帝王院高等学校
まるで楽園の様な地獄に、二人。
「かごめ、かごめ」

何処かからか、子供の声が聴こえてくる様な気がする。
幼さを感じさせるそれは、性別が判らない。

「籠の中の鳥は、いついつ出やる。無月の晩に、六つの星は帰依た…」

何だろう、この歌は。知っているものと違う気がする。

「本当の輪廻は、どーれ?」

たん、と。
目の前に何かが降りてきた。


「寝る子は育つ。沢山眠って、大きくおなり」

ああ、寝ているものとばかり思っていたが起きていたようだ。自分の腰程の位置に頭がある子供が、一重の双眸を丸めて見上げてくる。
日焼けしているのか肌が黒く、なのに髪は子供の膝の辺りまで伸びていた。恐らくこれは、女だ。

「…目付きの悪い餓鬼だな。何だお前は」
「おみゃあ、レディーに向かってお前とは何、誰に言うてみゃあとるの?ぶっ飛ばすよ」
「はぁ?レディーだと?どん臭い方便使いやがって、お前にぶっ飛ばされるほど俺は、」

ああ、体が浮いた。
何事だと目を見開けば、遥か彼方地面に、厭らしい笑みを浮かべながら見上げてくる子供の顔。
まさか蹴り飛ばされたのかと考えたが、派手に落下して尚、痛みがなかったので信じられなかった。180cmを越えている自分が、こんな小学生程度の女子に吹き飛ばされるなど、有り得る筈がない。

「お、まえ…」
「ふん。良い気味だ事。女を舐めとると、どえらい怪我するで?気ぃつけやぁ、糞餓鬼ぁ」
「く…糞餓鬼だとぉ?!そっちこそ糞餓鬼じゃねぇか、やんのかコラァ!」
「上等だわ!その甘えた性根、叩き直したらぁ!」

昨今見掛けない程の見事な一重をカッと開いた子供が、凄まじい早さで殴り掛かってきた。何なのだこの子供はと飛び起き、応戦するべく手を振りかざしたが、後ろから何かに羽交い締めにされた為、身動き出来ない。

「な?!」
「俺の妻に手を上げるつもりならば、殺す」

耳に、冷ややかな声が聴こえてくる。静かな殺気、明らかに一般人ではない事だけは判った。
今の今まで目の前に居た子供の姿がなく、どう考えても現実ではない光景に、今更これは夢なのだと思い知ったが、だからと言って起きようと思っても中々目は覚めないものだ。

「ん、の野郎…!」
「俺は全てを躊躇わない。何故ならば後悔を知っているからだ。己を幾ら鬼と謗った所で、結局最期は、ただの人間でしかなかった」
「Shit、離しやがれコラァ!」

誰かの声に似ている。
全力で抵抗すれば、拘束は容易に解けた。弾かれた様に距離を取りつつ振り返れば、先程の子供と仲睦まじげに手を繋いでいる、真っ赤な髪の男が立っているではないか。

身長は同じ程度か、ややあちらの方が高い。
燃える様な瞳の色、燃える様な髪の色、全てが、誰かに似ている。

「………あ?ジジイ?」
「ああ、ああ、何て言葉遣いなの、全く礼儀がなってない、品性が欠如しとる。そんなんだでおみゃあ、眉が抜けてみゃあとるんだわ」
「…眉は………関係ある…のか?」
「嵯峨崎の恥め!その腐った性根叩き直したるよ、佑壱!」
「んだと糞餓鬼!黙って聞いてりゃ好き勝手抜かしやがって、大体テメーこそレディーなら最低限名乗りやがれ!」
「はぁ。全く、これは私の血だわ。完全に人の話を聞いとりゃせん、こんなんだで帝王院のぼっちゃまから見限られるんよ」

ベラベラ口煩い女子の隣、先程の殺気を放った人間とは思えないぼんやりした表情で、男は子供を見つめていた。
本当にこれは何の夢だと、己に突っ込みたい気持ちを噛み殺した瞬間、最後の記憶を思い出したのだ。

