帝王院高等学校
大波乱極まっておはようございま!
「…っかしいな、やっぱり繋がらねぇ」

駆け込んだトイレの窓に淡い夜明けの青が映り込んでいる。
用を済ませて手を洗い、咥えていたハンカチで拭いながら嵯峨崎零人は息を吐いた。
それはそれは、絞り出す様な深い溜息だ。

「くっそ、また壊れたか?静電気除去シート貼ってんだけどな…」

これだから精密機械と言うものは面倒臭い、などと首を掻く。
少しでも乾燥すると静電気の火花が見えてしまう体質とは、良いのか悪いのか。

「あー、腹減ったと思ったら六時過ぎてら。何か温かいもん喰いてぇな、こう………鍋とか?」

再起動しても圏外表示の携帯電話を乱雑にポケットへ放り込めば、現金な腹が一つ鳴いた。鍋と言う安易な料理法しか浮かばないのだから、一人暮らしの大学生の食生活が如何に綱渡りだか知れるだろう。何もしないでも腹が減った高等部時代の方が、野菜摂取量は圧倒的に多かった筈だ。

「朝飯喰う習慣なんざなかったんだが、こりゃ完璧にアイツの所為だ。がっつり具が入った豚汁飲みてぇ、甘めの角煮が入った奴…。…いかん、俺とした事が気が弛んでんな。引き締めていかねぇと」

鏡に映る赤毛の根本を隈無く睨めつけ、後は気合いを入れるべく息を吸い込むばかり。漸く慣れてきた切ったばかりの髪を手櫛で整えて、顎の下を撫でる。

「…にゃろ、二十歳越えると途端に体内の男性ホルモンが暴走しやがる。欲求不満じゃねぇだろうな、有り得ねぇ…。いっぺん光姫辺りにブチ込むか?」

髭の感触が指先に触れたが、まだバレる程の長さではない。恐らくは。然し如何に自分が節操無しと言えど、自分より大きいものを押し倒す趣味は零人にはなかった。

嫌がらせ99%、不足分の微々たる本気で口説いていたのは、ほんの数年前までの話だ。去年からは殆ど会話らしい会話をしていない。卒業前の忙しい時期だったと言えばそれまでだが、小さい体躯に程好く絞まった腰、しなやかに鍛えられた筋肉にしても、日向は零人のストライクゾーンど真ん中だったのだ。悲しいほどに。

それにしても現実とは、成長期とは恐ろしいものである。目に見えるほどの身長差が存在して尚、腕力で均衡していた可愛らしい顔をした可愛いげのない後輩は、たった数ヶ月見なかっただけで変貌していた。
それこそ男性ホルモンが暴走したとしか考えられない程の、今では綺麗な顔をした、ただのヤクザだ。神威と並んで目劣りしないのだから、末恐ろしい。因みに嵯峨崎零人がこの世で最も苦手とするのは他でもない帝王院神威だが、理由は単純に、神威が昔、佑壱から「兄様」と呼ばれていたからだった。

にいさま。
弟に言われたい台詞トップテンにランクインする、兄を骨抜きにする台詞ではないか。言われたくない台詞トップテンにランクインするのは、弟の嫁から言われる「義兄さん」である。
同じ兄とは言え、それらは似て非なる言葉なのだ。以上が曇りなきブラコンの主張だった。

「ちッ。俺好みの生意気な面しやがって、レッサーパンダみてぇな目のシロより、そりゃ高坂の方が燃えるのが真理だろ…。ぶち泣かしたい…」 

とは言え、最愛の弟からガンガン放出されている咳き込みそうな男臭さに比べれば、日向はまだまだ可愛げがあるのかも知れない。
天然ブロンドで気づかれていないが、体毛の濃さは日向も零人に大差ないとは言え、顔だ。顔。

