帝王院高等学校
どなたもそなたも括約筋が活躍中っ!
紡ぐべき言葉が見当たらず、けれど心地良い沈黙に身を委ねて、見上げた夜空は吸い込まれそうなカフェブラック。

いつか誰かが宇宙を茶色だと言った事を思い出した。


グー。
そんなアンニュイな感傷に浸っていた山田太陽の鼓膜が、無粋にも程がある音を聞いたのは、たった今である。

なだらかなアーチ型の屋上にはフェンスも手摺もなく、下を見れば遥か闇の果てに地面が見える悍しい高さにも関わらず、いっそ潔い程の現実逃避スキルでロマンに浸っていた太陽は、やるせない感情を一度飲み込み、深呼吸の様に吐き出した。

「そう言えばお前さん、お腹空いてたんだったねー。どうしよっか、まださっきの変な人達、俺らを探してるかな?」
「足音は離れてる。声を出せば確実な位置が判るんたが…」
「なーる、無言で追っ掛けてるんだ?」
「俺の事もタイヨーの事も知ってた。彼らは誰なんだろう」
「多分ステルシリーだと思う。何か言ってなかった?組織がどうとかさ」
「組織内調査部がどうだとか」
「やっぱりね。OK、理事長から貰ったアレなら神崎に預かって貰ってるから大丈夫。にしても庶務の野郎、何処で嗅ぎ付けたんだろ…」
「庶務?」
「平民が権力を持つ事を、皇帝様はお許しにならないの」

肩を竦めながら吐き捨てた太陽は、尻這いで俊の隣に近寄る。
スラックスのポケットを漁り、取り出した携帯のストラップを暫し眺めて、ぱかっと開いた。

「桜が起きてたら何か作って貰えると思うんだ。電話は流石に悪いから、メールするね」
「携帯…。そう言えば、俺の携帯は何処にあるんだろう」
「俊の携帯?…待って、掛けてみる」

安部河桜宛てに短いメールを送信した太陽は、立て続けに俊のナンバーをコールする。然し間もなく聞こえてきたのは無機質な自動音声で、電源が入っていない事を告げていた。

「やっぱ思い込みじゃないっぽい」
「ん?」
「俊、貴葉さんって知ってるだろ?どう言う関係?」
「誰だ?」
「え?」

眉を寄せた太陽が俊を見やれば、危機感のない男は腹を唸らせながら、きょとりと首を傾げる。今やオーケストラ並みに騒がしい腹の虫に二人は沈黙し、話は後だとアイコンタクトだ。

「その話はどっか落ち着ける所でしよっか。返信がない所を見ると、桜達は寝てるみたいだ」
「『達』?」
「そうだ、清廉の君の事は判るよね?加賀城君より前からカルマに居るって言ってたから、えっと…東條さん。判る?」
「東條…キヨか。判る。キヨとキィは猫毛で似てる」
「キィって川南先輩のこと?確かに柔らかそうな髪の毛だけど、東條さんはお洒落坊主ばりに短髪だよー。目が青いエグザイルだよー」
「キヨは太郎の生キャラメルが好きだ」
「太郎?」
「太郎の生キャラメルもイイけどイチの仮面ダレダー弁当が食べたい…」

グー。
そろそろこの腹の虫で居場所がバレる恐れがあると悟った左席委員会副会長は、大して長くない足で立ち上がり、すぐに腰が引けて会長に抱きついた。
今更、余りの高度にビビって座るに座れない太陽の腹にグリグリ頭を押し付けた男は無表情のまま、ぱちぱち瞬く。

「タイヨー、痩せすぎだ。胎教に悪い」
「たいきょー?」
「くんくんくん、仏壇の匂いがするぞ?くんくんくん」
「ちょ、くすぐったい!もー、馬鹿ー、嗅がないでよー。セクハラだよ?」
「貴公子が好きだから?」
「…もーっ、揶揄わないでよっ。そうだよ!俺は二葉先輩のなのっ」

