帝王院高等学校
今こそ羽ばたく時、なのですか?
「…誰か助けて」
「俊?」

スコーピオ三階、二階へは円形の壁を伝う様に配されたスロープで行き来が出来るフロアは、中二階の様な造りだ。スロープ側には落下防止の手摺、スロープの分だけ階下より狭い為、風呂がフロアの半分程を占めている。
二階のテラスの真上に当たる小窓を開き、外を見ていた背中が囁く声を聞いた山田太陽は、頬に触れる微かに湿った毛先を手で払いながら振り向いた。

「タイヨー、何?」
「お前さん今、」
「俊、山田君。待たせたな」

風呂から上がるなり、妻である夫人の寝室へ光の速さで消えていった学園長は、車椅子を器用に操りながら戻ってくる。長い入院生活で衰えた筋力を賄う様に、暫くは車椅子で過ごすそうだ。歩けない事もないらしい。

「ふ…文仁さん、もう少し早く…」
「畏まりました」
「何、そう急ぐ必要はない。どれ隆子、私のヨーグルトを飲め」
「いいえ、今は一刻も早く…」

彼の後ろには、息を切らした女性と、その隣にカーディガンを羽織る理事長の姿もあった。理事長のもう片手には、大切そうに白い液体で満ちた瓶が握られている。
夫人の車椅子を丁重に押しているのは、太陽を睨む叶文仁だ。ケーキを用意した冬臣に叱られ、表面上は怒りを納めた様に装っているものの、その眼光は鋭い。

「あ…」
「こ、こんばんは、学園長代理。こんな時間にお邪魔してます。あの俺、一年Sクラスの…」
「判るわ、大空ちゃんのお子さんね」

学園長とは違い、病が元で股関節に支障を来したと言う夫人は、基本的に車椅子と共に生活していた。この学園で知らぬ者はない。だからこそ学園長代理である彼女の負担を減らそうと、自治会、中央委員会の役員は職務に励んでいたのだ。

帝王院隆子。
彼女こそ、帝王院学園で暮らす全ての生徒の、母。


「些か気を鎮めよ隆子。そなた、過呼吸の気があろう」
「…大丈夫ですよ、帝都さん。私は落ち着いております。ねぇ、旦那様」

風呂から出て何分になるのか。
未だに抹茶ケーキを貪っている太陽の傍ら、とっくに皿を空けた遠野俊は窓辺で外を眺めたまま、背中を向けている。

「…隆子。そこに見えるのが秀皇の子、俊だ」

夫人の前では冷静な声音で、照れ笑いの様な淡い笑みを浮かべた帝王院駿河の指先が、窓辺の背中を示した。
呼び起こされた時に既に泣いたのか、赤い目元を潤ませた夫人の唇が震える。労しげな文仁が止めていた足を踏み出し、きしりと、車椅子のホイールが軋む、音。

「しゅ、ん、ちゃん…」

掻き消えそうな儚い声で、帝王院の母は呟いた。
込められた万感の思いを汲み取った太陽は慌てて俯き、ごしごしと目元を擦る。
彼女の背後で軽く天井を見上げた長身に気づいた太陽は、「嘘つけ、お前さんは泣かないだろ」とばかり疑いの目を向けたが、女神の美貌を持つ傲慢男は、太陽の視線に気づくなり再び睨み付けてきた。若干潤んでいる黒目に睨まれた太陽は、恐怖より先に頬を染める。

髪型と眼の色以外は、二葉のコピーだからだ。


「空は儚い程に暗く、世界は儚い程に静寂、木々は眠り風一つない夜に、俺の体は生まれ落ちた」

背中が、歌う様に、囁く。
ぴたりと動きを止めた文仁に構わず、目を見開いた夫人の手が、己の車輪を転がして。

「その声…貴方は…」
「…ご機嫌よう、学園長夫人」

そうして漸く振り返った背中は、瞼を閉じたまま微笑んだ。
目前で動きを止めた夫人は車椅子の上から孫を見上げたまま、ただただ、見上げたまま。

「そう、なのね…。貴方が私の、もう一人の孫だったのね…」
「…」
「目を開けてちょうだい、俊ちゃん」
「出来ない」
「いつもそう言うのね。夜なのにサングラスを掛けて、何処からともなく現れては、帰ってしまう私のお友達…」

太陽は瞬いて、学園長を見遣った。
妻の背を眺めている学園長もまた目を丸め、文仁に至っては怪訝げな顔を隠しもしない。如何なる時も表情の変わらない理事長だけが携えた瓶をテーブルに置いて、妖しい色合いの眼差しを細めたのだ。

