帝王院高等学校
奈落の底って絶望があるんですか?
頭の中がふわふわしている。
冷たいコンクリートの感触が尻の下に、臍まで水に浸かっている今、それが何だと言うのか。

「俺、手、要らね。俺、壁、走って上がる(´°ω°`)」
「何で片言なんだよテメェは。自分で上がれるなら勝手にしろ」
「とりゃあああ!!!(´▽`)」

目を閉じているのだろうか。単に暗いだけか。
賑やかな声が聞こえてくる。見えなくてもその光景は、音が全てを物語っていた。
壁を蹴りつける音、あっ、と言う健吾の小さな声に続いて、裕也のわざとらしい溜息が聞こえてくる。馬鹿か、と呟いた男の声は嘲笑混じりでも、良く響いた。

「マジ馬鹿だろオメー、全然届いてねーぜ。初めから高坂先輩に助けて貰っとけや」
「濡れてっから足が滑ったんだよ!いつもなら余裕だったし!(;´Д⊂)」
「煩ぇ、喚くな糞餓鬼。おい藤倉、ソイツとっとと連れ出せ。邪魔だ」
「きー!むっかつく!ユーヤ、今の聞いたかよ?!ユウさんが生きてたらボコボコにしたのに!ユウさんが!(´°ω°`)」
「待てやケンゴ、オレらの副長は死んでねーぜ?きっと今頃腹筋割れてるぜ?」
「こここ高野君っ、藤倉君!光王子閣下の目が…!」

呆れるほどに騒がしい。
元気な証拠だと他人事の様に呟いて、張り付いた様に動かない尻へ手を伸ばす。これまた見事に、ハマり込んだらしい。お陰で惨事は逃れたが、お陰で立てない様だと息を吐いた。

「お前が最後だな?」
「いえっ、紅蓮の君が残ってます!お願いします光王子閣下っ、紅蓮の君を助けて下さい!」
「ああ、嵯峨崎は放っとけ。あれはそう簡単に死にやしない」
「おい、聞こえてんぞハゲ高坂ハゲ。それが先輩の台詞か」
「あ?先輩に向かってハゲハゲ抜かす餓鬼がどうなろうと、知った事じゃねぇな」

後輩は全員、助かったらしい。
無慈悲な男の台詞に反して、たんっと言う軽快な音が聞こえてきた。ずりずりと壁を登る様な音ではなく、逆に飛び降りた様な。

「酷い有様だなぁ、こりゃ。何がどうなったらこんな事になるんだ、ちっ」
「すまん、ちょっくら想定外の放屁カマしたら、ぶっ壊れた」
「あ?んな所に居たのか、馬鹿犬」

凄まじい音と共に、目の前の瓦礫が吹き飛んでいった。
久し振りに眩しいと思えば、カシャッと言う音が襲ってきた。逆光で日向の顔は見えないが、どうもカメラのシャッター音に似ている。

「…テメー、撮ったろ?」
「あ?連写のが良かったか?悪いな、バッテリーがない。そろそろ切れる」
「煩ぇ、消せ!今すぐ消せ!お前、それをネタに俺を脅す気だろ!」
「テメェなんか脅して俺様に何の得があるっつーんだ。これはただの趣味だ」
「趣味?…まさか、この俺を夜のお供に使う気じゃ…」
「…お前が女だったら今すぐ妊娠する目に遭わせてたぞ、糞野郎。男で良かったな、ナルシー犬」
「何処其処で男のケツ掘りまくってる奴がとぼけんな」
「馬鹿の癖に嫌に的確な返ししやがって…。お前なんかおかずにするくらいなら二葉の方がマシだ、即萎える」

助けに来てくれた割りには、日向は佑壱を放ってあらぬところを確かめていた。天井、壁、パイプ、そうして、漸く佑壱へライトを向けてきたかと思えば、短い溜息が落ちてくる。

「後ろ、どうなってるか判ってるか?」
「俺のケツが今にも割れそうなコンクリートにハマってるのは、見ないでも判る」
「へぇ、馬鹿は馬鹿なりに敢えて動かなかったって?」
「傾いて来てんだろ、教室ごと」

