帝王院高等学校
愛は螺旋の様に続くのです
「アジアの先進国が、こんなものとは…。埃臭い。ガス臭い。こんな所に帰ったのか、愛しい人…」

長いブロンドを頭頂部で結い上げ、性別不詳な色気を纏う美貌は淡い碧眼を細めた。

目の前には厳かな日本家屋の、無駄に長い石壁。
二世帯住宅なのか、日本国の平均的な家屋よりは立派なものだが、それを知る風もなく、その人はインターフォンへ手を伸ばしたのだ。

「Hello、…ご機嫌よう。こちら、シェリー居ますか?」
「我が家にヘレスなどない」

その手には京都名物と書かれた紙袋。
顔を引き締め、やや心許ない片言の日本語でたどたどしくインターフォンへ話し掛けた背は、背後から投げつけられた冷ややかな声に振り返った。

「飲みたければスペインに行け、金髪」

黒い帽子を被ったそれは、飴色の杖でトントンと地面を叩く。
照りつける陽光の下、それが流暢な英語だったと気づく前に、鍔の影から睨み据えてくる眼差しの強さに息を呑めば、からりと。
近くで門扉が開く、音。

「ごめんないさいね、お客さん。うちにはシェリーさんと言う方は…あら、お父さん。いつの間にお出掛けなさったの?」
「福屋の豆大福を買いに行っとっただけだ。コーヒーをくれ」
「お大福はお茶の方が合うでしょうに。全く、変わった人ね」
「あ、あの…!これはギョクロとヤツハシです!」

嫌に威圧感のある男は、おっとりした女性の脇をすり抜け、玄関へ向かっていく。何処までもおっとりとそれを見送っている年配の女性へ紙袋を押し付ければ、彼女は目尻に皺を寄せて微笑んだ。

「あらあら、それだったら上がっていらして。ね、お父さん、良いでしょう?八つ橋なんて何年振りかしら」

からからと、サッシを開く音。
石畳を越えた先、玄関の前で微かに顔だけ振り返った男は鋭い眼差しをそのままに、鼻で笑った。

「…それならば先に名を聞いておけ。素性の知れぬ餓鬼が、この遠野の敷居を跨ぐ事は許さん」
「あら、やだ。益々父さんに似てきちゃって、もっと愛想良くして欲しいわ…」
「あの…」
「あらあら、ごめんなさいね。怖かったでしょう?少し目が悪くて、その所為で目付きが悪いの。うちのお父さん、あれで本当は嬉しいのよ。甘いものに目がないんだから」
「…?」
「所で、貴方はお嬢さんよね?とっても背が高いのね、羨ましいわ。ささ、どうぞお入りなって。私はミサちゃん、あの怖い顔したおじさんはリューちゃんよ」
「ミス・ミサ。失礼しました、私はA=ヴィーゼンバーグと申します。私の事はどうか、アレクと」
「アレクちゃんね。はいはい、これも何かの縁だわ。上がってちょうだい」

雨上がりの匂いがする。
きっとこの国は夏が近いのだろう。艶やかな紫陽花を横目に、石畳を渡っていく。

「そう、アレクちゃんはイギリスから来たのね」
「はい。離れていた兄が京都で暮らしていて、連絡をくれたので。その帰りです」
「まぁまぁ。貴方日本語が上手ね。私なんてドイツ語を少し囓ったくらいで、英語はてんで駄目なの…。なおちゃんはアメリカに留学していた事もあるんだけど」
「なおちゃん?」
「私の息子よ。私に似て気弱なんだけど、頭はお父さんに似たのねぇ…。私の父に似てて、まぁまぁイケメンなの。あら嫌だ、リューちゃん、お客さんの前で何て格好なんですか」

招かれた居間、大きなテーブルの上座に座っている艶やかなそれを認めて、目を見開いた。

「誰がリューちゃんだ。良いから早く茶を寄越せ、薄めに」
「折角の玉露を薄めに淹れろだなんてバチが当たりますよ。そんなだから麦茶みたいなコーヒーしか飲めないんですよ」
「喧しい」
「喧しいとは何ですか、喧しいとは。お尻を叩きますよ」
「…以後気をつける」

