帝王院高等学校
不死鳥の如き不死身さが売りです☆
希望と言うものは、いつか捨てた。
生きていくには妥協を覚えねばならないものだと、どの国の言葉もそう教えている。


赤いものは何でも好きだった。
(林檎、石榴。無花果や苺は傷み易いから)
(届いたその日にだけ食べられる)
(滅多に手に入らないコーヒーの香り)
(目の悪い彼女は器用にカップへ粉を落としたが)
(いつもお湯を入れすぎる)
(褐色のそれは茶色か赤か)

卑しい肌を嫌った事もない。
(私の肌は彼女ともイブとも違う)
(けれどそれを指摘する人はいない)
(イブはいつも神のベッドへ祈り俯いている)
(優しい彼女は目が見えない)


空など一度も見た事がないのに、亡き『彼女』は光を点さない筈の双眸を何度も眩しげに細めては、歌う様に囁いた。


「歌っておくれ、マイサン」

何度もそう言ったから、私はまるで蓄音機の様に歌い続ける。
サンが『息子』と『太陽』のどちらを指していたのかなんて、疑問にすら思わずに。

「シスター、石榴を食べても良い?」
「…そうだね、それはもう少し熟れた方が良いだろう」

柔らかいパンはいつしか噛めないほど固くなり。
薄いコーヒーを紅茶だと言う彼女の言葉を信じ、毎日飲んでいた。

「…?何だか手が大きくなった」
「シスター、僕もう、お湯沸かせるよ」
「そうかいそうかい、何て賢い子だ。ご褒美よ」

老婆が腰掛けている祭壇の下に、地下へ降りる秘密の扉がある事など知らない。彼女はいつも目を閉じたまま、器用に林檎を掴んで、膝掛けで拭ってくれた。

「お食べ、エデン」
「有難う」
「…良いんだよ。お前は林檎を喰らって生まれた子」

希望と言うものは、じわじわと、真綿で首を絞める様に侵触していくものらしい。(例えば昨日も)(今も)(恐らく明日も)
そうして気づいた時には手遅れで、それはまるで茨の様に巻きついて離れないのだろう。

「お茶、飲まないの?」
「大人は香りを楽しめれば、良いのさ」

私は彼女を神の使いだと、誰から習った訳でもないのに信じていた。アダムとイブが犯した罪の所以を知らぬまま、この眼に映る世界が全てなのだと。

「…お客さんだね。エデン、ドアを開けてくれるかい」
「判った」

けれど彼女は決して神の使いなどではなかった。
神から見離されたかつての手駒。彼女は神を憎んでいたのだろうか。

ああ、それとも。

「…この甘い匂いは、珍しい来客だね」
「まだ生きているかババア」
「私がババアなら、そっちはジジイだろう。…さぁ、お入り。どうやって来たのかは、聞かない事にするよ」
「ああ、そうしろ。説明する間が惜しい」

極稀に、ハムやジャーキー、甘い甘いプリンを持ってきてくれる彼をただ、待っていたのだろうか。

「これが済めば、目を治してやる」
「…もう良いんだよオリオン、私は老いた。今更失った光を取り戻そうと、私の神はもう居ない」

飴色の杖を握った男は、いつもイブを見下していた。
イブはじっと俯いたまま、与えられた砂糖菓子に飛びつく幼い私を振り返る者はない。

「この子供、少しばかり成長が早い様だ。…おい、小僧。それを喰ったら、下へ来い」
「何をするつもりだい、オリオン」
「ただの採血だ。針を刺すだけ、殺しはしない」
「…そうかい」

世界は音楽で溢れている。
カチリと音を止めたレコード盤へ駆け寄り、何枚目とも知れないレコードへ、私は針を落とした。


「小僧、」

地下へ降りる秘密の扉の向こうには、見知らぬ黒髪の女が眠っていた。
けれど私は黒髪の人間など見た事もなく、まして何本もの針を刺されたそれは死んだ様に動かなかったから、人であるとは思いもしなかったのだ。

