帝王院高等学校
ゆらゆら、さらさら、天下無双
「白樺は、シラバカではない、シラカバだ」

やや幼さの残る声が、春風にさらわれていく。
精悍にして静謐な美貌で席に座り直した男は、万感の想いを込めた吐息を漏らした。

「えー、今の歌を詠んだ生徒は廊下に立っとれ」
「な…?!何故ですか先生?!」
「とても首席が詠んだ歌とは思えなかったから以外に理由があると思うのかね、君は。我が帝王院学園高等部始まって以来の最高得点をやろう、マイナス90点」
「お言葉ですが先生、我が帝王院学園高等部は今年創設されたばかりです。入学式は三日前」
「そう、だから高等部始まって以来たったの三日間で、首席も最下位も経験した唯一無二の存在へ昇華したと言えるだろう。…残念だ、廊下に立っとれ」
「お待ち下さい父上、廊下に立っとれと言いたいだけでは?」

がたりと立ち上がった駿河の眉間に、スコーン!とチョークが刺さる。白髪混じりのボサボサ頭を、チョークの粉まみれの指でボリボリ掻いた男は無言で廊下を指差し、テキストで教卓を叩いた。

「父上ではなく先生と呼びなさい帝王院駿河、廊下にスタンダップ」
「…承知しました先生」

ふらりと廊下へ向かった駿河に続いて、他の生徒らも次に次に外へ出ていく。しまったとばかりに再び頭を掻いた教師はテキストを放り、黒板に大きく書き殴っていた『学園長の突撃授業』と言う文字を消し始めた。

「いかんな、どうにも子供達は素直過ぎる。反抗的な年頃だろうに、言い返しもしないとは…。然し我が息子ながら風情の『ふ』の字も知らん。これはあれだ、俺に似てモテんな。良かろう、この帝王院鳳凰、孫の顔を見る夢はさらっと諦めたぞ」
「父上先生、まだ入ったらいけませんか」
「む。寧ろ全員戻っておいで。授業開始十分で先生を一人ぼっちにしない、悲しいだろうが」

ぞろぞろと戻ってきた生徒を横目に、パタパタと粉まみれの手を叩いた教師は、戸口で所在なげに佇んでいた本物の『教師』を手招いたのだ。

「すまないな中村君、授業の邪魔をして悪かった。帝君の俳句に関しては0点を付けるのももどかしい。採点不可だ、期日を打って再提出させる様に」
「ですが学園長、俳句はあくまで基礎知識でテストには出ませんし…」
「そこは学園長命令で俳句をテストに出そうではないか!」
「ヒィ!正気ですか父上先生!」
「すまん息子、父は死ぬ前に一度テストなるものを作ってみたいんだ!全力でお前達の得点を阻止してくれるわ!くぇーっくぇっくぇ!」

一番前の席の生徒が悲壮な表情で立ち上がり、生徒らから同情の声が湧いた。本物の国語教師も同じ様な表情だったが、狂った様に笑う学園長命令に逆らう事はない。

「空欄は許さん。用紙の隅から隅まで埋めてこそ、特進組の真価たるものと心得ろ、手を抜いた武士は退学だ!」
「「「もののふ?!」」」

これが帝王院財閥現当主、帝王院鳳凰である。
余りのテンションの高さに誰もがついていけていない。息子は青褪めたまま、七五調で『なせばなる、恐らくきっと、大丈夫』と呟いた。今にも倒れそうな表情だ。

「良いか駿河、いずれは帝王院財閥を背負って立つ者として、和の心を磨く事は、人となりを鍛える事に繋がる。卒業までに俳句コンクールで入賞出来なければ、お前に帝王院を継がせる訳にはいかん…かもね」
「なっ、本気ですか父上!先生!」
「パパはいつでも本気だ」