男女問わず小生意気そうな顔立ちを好む零人にしてみれば、二葉より日向の方が圧倒的に性的対象だった。
二葉の性格は小生意気を既に通り越している。Sを極めてMっ気すら感じさせるあれは、零人とほぼ同族だ。ギンギンに勃起するものもしんみり萎える。男にしても女にしても、ねちねちくどいよりは、素直に睨み付けてくる方が可愛らしい。

佑壱が他人だったら押し倒していた自信がある変態兄として、神威や二葉は対象外だと言わせて貰おう。寧ろあの二人は人間だと思っていない。
それに引き換え、ノーマルを装ってM臭さえ感じさせる日向の色気は何だろう。零人を見る時のゴキブリを見る様な目が堪らない。あの目付きだけで十分ムラムラする。

「つっても無理矢理っつーのは俺の趣味じゃ、」

佑壱の寝込みを襲って殺され掛けた過去を持つブラコンは、それと大差ない筋肉を持ちながら全く男らしさを感じさせない加賀城獅楼を思い浮かべ、伸びた鼻の下を押さえた。
薮蛇に噛まれそうな一歩手前で考える事を放棄し、自分の頬を無言で叩く。

「あら」
「あ?」

用が済めばトイレに長居は無用だ。
ドアノブに手を掛けた瞬間、目の前に奇抜な赤を見つけて嵯峨崎零人は眉を跳ねた。

「…もしかして親父?何ですっぴんなんだよ、髪も解いてるしよぉ。畜生、一瞬佑壱と間違えたじゃねぇか」
「アンタこそ、目が覚めたんなら一言声くらい掛けなさいよ。高坂の所の彼はどうしたの?」
「あ、脇坂さんにアイツ押し付けたまんまだ。やべぇ、急がねぇと…」
「声が聞こえたと思ったら、やっぱりゼロだった」

トイレから出てすぐに見掛けた父親との会話もそこそこに、走り出そうとした零人の足は、ドアが開く音と共に顔を覗かせたブロンドを認め動きを止める。

「え、そっちもトイレ?」
「ふふ、レディーに野暮な事を聞くものじゃないよ、ゼロ。レイ、ハンカチを持ってる?エアドライは苦手で」
「あるわよ。えっと、ハンカチ、ハンカチは…」
「あ、俺の使えよ。丁度二人に電話入れようと思ってた所だったんだ。んな事より親父、小林さんは?」
「コバックは別室で休ませてるわ。明るくなってきたから、流石に派手な警備は必要ないでしょ」
「あー、タイミング悪いな…」

ぼりぼりと頭を掻いた零人は、ひとしきり廊下を見渡したが、目当ての人影がない事に顔を引き締めた。ハンカチで手を拭いながらダークサファイアの瞳を瞬かせた人は、息子の表情に何やら悟ったらしい。

「何かあったなら聞かせて、ゼロ。私もレイも、お前の味方だ」
「あー、いや、何かっつっても、何処から話せば良いか判んねぇっつーか…」
「そんなもん、重要な所だけ喋れば良いのよ。アンタ達、何があったの?」
「俺らを眠らせたあの女、『キハ』って名乗ってたんだ。どうせ偽名だろうと思ってたが、どうもキナ臭ぇんだよ」
「キハ?」
「聞き覚えのない名前ね。アタシの知る限り、アッチの役員にもそんなコードはないわ」

嵯峨崎嶺一の言う「あっち」に関して、零人には判らない。そもそも嶺一自身、取り扱える情報には限度があった。表向き佑壱の名代として組織に登録されてはいるものの、権限は所詮、代理のものだ。

「あのさ、今回の件に関しては、佑壱に話した方が良いかも知んねぇと思うんだが。親父、…その、母さんも、どう思う?」
「ゼロ…」
「やだ、感極まってるクリス可愛い。…なんて言ってる場合じゃないわね、とりあえずその件に関しては保留よ。どうせ佑壱は、興味ない事にはとことん興味ない子だもの。早い話が言うだけ無駄」

