帝王院高等学校
黒き刃を研ぎ澄ます裁判者
ああ、また、人だ。
久し振りに見た『人間』は、最後に見た人間とは違って、同じ服を着ている。

キャンキャン吠える女は居ない。
ガウガウ喚きながら蹴りつけてくる男も居ない。

「おいで、秀隆」

初めてその手から餌を食べた日、彼は囁いた。


(ひもじい)
(寂しい)
(痛い)
(苦しい)
(ひもじい)
(良い匂いがする)
(臭い)

(何と悍しい、)
(人間の匂いが犇めいている。)


「秀隆」
「ワゥ」
「わぁ、吠えた!秀皇っ、今この子鳴いたよっ」
「ああ。…偉いな、秀隆」

人の手が眼前に広がり、怯えた体が固まる。
尾は力なく垂れ、空腹で歩き続けた体は言う事を利かない。

「俺と友達になろう、秀隆」
「俺とも友達になろう、秀隆」
「俺は帝王院秀皇。お前と同じ名前だ」
「俺は榛原大空。皆の前では『僕』だけど、お前さんの前で猫を被る必要ないもんねー」
「オオゾラは性格が悪いから、近寄るな」
「お前さんには言われたくない台詞一位だなー」

けれど、伸ばされたその手が、我が身を殴る事はなかった。
きっとまた殴られる、きっとまた蹴られる、きっとまた捨てられる、きっとまた。

(そう疑い続けていたのは)
(いつだった?)



「お主、コロッケを食べた事はあるかィ?」
「クゥーン」
「サクサクでほくほくで、芋の甘さが口一杯に広がるんだ。俺はアレが好物でさァ、おかずにはちょっと物足りねェ。ありゃ、おやつだ」

神よ。
私は初めて、母親と同じ眼差しを持つ手に、撫でられた。

あの恐ろしい空腹は遥か過去の話。
あの恐ろしい孤独は遥か過去の話。
人間に震えたのはいつの話だっただろう、今では思い出す事もない。きっと今がとても幸せだからだ。

(私は子供達を愛している)
(私を名ではなく会長の犬と呼ぶ子供らを)
(真白きブレザーを纏う、子供達を)
(空より濃い青のブレザーを纏う、子供達を)
(私の世界で暮らす、子供達を)

初めて食べたそれは、温かかった。
いつも食べる餌も美味しいけれど、それはまるで愛情を固めたかの様に、甘い。

「はは!ンな急いで食べなくても、お代わりあるよィ?あ、でも皆には内緒な?俊江先生と秀隆君の、秘密。秘密、判るかァ?」
「ワフ!」
「おう!指切りげーんまん…」

生まれつき短い尾を、昔、人は『不格好』と言った。
大きな足で踏まれ、引っ張られ、吠えると必ず殴られる。時々思い出した様に与えられる餌を心待ちにして、母や兄弟から引き離された悲しみを忘れた頃。

初めて笑顔で車に乗せてくれた男女は、見知らぬ匂いで満たされた山の麓に、放り捨てた。
私と同じく捨てられたファーストフードの箱の中には、囓られたフライドチキンの骨だけが、幾つか。


遠ざかる車を追わず、私はそれを舐めた。(久し振りに嗅いだ良い匂い)
私はそれを囓る事が出来なかった。(酷い空腹に反して)(もう何日も、食べ物を口にしていなかったからだ)(片方の牙はいつか蹴られた時に抜けたまま)

そうして、歩き始めた。
誰も居ない山道を、誰も居ない所まで行こうと、一匹で。



「それさァ、格好イイ首輪だねィ。チケットのお礼に、先生の宝物をあげよっか」
「クゥーン」
「宝物、知ってる?大事なものって事。お主は飼い主………秀皇君が好きだろィ?」
「ワン」
「はは!賢いなァ、そう、先生も大好きだょ。…秘密な?」
「ワン」