「っ、やべぇ!そうだ、高坂を一人にしたら不味いんだった!起きろ起きろ起きろ、ああ、もう、何で起きねぇんだ俺って奴は!」
「…それは………様が………」
「陽炎さん、孫の前でも上手にお喋り出来ないの?おみゃあのそれは口下手やにゃあて、ただの肺活量不足だわ」
「あ?禿げろだと?馬鹿抜かせ、禿げるのは高坂だ」

何やらぼそぼそ呟いている男の隣、目を吊り上げた色黒の子供が靴を脱ぎ、無言で投げつけてきた。
やはり夢だ。メジャーリーガー並みの豪速球と化した靴が顔を叩き、すてんと尻から崩れ落ちる。幾ら夢でも、これは余りにも弱すぎないだろうか。主に自分が。

「何なんだよ、弱体化が激し過ぎんだろ、幾ら何でも…」
「見限られた癖に何をブツブツ言ってんの、未練がましい」
「あ?!誰が未練がましいだと?!」
「おみゃあに決まっとるがね、このすっとこどっこい!」

とうとう、女子は両足共に裸足になった。
今度は腹を直撃した豪速球で、嵯峨崎佑壱は派手に咳き込む。然しやはり、痛みはない。

「よう聞きぃ、こんの馬鹿男」
「お前らは本当に誰なんだよ、勝手に人様の夢枕に立ちやがって。殺すぞ」
「馬鹿め、私達はとっくに死んどるわ。馬鹿は何処までも馬鹿だに、救えんわ」

口が悪い。
女とは古今東西、口先から産まれてきた様な存在だが、それにしてもこの子供は圧倒的だ。手を繋いでいる、父親にそっくりな男は先程から一言も口を挟む隙がない。それでも口を開こうとはしている様だ。口を挟めないだけで。

「ったく、おみゃあが先に産まれとったら、ゴタゴタ悩まんと良かったのに…。何なの、此処まで似とったら可愛さより怒りが勝るわ…」
「何の話だ」
「眉はない、あるかないか判らん奥二重、鬼の首を取った様な目付き、大体その肌の色は何ぃ?漁師か。…おみゃあみたいなドブス、男だで見られるんよ。女やったら嫁の貰い手はにゃあわ」
「テメーに言われる筋合いはねぇ。そっちこそアフリカ民族ばりに真っ黒じゃねぇか、マロ眉」
「やかましゃあ!誰がマロ眉やて?!」

ああ、誰か叩き起こしてくれないか。
般若の表情で赤毛赤目の男を持ち上げた女子が、躊躇わずにそれを投げつけてきたのだ。

「お、お前はコイツごと俺を殺す気かコラァアアア!!!」
「夢では…死なない…」

ぼそりと、耳元で呟いた声を聞いた。
辛うじて抱き止めながら吹き飛んだ佑壱は、般若の如き女児を睨み据えていた目を男へ注ぐ。
やはり、父親に似ていると思ったのは、勘違いだったかも知れない。

「…オメー、寝起きの俺みてぇな面してんな。高坂ばりにくっきり二重じゃねぇか、畜生」
「そう、若様の呪いは夢の中でのみ解かれた。お前はお前である為に、眠っている」
「…は?いきなり長文喋ったと思ったら、何だよ」
「約束は果たされない。試練とは、常に己との戦いである」

目の前の男の髪が、伸びていく。
彫りの深い二重が細まり、一重に近い、奥二重へと変わっていく。


「お前、は」

ああ、それは。
まるで、鏡の中の様に。

「腹決めやぁ、馬鹿孫。おみゃあを潰す為だけに、私達は存在してる。私達は私達であり、お前そのものだわ、佑壱」

子供の髪が、燃える色へと変わっていく。
真っ黒だった瞳がダークサファイアへと変色し、目の前には今、紅と蒼の瞳を持つ自分そっくりな人間が、二人。

「馬鹿孫、って…」
「可愛い、可愛い、私の王子様。生きてる内に抱いたれんかったお詫びに、此処でぶっ殺してあげる」
「愛しい、愛しい、俺の家族。弱いまま生きるのであれば、殺してやるが唯一の情け」

