帝王院高等学校
剥いて!剥いて!墨袋は腹の底!
「寮は解放されていました。一般人が紛れ込んでいる為、陛下をお連れする訳にはいきません」

暗闇に聳える煉瓦造りの深紅の塔、その真下、二階に玄関を有した時計台の階段脇に身を潜めた彼らは、綿密に話し合っていた。
株式会社ワラショク、臨時役員総会である。

「そりゃそうだろうねー。つーか僕も人前には出られない身だし、とりあえずアンダーラインから始めよっか?」
「地下のセキュリティゲートには、リング認証システムが搭載されています。認証を必要としないゲートは解放されているので、全域を巡るには指輪が必要でしょう」
「指輪か。僕のクロノスリングは東條君に渡ってるし…」
「おや?然し左席代理は神崎と言う生徒では?」
「秀隆だ」

漸く口を開いた男は、壁に背を凭れ掛けた姿で闇に溶ける前髪を掻き上げた。そこに居るのに居ない様に思わせる、夜に愛された男だ。

「暫く考えてみたが、俺達が持ち出したのはクロノスリング以外に、俺のクラウンリングと秀隆のリングだったな?」
「え?あ、あ!そっか、秀隆の尻尾につけてた、テールリング…!」
「テールリング?首輪ではなく?」

首を傾げた鬼専務に、社長はコクコク頷いた。
在学時に飼育していた野良のドーベルマンは雑種だろうが、あの日まで家族の様に皆から愛されて暮らしていたのだ。

「表向き、僕が会長だって公言してたから、秀隆が左席会長だなんて思ってた奴は居ないだろうけどね。僕らが居ない間、散歩代わりに学園内の見回りをしてくれてた秀隆に、秀皇がプレゼントしたんだよ」
「さて、私はとんと覚えがありませんが…。では、犬にクロノスのマスターリングを与えていたんですか?」
「そう。何回か付けたんだけど嫌そうで、結局、首輪にクロノス権限を与えた。秀隆の散歩コースはグランドゲートの管制室に知らされてたから、秀隆が吠えれば声紋システムが起動する仕組みだったんだ」

そのお陰で未然に防げた事故や喧嘩もあったと、社長は我が事の様に頬を緩める。賢い犬だったと、懐かしむ様に。

「あの時は今程セキュリティゲートはなかったけど、逆にスコーピオは入口にもセキュリティゲートがあったろ?…キングを不審に思った学園長が、僕らを庇う様に設置してくれてさ」
「ああ…そうでしたね…」
「秀隆まで閉じ込めるのは可哀想だったから、せめて散歩くらいはさせてあげたくて、クロノス権限を与えたんだ。けど秀隆が出入りする時に、キングは堂々とスコーピオに入ってきた。我が物顔で…思い出すだけでムカムカするよ」

親友の為と言いながら、あの人間離れした綺麗な顔に逆上せて、自分から誘ったのが始まりだった。山田大空は己のしでかした過ちをひそりと悔やみつつ、痛ましげに肩を撫でてくる専務の手を軽く叩く。

「僕なら大丈夫だから。ほら、一ノ瀬に小林先輩が言ってたでしょ?尻軽は後悔するって。あれほんとだねー」
「そんな、坊っちゃんは確かに節操なしですが、灰皇院の当主たる者そのくらいなければ!」
「そ、そうですかー」
「自宅に俺のクラウンリングはあった。俊の本棚に」

囁く声に専務と社長は揃って目を向けた。

「でも秀隆のクロノスリングはなかった?」
「恐らく。俺の記憶にないと言う事は、秀隆の時に」
「…じゃ、神崎隼人を選んだのは遠野秀隆って事か。確かに、あの子の方が、扱い難そうな分、変な意味で使えたかもねー」
「遠野秀隆の人格は秀隆を完全模写したつもりだった。三歳の俊に催眠を掛けさせてから、俺が目覚められたのは、新月を挟んで数日間だけ。それ以外の記憶は、残っていない」
「恐ろしい力をお持ちの様ですねぇ、殿下は…」
「…」
「すみません、お気に障りましたか?」
「いや、…悪い。全ては俺の責任だ。迷惑を掛ける」