グッと親指を発てたオッサンに、クネクネと震えた息子は死にそうな表情で崩れ落ちた。わらわらとクラスメート達が帝王院駿河を取り囲んだが、帝君の絶望は深まる一方だ。

「…っと、いかん、そろそろ鬼が探しに来てしまう。お前達も真面目に勉強しないと、恐いシユがやってくるぞ〜?」
「ほほほ、糸遊(しゆ)はこちらに控えておりますが?大殿」

70過ぎとは思えない溌剌とした表情で窓から逃げようとした学園長は、満面の笑みで詰め寄ってきた女性に首根っこを掴まれた。
グフッと言う悲鳴が聞こえたが、誰もが目を逸らす。

「困りますよ、大殿。朝からお姿が見えないと、奥様が大層心配されてらっしゃいましたよ。浮気ではないか、誘拐ではないかとそれはもう、他家へ嫁いでしまった糸遊の耳にも、話が届いてしまう程に」
「し、ししし糸遊、何故お前が来るんだ…!此処を何だと思っている?!男子校だぞ!ボーイの秘密の大奥だぞッ?!」
「糸遊は殿方の大奥に興味がございます。ほほほ。さて、春日局はどちらにおわしになられます?」

ぷるん、ぷるん。
瑞々しい巨乳をたわわに揺らした女性は、艶やかな髪に刺した簪を抜き取り、燃える様な眼差しに笑みを滲ませた。

「ああァ、どうせなら陽炎を寄越さんか…。どうしてお前が…節分でもないのに、何故だ…」
「陽炎お兄様こそ、他家へ嫁いだ身。旦那様の理解を頂いた私は自由にさせて貰っておりますが、お兄様はそうもいかないお立場なのです」

ゆったり、ゆったり。
柔らかな声音で語る人の表情は穏やかな笑みのみ。首根っこを掴まれたまま、逃げるに逃げられない学園長は青褪め、餌に群がる金魚宜しくパクパクと喘いだ。

「大殿、これ以上この糸遊を邪険になさいますと、ほほほ…最終的には奥様の元へ、殿の首をお届けする事になってしまいますよ?ほほほ」
「わわわ悪かった…!ちょっと教師の真似事がやってみたかったんだ!すまん!」
「本心から悪かったと思ってらっしゃいますか?」
「はい」
「では、糸遊のお役目は此処まででございます。大殿、真っ直ぐ姫様の元へお帰り下さいね。お帰り下さらないのであれば…通りゃんせ、通りゃんせ…」
「かかか帰ります、真っ直ぐ帰ります」
「ほほほ。此処は何処の細道じゃ…天神様の…」
「ヒィイイイ」

にこり。
麗しい笑顔の女性に何度も頷いた学園長は、すっ転びそうになりながらそそくさと消えていった。全員が安堵の息を漏らし、教師が控え目に頭を下げる。

「糸遊様、お手数をお掛けしました」
「良いのですよ。娘の子育ても終わってしまい退屈なんですもの。クスクス、奥様との電話も楽しかったけれど、直にお会いしたくなってしまって。大殿はついでなのよ」
「そうでしたか…。変わらず、糸遊様はお美しくいらっしゃる。そしてお若い」
「嫌だわ、お若い人達の前でおやめ下さい。皆さん、騒いでしまってごめんなさいね。お勉強、励んで下さいな」

