帝王院高等学校
エデンとおでんは似てますか?!
「臭い。下劣な下等生物の吐いたCO2が、大気を穢している。…相変わらず地上は、酷い匂いだ」

空を舞う漆黒のバイクに、ライダーズジャケットに身を包む男の姿はあった。彼がハンドルに備え付けられたボタンを押すと、ヘルメットに内蔵されたスピーカーからノイズが走る。

「ステルシリー・オフィシャルスクエア・オプトアウト、モード:プライベートでコード:ジェネラルフライアに接続」
『うふふ。待ってたよ、オジサン』

いつ聞いても気持ちの悪い声音だ。
聞く度に声音が違うのはいつもの事だが、今夜は女の声に聞こえる。

「…学園内で、貴様の手下が好き勝手してくれているらしいな。我々の邪魔をするのであれば、貴様の命はないと言った筈だ」
『怒っちゃやだよ、コード:ベテルギウス。ねぇ、オジーチャン見つかった?』
「勘違いするな、貴様の言葉を信用した訳ではない。シリウスのラボにもそれらしい資料はなかった」
『うふふ。ある筈ないじゃん、だってオジーチャンは殺されたんだもの。他でもない、ナイトに』

鈴を転がす様な、忌々しい程に涼やかな声が鼓膜を震わせた。
今にも掻き消えそうな異国の星月夜、月よりも星の光の方が近く感じる程に。

「そのナイトは、何を為すつもりだ?そろそろ隠し事はやめないか。お互いに」
『前にも言ったでしょう、判らないって。僕はずっとアメリカに居たんだ。誰も僕を知らなかった。誰も僕に気づかなかった。【忘却の地】には、埃を被ったレコードが残ってるだけ』
「…何故、マスターはそんな所にお前を」
『この国じゃ僕を助けられなかったからでしょう?脳死状態じゃ、生きたまま連れ出すのも難しいからねぇ。うふふ。AB型だったから助けて貰えたんだよ、きっと。だってレヴィ=ノヴァと同じ血液型』
「ナイトと同じ、血液型」
『だけどオジーチャンは失敗した。形無しのAB型を改造すると、どうしてかO型が産まれてしまう。だからオジーチャンは考えた。完全体をAB型とするなら、キングは失敗作だったんだ』

ああ、暗い眼前の海原が途切れ、断崖に犇めく黒の森が見える。
微かな光に目を凝らせば、白い建物が見えた。

「マスターオリオンは、我らが始祖レヴィ=グレアムとナイト=メアの復活を望んでいたのか?…星の痣を持つ、ノアの真なる神を」
『それは知らない。だから陛下に見つかる前にオジーチャンを探してきてって言ったの。困ったねぇ、子供の癖に行動が早いんだから。ふふ、だからこそ唯一神なのかな』
「…マジェスティルークは学園から離れられない。全てはナイトの計算通りなのだろう?」
『そうだよ。全部、ナイトのシナリオ通り。…でも、今のナイトは壊れてる。だってあの子にはペンタグラムがない。あの子にあるのは、目の中に隠されたヘキサグラムだけ』
「罪深きユダの星、か…」

六芒星、遠野俊の眼球に刻まれた先天性のスティグマを知る者は少ない。だからこそ元老院は彼を真の『唯一神』として決定した。全ては、オリオンの遺言のままに。

「セントラルのラボは、ロード亡き後、シスター・テレジアの喪明けと共に閉鎖された。…然しこの国の、オリオンの研究室は何処にある?」
『うふふ。うふふふふふ、知らんぷりしちゃって。悪い子だねぇ、ランクB、特別機動部技術班長、コード:ベテルギウス。僕は知ってたよ、君がオジーチャンの秘密基地を勝手に使っていた事…』

嘘つき同士の会話は白々しい。

「マジェスティルークが倒れ、日本へ呼びつけられた時は研究の邪魔だと思ったが…。まさか学校の地下に、あれほどの研究室を隠し持っていたとはな」
『あそこで僕は新しい命を手に入れた。それまでの人生を捨て去る代わりに…』
「オリオン秘蔵の資料は全てが失敗作だった。では何故、ネオ・ナイトは創られた?ステルシリーが創造せし神、ルーク=フェインに対抗しうるもう一人のノアは、どうやって」
『それは自分で確かめたら?ナイトの催眠で日本から消えてしまった、可哀想なオジーチャンに直接聞きなよ。…出来るものならねぇ?うふふ、あははははは』