「貴様、何故カラメルを残した?」
「カラメル…黒いから」
「それであれば真っ先に喰らうが良い。我らの神は、黒たるノアだろう」
「ノア?」
「下らんものを産み出した所為で世界を封じられたお前が、自由を得る為に必要なものは何か、次に会うまでに考えておけ」

自由。
神よ、私はまた、新たな言葉を手に入れました。然しそれを真に手に入れる為には、何かが必要だと言うのです。





私はそれを考えました。
真綿で首を絞める様に茨の刺が我が身を突き刺していく中、まるで取り憑かれた様に、ずっと。

そうしていつしか、私はそれが『翼』であるのだと気づいたのです。けれど深紅の翼を持つ鳥は、地を這う犬を空へ導いてはくれませんでした。

希望と言うものは、とうに淘汰したのです。
私は決してこの大地から離れられはしない。ゆらゆらと、ゆらゆらと、風に打たれる林の様に、ただそこに在るばかり。



ある時、私は己の異変に気づきました。
あれほど好きだったハムや干し肉、そして瑞々しい石榴、それら全て、『血』の味がする事に。

私は狂った様に己の舌を噛みました。
溢れ出る血が地を濡らし、己が人間である事を確かめて、けれどそう、次に口を開いた時にはもう、傷など何処にも存在しない。


神よ、私は本当に、人なのでしょうか。
(エデンの名を捨てて)(エンジェルと呼ぶ人の居ない)(遥か遥か東の果て)(日が昇る国には燃える星)(人はそれを神と呼ぶのです)



(私の体は成長を止めた様でした)
(成長を止めた後に辿る道はご存じでしょう)
(急速な老いと言うものは外見ではなく内側にこそ顕著に)
(悍しい程の早さで現実を知らしめてきました)





時々心臓が止まっている様な気がする。
そんな時に手首を掴むと、やはり脈がない。
けれどそれはほんの数秒で巻き戻る。壊れ掛けの柱時計の様に、トクトクと、再び時を刻むのだ。

俺の体は狂っていた。
生きていくには妥協を覚えねばならないものだと、馬鹿の一つ覚えの様に己を納得させる。
禁忌の林檎を喰らった罰で産み落ちた子供。人になったアダムとイブの代わりに、子供は化け物の烙印を与えられた。

天国へ戻る事も出来ず、今度こそ人へ戻るには、赤いカプセルを一日一回、空ける事なく飲み続けるばかり。



俺は知っていた。
薬を飲んだ後は、脈がいつもより早い。何を食べても美味しく感じる事が出来る。他人が触ったものでも、匂いをきついと感じる事がない。



俺は人になったのだ。
毒々しい程に赤い、人が作った薬で。















ぼんやり外を眺めた。
山の中の屋敷は何処か危うげで、何処かこの世のものではないかの様な印象を与えてくる。

「休まなかったのかね」
「生憎、長く研究業を営んできたが、この年に至るまで、椅子で寝る特技はついぞ覚えんかったのう」
「兄弟でも違うものだ。オリオンは何処でも眠ったよ」

暗い中、庭で水を蒔いていた男が振り返り、近づいてきた。
背凭れの長い椅子は背筋を全て支えてくれるが、休むには今一つ。その旨伝えれば、薔薇の香りを纏う男は、ボタンを外したシャツの狭間、晒した鎖骨を掻いた。

「応接間にもリビングにも、ソファがあったろうに」
「どれもこれも、師君が甘やかしてくれたチルドレンの寝場所になっておったわ。アンドロイドの癖に自動制御でスリープするとは、どんな躾をしておる」
「バージョンアップしているのはボディーだけだろう?中身はリヒトが五歳だった頃に設定した年齢のまま、幾ら知識を蓄えようが、成長する事はない。それが機械が人に代われない最大の理由なのだよ」
「…違いない。月日と共に思考が変化するのは、生命に与えられた業にして奇跡だわ。師君が後悔を覚えた様に」
「皮肉かね。まぁ良い、茶を淹れよう。君はハーブティーが苦手だった様に記憶しているが、趣味が変わっていたりは?」
「何、昔から酸っぱくないハーブティーなら飲めるぞ?然し薔薇茶はのう、あれは化粧の味がするでのう…」

