帝王院高等学校
カルマ夫婦はとってもデンジャラス
「俊ってば…!」

抵抗するにも力の差があり過ぎて、漸く山田太陽が手を振り解けたのは、暗闇に浮かび上がる深紅の塔を目の前にした時だった。
俯いているのか単に足元を見ているのか、太陽の手をずるずる引いていた男は無言のまま。

「何だよさっきの態度、助けてくれた先輩に向かって失礼だよ?」
「…揺れてる」
「は?ちょいとお前さん、俺のお説教聞いてないのかい?」
「地面が揺れてる」
「え?」

顔を上げた俊の目に見つめられて、太陽は足元へ視線を落とした。然し太陽には何も感じられない。

「…お前さん、叱られたくなくて言い訳してるね?駄目だよ、今日と言う今日は許さないから。つべこべ言っちゃうから。俺だって叱る時は叱るんだからねー」
「猫の匂いがする」
「コラ!お前さんは俺を馬鹿に…って、何処行くのさ!」
「あっち」
「どっち?!」

いきなり駆け出した俊を追い、目を吊り上げた太陽も駆け出した。
相変わらずアスリート並みに足が早い背を死に物狂いで追い掛ければ、間もなくスコーピオの裏手で足を止めた背に追いついたのだ。

俊の雰囲気が変わった様な気配に気づいたのは近寄ってからだったが、その背へ声を掛ける前に、俊の足元の白いものが太陽の網膜に飛び込んできた。


「………う、わ。これって…」
「猫だ。多分、白猫」
「うっ」

火傷でもしたのか、頭部分以外の毛が見たらないそれは、動く気配がない。
屈み込み躊躇わず手を伸ばした俊に、飛び上がった太陽は口を開き掛けて、込み上げてきた苦いものを飲み込んだ。

「ど…どうするの…?!もし変な病気で死んだんなら、触ったら危ないかも…」
「でもこのまま此処に置いておけって言うのか?俺には出来ない」
「そ、そんなつもりじゃないよ。でもせめて何かに包んだりとかさー。じゃないと俊が汚れちゃうし…」
「汚れても、洗えば綺麗になる」

それが何かとばかりに首を傾げた男を認め、太陽は息を詰めた。
勝手に熱を帯びた眼球から零れ落ちそうになった涙を慌てて拭い、己の心の狭さを人知れず叱咤すれば、すたすたと遠ざかる背中に気づく。


「あ…。待って俊、俺も行く」

俊が歩く度にチリンチリンと鳴る音は、彼が抱いている躯の首に見えた赤い首輪の鈴だろう。

「誰かが飼ってたんだね」
「そうみたいだ」
「首輪、名前とか書いてないの?」
「犬の首輪には住所や飼い主の名前が書いてある事があるけど、猫は…」
「そっか」

雑木林を掻き分ける様に真っ直ぐ進む背を追い掛けて、暫く歩いた。
長く学園内で暮らしてきた太陽は動物との触れ合い経験は少なく、昔実家で飼われていたハムスターの死に目にも会っていない。だから動物の死骸を見るのはこれが初めてで、それを躊躇わず抱いている俊が信じられなかったのだ。
けれど俊は太陽の問い掛けの意味が判らなかったのか、それとも気づいていて知らない振りをしたのか、恐らく何処かに埋めてやるつもりなのだろう。

チリンチリンと鳴り続ける鈴の音には迷いがなく、葬送の音色にしては、涼やかだ。

「その子の飼い主、探してあげたいね。いなくなって困ってるかも知れないもんね」
「うん」
「どこまで行くの?」
「多分この辺りに、御神木がある。帝王院の御先祖様が植えた、樹齢800年以上の」
「記憶がないのに良く知ってるね。結構離れてるけど、あるよ」
「祖父ちゃんから聞いたんだ。幕末後、一度切られそうになったらしい」
「何で?」
「当時の当主には娘が居たが、居なくなったそうだ。それを嘆いた当主が、明治時代に御神木を切ろうとした」
「…うわ。あれ?それってもしかして、叶の跡取りと駆け落ちしたお姫様の事?」