「隆子、やはりそなたはナイトに会っていたのか」
「帝都さん?」
「今、ナイトにそなたの記憶はない。いや、そなたの記憶は愚か、入学以降、現在に至るまでの一切が淘汰されている」
「どう言う事、ですか…?」

どうしてそれを、と。太陽は学園長を見つめ無言で下手なパントマイムを見せた。ふるふる首を振った学園長は太陽の意思を正しく汲み取った様だが、心当たりがあるのだろう。
彼は呆れた様な眼差しを、理事長に注いだ。

「貴様は相変わらず地獄耳だな、帝都。…だから油断したんだ俺は。知る限り、キングの聴覚は一般的だった」
「ロードと私には唯一最大の違いがある。それはあれが、真の闇を知らぬ一点だ」

太陽にも文仁にも、理事長の言葉の意味は判らない。
それは勿論夫人も同じだった様で、孫を見つめていた眼差しを、涙と共に背後へ向けたのだ。

「冬臣には悪いが、少し話をしよう」
「畏れながらキング=ノヴァ、…兄さんに悪いとは?」
「構わん、我が名は既に偽りの闇により消された。キング=グレアムは死した者の名だ。我が名は、IX(ナイン)=ハーヴェスト=グレアム」

俊とはまた、違った意味でその声は存在感を示した。
無意識に背を正した太陽は最後の一口を残し、握っていたフォークから手を離す。

恐る恐る太陽が目を向けた窓辺の俊が、瞼を開いた。
静かな漆黒の眼差しは祖母である夫人の背でもなく、ソファに腰掛ける太陽もなく、静かに理事長を見つめている。

「その名は大地の豊穣たるや、その名は迫害された我らの光たるや、8つの兄弟の屍を踏み越え、真の神と成り得るや」

声が違う。
理事長以外の全員が弾かれた様に立ち上がろうとして、目を限界まで見開いたのは。

「懐かしい拝謁、恐悦至極にございます」
「立派になったものだ。…顔を見せてくれるか、ハーヴィ」
「畏れながら、許されるのであれば心行くまでご覧下さい、…父上」

金色の髪を靡かせ深く頭を下げた前皇帝が、まるで子供の様に無垢な笑顔でそう、囁いたからだ。






(今)

(私は貴方に会いたかった)



(それがどんな形であれ)
(許されるのであれば)



(修羅へ落ちても)






(構わないとさえ、思っていたのだ)













「ご機嫌よう、嵯峨崎君」

いつだったか、いつ見ても気持ち悪い笑みを張り付けた男は、紙袋を持ってやって来た。あれは確か初等部の、語学研修旅行ではなかったか。

「小学生のショートステイにソルトレイクを選ぶなんて、渋いですねぇ。どうせならマイアミがお勧めですよ、あそこは暖かくて、太陽が近い」
「…此処はフェニックスだ。ユタとアリゾナの違いも判らねぇのか、方向音痴野郎」
「おや?可笑しいですねぇ、ケンブリッジから日差しを追って真っ直ぐ来たのに…」
「お前がやって来たハーバードは向こうだろ。北はどっちだ?」
「あっちです」

ビシッと躊躇いなく男が指差す先、黄昏に染まる地平線が見えた。

「…日が沈むのは?」
「おや、西ですよ。そんな事も知らないのですか、君は」

この男相手に怒るだけ無駄だと、流石に理解している。
馬鹿なのか、この男は太陽が昇っている方向へ向かっていく悪癖があるのだ。方向音痴がどうだと言う問題ではない。寒がりも関係ない。単に太陽しか見ていない様だと気づいたのは、この国を捨ててから暫く経った頃だ。

「何も用がねぇなら帰れ。ほれ、テメーの大好きな太陽が沈んでくぞ」
「でもこれ以上ついていくと、うっかり海を渡ってしまうので…」
「あ?どうせシャドウウィング使ってんだろ?」
「いえ、今日は普通のステルスに乗ってきました。軍の模擬訓練の帰りなのでねぇ。ふぅ、経済水域を越えると国家間問題になってしまいますよねぇ…。日本は友好国ですから」
「普通のステルスってどんなステルスだろうな」
「出来たばかりの新薬をお見せしようと思いましてねぇ、文字通り飛んできました。うふふ、それとも君はジェネリックの方が良かったですか?」