どうやら、いわゆるかかあ天下らしい。
ちびちびと豆大福を囓っている、派手な甚平を纏う男へそっと土産物を差し出せば、台所へ消えた嫁を横目で確かめた眼差しが、弛く見上げてくる。

「貴様、ヴィーゼンバーグの末裔とは本当の事か」

ああ、やはり、綺麗な英語だ。
アメリカのそれとは違う、イギリス訛り。それは一日二日で覚えられるものではない筈だ。

「やはり、ヴィーゼンバーグをご存じですか」
「良い印象はないとだけ言っておく」
「私はアレクサンドリア=ヴィーゼンバーグ、アレクセイ=M=ヴィーゼンバーグの妹です」
「公爵の直系か。然し奴は野へ下ったと聞いている」
「京都に」
「叶に入り込んだそうだな。子供は二人…いや、三人か」

そこまで知っているのかと目を開けば、男は唇だけを吊り上げた。然し少しも楽しそうではない。

「あれは長くない。現医学では対処しようがない、先天的な疾患がある」
「…随分、お詳しい」
「60年前、セシル=ヴィーゼンバーグが僅か26で鬼籍に入った。代々長命の家系に、稀にそう言った者が見られる。血が濃いと言う要因もあろう」
「失礼ですが、貴方は?」
「医者だ」
「やはり、そうでしたか」

初めから薄々気づいていたが、やはりこの男はあの人の父親なのだろう。何せ目がそっくりだ。隙を見て改めて訪ねようと思ったが、その必要は最早ないらしい。

「シェリー…トシエさんは?」
「あの馬鹿は余所に預けた」
「?」
「貴様、帰国後すぐに医者になれると思ったのか?我が家に使えん者は要らん」

研修中と言う事か。
ならば無駄足だったかも知れないと思ったが、わざわざ兄に頼み込んで調べて貰った住所だった事もあり、苦い感情を呑み込んだ。それと同時にインターフォンの音が聞こえてきたが、俯いていた顔を上げるのと同時に、鋭い眼差しと目が合う。

「性根の曲がったババアはまだ生きているか」
「ババア…?ああ、成程、ふふ…。彼女は元気です。暇があればクイーンのお茶会に出席していますよ」
「気楽な女だ。特技と言えば長生きだけだろうに」
「私達の父はフランスへ渡り、恋人と暮らしています。家を出たのは私が4歳の時でした。離婚は出来ないので、籍はそのままです」
「貴様の母親はどうした」
「ヴィーゼンバーグに引き取られる前に亡くなりました。愛人紛いの商売で稼いでいた、売女だ。…表沙汰にはなっていませんが、男に刺されて死んだんです。相手は議員秘書でした」
「ふん、良くある話だな」
「ふふ。確かに、そうですね」

喰えと言わんばかりに、彼は粉だらけの大福を差し出してきた。一箱にどれだけ入っているのか、口元を粉だらけにした男の纏う威圧感は少しも衰えていない。
歳を取っている割りに、整った顔立ちが判る。時折眩しげに目を細める所為で、目付きの鋭さが際立っているが。

「目が悪いと聞きましたが」
「光に弱いだけだ。40年程前にレーシックを受けた」
「レーシック?そんなに前からあったのですか?」

不思議な男だ。
若干、ほんの微かに唇を吊り上げた男は、漂ってきた茶の匂いに口を閉ざした。

「お父さん、お父さん、ひーちゃんが来てくれたわよ」
「お久し振りです親父、お元気ですか」
「儂は貴様の父親になったつもりはない。出ていけ、貴様の肝臓を絞り出してやろうか」
「ちょ、こう見えて酒は呑めない口なんで、俺のレバーは生き生きしてますよ…。参ったな、そう邪険にしないで下さい、遠野院長」
「そうですよ、お父さん。ひーちゃんからお土産のカステラを頂いたの。ひーちゃん、お母様の事は…残念だったわね」
「その節はお世話になりました。まだ親父は元気なんで、男二人何とかやってます。…男だらけでむさ苦しい具合ですわ」
「あらあら」

随分、背の高い男だ。
目の前の男とはまた別の意味で目立つ、赤地に虎柄のシャツを着ている。変な柄だとは思ったが、口にはしない。

「今日はお土産を沢山頂く日ね。さぁさぁ、ひーちゃん、お茶が入りましたよ」
「有難うございます姐さん」
「アレクちゃんから玉露を頂いたの。とっても良い香りでしょう?」