太陽の問い掛けに、俊は初めて振り返った。

「そうなのか?」
「多分…。確かその時の当主は、今の学園長のお祖父さんだよ。名前は、」
「帝王院俊秀」
「そう!トシヒデ!………あ、俊の字が入ってる」
「切ろうとした時に、妻の妊娠の朗報が入った。俺の高祖父が21歳の時に出来た娘は15歳で居なくなったが、36歳の時に授かった息子に鳳凰と名付けた。雲雀と名付けられた娘に肖って、恐らくは忘れない様に」
「ヒバリさん、かー。ホーオーって凄い名前だよね、今考えれば」
「そうだな。曾祖母が静岡県出身で、学園長の名前の由来になった」
「だから駿河なんだ。初めて知った。じゃ、俊のお父さんの名前をつけたのは学園長でしょ?何か由来があるのかな?」
「鳳凰の『おう』と、隆子の『たか』を掛けたんじゃないか?学園長の祖父に当たる俊秀は孫が生まれて間もなく亡くなった筈だから、彼から一文字貰ったのかも知れない。秀皇と書いてヒデタカは、明らかに当て字だ」
「成程…」

話している内に、頭上を覆っていた枝葉が消えた。
微かな月明かりの下、天に向かって聳える巨大な大樹が眼前を塞ぐ。携帯を取り出した太陽が光の灯った画面を向ければ、屈み込み瞑想している俊の横顔を照らす。
それに倣って目を閉じた太陽は、動き出した気配に目を開けて、俊の手元を照らした。

「タイヨー、カメラのライトに切り替えて欲しい」
「待って、カメラってどこ押したら起動すんの?俺いっぺんも使った事ないんだよー」
「そっか」
「ごめんねー」
「いや、イイ。腐葉土のお陰で柔らかくて掘り易い」
「手伝うよ」

携帯をグサッと地面に刺したワイルドな太陽は、袖を捲ってほりほりと地面の土を掻き分ける。確かにふわふわと柔らかい土は、素手でも掘れない事はない。

「もうちょい深い方が、この子も安心して眠れるかな。良し、こんなもんでどうだろ。…あれ?もしかしてこの子、男の子かも」
「本当だ」

太陽が掘った穴に躯を置いた俊は、毛が剥げている尻尾の下を覗いて頷いた。

「ん、ぴったりだ。後は埋めてあげないと…」
「何か目印置いとかないと、飼い主さんが見つかった時にお墓の位置教えてあげらんないよ。どうしよっか、このまま俺の携帯刺しといても構わないけど?」
「そうだな…。ああ、そうだ。これはどうだろう」

太陽と共に墓を埋めた俊の手が、己の首元からキラリと光る何かを取り出す。携帯を掴んだ太陽が照らした掌に、ドッグタグが煌めいた。

「あ、れ。これって、社員証に似てる?」
「社員証?」
「そう、理事長から貰ったプレートに似てる。何かそれよりキラキラしてるよーな…」
「これを此処に置いておけば、お墓の場所が判る。此処は風も当たらないから、飛ばされたりしない筈だ」
「うん。御神木もあるし、安心だね」
「うん。安心だ」

顔を見合わせ、二人はへらっと笑う。
パンパンと手を払いながら立ち上がった太陽の隣で、両手を合わせた俊の手元でチリンと鈴の音。どうやら首輪を外していた様だ。

「それ、飼い主さんに?」
「ん。首輪を見ればきっと判る」
「暗くて良く判んないけど、かわいい音色の鈴だよね」
「ん」
「頭が白かったから、きっと真っ白で綺麗な猫だったんだよ。…あ、違うか、イケメンだったんだ」
「そうだと思う。きっとイケメンだった」
「…でも、酷かったね。肌、焼いたにしては焦げた感じでもなかったし、どちらかって言うと、薬品で溶けたみたいな…」
「ああ。少しだけ、指が痺れた」
「えっ?!大丈夫?!」
「大丈夫だ。俺の手は王水で焼いても次の日には治る」
「嘘だろ!見せてみて、怪我してるかも知れないから!」
「タイヨー、見てて」

元来た道を戻る途中、暗闇で凄まじい音が響いた。
何かが倒れてくる音に尻餅をついた太陽は、握っていた携帯で目の前を照らす。

「な、なに今の!」
「ごめん、加減が難しい。骨が折れる程度で殴ったつもりだったんだ。でも木が折れてしまった」
「う…そ」

言葉通り、肩を落としている俊の目の前の木が、途中から折れていた。鈴を握っている右手で折れた木を申し訳なさそうに撫でながら、左手を握ったり開いたりしている所を見るに、どうやら左手で殴ったのだろう。