シビアな嶺一の台詞に、零人は片眉を跳ねた。母親は苦笑いを浮かべているが、否定しない所を見ると、嶺一の意見に賛成なのだろうか。

「寧ろ相談した所で素直に答えてくれるかしらねぇ。アタシ嫌われてるから」
「違うよレイ、あの子が恨んでいるのは君じゃなく私の方」

これに関して、零人に発言権はない。
極めて可笑しい話だろうが、零人はこれまで母親とまともに会話した記憶がなく、佑壱を含めた家族皆での会話と言う経験もない。佑壱が実家に帰ってくる事など一度としてなく、実際、アメリカから日本へやって来た時も、暫く佑壱はホテル暮らしだった。
あの頃は零人が佑壱を嫌がったと言う理由もあるが、向こうも同じだったに違いない。

「何つーか、嫌ってはねぇと思うけどな。何にせよ、掛ければ電話には出るだろう?メールの返事はいっぺんも返って来ないけど」
「一年に一回か良くて二回、親子の会話にしては白々しいわよねぇ?我が子ながら、親不孝に育ってくれたもんだわ」
「レイ…」
「ま、アタシより後に死んでくれたら他はどうでも良いわよ。アンタもね、ゼロ」

嫌いだどうだと言うよりは、五歳まで居ないと思っていた母親以外の家族に会ってしまい、受け入れきれていないと言った方が正しいのだろうか。佑壱の気持ちとしては、きっと。
そんな事は先刻承知の上らしい嶺一の台詞に、零人は頭を掻いた。

「容赦ねぇな、テメーの息子に」
「アタシはアンタもあの子も甘やかさないわよ。嵯峨崎の家訓は『叩き上げ上等』、…俺に比べたらオメーらなんざ可愛いっつーの」

ぼそりと吐き出された父親の地声は、当然低い。
メイクは落としているものの、派手に太股を晒したチャイナドレスはそのままなのだから、言葉に詰まる。

「なぁ、親父。そろそろ女装やめろよ。幾ら母ちゃんとの約束だったからって、アンタ50過ぎてんだろうが」

きょとんと目を丸めた嶺一が、瞬くのを見た。父親ながら子供の心を読むのが上手いと言うか、彼は零人の言葉を正しく理解したらしい。

「ちょ、ちょっと待ってアンタ、何でアタシのこれが、イールとの約束だって知ってんの?」
「そりゃ、」
「ああ、ゼロには私が話したんだ。9年前、初めて日本へやって来た時に、全て」

淡い笑みを零した妻の眼差しを見やり、嵯峨崎財閥会長は瞬いた。
今の今まで知らなかったのだから、無理もないだろう。苦笑いを浮かべた零人は、目線の変わらない父の肩を軽く叩き、おどけた様に肩を竦めてみせる。

「ま、そう言う事だ。母ちゃんが本当は、母さんの事が好きだった事も、だから母さんの代わりに俺を産んだ事も、全部知ってる。知らないのは親父、アンタだけっつーこったな」
「んの、糞餓鬼…。誰に似て面厚かましくなったのかしら…」
「レイ、ゼロを叱らないでくれ。君の気持ちを考えれば、私が話す事ではなかったんだ。勝手な事をしてごめんなさい」

隠していたと言うよりは、聞かせたくなかった、知らせるつもりがなかったと言った所か。つまり嶺一は気まずいのだろう。
申し訳なげに頭を下げた母親の肩を宥める様に叩き、零人はビシッと父親へ指を突きつけた。

「母さんに気を遣わせんな。大体、あれは俺が中等部に進んだ頃だ。あの頃は色々複雑だったけど、今じゃ教えて貰って良かったと思ってるぜ?じゃねぇと、いつまでも逆恨みしてる馬鹿な餓鬼だった訳だ。それこそ糞がつく」
「…はぁ。アンタのそう言う、変な所でポジティブなとこ、クリスに似たのね。絶対、アタシの血じゃないわ。はぁ…」
「なぁ、母さん。俺が言うのも何だけどよ、こんなヘタレの何処が良かったわけ?顔?んな訳ねぇよな、母さんに比べたら、親父なんてほら、何だかんだ見た目が赤いだけのオカマだし」