此処はいつも花の匂いで満たされている。
庭先の花壇、裏手に敷き詰められている温室、ビニールハウス、365日いつだろうと狂った様に。

「味覚は変わる。趣向も変わる。私は花など無用だと思ってきた。父の墓前へ捧げるそれですら、昔は何の意味もないと思っていたよ。言葉が届かぬ人への、挨拶でしかないと」

帝王院学園で最も日の当たる場所、歴代中央委員会会長婢を祀る丘を超え、木々に隠された小道を下った先。そこにこの屋敷はひっそりと佇んでいた。
学園長夫妻が暮らしていた帝王院本宅はもう少し離れており、下の山道から直接道が繋がっている為、来客はそちらから車を使う。

「何だ、儂は白湯か。持て成しの心がないのう」
「君は客ではないからね。…サーバーに残ったデータは、何か見つかったかな?」
「途中までの検証結果が辛うじて。儂が迂闊だったのう、ステルスネットワークに残らんよう、研究室のサーバーを直接動かしておった所為で、バックアップがない」

報告だけで確認した訳ではないが、自分の研究室に置いていたサーバーを奪われ、直前に設定していたデータは全て消えた。大したデータではないと諦めるのは容易だが、復旧に幾らか時間が掛かるだけに、未練が残る。

「ルーク坊っちゃんとレヴィ陛下夫妻の血縁関係は、もう一度調べ直す必要があろう。それと、我が姪ともだ」
「私としては、君が此処でいつまで検証してくれても構わないが、サンプルがないだろうに」
「レヴィ陛下とナイトのデータは中央情報部に保管されておる。流石に、奴らもセントラルを襲撃する事は出来なんだに違いない。だが然し、サンプルを提供しろと言った所で、今の儂の頼みを聞いてくれるかのう…」
「我々は中央情報部から消されたリストラ組なのだよ」
「何じゃい、嬉しそうに宣いおる。儂の苦労も知らんで」

カタカタと、膝に乗せているキーボードを叩いた。
ドイツ人の癖に、冷凍庫から取り出した焼きおにぎりをレンジへ放り込む背中を横目に、温かい湯を舐める。

「む?おお、ブドウ糖が入っておる。ナイスだネルヴァ、疲れた時には糖分が欲しくなる」
「疲れてなくても、君が欲しがるのは糖分ばかりだろう。君が我が家のサーバーをジャックしてくれたお陰で、寝た子を起こせない。こんなものしかないが、良ければ」

湯気を発てる焼きおにぎりは、良く見る冷凍食品ではない様だ。大きさがしっかりしており、香ばしい香りが漂っている。

「師君が握ったのか?」
「ああ。私が初めに覚えた、妻の手料理のレパートリーがこれだ。リヒトもこれは、文句を言わず食べてくれた」
「師君の奥方は、日本で暮らしていた事はなかった様に記憶しておるが?」
「大河朱花はアメリカ、私の妻は上海で育った。…君も知る様に、私の妻の母親は帝王院と叶の血を継いでいた。だが、」
「大河朱花もまた、帝王院と叶の血を?」
「…いや、朱花ではないのだよ」
「何だと?では、まさか」
「大河白燕。アジアを統べるあの男こそ、叶芙蓉と帝王院雲雀の血を継ぐ、…本来なら叶、いや帝王院の当主だったかも知れない男だ」
「な」
「流石にこの話は、本人から聞いていないのかね?」