吠える私を殴る者は居ない。
吠える私を誉める者しか居ない。
主人と同じ服を着ている人間達は皆、雄だ。けれど主人達と同じ色の服を着ているこの人は、雌の匂いがする。主人達とは違い、全身、真っ白だ。

「これ、祖父さんから貰ったんだ。もう80歳過ぎてるから病院には居ねェけど、凄腕の外科医でさ。俺の憧れなんだょ」
「クゥーン」
「はは、判んねェよな。ごめんごめん。…この十字架、祖父さんの弟の形見なんだと。そんな大事なもんをさ、欲しがるなんて子供って奴は欲深い阿呆だろィ?返したいけど、いっぺんやったもんは要らんっつってさ、頑固なジジイだ。母ちゃんより親父のが絶対ェジジイに似てんだよ。他人な筈なのに、変だよな?」
「ワフ」
「良し良し、イイ子だねィ、お主は。弟の直江が研修先から戻ってきたら、バシッと一発吠えてちょーだい。母ちゃんに似てうじうじしてんだよ、然も犬が苦手。くっく、泣いてチビるんじゃね?」

彼女はまるで、ステンドグラスに刻まれた天使の様だ。
彼女はまるで、もう覚えてもいない母犬の様に、優しい手を持っている。

「おっ、接着剤で貼り付けただけだけど、格好良くね?」
「クゥーン」
「やべ、マジ似合う。赤い首輪に鈍色のクロス…今からお主は、神の犬だ」

彼女はいつでも笑っている。
彼女の話をする時の飼い主と同じ、幸せな表情で。


(いつか恐怖に震え)
(彷徨い歩いた木々深い森の中)
(そこは優しい人間達が暮らす、楽園だった)
(彼らは天の使い)
(哀れな私に与えられた最後の光だ)


「シエ先生が沢山の患者さんを助けられる様に、お祈りしてくれるかィ?」
「ワン!ワンワン!」

ああ。
幸せに満たされた、良い匂いに包まれている。



(けれど私は知っていた)
(ステンドグラスに描かれた神より美しい悪魔が)
(暗い憎悪を、募らせていた事を)


(私は神の犬などではない)
 (あの悪魔は私の子供に刃を向けた)
 (か弱く小さな、私達の息子に)


(アダムを殺せ)
(ロードを殺せ)


(あれは罪深きマリアの子)









(私はこれより、騎士KRONOSの名を捨て)
(忌むべきKERBEROS【死神】になろう)

それが神への冒涜だとしても













Ready steady: Am a Black knight of justice.
 黒きを研ぎ澄ます裁判者






リハビリテーション、ケア。
外灯に照らされている看板を一瞥した男は、辺りを見渡した。住宅街からはかなり離れた海岸線沿いに、人の気配はない。

「…グループホーム立花と書いてあるが、遠野系列だな。確か二代前の院長の親族が、経営者の立花だ」
「へぇ?良くご存じで」
「?!」

人の気配はなかった筈だ。
ヘルメットに搭載された対人センサーも反応していない。

「俺の母親が立花だ。何か文句あっか、ヘルメット野郎」

けれど至近距離から響いた男の声に振り返れば、白衣を靡かせた男がニヤニヤと笑いながら立っている。日本人だ。年の頃は、40代前半だろうか。

「貴様…」
「俺が何処の何様か知りてぇって?…知らねぇ方がイイんじゃねぇかなぁ、手術中に鼻歌歌ってる外科医が居るなんて、患者は知りたくねぇだろ?」

のらりくらり、意思の強い漆黒の眼差しを歪めた男が、白衣のポケットに突っ込んだ手を抜こうとするのを見た。

「ん?」

躊躇わずジャケットの胸元から取り出したサイレンサーの引き金を弾き、男の胸を貫くのを確かめる。
きょとりと己の左胸を見つめた男は然し、悍しい笑みを浮かべて顔を上げた。