ぷいっと頬を膨らませてそっぽ向いた平凡の頬は真っ赤だ。
ぱちぱち瞬きながら何事か考えたらしいカルマ総長は、一度頷いてから満面の笑みを浮かべた。
それに気づいた太陽は顔を染め、哀れなほど狼狽えていたが、俊は気づいていない。

「判った。二葉先輩を倒せば、タイヨーは俺のものになるんだな」
「なっ、本気かい?!」
「大丈夫だ。彼は俺の敵にはならない。何故ならばあの子は、弱い俺よりもずっと弱いからだ」

微かな月明かりなど此処には届かない。
床から立ち上るライトアップに照らされた、穢れなき無垢な笑みが吐いた言葉の意味が太陽に伝わるまで、数秒を要した。

「お前さん、俺を怒らせたいの」
「何故だ」
「っ、ネイちゃんに変なコトしたら、殺すから
「そうか」

目を限界まで見開いた太陽が牙を剥き、俊の目の前で唸る様に呟く。それをうっとりと見つめた漆黒の双眸が細まり、再び、赤い唇が吊り上がっていく過程。


イイよ

どさり、と。
腰を落とした太陽は、何度も何度も口を開いている。然し零れ落ちるのは吐息ばかり、音はなかった。

「約束しただろう、迎えに来るって。なのにお前は俺以外を受け入れたのか?本当はあの時、俺が約束を守らなかったから怒っていたんだろう?だから忘れた振りをしてるんだ。でも俺は覚えている。俺はお前を守る男になったんだ。何年も、何年も、その為だけに生きてきたんだよ。だからもう、怒らないで欲しい」

うっとりと。薄い唇は囁いた。
夢でも見ているかの様な囁きに、太陽は何度も首を振った筈だ。喉仏を震わせただけで、零れ落ちる吐息は声帯の恩恵を受けていない。
惨めに喘ぐばかり。違う、それは自分ではないと、何度も、何度も。

「食事をしよう、安全な所で。心当たりがあるんだ。此処が帝王院学園なら、あの人が居るかも知れない。ずっと会ってみたかった。遠野秀隆が記憶していない、俺の家族」
「…」
「大切な人は家族に紹介しないと。…震えてるな、タイヨー。やっぱり寒いのか」

どうして、判ってくれないのか。
見覚えのある顔の、見覚えのない眼差しに見つめられたまま、山田太陽は焼ける様なうなじの痛みに目眩を覚えた。


「ああ、本当に。お前の赤い瞳は何て綺麗なんだろう、まるで太陽の様だな…」

太陽はそこで漸く、理解した。
いつか自分が二葉の流す血を見て『赤』を拒絶した様に、彼もまた、拒絶したのだろう。恐らく。

「お前さん、は」
「何?」
「人として『完璧』に壊れてしまったんだね」

勝手に滴り落ちた涙は、誰のものだろう。
腹の奥底で子供が泣いている。目の前でたゆたう様に微笑む男はきっと、自分の知る『親友』には戻らないのだ。

「『俺』の望みを叶えようとしているのかい。だから二葉先輩を俺から取り上げて、俺を守ろうとしてる」
「違う」
「お前さんはいつから神様になったんだい?俺の知ってる遠野俊はそんなんじゃない、自分勝手で優しくて賢いのか馬鹿なのか判んなくて、ビビりで喧嘩が強くて不良に挨拶されてる癖に親衛隊にはペコペコしてて、さ」
「それは俺じゃない」
「俺には判るよ、だってアキが泣いてる。鍵を手に入れたのに。でもきっとその所為でお前さんは、壊れてしまったんだ」
「俺は初めから俺だ。他の誰でもない。だからタイヨー、一緒に居よう。俺は壊れたりしない。お前が連れ回しても意地悪をしても絶対に、」
「まだ歩けない夕陽を二階に連れていこうとして転ばせて、やめろって言ったネイちゃんに逆らって雨の中走り回って、助けられて、全部忘れてのうのうと暮らして来た癖に、二度も助けてくれたネイちゃんに俺が何をしたか、教えてあげようか?」

