おや、脇坂さん?お久し振りですねぇ、少し老けましたか?」
「んなっ」
「黙らっしゃい。お前さんは俺だけを見なさい、いいね?」
「はい」

二葉の恐ろしさはヤクザ界でも有名だ。
なのに脇坂ですらビビる相手を見つめ、神妙な表情で宣った太陽に、当の叶二葉は笑顔で頷いた。冬臣がビクッと震える傍ら、文仁はザザッと二・三歩大袈裟な動きで後退る。二人の狼狽が目に見える様だ。

「ふーちゃん」
「はい」
「ちょいと、目ぇ瞑ってくんない?」
「はい」

ぶらんと垂れ下がっていた太陽をいそいそ抱き上げた二葉は、自分の前に太陽を跨がらせて、素直に目を閉じる。
どの角度から見てもキス待ち顔にしか見えない有様だ。魔王とさえ言わしめる彼の、甘酸っぱくも期待に満ちた胸のときめきが聞こえそうな雰囲気に、オタクとオタクの祖母は若干頬を染める。学園長だけは真顔だ。
これには冬臣は勿論文仁もついでに脇坂までも言葉を失ったが、その二葉の頬をそっと掴んだ太陽のデコが、密やかにきらんと光った瞬間、


「天誅!」

ゴチン!
と言う凄まじい音と共に、帝王院学園のみならずヤクザまでもが恐れる叶二葉に華麗な頭突きを決めた山田太陽の名は、過去に類を見ないフィーバーを告げたと言えよう。
無意識に手を叩いた文仁は腰が引けており、煙が出ていそうな太陽の額に冷や汗を流した。

「じーちゃん…!」
「しゅ、俊…!」

ごくっと真顔で息を飲んだ俊と駿河はしゅばっと抱き合い、ガクガクぷるぷると震えている。チキンの血は此処から始まったのかも知れない。祖父と孫、余りにもそっくりな震え方だ。

「お前さんと言う奴は…!友達を見捨てるなんて、とても人間とは思えないよ!」
「すみません」

ポコポコ、二葉ははだけた胸元を平凡から殴られても笑顔だ。凄まじい程のスマイル0円だ。
腰が抜けてしまった学園長は孫に抱きついたまま乙女座りし、何度も己の頬をつねっている文仁は声もなく悶え、冬臣は微動だにしていない。
怯えたヤクザも逃げ腰で、カオスだ。

「大体、お前さんはっ」
「おい、さっきから外で何を騒いでんだ餓鬼共。おっちゃん、落ち着いてコーヒーも飲めんだろうが」
「お前が飲んでるのはただメタノールだろうが。さっさとラジエーターの入れ換えを終わらせろ」
「おい、見ろよ俺。アイツが乗ってんの、ハンサムじゃね?」
「何、ハンサムだと?…ん?太陽、お前はバイクの免許を持っとったのか?」

またもやマイペースな白衣と他一匹の登場に、場は益々沈黙した。
痛みこそ全く感じなかったものの、太陽の赤く染まったデコを撫でてやりながらガミガミ怒鳴られている叶二葉と言えば、

「お前さんは朝っぱらから、けしからん格好でバイクなんかに乗ってお空を散歩するんじゃない!襲われたいのかい?!え?!こうやって太股触られたりするんだよ?!判ってるの?!」
「はい、すみませんでした。どうぞあっちこっち触って下さい」
「男にそんな迂闊な事を言うんじゃない!俺だって呆気なく狼さんになっちゃうんだよ?!判っているのかい?!」
「はい、すみませんでした。ふーちゃんは狼さんを心から歓迎します」
「おい、俺。太陽に殴られてるアイツ、嬉しそうな顔してんな。然も心拍数に変化がねぇ。粋だねぇ」
「あれは粋じゃない、ただの変態だ」

ヤクザと学園長がチビる程に、そして白衣とその飼い主が呆れる程に、全開の笑顔だ。





さて、叶二葉は笑顔で正座している。
スコーピオ二階のテラス、冷えたコンクリートの上にきっちりと、背を伸ばして。

「この度は中央委員会生徒会計と言う役職があるにも関わらず、お騒がせしてすいませんでした、学園長。…ほら、お前さんも謝りなさい!」
「申し訳ありませんでした」
「後で俺が叱っときますので、どうか、どうか退学だけは…!」
「落ち着きなさい、太陽君。元気が良すぎるのも考えものだが、このくらいの騒ぎで生徒を見放す程、私は冷徹な人間ではない。それとも君には私がそう見えるか?」
「滅相もない!」