「医者を撃つなんて、粋だねぇ…。イイぜ、存在しない筈の心臓がビンビン震えてやがる。そう言うの嫌いじゃねぇ」
「な、んだ貴様は…」
「俺は『鬼』だ」

笑う男の声を聞いた瞬間、彼の意識は途切れたのだ。


「かっかっか。良くやった、『俺』」
「おいおい、108歳の癖に夜更かししてんじゃねぇよ、『俺』」

気を失った自分より背が高い男を軽々肩に担いだ白衣は、響く老人の声に呆れ半分で振り返る。
車椅子にどかりと座った男は、慣れた手つきでアスファルトを滑ってきた。

「まだ107歳だ!失礼な奴め!それでも俺か!」
「おう、設定年齢45歳の俺だよ、俺。辛うじて男の機能が残ってた頃のな」
「ぐ!…おのれ龍一郎め、憎たらしいもんを造りやがって…」
「造ったのは龍一郎でも、人格を育てたのはテメェだろうが。自業自得ってな」
「益々俺に似て来やがって…!えぇい、腰が立てばお前なんぞ三枚に捌いてやったわ」
「無理すんな、こないだぎっくり腰やったばっかだろうが。我ながら人間離れしてんな…」

深い皺こそあるものの、まだまだ元気そうな老人はシャラシャラとホイールを回し、親子ほどそっくりな白衣の足をポカリと叩く。

「さてと、可愛い曾孫の言う通り変な客が来たもんだ。コイツどうするよ、俺」
「そんな奴、海にポイ捨てしとけ。幾らアンドロイドとは言え、鬼と呼ばれたこの遠野夜刀を狙撃するなど言語道断なり!精々苦しんで死ぬが良いわ!」
「お前、アンドロイドの俺が言うのも何だが、とんだ糞爺だな。それが医者の台詞か」
「あーあー、何も聞こえんなぁ。近頃とんと耳が遠くて…。立花先生、朝飯はまだかの?」

今までの爛漫な態度が嘘の様に、ボケた年寄りと化した車椅子の男に、白衣は顎を掻いた。これは、彼のオリジナルである『遠野夜刀』の癖だ。

「然しよもや帝王院に可愛い曾孫を盗られるとはなぁ。可愛い孫に手を出しやがって、古からの因縁が平成でごうごうと燃え上がってらぁ」
「的確に主人の心情を代弁するとは優秀なロボットめ。やはり俺の育て方が良かったか、グフフ」
「無駄な情報ばっかインプットしたからだろ」
「思い返すだに忌々しい…!我が生涯のライバル帝王院鳳凰っ、東大で共に女の子を競り合った過去は、今尚忘れとらんぞっ」
「おいおい、死人をまだ恨んでんの?ねちっこい奴だな」

若き頃は稀代の天才として難関大学に現役合格した遠野と、勉強が得意ではなかったと言う帝王院鳳凰は、年齢こそ鳳凰の方が幾つか上だが、同窓生である。
鳳凰が何浪したか、遠野には興味がない。当時180cmに届くほど背が高かった遠野夜刀は、女性の視線を独り占めしていたつもりだったが、財閥の後継者と言う肩書きで、鳳凰は遠野以上にモテたのだ。背が低い癖に。顔は確かにイケメンだったが。性格は地味だった。居るか居ないか判らないくらいには。

「…ふん。可愛い弟を拐かした異国の男爵に会わせろと、この俺が何度も頭を下げたのに、帝王院の癖に使えん男だ」
「頑張ってくれてたみてぇじゃねぇの。息子の代で漸く繋ぎが取れた訳だ。その頃にはもう、鳳凰は死んでたがな」
「あれほど元気だった男が、ああもあっさり死ぬとは。…鬼だの天才だの持て囃されても、結局医者に出来る事なんか知れてる」