誰一人口を開けないチェリー達は、去っていったご婦人の残り香をクンカクンカを嗅ぎ…いや吸い込み、一人残らず頬を染めた。


「中村先生、今のご婦人はどなたですか?」
「あんなに見事なお髪の色は、初めて見ました!」
「本当に本当に。あそこまでの蘇芳は、GHQにも居ないよ…」

ビューチフルと言う意見で一致したチェリー共は、既に授業所ではない。生徒らの反応は無理もないと幾つか頷いた教師も、教壇へ戻る気配はなかった。

「彼女は高森糸遊様。戦後間もなく嫁がれた方だが、とても還暦前には見えないだろう?」
「「「還暦?!」」」
「髪色は、彼女生来のものだ。神秘的な方だと思うだろう」

まだ40手前の教師が恋心を隠していない。
それほど強烈な印象を植え付けていった女性に対して、然し逃げた学園長と言えば、まるで鬼でも見る様な顔だった。

「余程の馬鹿ではない限り、彼女には逆らわない方が良い。若い頃は片腕で岩を破壊したとも言われている人だ」
「「「岩を?!」」」

それを指摘した生徒に答えたのは、教師ではなく、一番席に座っていた生徒である。

「あの方には、陽炎さんと言う双子の兄が居る。そちらの方は、瞳が鮮やかなカーマインだそうだ」
「駿河の君、カーマインとは米語ですか?」
「流石は駿河の君、流暢なお言葉遣い感服致しました」

尊敬の眼差しで『俳句0点』だった帝君を褒め称えるクラスメート達に、照れた首席は頭を掻いた。

「俳句コンクールで入賞出来る様に頑張る。応援していてくれると、大変嬉しい」

第一期高等部一年Sクラス30名のチェリーボーイらは、ほのぼのと俳句の勉強を開始したそうだ。

この半年後、俳句コンクールで金賞を受賞した帝王院駿河が胴上げされたと言う話は、特に語り継がれていない。




帝王院駿河の母親はとても変わっている。
どれ程のものかと言われれば、説明出来ない程と答えるしかないだろう。息子である駿河はそんな母が嫌いではないが、世間からは180度ズレている事だけは、幼い頃から理解していた。

そんな母が深刻な病に倒れたのは、駿河が15歳になったばかりの頃だった。

女学院育ちで、花嫁修行もしていなかった彼女が嫁いだのは、29歳のいわゆる晩婚である。
いかず後家と言われる事もあった様だが、一人娘として蝶よ花よと育てられた彼女を、彼女の両親は心から愛でていた為、嫁がせるつもりはなかったらしい。相手が帝王院財閥の会長でなければ、纏まらなかった縁談だと言えただろう。

戦前から海外へ渡航する事が多かった帝王院鳳凰は、50歳を過ぎて一目惚れを果たすまで、結婚歴はなかった。若い頃は愛人を囲っていた事もあった様だが、結婚後に浮いた話は一度としてない。

見合いも縁談も、数多あった様だ。
然し晩年まで仕事優先で暮らしてきた彼は、過酷な時代を経て、高度経済成長期へと移り行く昭和に何を見たのか、突如結婚を発表したのである。


そんな、恋に奥手なオッサンと、鉄製箱入り娘と言う組み合わせで子供が出来るまでに数年を要した。正に夫婦の力作である。

可愛い一人息子は表情に乏しい母親似の端正な顔立ちで、父親似の聡明さを兼ね備えていた。170cmある様でない小柄な鳳凰の密かな野望に「175cmになりたい」と言う切実な想いがあったが、その密かな野望は無事、ぎりっぎりの所で息子が叶えてくれたのである。

13歳で息子の目線が自分と変わらなくなった時、鳳凰は自棄酒で泣いた。嬉しさと悔しさで盛大に酔っ払い、次の日の仕事に少しだけ影響した様な、しない様な。


「そう…。殿方たる者、毎晩お酒を飲んでは呑まれて。妻や子供に手を上げるものですわ」

妻はのほほんと宣ったものだ。私を殴れと。
勿論、鳳凰にそんな趣味はなかった。ちっとも。然し何度首を振っても妻には言葉が通じない。鳳凰の愛した人は、ちょっと考えられない程にピントが家出していたのだ。
息子の似顔絵を書いていたら、いつの間にか生まれてもいない孫の黒子の数を数えていた、などと言い切ってしまうレベルの天然さんだった。

さりとて、そんな帝王院家の天然爆弾が本当の意味で爆弾を抱えたのは、先にも述べた通り、二人の息子が15歳の誕生日を迎えた頃だ。

「神も仏もないとはこの事だ。鳳凰会長より30近く若い奥様が、余命僅かとはな…」
「ただの結核であれば今の世、治らぬものでもなかろうに。まさか、末期の肺病だなんて」