二人の間に、ゆらゆらと、陽炎の様に。
現れた小さな子供もまた、燃える様な髪を持っていた。子供の右目はダークサファイア、左目はクリムゾンレッド、年の頃は、恐らく、二歳。

「Long time no see, Eden.(久し振り、エデン)」
「確実にこりゃ、悪夢だ」
「ねぇ、音楽が聴きたい?僕、大好きな音楽があるんだ。ねぇ、どっちにしようか?」

自分と同じ顔をした子供が、両脇に立つ二人へそれぞれ手を伸ばす。

「ほら、こっちはクラシック」
「高、坂」

片方の自分が、金髪の男へ変わっていくのを見た。何の夢だ。これが本当に夢だとしたら、何故、その男が。

「で、こっちはクラシック」

そうしてもう片方の自分が、黒髪へと変わっていくのをただ、見ているばかり。

「…総長」
「ねぇ、どっちにしようか?」

唆す様に微笑む幼い自分はまるで、



「要らない方は殺しちゃおうよ、エデン」

悪魔の如く。





















「嵯峨崎!」
「…おや?そこで騒いでいるのは高坂君ではありませんか」

軋む世界に構わず、抱えた体を揺すりながら叫んでいた日向の背後から、その声と光は降ってきた。
地獄に仏と言う諺は知っているが、この場合、地獄に魔王では有り難いのか違うのか判断に悩む。

「お前、どっから湧いて出てきやがった」
「スライドレールが突き出てましたので、流石にあれを壊すのは至難の業でしょう?なので、その隣の壁の部分を突き破りました」

軋みが酷くなった。
地響きの様な音に支配された闇の中、二葉と思わしき刺す様な光だけが唯一の光源だ。

「見事に浸水した様ですねぇ。だから宍戸を脅してでも工期を早めるべきだと言ったのです。君がごねるから、」
「言ってる場合か!錦織達を巻き込んでねぇだろうな!」
「ふん、知った事ではありませんねぇ。それより、山田太陽君は何処ですか?」

皆が脱出した位置からは大分離れた所から聞こえてくる二葉の声に、日向は佑壱を抱え直しながら息を吐く。考える必要もない事だが、二葉が直々に動く理由など太陽以外には考えられない事だ。

「さぁな。部活棟のどっかにいるんだろうが、嵯峨崎曰く、俊と一緒にいるらしい。つまり、無事だろうよ」
「おや、そうですか。判りました、ではさようなら」

この野郎、と言う怒りは声にならない。
来たなら助けろと怒鳴る前に、どさりと落ちてきた袋に気づいた。

「あ、どうやらバイオジェリーが逃げ出した様です。ご存じでしたか?」
「ああ。それがどうした」
「ファントムウィングで探査した所、カトルエリア地下に巨大な空間を認めました。君達の丁度真下、アンダーラインから地下道で続いている様ですねぇ」
「…ソナーか。音波探知機がついてたな、忘れてた。それについては俺様が帝王院と共に確認してきたが、第四キャノンの真下辺りだったぞ?」
「いいえ。それとは比べ物にならないサイズの空洞が、君達の真下に存在します。旧下水道ラインよりまだ下、下水処理施設と同じ高さに」

二葉の姿が漸く、日向の目に映る。
漆黒のバイクのヘッドライトの向こう、群青の浴衣を纏った二葉はハンドルに置いた手で頬杖をつきながら、笑顔はない。

「このまま此処が崩れてしまえば、証拠隠滅になると言う訳ですよ。私達に知らされていなかった何かは、大量の水と共に消える。掘り返してまで調べるとは思っていないのでしょうねぇ」
「…んな面倒、大量の生徒を抱えた私立校にやってる暇はねぇからな」

成程、悪魔の考えそうな事だ。
どうせ誰かが調べなければならないのであれば、ワーカーホリックに任せると言うのが本音だろう。人を痛め付ける事以外、数字にしか興味がない二葉には荷が重い。