笑う声音につられて唇を吊り上げれば、空に浮かぶ機体の下、静かな森の中に、それは佇んでいる。


「大犬は六芒星に喰われ、星月夜に眠るばかり…文学的だな。私は文学に興味はないが、悪くない」


























「本棚か?中身は見事に何もねぇ」

片腕に抱えていたブレザーを奥の机の上に置いた高坂日向は、入口側までぐるりとスマホのライトを巡らせた。
天井には巨大な通風口だと思われる金網が張られており、広さは体育館に匹敵するものと思われる。かなりの広さだ。

「ちっ、趣味の悪い牢獄だ。鉄格子のサイズから見て鼠を飼うにゃ不向きだな。プリズンっつーより、動物園」
「見ろ、高坂。対の牢には入口がない」
「シャッター、か。…誰が何の為に」
「少なくとも、鼠や虫であれば障害にはならんだろうが、成猫であれば出られはしないだろう」

鉄格子の隙間は、五センチに満たないものと思われる。
仔猫であれば確かに出入り可能だろうが、頭さえ通れば僅かな隙間も通り抜ける柔軟な体を持つ猫でも、この間隔は通れそうもなかった。
舌打ち一つ、奥から入口まで大股で歩数を数えた日向は、15歩目を待たずその場で踵を返した。

「俺様の歩幅が80cmとして、奥行きは大体12メートルか。幅はその倍以上ありそうだ」
「昨日今日のものではない」

神威の足元で眠る様に丸くなったまま動かない猫を見つめた日向は、何度目かの舌打ちと共に足を踏み出す。愛玩動物の無惨な姿は、何度見ても慣れるものではなかった。

「お前のブレザーを寄越せ。…俺様の汚れた手で触られるより、マシだろう」
「ああ」
「コイツは綺麗なもんだな。傷もない、毛も抜けてない。上等な剥製にしか見えねぇ」
「温度、湿度共に一定に保たれていたのだろう。剥製と言うよりは、木乃伊だ」
「んな可愛いミイラなら、毎晩枕元に立たれたいもんだ。
 In the name of my Father, the Son and the Holy ghost, Amen.(我らが父と子と聖霊の御名に於いて、アーメン)」

日向は呟いて目を閉じ、神威のブレザーに包んだ眠り子を抱き上げる。兄弟なのかは定かではないが、全く同じ姿で戸口に倒れていたもう一匹の猫の元へ運び、隣に並べ、もう一度黙祷を捧げた。

「此処は改めて調べさせるとして、残りは上か」
「高坂」
「何だ、何か見つけたのか?」
「あれは、ベッドの様だ」

暗さに慣れたのか、光が当たっていない所を見ている銀糸に倣い、日向は目を凝らした。充電量の心許ないスマホのライトを向ければ、反対側の鉄格子の向こうに、確かにベッドらしきものがある。

「ヘッドレストに何か書いてあるな」
「『EDEN』」
「見えるのか?」

二匹目の猫が倒れていた場所から一歩も動かない神威は、部屋のほぼ中央に立っていた。どんな視力だと呆れ半分、ライトでベッド側を照らしたまま近づいた日向は、檻の向こうを眺める。
確かに殴り書きの様な文字で、ベッドの枕元にEDENと書かれてあった。

「…糞が。これの何処が楽園だ、笑わせやがる。此処を作った奴は狂ってやがる。許可もなく、こんな所に住み着いてやがったとは…」
「これと同じものを見た事がある」
「あ?」
「ウエストサイド、カリフォルニア州の位置に当たるセントラルの西端に、地殻変動で沈下したとされる海底トンネルが存在する」
「ああ、テメェらの本拠地か。地下で暮らすなんざ、良い趣味をお持ちなこって」
「ファーストが産まれた場所だ」
「…あ?」

興味がなくなったのか、歩き出した神威に舌打ちを零した日向は、机の上に残した二つの塊を一瞥し、心の中で謝る。すぐに迎えに来るからと呟いて、未練を振り切る様に顔を戸口へ向けた。

「ヘブライでは『快楽』だが、アッカドでは『園』を指す。文字通り、エデンの意訳は『失楽園』」
「失楽園?」
「元々は、レヴィ=グレアムと共にロンドンを追われた牧師が作った、小さな教会だったと聞いている。いつからかシンフォニアを育てる秘密の園と化した。それこそ、動物園とも言える」
「へぇ、つまり表沙汰にならねぇ様に隔離したっつー訳だ。反吐が出る」
「グレアム一族は、それまで敬虔なローマカトリック教徒だったらしい。プロテスタントを国の恥と言って憚らぬ男爵家が、王宮から睨まれるも道理よ」
「始まりは、子供が出来なかった夫婦の軋轢だろう?ウェールズにしろスコットランドにしろ、元はローマから伝わった教えではある。…日本人が浄土真宗を日本の文化だと思ってる様なもんだな」