その頃から駿河は、学園のあちらこちらで囁く大人の声を聞いた。
妻の治療と療養を兼ねて学園内に屋敷を建てた父が、全ての仕事を持ち込む様になったからだ。
それに伴い、それまで帝王院財閥の本社は都内の自社ビルが拠点であったが、学園内に会長執務室を構えてしまった為に、鳳凰付きの秘書や側近も学園の敷地で生活する事になったのである。

彼らの心配は尤もだとは思うが、聞こえない所でやって欲しいと駿河は息を吐いた。
医師の懸命な尽力が実り、余命半年と下されていた駿河の母親は、既に二年の年月を重ねている。日を追う毎に体調は悪化しているが、本人に危機感と言うものが全くないので、駿河も鳳凰も、二年前よりは落ち着いていたのではないだろうか。

「糸遊さん、糸遊さん、今度は胡桃を割って頂戴な」
「はい姫様。今度はどの胡桃をお割り致しましょう?」
「そうねぇ、この胡桃かしら…。糸遊さん、これを見て頂戴、この胡桃の皺。きっと駿河の脳味噌はこんな感じよ。そして私の脳味噌は、この真珠の様にツルンツルンなのよ。顔の皺なら駿河の脳味噌に負けなくてよ?」
「まぁまぁ、姫様ったら」

ああ。
今日もまた、脱力する様な会話が聞こえてくる。

「思い起こせば、駿河はお腹にいた頃から賢い子だったわ…。結婚して五年、子供はもう無理かも知れないと思った時に、宿った子なの。私が34歳だった頃よ。あの頃は楽しかったわねぇ、チョコレートが出回り始めた頃…」
「ええ、糸遊は跳び跳ねて喜ばれた姫様の嬉しそうなお顔を覚えておりますよ。ほほほ、跳び跳ねてお洋服が破れてしまわれた事も…」
「あの頃の旦那様は、私が愛人を勧める度、野獣におなりになって。私は引っくり返されたり、あちらこちら舐められたり、大変だったわ…」
「まぁ!いけません、レディーがその様な事を口になさられて!」
「あら?糸遊さんの旦那様は、引っくり返したり上に乗せたりなさらないの?鳳凰様にお願いすると宜しくてよ?流石に糸遊さんが妊娠するのは無理でしょうけれど」
「何を仰いますの!糸遊は高森の旦那様一筋です。糸遊は旦那様を引っくり返したり抱っこしたり、未だに『らぶらぶ』ですのよ」

鳳凰が金に糸目をつけず建設を指示した白亜の建物は、鳳凰専用の執務室を有した『蒼龍』、生活拠点としての屋敷に沢山の医師を住み込ませた『白虎』の二棟からなるものだ。
最終的には、現在敷地内南端にある寮を移転増築するつもりだった場所に、鳳凰が急がせた屋敷が先行して建てられた。

「まぁ、らぶらぶなの?高森様が羨ましいわ、糸遊さんが鳳凰様の愛人になってくれたら、一緒に暮らせるのに。毎日こうしてお茶をして、仕立て屋に揃いのお洋服をお願いして、お着替えしたり…。楽しいでしょうねぇ、糸遊さん」
「ほほほ。それは確かに楽しいでしょうね、姫様」

駿河が成人を迎える頃には、残る建物も着工しているだろう。
その頃には母は生きているだろうかと考え、駿河は頭を振った。母親の前では特に、辛い顔は見せたくない。

「失礼します、母上。駿河です」
「あら、噂をすればハゲ」
「それを言うなら影ですよ、姫様」

母と同じ年齢の美しいご婦人は、病が発覚した頃からこうして、頻繁にやってくる様になっていた。
聞き慣れた声が聞こえていたので、今日もまた彼女と談笑しているものだと思っていたが、扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのは、見慣れない美貌の男だった。

