帝王院高等学校
楽園に息吹いた産声の葬送曲
「…会いたい。会いたいんだ、君に」

この世に、曰く楽園と言うものがあったとすれば、それは空の上などでは決してなかった。

「判ってる。…あの時逃げられなかった私の責任なんだ。兄様に会って話が出来ればきっと判って下さる。…そうだな。でもそれは今じゃない」

人が踏み締める大地の奥、燃えるマントルまではまだ遠い、忘れ去られた黒夜の国。それこそ、全てだった。

「君の声が聞けて嬉しかった。あの子にも宜しく。…愛しているよ、マイローズ」

時折冷たい地下水が滴る凍った鍾乳石、吐く息はいつも白い。
王国の最西端、分厚い地層の上には常夏の西海岸。まるで海原の様に広がる湖は静かにたゆたい、古い教会が佇むばかり。



此処には空がない。
人の手で作られたディスプレイと言う名の、青空が。
あるのはただただミスリルの様に煌めく氷の石と、毎日絶えず油を注ぐ事で灯され続ける、古ぼけたランプと松明の光だけだ。


寂しい教会で生まれた女は、同じ場所で人知れず子供を産んで、微かな自由を手放した。彼女の生活範囲は教会と、教会から見える範囲だけだったのだ。

彼女を育ててきた老いたシスターは、彼女をイブと呼んでいる。それ以外の名を教えてはくれなかった。それ以外の名があるとは、思いもしなかった。


目が悪いシスターは音の飛んだ古いレコードを、眠っている間も流していた。失った目の代わりに耳が良くなったと言って、飽きもせず、ずっと。
何処の国の言葉だろうか。一日中聞いていても飽きる暇がないほどに、シスターのレコードは狭い教会の本棚を占拠している。それが当たり前だったから、本棚のレコードは格好の遊び道具だ。



物心がつく頃には彼女は眠った様に横たわり、一日の大半を眠りながら過ごす様になった。
イブは彼女の面倒をずっと見ていたが、彼女が動かなくなった瞬間、いついかなる時も流し続けたレコード盤を湖へ捨てたのだ。


「エンジェル。出掛けてくるから、此処で待ってなさい。外に出ては駄目。…判った?」
「判った」

イブは顔にハンカチを掛けられたシスターと果物を幾つか残し、決して行ってはいけないとシスターが言っていた暗い穴の向こうに消えた。

「シスター。起きて、シスター。松明が一つ消えたから、ご飯の時間だよ」

何度揺すろうと、皺だらけのシスターの手は動かない。
目が悪いシスターはきっと、顔にハンカチを掛けられて何も見えないに違いないと思った。
熟れた柘榴を剥いて貰おうにも、静かな世界に自分の発てる物音以外はない。

「どうしよう。…ジャーキー固くて噛めない。ハム昨日なくなった。パン、朝食べた」

ああ、静かだ。
何日前に届けられたのだったか、痛んだ林檎はカビの味がした。この教会には度々、大人が食べ物を運んでくる。パンとハムと果物。
老いたシスターはハムをナイフで削るのも覚束ない為、唯一握れるサイズのフルーツナイフで手伝ってやると、皺だらけの手で優しく撫でてくれたものだ。


「シスター、歌ってあげる。僕、全部覚えてるよ」

知っている。
知っている。
産まれてから今日までずっと、聞いてきた。何百枚、何千枚、一度聞けば覚えてしまうから、シスターはせっせとレコードを取り替えては、歌っておくれと微笑んだ。

イブはいつも教会の外に居た。
イブの兄が使っていたと言うベッドは『神様』なのだ。だから誰も触ってはいけない。誰もそこで眠ってはいけない。枕元のプレートにはアダムと書いてあるけれど、きっと読めると言ってはいけないのだ。



シスターはついぞ目覚めなかった。
何時間経ったのか、暗い表情で帰ってきたイブに柘榴を剥いてくれとお願いしようとして駆け寄れば、寄るなと振り払われた。

どうしてだろう。
時々シスターの目を盗んで誰かに電話をしている彼女はいつも笑顔なのに、どうして自分の前では笑わない?