諸説ある様だが、イギリスカトリックが枝分かれしたのは、国同士の婚姻によるものと語り継がれている説が一般的だ。ローマ郊外のヴァチカンを聖域と呼ぶ教徒は、今を以て溢れている。

「祖国を追われ、自由を掲げる大陸の地下を建設し始めて、真っ先に造られた場所だ。余程ドーバーから離れたかったらしい。今でこそ屋敷はニューヨークの真下にあるが、今のセントラルの大半はキングの時代に採掘されたものだ」
「で、その教会が何だっつーんだ」
「マリアもキリストもない教会につけられた名が、EDEN」
「教会の名前だったのか」
「レヴィ=ノヴァが、三度結婚した場所だ」

この扉は開けておいた方が良いだろう。
日向が暗い牢獄から外へ出ると、既に神威は梯子に足を掛けていた。マンホールの蓋に似た天井の栓へ手を伸ばした姿で動きを止め、梯子に手を掛けたばかりの日向を見下ろしている。

「厳重に施錠されているとは思えんが、開かん」
「マジかよ。何か乗ってんのか?」
「さぁな」

すたりと飛び降りた神威は日向の隣で天井を見上げ、そのままだ。蹴り壊す事も不可能に近く、殴るにしても重力に逆らっては効果が薄い。
黙っている所を見ると、効果的な方法でも考えているのだろう。

「セントラルライン・オープン」
「困った時に言いたくなる台詞ナンバーワンだな。職業病だ、流石にこんな所まで声紋センサーは設置してねぇ」
「ステルシリーセントラルスクエア・イノセントオープン」
「だから無駄だっつってんだろうが。戻るぞ」
「…可笑しい」
「あ?」
「衛星回線は地層100メートルまでルーター経由を必要としない、特殊光学線を使う」
「今の衛星回線だったのか?」
「ああ。耐圧、耐核共に最強を誇る格納庫には流石に届かんが、アンダーラインの構造はSRCだ。鉄筋コンクリート造の蟻の巣に、届かぬものではない」
「何にせよ、使えねぇもんは使えねぇんだ。懲罰棟が動いてない今、また数十分掛けて格納庫まで歩くしか、」

ポタリ、と。
日向の鼻先に冷たい何かが落ちてきた。静かに天井を見つめている神威はその何かを見たのか、再び梯子に手を伸ばす。

「下がっていろ、高坂」
「あ?」
「一つ、仮定が成り立った」
「何のだよ」
「この上は、恐らく水だ」
「はぁ?」
「下がる気がないのであれば、深く息を吸い込むか、アダムの元へ戻れ」

梯子を登り詰めた男が、その場で梯子の縁を鷲掴み足を振り上げた。
雑技団が見せるしなやかな程の演舞に似た動きで天地反転した銀髪が、日向の目の前を靡く。


瞬間、ガキィンと言う音と共に、悍しい轟音が襲ってきたのだ。


「な?!」

息が詰まる程の水が落ちてくる。
シャワー程度のものではなく、頭の上からスコールの何十倍もの衝撃に襲われたのだ。日向がそれを理解する前に、鼻や口から恐ろしい圧力が入り込んできた。
日向は無意識で流されまいと梯子を掴んだが、最早人間の握力など仔猫の戯れの様なものだ。

「死にたいのか」

意識が白濁した刹那、凄まじい力に引かれた体が、水圧に逆らっていく。肢体がバラバラに砕けそうだと思ったのはほんの一瞬、投げ込まれる様に吹き飛ばされた日向は、全身に叩きつけられた痛みに呻いた。

「っ、…痛ぇ!!!」
「私の言う事を聞かぬからだ。日本には因果応報と言う言葉がある」
「ん、だと」

打ち付けた頭を押さえながら起き上がれば、轟音を背後にずぶ濡れで佇む長身が見える。つい先程後にしたばかりの不気味な部屋の中に戻っている事を確かめて、戸口に佇む神威の向こう、大瀑布と化した通路を呆然と眺めた。