ひたひたと、ひたひたと。
頬を滑り落ちる雫を止められないまま、伸ばした両手は小刻みに震え、神様の頬を挟み込むのだ。

「もういいんだよ。約束は終わり。もうやめようよ。俺は、初恋の『しーくん』に自分を犠牲にしろなんて、願ってない」
「どうして俺を否定するんだ?」
「だってお前さんは俊じゃ、」
「黙れ」

囁く様な声が鼓膜を貫いた。
夜に熔ける双眸は爛々と煌めいて、微かな灯りすら飲み込んでいる。

「俺が俺だ。他の俺なんか必要ない。皆を天網から解き放ち、玉座を壊す。全ては騎士になる為に」
「しゅ、ん」
「俺は偽善者じゃない。俺は独り善がりな独裁者だ。全ては自分の望むままに。俺を玉座に縛りつける帝王院のカルマを解き放ち、ただの男になる為に」
「…ねぇ、俊」
「約束は果たされていない。俺が手放したのはまだ、帝王院だけだ。冬月も、明神も、灰原も、雲隠も。帝王院を縛る四柱を壊せば、俺は俺として生まれ変わる事が出来る筈だ」
「俺の名前、言えるかい?」
「俺の愛しい、ルーク」

誰か。
ああ、神様。

道化師はつまらないままごとで、心優しい魔法使いを殺してしまった。


「そう、なんだね…」

心優しい魔法使いはきっと、14歳の時に全てを知ってしまったのだろう。そうして心ごと壊してしまったのだ。

「お前さんは、ルークの騎士になりたかった…」
「約束しただろう」
「…その為に生きてきた」
「そう、探したんだ。そして想像した。俺を縛るのは帝王院と言う楔。騎士に玉座は必要ない。だからと言って帝王院を消してしまう事は俺には出来ない。家族だからだ」
「………」
「冬月は既にない。けれど榛原は消せない。家族だからだ」
「じゃ、あ」
「真っ先に雲隠を探した。東雲は一介の子供には手が出せない。だったらどうすればイイ?俺は、物語を集めた」

聞かない方が良かったのだろうか。
けれど知らないまま生きていくのはきっと、無理だったに違いない。
集う運命なのだ。初めから。

この男が帝王院俊である限り、刃向かえない運命。

「幾つも、幾つも、掻き集めた。そうして雲隠陽炎の生涯を幾重にも想像した。きっと彼は大人しい性格だったんだ。だから誰の記憶にも残っていない。けれど雲隠には『鳳凰の両翼』と言う二つ名があった。鳳凰の別名を知っているか」
「…孔雀?」
「英語で、フェニックス」

不死鳥、と。
頭の中で翻訳した太陽の唇が震え、奇妙な形で吊り上がる。それならばやはり、全ては12年前からだ。この狂ったクロノスはあの時から、その歯車を回し始めたのだろう。

「イチ先輩…を、どうしたかったの…?」
「玉座には脚が4つある。座れなくする為にはどうすればイイと思う?」
「神崎の事も、判ってた…?」
「俺は唯一歌える歌がある。それ以外の歌は歌えない。狩人に狩られたからだ」
「…狩人って、」
「俺を墓標にした事を悔いていた。けれど悔いる必要はない。俺はあらゆる人生を想像し、記憶する事が出来る。冬月から引き継いだ能力だ。そうして俺は全てを吸収する事が出来る。帝王院の能力だ。彼は酷く悔いていた。完璧な人間など存在してはならないと。そして彼女もまた、無意識でそれに気づいていた。だからカルマを与えたんだ」
「判んない…判んないよ、俊。もう、やめようよ…」
「俺から歌を奪い、俺に水への恐怖心を植え込み、何て酷い親子だと思わないか、タイヨー。オリオンは一人じゃなかったんだ。言葉を交わさなくても通じ合えるなんて、親子の奇跡としか思えない」