海岸までの緩やかな坂を降りて、漸く見えてきた小さな砂浜を見渡す。一帯は土地ごと立花が保有している為、人の気配はない。
時々住宅街からやってきた若者が不法侵入しているが、流石に新聞配達員が頑張っている時間帯にやって来る物好きは居なかった。

「お医者さんよ、捨てるのは可哀想だから埋めとくか?」
「…仕方ない、まがりなりにもグループホーム駐留医であるお前に、人殺しをさせる訳にも行かん。だが深めに埋めとけ、鼻だけ出してやれば死にはせん。この辺りは潮の流れは変わらん」
「よっしゃ、任せとけ。どっからどう見てもくたびれたオッサンにしか見えないアンドロイドの本領発揮だ」
「くたびれた…だと?生を言ってくれるじゃねぇか若造、俺は200歳まで生きる!東京を遠野の名で支配し、帝王院財閥が平伏すまで…!くっくっく、くぇーっくぇっくぇ」

アンドロイドはツッコミを華麗に放棄し、ほりほりと穴を掘り始める。ブルドーザー並みの馬力で、あっという間に完成だ。

「掘るのは得意だぜ、掘るのは」
「所詮、力任せの手術も出来んロボットだろうに。掘る掘る言うな、悲しくなる」
「悲しくなる?何で?判らない事は知る必要がある。アンドロイドには人の心が判んねぇ」
「…男色家の弟が男爵に掘られたからだ!覚えとけ!」
「へぁー。OKOK、インプットした。今の台詞はどのタイミングで使えば良い?」
「何、俺である為の基礎知識だ。今のは奇跡的なナイスタイミングだった、使い所は一切ない」
「マジか、また無駄なデータが増えた」

どかんと掘った砂浜に、ライダーズジャケットの男をグサッと突き刺した白衣は、ぺっぺっぺっと砂を掛けて、ずしずしと周りを固めていく。人とは思えない加重が掛かる砂浜に、車椅子の男は皺だらけの顔を笑みで染めた。

「くぇーっくぇっくぇ!ざまーみろ、外人が!見たか俊!ひいじーちゃんの華麗なる活躍を!くぇーっくぇっくぇ!精々草葉の蔭で臍を噛んでいろ鳳凰!死んだ貴様には曾孫を抱く事も出来んのだ!くぇーっくぇっくぇ!くぇーっくぇっくぇ!くぇーっ!!!」
「その変な笑い方で何度も振られた事と、外人が差別用語だと言う事を記憶してるが?」
「…ふん、俺の魅力が判らん女と不法侵入者に人権などない。そろそろ行くぞ、明ける前に龍一郎を連れ出す」
「はいよ、了解マスター。…モード反転、コード:アナスタシオス」

目元を手で覆った白衣が、それまでの人間臭い表情を失う過程。
何度見ても慣れないとばかりに息を吐いた男は、皺だらけの手で肉の薄い顎を撫でた。

「気分はどうだ」
「いつも通りだ。不具合は認められない」
「どれもこれも、貴様が蒔いた種だ。安らかに寝てる所悪いが、死人だろうと容赦しないのが鬼の所以だ。…この俺に力を貸して貰うぞ、男爵」
「…良いだろう、愛し子の兄よ。オリオンの身は、須く私に委ねていろ」

自分と同じ顔をした、然し眼だけがダークサファイアに染まる機械を一瞥し、男は目を閉じる。
ふわりと浮遊する感覚に全身を委ねて、脳裏を過るのは、一人。

「本当に、お前は夜人を愛してたんだな。嘘だったら墓を掘り返して貴様の骨をごりごりに磨り潰すぞ、勿論やるのは貴様だ」
「ああ。そう記憶している。私はヤヒトを愛していた。オリオンに残された、色濃い思い出のままに」
「…ふん。生きてる内にいっぺんぶん殴ってやりたかったもんだ、レヴィ=グレアム」
「すまない、ヤト」
「機械に謝られても嬉しかねぇ。…ふん、死人は英雄ってか。逃げ勝ちっつー事だな」

