帝王院高等学校
どかんと一発ヤっちまえェイ!
完全に己のミスだ。
ミスで済まされる問題ではない。
もう少し気づくのが早ければと唇を噛みながら、無駄に長い道のりをただ、走り続けた。

何でこうも遅い。
何でこうも遠い。
女だからか。自分が、男ではないからか。
そう思いたくないから、頑張ってきたのに。

「っ、まだなの…?!はぁ」

誰がこんな巨大な校舎を造ったのだ。
これの真裏だなんて、後何分走り続ければ良いのだ。暗闇の向こう側から、ガシャンガシャンと耳障りな音がする。ああ、もう、いつから、どうしてもっと早く、気づかなかった?

「あった、あれだわ…!」

吹き飛ばしてやりたいほど大きな塔を回り込み、小振りな建物を見た。ちらほらと集まっている人間共に用はない。

「ちょっとアンタ達、それ何やってんの?!まさか壊すつもりじゃないわよね?!」
「え、あ、は?」
「何って、お客さんには教えられません。此処は危険なので下がって下さい」
「危険なのはアンタ達なの!これだから頭が悪い奴は嫌なのよ…!」

暗闇を貫く巨大なライトに照らされた、ショベルカーが見える。眠たげなオフホワイトの作業着を纏う若い男達が、「女だ」とざわめいていた。

「あっ、コラコラ、こっから先は駄目ですって」
「退きなさいよ!私に触らないで!」
「おわわ、すいません!困ったなぁ…。ちょっと掘って、地下の水を抜きたいだけなんだが…」
「鈴木先生、どうされました?」
「あ、警備員さん、助けて下さい〜 」

厳つい作業着の男は教師らしい。ほとほと困り果てた表情の男は、異変に気づいた警備員へ情けない目を向ける。
その隙に目前の建物へ駆け寄れば、すんでの所でオレンジ色の作業着数名から止められてしまった。

「ちょ、何なのよアンタら…!手を離してっ」
「はいはーい、こちら立ち入り禁止区域にて候〜♪今からこの辺で工事が始まっちゃうのでござる〜♪」
「ボーイッシュなお姉ちゃんは俺達とメアド交換してお帰り下さいでござる〜♪お怪我御免〜♪」
「此処からアレを抜かないと大変な事情があるのでござる〜♪何が大変なのか、コンプライアンスと企業秘密〜♪」
「「「アレはアレでもアレじゃな〜い♪」」」

ふざけた男共だ。
ヘラヘラしている割りに連携が取れており、工業科らしい体躯に恵まれている。力では敵わない、けれど諦める訳にはいかない、何せあの建物の何処かに、彼が居るのだ。

「私を誰だと思ってんの?!離しなさい、クズ共!!!」
「ヒュー♪お姉ちゃん気が強〜い♪」
「そうゆーの凄い好み〜♪結婚して〜♪」
「いや〜ん♪寧ろ俺を貰って〜ん♪」

明らかに揶揄われているのが判る。
歌う様に宣いながら、三人掛かりで運ばれていく我が身が、彼から引き離されていく光景。


「や、」

ああ。
ああ。
せめてもう少し早く気づいていれば。(それでも気づかなかった時の事を考えるとマシなのかも知れない、と)(腹を渦巻く焦燥感と己への憤りを、噛み殺した)

「やめて、離して…!」

ライトや機材の設置が終わったのか、邪魔者が去ったとばかりにショベルカーが建物へと近づいていく。どうすれば良い、力では圧倒的に敵わない。どうにも出来ない。ポケットから零れ落ちたカードが舞うのを見た瞬間、誰かが叫ぶのを聞いたのだ。

「先生!五階まで確認しました、部活棟内に人は居ませーん」
「最低限の荷物を第一キャノンに搬入しました!」
「掘削、いつでも大丈夫です!」

(そんな事は有り得ない)
(だって自分は知っている)
(あの人は、あの中に居るのだ)
(居ない筈がない)
(見つからないだけだ)
(見つけられないだけだ)

(だから)


「やめてぇえええええ!!!佑壱様が死んじゃうじゃない、馬鹿ぁあああああ!!!!!」

みっともない事は嫌いだった。
大声を出す人間は馬鹿だと思っていた。
けれど今、自分はきっと、今まで馬鹿にして来た他人と同じ様にみっともない泣き顔を晒し、およそレディーとは思えない大声を響かせている。