「しゅ、俊、左利きだっけ?」
「いや、右利きだと思う」
「ですよねー。…ほ、ほんとに何ともないの?」
「何ともない。骨折しても、大体一週間で新しい骨に生まれ変わる。切り傷は早い時だとその日の内に消える。どうやったら死ねるのか不思議に思って漂白剤を飲んでみたり、乗馬中に走ってる馬の上から落ちた事もある。けど生きてる」
「や、やめてよ、そんな事…!絶対やっちゃ駄目だ!な、何でそんな…!」
「昔の話だ。俺は自分が人間だと証明したかった」
「な…」

腰が抜けてしまった太陽に、俊は手を伸ばさない。
痺れたと言う彼の手に、何が付着しているか判らないからだろう。

「切れば血が出る。焼けば水脹れが起きる。けれどどれも次の日には治る。皮膚が一番早い。口の中を切った時は2日懸かった。内臓はもっと時間が懸かるんだろうか。でも証明は出来ない。何を食べても消化する。母親に似て俺の胃は強い」
「…」
「ごめん、聞きたくなかったな」
「腰が抜けた…」
「自分で立って」
「手、貸してよ」
「駄目だ」
「漂白剤、おいしくないよね。知ってるよ、昔、俺もジュースと間違えて飲んだ事あるから」

吊り上がった切れ長の瞳が丸まるのを見上げ、山田太陽は不格好な笑みを滲ませた。

「それ以来、刺激的な飲み物が苦手なんだ。ソーダ飲むとあの時の味と感覚思い出す。ぴりぴり、ぴりぴり、喉が焼けるんだ」
「…他には?」
「それだけ。親は俺が漂白剤飲んだ事なんか知らないし、次の日ちょっと下痢したくらいで、こうして今まで生きてる」
「………そう、か」
「お前さんが化け物だったら、俺もそうかもね。王水は判んないけど、俺ほんとは物凄い猫舌なんだ。熱いお茶飲むと百発百中、口の中の皮が剥げる。でも次の日には治ってるよ」

からっと笑った太陽は、手を伸ばして俊の手を掴む。

「理由は簡単さ。榛原は帝王院の毒味役だったから、遺伝子が毒や怪我に強いんだ。でもお前さんのそれは、何だろうね」
「判らない」
「判らないと恐いね」
「うん」
「でも便利だ」

立ち上がった太陽が秘密を明かす様に囁けば、丸めた双眸を瞬かせた男は、神々しいまでの笑みを浮かべて、

「ああ。…とても便利で、俺の自慢の特技なんだ」
「だったら胸張っていいと思うよ。中二病上等じゃん、薬草要らずのパーティーなんて最強のチートだからねー」
「そっか。タイヨー、顔に土がついてる」
「えへへ、洗えば綺麗になるんだよー」
「そっか」
「知らなかったの?これが水魔法、名づけて『シャワー』」

戻っていく二人の足並みは、軽い。




















「空いた」
「空いた(°ω°)」

どさっと言う音と共に錦織要の目の前の壁がなくなり、砕けた分厚いコンクリートが狭い空間に散らばった。要の背後から中を見ていた健吾は要の方向へ流れ込んでいく水流を掻き分け、既に膝下まで浸かっている廊下を教室まで歩く。水圧も勿論の事ながら、膝まで捲し上げているスラックスが水を吸って鬱陶しいからだ。
警報器の穴にはまり込んでいた要が水没しない様に、身を呈して水の流れを塞き止めていた健吾は満身創痍で、体力馬鹿と言えど、ふらついている。

「おひゃ?!( ´_ゝ`)」
「んな浅い所で飛び込むなや」

教室の窓まで後一歩の所で転び掛けた健吾の腕を掴んだ裕也は、健吾よりずぶ濡れだ。辛うじて転ばずに済んだ健吾は礼を言う前に目を丸め、いつの間にかブレザーを脱いでいたらしい裕也の張り付いたシャツを眺めた。

「おま、つーかそれ濡れ過ぎっしょ!うっわ、パンツグショグショじゃね?(ヾノ・ω・`)」
「まーな。ギャランドゥもやべーぜ、太股の辺りに張りついてる気配」
「マジかよw無駄毛が無駄に濃いっつーのw」

からっと笑い捨てた健吾は慌ただしい教室内を覗き込み、教室後方のロッカーに背を預けている佑壱を手招く。

「副長、カナメが逃げ道確保したっしょ!どかどか水が流れてってるから、想像通り出られそうだべ(*σ´Д`*)」
「…良し。向こうがどうなってるか、お前とナミオで見てこい。ある程度通れそうなスペースがあったら、全員で出るぞ」
「は?全員って、何人か出れば良いんじゃねぇの?俺が外に出りゃ、ダッシュで助け呼べるべ?(´ε`*)」
「いや、それまで保つ保証がねぇ」
「へ?」