囓った焼きおにぎりを口から零し、硬直した。
髪こそ白髪に染まったが、瞳の色だけは昔から変わらないエメラルドを見つめたまま、驚いている体で、今は頭だけが動いている。

「大河白燕の祖父母が、叶芙蓉と帝王院雲雀だ。大河白燕の母親は彼が生まれた頃になくなった。『大河の眼』の所為だと言われている」
「色を変えるアレキサンドライトの紅眼、か」
「今の大河を作ったのは、芙蓉と雲雀の間に生まれた息子だった様だ。私の妻の母親は、その息子の後に生まれた娘の子供」
「ほう。大河白燕と師君の妻が、従兄妹だったのか?」
「ああ。日本を離れて中国で暮らす内に、叶芙蓉の息子は香港裏社会の総帥へ上り詰め、当時の大河社長の養子へと招かれた。その聡明さと支配力で、大河を統べるべく」
「そうか、養子と娘が結婚したのは知っておるが、大河白燕は二人の子か」
「ああ。帝王院雲雀は帝王院鳳凰の実の姉であり、帝王院俊秀と帝王院桐火の子供だ」
「では、大河の因果は雲隠の血か!」
「やはり、そうなのか?」

ああ、世間は狭い。

「ああ…ああ、雲隠桐火だと?…とうとう他人事ではなくなってきたぞ、雲隠…よもやその名を平成で聞く事になろうとは…」
「シリウス?」
「雲隠は禁忌の家名だ!あれはいかん、奴らは人ではなく鬼っ」
「鬼?何を言っているんだね、君は」

帝王院雲雀の息子の名は白雀。
大河白雀の子、大河白燕を知らぬ者はアジアには居ない。そのまた息子、大河朱雀の素行の悪さを知らぬ帝王院学園の生徒が居ない様に。

「ああ、ああ、何てこったじゃのう!それでは師君の妻と大河朱花が殺されたのは、流れ流れて帝王院、延いては我ら灰皇院の所為ではないか!あな恐ろしい、何と言う神の戯れか…」
「私には聞かせたくない話かね、シリウス」
「いや…、雲隠とは、儂の母方の関係だわ…」
「母方?」
「儂の死んだ母は、高森糸魚と言ってのう。高森の家は伯爵の位を頂いておった。我らの母は16歳で嫁ぎ儂らを産んだが、母の兄である高森伯爵の迎えた妻は、名を糸遊と言った」
「しゆ。珍しい名前だね、蜘蛛の糸とは…」
「雲隠最後の当主だわ。…その双子の兄は戦争で死んだとも言われておるが、駿河坊っちゃん曰く、婿養子に収まったそうだのう」
「君とその雲隠は、直接の血縁関係はないのか」
「ああ。政略結婚に近いだろう、母が嫁いだ当時、儂らの父は40前の中年だった。若い母の方が余程しっかりしていた記憶がある。人見知りで口下手で、義姉から可愛がられていた事は、何となく覚えておるが…。いかんな、雲隠糸遊の顔までは記憶しとらん」

うーん、と、暫く思い起こそうとしたが、絶対記憶を誇る冬月でも思い出せない幼い頃の記憶は、遥か遠くへ埋没されていた。

「思い出せん!ええい、記憶力は龍一郎の方が遥かに儂より良かったからのう!喉に餅が詰まった様な気になったわいっ、白湯のお代わりを貰うぞっ」
「…今でこそ大河の不思議な血は昔からのものだと言われているが、決してそうではない様だね。大河は今の四家が統率する前、身内争いで断絶し掛けた家だそうだ」
「ふん、し掛けただけならよいわい。儂ら冬月は、身内争いで綺麗さっぱりなくなったぞ。神奈川の屋敷も焼き払われ、残るのは筍と松茸が繁る山だけじゃ。屋敷跡には、隼人のダンボール製『秘密基地』があった」