いつも居るのか居ないのか判らなかった総務課長の遠野秀隆も口数の少ない男だったが、そうだ、そもそも帝王院秀皇も若い頃は大人しかったのだ。
行動はともかく、口数は余りにも少なかった。

「…ほんと、俊君は明るく育ってくれたよ。お前さん勉強は出来たけどそれ以外は不器用だったもんねー。声を変える事も出来なかったし、結構、意地が悪かったし」
「そうか?けど、お前には言われたくないな…。なぁ、小林」
「そうですねぇ、陛下はご自分に正直な方でしたが、坊っちゃんは別の意味で不器用な方でした」
「えー?そうだっけ?」
「そうですよ。心配掛けたくないと言う気持ちは判らなくもないですが、キングの事にしても、俊江先生の事にしても、私はいつも終わってから聞かされるんです。どれほど悔やんだか…」

当時中央委員会副会長としての職務に追われていた男は、二人が失踪した以降も学園に残り、卒業まで耐え続けたと言う。
神威とその母親と共に日本を離れたキングから解放された一ノ瀬は、何度も退学を考えたが、小林の説得もあり無事卒業を果たした。その後の彼は、起業したばかりのワラショクグループを育て上げるべく奮闘し、今の『鬼常務』へと変貌を遂げたのだ。

「小林先輩と一ノ瀬のお陰だね。…あの頃は皆でこうしてるなんてさ、考えもしなかったよー。僕が一ノ瀬に嫌われてるのは仕方ない事だと思うし、僕だって一ノ瀬が嫌いだったもん。でも、小林常務は大好きだよ。怒ると意外に怖いし、僕の愛人に『下品な女』なんて凄んで泣かせた事もあるけどねー」
「おや、どうも結婚してから私に似てきた様で、すみません。今ではドラマの浮気相手に『くたばれ間男』と管を巻いています」
「もうほんと薫ちゃん可愛い。幸せにしてあげてね、小林専務。泣かしたらボーナスカット」
「お任せ下さい。泣かせるのは布団の中だけです」

真顔で宣った専務夫妻の寝室は、和室らしい。
流石は『人間嫌い』を地で行った氷炎の君である。人生でたった一人、故に初恋と言っても構わない相手と、真面目に同性結婚しただけはある。

そして盛大過ぎる結婚式に招かれた本社社員がポカーンとしていたのも、今になっては良い思い出だ。
対外的な理由で未だに一ノ瀬姓を名乗っている常務だが、勤務時間が終われば、ワラショクモールの食品売り場で老眼鏡を光らせ、しっかり割引シールがついた食材を買い込んでいる。売り場のパートのおばちゃんから『奥さん』と呼ばれており、新人店長は常務の名前が奥さんだと思っていたそうだ。

年に数回行われる系列全店の店長会議に顔を出した常務が一ノ瀬だと知った店長は、混乱しパートのおばちゃんを叱ったそうだが、その時に理由を聞いて三日寝込んだらしい。
彼はそれまでホモを知らなかったのだろう。御愁傷様です。

「で、どうするの秀皇。小林専務の携帯に変な電話してきたのが秀隆だとして、僕は秀隆だったお前さんに予言が出来るなんて知らなかったけど?」
「今現在覚えていない事を聞かれても、答えられる筈がないだろう?キーワードはボス、勇者、だったか?」
「はい。すみません、メモを取っておけば良かった事に後から気づきまして…」
「予言…予言、か。まるで初代の伝説だ」
「秀皇?」