小一時間前までは気にもならなかった傾斜が、今では顕著だ。皆が脱出した方向が上に、佑壱が座り込んでいる側が、下へ下へと傾いていた。これは傾いていると言うより、

「完全なる地盤沈下だ。お前の真下に、旧下水管があった」
「へー」
「上下水道のパイプがどちらも此処を伝ってた訳だ。キャノン増築後に此処が部活棟に変わった頃、管理的にも衛生的にも二本を一緒くたにしたままなのは不味いっつってな、先に下水管だけ取っ払った。20年近く前だ」
「取っ払ったっつー事は、普通に考えて、空間は埋めてんだろ?上水パイプは最近まで使ってたんだからよ」
「いや、完全に埋めてはない筈だ。あの頃、大規模な工事を予定していたが、延期になった。当時施されたのは、一時的な補強だけだ」
「…何で?」
「歴代碑に残っていない中央委員会会長が、居なくなった頃に合致する」
「…」
「帝王院が渡米する前の話だ」

ふっ、と。
光が消えるのと同時に、闇が世界を包んだ。たった今の今まで目の前に居たブロンドが見えなくなり、聞こえるのは、微かな水の音。

「どうしたい?」
「…何がだよ?」
「想像通り、流れ込んだ水の大半はテメェの真下に溜まってる筈だ。山脈の地下水がどうなってるかは知った事じゃねぇが、下水処理場の周辺は地盤補強されてるから、水の逃げ場はない。山のてっぺんが此処だ、誰が考えても地下に染みた水は下に流れ落ちる」
「普通なら、って事だろ?どんだけ派手に水の無駄遣いしたか、それこそ知った事じゃねぇが、逃げ場のない水がケツの下で溜まったまんま、じわじわぶっ壊してく訳だ」
「そう、第五キャノンの地盤ごとな」

校舎北側はなだらかな坂の上に広場、テニスコート、もっと山の中には畑などもある。斜面を利用した農業用水路は、部活棟で合流していた。

「此処が崩れる分には良い。大した被害はない。最悪な状況は、此処の地盤が崩れた衝撃で、中央キャノンが落ちる事だ」
「…あーあ、しれっとほざきやがって。そんくれぇ俺だって想像してたっつーの」
「第二から第五、倉庫塔も含めて五つの脚が中央キャノンを支えてる柱だ。何処か一つでも崩れれば、アンダースクエアに亀裂が入って、中央キャノンの土台ごと落ちる可能性は否定出来ねぇ。とりあえず、お前を引っこ抜くのは簡単だが、此処に溜まった水が流れ込んだ衝撃で…バーン!」
「うわ、煩ぇ!耳元で叫ぶな、餓鬼かテメーは!」
「くは。ビビったか馬鹿犬、まぁ大丈夫だろう。テメェを人柱にして他の生徒の安全を確保しなくても、な」
「本当に俺を助ける気があんのか?」
「悪い、さっきまで頭の中身以外真っ白な幽霊みてぇな奴と仲良く散歩してた所為で、素直な反応が新鮮でなぁ」

闇の中、ガシッと手首を掴まれる感触。
日向には見えているのか、それとも偶々なのか、しっかりした手に掴まれて、体が傾いた。

「で、何処を怪我したって?」
「お前が握ってない方の手と、ほぼ両足」
「何がどうしたらンな満身創痍に仕上がるんだ」
「こっちが聞きてぇっつーの。大体、いつもなら捻挫なんか気合い入れたら一時間くらいで治る!」
「気合いで治るのは病だけだ、怪我は含まれねぇよタコ」
「もうほんと、あの薬さえ飲まなかったら…」
「は?」

足に加重を掛けないよう、注意しながら腰を浮かしてみるが、水圧のお陰で見事にハマっている今現在、中々立ち上がれない。ぶつぶつ愚痴を零しながら、日向の手を借りて試行錯誤し、佑壱は諦めた。足を使わずに立つのは、無理だ。