下手なジョークだとばかり、差し出された紙袋を毟り取る。
いつもの男達であれば倒すのも逃げるのも容易だが、今回は相手が悪すぎた。

「…んだよ、いつもと同じカプセルじゃねぇか」
「今までのはある意味、開発中のものでした。原材料が足りてなくて、量産出来なかったものでねぇ」
「どんな材料だか知らねぇが、俺の事なんざ放っときゃ良いんだよ。大体、テメーはルークの手先だろうが」
「おや?私が今イギリスで暮らしている事を、ご存知ないのですか?」
「あ?イギリス?ドイツならともかく、何でだよ」
「さぁね、判らないなら解明すれば宜しい。目の前に立ち塞がる謎を解かない数学者は居ない。謎こそ、知識に飢えた人間に与えられた麻薬なのですから」

狂ってやがる。
自分が言える立場ではないかと肩を竦めて、異国の土地で快活に英語を話すクラスメート達を他人事の様に見ていた。

「所で嵯峨崎君、今の君は何ヵ国後をマスターしました?」
「…何だよ、気持ち悪ぃな。いつから俺のプライベートに興味が?」
「いえ、君には全く興味はありません」
「だろうな。とっとと魔界に帰れ悪魔」
「では君は天国へ帰るんですか、エデン=テレジア」

きっとその時、悪魔を屠る力があれば躊躇わなかったに違いない。けれど腹の奥底へ鎮めた憎悪で、何かが焦げる幻聴を聞きながら自分に出来た事と言えば、


「世界中、何の謎もあらしません」

ほんの少しの、つまらない仕返しだけ。
ほら見ろ、目を丸めた悪魔に溜飲が下がるなんて、愚かにも程がある。

「おやおや、それは…お可哀想に」
「うちは何処でも生きて行けますよって、たんとぶぶ漬け食べて、お帰りやす」
「あはは、あははははは!そうですか、いやぁ、相変わらず愉快ですねぇ、君は!判りました、それでは私は可愛い仔猫の所へ戻りますので、久し振りの故郷を楽しんで帰って下さいね」
「気色悪い。何が仔猫だっつーの…」
「私はお茶漬けよりフレンチトースト派なので、またお会いしましょうねぇ、ファースト殿下」

二度と会いたくないとは、どんな言葉を以てしても伝えきれなかったに違いない。



「…趣味の悪いもん寄越しやがって」
「おーい、嵯峨崎君。アップルパイが焼けたから、ティータイムだって」
「判った」

がさりと音を発てた紙袋。
詰め込まれた一週間分の深紅のカプセルは、何と悪趣味だろう。

「あれ?その紙袋、さっきまで持ってなかったよね」
「こりゃただのゲロ袋だ。気にすんな」
「飛行機苦手だったの?でも飛行機降りたの、昨日だよ?帰るのは明日だし…」
「しつけぇな、どんだけ世話焼きたがんだよ、自治会っつーのは」
「嵯峨崎君も立候補すれば良かったのに。クラスで一番成績良いんだから」
「やだね、面倒臭ぇ。帝君制度は中等部からだろうが、何で何の得にも何ねぇ仕事やらなきゃなんねぇんだ。んな面倒事、ドMがやってろ」

まるで熟れた林檎、熟れた石榴、滴り落ちる滴の色は、血液の様に。

「あ、嵯峨崎君。シナモンを削らせてくれるって。林檎とシナモンはバランスが良いって言ってるよ」
「今のニュアンスはバランスっつーより、『体の相性』だ。どんどん話し掛けて勉強してこい、ドM書記」
「ハァハァ…林檎とシナモン…ハァハァ」
「…何だ、アイツ」

がさりと。
抱いた紙袋は密やかに、存在感を示し続けた。



(これは)
(私を人に戻す)
(忌々しい)


(禁忌の実)






それがどう作られているのか、どうして疑問を持とうとしない?















「何だこの様は?!」

走って、走って、途中、足がもげるのではないかと思ったが、人の足はそう簡単に外れたりしない。
湿ったコンクリートの匂いに包まれた最果て、一階へ続く階段の登り口が塞がれていた。第四キャノン辺りから全ての照明が落ちている為、握ったスマートフォンのLEDだけが光源だ。

「…ん!」
「待っ…!」

微かに、人の声がした。
ぱしゃぱしゃと足元の水溜まりを踏み締めて張り付いた瓦礫の向こう、やはり、緊迫した声が聞こえてくる。

「ちっ、そこに誰か居やがるな。生きてるか?」
「っ、誰ですか?!僕は一年Sクラス級長の野上です!」
「ああ、そうかよ。俺様は三年Sクラスの高坂様だ、何があったか簡潔に述べろ」
「ひ、光王子?!」