「………とんだトラップがあったもんだ。あの量の圧力が掛かれば、そりゃ開かねぇ筈だぜ」
「ほんの切っ掛けに過ぎない。遅かれ早かれ、荷重に耐え兼ねた鉄栓の辿る道は崩壊だ」

どかどかと、悍しい量の水が滝の様に叩きつけられていく。
その余りの光景に、己が生きている事が奇跡だと理解し息を吐いた日向は、全身が濡れている事にも背中に走る灼ける様な痛みにも構わず、立ち上がった。

「助かった、有難う」
「屈辱的な顔だな」
「忌々しい限りだ。…今後行動を起こす時は、明確な理由を述べて周囲を納得させてからにしろ」
「この程度教えられねば理解出来んとは、人の子は哀れなものだ」
「誰も彼もテメェと同じ頭脳なんざ持ってねぇんだよ!」

叫んだ日向は目眩を起こし、ふらりとよろける。
持ち前の精神力で気丈に耐えたが、苦痛に歪む眉間の下、彼の薄い唇から零れる吐息は荒い。

「少し休んでいろ。どの道、水流が途切れねば動くに動かれん」

傾斜のお陰か、注ぎ込まれる水のほぼ全てが浄化槽方面へ流れていく。システムが停止している今、通路の体積を越える水が流れ込めばこの場も地獄と化すだろうが、人間の足で何分も掛かる長さだ。その心配は少ないだろう。

「…情けねぇ」
「長命に引き替え、勤労な体の脆弱性がヴィーゼンバーグ唯一最大の欠点とはな」
「皮肉かよ」
「12年前、一度お前はその命を捨てた。ファーストを庇うと同時に」
「…何が言いたい」
「予想はついたか、ベルハーツ=ヴィーゼンバーグ。お前はそこまで愚かな人間ではあるまい」
「………輸血、だな」
「ああ」
「あの場で、俺と同じ血液型だったのは、奴しか居なかった…」
「その時、常人では有り得ない血液が持つ治癒力に気づいた。早すぎる成長速度、早すぎる細胞分裂。引き換えに、ファーストに課せられた寿命は、二十歳」

何にでも弱点はあるものだと、何ら感情を匂わせない声は囁いた。全くだと嘲笑を浮かべた日向は濁った息を噛み殺し、背中の痛みに耐える様に牙を剥く。

「お前は与えるばかりで得ようとしない。何故望まない?」
「…何を望めって?テメェの血をやる代わりに、血を寄越せってか?吸血鬼じゃあるまいに、この傷はテメェ勝手に負ったもんだ。嵯峨崎にゃ、何の責任もねぇ。あって堪るか」
「アダムを失ったイブは、一人だった」
「………」

話が擦り変わった。
何の話だと尋ねる気力もなく、日向は床へ腰を下ろす。人が通り抜けられる程度の穴から流れ込む水は、未だに威力を失ってはいない。

「アダムはロードとしてセントラルへ招かれ、己と同じ顔をした皇帝の玉座に焦がれたのだろうか。それとも、皇帝と同じ体を持つ己が西の果てに隔離されていた恨みか」
「…お前は、どう思ってんだ?」
「俺か。俺は、死んだ者の意思に興味はない」
「ふは。皇帝らしい台詞じゃねぇか…」
「イブは一人だった。テレジアの元へは月に一度、食糧や必要な物資が運ばれていたが、区画保全部の管轄だ。12部署最下位である彼らの仕事は、俺が戴冠してすぐに粛正した程、悪辣なものだった」
「何処にでもサボりたがる奴は居るんだな。耳が痛くねぇか、万年サボりの会長さんよ」
「優秀なそなたに任せて、失敗だと思った事は一度としてない」

何ら飾る事のない素直な賛辞に、日向は口を閉ざした。誰からも文句を言わせる隙がない仕事をしている自負は勿論あるが、誰よりも優秀な男から誉められるのは、悪くない気分だ。

「ファーストがセントラルへ招かれたのは、私が日本を離れた頃だ。キングによりサラと共にアメリカへ渡った私は、暫くの間、シリウスの元に収容された。サラ=フェインは病室と言う名の監獄で、元老院の監視の元だ」
「…それでアンタにアシュレイがついたのか」
「あれは今でこそ私の世話係だが、あの頃は教育係としてやって来た様に記憶している。半年待たず解任されたが、以降、自らキングに上奏し、私の世話役に収まった。だが、それまでは元老院の統括だった男だ」
「表向き、そいつは人材派遣会社の会長だろう?家政婦だの執事だの山程抱えて、確かヨーロッパに幾つか養成学校も持ってたな」
「セントラルでアシュレイを知らぬ者はない。お陰で私は、ファーストから睨まれた」
「何でだよ」
「自分を差し置いて、私にアシュレイがついたからだろう」