帝王院学園は、この男にとって足枷でしかないのだろう。
だから訪れるつもりはなかった。けれどそれを翻した理由は恐らく一つ、約束を果たせなくなってしまった事に気づいたから。

太陽は己の想像でしかない推測こそ真実なのだと、何故か強く確信している。寧ろそれ以外の理由など、存在しないとすら思えた。

「でも俺はそんなに駄目なのか?俺は生きる価値もないのか?俺は俺の望みを叶えては、いけないのか?」
「初めはきっと、そうだったんだろうね。でもお前さんは気づいたんだ。多分きっと、出来なくなったんだ。…ね、俊。俺はお前さんの大切な『ルーク』じゃない」
「何を馬鹿な事を言うんだ。お前は俺の宝石」
「判るよ。俺の特技だもん。でも目を背けた所で、現実ってさ、何にも変わらないんだ」
「…お前はやっぱり怒ってるんだな。俺が12年前の8月18日に、約束を破ったから」
「…俊、俺は8月16日から8月28日まで入院してたんだ。お前さんと約束なんかしてない」
「嘘だ」
「だったらどんな約束だったか言ってみろよ!」
「満月を一緒に見ようって言ったじゃないか!日差しに当たれないって言ったのは、お前だろう?!」

くしゃりと、顔を歪めた太陽は不器用に微笑む。
初めて声を荒らげた遠野俊の表情はやはり無愛想なままだったが、曇りなき双眸が目に見えて揺れている事に気づけば、彼は無表情な男ではない。寧ろ感情豊かな男だ。

とても、判り易い。

「俺は山田太陽だよ?あはは。…そんな俺が、日差しに当たれない?太陽に当たれないヒロアキ?そんな下手なギャグ、受けないよ?」
「で、も」
「左席委員会に庶務がいるんだ。名前はBK灰皇院。生まれつきアルビノで、日差しに当たれないんだって。それを教えてくれたのは、お前さんだ」
「灰皇院…」
「そう。帝王院の影。でも、帝王院から出ていった全ての人間を把握してる人はいない。ましてホテル王の息子だって言ってたから、もしかしたら冬月の末裔かも知れないだろ。だから俺は知らんぷりした。だって俺は榛原じゃなく、山田太陽だもん」

腹に巻き付いている腕を叩けば、僅かに力が抜けた。けれど離れようとしないのは未だに、俊が現実を受け入れていないからだろう。この優秀な男に、判らない筈がないのに。

「だってさ、入学初日からイチャイチャしてたんだ。幾ら同じクラスの帝君同士だからってさ、普通、外部から入ってきたら嫌がるよ。同じお箸でご飯食べたり、同じグラスでコーラ回し飲みしたり。例えば家族でもさ、抵抗あるよ」
「…俺が、そんな事を?」
「うん。そんでさ、イチ先輩も神崎も、錦織だって藤倉だって高野だって、お前さんの事が大好きだって顔してた。でもさ、お前さん、高野の事は苦手みたいだけど…それでもカルマの皆の事は、手放しで大好きだろ?」
「何で、判るんだ」
「判るよ、だって変に甘やかさないんだもん。帝王院は完璧主義者ばっかなんだ。目に映る全員を助けずにはいられないお人好しばっかだって、一度だけぐでんぐでんに酔っ払った父さんが言ってた」
「…大空さん、か」
「ね、俊は何処まで知ってるの?帝王院と、灰皇院のこと」
「判らない。…判らない事だらけだ。俺は全てを知っている。聞こえたもの、見たもの、あらゆる物語を脳が覚えて、繋げてしまう。だから時々、全く知らない未来も見える」