「いっ」
「おい、何してんだ?」
「折れた方の足の指で踏ん張っちまったっぽい。…悲しくもないのに涙が出ちまうぜ、ぐすっ」
「ちっ、暗すぎて見えやしねぇ…。おい、俺様に抱きつけ」
「はい?冗談だろ?」
「冗談で言うか馬鹿が、立てねぇんだろうが」
「鍛え上げたこの俺の体重を知らんのか淫乱猫、水吸ってるからな、スゲーぞ。今スゲー事になってんぞ」
「煩い、良いからそっちの手を回せ」

掴まれた手を引かれ、さらりとした何かに触れた。
がっちりとした肩の感触。さらりとしたこれは恐らく、日向の髪だろう。

「畜生、この礼は必ず返してやるから覚えとけ」
「お礼参りにでも来るつもりか。強気なのは結構だがな、フォークダンスを嫌がる小学生みてぇな無駄な抵抗はやめろ」
「これだけは言っておく、俺はお前を片腕で抱けるんだ。忘れんな!」
「判った判った、………重」
「テメー、今この俺を重いっつったろ!」

日向の首に手を回せば、至近距離から日向の小声が聞こえてきた。暗さで距離感は判らないが、恐らく目の前にあるだろう日向の耳へ怒鳴れば、ビクッと跳ねた日向の背中に溜飲が下がる。良い気味だ。

「くんくん、何か臭ぇぞ高坂」
「喧しい」
「いや、マジ…くんくん、くっさ!何だ、掃除してない公衆トイレばりに臭ぇ!加齢臭?!」
「…テメェ、本気で今日辺りぶっ殺すからな」
「すまん」

腰に回された日向の手の感触、すぐ近くから耳朶を掠める低い声、背後がみしりと軋んだ瞬間、割れたらしいコンクリートから尻が浮いた。
それと同時に凄まじい水圧に襲われたが、日向の腕に引きずり上げられて、両足が浮く。

「大浴場の栓抜いたらこんな音がするんだろうな」
「何だその感想。テメー、本当は半分寝てんな?裕也ばりに眠そうな声しやがって」
「眠ぃに決まってんだろうが、こちとら懲罰棟からアンダーライン経由で此処まで来てやってんだ。どんだけ歩かされたか…」
「ぎゃあぎゃあ言うほどの距離じゃねぇだろうが。ったく、これだから日頃からパソコンに張り付いてる今時の若者は…」
「誰がサボってる所為だと思ってやがる。テメェらグレアム共が片っ端からサボるからだろうが、頼むからたまには働いて下さい…」
「泣いてんのか?」
「涙は乾き切った。仕事は真面目なだけにセクハラさえなければ言う事なしだったゼロより、居たら居たで鬱陶しい帝王院のがマシ」

日向も苦労しているらしいと同情し、見えないながら頭を撫でてやった。然し佑壱の掌には、さらさらした髪ではなく、ごつごつした何かが触れている。

「あ?何だこれ」
「俺様の鼻だ、何か文句あるのか」
「お前、案外あちこちゴツゴツしてんのな。手足は細いけどチンコでかいし」
「セクハラかよ」
「勝った気になるな、太さは俺のが勝ってる。固さは…同じくらい?」
「テメェこそ眠そうな声出してんじゃねぇか」
「おい、転けんなよ」

暗い所為で、一歩歩くのも細心の注意を払いながら、佑壱を両手で抱いたまま、日向は少しずつ前進した。
ザバザバゴポゴポと流れていく水流に逆らい、薙ぎ倒されている机を足で探りながら、普通でも歩くのに難儀する闇の中を、ゆっくりと、しっかりと。

「そう言えば、どうやって上がるんだ?俺は無理だぞ、足使えねーから。裕也と要に引っ張らせるか?」
「全員脱出を優先させた。とりあえず上がるだけ上がったら、待ってりゃ良い。帝王院がうまくやってりゃ、今頃セキュリティが救助に乗り込んできてる筈だ」
「何でアイツが…」
「さっきまで居たからだ。ああ、気づかなかったか?言ったろ、頭の中身以外真っ白な奴と散歩してたってな」
「マジか、良くあんなのと」
「道中1000回くらい殺したいと思ったが、気合いで乗り切った」
「気合いで乗り切れる相手じゃねぇだろ、ありゃ」
「そうだ、俊は一緒じゃなかったのか?山田の姿も見えねぇな」
「総長と山田はトイレに行って…それからは判らん。エリアが切り替わった所為で、戻って来れなかったんだろ」