成程、佑壱らしい理由だ。
昔から佑壱は神威にベタベタ甘えていたものとばかり思っていた日向は、そこで初めて神威が佑壱を『鬱陶しい』と言う理由を知る。

「ファーストの教育係は優秀な男だったが若く、アシュレイとは比べるべくもなく劣っていた。私より先にセントラルへ招かれたあれより、私の教育係の方が優れておれば、不貞腐れるのも無理はない」
「で、睨まれたと」
「嫌うのであれば近づかなければ良いものを、毎日毎日やって来ては訳の判らん言葉で罵られてみろ。そなたと同じく、私が何処に隠れようとあれは見つけ出してくれた。何度殺そうと思った事か…」
「ふ…くは。そんで、鬱陶しい嵯峨崎を追い払う為にテメェは必要もねぇ言葉を覚えた訳か」
「読めぬ本があるのが不都合だっただけだ。私が一つ言語を覚える毎に、あれは犬の様に走り回った。何度思い出しても耳障りなものだ。あらゆる言葉で邪魔だと言ったが、その度にあれは喜ぶ」
「超可愛いじゃねぇか。糞羨ましいな糞が、俺だって嵯峨崎の無邪気な笑顔が見てぇ」
「そんなもの本人に乞えば良かろう」
「は、俺の前で笑ってくれってか?何処の阿呆だそりゃ。言う俺様も阿呆だが、それでヘラヘラ笑う阿呆なんざ存在する訳ねぇだろうがカス」

幾らか、水の勢いが減った。
もう暫く待てば収まるだろうと考えた日向は、濡れて張り付いたシャツを脱ぎ捨てる。寒いだの何だの弱音を吐くつもりはないが、二葉にコーティングを塗布して貰った傷口の痙攣する感覚が、何とも煩わしいからだ。

「毎日言い続ければ良い。あれも私の元へ毎日やって来ては、何度追い払ってもまた現れた。男たる者、一度や二度断られた程度で諦めるな」
「馬鹿野郎、一度振られた時点で俺様の心が死ぬ。大体、そんな簡単に言えりゃあ、世話ねぇんだよ。惚れた相手と目が合った瞬間、『うぜぇ』って面向けられてみろ、殴りたくなる」
「救えん男だ」
「そこを何とか救ってくれよ、さっきみたいに…」

両手で顔を覆った日向に若干同情した神威は、ぽつりと呟いた。

「なえ」
「毎朝と言わず三食嵯峨崎の作った飯が食べたい…」
「もえ」

ちっとも同情などしていない。無表情でハァハァしてやがる。

「ふむ、収まったな。立てるか」
「体より心の方が重傷です…」
「ならば問題ないな、行くぞ」
「マジでテメェは碌な死に方しねぇぞ帝王院」
「是非もない。俊が視界に居らんのであれば、何処であろうと地獄だ」
「…本気かよ。言ってる割りに、もう泣かねぇのな、アンタは」
「過ぎた事を」
「人間はもっと複雑な生き物なんでな。ンな簡単にスパスパ割り切れる奴なんか居やしねぇ。…あ、いや、そうでもない、か?」

歯切れの悪い日向を横目に、神威は水滴が滴る梯子へ手を掛けた。今度こそ妨げるもののない天井の穴が、口を広げている。

「やっぱ、アンタとあの人は似てんのかも知れねぇ」
「誰の事を言っている?」
「俊だよ」
「…何?」

もう少しで梯子が終わる時、下から届いた日向の声に神威はハニーゴールドの目を落とした。奇妙な表情で見上げてくる琥珀色の眼差しは、滴る水滴が額に落ちた刹那瞬いて、また、見上げてくる。

「猫の親子が、真夏に箱詰めにされて放置されてた事がある。俺様が中二だから、俊はあの時まだ小学生だった筈だ」
「それが何だと言う」
「辛うじて生き残ったのはたった一匹。母猫と同じ毛並みの黄色い仔猫だけで、他は腐敗が酷かった。俊はそれを素手で抱き上げたんだ」
「そうか」
「生き残った猫は俺様が病院へ連れていった。…今じゃ定期検診でメタボ判定されるほど元気だが、生きていたのが不思議なくらい痩せ細って哀れなもんだった。…死んだ奴らはもっと、な」