何と言う脳の許容量だと、太陽は感嘆めいた息を吐いた。未だに腹の奥底で唸る自分の本能を持て余しているが、俊の恐ろしさを感じているのか、今はとても大人しい。

「やっぱ、何処かでご飯を食べよう。でも食堂は閉まってるし、アンダーラインの出店は24時間やってると思うけど、人目が多すぎる。…そうだ、場所に心当たりがあるって言わなかった?」
「ある、には、ある…が」
「何だよ、急にしどろもどろになっちゃってさ。遠野会長、さっきまでの勢いは何処に消えちゃったの?」
「………ごめん…」
「ネイちゃんに酷い事するってさ、ちょいとかっこよかったのに」
「タイヨー、が。望まないなら、しない」
「ん。約束。破ったら、友達やめるから」

小指を差し出せば、艶やかな黒が見開かれた。
静かな夜の眼差しから一粒の雫が落ちるのを認め、苦笑一つ。

「何だよ、泣かないでよ」
「友達」
「そうだよ。昔言ったろ、俺は榛原じゃないからお前さんの手下にはなんないって。だから友達になろうってさ。…忘れちゃったのかい?」
「………そう、か。今、思い出した…」
「ほら、完璧な記憶なんてないんだよ。それにこの世には嘘が散乱してるから、鵜呑みにすると間違った物語が出来上がってしまう事だって有り得るじゃんか」
「っ」
「あはは、馬鹿素直さんめ。やっと気づいた?」
「…ん。気づいた」
「お前さんは、早とちりのお馬鹿さんだ。昔からずっと、天才的な大馬鹿野郎さ。だから俺を神帝陛下なんかと間違えるんだ」

瞬いた俊の顔から表情が消えるのを見た。
やはり、知らなかった様だ。今頃天下の馬鹿野郎は、人間離れした脳を回転させている事だろう。

「ABSOLUTELYの総帥を見た事は?」
「…一度だけ。夕暮れ時に絡まれているのを助けた事がある。…中学二年の、春頃だ。後から彼が神帝だと知った」
「理由は?」
「………イチの義兄様だから」
「エアフィールド=グレアムって言うんだって」
「知ってる。…12年前のあの時、お前…じゃなく、あの子を義兄様と呼んでいた。だからイチが雲隠の末裔に違いないと気づいた11歳の時に、俺はイチの興味を得たんだ」
「小6の時ってこと?そんなに前から?」
「小5。…ごめん、嫌いになっただろう」
「いやー、何か今更って気もするし、もういいよー。それにしても凄い行動力、流石は腐男子だねー」
「普段死?俺は普段死んでるのか?」
「…あー、そっからか。OK、この山田太陽様がお前さんを正しい悪役にしてあげる」

面白い顔で太陽を凝視している俊に、太陽は悪どい笑みを浮かべた。その恐るべき表情にカルマ総長は震えるチワワと化したが、太陽は晴れやか過ぎる程の笑みだ。

「カルマ、ってね。もしかして、カルマを作ったのも、お前さんの魂胆だったのかい?」
「…イチが不良チームを作れば、街中で歩き回る確率が増えると思って…。俺は不良に良く目をつけられたから…」
「はっはーん、時期が来たらイチ先輩に見つけさせるって寸法だった訳かい。そんでイチ先輩を帝王院から遠ざける為に、あれやこれや画策したんだね?」
「…心の底からお詫び申し上げます」

しゅばっと土下座した男の背にドスッと座ったドSはやはり決して長くない足を組み、頬杖をついた。

「その辺詳しく聞きたい所だけど、何か俺もお腹空いてきたし、さっきから微かにお茶の匂いがする様な気がするし…」
「する。あの赤い時計台の方から漂ってくるぞ」
「スコーピオ?」