その男の、黒い眼差しが見つめてきた。
随分じろじろと見つめられた様な気がしたが、男に興味などないので静かに茶を啜る。

「よう、アレクちゃん。お前、幾つ?」

馴れ馴れしい男だ。
サーベルがあったら突き刺してやったかも知れないが、フェンシングは殺人の手段ではない。

「ふん、変態が。茶を飲んだらとっとと帰れ、仏の天罰に遭うぞ」
「勘弁して下さいよ院長先生、つーか俺の悪口を学園長に言ったでしょ?お陰様で母校の風紀が改悪したって専らの噂ですよ、同窓会で責められるし…」
「節操のない種馬がほざくな、貴様の股間を改善しろ」
「あら嫌だ、宣言通り子供二人作ったから後は俺の好きにさせろなんてほざいた誰かさんの台詞とは思えないわねぇ…。はい、アレクちゃん。カステラよ、お食べなさいな」

ころころと、おっとり顔が冷めた目で笑った。
男共の沈黙が落ちる中、頬張ったカステラは、甘い。





























「私はエアリアス。私の後ろに隠れてる子はサラ。私の家は家庭教師や執事なんかを派遣していて、サラの家はお得意様なの」

いきなりやって来た子供は、ふわふわ跳ねている柔らかい赤毛を振り乱し、物珍しげに辺りを見回した。それより幾つか年下だろう小さな子供は、怯えているのか、彼女の後ろから出てこない。

「貴方がイブね。そしてそっちはアダム」
「そっち…」
「どうして私達の事を?」
「パパが陛下と話してるのを聞いたの。それにしても酷いわ、こんな所に閉じ込めるなんて…人権侵害よ!」

突然やって来た小さな来客に、けれど椅子に座ったまま音楽を聴いていた人は久し振りに声を発てて笑う。

「賢い子だ、流石はアシュレイの娘だね。サイクリングで来たと言ったかい?」
「そうよ、シスター。別荘があるの。此処を見つけるまで一日懸かったわ」
「ほっほっほ、今頃上は騒然としているだろう。行動力がある子だ、私はそんな子は好きだよ」
「有難うシスター。この教会にはジーザスが居ないのね」
「ステンドグラスにペンタグラムが刻まれているだろう?私達の神はアポロンでもゼウスでもない、ハデスだ」
「冥界の王?あれはギリシャ神話よ」
「良いのさ、ルシファーは元天使だ。灰の国で生まれた黒の一族は、冥界に最も近い地中を楽園と呼ぶ」

音飛びの激しいレコードが回っている。
回っている。
回っている。

大人しい子供は背後で、金髪の王子様を夢見る瞳で見上げていた。金髪の王子様はベッドに腰掛けたまま、ちらちらとこちらを盗み見てくる。

「イブ、貴方は何歳なの?」
「私は6歳」
「だったら私の妹ね♪私は今度十歳になるのよ!ふふ、宜しく、イブ。私の事はエアリーって呼んで。私、可愛い妹が欲しかったの!」

サラは大人しかった。
まだ3歳と言うだけあり、可愛らしいワンピースも色濃い茶髪の巻き毛も、まるで天使の様だ。

「…初めまして、サラ。私は君のお姉さんになっても良いだろうか?」
「………良い、よ」

ぽつりと、夢見る瞳で王子様を見つめながら、幼子は頷いた。
当の王子様は赤毛の快活な少女を盗み見ては、いつもぼんやりしている表情を染めている。

「お喋りも良いけど、アシュレイには連絡をしておいた方が良い。サラはセントラルの子ではないだろう?」
「…ごめんなさい、シスター。サラは人見知りが激しくて友達が出来ないの。だから私が勝手に連れてきたのよ。でも貴方が叱られるかしら」
「そうだね。構わないさ、だけど秘密は良くないよ。親には尚更ね」
「判ったわ。反省してます、ごめんなさい」
「素直で気持ち良い子だ」