「校内の回線が不通になっています。私の衛星回線を開いておきました、その袋にモバイルルーターとある程度の道具、それと『君の薬』が入っていますよ。残念ながら、潜水艦までは用意していませんが、君ならどうにでも使えるでしょう?一週間寝てなくてもIQ180ですからねぇ、高坂君」
「皮肉かよ。…それにしても随分用意が良いじゃねぇか、珍しい事もあるもんだ」

佑壱を抱えたまま、降ってきた破片を片手で振り払う。
破片で切った腕から血が滴る感触に気づいたが、構う事はない。極限の眠気で痛みが麻痺している事が、唯一の救いだろうか。

「最低限の準備ですよ。万一の事があれば、私が守るより年中貧血の君が『正常な状態』に戻った方が効率が良い」
「正常な状態、か。今がそうじゃねぇみてぇな言い方しやがって」
「君は狂ってますよ、圧倒的にねぇ。大体、他人の為に毎日800mlの献血を11年も続けているなんて、まともな筈がない。なのに輸血は嫌がる。理由は明確、自分以外の血清をお姫様に与えたくないから」
「お前だったらどうする?」
「同じ事をするでしょうねぇ。残念ながら、高野健吾から毎週採血し精製している君専用の人工血液は、今のところ望む結果は出ていません。…全く、運命以外の何者でもありませんよ、君達は」

落ちている袋を蹴り上げ、佑壱を抱えている左手ではなく右手で掴む。呆れた表情の二葉が見守る中、取り出した赤い錠剤をあるだけ全て、口の中へ放り込んだ。

「ご機嫌よう、マスターディアブロ。今からは此処は悪魔の領域、人である私は退散させて頂きます」
「…何処にでも消えろ」

光が遠ざかるのを横目に、一粒だけ口内に残した錠剤を、目を閉じている唇の中へ注ぎ込む。

ああ、真っ暗だ。


「Don't be afraid, baby.(心配するな)」

赤い、赤い、カプセルは己の全て。
赤い、赤い、タブレットは彼の全て。
天使を人へと堕とすカプセルの対は、人を悪魔へと堕落させる罪深いタブレットだと、知っている。

「二度目か。笑わせる、人を何度も何度も水ん中に沈めやがって」

地響きは徐々に強まり、二葉が空けた穴も、皆が逃げ出した天井の穴も、見えなくなった。今はただ、在ってはならない水の底へ落ちるのをただ、待つばかり。

「二人っきりだな、嵯峨崎。心配すんな、何があってもお前だけは絶対に助けてやるから」

二人っきりだ。
世界には他に、何も必要としない。

「…お前の感じてる世界はマジで、地獄だな。でも悪くはない」

全ての傷が塞がっていく感覚、口の中が腐蝕し、鉄錆の味がする。
細胞が滾る音さえ聞こえてくる様だと目を閉じて、ただ。





腕の中には愛しい、体温ばかり。























「テメェ、何勝手に行動してやがる!どたまに鉛玉ぶち込まれてぇのか、ああ?!」
「そそそsorry、ごめんなさい…!」

一階、廊下の最奥。
時計台の二階に相当する玄関の真裏に当たるそこには、二階テラスの真下にある勝手口があるばかり。芝生が敷き詰められているこじんまりした庭に、その黒髪の姿はあった。

「ボンボンがトイレっつーから煙草吸おうと思ったら、勝手に消え去りやがってウスノロ!死んで詫びろ!」
「うっうぇ、赤いネズミちゃんが居たんだ。珍しくてつい追い掛けちゃったら、道に迷っちゃって…」
「赤いネズミなんざ居ねぇよ!カラースプレーでカラーリングしたヒヨコと見間違えたならまだしも、下手な嘘吐きやがってドカス!大体迷うほどの広さじゃねぇだろうが!」
「ぼ、僕は方向うんちなんだ!」