「…これは驚いた。歌っていたのは、君かね」

茶髪の大半が白髪に染まる、エメラルドの瞳の男が近寄ってくる。差し出された彼の手は白く、触ってはいけないのではないかと考えた。
だってこの手は、黒い。

「今のはドイツ歌曲だ。誰に習っ………これは?」
「レコード。でももう使えない。レコード盤がないと駄目なの」
「…驚いた、2000年代にそんなアンティークが残っていたとは」
「ここにあるのは全部歌える」
「全部?見た所、2000枚近くある様だが…言語もジャンルも統一感がない」
「全部判る。だってシスターが、教えてくれた。そうだよね、シスター」

イブはダイニングテーブルの椅子に腰掛けた姿で黙ったまま、揺すったシスターはやはり、目覚めない。

「コード:テレジアは、中央情報部副部長にまで上り詰めた女性だった。病で失明寸前に陥ってからは、区画保全部に飼い殺しだったが…そうか、彼女は30ヶ国語を操っていたな」
「テレジア。シスターのこと」
「そう。テレジアに育てられたも同然の君達は、娘と孫の様なものなのだよ。永い眠りに就いた彼女の冥福を祈り、レクイエムを与えてくれないか」
「鎮魂歌ってどんな歌なの?」
「何でも良いんだ。君が歌えば、彼女の魂は空へと還る事が出来るだろう。…出来るかね、エアフィールド」
「エアフィールドじゃない。エンジェルだよ。ほら、ベッドに『EDEN』って書いてあるでしょ?楽園には、天使しか住めないんだ」
「…そうか」

男の手が頭を撫でる。やはり、他人の方が優しい様な気がした。
何度も何度も何度も、記憶した歌を歌い続けた。何曲も何曲も何曲も、歌っても歌ってもキリがない。

シスターがただ、寂しくない様に。
幾つもの幾つもの歌って、ずっと聞いていた男はまるで父親の様な眼差しを向けてくる。

「…素晴らしい才能だな、エデン=テレジア。君をセントラルに連れていこう」
「え?」
「二歳になったばかりとは思えない才能だ。陛下がお戻りになられるまで、君には教育係をつけよう」
「待ってくれ!ネルヴァ卿、兄様はいつお戻りになられるんだ!私は兄様にお会いしたい…!」
「だからテレジアの死を直接伝えに来られたのかね、シスター・クリス。元老院の決定を破りセントラルへ足を踏み入れた罪は、私の裁量だけでは庇いきれないのだよ」
「…判って、います。せめて、陛下にお目通りを…」
「陛下はロードを消した。それが何を意味するか、判らない君ではないだろう?」

神様のベッドの上で、イブは泣き崩れた。
行こうと静かに囁いた男の手を恐る恐る掴めば、教会の前に見た事もない何かがある。

真っ黒な、あれは何だろう。
丸いものを被っている人間がそれに股がっている。何人も何人も、教会の中からは存在に気づかなかった。

「ねぇ。あれは何?」
「ファントムウィング。外見はそう、一般的なバイクと同じ」
「ばいく」
「乗ってみなさい。シャドウウィングの性能には遥かに劣るが、機動力は然程変わらない。陸空を統べる、黒の翼だ」

その日、決して行ってはいけないとシスターが言っていた暗い穴の中を、見知らぬ男の背に掴まりながら駆け抜けた。


この世に楽園と言うものがあるならば、それはきっと天国でも、イブがレコード盤を投げ捨てた煌めく湖の中でもなく、



「ようこそセントラルへ。君がグレアムと認められるよう励んでくれる事を、切に願っている」

初めて見たエメラルドの瞳よりもずっと美しい、天井には澄み渡る青空が広がっている。



これこそが『楽園』に違いなかった。




















「…やっと鼻がマシになってきたと思ったばかりだったんだがなぁ、俺様は。これがあの地獄って奴か」
「奇遇だな高坂、俺は鼻呼吸を放棄した。口腔摂取と皮膜摂取が出来れば死にはしない。つまり此処は未だ常世ではなく、うつつと言う事だ」

わざわざ向かった浄化槽で出来た事は数分間の見学、元来た道へ戻り、三叉路を真っ直ぐ歩き続けて何分経過したのか。
暫くは景色の変わらない薄暗い地下道だったが、進むにつれて異様な腐敗臭が襲ってきた。

「…ああ、口呼吸と皮膚呼吸な。一瞬粘膜と聞き間違えた。わざとらしい事ほざいてんじゃねぇ、テメェの粘膜と言う粘膜に山葵擦り込むぞ」
「余程粘膜摂取に餓えていると見える。芋相手に避妊具を浪費し過ぎるからそうなるのだ」
「芋だぁ?ふん、お偉いマジェスティには、暑苦しい男子校の餓鬼共がポテトに見えるってか。ポテトに盛る俺様は餓えた穴熊かゴルァ」
「寧ろそれ以外の何に見える?睦み合おうと何を得る訳でもない雄蘂と雄蘂、芋蔓式に増えるものも増えん」