何にせよ不幸中の幸いだ。
あの二人にもしもの事があれば、派手に面倒な事になるのは確定だ。

「…帝王院一族に下手があったとなりゃ、警備総辞職じゃ済まねぇだろうからな。総長はともかく、山田が帝王院の端くれなんざ冗談じゃねぇ。死ぬほど遠い親戚なんざ、知りたくなかったぜ…」
「ああ、確かに、帝王院にして見れば義理の従兄弟みてぇなもんだからな。んな事より、ゼロと嵯峨崎会長が狙われたのは知ってるか」
「…あ?誰に?」
「対陸情報部に異動したばかりの、元区画保全部ランクB。お前が取っ捕まえたらしいじゃねぇか」
「は、あのカスか。あれは俺じゃねぇ」
「ん?」
「奴は総長が一撃でぶっ飛ばした。多分、肋骨何本かイってんな」

ぴたりと動きを止めた日向が、息を呑む気配。
一部始終を目撃した佑壱でさえ、未だに信じられないのだから無理はない。相手は、最低IQ120以上、文武両道でなければ雇用すらして貰えないステルシリー本社の社員だ。

「流石に総長がヤったっつーのは不味いと思って、対外実働部の奴らに引き渡した。ルークんとこに連れてったろ?」
「…いや?帝王院曰く、死んだっつー報告しか来なかったらしい」
「死んだ?」
「シスターテレジア名義でな」
「…何でババアが」
「一概にお前の母親だけの仕業とは言えねぇ」

嵯峨崎嶺一はステルシリーに登録されているが、前皇帝の妹であるクリス=グレアムは、表向きステルシリーとは無関係だった。
佑壱が逃げるように来日して以降、神威が爵位を継いだ頃に自由を与えられ、あの忌々しい教会から外へ出たのだ。

「うちの母親も珍しく頭にキてたからな。ブチ切れて殺してても無理はねぇ。親父が止めるとは思うが」
「高坂の母ちゃん?優しそうだったじゃねぇか、美人だし」
「あれでもヴィーゼンバーグの女だぞ。餓鬼の頃から何度も死ぬ様な目に遭って来て、伯父が死んだ頃に公爵を継ぐ話も出てた」
「叶の親父か。20年以上前に死んだんだろ?」
「ああ。だがその頃、お袋は親父と出会って結婚の話が出てたらしい。実家に連れ戻される前に籍を入れて、高坂組がお袋を匿ったんだ。あの頃はまだ祖父さんが生きてたからな、日本中の極道が目を光らせてりゃ流石に深追いは出来ねぇ」 
「でも何で叶じゃなかったんだ?叶には男が三人居るじゃねぇか、龍神は無理でも次男とか…。わざわざ血の薄いテメーじゃなくても、」
「ババアは二葉を指名したが、遅すぎたってな。祭家に預けられた二葉には手が出せなかったんだ。…つまり、叶冬臣の先手に負けたんだよ」

ゆっくりと、足元を確かめながら進んでいた日向が、ぐらりと傾いた。落ちそうな気配に慌てて抱きつけば、舌打ちが聞こえてくる。

「…ンの野郎、一気に沈みやがった」
「何だ、転びそうになったんじゃねぇのか?」
「違ぇ、後ろが下がったんだ。不味いな、ぬかるんだ地盤にいよいよ呑み込まれそうじゃねぇか…」
「ワォ、絶体絶命」
「言ってる場合か。眠いのか腹減ってるのか判らなくなってきた…。糞が、帰ったらテメェ味噌汁作れよ」
「プロポーズかよ。3年くらいなら毎日作ってやっても良いぜ?3年過ぎたらお前の浮気を理由に離婚するから」
「味噌汁でバツイチじゃ割りに合わねぇっつーの」
「はいはい、何か喰いたいもんあるなら作ってやるから、お前はとりあえず速攻風呂に入れ。飯が欲しければ、親衛隊なんざ連れ込まず一人でな。マジ超臭い、鼻がもげる」
「例の醤油で焼きおにぎり、甘くない卵焼きと、冷やっこだ。今のお前の暴言を水に流すには、それでも足りねぇ…」