ぶちり。
脇坂のこめかみから響いた恐ろしい音に、うんちは腰を抜かす。ぷるぷる震える光景は、まるで何処ぞのヘタレ腐男子の様だ。

「ヤクザ舐めてっとぶち殺すぞテメェ、ゴルァ!テメェの頭を真っ赤にカラーリングしてやろうか糞野郎!」
「ひぃ!嘘じゃない、本当に居たんだよ!真っ赤なリトルマウス…。信じて!」
「黙れ、この脇坂の目を盗んで逃げようなんざ考えてみろ…」

がちゃり。
眉間に銃口を押し付けられ、潤んだサファイアの瞳が凍りつく。静かに眼鏡を押し上げる男の目は冷えきっており、にたりと吊り上がった唇は悍しい程の殺気を放っている。

「幸い人の目はない。…此処がテメェの墓場になるっつーこった」
「ひぃ!後生です、僕はまだ死にたくない!」
「いいや、死ね。今しがた思い出したが、お前は既に死んでる」
「へぇえええ?!」
「アレックスっつったな、おめぇ、アレクサンドリアっつー名に覚えがあんだろ?」
「えっ?君、アリーを知ってるのかい?アリーは僕の妹、」

シュン。
音もなく飛び出した鉛が、頬を掠める。ピタッと動きを止めた黒髪は目を限界まで見開き、魔王の如き笑みを浮かべた男を見上げたのだ。
彼は眼鏡を外し、荒んだ目付きの下、やはり笑っている。

「ああ、悪い悪い。乱視が酷くてなぁ、眼鏡外しちまったら、良く見えねぇんだわ…」
「…」
「ワシら光華会の家紋を教えてやろうか、向日葵だよ、向日葵。サツも弁護士も敵じゃねぇ、高坂組には二輪の生きる華が存在する。傘下以下45000人の舎弟共が、父と母と慕う、関東極道の良心だ」

それをテメェ如きが気安く呼ぶな、と。
囁いた男は荒れた目元を眇め、笑みを消す。最早彼に躊躇いなどなく、いつでも殺す気なのだと知らしめてきた。硬直したまま震える手で両手を合わせた黒髪は、ぶるぶる震える唇を開き、

「判りました。どうぞ僕を殺して下さい」
「良し、潔く死ね」
「どうせうんちな僕なんか生きてても仕方ないんだ。桔梗ちゃんは居ないし、冬ちゃんも居ないし、文仁はすぐ怒るし、生まれたばかりのキハは名前間違っちゃって、きっと怒ってるんです…」
「はぁ?何ほざいてんだ、ネガティブはあの世でやれや」
「だから皆…不甲斐ない僕を捨てて、余所に行っちゃったんだ…!きっとそうだ!そうに決まってる!こんなんだから身内から何度も殺されそうになるし、お母様は僕の心配ばかりでとっとと隠居しちゃうし、僕なんかに家が継げる訳ないじゃないか!」
「知るか、遺言はそれだけにしとけ」
「うわぁん、冬ちゃーーーん!!!」
「冬臣さん、やっぱ誰かが呼んでるみたいですよー」

ぶわっと泣き出した女が叫ぶのと、脇坂がトリガーを引くのは同時だった。
然し呑気な声が上から降ってきた為、直前で銃口を逸らしたヤクザは弾かれた様に上を見上げながら、手早く銃をシャツの中へ隠す。

「何だ餓鬼、テメェそこで何やってんだ?」
「餓鬼って…眼鏡の癖に口悪いなー…。そっちこそどなたですかー?早朝から騒ぎすぎると、恐い風紀が来ちゃいますよー?」
「タイヨー、あんま覗き込むと落ちる」

苛ついたヤクザが生意気な餓鬼だと眉を寄せた時、そこに自棄に見覚えがある顔が現れたのだ。

「………あ?」
「あらん?」
「おい、おいおいおい、…俊?お前、俊じゃねぇか!」
「ワッキー、え、ワッキー?何してるんだ?飲み過ぎて道に迷ったのか?…交番行く?」
「馬鹿野郎、交番なんざ死んでも行くか!大体、お前らには俺が酔った所なんざ見せた事ねぇだろうが。お前…ああ、そうか、お前は皇子の息子だったな…」