おしべ。
酷く懐かしい単語を聞いたと、日向は痙き攣った。何せ高等部以降、進学科に生物学のカリキュラムは選択授業だけだ。呆れる程に人気がない、外れ科目でもある。

「未成年のセックスに生産性なんざあって堪るか。今まで何匹の精子を無駄死にさせてきたか、賢いテメェにゃ計算出来るのか?確実に兆じゃ足りねぇだろうよ」
「ただ見ている者が萌え上がるだけ、そうオタマジャクシが駆け巡るが如く。それもまた一興」
「黙れ腐男子。リアルなゲイにゃ、テメェが言う萌えなんてファクターはない。そろそろ現実を見ろ」
「ふむ、こうして並び立つと目線は大差ないか。高坂、お前の背丈は幾らだ」
「あ?187だが、それがどうした」
「ファーストはお前より少しばかり低い」
「嵯峨崎は182だ」

真顔で宣った日向に対して、わざとらしいほど大袈裟に肩を落とした神威は首を振る。二人共口呼吸なので、ハァハァ交互に響いた。
ふるふる首を振る会長に眉を寄せた副会長はそっぽを向いているが、無言で首をふるふるしている神威に耐えきれず、咳払い一つ。

「中央委員会役員の測定データくらい把握してちゃ悪いのか。テメェが189cm、二葉は181cm、覚えてるのは嵯峨崎のデータだけじゃねぇ」
「…」
「疑いの目を向けんな、咬み殺すぞゴルァ」
「…」
「…まぁ、体重までは知らねぇよ。………嵯峨崎の分しか…」

恐るべき美貌の無言の重圧に負けた副会長の懺悔は、今にも消えそうな声音だ。

「中央委員会にストーカーが存在したとは…嘆かわしい。もえ」
「喜べ会長、俺様以上にヤベェのは二葉だ!あれはそう先月の話だ。寮の部屋割りが決まってすぐ、麗しい中央委員会会計閣下は後輩の部屋に無断侵入した」
「誰の部屋かは聞かんでも判るがこの俺にも間違いはあろう。聞こう、誰の部屋だ」
「山田」
「時間を無駄に費やした。美しいセカンドは、やはり12年前に失明していたのだろう。ヒロアーキに欲情するなど最早正気の沙汰ではない。ファーストを天使と宣うそなたも然り」

だったら黒縁眼鏡に欲情するテメェは何だと言う台詞は、何とか飲み込んだ。俊の正体を知れば、学園の半数以上は飴に群がる蟻と化すだろう。

「良いか、カメラやマイクを阿呆程仕掛けそうだった二葉を、この俺様が全力で阻止したんだ。判るか、生きるか死ぬかだった。従弟からピストルを突きつけられた俺様の気持ちが判るか、命運を分けたのは『山田にバレたら嫌われるぞ』の一言だ」

グッと親指を立てた日向に、無表情な神威も親指を立てた。

「聡明なそなたに感服した。だが私の記憶が確かならば、そもそもセカンドはヒロアーキに好かれておったか?」
「二葉は馬鹿だからな。仕掛けまくったストーカーグッズを綺麗さっぱり片付けて、再会した時の挨拶を考えてたぜ。校則違反者を痛めつけながら、な」

遠い目で呟いた日向の台詞に、神威の返事はない。つまり中央委員会にはストーカーしかいないらしいと、無表情で頷いた男は己がその中央委員会会長である事を忘れているのかも知れなかった。

「あの粘着物ド鬼畜野郎に比べたら、俺様なんざ可愛いもんだ。嵯峨崎の寝息が聞こえるだけで、自分の部屋なのに眠れやしねぇ。秘蔵のワインかっ喰らって、急性アルコール中毒寸前でくたばっちまわなきゃ、隣のテメェの部屋に殴り込んでたろう」
「だがその時、俺の部屋はそこにはなかった。完」
「…完じゃねぇっつーの。モードチェンジを私的に使ってんじゃねぇ」
「俺が作ったシステムを俺の為に使わず誰が使う?俊を連れ込むのに、隣が鼻の利く犬を飼っておっては収まるものも収まらん」
「潔い開き直り方だな、死ね。マジで俊がテメェを殺してくれたら良いのに…」
「刃を向けられた程度ではな。腹を突こうが胸を突こうが構わんが、その隙に俺は俊を突く」