呟いた男の台詞に、社員は専務と顔を見合わせた。

「その初代と言うのは、始祖、帝王院天元様の事ですか?」
「良く知っているな。そう、平安時代何処からともなく現れたとされる、呪い師だ。安倍晴明の知られざる兄弟とも言われているらしい」
「…そう言えば、図書館の持ち出し禁止図書に家系図があったよね。はっきり残ってるのは安土桃山以降だけど、それ以前って、その天元さんしか判ってないんだろ?」
「その筈だ。彼は実に様々な術を使い、当時の帝の信頼を得たと聞いている。………確か、腹に星型の痣があったとか何とか…」
「星ですか?」
「何それ、僕はそんな話、知らないよ?」
「俺にも良く判らないんだ。確か、母さんが嫁いだ頃に聞いた話じゃなかったか…。誰から聞いたかまでは知らないが」
「隆子おばさん?学園長じゃなくて隆子おばさんから聞いたの?」
「ああ」

答えのない話を続けても意味はない。
とりあえず心当たりを探すしかないと宣った会長の言葉で、ワラショク取締役一同は神妙に頷いた。

「予言は頭の片隅に残しておこう。どっかで寝てたり浮気してるだけならいいけど、倒れてたりしたら困るよ。我が社の優秀な取締役だもん」
「坊っちゃん?私の妻は浮気などしませんよ?坊っちゃんとは違うので」
「秀皇、結婚してから小林専務が俺に冷たくなった気がしない?」
「自業自得だろう?悪いがオオゾラ、俺はお前の下半身だけは信じられない。妻を泣かせる男は最低だぞ?」
「陛下の仰る通りです。この小林、坊っちゃんの節操については既に諦めておりますからねぇ。離婚なさる時は、奥様の味方につかせて頂きます。ご安心下さい、太陽坊っちゃんが社長の後を継いで下さいます」

近頃生え際が怪しい山田家大黒柱は、額に浮かぶ青筋を笑顔で耐えつつ、固く誓った。

例え旦那の前で他人の男をイケメンだの好きだの堂々と宣う魔女であっても、シャツに口紅をつけて帰宅しても『あーやだやだ、これ落ちないんだわ』とほざいて洗濯機に投げ込む様な魔女であっても。

長い文通を通じて初めて顔を合わせた時に、『うっわ、女癖悪そうな顔』などと宣った、唯一の自慢は巨乳だけの平凡な女だとしても。


「…まず蟹道楽で機嫌取って、旅行に連れていこう」

可愛い息子共々出ていかれるのだけは、何としても阻止せねば。







さりとて、ワラショク社長が密かに拳を固め、最も近いアンダーライン入口へ向かったその時、入れ違いでスコーピオ正面階段へやってきた人影は、二つ。

随分よれよれの二人は軍隊の行進宜しく揃ってやって来たが、階段へ一歩踏み出した瞬間、足取りが悪くなった。

「どうしよう、俊。何か俺が緊張してきたー」
「タイヨー」
「だって生まれてこの方会った事もないお祖母さんに会うんだよ…?!ご覧よ俊、上に見える無駄にでっかい文字盤を」

ビシッと枯葉だらけの山田太陽が指差す先、土汚れした顔で頭上を見上げた遠野俊の首の骨がポキッと折れる音が響いたが、本人も太陽も気づかない。
深紅の塔の最上部、まるで満月の如く大きな羅針盤は青白くライトアップされており、厳かに時間を告げている。

「…そろそろ5時だよ。こんな時間に入れてくれるかな?」
「タイヨー」
「それにもし、万一、理事長が豹変して襲ってきたら…!」
「タイヨー」
「その時はこの俺がお前さんを守るから…っ、って、あれ?俊?」

デコをきゅぴんと光らせ拳を固めた平凡は、小刻みに震えている極道顔を見遣り、太めの眉を寄せた。表情こそいつも通り人相最悪のアサシンだが、その膝は小刻みに震えている。何処となく顔色も悪く、だらだらと汗を流している様だ。

「タイヨー」
「お前さんさっきからタイヨーしか言ってないよ?大丈夫かい?」
「痛い」
「痛い…?何処が?!」
「左側の乳首」
「心臓?!」
「さっき服の中に何かが入ってきたんだ」