「ユーイチ?」
「おい、姉ちゃん。そりゃどんなユーイチ?」
「金のユーイチ?銀のユーイチ?」
「馬鹿にしないでよ…!佑壱様は、嵯峨崎佑壱様に決まってんじゃない!あの人に何かあったらアンタ達全員殺し、」
「「「ある訳ねぇだろうが」」」

まるで放り捨てられる様に、自分の体が地に落ちた。
ふざけた男らは艶やかなオレンジを翻し、まるで風を切るかの如き早さで駆けていく。

「皆さ〜ん、作業は一旦中止ですよー!」
「鈴木コラァ、職員室のオメーのシクラメンの鉢植え破壊されたくなけりゃ、意地でもそのシャベル止めろー!」
「これはカルマ…じゃなく、左席委員会命令ですよコラァー!」
「えーっ?何でいきなりー?!待ってよ、先生のシクラメンちゃんに酷いことしないで〜!お願い〜!」

助かった、の、だろうか?
呆然と散らばったカードへ目を落とせば、表を向いているのは奇跡的に一枚だけ。



「…これ、どっちなの?」

落ちているカードは『太陽』。けれどそれは横向きだ。





















ああ。
あの綺麗な方々は、私と同じ、人間なのだろうか。


「…なんて、綺麗…」

きらびやかな社交界、綺麗な洋服で和やかに談笑している令嬢から隠れる様に、お姫様達を見ていた。数年前までの地獄が嘘の様に、まるで戦争なんか存在しなかったかの様に。

此処はそう、地上の楽園。


「あの方が、高森糸遊さま。はぁ…どえらい素敵なお姉様…」

その中で最も美しい紅蓮の髪を持つ姫様は、母親ほど歳が離れているとは到底思えないほど、煌めいている。抱いている子供も傍らの美しい少女も、恐らく、姫様の子だろう。

あの神々しい程に美しい姫様は、高森伯爵に嫁いだ本物のお姫様なのだ。平安時代から帝に仕え、ほんの幕末までは京都に屋敷を構えていた帝王院を知らぬ者はない。

「えらい所に連れて来られた…。此処は私なんかが息をしてええ所でにゃあ、こんな訛っとんの他に誰も居らんがね…!父様の嘘つきっ」

やっと十歳、夢に見た社交界のデビューは、現実を知らしめられただけだった。見栄っ張りの両親は娘の衣装に莫大な金を投資してくれたが、問題は、出で立ちではない。

「私って、私って、でぇりゃあ、不細工だったんだがや…!は、恥ずかしい…っ!………名古屋から出た事にゃあで、知らなんだわ…」

困った。
困った。
どうしよう、住む世界が違う。お姫様達は誰も彼も背筋が良く、鈴を転がす様な声で笑い、優しそうだ。

「それに皆さん、聞いた事もない豪華なお菓子を持ってござらっせるわぁ…。私のシャチホコういろうなんて…とてもとても恥ずかしくて…見せられない…」

本当に、別世界。

「あら?そこの貴方、嵯峨崎様の娘さんね?」
「っ、え?!」
「高名な織田家の家臣であられた」

艶やかな黒髪に、きらきら煌めく簪を惜しまず何本も差した、涼やかな白の西陣織を纏う美しい人が、覗き込んできた。
人の群れから逃げる様に身を隠していた、椿の木の下。身近にこんなに美しい女性など居なかったから、呼吸を忘れてしまった程だ。

「あぁ、あの、わわわ私っ、ささささがしゃきゃ…っ!」

あ、噛んだ。死んだ。
折角話し掛けて下さったお姉様の気遣いを、名前さえまともに言えずに、潰してしまったなんて。
いや、とてもとても名乗る程の名ではない。寧ろ恥ずかしくて名乗れたもんじゃない。親を恨んでも今更だ、十年前に役所へ行けなかった自分が悪いのだ。何せ出来た事と言えば、おぎゃあおぎゃあと泣くばかり。いや、おみゃあおみゃあ、だったか?