零人は久し振りに父親に首を絞められ掛けたが、ギリギリで躱しながらニヤニヤ相好を崩す。長身二人の不穏な諍いを目を丸めて見守っていた人は、金の睫毛を瞬かせて、溶ける様な笑みを浮かべたのだ。
それこそ、女神と見間違わんばかりの。

「人を愛する事に、どんな理由も飾りでしかないよ、ゼロ」
「う、ぇ?」
「…え?」
「初めて私は、太陽を見たんだと思った。エアリアスやサラから聞くばかりの、想像もつかないサンシャイン。…レイは、私の全てだ」

恥ずかしげもなく微笑みながら宣った人に、髪型以外はそっくりな父子は揃って沈黙し、顔を真っ赤に染めてから同時にわざとらしい咳払いを放つ。

「さ、さんしゃいん…?男嫌いだった母ちゃんが親父と一緒に暮らす為の最大限の譲歩で、女装させたってのに?つーか逃げた罰でアシュレイの娘と結婚って何なんだよ、未だに意味判んねぇわ」
「…イールはアタシを殺さない為に来てくれたのよ。クリスの為に。あの子は本当に、心からクリスを愛していたから」

これだ。
唯一最大の違い、根っからのアメリカンと根っからの日本人の、海より深い違いがあったではないか。どうやら我が二人の母親はどちらも愛に従順だった様だが、亡き母と父の喧嘩を覚えている零人としては、女性の素直な愛の言葉は何となく恥ずかしい。

「…気づいてあげられなかった私は、エアリーをどれほど傷つけていたのだろう。それでも私はまだイールが羨ましい。イールが死んだと聞かなければ、レイに会う勇気なんてなかった。…だからエンジェルが産まれたのは、」
「良いよ、判ってる。ごめん、言いたくねぇ事言わしちまった」

我が育ての両親ながら、『童貞』『処女』と互いを罵り合う光景を、零人は微かに覚えていた。今更ほじくり返すつもりはないが、確かにあれは夫婦の会話ではない。男子学生の下らない口喧嘩に等しいものだ。
思い返せば思い返す程に、エアリアスと言う女は母親らしくなかった。何せ零人は、母親の手料理など食べた記憶がない。嵯峨崎の屋敷には料理人が居たからだ。

「あー、もうっ、…恥ずかしいな!何だよ、俺が恥ずかしいじゃねぇか!くっそ、親父はとりあえず死んどけ!」
「は、俺の第二の青春はこれからだ!悔しかったら彼女の一人や二人連れてこい、馬鹿息子!」
「ゼロ、恋人は一人だけにして欲しいな、母親としては」

クスクスと、笑う人の声に重なり、別の笑う声が聞こえてきた。
二つ並んだトイレのドアの零人が入っていた方ではなく、彼の母親が出てきた方のドアから顔を覗かせたもう一人の金髪に、男共は再び顔を染める。

「親父…っ、高坂さんが居たなら言えよ…!」
「わ…忘れてたのよ…!仕方ないじゃない、あんな熱烈な告白されたんだからっ!」
「すまない、クリス。タイミングを逃して出るに出られなくてな。…盗み聞きしたつもりじゃなかったんだが」
「ふふ、構わないよ、アリー。それより、君にも聞いて欲しい。先に、ワキ…ワキ…ワキシェカさんを探そう」
「「ワキワキシェカ?」」
「そうだ、先程の話を聞いた。零人君、脇坂は一人かな?」

発音こそ悪くないものの、やはり日本語に馴染めていない嵯峨崎夫人とは違い、金髪なのに袴が似合うイケメン過ぎる美女には通じたらしい。愛があってもワキシェカの意味が判らなかった嶺一と、判ってはいたが突っ込めなかった零人は目を見合わせ、再びわざとらしい咳払いを放つ。