がばっとシャツを捲し上げた俊の足元に、ぽてっと何かが落ちた。それを認めた太陽が目を見開けば、さささと素早く逃げていく。

「え?今の赤いの、何?」
「タイヨー、俺の左側の乳首が囓られてる」
「うっそ?!」

己の胸元を切なげに見つめている俊に慌てて近づけば、確かに言葉通り、俊の乳首が、片方だけ出血していた。針で刺した様な穴から、ぷっくりと血が浮かび上がっている程度だ。

「もしかしてさっきの、ネズミ?黒いネズミは見た事あるけど、ネズミって人間の乳首噛むの?!」
「そうか、ミッキーに噛まれたなら、吝かではない」
「そこは吝か過ぎるだろ。…うーん、血が出てる以外、平気そうだねー。気をつけてよ、俊。この学園には、ゴミを溶かしちゃう怖いネズミが居るからね」
「判った。見つけたらゴミを食べさせてあげればイイんだな?」
「え?それは判んないけど…ネズミの好物はチーズじゃない?」
「ん」

真顔で頷いた俊に、身構えていた太陽の肩から力が抜けた。
何故か他人の太陽が緊張していたが、張本人は乳首を噛まれた以外は平然としており、さくさくと階段を登っていくではないか。

馬鹿らしくなった太陽も階段を駆け上がり、案内をする為に俊の一歩前に出た。それと同時に玄関のドアに迎えられる。

「昔はこのドアもセキュリティゲートだったんだって。学園長代理は車椅子で移動してるから、このドアは使わないんだ。大抵エレベータで下に降りて、階段の脇にある通用口から出てくるんだよ」
「そうか」
「ほら、あっちの小道がスロープになってるだろ?あれを伝ってくと、ヴァルゴ庭園に出る。学園長代理はその庭園で、良く光王子の親衛隊達とお茶してたり、並木道を散歩してたりするんだ。一度だけ神帝陛下が学園長代理の車椅子を押して、グランドゲートまで散歩してたの見た事があるよ」

エントランスのドアを前に、階段側へ向き直ったまま、太陽は俊を見た。あれは太陽が中等部に進級し暫く経った頃の話だが、仮面を被った長い銀髪の長身が歩いていたと、騒ぎになった事がある。
彼が神帝として現れたのは太陽が中等部二年に進級した始業式典からだったが、今になれば、あの頃にはもう、あの男は日本に居たのだ。

「大丈夫そうなら、行こっか」
「ん」

ドアに手を掛けた太陽は、重みのある重厚な造りのドアへ、体ごと力を込める。理事や来賓が宿泊している為、24時間体制で解放されている事は知っていた。
ぎしぎしと音を発てて開いたドアへ二人が足を踏み入れれば、シャンデリアと赤絨毯に迎えられる。何度見ても美しい、スコーピオのエントランスだ。

「おや?」
「あ?」
「ふぁ?」

ドアを抜けてすぐホールになっているエントランスは、右手に受付の様なカウンターがある。今は無人だが、日中は必ずコンシェルジュが待機していた筈だ。
そんなホールの最奥にはエレベーターが一基、その脇に階段がある。エレベーターホールでもあるエントランスの中央、賓客を招く為のものと思われる丸いテーブルを囲むソファに、見慣れた顔はあったのだ。それはもう、山田太陽が回れ右をしたくなった程に、見知った顔が。

「来たばかりで何処に行くのかな、時の君」
「あはは、いやー、ちょいと用事を思い出しちゃってー」
「そんなつれない事を言わないで、一緒にお茶漬けを食べよう。朝食には早いけれど、育ち盛りはお腹が空いているだろう?」
「いや、空いてません」