幼い孫の秘密基地は作っている時に気づき、完成からたった三日目の台風で崩れた。雨が止み、飛んでいった隼人が涙を溜めて帰ってきたのを見た時は心が痛んだものだが、数年後、煉瓦造りになっているのを見た時は、たまげた記憶がある。
正に三匹の仔豚、我が孫ながら、転んでもタダでは起きない。

「私は知らないが、レビィ=ノヴァがアジアへ手を広げようとした時にはもう、今の大河の様に確固たる結束が産まれていたそうだ」
「つまりレビィ陛下は、知らぬ間に帝王院白雀と会っておったのか?」
「そうなるだろう。何にせよ、60年以上は前の話だ」
「儂がステルスへ招かれた頃には、アジアへの侵略は社訓で禁じられていた。夜人の故郷である日本は、我らステルスの聖地であり、神の島だ」
「当時、日本はアメリカとの長き戦争を経て、友好を結んだばかりだった。昭和の晩年までは中国との関係も良好だった。日本を傷つけない為には、中国にも勿論、手は出せない」
「最近はそうでもないがのう」

指先についた米粒を舐め取り、ぱちんと手を合わせる。面倒だと不貞腐れていても、失ったデータは戻らない。

「そう言えば、中央情報部のサーバーに昔から残っているサンプルがあったのう。年代が古く、レビィ陛下のDNAサンプルと同じ頃だ。旧シンフォニア計画が生まれた頃だのう」
「キング陛下が生まれる前だね。それは、誰のサンプルなのかな?」
「判らん。赤ラベルに、コード:ミラージュと記載されておる」
「蜃気楼?…ラベルが赤いと言う事は、ランクAか」
「何故か知らんが、対外実働部登録だ。が、該当のコードは52年前に除籍されておる」
「52年前…それでは私が知る筈もないのだよ。その頃はまだ、大学院に入ったばかりだった」
「儂がナウでヤングだった、25・26歳の頃だのう。あの頃は消えた龍一郎を死に物狂いで探しておった頃だ、とんと覚えがない」
「あの頃君は、オリオンを見つけたら毛を毟って、クローゼットの派手な服を黒で染めてやると息巻いていたね」

焼きおにぎりを3個食べた白髪が、優雅にローズティーの豊かな香りを燻らしている。還暦を過ぎた割りには大した食欲だと思わないでもないが、米とローズティーの相性は尋ねるべくもないだろう。

「…何にせよ、カイザー・ルーク=ノアが私の想定より情報を握っておられた事は、危険視しているよ」
「大河白雀の事を何処で知ったのか、ただのハッタリと片付けるには、相手が悪すぎるのう。…ああも扱い難い18歳が居るとは、昔の龍一郎くらいだと思っておったわ」
「セントラルの幹部が出立したらしい。今し方、対空管制部の知人から連絡を貰った。陛下にお伝えするにしても、我々には止める術がない」
「とうとう、ステルスが聖地へ足を踏み入れるか。…若様もえげつない事をなさるのう」
「私はどうするべきだろう」

何を・とは聞かず、キーボードへ指を走らせた。
尋ねた所でその疑問を解明出来るのは自分ではない。また、自分に解明出来るとは思わない。

「リヒトに流れる血を思えば、私はナイトに付くべきだ。然し私は、我が子の為に、彼の命を奪おうとした」
「ふーむ、師君の提案に乗った儂も同罪だのう。ルーク坊っちゃんに並び、儂の又甥もまた、ただでは死なん。あれが帝王院最大の秘密を知っておれば、秀皇坊っちゃんの子供騙しを越える」
「子供騙し…灰皇院が得意とした、催眠の事か」
「最も得意としていたのは榛原だ。人の意識を従え、善悪の境を灰に染める『灰原』。奴らは総じて性格が悪かったと聞いている」
「冬月が言えたものかね」
「雲隠を鬼と呼び、汚い仕事をさせて灰皇院を牛耳っておった陰険な家だぞ。奴らの支配を嫌って逃げた皇も居ったに違いない、それを裏切り者と謗りおって!隼人!山田太陽は危険じゃっ。あんまり仲良くしてはいかんぞーっ」