キリッと眉を吊り上げた太陽は、二葉の頭を押し付けながら深々と頭を下げ、まるで父親の様な表情だ。

「おいおい、太陽よ。お前、そいつの親振ってるが、そっちの美人な餓鬼のがお前より年上だろィ?」
「ヤトじい、悪いことした生徒に年上も年下もないんですよー。俺、こう見えて左席委員会の副会長なんで、締めるとこは締める男でしてー」
「ほっほーう、見直したぞ太陽。流石、俺の弟子だ」
「弟子…?ハニー、この年寄りは何をほざいているんですか?殺しても構いませんよねぇ」
「構います!」

ビシッ。
ジジイを睨む二葉にデコピンした太陽は、痺れた足を撫でながらゆっくり立ち上がる。手を貸してくれた俊に笑いながら手を伸ばしたが、後ろから伸びてきた二葉の腕に素早く捕まった。

「軽々しく私のものに触るのはやめて頂けますか、左席会長猊下。今でこそ貴方の下についてらっしゃいますが、山田太陽君はいずれ我々中央委員会が頂きます」
「はい?!何で?!俺は左席だよ、何で中央委員会?!絶対やなんだけどー」
「若しくは風紀委員会が頂きます。寧ろ私が頂きます。ハニー、8月31日に結婚しましょう。漸く18歳になるので」
「本気か二葉!俺は認めねぇぞ!」

太陽を背後から抱き締めたまま、太陽の首筋の匂いを嗅ぎまくる変態は叫んだ男を冷たい目で見やる。硬直している冬臣の隣、牙を剥き出している叶文仁の恐ろしい殺気が太陽にビシビシ突き刺さったが、殺気では人は死なない。

「おや、何故許可など貰わねばならないのか私には理解出来ませんねぇ。奇襲を得意とする貴方らしくない判断ミスですよ、文仁。致命的と言って良い。私は今、貴方の姿を視界に捉えている。意味が判りますか、叶文仁」

ぞっとする様な声に、太陽はピタッと息を止めた。
恐る恐る見つめた冬臣は困った様な表情で、怒りに染まった文仁は唇を震わせているが、言葉はない。

「素直に見逃して頂けるのであれば、此処で見た事は陛下にはお伝えしません。部外者の事も、皆様方が良からぬ何かを企てていたとしても」
「…困ったねぇ、二葉。君は兄を脅しているのかな?」
「おや、脅すとは聞こえの悪い。お願いしているだけですよ、冬臣兄さん」
「残念だが、素直に見逃してはあげられないんだ。今は仕事中でねぇ」

太陽の視界から冬臣が消えるのと同時に、腹に巻き付いていた二葉の腕が離れた。
嫌な予感がすると慌てて振り向けば、冬臣と二葉の頭をそれぞれ掴んでいる男の背を見たのだ。


「交響曲第零番、…跪け」

囁く様な声と共に、冬臣と二葉は片膝を付いた。
目を見開いている冬臣に反し、二葉は冷える様な笑みを零しているではないか。

「やはり貴方は陛下と同じ血を継いでらっしゃる。これでは元老院が貴方を欲しがるのも無理はないと言う事でしょうかねぇ、ナイト=ノア=グレアム」

数人が弾かれた様に二葉を見た。
無意識に二葉を庇うが如く身を乗り出した太陽は、意味もなく頭を振ったのだ。

「違う、僕はこんなの望んでない、こんなの望んでない…」
「…太陽君?」
「は、歯車が狂ってるんだ、信じて、お願いだから俊、そんな目で俺を見ないでよ!」

ぼろりと涙を零した太陽の顔を目の当たりにした二葉は、彼の視線の先を見やる。
そうして二葉の人生で二度目の、己が『生き物』だと知らしめられる恐怖を覚えてしまった。

冷ややかなほどに凪いだ漆黒の瞳が、静かに見つめてくる。
星一つない夜空に似た、体温を感じさせない眼差しだ。

「そうか。お前は俺の大事なものを壊そうとした。そうする事で俺の感情を白日の元に晒し、人へと還すべく」
「うぇ」
「お前は俺を人にしたい。自分が間違っていないと証明する為に、人間は失敗する生命であると確定したい。全ては己の為に」
「ご、め、ごめん、ごめんなさい、俺、俺は…」
「イイ。泣かないでタイヨー、狼が怒ってる」
「…う、ぇ?」
「食い殺されそうだ」