「あ…」
「…駿河の宮様?」
「そうなのよ、この子が私と鳳凰さんの一粒種なの。産む時は何でこんなに痛いのか、とっても不思議だったわ…。でも肺病も痛いんだもの、世の中は痛い事ばかりよ。そうだわ、痛みと言えば糸遊さん、伊丹には行った事はある?」

渋い声で呼ばれた駿河が口を開く前に、マイペースな母がのほほんと割り込んだ。彼女以外の全員が沈黙したが、当の天然は割って貰った胡桃の中身を取り出し、つまんで頭上に掲げてマジマジ眺めている。何がしたいのかは、聞くだけ無駄だろう。

「姫様、そろそろ大殿がお戻りになられる頃でございます。レディーたる者、食べ物で遊ぶのは品を欠く行いでは?」
「あら、ごめんなさい。旦那様は今にもぽっくり逝ってしまいそうな私なんかより、糸遊さんの様に綺麗な方と浮気して下さらないかしらねぇ…。何処の家庭でも、旦那様は外に愛人を囲っているものでしょう?ねぇ、ハゲローさん」
「ブッ」

静かに茶を啜っていた男が男前な顔で吹き出し、彼の隣の椅子に腰掛けたばかりだった駿河に直撃した。

「姫様。何度も言いましたが、糸遊の兄様はハゲロウではなく陽炎と申します。それと、糸遊の旦那様は、愛人を囲ってらっしゃいませんよ?糸遊以外の女に手を出した時は、旦那様を切り刻んだ後、糸遊は切腹致します」
「でも陽炎さんは、奥さんではない方を孕ませてしまったんでしょう?」
「ブッ」

真顔でハンカチを取り出した駿河の顔に、もう一度直撃した。
流石に悪いと思ったのか、年齢不詳な美丈夫に無言で謝られた駿河はふるりと首を振り、静かに顔を拭く。
話の内容が余りにもスパイシーだった為、17歳の駿河は空気になる事を選んだのだった。男子校育ちのチェリーにはスパイシー過ぎて直視出来ない有様だ。震えが止まらない。

「もう、陽炎兄さんは照れ屋で口下手なんだから。奥様が誤解なさって、大殿に浮気を薦めたらどうなさるおつもり?」
「…だが糸遊、俺は………で……………だ…」

見た目に似合わずボソボソ喋る男の声は、駿河には勿論、妹にすら聞こえなかった様だ。きょとんと首を傾げた駿河母子は目を見合わせ、母親が差し出してきた胡桃を駿河は素直に受け取る。
固い殻に包まれた胡桃は、そのままガリッと噛めば無問題だ。駿河は歯に自信があった。誰にも教えた事はないが。

「あー…苛々する。還暦を越えても何も成長してないじゃない、そんな愚図だから、古いだけの家の娘なんかに馬鹿にされるの!それでも雲隠の一員ですか!背を丸めるのはよしなさい、陽炎!」
「………糸遊…母に…似て………き…た…」
「っ、はっきり喋りなさい、はっきり!顎を限界まで開かせてやろうかコラァ!」

ぶるん!
艶やかな着物の袷からムッチリ飛び出している谷間が、大変けしからん揺れで弾けた。

フルスイングの右ストレートで椅子ごと吹き飛んだ男が、ぺしょりと崩れ落ちる。余りの光景に感電した駿河が微動だにしないままチビりまくり、母は息子のお漏らしに満足げな表情だ。

「何と情けない!それでも男か!」
「………悪かった…」
「何も言わないで出征して、私がどんな想いで終戦を迎えたか知ろうともしないで、やっと帰ってきたと思ったらあんな我儘娘に婿入りなんかして!兄さんは馬鹿!大馬鹿者!糸遊は兄さんと縁を切らせて貰います!」
「………」
「何とか言いなさい」
「あ………何…とか?」