シスターは盲目だと言う。
けれどそれを変だと言う者はなかった。綺麗なブロンドの兄妹は、地上では馬鹿にされる赤毛を笑う事もない。



「エ、エアリー。ざ、石榴を食べないか…」
「ごめんなさい、私、石榴は好きじゃないの。酸っぱいんだもの」
「…そうか」

大人しい兄は、時折、イブやサラの目を盗んで話し掛けてきた。イブの教育係と言う名分の元、秘密の場所へ通う様になってどれくらい経っただろう。
大人びた王子様は、地上ではモテるに違いない。吃り癖は中々直らない様だが、性格も悪くはなさそうだ。

「ねぇ、アダム」
「な、何だ?」
「悪いけど、私、男の子には興味がないの」
「………は?」

サラを可愛がるイブは、やって来る度にサラを連れて外の湖を眺めている。透明度の高い水鏡を眺めながら、サラの髪型を整えてやるのが彼女のお気に入りらしい。一種の人形遊びの様なものだろう。

「私はイブが好き。だからアダム、私を好きにならないで」
「…」

酷い事を言った自覚はあった。
けれどそれが慈悲だと思った。勘違いさせ続けるよりずっと、彼の為だろうと。その時は、確かに。

「………明日、セントラルへ行く事になった」
「そう。陛下がお認めになったの?」
「判らない」
「寂しくなるわね。イブは貴方を慕っていたから、落ち込むわ。まだイブには言ってないんでしょう?」
「…陛下に認めて頂ければ、イブもテレジアも、セントラルへ招いて頂けるかも知れない。その為には、力が必要だ…」
「色々考えていたのね。貴方はきっと賢い人なのよ。だけど知識を与えられなかった。反逆を恐れて。全て、元老院の決定よ」
「…知っている。アシュレイ執事長は、私を認めていない。ネルヴァ様にも釘を刺された。エ、エアリーも、そうだろう?」
「私は違うわ。パパと私は違う人間だもの。パパは私に甘いけれど、駄目な事は駄目って言う。私はパパを愛しているけれど、それ以外の男性は苦手だわ」
「…」
「だって可愛くないんだもの」

だからアダムだけではないと微笑めば、少し悲しげな眼差しの下、不器用に笑った男は静かに頷いた。

「貴方には他のお姫様が現れるわよ」
「…」
「信じないの?」
「…判らない」
「私のお姫様はイブよ。私は自分が普通とは違うって事を前から気づいていたけれど、それを間違っているとは思わないわ。アダム、貴方の気持ちは嬉しかった。それは本当よ。信じない?」
「信じ、る」
「有難う」

初めて、父親以外の男の頬へキスをした。
それを見ていたサラがどんな顔をしていたのかなど、知りもせず。別れを惜しむように、健やかであるよう祈るように、それは、間違っているとは思っていない。



ああ、けれど。
愛しい人の王子様はやはり、自分ではなかったのだ。

「区画保全部に新しく招かれた日本人かい。若いね、幾つだい?」
「27歳です」
「そうかい。まぁ、ゆっくりして行きな。持て成しは出来ないがね」
「…あの子は?」
「イブと、その友達さ。イブは今度13歳だ」

嫌な予感がしたの。
変ね、まるで占い師みたいな事を言ってるわ。

私のものとは比べ物にならないくらい、綺麗な赤毛は濃いクリムゾン。上質なワインのようよ。


ああ、イブの林檎みたいな頬を見て。
取られてしまう。私の愛しい人が、彼に取られてしまう。そんなの絶対に、耐えられないのよ。




「ねぇ、聞いて、イブ」

二人が駆け落ちする計画を立てているのは知っていた。
だからその日が万一訪れてしまったら、自分はそれを父に告げ口してしまうだろう。そんな惨めな事はしたくなかった。だから、これは、自分を守る為の手段なのだ。

「エアリー、どうしたんだい?」
「私、アビス・レイの事が気になるの」

地中の光。
日本からやってきた彼は、そう呼ばれている。文字通り、彼はこの薄暗い洞穴の教会を照らし、お姫様の心を射抜いたのだ。

「男の人がこんなに気になるのは初めてで戸惑っているの。ねぇ、応援してくれる?」

愛しい人。貴方は無知なイブのまま、決して禁忌に触れてはならない。
愛しい人。貴方の名前を私は知っている。けれどそれを呼ぶ権利など私にはなかった。私は醜い蛇。無知な子供を締め付けて逃さない、見窄らしい、蛇。