きりっと太陽が吐き捨てた瞬間、きゅるるん、と言う音が響いた。背後の俊を睨まなかったのは、その音が太陽の腹から響いた音だったからだ。

「おや?後ろに居られるのは、陛下?先程出ていかれたのではなかったのですか?」
「はい?陛下?」

太陽が苦手としている腹黒大魔王の隣、その美貌からは想像も出来ない豪快な箸捌きで丼を掻き込んでいる長髪は、一度顔を上げたが太陽を見るなり嫌そうな顔で目を逸らしてからは、カッカッカッとお茶漬けを掻き込んでいる。
大きめの急須を箸を咥えたまま持ち上げ、空いた丼に注ぐ姿はまるで、太陽の母親の様だ。堂に入っている。

「陛下ではないとすれば、」
「ちょ、あの、近いんですけど!俊に近寄らないでくれます?!」

俊より指一本程だろうか、背が高い和服が太陽の後ろを覗こうとしていた。ぐいぐいと和服の帯を押し返しながら怒鳴れば、向こうから噴き出す音が聞こえてくる。
何事かと太陽が目を丸めれば、叶冬臣の表情が若干凍ったのを見たのだ。ほんの一瞬だが、確かに。

「…そう、眼鏡を掛けていないとお父上に良く似ておられるねぇ」
「あ、そっか。叶先輩、秀隆さんの同級生?だったんでしたっけ?」
「そうだよ。初等部から高等部までずっと、同じ学舎で育った。…どうだね、お腹が空いていないかい?」

太陽に語り掛けている様で、遠い何処かを見つめている様な表情の男に、太陽は瞬いた。背後の俊を見れば、俊は真っ直ぐ太陽を見つめている。
選択するのは、太陽の役目らしい。

「俊、ご飯食べたい?」

尋ねる必要などない筈だ。
教室に居た頃から、俊が何度も腹を鳴らしていた事を知っている。つまり選択肢などないのだ。
それなのにわざわざ太陽が俊へ尋ねたのは、断りたいと言う気持ちが何処かにあったからかも知れない。自分で断る勇気がないから、だろうか。

「食事の前に着替えたい」

漸く口を開いた俊の声は、いつも聞いているそれの何十倍も低く、印象的に響いた。腰から砕けそうな太陽は足を踏ん張ったが、和服の後ろ、ガタタンと言う音はきっと、二葉のもう一人の兄が放ったものだろう。

「…湯殿へ案内しよう。お召し替えは私が用意するから、二人で入っておいで」

道案内する様に離れた冬臣の言葉に、頷く俊を一瞥した太陽は肩から力を抜く。ちらりと盗み見た美貌の男は、先程までの粗野な態度が嘘の様に、背を正してこちらを窺っていた。

目が合った様な気がした太陽はパッと目を伏せたが、どうやら彼が見つめているのは太陽の隣の俊らしい。微かにぴりっとした雰囲気を感じた太陽は、叶文仁の放つ緊張感に呑まれ掛けた。

「ラウンジゲート行かなくて良かったね、俊。ここのお風呂ならきっと豪華で静かだよ」
「そうか」
「さっぱりしてから会った方がいいもんね。俺達、汚れてるから」

顔を引き締めた太陽は自分が無駄に喋っている事を自覚しながら、赤絨毯を進んでいく背を眺めた。何処まで信用して良いのか判らないのは、疚しいからだ。
二葉の身内を前に、罪悪感がないとは言い切れない。少なくとも今の自分は。

「…あの人、二葉先輩のお兄さんだよ。冬臣さん。あっちは、文仁さん」
「ん」
「冬臣さんは、十口の今の当主…」

こそこそと俊の近くで囁いた太陽に、足を止めた長身がゆったりと振り向いた。

「正式な自己紹介はまだでしたねぇ。十口流本家家元、叶冬臣と申します。と言っても、本来当主だった叶芙蓉は祖父兄なので、西の皇は断絶したも同然ですが…」
「愛しい」

冬臣の言葉を遮る様に、彼は囁いたのだ。
世界を凍らせる様に、ともすれば世界さえ跪かせる様に、まるで時を止めるかの様に。

「愛しい、哀しい、悔しい、憎い、どうして引き換えねばならなかった、どうせならこの命を捧げたのに」
「…俊?」
「苦しい、辛い、壊したい、抱き締めたい、愛している、殺してしまいたい。どうして大切なものばかり失っていく。これ以上何を失えば罪は消える。どうしてどうしてどうして、平凡な生活すら、失わなければならない。産まれてこなかったら」