健吾が首を傾げた瞬間、ロッカーの裏側から軋む音が聞こえてきた。必死にバケツリレーをしている生徒らは気づかなかった様だが、隼人がちらりと振り向いたのは健吾にも判る。
ロッカーに背を預けたまま仁王立ちしていた嵯峨崎佑壱は両腕を広げ、表情一つ変えず背後のロッカーを押さえた。シャツ越しに佑壱の腕の筋肉が膨れ上がるのを認めた健吾は窓枠に足を掛けたが、裕也から頭を押さえつけられて動きを封じられたのだ。

「デケー声出すな、狼狽えんな。…副長、それイケるんスよね?」
「おう、当然だ。俺が押さえててやっから、とっとと健吾とナミオは行け。…出来るだけ早く何とかしろ」
「…わ、判った(;´艸`)」

教室内への浸水は、今の所は、何とか食い止められている。
廊下で奮闘していた健吾にしてみれば、皆は何をやっているんだと言いたい所だが、佑壱だけはとっくに色々気づいていた様だ。
隼人も予想していたのか、教室内への漏水を嫌がっている所を見るに、教室が最も安全な構造だと皆が思い込んでいるからだろう。

万一此処が壊れる事があれば、士気に影響する筈だ。

「…ホーク、俺が先に出っからついてこいや(°ω°)」
「判った」

佑壱を心配げに一瞥した北緯は、懐中電灯代わりに幾つかスマホを握っている。他の生徒らから預かったものもあるのか、これで光源は確保されたも同然だろう。どれも充電が心ないものばかりだが、数があれば事足りる。

「カナメ、俺ら今から出るからよ。後は頼んだっしょ(ヾノ・ω・`)」
「任せます。気を付けて」
「危ないと思ったら即リターンすっから大丈夫(*´3`)d」

水嚢代わりのゴミ袋で脱出経路への水の流出を食い止めてくれたらしい要と軽くハイタッチし、ゴミ袋を跨ごした健吾は潜り込む前に背後を振り返った。教室の窓辺に佇んでいる裕也の目が真っ直ぐ突き刺さり、片手を挙げる。

「じゃ、行ってくるからなハニー(ヾノ・ω・`) 俺の遺産はお前が食い潰して良いからよ!(・ε・`)」
「マジか、オメーの財産なんか乳だらけのAVしか思い当たんねーぜ」
「バーカ、グラビアもあるっつーの(*´`*)」

ひらひらと手を振ってきた裕也に笑って、健吾は暗い穴の中へ身を投じた。


想像より狭い。
足元と頭上に固い金属があり、その中間が空洞になっているものの、人一人が辛うじて這える程のものだ。

「ホーク、大丈夫かよ?(´Д`)」
「何とか。ケンゴさん、ライト使って」
「おー」

後ろから北緯に渡されたスマホの光を前方に向ければ、廊下の長さだけ続いている事が判った。廊下の丁度中間にあった警報器からは、どちらに向かうべきか判らない。

「俺ぁとりあえずこっち見てくるからよ、オメーは反対側を任すっしょ(ヾノ・ω・`)」
「OK、何か見つけたらとりあえず叫ぶね」
「水の音が糞煩いからなるべく大きな声で叫べし!ρ(´ε`*)」

空間に、ビキッと言う音が響いた。
潜り込むまで判らなかったが、全体的に振動している。ざばざば凄まじい水の音が鼓膜を支配し、近くに居る北緯の声すら聞き取るのに苦労する程だ。


「やべーやべー、マジだ、こりゃいつぶっ壊れても可笑しかねーわ((;´・ω・`))」

廊下の壁には太いレールが二本走っている事もあり、易々崩れる事はないだろう。然し教室の壁がいつまで保つかは、佑壱の指摘通りかなり怪しかった。

「ぺっぺっ。…畜生、埃かさっきの破片か口に入った、えんがちょ(´艸`) つーか本気でうっせーな、此処…」

どうも健吾が向かっている方向から震源地らしい。
這いながら進むごとに水の音が酷くなり、暫く進んで動きを止めた。

「…中からは判ねーけど、結構傾いてんのな。そうか、だからあっちの廊下の浸水よりこっちのが早かった訳だ。くっそ、こっちは完璧ハズレっしょ!戻るしかねーか!(´;ω;`)」