「応援してくれるわよね、貴方は私の妹だもの」

絶望に染まるサファイアに、微笑む自分の唇が映り込んでいた。
何と厭らしい光景だろうか。


吐き気がする。

























「姐さん、その辺の様子を見て来ました。どうも山中の主要アンテナが落ちてる様ですぁ…!」

余程走り回ったのか、汗を拭いながらやってきた男に振り向いて、携帯を閉じた。

「やはりそうだったか、道理で圏外表示だと思った」
「山道下って親父と繋ぎ取ろうと思ったんですが、宮田さんが車内で寝てるもんで…」
「そうだな、起こすのは忍びない。宮田は此処の所、関西勢を帰すので頑張ってくれた。悪かったな高崎、食事を用意しているから休んでくれ。私は一度、脇坂の様子を見てくる」
「すいません。姐さんも少し休まれて下さい、宮田さんが仮眠から戻ったら出ますので」
「ああ。ひまとはどうせホテルで会える。急ぐ必要はないよ」
「はい。姐さん、外は危険なので中へ」

無人の庭園は夜間ずっと街灯が点っている様だ。
なだらかなスロープじみた石畳の坂を上った先、ややあって赤い時計台が見えてくる。
食事を用意しているゲストルームへ駆けていく背を横目に、目当ての部屋をコンコンと叩いた。返事は期待していない為、待たずにドアノブを握る。

「ん?」

中へ踏み込めば、並んでいるベッドのどちらにも人の姿はなかった。壮絶に乱れているシーツに違和感を感じたものの、目が覚めたのであれば吉報だと踵を返す。
廊下の先、出入り口から最も遠いゲストルームへ歩いて、ノックした。すぐに返ってきた声に許可を得て、ドアノブを回す。

「休んでいる所、申し訳ない」
「良いんだアリー、本当にご馳走様。皆で頂いたよ」
「お粗末様です。嵯峨崎さん、待たせてしまって申し訳ない、どうやら一帯で通信障害が起きているそうです」
「あら、何があったのかしら…」
「高崎が聞いてきた所によると、山中のアンテナが使えなくなっているそうで。心当たりはありますか?」
「ああ、あれね。まさか、壊されたんじゃないでしょうね…」

拭くだけでメイクが落とせる魔法の様なティッシュで顔を拭っている夫婦に、目を向けて良いものかいけないものか、高坂母は悩みながら戸口に立っていた。
殆ど化粧っ気のない侍は、元が派手な顔立ちの美貌なので、色つきのリップをドキドキしながら塗って満足する様な有様だ。慣れないパンプスに嫌気が差し、既に来客用のスリッパに履き替えている。

「この状態ではそれを疑ってしまうのも無理はない。早めにお二人を安全な場所までお連れしたい所だが、事は慎重を要するので迂闊な事は差し控えさせて貰います」
「助かるわ、頼りにしてるわよ奥さん。貴方の方が高坂よりしっかりしてるもの」
「こら、レイ」
「はは。良いんだクリス、昔のひまをご存じの嵯峨崎さんには、無理もない。確かに昔のひまは、私でさえ何度か殺そうと思った」
「そうなの?私はてっきり、二人はずっと仲良しなんだと思っていた。ほら、ママさんサークルのスカイプでいつもコインを投げているから」
「ママさんサークル?」

首を傾げたオカマは、素っぴんだとただのイケてるロン毛のおっさんだ。目元に年齢を実感させる皺があるものの、言われなければ50歳を過ぎている様には見えない。

「私達はそのサークルで知り合ったんだよ、レイ。ヨーコはアリーの友人で、私はまだスカイプを始めて半年の新参なんだ。アリーは初期メンバーでね、知らないママさんは居ないよ」
「私は顔を出していて、ハンドルネームも本名のタカアリだからね。その繋がりで、うちの道場に通ってくれる人も居るよ」
「ああ、高坂は昔から剣道場をやってたわね。前組長、引退してから亡くなるまで師範をしてたんですって?」
「義父から継いだ形で、今は私と元々門下生だった師範代が営んでいます。とは言え、実際私は高坂組の者だから、週に一度に留めていますが…」
「ヤクザも全部が全部ドラマみたいなワルばっかじゃないんだけど、そうもいかないのが風評って事ね。都内が平和なのは高坂がきっちり仕切ってくれてるからなんだけど、一般人には関係ない話だわ」
「全く、仰る通りです。理解し合えなくとも、せめて共存出来ればと考えています。昔気質の極道は生き残れないと言うのが、今の光華会の教えでもある」
「高坂らしいわね。馬鹿だけど悪い子じゃないのよ、ただ馬鹿なの」
「こら、レイ…」