…首を吊ろう。
十歳の誕生日に少女はそう願った。

「わたくし、いつか小田原で蒲鉾を作ってみたいの」
「ほへ?!」
「だって蒲鉾って紅白じゃない…?紅白なのに、もっちもちなのよ…」

ふぅ。
ああ、溜息まで薔薇の匂いがする様な気がする。薔薇など今日初めて見たばかりだが、百合ではこの美しい人を表すには足りないのではないかと思えた。

「でもそうね、わたくしの屋敷は温泉だらけ。貴方、温泉をご存知?厳選な温泉と聞いたから入ってみたら、お尻を火傷してしまったわ…。厳選って、熱さに強くないと入れない秘湯なのね…。流石だわ…」

それはきっと源泉ではないかと思ったが、胡蝶蘭が霞む程のきらびやかな簪と高そうな西陣織が引き立てる美に呑まれ、口から言葉は出なかった。

「貴方、こんなわたくしを応援して下さるかしら…?」
「うぉ、うぉっほい!ししししますっ、心から応援し、」
「あら、姫様?何をしてらっしゃいますの?」

Ohジーサン。
いや、ジーザスだったか?

「ごきげんよう、マダム糸遊さん」
「まぁ、マダムだなんて。レディーと呼んで下さいな、姫様」
「あら、宜しくてよ、レディー糸遊さん」

ころころと微笑む美女の隣、艶やかな紅蓮の髪を巻き上げた着物の美女もまた、微笑んでいる。今にもはち切れそうな袷の隙間から、シャチホコでなくとも反り返りそうな谷間が覗いていた。それはもう、十歳の少女ですら反り返りそうな程にけしからん谷間だ。

「大殿様が姫様を探しておられましたよ」
「あら、帝王院様が、わたくしを?どうしてかしら?」
「ふふ。さぁ、どうしてでしょうね…?」

Ohジーサン(二回目)。
本当に此処は、日本でござるか。本当に此処は、数年前まで外国と戦った血生臭い侍の国でござるのか。

「それじゃ、またお話ししましょうね、可憐さん」
「な、ななな何で名前っ?!」
「ああ、そうだったわ。わたくしは、加賀城舞子。仲良くしてね、可憐さん」

Oh…マイコ。
貴方は舞妓ではなく、楽園に舞い降りた仏の子に違いにゃあ。

残り香さえ一つ残らず吸い込まんばかりに、嵯峨崎可憐は深く息を吸い込んだ。今度我が女神にお会いする時には、シャチホコういろうなどではなく、シャチホコ蒲鉾をお待ちしようと固く心に誓って。

「貴方、嵯峨崎様のご令嬢ですって?」
「は…はいっ、さ、嵯峨崎可憐と申します…!」
「そう、私は高森糸遊と申します。それじゃ貴方、名古屋からいらしたのね」
「は、い…?」

何故だろう、先程までは目を開けていられないほど目映い笑みを浮かべていた、神々しき赤毛の姫様が、冷ややかな眼差しを向けてくる。

「江戸遷都以降、宮様を京から追いやった徳川の飼い犬が、なんて図々しいのかしら」

くすくす。
彼女はまるで、風に揺れる曼珠沙華の様な乾いた声音で笑った。とても笑顔ではなく、それは嘲る様に。

「子供だと思って見ていたけれど、同格の加賀城方から名乗らせるなんて、…名古屋には年功序列はこざいませんの?」
「ぁ…」

何とはしたない失態だ。
指摘されるまで気づかなかったなどと、この場では、あってはならない失態ではないか。
少しばかり同年代の友人より秀でていると誉められて、綺麗な洋服を着せられて、何を舞い上がっていたのだろう。惨めだ。惨めだ。外見は仕方ないとして、中身まで貧相だった。

「足元を掬われないよう、気を付けてらして。此処が何処であるか努々お忘れなきよう」
「…はい。有難う、ございます」
「ごきげんよう」

目の前の美しい人は、その着物を脱いでもきっと、美しいままなのだ。きらびやかな簪と子供の目でも判る見事な西陣織で飾っていた舞子もそう、この見窄らしい子供にさえ優しく、話し掛けてくれた。
そんな事、有り得てはならない筈なのに。