真顔で宣った銀髪に、高坂日向は固めた拳を震わせる。
日向がこの世で最も男らしいと思ってきた、尊敬に値する男こそがカルマ総長だ。
なのに目の前の変態は、日向が何度現実から目を逸らそうと励んでも、下らない下ネタで知りたくない現実を知らしめてくる。

「俺様の中の抱かれたい男ナンバーワンが、よりによって何でテメェなんぞに…」
「俺の中の抱かれたい男は存在せんが、そうか。俊の童貞を散らす事を失念していた事に気づかされた。どうせ手放さねばならないのであれば、一つ残らず喰らっておくべきだろう?」
「黙れ粘着物。嫌われるより酷い忘れられた男が、いつまでも未練がましいぞ。スパッと諦めろ、ねちゃねちゃすんな気色悪い」
「そなたの部屋のベッドの真上のスプリンクラーに、盗聴器とカメラが仕掛けられている。犯人は俺だ」

グッと親指を立てた会長の台詞に、副会長は理解するまで数秒を要した。
何を言われたのか判らないとばかりにあどけない表情で、理解すると同時に、日向の顔は熟れた林檎の様に染まる。

「テ、テメ、テメェ!いつだ!正直に吐きやがれ!いつからだ…!」
「ファーストを拉致しろと命じた日の一時間前」
「図りやがったなテメェ…!まさか嵯峨崎を無理矢理連れてこさせたのは、」
「すまん、ほんの腐心が疼いた。犬猿の仲特集のアンソロジーが俺を駄目にしたのだ。許せ」

ああ、判りたくないのに判ってしまった。
つまりこの腐れ会長は、退屈凌ぎに役員同士を番わせようと企んだのだ。怒りの余り震えている日向は言葉もなく、踊らされていた我が身を恥じているのか、顔の赤みは引かない。

「テメェは元々駄目人間だろうがゴルァ!死ね!消えろ!滅びの道を進め!」
「そう興奮するでない。執務室で下半身を露出させた書記を、我が右腕である副会長が押し倒しておった事までは…ファーストの尻が固すぎて難儀しておった事は勿論、あれの太股に挟んで腰を振り続けておった事までは知らん」
「知ってんじゃねぇか!!!殺す!テメェは今すぐ殺す!そんで俺も死ぬ!だが死ぬのは録画を消してからだ…!」
「そう照れるな、放送する時は目元にモザイクを入れてやる」
「ああ、やばい、この殺意は言葉にならねぇ。殺す前に穴が裂けるまで犯しても良いか、帝王院。その面が見えなくなるまで顔射してぇ気分だ…」

笑みを浮かべた日向の眼差しは凍っている。静かな声音から彼の本気が伝わってきたが、

「お前は長芋か。ねばねばと粘りおって、むさ苦しい男め。白米にぶっかけてさらさらしてやろうか」
「頼むからそろそろ人間の言葉を喋ってくれ」
「芋と芋が仲睦まじく逢瀬を重ねる様を、そして暑苦しいネバネバを草葉の陰からそっと見守る事こそ、我ら左席委員会の職務だ」

真顔で宣う銀髪に、フッとニヒルな笑みを浮かべた金髪は遠くを見遣る。
 
「…なぁ、陛下。俺ら中央委員会じゃなかったか?」
「だから今こうしてお前などと二人、潤いも萌えもコンソメもない暗渠をひた歩いているだろう。俺の近くでネバネバするな、何故か全身が痒い」
「そりゃ下水に塗れりゃ痒くもなる」
「この俺が、お前を包み込む187cmのコンドームを開発してやろう。膜の中でネバネバするが良い、俺の脳内から直ちに去れ俺様とろろ芋よ。もえ」
「…お前だけには言われたくなかったぜ。一晩に何人コマしてたか知らねぇが、変な病気は持ち込んでくれるな」
「俺が可笑しいのは頭だけだ」
「潔いな!」
「俊の粘膜と言う粘膜にネバネバしたい。いっそネバネバされたい。芋蔓式に孕ませたい」
「チップスの原材料は男爵芋だったな」