健吾の前方は目に見えて水に浸かっている。
足場代わりのレールが水の中へ消えており、奥に巨大なパイプの様なものが見えた。
一見するとそれが壊れている様には見えなかったが、教室のロッカー裏の壁が吹き飛びそうだった事を鑑みるに、当初の推測である床下から浸水している訳ではなさそうだ。

中腰のままくるっと向きを変えた健吾は、両脇の壁に手をついたまま北緯の背を照らした。叫ぼうにも北緯はかなり奥へと進んでおり、声が届きそうな距離ではない。
一度外に出ようと考えた健吾は、要が空けた穴へ上半身を突っ込んだ。


その時だ。凄まじい悲鳴が聞こえてきたのは。


「さっ、さがみ…紅蓮の君!大丈夫ですかっ、紅蓮の君ー!」
「誰か、誰かぁあああ!!!」
「ユウさん?!」

外とは違い、水の音も振動も少ない廊下で皆の悲鳴は良く通る。
何事だと慌てて飛び出た健吾は、ゴミ袋を飛び越えた瞬間、壁ごとロッカーが雪崩れている教室に気づいたのだ。

まるで爆発の様な水流が教室に雪崩れ込み、巨大なパイプが割れているのが見える。
水源地はやはり教室の裏だったらしく、耐震性・耐圧性共に最強を誇るSクラスの教室だからこそ、此処まで保ったとしか考えられない。壁が丸ごと剥げており、無惨な光景だ。

「お、おい、どうしたんだよ!ユウさんが何だって?!」
「ケンゴ、お前もう戻ってきたのかよ…!」

裕也の声に教室の外から中を覗き込めば、薙ぎ倒された壁ごとロッカーを両手で支えている背中が見えた。3つごとにセパレートしているロッカーの大半は倒れており、裕也が支えているロッカーの下、凄まじい勢いで注ぎ込まれていく水の中に倒れている赤毛が見える。
青褪めた隼人を筆頭に数人が佑壱を抱えようとしているが、当の佑壱は下半身がロッカーの下敷きになっているのか、抜け出せそうにない。

「退けハヤト、お前がロッカー支えろし!俺がユウさんの足引っこ抜いてやっから!(`・ω・´)」
「んなロッカー吹っ飛ばしてやらあ」

これまでの浸水速度とは比べ物にならない水の勢いだ。
背が高い隼人が裕也と共にロッカーを持ち上げている間に、健吾と数名掛かりで佑壱の両足を引き抜いてみれば、それを見た大半の生徒が悲鳴を噛み殺したのが判った。

「うひゃ。…何してんのユウさん、もしかして吹き飛んだロッカーから皆を守ったなんて言わねーっしょ?(・ω・) ねーわ、そりゃ幾ら何でもねーわ、だってこれ…完全に両足イってんべ?」
「あは。左足首はあ、これ完全に折れてるねえ…」

息を乱し無言ではあるものの表情はしっかりしている男は、痙き攣った健吾の頭を宥める様に叩く。右手の包帯は水を吸っていた為、今にも泣き崩れそうな野上の手によって解かれた。

「それだけじゃないよ…。やっぱり、右手も折れてる…」
「ざけんなや!どうすんだよこんなん、向こうに担架担ぎ込む広さなんてありゃしねーんだぞ?!(;´Д⊂)」
「…煩ぇ、デカい声出すな。ぶっ殺すぞ健吾」

漸く口を開いた佑壱はいつもの呆れ顔で、血まみれの足に構わず立ち上がろうとすらしている。
声もなく佇んでいた生徒らが慌てて手を貸し、倒壊しているロッカーから佑壱が遠ざかるのを確認し、隼人と裕也は手を離した。どかどかと流れ込んでくる水から守る様に、倒れたロッカーで何とかバリケードを作り、数名掛かりで机の配置を変えて簡易ベッドを組めば、されるがまま嵯峨崎佑壱の体躯はそれに乗せられる。

「ま、待って、靴からも血が…」
「嘘でしょ?ちょ、何これ、右足の指が青紫色なんですけどお?!ママ、これもしかしてえ、さっき壁を蹴ってた時の奴?!」
「あー、煩ぇ。聞こえねぇな」
「アンタ馬鹿なのお?!こんなんなるまで頑張れとか誰も言ってないし!満身創痍越えて死にかけてんじゃん、こんなのさあ!馬鹿なのお?!もう馬鹿過ぎて隼人君泣けてきたあ、ばかイヌー!」