踏まれたまま指差した俊に、太陽はアーモンド型の瞳を瞬かせ、ぱちんと手を叩く。

「そうだ!そうだった!今なら学園長が居るし、学園長代理は優しくてお綺麗で、時々車椅子で並木道を散歩してたりして、俺達生徒の憧れの的なんだ。年相応のマダムなんだけど、品があるんだよなー」
「俺の心当たりを的確に理解してるじゃないか…。でもやっぱりやめよう、向こうは俺なんかに会いたくないかも知れない…」
「俺も妄想したもんだよ、図々しく。いつかああ言う奥さんが欲しいな〜ってさ」
「タイヨーは貴公子をお嫁さんにするつもりだったのか?」
「は?そうだけど、それが何か?二葉先輩を苛めていいのは俺だけだから。そこんとこ肝に銘じといて」
「…俺はとんでもない間違いを犯す所だった」

何やらぶつぶつ宣っている左席会長の尻を強めに叩いた副会長は、つかつかと強張った表情で屋根の上を歩いていき、

「そんな男子高生憧れのマダムがお祖母さんなんて羨ましい家系の俊や、今から俺、飛び降りるから」
「はい?」
「助けてくれないと、死ぬかもねー」

青褪めた太陽が飛び降りた瞬間を目撃した遠野俊こそ青褪めていたが、空中で華麗に平凡をキャッチした男が、


「あ、この高さは不味い気がしますん」

そう真顔で呟いた以外は、概ね平和である。

「うっそー?!」
「いや、ガチで100ペタくらい死ぬかも」

痙き攣った主人公とご主人公が潰れたトマトになるまで、残り数秒。

















「あ?」
「いったー!(ノД`)」

俊の悲鳴が聞こえた様な気がした嵯峨崎佑壱が顔を上げるのと、カキンと言う金属音が響いたのは同時だった。
警報器の中から出てきた健吾が目元を押さえている事に気づいた佑壱が足を踏み出せば、真っ先に飛んでいく裕也の姿が見える。任せておくかと足を止めれば、廊下に転がっているドライバーの先端部分を認めた。

「ドライバーも折れたか」
「くっそー、やっぱ幾ら薄いかもっつっても、家庭用ペンチやドライバーじゃ、穴も空かねーっしょ(;´Д⊂)」
「動くなやケンゴ、目尻が切れてるぜ」
「大変!救急班来てー!」

わらわらと健吾を取り囲む後輩らに、大袈裟にも程があると溜息一つ。包帯でぐるぐる巻きにされた右手はまるでドラえもん、鬱陶しい事この上ないと教室内を覗いた佑壱の目に、転がっている獅楼が映り込んだ。

「おい、獅楼は何サボってんだコラァ」
「あ、副長。シロは行事の設置で3日くらい寝てないんだって。ふらふらだったから、使い物になんないと思う」
「情けねぇな、どいつもこいつも…」

普通科の獅楼がクラスの纏め役として走り回っていた事は、佑壱も知らない訳ではない。
呆れ顔を装いつつ、腰に巻いていたブレザーを獅楼に投げ掛けた佑壱は、自分が潜り込むには若干狭い火災警報器の空間を横目に、浸水の速度が段々速くなっている足元を見やった。教室内に今のところ被害はないが、ドア側も窓の向こう側も、どちらの廊下もてんやわんやだ。

恐らく稼働する際、どうしても構造的に空間となってしまう連結部分が通常の接続を果たしていない為に、隙間があるのだろう。
隼人の推測では、部活棟の上下水道どちらかのパイプに、教室を含め巨大な箱と化したエリアが突き刺さってしまった所為で、漏水しているのではないかと言う事だ。

それ以外に考えられない為、問題は破壊してしまった管が何処にあるのか、流れ込んでくる水がただの水なのか下水なのか、見た目では判断出来ない所である。
壊れた箇所が判れば、補強するなり埋めるなり、何らかの措置は取れるだろう。然し佑壱が思うに、恐らくこれは上水の管が壊れたと考えるべきだ。下水にしては量が多すぎる。水回りの少ない部活棟では考えられない水量だ。既に水嚢と化したゴミ袋が、そこかしこに転がっている。