キリッと宣った変態会長を、副会長は華麗にスルーした。もうこの変態は相手にするだけ無駄だ。この男に成績で負けているのかと思うと悲しくなるので、考えないに限る。

「おうおう、無関心な顔しやがって。兄ちゃんもあの口だろィ?所構わず押し倒したい赤毛のカワイコちゃんが居るんだろィ?エェイ?」
「…おい、何だそのキャラ崩壊は、崩壊し過ぎて新キャラ登場したと思っただろうが。何処の酔っ払いだテメェ」
「バー『カイカイ』の常連客、妻子に逃げられた窓際サラリーマン、スンデリングさん(15歳独身)だ。つまみのポンデリングを繋がったまま貪り、コーラZEROでアルコール中毒になった事もあるスンデリングさん(15歳独身)を知らんのか?」
「やめろ、俺の中のシュンシュンをこれ以上壊すんじゃねぇ」
「妻子に逃げられる前から彼は独身だったそうだ」
「…」

此処まで狂っていると、最早同情してしまう。スライスしてカラッと揚げてやりたい。
高坂日向は『それただの独身じゃねぇか!』と言うツッコミを放棄した。山田太陽であれば食い気味に突っ込んだに違いないが、同じ副会長でも中央委員会副会長は大人なのである。

「何と見事な無視だ。ネバーギブアップ俺」
「男爵辞めたら芸人になれ。糞つまんねぇネタでも、その面があれば喰っていけるだろうよ」
「笑いが判らん男はモテんぞ」
「誰がテメェにンな余計な知識植えやがった」
「山田太陽の格言だ。流石ご主人公ともなると、体に似合わず言葉が重い」

ペラペラじゃねぇかと言う日向のツッコミは、然しド変態天然には届かない。気づきたくなかったが、帝王院神威は山田太陽をライバル視している節がある。
高坂日向はポーカーフェイスの下、二葉が自棄酒ならぬ自棄フレンチトーストに暮れる理由の十割である、平凡な左席副会長を思い浮かべた。

自慢ではないが、同じ副会長として太陽に負けているつもりはない。寧ろ勝ちっ放しだとすら思う。

「ヒロアーキは勇ましく宣ったものだ。役立たずのお飾りアイドルが、と。お前に至っては『金髪王子』だったか?何の捻りもない、ただの容姿の指摘だ。つまり俺は銀髪皇帝?」
「それは記憶しなくて良い。さっぱり忘れちまえ。あの童貞臭い餓鬼は、魔王様から随時狙われてる寿命の短さだ。二十日鼠と変わらねぇ」
「成程、ヒロアーキはバイオジェリーと同格だと?恐ろしい男だ。何と毒々しい」

無表情から吐き出された台詞に吹き出した日向は口元を押さえ、俯いたまま肩を震わせた。
それにしても何百メートルあるのかと思った瞬間、ビキリと空間が軋む様な音を聴いたのだ。

「…何だ?」
「遠いが、前方から聞こえた。浄化槽側ではないのはまず間違いない」
「あっちから4・5分は歩いたが。キャノン下層から500メートルまではないにしても、現在地は…丁度アンダーラインの北辺りか?」
「恐らくは」

煤けた壁に亀裂は見つからない。トンネルと同じ様に、等間隔で情け程度の灯りが壁に、天井には換気扇と思われるファンが見えるばかり。
それを見上げたハニーゴールドが細められた瞬間、息を詰めた日向はたたらを踏んだ。肩口を押さえ、辛うじて踏み留まったものの、膝が曲がっている。

「どうした」
「…何でもねぇ。ちっ」

濡れそぼるブレザーを放り、乾きつつあるシャツのボタンを外しながら舌打ちを零した日向の表情は優れない。
いつもピンと伸びる日向の背が、微かに弧を描いている様を見た帝王院神威は『背中か』と緩く眼差しを眇め、平気な素振りを演じている男から目を逸らした。

本人が指摘されたくないのであれば、敢えて触れる必要はない。

「気づいたか、高坂。空気が悪い理由に」
「…ああ、この辺りの電力の供給路が落ちてんな。アンダーラインは150アンペア、非常灯にはそれぞれ災害に備えてバッテリーが内蔵されてる。明るさに騙された」
「いつから停止しているのか不明だが、この臭いは酷い」
「二葉辺りが喜びそうな、肉の腐った…死臭に近い」