本気で目を潤ませている隼人は苛々と椅子を蹴り飛ばし、要が呆然と見守る廊下へ出ていった。
唯一無事だったと言える左手で顎を掻いた『馬鹿犬』は、要と隼人が顔を覗かせた北緯と何やら話しているのを見やり、水没していく教室内で手当てに使えるものを探している後輩達を、机の天板を叩いて呼び止めたのだ。

「おい、道が見つかったっぽいぞ。お前らはとりあえず慌てず騒がず、カルマに従ってついていけ。良いか、これは左席…いや、中央委員会会長命令だ」

佑壱の言葉に反論しようとした全員が、その前に回り込まれて沈黙した。中央委員会会長の命令に拒否権があるのは、左席委員会会長だけだ。

「…健吾、さっき外に出て何か判ったか?」
「空間全体が傾いてるっしょ。角度的には、あっちに」

教室後方の左側を指差した健吾に、全員が目を見開いた。優秀な生徒ばかりだ、その意味が判らない筈もない。

「外に出ないとはっきりした事は判らねぇが、此処が地下だとすれば、下手したら外は海かも知れねぇな」

地下に遊歩道がある事は、進学科の生徒は知らない事だ。何せ使う理由がないので、それを知っているのは逃げ道として使う事のあるカルマくらいだろう。
警備員や業者が利用する地下道は、巨大な迷路の様なもので敷地内の必要箇所全てに繋がっている。

アンダーラインの地下駐車場に頻繁に出入りしている佑壱や、近頃免許を取得し、高等部生徒には認められていない車を隠し持っているチャラ三匹も度々使う抜け道で、隼人が偽造した佑壱の中央委員会権限で通れない場所やドアはない。

「多少面倒とは言え、泳げば行けない距離でもない筈だ。とりあえずダストシュートに水を流し込むか、それが待てねーなら穴ん中に飛び込めば、アンダーライン地下四階のベルトコンベアまで繋がってる。そこから出ろ」
「お待ち下さい、それでは紅蓮の君はどうするのさ。その足ではまともに歩けないのでは?」

風紀委員である溝江の静かな声に、佑壱は息を吐いた。

「歩けるに決まってんだろ…と言いたい所だが、今の俺はお前らの足枷にしかならねぇ」
「僕らの為に身を張って下さった紅蓮の君を、足手纏いと思っている人は此処には居ないのさ」

頷いている後輩から見つめられた男はもぞりと身を捩り、居心地が悪そうな表情を晒す。

「…流石にこんだけ派手に漏水してりゃ、セキュリティが気づくだろ。少なくとも一時間以上この様だ。幸いにして最悪な事に、この教室の位置はルークに知られてる。モードチェンジが止まってれば、中央委員会が動いて下さるだろうよ」
「然し陛下は我々を謹慎になさった方なのさ。信用しない訳ではないけれど、信頼には至らないのさ」
「総長が居ない事までは気づかれてねぇ筈だ。だったら、奴は必ず動く」
「何故そう言い切れるんですか?陛下が天の君の兄上だから?」
「総長が総長だからだ」

佑壱の言葉に、説得力はない。
判る様で判らない台詞に皆が沈黙すれば、廊下で話し合ったカルマ五人の中から要が声を上げる。

「この先に下水道に続いていると思われるパイプを見つけたそうなので、それを登って教室天井部分に上がります。北緯とハヤトが先行しますので、一名ずつ出て下さい」
「まず先行で5人、身軽い奴からだぜ。上に出られたら、換気口から指示がある」

暗い表情ながら一刻を争う為、要と裕也の指示でスポーツテストの成績順に数名が脱出口へ潜り込んでいった。
安堵の息を吐いた佑壱は簡易ベッドに座ったまま、近づいてくる要を目を向ける。

「若干ですが、たった今、水の勢いが落ちました。もしかしたら上水を止めたのかも知れません」
「そりゃ助かった。だが此処もいつまで保つか判らねぇ、出来るだけ早く皆を連れてってやれ」
「ユウさんは上から引っ張り上げます」
「あ?」
「ハヤトの意見です。狭い所を引き摺るより、天井から引き上げた方が効率的だと言う意見で、俺達は一致しました」
「笑わせんな、テメーらの手なんざ借りて堪るか」
「これは命令ではありません。…単なるお願いですよ、副総長」
「はぁ?」
「全員で外に出ましょう。総長ならきっと、そう仰る筈です」

真っ直ぐ見つめてくる青い瞳に、赤い双眸は一つ、瞬いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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