いかんぞー、いかんぞー。
開け放したバルコニーの向こう、暗い山へその叫びは木霊した。当の神崎隼人は部活棟の地下に埋まっているので、多分聞こえていないだろう。全く。

「こんな時に何故か、朧気なナイトの姿を思い出す。遠野は雪国の出身なのだとか、けれど南の血も入っているだとか、…すまない、無駄話が過ぎた」
「謝る必要などない。キーボードに触れれば、後は指が勝手に動いてくれる。ボケ知らずの冬月に掛かれば、孫が出ているテレビを観ながらでも、ちょちょいのちょいじゃ」

グッと親指を立てれば、再び冷凍庫から何やら取り出した白髪が、レンジへ放り込んだ。気づいてはいたが、レンジを開ける時と閉める時の動作が、何だか異常に荒っぽい。

「師君、レンジは優しく扱ってやらんか」
「何か変だったかね?」
「判っていないのであればよい。まだ喰うつもりか?」
「冷凍食品だが、妻の好物だった担々麺は常に買い置きしているのだよ。君も食べるかね?」
「担々麺だと?あんなもん唐辛子の狂宴ではないか!儂は甘味の饗宴しか認めんぞぅ。饅頭とかマカロンとか、買い置きしておらんのか?」
「そんなものは藤倉にはない。庭の菜園のトマトでも食べていろ、トマトの隣は獅子唐だよ」
「そんな辛そうなトマトは除草しろ」

チン!と軽快な音を発てるまで、年甲斐のない睨み合いが続いた。
























「アンタ、俊以外どうでも良いのか」
「答えるべくもない」

助けねばならない焦燥感と、荒れ狂う憤り、二つの感情がせめぎあう腹の底。
罵倒したい内心を噛み殺しながら宣って尚、網膜に映り込む美貌に感情は宿らない様に見える。高坂日向には、それが人の言葉とは到底信じられなかったのだ。

「自分がさっき何て言ったかもう忘れたのか。神崎の頼みを聞いてやるんだろう?」
「何が言いたいのか要を得んな。この場にお前が居て、何故俺が残る必要がある」
「テメェ…」
「俺はお前に出来ないとは思っていない。この程度、片付けられん男か、そなたは」

全身の毛が逆立つ程の怒りが、霧散した。
我ながら何処まで単純なのだと呆れたが、肩を掴む手の力は最早ないに等しい。

「手負いの生徒二名、彼らが地上へ向かうのと、身軽い私が一人で戻る。それはどちらがより効率的だろうか」

確かにその通りだ。
頭に血が上りすぎたのは否定出来ない。確実性を重視する神威と、目先の現実を優先した日向と、この場ではどちらが正解でどちらが間違いなのか。

助けられる可能性はどれくらいだ?
この場が壊れない可能性はどれくらいだ?
この暗さの中、怪我を負っている隼人達が助けを呼ぶまで待つなどと、希望的観測を考えたのか?

「ちっ。…判った、俺様がこっちを頼まれてやるから、それ以外全部テメェが片付けろ」
「是非もない。恙無い祭典の閉幕まで、身を粉にして働こう。全ては俊の為だ」
「好きにしろ、人格崩壊者」

神威から眼を離した日向は、握っていたスマホを下へ投げ込む。
コンクリートの裂け目から滑り落ちたそれは、下水の中を潜り抜けた完全防水だ。例え沈んでも、1メートル程度の深さでどうなるものでもない。