「恥ずかしい…」

消えてなくなりたい。
今すぐ、塵一つ残らず消えてなくなりたい。
それはまるで燃え盛る炎に包まれる様に、今すぐ、欠片も残らず。


「…泣いているのか?」
「っ?!」
「………それは?」

上から、囁く様な声が落ちてきた。
そんな筈はないと見上げた椿の枝の上、その長い足は見えたのだ。

「………シャ………コ…ういろ…?」
「お、おみゃあ誰?!」
「おみゃ…あ…?」

目の前に現れたそれは、本当に、同じ人間なのだろうか。
舶来人形が如く彫りの深い顔立ちで、なのにその黒髪には、恐らく椿の葉だと思われるものが幾つも散っている。

「………誰……………俺の…訊い…た?」
「は、はぁ?そんな小声じゃ何も聞こえんよっ」

怒鳴ってから、慌てて辺りを見渡した。
糸遊は既に遠くで人々に囲まれており、談笑している。舞子の姿は、此処からでは判らない。

「手!」
「…て?」
「そっち登ったるから、手ぇ貸してちょう。あ、こそっとだに、こそっと…!レディーは木登りなんてせんで…」

暫く沈黙した男が、恐る恐る右手を差し出してきた。父親のものとはまるで違う節張った大きな手、長い指に掴まった瞬間、どくりと心臓が跳ねる気配。

「っしょ」
「………軽い…」
「ありがと。私…じゃなくて、えっと、わたくしは嵯峨崎可憐と申します。ごきげんよう」
「ん」
「ん、って…。おみゃあ…じゃない、貴方様の名前を教えて下さるかしら?」
「俺………陽炎…」
「蜻蛉?」
「ん」

こくりと頷いた男の膝の上、繋いだままの手とは反対側の手が持っていた土産物を男の胸元に押し付ければ、彼は酷く印象的な眼差しを細めた。

「俺に…?」
「…恥ずかしくて皆様にはお渡し出来ないから、全部食べてええ。その代わり、パーティーが終わるまでここに居させて…」

一瞬、木漏れ日が彼の目元を照した様な気がする。
そんな筈はないと見上げた双眸が、暗さに慣れた網膜に、その本当の色を知らしめてきた。

「不思議。貴方、瞳が紅いのね」
「………」
「待って、何処に行くの?私一人じゃ下りられんで、行かんといて!」
「………気持ち悪い………じゃ…ないのか…」
「は?…あ、その瞳の事?気持ち悪いなんて、貴方、決して糸遊様の前で言っては駄目よ。高森糸遊様は瞳こそ黒いけれど生まれつき見事な赤毛で、世が世なら灰皇院のご当主だった方だがね。どえらい方だで、下手な事言ったら失礼になるよ」
「………」
「判った?」
「ん」

本当に判ったのだろうか。
男だろうが、恐ろしい顔の造形だ。こんな顔は、東京にもそう居ないのではないだろうか。髪がボサボサでなければもっと、素敵だろうに。

「おいしい?」
「…あまい」
「そりゃ、ういろうが辛いとお店が潰れてみゃあよ」
「………うま、い?」
「おみゃあさん…」

知るか食べてるのはオメーだろ・と、思ったが、流石にそんな言葉遣いは地元でもしない。
自分は自分の品のなさを自覚していて、今日また、自分の醜さと愚かさを自覚して、それでもきっと、生きていくのだろう。見栄っ張りな両親に似て、自分もまた、見栄っ張りだから。

「蜻蛉さんは、おいくつ?」
「………ん……じゅぅ…しち…」
「ふーん、意外と若いのね。糸遊様は37歳だそう。でもとてもそうは見えないわ…」
「………気持ち悪い…?」
「は?」
「喋り方…さっきと違…」
「やかましゃあ!」
「すまん」

ああ。
いつか彼女の様に、胸を張ってきらびやかな社交界の中央で、笑えたりするのだろうか。とてもそんな将来は想像出来ない。明日生きているのかさえ、今は。

「私も、結婚出来るかにゃあ。…こんな醜女、一生行かず後家だわ」
「かわいい」
「…え?」
「にゃあ」

撫でり。
大きな手が頭を撫でて、ういろうのぬめりを付けた男の唇が吊り上がるのを見た。

「なっ」
「おみゃあ」
「わ、わた、私は、可憐よ…!おみゃあでも、にゃあでもないっ!」
「………かれ…ん?」
「そう、…名前負けしてる事は判ってんの。どえらい見栄張って、何処が可憐だに…笑かす…」
「陽炎…可憐………同じ『か』…」