それなら居るのも無理はないと脇坂が息を吐いた瞬間、同じく二階を見上げていたサファイアの瞳が見開かれた。

「あ、れ?僕が居る…。本当だ、髪が黒い、本当に日本人になってしまったんだ!冬ちゃん、冬ちゃん、大変だー!!!」
「おや、どちら様でしょうかねぇ?確かに私は叶冬臣ですが、何処かでお会いした事がありましたか?」
「え?え?冬ちゃん?…冬ちゃん、君が冬ちゃん?!うわぁ、うわぁ、おっきく…ん?どっちかと言うと、何か老けた?」

へらっと笑ったサファイアが、たんっと地面を蹴る。
ぶわっと舞い上がった体がテラスの柵を乗り越えるのを目撃したヤクザは目を見開き、冬臣の隣でそれを目撃した山田太陽もまた、目を見開いて腰を抜かしたのだ。

「あ、ごめんね、ボク。いきなりジャンプしたから、吃驚させたね?立てるかい?」
「た、たたた貴葉さん?!えっ、何で、何で声が違うの?!」
「「貴葉?」」

柵を乗り越えた女と、冬臣の声が重なる。
きょとんと首を傾げた二人は太陽を見つめたが、下から凄まじい怒号が飛んできた為、それどころではない。

「ゴルァ!逃げんなアレックス!」
「ワッキー、ばーちゃんが吃驚してるから、もっと小さい声で」
「あ?ばーちゃんだと?!お前のばーちゃんって、」
「あらあら、何処かで聞いた声だと思ったら、やっぱり脇坂君ね。お久し振り、私の事を覚えてるかしら」

ちょこりと、俊の隣から、二つの顔が覗いた。
片方はにこやかな女性、片方は眉を潜めたロマンスグレー、帝王院学園卒の脇坂には、見覚えがあり過ぎる二人だ。

「が、学園長…?!し、失礼しました、お騒がせしまして!」
「お前はヤクザの様な言葉遣いをする。上がってこい、脇坂。高坂とお前は、昔から元気だけが取り柄だったな」
「か…勘弁して下さい、学園長…。もしかしてまだ怒ってるんですか、学園長室からアルバム盗んだの…」

片身が狭そうなヤクザはもにょもにょと声を潜め、首を傾げた太陽の隣、同じく首を傾げた俊は、暫く上を向いて、口を開いた。

「今すぐ上がって来やがれ脇坂。まさかテメェ、この俺様の命令に逆らうつもりじゃねぇよなぁ?」
「っ、只今参ります若!暫しお待ちを!」

誰が聞いても、勿論、インテリヤクザを以てしても高坂日向の声にしか聞こえなかったその声に、眼鏡をもぎ取ったオッサンは走り出す。

「タイヨー、これでイイ?」
「うーん、いいんだか悪いんだか。もしかしなくても光王子の家の人?極悪な職業には見えなかったけどさー、やっぱ口悪いよねー、こっわ!」

途中何度か転びそうになりながら見えなくなった背を目で追った太陽は、他人事の様に「セーフ」と呟きながら、俊を見やった。

「で、俊は今の人、知り合いなの?」
「知り合いと言うか、前バイトしてた時のオーナー」
「バイト?バイトしてたの?何の?」
「ん、飲食店?」
「何で疑問系?もしかしてそれって、」
「あら、俊ちゃん、アルバイトは禁止じゃないけれど、進学科にアルバイトは大変よ…?お祖母ちゃん、出来れば貴方にはゆっくり学生生活を満喫して欲しいの…」
「そうだ俊、秀皇はお小遣いをくれんのか?何とした事だ、私の孫にアルバイトをさせるとは…。じーちゃんがお小遣いをあげるから、好きな金額を書きなさい…む?ない」