困り果てた表情の嵯峨崎夫人を横目に、高坂はからりと笑った。
歯に衣着せない嵯峨崎嶺一の言葉は、裏がないだけ気持ちが良い。流石はテレビを見ない高坂の耳にも届く、ご意見番だ。オネェタレントの最先端を常に行く人気者は、セレブでありながら庶民派な意見が多いと言う。
舎弟らに聞いた所、男女問わず慕われているそうだ。判る気がした。

「うちだって今でこそ黒字叩いてるけど、昔はヤバかったそうよ。それこそ風評ってやつ。私の祖父さんなんだけど、見栄っ張りの道楽者で、愛人に逆上せて家財を売り払った事もあったらしいわ」
「嵯峨崎さんのご実家は、名古屋で?」
「そう、今でこそ本社を都内に置いてるけど、今の航空業を始めた切っ掛けは、私の母なの」
「そうだったのか。私も知らなかったよ、レイ」
「クリスが来日する前に亡くなったから、もう18年以上前の話よ。イールと良く喧嘩してたわ。どっちも自分の意見を曲げないから、終わらないのよ」
「ふふ、そうか…」
「イールとは、アシュレイの…?」
「そうよ」

聞き難い事だが、好奇心に負けた高坂が窺えば、嵯峨崎会長は平然と頷く。

「夫婦と言うより親友みたいな関係だったけど、私の一人目の奥さん。天真爛漫で、我慢が出来ない子だったわ」
「彼女は私の親友でもあったんだ。体が弱かった事を知らなくて、再会した時は神の元に召されていた」
「そうか…。ではゼロ君を産んだ後、すぐに?」
「零人が4歳になる頃よ。それから喪も明けない内に私の母が心不全で亡くなって、悔しい事にどっちも心臓の病だった。母は自分の病気を知っていたそうだけど、最期まで私達には言わなかったわ。もう本当に、頑固な人だったの」

言いながら、嵯峨崎会長の表情からは悪い雰囲気は読み取れない。何だかんだ母親を愛していたのだと思い、微笑んだ。

「そうだ、ゼロ君と脇坂が居なかった。起きたんだと思うが、来なかったかな?」
「それは良かった、でも此処には来ていない。遠野先生の所かも知れないね。レイ、私達は遠野さんの所へ行ってくるよ」
「良いわ、アタシもついてく。幾らスコーピオの中とは言え、女二人で動き回るのは危ないわよ」

クネっとわざとらしいシナを作った素っぴんのオカマに、苦笑いを浮かべた高坂は嵯峨崎夫人を見やった。

「すまないクリス、彼は元からああなのかな?」
「ああって?」
「その、女性的と言うか…」
「ああ、違う、あれはエアリー…イールの好みと言うか、まぁ…私としては可愛らしくて良いと思うんだ」

にこり。
女神の微笑みで己の亭主を見つめるクリスティーナ嵯峨崎は、ねっとり特大のハートマークを飛ばしている。色んな形の夫婦がいるものだと再確認した侍は、姿のない夫の顔を思い浮かべて、もっと可愛がってやろうと密かに頷いた。

浮気されない為にも、念入りに可愛がりつつ、尻に敷いておく必要があるだろう。ヤクザだろうが愛人など許しはしない。

「嵯峨崎さんはクリスしか見えていないみたいだ。羨ましいよ、うちのひまは元々男色主義だったから、いつ他の男に走るか判ったものじゃない…」
「そうだね、ライバルは女とは限らないもの。前に演じた映画がLGBTを題材にしたもので…」
「うんうん、そうなのか…」

不穏な話し合いに興じている魔女達を横目に、素っぴんのオカマは巻いていた髪を解きながら沈黙を守り続けた。幾ら普段女の格好をしているとは言え、立派な中年だ。


女はいつの時代も怖い。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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