何と声が小さい男だろう。見た目が良いだけに哀れでならないが、彼もまた、その所為で人目を避けているのかも知れない。

「…そうね、同じだにゃ」
「にゃあ」
「可憐言うとりゃすがね、でらしつこい!」

毟り掴んだシャチホコを突っ込めば、男は無言でもぐもぐした。
きゅんとしたのはきっと母性本能だ。女とは産まれた時から母性本能があるのだ。

「トンボの癖に…」
「………トンボ…違………俺…陽炎…」
「しつこいよ。おみゃあさん大人しく、ういろう食べてりゃー」
「ん」

男は綺麗に完食し、酷くはっきりした口調でお代わりと宣った。
耐えきれず殴ってしまった事は生涯の秘密にしよう。何事も、年功序列なのだ。










16歳の時に、産まれて初めてお見合いをしました。
相手は極々平凡な容姿の、近頃急成長した企業の三男。

醜女には似合いの成金だわ。
皆が嘲笑いながら噂している事を、この私は存じております。女学校は家柄と美貌が尊ばれるものよ、聡明さなど女には不要の長物ですもの。

お父様が諦めてらっしゃる事も理解しておりますわ。
だからお父様は、お妾の元に産まれた娘を可愛がっておいでなのでしょう。あの子はきっと美しくなりますわ、だってお母上が京都の方なんですもの。


私は生まれ育った場所に骨を埋めます。
それはとても幸せな事よ。だから私の愛する故郷を、ブスしかいない地獄だなんて仰らないで、お父様。



幼い頃の初恋の御方を、この頃良く思い返しますの。
とても不思議な瞳をお持ちだった、大層綺麗なお顔のお方。

私って愚かな女でしょう?
あの美しい殿方と私が同じである筈がなかったのよ。あの心優しい大きな手がたった一度撫でて下さったからと言って、何を勘違いしたのかしら。

ねぇ、笑ってしまうでしょう?



ご存知かしら、加賀城の姫様は王子様と結ばれたのよ。
当然ですわね、だって彼女は選ばれたお姫様なのだから。美しい方は幸せになると、どんな物語でも決まっておりますもの。





私とは違って。








「ごきげんよう。ねぇ貴方、ご存知?」
「何かしら?」
「嵯峨崎様のご令嬢、お屋敷に入り込んできた強盗に襲われたそうよ」
「まぁ、…けれど彼女は、ご婚約なさったばかりではなくて?」
「でもそうね、お相手の方は沢山のお妾を囲ってらした様ですし、結婚してもあのお顔では、旦那様のお情けを頂けなかったんじゃないかしら…?」
「ほほほ、破廉恥な方」
「古い家柄だけが取り柄だったのに、こうなってしまうと哀れなものねぇ…。何処の馬の骨とも知らぬ盗人に汚された人を、誰が貰って下さるかしら」
「それはわたくし達が案じる問題ではありませんわ。だってわたくし達は嵯峨崎様とは違いますもの。だって、」






(この世には)
(神も仏も居やしないのよ)



(ご存知かしら)
(素性も知れぬ男の子供を妊娠した惨めさを)
(親から下郎と謗られる哀しさを)

(恐ろしい子供を誕生させまいと)
(体へ鋭い刃を突き刺す、痛みと恐怖を。)

(そこの貴方はご存知かしら)

(子供を天使と呼ぶそうよ)
(天使が何処に宿るのかご存知かしら)
(ギリシャ語が語源で、ヒステリックと言うそう)
(女は体の中にお宮があるのですって)
(愛しい旦那様の子供を育む為の)



(神聖なお宮が)










「私達は心身共に清らかな、レディーでしょう?」





(ねぇ、…素敵な話でしょう?)





私の宮殿は崩壊したわ。


































Record from past: The bloody hell give way.
 獄沈下





「…あ?」

ギシギシと軋む天井を見上げていた時、教室右前方、入口側のドアの真上に嵌め込まれたスピーカーが、内側から音を発てる。理由はすぐに判った。
全く、先輩の言う事を聞かない後輩ばかりで、呆れものだ。

「とっとと逃げろっつったのに、馬鹿野郎共が。隼人の奴が居て何でこうなるんだコラァ」

ガコガコ、箱形のケースがズレる過程。
数十分前までどぱどぱ勢い良く流れ込んでいた激流は、今やチョロチョロと切れの悪い小便小僧の様だ。

「…容赦ねぇな」

ガコガコと天井の箱が軋む度に、四面の内一面が崩れ落ちた壁側に、傾いていく様な気がする。
後輩達から乗せられた机の上、右手と両足が青く変色している男は固く編み込んだ赤毛を無意識に掻いた。机の真下までたっぷりと、まるで湖の中央に放り出されたかの様だ。