派手に殴り飛ばされた割りには無傷だった彼は、再び巨乳の回し蹴りで吹き飛ばされた。
身体中の体液を垂れ流した駿河を余所に、母は「糸遊さん素敵」などと呑気に拍手などしている。

「さようなら馬鹿な陽炎兄さん、器量も性格も悪い馬鹿女と末長くお幸せに。…糸遊は愛しい旦那様を可愛がって参ります」

バタン!
見た目は花魁か太夫か、艶やかな美貌の人が叩き閉めたドアは、弾かれた様にバタンバタンと数回跳ねて、結局閉まらずに沈黙した。

「相変わらずお元気ねぇ、糸遊さん。駿河、陽炎さんの腕が変な方向に曲がってるわ。手当てして差し上げて」
「はい」
「…気に…するな。大丈夫…だ…」

ぼそっと呟いた男は立ち上がり、見上げる程の長身を丸めてふらふらと出ていこうとしている。帰るのかとついていった駿河の目の前で、中途半端に開いていたドアがバッターン!と開き、美貌の猫背男の顔を直撃したのだ。

「「!」」

これには母子共に飛び上がったが、顔を押さえたままふるふる震えている男を余所に、スキップで入ってきた男と言えば、クネクネクネクネ躍っている。

「あ〜♪俺の宝物〜♪舞子は此処に居るのかなぁあ♪仕事が片付いた旦那様をォ、歓迎してお〜く〜れェエエエ〜♪」

ビシッ。
クネクネダンスで妻の元まで近づいていった男は、仕立ての良いトリプルのスーツを軽やかに脱ぎ捨て、ネクタイに手を掛けた。

「お帰りなさい、旦那様」
「嫌だい、嫌だい!そこは『鳳凰ちゃん』って呼んで欲しいんだい!」

決して長くはない足をしゅばっと組み、微笑んでいる妻に頬を膨らませながら駄々を捏ねた男は、そこで漸く、沈黙している息子と他一名に気づいたらしい。
ピタッと硬直し、冷ややかな息子の視線を浴びている。

「…ご苦労様です、父上。帝王院財閥会長であらせられる方が、服を脱ぎ散らし、お客様に挨拶もせず幼児返りなさるとは…この駿河、少々体が優れませんので失礼します」
「まァ待て駿河、確かに今のは父が悪かった。悪かったが、客など居らんではないか。なァ、陽炎」
「ご無沙汰しております、宮様」

キリッと滑らかに喋った男の鼻から、ポタポタと血が垂れ流れていた。近年稀に見る男前だけに残念な光景だ。
帝王院家の親子は目を見合わせ、三者三様、ハンカチやらタオルやら外したばかりのネクタイやらを差し出した。

駿河が差し出したハンカチをすまなそうに受け取った男は、深い神秘的な色合いの目を細め、鼻を拭う。

「それにしても陽炎、お前には白髪がないな。去年還暦だったろうに」
「これはカツラです。手前の容姿は、悪目立ち致しますので」
「何を言う、今は無き雲隠の至宝を悪目立ちなどと。灰皇院を照らす『鳳凰の両翼』と言えば、この帝王院鳳凰の宝でもある。…誰に言われたかまでは聞かんが、易々自虐するでない」
「…申し訳ありません」

どうやら、彼は駿河の父には普通に喋る事が出来るらしい。そう思った時に、母親が駿河の肩を叩いた。

「陽炎さんは人見知りだそうよ。女性とは目も合わせられない方で、産まれた時から付き合いのあるお父様以外とは、お話が出来ないのね」
「ったく、良い年をしとる癖に女が苦手とはな。婿入りして暫く経つが、跡継ぎは出来たか?ん?」

ニマニマしている帝王院会長の台詞に、ずるりと転げた美貌の男の黒髪が吹き飛んだ。
声もなく飛び上がった駿河は無意識に父親へ抱きつき、軽く咳き込んだ帝王院舞子は白いカーディガンを鮮血で染めたが、慌てる父子には構わずやはりおっとりと、落ちた黒髪を拾う。