うるりと眼差しに涙を浮かべた夫人の隣、真顔を学園長は全身をまさぐったが、パジャマなので目当ての小切手が見つからなかったらしい。東雲、東雲と大声で叫び始めたが、ぎゅるるんと言う、凄まじい音が響いて皆、沈黙する。
何やら睨み合っていた冬臣と、文仁に羽交い締めにされていた黒髪もまた、今の音で気を削がれた様だ。

「俊、今お腹が鳴った?」
「鳴った」
「やっぱお風呂でチキンは足りなかったかー」
「ごめん。お米がないと、食べた気にならなくて…」
「抹茶ケーキも一口で食べてたもんね、うん。俺もそうじゃないかと薄々思ってたんだよねー」

緊張感の全くない二匹の会話に、全員が沈黙している。状況が読めていないのは学園長夫人と、文仁に首を絞められている黒髪だけだ。

「さーせん、学園長。とりあえず白いご飯と出来ればポテトサラダ五人前と、」
「もう一声」
「唐揚げかチキンカツなんて用意して貰えませんか?手始めに六人前」

晴れやかな笑顔で宣った太陽の台詞に、遠野俊は恥ずかしげにもにょりと身を揺らし、

「あにょ、糠漬け以外は何でも食べますので…食べれるものは…」
「糠漬けは匂いだけでも吐くんで、おつけものはタクアンかガリでお願いしますー」
「…ガリ?鶏ガラじゃなくて?」
「え?だってガリっておいしくない?俺、寿司の時はガリおかわりする派なんだ。生姜大好き。お蕎麦もめんつゆに生姜派」
「ワラショクの惣菜コーナーのお寿司にはガリはついてないぞ?」
「マジか、ちょいと本社に殴り込んでおくよ。任せて」

やはり緊張感の欠片もない太陽は宣いながら、手すりの下、無人の箱庭を駆けていった赤い鼠を視界の端に認めたが、素知らぬ顔で俊の手を引いた。

「俊のバイトの話も気になるっちゃ、気になるけど、とりあえず朝ご飯の時間だから、ご飯食べながら話そうよ。あ、冬臣さん、そこの人、貴葉さんですよー」

笑顔で宣った太陽の台詞に、冬臣よりも文仁が真っ先に反応する。今にも頭をもぎ取らんばかりに力を込めていた彼の手が離れ、首を絞められていた割りに平然としている黒髪は、己を無言で指差した。

「ちょっと待って僕、僕はタカハじゃない、アレックスだよ。って言うか君はどちら様ですか?」
「あ、山田太陽ですー。こっちは遠野俊」
「遠野俊、気持ちは14歳、体は15歳です」
「これはご丁寧に。和の心、京都へお越しやす。所でヤマーダ君とトノ君は、冬臣のお友達かい?冬臣はまだ7歳なんだけど、でも変だ、僕と同じ顔をした彼が冬ちゃんだなんて、そんな事は有り得ない」

素早く文仁から離れた女体が、ピトっと太陽の背後へ回り込んだ。
悪い気はしないらしい太陽はキリッと眉を吊り上げたが、そもそも下がりっ放しの眉だ、すぐに元の位置へ戻った。

「冬臣さんはともかく、文仁さんは顔が恐いですよー」
「あんだと?」
「ひっ。ふふふ文仁?!あれが文仁だって?!そ、そんな、確かに桔梗ちゃんにそっくりだけど、あんな恐い顔してるのが文仁なんてパパは認めないよ!」
「誰がパパだと貴様!俺の親父はとっくに死んでる。誰に断って人様の父親を語ってやがる、女!」
「女?!僕はれっきとした男だよ!じゃなかったら桔梗ちゃんが妊娠する筈がないじゃないか!桔梗ちゃんに確かめてよ!」

目を吊り上げた文仁が殴り掛かろうとするのを、止めたのは叶冬臣だった。
不思議そうな皆の視線を横目に、暫く何事か考えていたらしい彼は、太陽の背後にそれを認めた瞬間、珍しく表情を崩したのだ。

「「おや?」」

彼と同じく小首を傾げたそれは、どう見ても空を飛んでいる。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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