パラパラと、後ろから嫌な音が聞こえてくる。
振り返って確かめる必要もないだろう。今やこの箱形の世界は、いつ崩壊しても可笑しくないのだから。

「「あ」」

ドカンっ、と。
最後は見事に吹き飛んだ箱が、ドパンと湖へ落ちていった。それに続いてちゃぽんと、小さい何かが落ちた。
外れたスピーカーカバーの裏から顔を出した男は、想像を裏切らない顔だ。

「っ、ユウさん!お待たせしました!」
「おー、凄い所から出てきたやがったなぁ」
「少し手古摺りましたが、さっきの壁に比べればこんなもの俺の敵ではありません」

嵯峨崎佑壱は心の底から哀れみを込めて溜息を零す。
カルマ内では比較的冷静な男だと思ってきた錦織要が顔を覗かせているそれは、どう見ても要がギリギリ通り抜けられるサイズしかない。

「…何がしてぇんだテメーは」
「決まってるでしょう、ユウさんを此処から引き上げます」
「…マジで本物の阿呆だった」

否、合気道で柔軟性を鍛えてきた要ですら、もしかしたら厳しいだろう。
何せ、元は枕サイズのスピーカーだ。

「要」
「間に合わせですがロープも用意してます!今から投げますから、掴まって下さい!」

天井の裏側どうなっているかは判らないが、顔を覗かせている要の表情は苦しそうだ。恐らく無理な体勢であるのか、それとも単に、狭いからか。

「…要」
「す、すいません、投げ直しますから…」
「判ってんだろう?」
「今のは失敗しただけです!黙ってて下さい!」

どちらにしても、細身の要の肩ですら通り抜けられそうもない穴から投げ込まれた黒い何かは、佑壱の遥か前方に垂れ下がっている。
無理もない。あの2メートルあるかないか怪しい長さでは、教室のほぼ中央に座っている自分の届く範囲ではなかった。

「俺の事は放っとけっつったろ」
「嫌です聞こえません黙って下さい」

何せ彼らは本来、佑壱の頭上にある通風口から引き上げる予定だったのだ。
ミシリと再び軋んだ背後を肩越しに見やれば、崩壊した壁側の天井に、亀裂が入っている。

「…っ、やっぱり通風口を探します。待ってて下さい」
「おい、寂しいだろうが、面見せろ要」

判らない筈がない。だからこそ混乱しているのだろう。可哀想に。こんな男など放っておけば、幾らでも助かる方法がある筈だ。

「良いから落ち着いて聞け」
「俺は、落ち着いてます」
「早口になるのを嫌ってわざとらしく言葉を区切る奴ほど、狼狽えてるもんだ」
「我就放心了(俺は落ち着いてます)」
「不用担心。我以后有的是机会放松一下下次努力(心配すんな、方法は幾らでもある。お前らが居なくても)」
「俺は落ち着いてます!」

鼓膜が悲鳴を聞いた瞬間、どさりと言う音の後に凄まじい水飛沫を浴びた。見事にずぶ濡れだと己の体を一頻り眺め、目を見開いて唇を震わせている要を見上げたのだ。

「上が騒がしくなってきやがった。…工業科辺りか?」
「やっぱり待ってて下さい。俺が何とかしますから、動かないで」
「なぁ、要。お前は『いいこ』って奴だ。総長も良く言ってた。俺もそう思う」
「…何か変なものを食べましたね、副長。知ってますか、それ総長から渡された小説に載ってました。死亡フラグって奴ですよ」
「くはっ、全身の骨が砕けても俺なら三日でくっつく。お前なら聞かされてんだろ、その程度」
「だったらどうして立とうとしないんですか?」

賢すぎるのも難儀な話ではないか。
気づかなくて良い所は、誰も彼も良く気づいてくれる。

「血が止まってない。…足はともかく、右手は一時間以上経ってますよね」
「本当に面倒臭ぇな、テメーら」

頭上が軋む音を聞いた。
どうせなら、この口が悍しい言葉を紡ぐ前に、落ちてこい。



「俺は、」



(迷わず心臓を貫く様に。)

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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