「そうだ、こうしてる場合じゃない。アイツを押しつけてんだった」
「押しつけたって、何を?」
「あのアマ…じゃなくて、あー、多分、機械人間?」
「機械人間ですってぇ?何、本当に何があったの?」
「キハを名乗ってた奴だよ。あの餓鬼、恐らく人間じゃねぇ」

零人の神妙な表情に、一同は沈黙した。
然し何やら考え事をしたらしい人は、口元に手を当てたまま碧眼を滑らせる。

「間違っていたらすまない、そのキハと言うのは、君が連れてきた子かな?ヨーコを誉めてた、瞳の蒼い」
「そうです。小林さんに確認して貰いたかったんですが、良かったら高坂さんにお願い出来ませんか?」
「私に?」
「はい、どうも叶関連みたいで。何が切っ掛けか判らないんですが、自分をアレックスだってほざいてんですよ」

これに反応したのは、高坂だけではなかった。
零人に三人の視線が突き刺さり、当の零人は微かに肩を震わせる。 

「アレックスって、まさか…」
「アリー、もしかして、それは」
「…ああ、クリス。兄アレクセイのニックネームが、アレックスだ。日本政府の尽力もあり、ヴィーゼンバーグが王宮をせっつく前に日本へ帰化した時に、元の名は捨てている。アレキサンドリアのニックネームがアリアドネだった、私の様に…」
「は?え、何、何なんスか?」

話が見えない零人だけ眉を跳ねたが、他は皆、何とも言えない表情だ。

「機械…死んだ人間の名を語る、アンドロイド…?まさかそれって、技術班の?」
「私もそれを考えていた所だよ、レイ。…行きましょうアリー。思っている以上に、ステイツは緊迫しているのかも知れない」
「君がそう言うのであれば、断る理由はない。零人君、至急案内してくれ」
「判りました。念の為、フロントの警備員に声を掛けておきましょう。脇坂さんはエントランスに居ると思います」

不穏な雰囲気の大人に見つめられ、零人は素直に頷いた。
この状況で脇坂が何処に居るのか判らないとは、とても言えなかったからだ。
















記憶の蓋を開く鍵は、今尚、朧気だ。
どうやら一筋縄ではいかないらしいととうに気づいているが、要因が判らない。

絶望したのか(自分は)だとしたら何故(目的を覚えたまま)全てを忘れていないのか(破片を拾う度に己の罪深さを知らしめられる過程)このまま辿り着く場所は、何処だろう。

自分は自分の何を知っている?
(少なくとも失った全てを取り戻す事など出来はしない)
(足掻いているだけだ)
(自分は自分の知らない事など今まで一つとして存在しなかった)
(けれど今は?)

夢を見ているかの様に、起きながら眠っているかの様だ。
思考が上手く纏まらない。まるで、わざと眠っているかの様にふわふわと頼りなく、漂うが如く。
これは本当に、第三者の仕業なのだろうか。

仮説を立てた。当然の事ながら正しい答えはない。
きっとこれは自分の仕業なのではないだろうか。つまりは自作自演。自分は初めから寸分の狂いなく自分で、今のこの状況すら、定められた羅針盤の上であるとしたなら。


(針は進むべき道を指しているのか)
(戻る事を許さぬ時の轍の上、今も滞りなく泳いでいるのか)
(けれど答えはない)
(まるで厳重に施錠された宝箱を開ける様に)
(その場に佇んでいる)
(流されている癖に)
(何処にも進めないまま)
(戻る事は許されない)


過去の自分に問うとすれば。
過去から呼び戻された今の自分にはたった一言、未来は必要がなかったのか・と。

いずれ歩んでいたのだろう見知らぬ未来に生きていたもう一人の自分は、絶望したのだろうか。


(望んでいたものは)
(描いていたものは)
(どうして一つも残っていない?)
(暴かれるのは罪の証ばかり)
(自分は自分の感情を感じられない)
(まるで何処にも存在していないかの様だ)
(初めから残るつもりがなかったのだろうか)
(何にも)
(誰にも)
(ほんの隙間もないくらい)





それとも?