近い。
近いが、姿は見えない。湿った瓦礫を見える範囲で掻き分け、どんどん近くなる後輩の悲鳴じみた説明を聞けば、漸く、日向の頭の中で全貌が見えてきた。

「そちらは浸水してませんか?!こっちは水没してます!」
「ご想像通り酷い有様だが、どっかの人格崩壊者のお陰で恐らくそっちよかマシだろうな。で、アンテナが立たねぇ理由もおおよそ把握した。テメェらが踏んでんだよ、アンテナに流れてる電線を」
「えっ」
「最悪だぜ、下手すれば電話所か回線も落ちてんじゃねぇのか…ちっ」

一年Sクラスのエリアが動かなくなったのは、ほぼ二時間前。五時を回った今から逆算すると、日向が神威と共に格納庫へ降りた頃合いらしい。
恐らく一年Sクラスの教室を含めたエリアが見事にはまりこんでいるのは、部活棟一階の中央、普段は道場として利用されているホールの真下だ。

「自動演算制御もなく、下手なモードチェンジで首絞めたっつー訳だ。二葉がわざわざ此処を連結部に選んだのは、そもそも人が居ねぇ場所だからだっつーのに…。俺様の仕事増やしやがって餓鬼共、覚えとけ」
「申し訳ありません…!まさか懲罰棟がそんな事になってたなんて知らず…!」
「知られたくねぇから隠してたんだ。それに関してはテメェらだけが悪い訳じゃねぇ、今は外に出る事だけ考えろ。何にせよ、位置が不味い」
「えっ?」
「上部のスライドレールが、こっちの階段の踊場に引っ掛かってやがる。お陰様で一階の床が崩落したらしい。この特注のレールは少々の事じゃ壊せねぇ代物でなぁ、下手すればテメェらの重さに負けて一階ごとぶっ壊れちまうか、そっちが先に潰れる」

中央キャノン内部は、円形の造りである外壁以外のほぼ全てが稼働する仕組みだ。通常18階の最上階に存在する中央委員会執務室は遥か地下5階の格納庫まで真っ直ぐ降りる事が可能だが、つまり、中央キャノンの地下はほぼ空洞である。
エントランスゲート真下の地下道は、その巨大な空白を囲む様に繋がっており、建設基準法の加重の観点から、部活棟から第二キャノンまでの道はないも同然だ。
辛うじて下水パイプが埋められた用務員専用の細い通路はあるが、地上を歩く方が早いので使われていない。

「喜べ餓鬼、絶体絶命って奴だ。現在の第五キャノン第四キャノンは、創立当時からある。未だに建設中の中央キャノンに比べれば、圧倒的に古い」
「えっ、えっ」

校舎の真裏、真北に存在する部活棟から半時計回りに、およそ220度分繋がった全長1キロ程度の地下道は、柱代わりの分厚いセキュリティゲートで区画分けされている。
早い話、校舎敷地の左半分は右半分の地面に比べて軽かった。地面の密度が圧倒的に足りていない。
震度10以上の震災で、全体が傾くのではないかと言う統計データがある程だ。何せ創立当時から未だに完成していない中央キャノンは、年々重さを増している。

「学園長が子供の頃からあるんだ、最低50年は経過してる。判るか、下手に騒ぐといつ壊れても可笑しかねぇんだよ。今は」
「潰れる…?!せせせ星河の君っ、今の聞きましたか?!」
「あー、はいはい、聞こえてますよお。でもこっちはそれ所じゃないってゆーか」
「あ?テメェ、居たなら存在感出しやがれ神崎。怪我人は?」
「あは。隼人君は元気だよお、パパー」
「誰がパパだテメェ」

派手に浸かったのであろう、第五塔の地下は第四塔まで恐ろしい量の水を吸い込んでいる。神威が蹴り開けた地下道へ繋がる栓から迸った恐ろしい量の水を日向は覚えているが、然し地下が本当に全て浸かる程とすれば、ものの数分程度で排水可能だとは思えない。マンホール程度の穴を伝うのだから、当然だろう。