日向から目を離した神威はそのまま穴を抜けて、上のフロアへ消えた。後を追った日向は一度だけ扉を見下ろしたが、軋む背中を舌打ちで紛らわせつつ登り詰める。
濡れた肌が空気に触れて寒いほどであるのに、反して背中は燃える様な熱さだ。痛みより、その熱が耐えられない。

「おい、こりゃまた、…がらっと雰囲気が変わったな」
「ああ。アンダーラインだとばかり思い込んでいたが、惑わされていた様だ」

緑色のコンクリートだった下層と違い、湿ったフロアは普通のコンクリートだ。先程まで浸水していた所為で一面濡れそぼり、濃いグレーに変色しているものの、乾けば恐らく、一面が薄いグレーだ。

「左が『CINQ』。現在地は『QUATRE』との境」
「サンクキャノンたぁ、部活棟じゃねぇか。第四キャノンが浸水してたなんざ報告、受けてねぇぞ」

大きな警報マークが施された、セキュリティゲートのシャッターが遠くに見える。それを横目に壁の掲示板を見遣った神威が囁けば、同じものを見ていたらしい日向は低い声で呟いた。

「…第三キャノン側は流石にセキュリティゲートが降りてんな。とりあえず、出られそうな所から外に出るぞ」
「幾つか灯りが消えている。バッテリー切れか浸水によるものか判断は適わんが、システムダウンは確定だ」
「だろうな。俺らのクラウンリングを認識してりゃ、勝手にシステムが機動した筈だ。中央委員会役員が揃ってこんな所に現れれば、今頃グランドゲートの警備室がざわついてる」

特別専修科の作業場や、体育科の演習場・ジムなどを有する第四離宮には、地下へ降りる道はない。
中央キャノンに施された改札口から、地下へのスロープへ送られた生徒らが向かうのは通常教室なので、中央塔の東側にある第二離宮、またはそれから時計回りに配された第三離宮には一階への登り口である階段がある。

「流石にセキュリティゲートを蹴り壊すのはアンタにも無理だろう?」
「試してみるか?」
「選択肢は部活棟だけだ。ったく、デスクワーカーを歩かせやがる…」
「それが学生の台詞とはな。歩くのが嫌なら走れば良い」
「あー…。ランニングコースとしては、確かに悪かねぇな。今後、雨の日にでも使うか」

然し現在地はアンダーライン北東部からおよそ200メートルは離れた、中央キャノン西側、第三離宮と第四離宮の狭間だ。
中央塔の真裏に位置する第五離宮まで、もっとも長い通路でもある。この通路は通常、アンダーラインの駐車場から部活棟へ招かれたOBや国体選手、他校との練習試合時に使われるものだ。
通常、帝王院学園の生徒が使う事はまずなく、在籍証明を持たない一般人が地上を見る事なく部活棟へ向かう為の手段でもある。生徒らが一般人を見掛ける事がないのも、一般人が帝王院学園の内情を知らないのも、全ては地下通路のお陰だ。

「さっきまでの轟音が嘘みてぇな静けさだ。…あれが水の音だとすれば、考えられるのは」
「上水管が破裂したか、接続部分が外れたか。無理もない。セカンドが急場凌ぎで連結した旧式の配水管は、アタッチメントの規格が現状のものとは違う」
「ちっ!二葉の野郎、雑な仕事しやがって。山田の事ばっか考えてっからだ、まずはアイツを殴り殺してからシャワーを浴びて、俺様は寝る。寝てやる。いや、やっぱり先に嵯峨崎を取っ捕まえて飯を食う。大盛三杯喰ってやる」
「高坂」
「あ?萌え報告は要らねぇ、勝手に悶え死ね」
「騒がしい」
「んだと?!」
「違う、お前ではない。…随分遠いが、第五キャノンからだ。やはりこれは、人の声」

日向には何も聞こえないが、無表情で通路の先を見据えている男の双眸は、微かに歪められた。

「一年Sクラスの生徒らだ。忌々しい雑音共、俊の声が聞こえん」
「何で餓鬼共が…ああ、そうか、確か手動でモードチェンジし続けてんだったな」
「随分、面白い台詞が聞こえた。これは錦織要の声に似ている」
「あ?」

濡れたシャツをばさりばさりと振り払いながら、面倒臭げにゆったり歩く高坂日向の足は、



「『誰かユウさんを助けて』」


その一言で、まるで翼が生えたかの如く。

←いやん(*)(#)ばかん→
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