囁く様に、歌う様に、けれど淡々と、語り聞かせる朗読の様に。
漆黒は澱みなく言葉を奏でていく。指揮者の様に、演奏者の様に、深いカオスブラックを湛えて。

「お前さえ産まれなかったら、失わずに済んだのに」
「俊!」

凍りついた冬臣の表情を、太陽は見ていない。
ただ単に、無意識だ。力加減などなく引っ叩いた俊の頬が、じわじわと赤く変色していくのを見た。じんじんと痺れる己の右手が信じられない。

「ご…ごめん、俊」
「いや」
「ほ、ほんと、ごめん!」

首を振った俊は構わず歩き出そうとしている。
混乱に陥った太陽は俊の手を掴み、ぱくぱくと唇を震わせて、ふるふると頭を振ったのだ。

「で、も。今のって、貴葉さんの事、だろ?じゃ、二葉先輩が産まれて来なければ良かったって事、なの?ね、何で、そんな事言うの…」
「山田太陽君、君は…」
「二度と言わないで。ネイちゃんが産まれて来なければ良かったなんて、俺の前で、二度と言わないで…!」

胸ぐらを掴み、訴え掛ける様に悲痛な声を放った太陽を見詰めた眼差しが、ゆらりと太陽から離れていく。

「俺の親友は、とても愛情深くて、人の為に怒れる子だ。…悲しい、悔しい、愛しい、抱き締めたい、愛している、大切な俺の、宝物」

太陽の頬を、俊は撫でた。
動かない表情に反して優しく、宥める様に。慈しむ様に。

「カルマとは背負うものではなく、積み上げていくものだ。カルマとは枷ではなく道標だ。けれど人はそれが出来ない。何故ならば人は全である事を受け入れず個として、善である事を求めて悪へ堕ちていく」

俊の言葉は、太陽には殆ど判らなかった。

「…想像以上、か」
「愛しい、判っている、理性では納得しているのにどうして、本能が許していない。助けて、自分から遠ざけて、愛しい、愛しい、でも壊してしまう、守らなければ、ああけれど、消えてしまえば良いのに、全て、自分も」
「そう、消えるのは私だ。二葉は何も悪くない。産まれてきてくれて良かった。…なのにどうして、上手く行かないんだろうねぇ」
「人は欠如している。何故ならば人は、神にはなれない。神から産まれたからだ」
「全く、その通りですねぇ」

けれど淡く息を吐いた男には判ったのだろう。動けない太陽の後ろを見遣り、苦笑いを浮かべ、ふるりと首を振った。


「…やめなさい文仁。お前では、手に負えない方だ」

恐る恐る振り向いた太陽の目に、能面の様に表情を削ぎ落とした叶文仁の、しなやかな体躯が映り込む。振り向きもしない俊は気づいているのか否か、文仁の双眸は真っ直ぐ、俊の後頭部を見据えている様だ。

「哀れな、大丈夫、一人じゃない、愛しい、何も出来ない、どうして兄さんばかり苦労する、どうして弟ばかり苦労する、俺には何も出来ない、愛しい、悔しい、助けて欲しい、許さない、家族を悲しませる全てを、消し去ってでも」

また、囁いた俊は緩やかに背後を振り返り、素早い動きで殴り掛かってきた文仁へ唇を吊り上げた。
やめろと鋭く叫ぶ冬臣の声を認識する前に飛び出した太陽が、けれど文仁の拳を受ける事は、ついぞない。