漸く、道が途切れた。
突き当たりの壁には固く閉ざされた鉄製のドアと、その傍らに天井まで伸びる梯子が掛かっている。

「どちらだと思う」
「まずはフロア毎に確認するのがセオリーだろう。さっき同様、上はいつでも行けるってな」
「同感だ」

現在地が地上のどの辺りになるか、それは日向にも神威にも判らない。同じ景色、同じ暗さの地下道を、ひたすら道なりに歩いてきただけだからだ。
振り向けば、来た道は果てしなく遠くまで続いている。近くの換気扇はやはり停止しており、電子施錠されているとしたら、開くかどうかさえ怪しい。

神威曰く存在しない筈の扉の向こうに何があるか判らない今、下手に触れるのも憚られた。向こうに誰かが居たとすれば、明らかに一般人ではない筈だ。

「問題は開くかどうか」
「ああ」

道なりに続いていた水路は、扉の向こうまで伸びている。
歩いているだけでは気づかなかったが、道なりに傾斜の緩やかな坂になっていたらしく、それにつれて堀が浅くなっていった水路に下水はない。
どれほど大量の下水が流れ込んでも、こちら側までは流れ込まない設計と言う事か。

「鼠共が通れそうではあるな」
「上から放り込まれた可能性もない訳ではない」

日向は扉の前で屈み込み、水路の分だけ空いているドア下の穴から向こう側を覗いてみた。然し中は暗く、穴もそれほどのサイズではないので、見えたものはないに等しい。

「…離れてろ、俺様が確かめる」
「構わん。俺に任せておけ」

ドアノブと言うには味気ない取っ手へ手を伸ばした日向の目の前で、沈黙していた鉄の扉が派手な音を発てた。
後ろから足で蹴りつけたらしい神威を肩越しに睨み、日向は己の脇腹スレスレで停止している長い足を叩く。

「何でもかんでも壊そうとすんじゃねぇ…!誰か隠れてたらどうすんだ!判ってんのか、電波が届かない此処じゃ回線も開けねぇんだぞ!」
「やられる前にやれば良いだけの話だ。此処は生徒会長である俺に任せておけ」
「それも俊の真似かよ!」
「いや、刑事物のBL漫画では、こう言った手合いは蹴れば吹き飛ぶ。…力の加減を間違えたか、現実は難しいものだな」
「公共物を壊すなっつってんだろうが!」

もう一度蹴ろうとしている神威の頭を強めに叩いた日向は、苛立ちのまま取っ手を掴んだ。どうせ開かないと思っていたので乱雑に押したり引いたりを繰り返すと、想像以上に簡単に、鉄の扉は開いたのだ。

「おい、普通に開いたじゃねぇか」
「押して駄目なら引いてみろ、と言う事か。面映ゆい」
「…あ?」

開いてすぐ、白い何かが落ちていた。
地響きの様な音が奥から響いてくる為、警戒しながら踏み込んだ日向は、背筋に走った恐ろしい感覚に動きを止める。



「アダム」

囁く様な声が落ちた。
暑くもないのに滲んだ汗が頬を滑る感覚に息を呑めば、日向の隣を通り抜けた銀髪が数歩先で足を止めるのを見た。

「そなた、こんな所に迷い込んだのか」

静かに佇む背をただ、見つめている。
こんな薄暗い地下で尚も神々しいプラチナは、足元の白い何かに話し掛けている様だった。

「…帝王院?」
「俺の猫だ。スコーピオで、お祖母様と暮らしていた」
「っ、猫だと?…これが、か?」

漸く動いた日向は、振り向かない神威の隣に肩を並べ、屈み込んだ。くたりと眠る様に倒れた白い毛並み、赤い首輪、日向がその背を撫でてやると、温度がない事に気づく。

「ちっ、惨い事しやがる奴が居たもんだ。腹をやられてる。…その割りに出血がねぇのは、どう考えても可笑しい」
「内臓ごと喰われたか。人の仕業ではない可能性が高い」
「元はただの二十日鼠だろ?ンな悍しい事が出来るのか?!」
「…高坂、灯りを」

白い背の裏側、無惨に穴が空いている白猫をブレザーで優しく包み、スラックスのポケットから取り出したスマホのライトで辺りを照らす。



「な、んだ、これ…」

二人の両脇に、天井まで伸びる鉄格子が見えた。
ごうごうと唸る音が戦慄く中、奥にまた、白い何かが落ちているのを見たのだ。

「アダ、ム」
「…は?」
「あれも、アダムだ」

呟いた帝王院神威の声は、珍しく揺れている。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!