「おい餓鬼共、光が見えるか」
「あざーす、光王子。丁度オレの股間が照らされてるぜ?」
「…元気そうじゃねぇか、藤倉。相変わらず呑気な奴だ」

ざばっと水が動く音と共に、暗かった視界に光が差した。
日向のスマホを拾ったらしい藤倉裕也の顔が、辛うじて見える。

「全員、明るい内に足場を確保して上がってこい。死人は嵯峨崎だけで間違いねぇか?」
「…るせぇ、誰が死んだだとビッチ猫」

日向に向けて照らされていた明かりが、下へと滑った。

「ユウさん、大丈夫ですか?!」
「紅蓮の君っ!お、俺なんかを庇った所為で、よ…良かったぁ!」
「…あー、泣くなセントラルゾーン。女々しい男は殴りたくなる」

日向からは良く見えないが、屈み込んだらしい裕也が照らしている所の瓦礫を、他の誰かが掻き分けている。

「ふん。悪運の強い奴だ、予想通り生きてたか嵯峨崎」
「テメーのお陰で全身麻痺って動けねぇ、どうしてくれるアホ高坂。これ完全に出血多量って奴じゃねぇか、俺が死んだら仏壇にプリンを毎日お供えしろハゲ」
「何が俺様の所為だっつーの。テメェらの自業自得で、どっちかっつーと二葉の所為だ。死んでも禿げねぇから安心しろ、馬鹿犬」

日向の足元から、教室の奥まで、崩れ落ちた天井は足場の悪いスロープの様になっていた。それを踏み越え日向の近くまで辿り着けば、引きずり上げる事は難しくない。
起き上がれない様だが、響いてきた佑壱の声は元気がある。裕也が握るライトは佑壱の顔を照らす前に日向側へ戻り、数人がその明かりを頼りに足を踏み出した。

「さっき机並べといた所から行くしかないっしょ(;´Д⊂)」
「あれのお陰で不格好な滑り台が出来ましたね。ユウさんも助かった…」
「テメーらのお陰で落ちてきた通風口にハマって閉じ込められたがな」
「紅蓮の君、通風口にハマったんですかっ?」
「凄い、だから潰されなくて済んだんですね!凄い奇跡だ…っ」

長閑なものだ。
先程までの悲壮な空気は、佑壱の台詞で笑い話へ変化している。

「よう、書記。怪我の具合はどんなもんだ」
「…掠り傷っス、副会長さん」
「その割りに、無様じゃねぇか。立てねぇとはな」
「嘘つけ!テメーこっち見えてねぇだろうが!」
「まぁ、待ってろ。餓鬼共を放り出したらこの俺様自ら助けに行ってやる。自分が最後だからって拗ねるな」
「誰が拗ねるかコラァ!!!」
「ユウさん、動いたら駄目です!さっき崩れた所為で塞がってますが、後ろに大穴が空いてるんですからっ」

叫んだのはどうやら要の声らしい。
何とか日向の目前までやって来た生徒に手を貸してやり、レールの上まで引き上げる。一人登ればまた一人、後はそれを繰り返すだけだ。

「おい、錦織。大穴っつーのはどう言う意味だ?」
「中央委員会に教える義務はありません」
「…嵯峨崎、テメェの舎弟は片っ端から可愛いげがねぇぞ。どんな教育してやがる」
「すまん、これでも俺の自慢の弟分でな」
「ユウさん!」
「副長!」
「お母さーん!(*´3`)」

ああ、煩わしい。
チョロチョロと上ってくる後輩の手を振り払う事など出来る筈もなく、恐らく佑壱に抱きついているのだろう犬共に、日向は舌打ちを噛み殺す。
わざとに違いない。錦織要の嘲笑う幻聴が聞こえる気がする。忌々しいばかりだ。

「はっ、餓鬼侍らせて喜んでんじゃねぇ早漏野郎」
「テメっ、それは二人の秘密だろうが!テメーとは離婚だ離婚!」
「いつ結婚したか、全く覚えがねぇな」

結婚していれば恐らく死ぬまで忘れない自信がある高坂日向は、底冷えする笑みで呟いた。
掴んだ他人の手が震える感触など、構うものか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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