今朝は随分、冷える。
そろそろ外は明るくなっただろうかと考えて、頬に張り付いた前髪を指先で払った。

「高坂、お前とりあえず一人で戻れ」
「はぁ?」
「マジすまん。折角助けて貰ったんだが、」

尻が冷たい。腰に回された手が熱い。けれどそのまだ上、背中に走る灼ける様な痛みに比べれば、それが何だと言うのか。

「ちょっと…寒、い」
「おい?」

闇の中、見えない景色がぐるぐる回る。
冷えていく手足、歯がカチカチと音を発てて、頭の先からぞわぞわと血の気が引いていくのが判った。

「どうした、おい、嵯峨崎?」
「貧血…」
「あ?」
「背中、さっきコンクリ刺さってた、ごめん」

かふりと、乾いた咳を一つ。
ああ、背中から胃にまで達していたのかと他人事の様に鉄臭い口の中、恐らく日向の肩を濡らしてしまったそれから目を逸らす様に、瞼を閉じた。

「どうした、おい?」

元々暗かったのだ。
今更目を閉じた所で、それが何だと言うのか。

「起きろ嵯峨崎!」
「…ご、め。起きたら林檎、剥いてやる、から…」

だからせめて、眠りに落ちる間際までは賑やかであるよう。
世界はいつも音で満ちていた。暗い暗い、人に忘れ去られた教会はいつも、世界中の音楽で満たされていたのだ。

「嵯峨崎!」

吠えろ、吠えろ、静寂の闇には慣れていない。
痛みにも絶望にも慣れて尚、静かな夜だけは、慣れようもなかった。




















「我が名は帝王院鳳凰、45歳。何卒よしなに」
「あ、はい、俺の名は山田太陽、15歳です。何卒宜しくお願いします…えっと、元学園長先生?」

きっちり正座した白衣が、ぺこっと折よく頭を下げた。
同じくぺこっと頭を下げた山田太陽は、その白衣が真顔で抱き締めている俊が白目を剥いている事に気づいたが、見なかった事にしたのである。

「駿河は良くやっているか。俺が55歳の時の子供だと言うが、俺には記憶がない。何せデータベースが45歳だ。夜の王が友になった頃から、俺の人格は形成されている」
「夜の王って何ですか?」
「遠野夜刀。龍流の家のお抱え医だった立花を通じて、俺は夜の王の友になれた」
「余計な話はするんじゃない、黙っとれ鳳凰」

車椅子から叱責が飛ぶ。何をやっているのか、不法侵入した天井裏から勝手知ったる他人の家、車椅子で颯爽と移動したジジイは、外の様子を見に行った理事長の代わりに、聴診器を運んできた男を挨拶する暇なく扱き使い、学園長夫人の診察をさせていた。

「いやいやいや、じいちゃん、本当に何で都内に居るの?!つーか千葉のホームから車椅子で家出するなんて正気?!」
「えぇい、煩いわい!直江、くっちゃべってる暇があるなら、隆子ちゃんの具合をしっかり見んか!」
「あーもー、相変わらずだな、じいちゃんは…」

直江院長の存在を知らせた途端、理事長と何やら密談したジジイは、叶兄弟を顎で使って遠野龍一郎の身柄を学園長の寝室に隠している。箝口令が敷かれている為、太陽は勿論、気まずげな学園長夫人もまた、直江院長には彼の父親の存在は知らせていない。

これを俊や学園長はどう考えているのか太陽は疑問だったが、当の二人は今現在、幸か不幸か、口を開ける状態ではなかった。
俊と共に白衣に抱き締められている学園長もまた、白目を剥いている。