日向は真っ直ぐ走ってきた。
トレーニングの為の流す程度のランニングではなく、全力疾走で。それでも数分懸かる程度の距離が、天井まで余す所なく濡れていたのだ。何度も水滴が落ちてきた。まず間違いない。
だとすれば、下水道へ流れ込んできた水を差し引いた、残りの水は何処へ消えたのだ。第三塔への道は、いつもの様にセキュリティゲートで塞がれていた。
だとすれば、今一年Sクラスの教室で塞がれている向こう側、第二校舎へ繋がる下水道のパイプが延びた地下道も、きっと塞がれているだろう。ならば、この場に溜まっていた大量の水は、何処に。

「ちっ、訳判んねぇ…。糞餓鬼、中の状況を簡潔に述べろ」
「絶体絶命」
「テメェ、ついこないだまで帝君だったっつーの嘘だろう?話にならねぇ、嵯峨崎を出せ」
「あは。ママはちょっと無理かなあ」
「あ?」
「教室の天井が崩れちゃってさあ、いんちょと隼人君以外、見えないんだよねえ」
「何だと?」

気づくのが遅かった。
殴っても蹴ってもびくともしない壁の隙間、大きく割れている所から聞こえてくる声を覗き込めば、微かな明かりが見える。
キラキラ煌めく金と、キラキラ反射する硝子の様なそれは、眼鏡だろうか。

「此処だ、見えるか」
「は、はい、見えます…!僕が野上です!」
「言わん事じゃねぇ、そっちは教室が崩落してんのか?!」
「紅蓮の君を助けたくて…!」
「ちっ。泣くのは後だ、良いから先に説明しろ!」
「きょ、教室に残った紅蓮の君を助けたくてっ、通風口を探していたんです…!でも見つからなくて、きっと、レールの下にあるんだって錦織君が…!だ、だから…っ」
「糞が、これだから餓鬼は…!聞こえるか神崎、テメェが説明しろ!他の奴らは無事か?!」

級長と言う後輩の泣く声と、荒い吐息が聞こえるばかり。
キラキラ煌めく金が緩く振り返り、笑みを刻む灰色の眼差しを見た。

「判んない、けど…、ごめんねえ、オージ先輩。隼人君ちょっと、ごほっ、あんま…喋れなくてさあ…」
「はぁ?!」
「いきなし…水が流れ込んできたのお、逆側からあ…」

何だ。
何かが聞こえる。ひたひたと、まるで、水の音。

「だから、天井に居た皆、流されちゃったあ…ごほっ」
「星河の君…!しっかりして下さいっ、星河の君ぃ!」
「どうなってる、おい、しっかりしやがれ神崎!まさかテメェ、どっか怪我してんのか?!」
「星河の君は僕を庇って…!こ、此処にパイプがあるんです!亀裂から流れ込んできた水ごと砕けて、それが星河の君の脇腹に刺さってる…っ」
「…ざけんな、マジかよ!そこを退け、ぶっ壊してやる!」
「人の手で壊せるほど脆い壁ではあるまい」

壁を殴り付けた日向の背後で、囁く声が落ちた。向こう側にも聞こえたのか、咳き込みながら笑う声が聞こえてくる。

「あは。お疲れえ、庶務」
「俊は無事か」
「…さあねえ、知りたきゃ、後はどうにかしてよ、神帝ヘーカ」
「ああ。任せておけ」

笑う灰色の眼差しが、亀裂の向こうから消えた。
悲鳴じみた級長の声が逃げろと告げた瞬間、その僅かな壁の亀裂は砕け散ったのだ。


「な、」

まるで、地獄への入口を開かんばかりに。
















誰かの泣く声が聞こえる。

ひたひたと、
ひたひたと、
ひたひたと、血が滴る様に。


「………何だ?」

全身が焼ける様だ。
もしかして既にこの身は滅び、焼かれているのかも知れないと思った。そう、滅びた体を骨へと戻す為に。

「んな訳、ねぇか…。痛い通り越して、体が痺れてきた…」

目の前は真っ暗だ。
先程まで健気に灯し続けてくれた照明を探しても見つからず、得体の知れない浮遊感に包まれている。

「まだですか…!」
「おい、そっちしっかり支えろ」
「誰かユウさんを助けて下さいっ、この下にユウさんが!ユウさんが…!」
「んな事ぁ、判ってる。だからケンゴが、」
「居た!」

このまま眠れば気持ち良いだろうと考えた瞬間、何かに捕まれた。

「おーい!こっちに誰か居たっしょ!(´Q`*)」
「こっちにはチェリーブロッサムが居たよ、クレイジーサウンド」
「あっ、ビブラートパルスが転んだ!」
「痛いぜ」
「喧しい!そんな事は大声で叫ばないで良いんです!放っておいて下さい!」