「Close your eyes.」

光一つ存在しない新月の眼差しが、細まった。






















「全員のシャツを繋げましたか?」
「うん」

ほぼ全ての人間が、暗い天井裏に登った事を確認した錦織要の台詞に、スマホのライトで隈無く辺りを確かめていた生徒らは声を合わせた。
裕也と健吾が皆のシャツを繋いで作った即席梯子の長さは人一人分の長さ程度だが、充分だろう。

「やっぱり駄目だあ。ダストシュートらしき管が見えてるのに、入口が見えないよお」
「教室が綺麗にはまってるからね…。校舎の地下があったなんて、知りませんでした」
「いんちょが知らなくても仕方ないよお。隼人君だってえ、部活棟の下があるなんて知らなかったもんねえ。エントランスゲートから第三と第二の分岐点に降りる仕組みは知ってたし、第三側からアンダーラインに出れる道があるのも知ったけどさあ」
「おれも普段地下道使ってるから知ってるけど、第二キャノンから北寮の手前にあるアンダーライン口まで遊歩道で繋がってて、散歩コースなんだよ。ユーさんが夜、たまに走ってるんだ」

教室の天上裏にも想像通り巨大なレールは存在した。然し壁面のレールとは違い、対で噛み合ったレールがある。つまり天井裏にもまた、天井があったのだ。
丁度噛み合ったレールがはまりこんだ部分に、ダストシュートだろうと思われる鉄板が見える。叩き壊せれば飛び込めるものの、レールが塞ぐ様に嵌まり込んでいる所為で、どうにもならない。

「加賀城君、地下ってどうなってるの?」
「野上も今度行ってみたら?第三キャノンは突き当たりになってて、第四キャノンとの中間にいつもセキュリティゲートが降りてるんだ。だからおれもハヤトさんも、その向こう側を知らないんだよ。ねっ、ハヤトさん」
「第四には下に降りる階段なんてないもんねえ。むさ苦しい部活棟なんか用事ないからあ、隼人君は何にも判んないのお」
「部活棟は一階のエレベーターの裏に登り階段があって、掃除道具入れと勘違いする様なドアがあるんだ。多分そっちが下り階段で、地下に降りれるんじゃないかな」

従兄がバスケ部なだけに、獅楼は部活棟に詳しいらしい。
進学科は勿論、普通科も部活動は任意なので、知らない人間が居るのも無理はない。
中等部時代に庶民愛好会を発足し、東雲村崎の手引きで空いていた部室を使っていた太陽ならともかく、この場で部活棟に詳しい者は皆無だ。庶民愛好会部室を左席委員会の拠点として利用していたが、三階にあるので、左席委員会メンバーは中央キャノン四階から伸びている渡り廊下を使っていた。なので三階より下の事は、ほぼ知らない。

「普段絶対に見られない教室の裏側に居るなんて、ちょっとドキドキするね」
「佐倉は呑気だなぁ。目尾は暗いとこが苦手だろ?大丈夫?」
「違うんだ…。暗いとこじゃなくて…狭いのが苦手なんだよ…」

天井裏に登る時に使用した水道管らしき管は、丁度嵌まり込んでいる教室と壁の間を通っていた。隙間の向こうは暗く、何も見えない。
人が通り抜ける程の隙間はない為、最終的に管を破壊するか、今も片隅で数名がガチャガチャしている『最終手段』に懸けるしかないだろう。

今はそれより、下に残してきた佑壱が心配だ。

「つーか、通風口ってさあ、何処にあんのー?」
「錦織君、こっちに空間があるよ!」

スマホのライトを手に、天井裏を探していたメンバーから声が上がった。余りに見つからない為、レールの下敷きになっているのではないかと危ぶまれたが、希望が見えてきた様だ。

「通風口ではなく、スピーカーですね。レールから電源を取る為に、コンセントがありました。とりあえず外しましょうか」
「壊れてるけどドライバー持ってきて良かった。はい、錦織君の!」
「は?まぁ良いですけど…」

ドライバーだけで壁を破壊した要は、皆のぶっ壊し隊長らしい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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