「駿河、俊。俺の可愛い事もなくはない息子と曾孫が、この腕に抱ける日が来るとは。正に両手に花。夜の王、俺は心の底からお前に感謝する。有難う」
「お前の息子はともかく、俊は俺の曾孫ちゃんでもあるんだぞ!気安く触るなロボットの癖に!」
「確かに俺はしがないアンドロイドだが、オリジナルの生前の人格を複製し、それを元に俺のAIは成長している。今は俺が帝王院鳳凰だ。だから俺は、今の喜びを笑う事で表現する。くぇーっくぇっくぇっ!」

二人を抱いたまま、狂った様に笑い続ける白衣のコンセントを叶文仁が引っこ抜いた。107歳のジジイに命令されたからだ。

「省電力とは言え、お前の声は勘に障る。陽の王、お前は寝ろ」
「お休み、夜の王」

ヘルメットを膝に乗せたジジイの声に、素直に頷いた白衣は目を閉じた。本当に寝たのか疑問に思った太陽が瞬けば、再び目を開けた白衣は、抱いていた学園長をぽいっと投げ、俊を抱え直す。

「何だ、何でオッサンなんか抱いてるんだ?俊は良いけどオッサンはない、抱くなら可愛いお姉ちゃんが良い。俺のコンセントをお姉ちゃんに刺したい」
「あ、また声が変わった。凄いですねー、ヤトじい。このアンドロイド、本当に人間じゃないんですか?」
「さぁな、ヤトじいは作ってないから知らん。所で、そっちの俺には負けるがそこそこ男前な坊主共は、兄弟と言ったか?」

さっきまでビシバシ命令しまくっていた癖に、叶兄弟の名前を全く覚えていないマイペースなジジイは、いつの間にか自分の物にしている学園長の杖を振り回した。

「はい、私は叶冬臣、こっちは弟の叶文仁です」
「…お初にお目に掛かります、遠野さん。叶文仁と申します。以前、遠野病院には身内がお世話になりました」
「叶…叶、な。どっかで聞いたと思えば、イギリスの貴族が帰化した、皇の末端だな?」
「仰る通り、アレクセイ=ヴィーゼンバーグ、…アレックス叶は私達兄弟の父でした。日本では報道規制が敷かれていた筈ですが、良くご存じですねぇ」
「ふん、長年医者をやってれば、色んな話が耳に入ってくるもんだ。特に長男、お前は俺の後輩でもある」
「おや?…ああ、それでは遠野さんも、東京大学卒ですか」
「鳳凰もそうだ。駿河は急逝した鳳凰の後を継ぐ為、外部受験はしなかったんだろ?」

死にかけていた学園長は何とか生還し、ジジイの問い掛けに無言で頷いた。帝王院駿河が高等部三年生だった頃に母親が亡くなり、それから暫く、精神的に参っていた父親の事業を手伝いながら、卒業を迎えたのだ。
父親が亡くなるのと時同じくして財閥を継いだ駿河は、最上学部に籍を置きながら職務に励み、単位ギリギリで最上学部を卒業する頃、結婚した。その数年後に、一人息子を授かったのだ。

妻は生来骨格の弱い体質だった事もあり、子供は跡継ぎである長男を授かった時に、諦めた。彼女の負担を考えた上で、夫婦で話し合い、決めた事だ。
その一人息子が居なくなった時の絶望と怒りたるや、今尚、筆舌に尽くし難いものがある。善人である駿河を以てしても、キングへの殺意を圧し殺せなかった。

「直江君、君も東大だったんじゃないか?」
「いえ、自分は東医大です。姉は受かりましたが、入学と同時にヨーロッパへ留学して、結局、こっちより向こうの生活の方が長かったくらいですよ。ボランティアで現地の医師団を手伝っていた経緯もあって、経験だけはその辺の医学生が束になっても敵わなかった」
「ふふん、俊江は俺の若い頃にそっくりだ。俺も現役で医師免許をもぎ取った天才の口だが、それでもまだ、龍一郎以上の怪物は見た事がない」