「おい、要。そっちの床は大丈夫か?」
「段々間に合わなくなってきました。ゴミ袋のストックも足りませんし、人手が…」
「だろうな。良し、暫く様子見だ。休める奴は休んどけ」

幾ら二本の廊下が同時に浸水していると言え、この場は今、巨大な湯船みたいなものだ。満水になる事はないとしても、歩行困難まで貯水されるまでには、時間が懸かるだろう。それまでに外に出られれば問題はないと考えた。

「さがみん先輩、あの…」
「あ?何だ、中道」
「セントラルゾーンで構いません」
「この俺にンな糞ダセェ台詞ほざけっつーのか、殴るぞ」
「ひっ。すみません…!あ、あの、トイレに行きたいんですがっ、どうしたら…?!」
「はぁ?」

佑壱と遜色ない長身が、見るも哀れにもじもじしている。
ヘタレそうな生徒の台詞を聞いた他の生徒からも、渡りに舟とばかり手が上がり、オカンは左手でゴミ袋を掴み、ドラえもんが如き右手でビシッと袋を指した。

「小便は水扱いだ。大便は念の為、紙に包んで捨てろ。人の目が気になる奴は窓の向こう、要が居る方でこそっと排泄しやがれ。判ったか」
「は、はい!あのっ、然し紅蓮の君、トイレットペーパーがありません!」
「馬鹿野郎、流す必要がねぇのにトイレットペーパーなんざ要るか。その辺のプリントでも揉んでケツ拭いとけ。究極、素手で拭けば良い。手なんか洗えば綺麗になるもんだ」

俺ならそうする、などと、男らしいにも程がある表情で宣った嵯峨崎佑壱に、一年Sクラス生徒らは咽び泣く。何と言う男らしさ、それに引き替え自分達の考えの甘さは何だろう。トイレなど、男には必要ないのだ。

「やべ、俺もシッコしてぇ(;´艸`)」
「尿瓶持ってきてやろーか」
「うひゃ。ユーヤ、おじーちゃんは介護して貰わなくて良いんじゃよ(・ω・) 自分で出せっからw」

壁を突付いている内に壊れたドライバーの先端で切った目尻に絆創膏を貼られた健吾は、オレンジのベルトを弛めながらいそいそと教室に入っていった。
ぞろぞろとトイレ認定を受けた廊下に教室内の窓から出ていった生徒らから、ほー、だの、ふー、だの、安堵の吐息がナイスハミングだ。皆、ギリギリの戦いだったらしい。

「要、お前の怪力ならアレ壊せんじゃねーか?身長はともかく、細いお前なら入れんだろ」
「…無理言わないで下さい、ユウさんじゃあるまいに。やってはみますが、期待しないで下さいね」

そう言いつつ肩を回している要は、健吾が収まっていた警報器を覗き込んだ。
顔はともかく、性格は男らしい負けず嫌いな要に任せておけば、いずれ何とかなるだろう。


「あー、俺も出すもん出しとくか…」

恥ずかしさなど一切ない赤毛は、ボロンと立派な股間を曝け出した。腹までシャツを捲し上げている為、彫りの深いバキバキの腹直筋も、腰骨から沿う様な腹斜筋群も丸見えだ。

トイレコーナーからぽつりぽつりと戻ってきた後輩らが信じられないものを見る目で凝視している事には気づかず、ちっちっちー…っと出すものを軽やかに出した赤毛は、満足げに息を吐いた。

「良し、このゴミ袋は高坂の靴箱に入れてやらぁ。くっくっ、驚く顔が目に浮かぶぜコラァ」

そして愚かにも、皆の前で堂々と立ちションを果たした露出狂は悪どい笑みを浮かべたが、予想している驚いた顔が見られるかどうかは、かなり怪しい所だ。



万一某中央委員会副会長が喜んでしまえば、馬鹿犬は尻尾巻いて逃げ出すかも知れない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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