弟が可愛くない兄など、存在しない。






















「顔色が酷い。疲れていたんだろう」

どさりと崩れ落ちた男を片腕で受け止めて、艶やかな黒い双眸を滑らせた男は囁いた。凍りついていた表情を和らげた男は、緊張した表情で固まっている太陽の肩を叩く。

「怪我はない筈だが、大丈夫だったかい、山田君」
「…え?あ、は、はい?」
「弟がご無礼を。許して頂けますか、…天の君」

きょとりと首を傾げた俊は、くんくんと鼻を動かせた。
何をしているのだろうと瞬いた太陽は、俊が抱いている文仁へ手を伸ばした冬臣を手伝う為に足を踏み出す。

「イイ匂い」
「へ?」
「唐揚げだ」

ふんふんと鼻を動かしている俊は、然しその場から動こうとはしない。躾の行き届いた犬の様だと考えた太陽は、ひょいっと弟を抱き上げた大魔王に飛び上がる。

「そんな軽々?!」
「何か?…ああ、文仁は痩せているからねぇ、軽いもんだ。まだまだ高い高いもやってあげられるよ」
「ひぇえ」

揶揄めいた笑みを浮かべた冬臣に、流石は叶だと震えた太陽は俊の背後に回り込んだ。脱いだ二葉が佑壱ばりに筋肉質なのは知っているが、腹黒大魔王もまた、脱いだら凄いのかも知れない。

「そんなに怯えられると苛めたくなってしまうから、眉を下げるのはやめてくれないかな、山田君」
「ひ!しゅ、俊、魔王様がご乱心だー!」
「ん」
「ん。じゃないよー!もう、お前さんはマイペース過ぎる!もっと自分から行動しなさい!昨日までのお前さんみたいに!」
「昨日まで?」

がうがうと吠えていた太陽の台詞に、弟を抱えたままバスルームへ向かっていた和服が振り向いた。観察する様な眼差しに口を塞いだ太陽は頭を振ったが、しげしげと俊を見つめた男は、ややあって神妙に頷いたのだ。

「そうか、それで君は私の名前を教えていたのか。変だとは思ったんだ、面識はある筈なのに」
「…ほんとやだ、この兄弟。頭の中にパソコンが入ってる…」
「それは二葉と私の事かな?ふふ、私は似ているとは思った事もないけれど、私達は似ているかい?」

随分、邪気のない笑みだと思った。
二葉の鉄壁過ぎる愛想笑いに似た笑みを張り付けている男が、子供の様な満面の笑みを浮かべているのは、はっきり言って何処か胡散臭い。然し元々柔らかい口調が少し弾んでいるのは、何だろう。判らないのは気持ちが悪い。

けれど、嫌な気分ではなかった。

「少し前に大殿がお風呂に入っていたから、お湯は溜めたままだよ。陛下も入るかと思ったからねぇ」
「陛下…。何か変な感じ、俺らにとって陛下は神帝の事だから」
「ああ、そうか。帝王院出身の生徒にとっては当代の中央委員会会長を指す代名詞、年代が違えば無理ないねぇ。今の陛下はどう?気難しい方だが、慕われているかな?」
「気難しい?うーん、難しいと言われれば難しいと思いますけど、俊の前じゃ、躾のなってない犬みたいなもんかもなー」
「犬、ねぇ」
「構って欲しい構って欲しいって感じで、俊の事しか見えてないってゆーか。逆に駄目犬がはしゃいでる様にしか見えない俊は、カイ庶務なんか見えてないって感じで。何かツンデレだったかも。オタクの癖に」

ちらりと俊を流し見た太陽は、ふんふん匂いを嗅いではうっとり目を閉じている俊が廊下に置かれていた消火器に躓いて、ぽてっと転ぶのを見たのだ。
ぶふっと吹き出したのは太陽だけではなく、魔王もらしい。