淡い笑みを浮かべた俊が指差す先、振り向いた太陽は恐ろしい目で俊を睨んでいる二葉を見た。余程余裕がないのか、彼は太陽の視線に気づいていない様だ。

「ふ、二葉先輩…?」
「あれを殺せば、…泣き止むのか?」
「ち、違う!殺さなくていいから、お願い、やめて!」

ぎゅむりと、抱き締められて太陽は瞬いた。
ぼろりと零れた涙に今更自分が泣いていた事を知ったが、今更だ。

「俺は、いっぱい失敗したんだ…。その度に嫌な奴になって、だから、俺は…」
「失敗は誰にでもあるものです。己の過失を認めたくない余り責任転嫁する事もある。けれどそれは、自分の罪を認めているからに他ならない。…ほら、泣いているのが何よりの証拠ではありませんか」

二葉の指が頬を撫でた。
こほん、と言うわざとらしい咳払いに顔を上げれば、頬を染めている学園長夫人の隣、何とも言えない表情の学園長が口元に手を当てている。

「気を悪くさせたらすまんが、念の為に聞いておきたい。…二人は不純同性交遊の関係にあるのか?」
「あ、あああのっ、ががが学園長…!」
「おや、学園長ともあろう方が、私達が不純に見えるのですか?この澄みきったプラトニックラブが不純に見えると言うのであれば、それは腐った大人の目で見ているからですよ」
「そ、そうか…。相判った、然し二人は立場もある事だし…」
「じーちゃん、愛より立場が大事なのか?だったら母ちゃんと父ちゃんは離婚?俺は貧しい母子家庭?」

狼狽えた太陽を笑顔で姫抱きにした男は、清々しい程の笑顔だ。真顔で拍手している俊の双眸は何処となく輝いており、いつの間にかその隣で同じく手を叩いていた女のサファイアもまた、輝いている。
孫と嫁の貧しい母子家庭を想像した学園長はよろめき、同じく想像したらしい妻と共に青褪めていた。

「ああ、あの清々しいまでの屁理屈、他人を言葉だけで捩じ伏せようとする豪胆な性格、なんて桔梗ちゃんにそっくりな子だろう…!俊君、あの子はどなた?」
「叶二葉先生、愛の伝道師。俺は甚く感動している」
「叶二葉…?」

ぱちぱち。
瞬いた女はもじもじと太陽の元まで近づいていき、もじもじと二葉を見上げ、気づいた二葉が微かに目を細めた事にも構わず、ぎゅっと拳を固めた。

「君、もしかして僕の息子だったりする?!」
「…はい?今度は何のつもりですか、ジェネラルフライア」
「「ジェネラルフライア?」」

冷たい二葉の言葉に、冬臣と文仁が声を揃える。
話に全く興味がないらしい107歳が鼻くそをほじっている傍ら、逃げるに逃げられないヤクザは死にそうな表情だ。

「二葉先生、タイヨーが泣きすぎてしゃっくりが止まらないみたいだ」
「気安く私のものを見ないで頂けますか、左席会長猊下。いつまでも勝ったつもりにならないで下さい、不愉快です」
「しゅ、俊、お前は叶君と仲が悪いのか…?」
「俺と二葉先生は、ライバルだ」

ビシリ。
世界が凍る音を聴いた様な気がした山田太陽は、忙しなく二葉と俊を目で追った。笑顔でブチ切れている二葉も、真顔で二葉を凝視している俊も、太陽にはどちらも怖い。

「しゅ、しゅ、しゅ、俊?!ラララライバルって?!」
「タイヨーは左席委員会の副会長だろう?つまり俺のものじゃないか。気安くタイヨーに触ってるのは、寧ろそっちだ」
「…おやおや、男の嫉妬は醜いですよ、遠野猊下。私と山田太陽君の赤い糸は前世から繋がっているのです、間男は引き下がりなさい」
「えー?!」

今この瞬間、世界が認めた平凡を取り合い、二人の人格崩壊者が戦いのドラムロールを打ち鳴らした。ふらっと気を失った学園長の傍ら、ほんのり頬を染めてもじもじしている夫人の期待に満ちた眼差しが太陽を貫く様な気配。

「よ、良し、俺はお前を応援するぜ俊…!全く判らんが、叶二葉には負けるなよ!」
「粋だねぇ、俺は無条件でお前の味方だぞ、俊」
「有難うワッキー、ヤングじっちゃん」
「っ、二葉!どうせやるなら負けんじゃねぇ、叶の名を汚すな!判ったか!」
「僕も応援するよ!好きな子は…奪わなきゃ、ね!」
「黙りなさい文仁、ジェネラルフライア。言われるまでもなくアキは俺のもんだ」

それからの山田太陽の行動は早かった。寧ろ脊髄反射と言っても構わないだろう。
左席委員会副会長山田太陽、彼は頭突きで二匹の獣を黙らせた正に勇者である。追記するなら、


「俺は俺のものだけど何か文句があるのかい、あ?」
「「ありません」」

その恐ろしい眼差しと笑みは、勇者とは程遠い。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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