ああ、もう、騒がしい。
笑えるほどに騒がしい声へと、この体が近づいていく。

「暗くて良く判んないけど…全員見つかったのかな?ちょ、力抜かないでホークさん、そっち天井傾いてるよっ」
「仕方ないだろ、背が合わないんだから…。ちょっと、セントラルゾーン邪魔」
「悪いな、オレはセントラルゾーンじゃねーぜ」
「あ、俺はこっちですよ、川南先輩」
「おれ加賀城だけど…」
「あー、もー、暗くて楽しいなー!はっはっは!」
「雷童が壊れた!ブラックサンダーは暗い所が苦手なんだ!」

痺れた体に逆らえず、流されていく感覚に従うまま。
最後の記憶は見上げた要の顔で途切れているが、どうやら皆、無事らしい。笑える話ではないか。まるで、本物の神の存在を信じてしまいたくなる。

「あちゃー、スマホの充電が切れた!あっ、こっちは防水じゃない?!…困ったなー、丁度天井が机に引っ掛かってくれたお陰で滑り落ちた程度で済んだけど、パンツの中まで水が染みちゃってるよ!」
「うひゃひゃ、俺なんかチンコ凍りそうだべ?(°ω°) クソ冷てぇっしょ!」
「あっ、この手の感触、さがみんだ!クレイジーサウンド隊長、さがみんですよ!何処もかしこも固いから!」
「マジか、触って判る筋肉パネェw皆が天井を持ち上げてくれたお陰っしょ!」
「オメーの華麗な潜水のお陰じゃねーか、ケンゴ」
「この暗い中、水の中に飛び込む勇気!流石だよ高野君、いや、クレイジーサウンド隊長!」
「任せとけって!さっきの鉄砲水で死んだと思ったけどな!(*σ´Д`*)」
「あれ?でも野上クラス委員長と神崎君の声が聞こえないよ?」

ぎしりと、軋む音と共に悲鳴を噛み殺す気配。
どうなっているのか判らないが、緊迫した雰囲気は嫌でも判る。けれど誰一人、泣き言を吐く声は聞こえなかった。

「っ、もう少し頑張って下さい…!まだこの下に誰か居るかも知れません…!ハヤト、聞こえますかハヤト!」
「あー、オレはカナメと違ってまだまだ余裕だぜ…?んな壁如き一人で支えてやんよ。おいハヤト、死んでんなら返事しろ」
「無理しないでユーヤさん、震えてる足が当たってるから」
「あ、すみません、それ俺の足です川南先輩。やっぱり天井って想像より重いですね…ふぅふぅ」
「中道、お前っておれ以上に見た目騙しだよな」
「シロップの癖に人を見下してんじゃねーっしょ、って、おわ!天井がまた崩れやがった…!(((;´ω`;)))」
「あ、ああっ、何だかまた傾いてきたよ?!あわわ、あわわわわ、どうしよう、水が動いてる…!」
「気の所為っしょ!(ヾノ・ω・`) おわっ、…気の所為だっつってんだから空気読んで傾くなやコラ!(´Д`)」
「うわー!チェリーブロッサムが流されてくぞ!」
「だ、大丈夫っ!俺、泳ぎにはちょっと自信が…ごほっ、あ…水飲んじゃった…」
「大丈夫か佐倉!この僕の左足に掴まりたまえ!」
「ボーイスカウトで鍛えた腕の見せ所なのさ!僕の足にも掴まりたまえ!」
「有難う…!助かったよ、溝江君、宰庄司君…!」

その時、世界を呑み込む様な轟音が頭上から響いたのだ。


「なっ、」
「ひ…!」
「うわぁあああ!!!」

ああ。
やはりこの世には神など存在しない。

(酷い音だ)
(酷い匂いだ)

(悲鳴と)
(血と)
(何かが燃える匂い)


「助け、て…!」
「誰か…!」
「誰か助けて…!」


(だれか)
(たすけて)
 (それをいつか叫んだ事が、なかったか?







『Open your eyes.(目を覚ませ)』

この世には神など存在しない。







『Don't be afraid.(怖くない)』


その声、は。









『己が身に刻まれたカルマを解き放ち、吼えろ』

だから新月の夜に犬は皆、尊敬と畏怖を込めて彼をそう呼んだのだ。
この世に神など居ないと、知っていたから。

「…Yes Sir, my Father.(仰せのままに、お父さん)」


痺れた背中はまるで、燃えているかの様に、熱い。



『お前は俺の翼だろう、イチ?』

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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