祖父の台詞に、瞬いた直江院長の眉が寄る。

「怪物って、父さんは人間だろ、じいちゃん。変な事言うなよ」
「そりゃそうだ。だが直江、医者は善人には出来ん仕事でもある。ある程度、己を律し、また己を殺せる人間でなければいかん」
「…それは、そうだけど」

人の良さそうな院長の不機嫌な表情を目にした太陽は、他人事ながらひやひや見守ったが、冬臣の満面の笑顔が視界に入り込んだ為、痙き攣った。何を考えているのかは知らないが、ゾッとする笑顔で院長を見つめる目は、二葉にそっくりだ。

「ステージ2、癌化した細胞がどの程度広がっているかは判らんが、投薬で賄えるレベルではない。副作用を鑑みても、今の隆子ちゃんのボディーには負担が多すぎる。最新の重粒子はどうだ?」
「使える技師が圧倒的に足りてないよ、まだまだ未知数な術法だけに、内視鏡が負担は少ないだろうとは思う。膵臓の件はもう一度詳しく調べて見ないと何とも言えないけど、第一外科に回すべきか、脳外科に回すべきか、困ったな…」
「コラ、患者の前で困ったとは何だ、困ったとは!」
「あっ、すすすみません、帝王院さん…!」
「ふふふ、宜しいんですよ、直江先生。折角遊びに来て頂いたのに、おもてなしも出来ず、迷惑ばかり掛けてしまって心苦しく思っています。ごめんなさいね」

女性には嘘を吐かないと言った遠野夜刀の台詞を聞いて、気丈にも己の病状を知りたいと言った夫人は、自分の部屋ではなく廊下に設えてあるソファーセットに横たわり、触診などを受けた。
女性の部屋にぞろぞろとついていくのは憚られると、院長以外が辞退した事もあった為、彼女の提案で、皆の前で診察する事になったのだ。
叶兄弟が寝具を運んできてくれた為、上等なソファーの上はベッドに早変わりしている。空調もバッチリなスコーピオの中は、年中過ごし易い適温に保たれているので、例え廊下で眠ってしまっても風邪を引く心配はないくらいだ。

「いえ、自分の子供は西園寺に通っていますし、俊は僕にとっても可愛い甥っ子ですから。任せて下さい、帝王院さん。秀隆義兄さんに心配掛けない為にも…あ、違うか、秀皇さん?…ややこしいな」
「ふふ。秀皇は今、遠野秀隆と言うんでしたね。あの子、食事とかどうしてたんですか?お料理なんか全く出来ない子だったから、シエさんに甘えていたんでしょう?」
「はは。自分も家事はてんで駄目で、奥さんに任せっきりです。子育ても含めて。でも秀隆義兄さんは、ゴミ出しや風呂掃除、姉よりずっと上手ですよ。うちの姉は…何と言うか、細かい事を気にしないと言うか…」

ガサツなのか。
気づいてしまった太陽は己の母を思い浮かべたが、こっちはこっちで、また違う意味のガサツな女だ。
掃除洗濯はともかく、食事に至ってはパートで働いていた事もあり、惣菜類が多かった。弟の夕陽は小学校以降ずっと寮生活、父親は夜遅くに帰宅するか、下手すれば朝帰り。
太陽が寮に入るまで一緒に暮らしていた祖父は、半ば父子家庭で娘を育てた事もあり、家事全般を器用にこなしていたが、仕事があるので食事に関しては娘に任せていた所があったらしい。

「母ちゃんは掃除はしないけど料理はうまい。ばーちゃん、母ちゃんのご飯食べる?貧乏料理ばっか。でもうまい」
「あら、お祖母ちゃんも食べて良いの?是非頂きたいわね」
「俊、じーちゃんもシエさんにご飯作って貰いたいぞ?」
「ん」
「シュンシュン!じっちゃん仲間外れ悲しい!じっちゃんもまだまだ丼飯食べてるぞ!3杯!」

ああ、あれは確かに俊の曾祖父だ。
目を丸めている学園長夫妻は、口々に凄いと107歳の胃袋を讃えた。

然し夫妻は、己の孫の胃袋を未だに理解していない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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