「可笑しいの、そろそろだと思ったがダウンロードが終わっとらん。ネルヴァ、この屋敷はナローバンドだったか?」

明るくなった外を見やるなり、バルコニーのテラスデッキでラジオ体操を始めた男は、一曲丸々歌いながら躍り終えて、若干息を弾ませながら戻ってくるなり宣った。
そろそろ起きてくる頃かと時計を横目にダイニングテーブルを片付けていた男は目を向けて、何を馬鹿な事をとばかりに眉を潜める。

「ブロードバンドに決まっているだろう。この屋敷の回線は、学園のアンテナから地下に張った有線で供給されている光ファイバーだよ」
「可笑しいのう、いつもより客が増えているとは言え、六時を回ったばかりでこうも速度が出んものか?」
「君らしくない、エラーでも出して弾かれたのかね」
「下りの速度が遅いのはままある事だが、高々1GBのやり取りに一時間近く費やして、まるっきりゲージが増えてないのは変な話だのう…」
「さぁ、私のパソコンは此処数年インテリア同然だから、ギガバイトだのアルバイトだの言われても、理解に苦しむのだよ」
「師君の時代錯誤は今に始まった事ではあるまい。未だに電卓も使えん程のメカ嫌いでは、電子レンジの扱いも判らんのは道理だ」

ああ、始まった。
これがなければ毛嫌いする事もなかったろうに、昔からこうだ。冬月龍人と言う変な所で頭の固い研究者は、事メカニックに関してはああだのこうだの口煩い。

「よいか、レンジはレディーの様に扱うものだぞ。何でもかんでも『おまかせ』を使って調理するのは、感心せんのう」
「任せられるものを任せて何が悪いんだね。オートクッキングは人類が待ち望む最上級の合理化だよ」
「いかんいかん、所詮機械と言うのは人間にはなれんとさっき言ったばかりだろうに。よいか、儂が師君に今一度正しい家電のハウツーを教えてやるからにして」
「年寄りの長話は聞く耳を持たないのだよ。壊れずに使えているのだから、余計なお世話だね」

ばちばち。
大人げない二人の間に散る火花、バターン!と開いたドアの向こうからわらわらとやってきた同じ顔をした子供らは、大人げない老人二人へ揃って手を挙げた。

「グーテンモルゲン、旦那様」
「グーテンモルゲン、パパ」
「おお、漸く起きたか。師君ら、アンドロイドとは言え、六時半までスリープするとはどう言う事だ」
「だっていつも旦那様居ないんだもん」
「だってリヒトも帰ってこないんだもん」

人類が産み出した知恵の結晶、アンドロイド二体はいつもの様にバルコニーへと近づいていったが、雇い主に止められる。

「庭園の水は私がやった。君達は温室の状態を見てきてくれ」
「はーい、旦那様」
「はーい、旦那様」

見た目だけでは楽しげな双子が庭へ駆け出していく光景にしか見えないが、あの二人の中身を聞けば大半の人間が逃げ出すに違いない。

「ったく、作ってやった儂の命令は聞かん癖に、師君の言いつけは素直に守りよるのう。…ちと甘やかし過ぎたか?」
「あれも家電の一種だろうに。子育ては甘やかすばかりでは務まらないものだよ、シリウス」
「まぁのう、アンドロイドを殴った所で虐待になる所か自分の手が砕けるだけだ、躾は好きにするがよいだろうが…。それより、先々週だったか、人手不足の保険医を助けるべく医療用アンドロイドのAIを試作で積んでみたんだが、てんで駄目だったわ」
「駄目とは?」
「バイオジェリーの飼育用アンドロイドのAIデータを基準にしたんだが、モラルデータが思いの外育ってなかった。…クライストの長男と東雲のボンを離れに寝かしておいた時、奴らあの二人で解剖実験を始める所だったわ」