「な、何してんの、俊…!あはは、そんな隅っこ歩いてるからだよー。あはは」
「しっかりしている様で、やはり年相応な所もある。何だか、懐かしい顔を思い出したよ。あの子も、今の君の様に、凛々しい表情で並木道を歩いていた時、焼き芋を焼いていた焚き火で尻尾が燃えて慌てていた事がある」
「焚き火?尻尾?それって、人間じゃない?」
「そう、あの子は犬だ。聡明で心優しい、私達の友人だった。いつからか姿を見なくなって…ああ、そうだ、あれは陛下が居なくなった後だった」

漸く辿り着いたらしい。
扉のない入口に、『湯』と書かれた暖簾が下げられている。旅館の大浴場を思い浮かべた太陽は頬を染め、浴衣の二葉を思い浮かべた。によによしてしまう唇を健気に引き締めているが、健全な男子である。
人体模型ばりに筋が浮き立つ低脂肪から目を逸らし、案外寝汚い二葉の太股が浴衣の裾から飛び出している光景を脳内再生し、太陽の鼻の下はにょりんと伸びた。

「ラウンジゲートに比べればこじんまりしているけれど、山から引いた地下水を沸かしている硬水だそうだよ。マグネシウムが豊富かもねぇ」
「え?かもって、怪しくないですか?」
「うん、調べた訳ではないからねぇ」

にこっと無邪気に微笑んだ男に、太陽は心の中で頭突きを放つ。
脳内で魔王を倒した太陽はそのまま俊の手を引いて暖簾を潜り、そこで動きを止めたのだ。

「どうしたんだい、山田君…?」
「誰かと思えば、そなたらか」

旅館を完全再現された脱衣場に、タオルを首に掛けた男が佇んでいる。立派すぎる股間を曝け出した男らしい姿で、彼は腰に手を当て、ぐびぐび牛乳を飲んでいた。

「理事、長…」
「如何したブラックジャック、そうか、私の飲むヨーグルトが気になるのか?一口やろう」

恐ろしい程の美貌の男が、濡れそぼり色濃いブロンドから水滴を滴らせながら、暖簾を潜ったまま動きを止めている太陽と冬臣の元へ近づいてくる。
無駄に長過ぎる足、無駄に整いすぎた顔の、唇の上だけが白い。白髭だ。瓶入り飲むヨーグルトが、くっくりついている。

「…む?そこに見えるは、秀皇…の様な、龍一郎の様な…」
「タイヨー、何でこの人のちんちんはちんちんと呼ぶのが憚れるんだ?これは何と呼ぶべきだろう…ツィンツィンか?」

ああ、コイツは何を言っているのか。
混乱したまま背後へ頭突きを放った山田太陽はそのまま逃げようとしたが、崩れ落ちた俊に足を取られて盛大にスッ転んだ。

「冬臣、ブラックジャックはでんぐり返しがしたかったのか?でんぐり返しは体育館でやるべきだ」
「…はぁ、まぁ、仰る通り、見事なでんぐり返しでしたねぇ」

羨ましいほど背が高い二人から見下ろされた山田太陽は、M字開脚のまま廊下の壁で停止し、ちょろりと滲んだ涙を拭う。何が何だか判らない。判らないけれど、ピンチなのだろうか。その割りにうなじより、スッ転んだ時に転がって壁で打った背中の方が痛い。
ごろごろと廊下を転げ、大股を開いた下半身が上を向いている太陽は、逆立ちを失敗した様な態勢で暫く放心する。正に現実逃避だ。開いたままの足を閉じる気力もない。