「陽炎さん、いつ見ても見事な髪ね。瞳もそう、糸遊さんは明るい色合いだけど、貴方は深い深い、…鳳凰の血の様だわ」

それは帝王院舞子が最後に浮かべた、無邪気な笑顔だった。


この数日後に天へ召された彼女は、数年後後を追う様に旅立った夫と共に、今頃天国でも笑っているのだろうか。



















「おや陛下、そんなに大所帯でどちらへ?」
「そっちこそ物々しいな」
「弟と警護の者です。近辺を警戒させておりましたが、外出なさるならお供にお連れ下さい」

私もついていくと頑なに言い張った金髪を寝室へ放り込み、真っ暗なベッドで震えていた父親の涙目は見ない振り。
玄関先で立派な長身を二人見つけ、その背後にうじゃうじゃと付き従う一般人離れした男らを認めた男は、両脇の友人二人を交互に見やった。

「コラコラ二人共、叶君達を睨むのはやめなさい」
「だって邪魔だよ秀皇、僕達これからイイコトしに行くつもりなのに。ね、小林先輩」
「坊っちゃんの仰る通りですよ陛下、叶と言えば浅はかにして愚かしい、十口の忌み名ですよ。凡俗如きが警護だなんて笑わせてくれる、大空坊っちゃん…とついでに陛下は、この私がお守りしますとも」

心強いにも程がある一つ年上の専務は晴れやかな笑顔で、同じく晴れやかな表情の和装男の背後、似ていない弟は笑えるほど見事に目を吊り上げる。

「大した資産もない無名の家が、他人を凡俗呼ばわりとはな」
「やめなさい文仁」
「おやおや、凡俗を凡俗と呼んで何が悪いのか理解しかねますねぇ、一年Sクラス叶文仁。君は弟の躾も満足に出来ないのですか二年Sクラス叶冬臣」
「小林先輩小林先輩、いつまで高校三年生のつもりですかー。後輩苛めてないで、早く行きましょ。秀皇、行っちゃいましたよ」

あっかんべー。
ワラショク代表取締役社長は着物姿の同級生へ大人げなく舌を出し、それを一部始終見ていた叶文仁の美貌に幾つもの青筋が浮かび上がった。

「アイツら、何年経っても可愛くねぇな…!」
「ふふ。時の君はともかく、氷炎閣下に睨まれるのは仕方ないだろうねぇ。守矢叔父のやった事を思えば、叶が嫌われるのは当然だろう」
「榛原が偉そうなのは昔から変わってないって事か。雲隠が消えてからは、自分が灰皇院を背負ってる様な面しやがって…」
「うーん。その話はお祖父様の主観が多分に含まれているからねぇ、何処まであてになるものか」

然しコロコロと笑い飛ばした叶冬臣は、部下数人に目配せをすると弟の長い髪へ指を絡ませる。ぎょっと目を剥いた弟はおろおろと両手を彷徨わせ、耐えきれず兄へ抱きついたのだ。

「冬ちゃん、結婚しよう」
「文仁、お腹が空いたろう。一緒にぶぶ漬けを食べないかな?」
「…それは客に出すものだよ。夜食ならもっと栄養のあるものを食べよう」
「この年になると、さっぱりしたものをさらさらしたくなるんだ」

ぽんぽんと弟の尻を叩き、漸く離れた巨体から離れる。
暫く見ない内に二葉も成長したものだが、弟二人から越された兄の気持ちを汲んで貰えるだろうか。

「それにしても…不可解な事が多すぎるねぇ。文仁、例の掘り出し物は?」
「中身を取り出して箱だけは埋め直しておいた。然し何故あんなに幾つも埋まっていたのか…」
「お前はもう暫く理事長の近くで探っていなさい。二葉への報告は、例の警備員に」
「了解」

とりあえず今は、熱いお茶漬けを掻き込みたい。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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