悍しい話だ、頭が痛い。

「…我らの評価は君の所為で格段に下がったに違いない。ゼロがカイザールークに上奏する可能性を考えなかったのか?」
「それはあるまい。クライストの長男坊は、昔からルーク坊っちゃんを嫌っておろう?」
「今の陛下を苦手としない人間を探す方が難しいと思うがね」
「そなたらは私が嫌いだったのか?」

そこに割り込んできた声に目を向ければ、いつの間に居たのか、庭へ続くバルコニードアの硝子に張り付いている金髪が見えた。今の今まで全く気配がなかっただけに、茶を飲んでいたら二人共吹いていただろう。セーフだ。

「どの辺りが嫌いなのか精密に答えよ。それともこれは陰口と言うものか?この場合、私は聞かなかった振りをすべきなのか?」

ああ、ああ、無表情なのに物凄く肩が落ち込んでいる。
彼は表情に恵まれなかっただけで、無感情ではない。どちらかと言えば、見れば見るほどに判り易い男だ。

「ナイン、居るなら居ると言わんか。儂らは若くないのだぞ、そう驚かせると心不全一直線だわ」
「へ、陛下、何故この様な所にお一人で?!それもカーデガン一枚とは、何と…!どうぞお入り下さい!」
「そうか」
「ナイン、土足は無礼だぞ」
「いえ、お気遣いなく陛下」

靴を履いたまま上がってきた金髪に、秘書だけは盛大な贔屓である。再びバチバチと火花を散らした大人げない二匹を無表情のまま眺めた金髪は、大人しく靴を脱いでソファの上に座った。

「そなたら、多忙な所すまん。少しばかり私の話を聞いては貰えんだろうか」
「いきなり何だ、相変わらず意味不明な男だのう。勿体つけとらんでサクサク話さんか」
「君は陛下に向かって何と言う無礼な…」
「良いのだネルヴァ、そんな事より龍一郎が私のベッドで寝ている。どうすれば良い」
「「………は?」」

無表情だが、見れば見るほどに呆れるほど綺麗な顔立ちをした理事長(現ニート)の台詞に、保険医(現フリーター)と第一秘書(現ロマンスグレー)は同時に首を傾げる。

「空飛ぶヤトが龍一郎を背負っていた。だが背負っていたのはヤトを模したアンドロイドで、それには他にレヴィ=グレアムの人格と帝王院鳳凰の人格が格納されているそうだ」
「ちょ、ちょちょちょっと待て、師君は何を言っておる?リューちゃんちっとも判らんぞ、ミューちゃんはどうじゃ」
「誰がミューちゃんなんだね。…陛下、そう興奮なさらず、まずは落ち着いてローズティーをどうぞ」
「かたじけない」

ソファに座ったまま、クネクネしている元主人にお茶を差し出した白髪は、混乱し過ぎて逆に冷静な表情で茶髪を見やり、口を開いた。

「所でシリウス、リューイチローとは誰だったかね」
「師君こそ落ち着かんか、リューイチローは………はて、誰だったかのう?」
「遠野夜刀からシリウスに伝言を預かった。隆子の件で取り急ぎ戻れとの旨、伝えておく」
「トオノヤト?」

眉を寄せる秘書の向かい、理事長の隣でカップを奪った保険医は、ぐびぐびとローズティーを飲み干す。派手なゲップがフローラルにも程がある。

「っ、鬼のヤトか!40年前に表舞台から姿を消して以来とんと聞かん名だが、奴が龍一郎を隠しておったのか?!」
「ヤトはヤヒトの兄だそうだ」

ガチャン、とカップを落とした保険医の向かいで、ガタンと椅子から滑り落ちたロマンスグレーは、目を開けたまま死んでいるのかも知れない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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