「…お母さん…」

追い詰められた時に思春期の子供が言ってしまう台詞ナンバーワンを呟いた平凡の脳裏で、キラッと白い歯を光らせたムキムキマッチョな赤毛が親指を立てている。肌は褐色でも歯は白い、芸能人は歯が命。
残念ながらお前の母親は何処ぞのボスワンコではなく、その辺の魔女だ。主婦と言う名の日本の最終兵器だ。安売りと聞いたら血が騒ぐ主婦。幾ら男が偉ぶろうと、飯抜き・家事放棄・三行半と言う三種の神器を振りかざし、いつか旅立ってしまうかも知れない、彼女らは自由の鳥。

「大丈夫か、タイヨー」
「何を騒いでいる、帝都。折角アンダーラインから取り寄せたフライドチキンが、うっかり湯船に落ちただろうが」

痛すぎる事でカルマの犬に恐れられている頭突きから華麗に復活したカルマ総長の手が、逆様に倒れている太陽の視界に映り込んだ。
それと同時に、暖簾から顔を出している全裸の理事長と魔王の間から、にゅっと顔を出したのは、やはり全裸の学園長だ。

「む」
「む。今度は俺と変わらない、普通のちんちん」
「あはは…俊や、あんまちんちんちんちん言わないでくんない?」
「ごめん」
「…俊?」

ああ、神よ。否、帝王院財閥が誇る帝王院駿河会長よ。
出来る事なら左席委員会副会長としてそこそこ頑張っている生徒の目の前に、それをぶらぶらさせるのはやめてくれないか。

「しゅ、俊?!何とした事だ!ああ、俊、俊ーっ!!!」
「ゲフ」
「私が判るか!お前の、お前を産んだ祖父ちゃんだぞ、俊!俺がお前の…!お祖父ちゃんだ、俊!!!」

産んでねぇ。
学園長以外のツッコミは、素っ裸で泣き崩れた帝王院財閥会長の男泣きで、華麗に掻き消えた。


ともあれ、濡れ鼠と化した祖父を暗殺者の様な鋭い眼差しで見つめた男の台詞は、ある意味想像を裏切らなかったと言えよう。


「唐揚げの匂いがする」
「…何と!腹が減っているのか、孫よ!」
「ん」

ぺこりと頷いた左席会長の腹の音は、学園長の雄叫びを掻き消す轟音だったと追記しておく。


その音は同時刻、部活棟地下で励んでいた一年Sクラス教室に届き、嵯峨崎佑壱が秘かに冷や汗を垂れ流しながらロッカーを押さえる羽目になった原因であり、また同時刻、アンダーライン地下三階で下水に塗れていた高坂日向の耳にも届いたとされているが、真相は定かではない。


「…俊、折角体洗ったのにお風呂の中でまたベタベタになっちゃうなんて、俺は少しも思わなかったよ」
「じーちゃん、タイヨーは飲むヨーグルトよりお茶の方がイイみたい?」
「良し良しじーちゃんに任せておけ、俊。冬臣、山田君に1等級の玉露を淹れてやりなさい。何故ならば山田君は私の孫でもあり、俊の大切な親友だからな」
「承知しました大殿。天の宮様、それはもう骨です。いつまでも舐めず、新しいチキンをどうぞ」
「見事だナイト、骨の髄までしゃぶり尽くすとは…そなたこそ真のノアに相応しい」

スコーピオ三階、壁面に『室内露天風呂』と書かれたツッコミ所しかない大浴場の天井には、太陽と月と星が描かれていた。
その下、ごつごつした岩で囲まれた湯船に浸かる男共に囲まれ、ちびちびフライドチキンを囓る左席委員会副会長は、半分以上残ったチキンを会長の口へ突っ込む事で、『ツッコミ』を果たしたのである。

「自分の分を分け与えるとは、何と慈悲深い子だ…。天晴!」
「大殿、お茶が入りました。やはり脱衣場に冷蔵庫を備えるのは、素晴らしいお考えですねぇ」
「駿河、ナイトのしゃぶった骨を見ろ。象牙の如く滑らかだ」
「さーせん、唐揚げお代わりありますかァ?」

山田太陽の夜明けはかなり遠そうだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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