帝王院高等学校
秘密基地とは秘密の場所にあるものです
今頃深い夢の中だろうと、気配も足音も消して忍び込んだ寝室に、愛しい人の寝顔はなかった。

「何とした事だ…」

忍び込んでいた天井裏から飛び降り、彼はおろおろと布団の中、ベッドの下、果てはゴミ箱の中まで覗いたものの、やはり愛しい人は何処にも居ない。

「いけない、俺が目を離したばかりに王が夜更かしをしている。これは座視出来ない事態だ、直ちに探しに行こう」

しゅばっと天井に潜り込んだ男は暫く経っていそいそと天井から降りてくる。何も天井から戻らずとも、普通にドアから出ていった方が早いと気づいたからだ。

「俺のユエたん、役立たずの俺を見離したのか…?はっ!まさか、高坂日向の魔の手に掛かってしまったのでは…?!」

ぎりり。
根元が若干黒い様な気がしなくもない金髪が、僅かに逆立った。
三年生で最もモテる男、高坂日向に憧れない男は居ない。天然の金髪、通称『光王子』、それもその筈、次期公爵だ。本物のプリンスである。

「おのれ…、俺が守り抜いてきた美月の純潔を、穢れた王子などに奪わせてなるものか…」

祭美月の寝室から出た先のリビングにあるクローゼットを開けば、押し入れの様に上下二段に分かれている。上は布団を敷いており、下には夥しい数の黒い布が畳んで仕舞われていた。
どすどすとクローゼットに近づいた男はパァン!とドアを開いてから、しゅばっと座り込む。

「高坂日向は刺し違えてでも殺す。だが然し、あの男は洋蘭たんの身内だけあって、見た目では到底敵わないだろう。…やはり、顔を晒したまま外を歩くのは心許ない」

いそいそと黒布へ手を伸ばした男は、手慣れた動作で布を顔に巻き付ける。そしてクローゼットを閉めようとして、枕元に散らばった数冊の少女漫画を素早く布団の下に隠したのだ。

「いかん、美月が俺のベッドを見る筈もないが、うっかりと言う事もある。…俺の嫁が『魔女っ子ミルク』の敵キャラ、月と書いて『ライトたん』だと知られるのは不味い気がする」
「何が不味いんですか?」
「ふぅ。それにしても俺の美月は何処に行ってしまったんだ…」
「俺の美月、ね。汝にしては、気の利いた台詞ではありませんか」
「そうか?」

でれり。
布越しにも照れた様子が判る全身黒づくめの男は、閉めたクローゼットのドアから手を離し振り返って、ビクッと飛び上がった。

余りにも飛び上がりすぎて天井で頭を打たんばかりだったが、それを目撃したのは祭美月その人だけである。

「吾の目を離れて随分お楽しみだった様ですねぇ、李。汝の行方が判らないと聞いて探してみれば、灯台もと暗しとは正にこの事」
「わ、王、こ、高坂日向の所ではなかったのか…?」
「は?どうして今その名が出るのですか?まさか抱かれてきたのではないでしょうね」

ぎらり。
過去に類を見ない恐ろしい目に睨まれ、クネっとビビった忍者は素早く正座した。無意識だ。本能的な服従のポーズだ。

「あんな節操のない男に、…汝から身を委ねたのですか?」
「拙僧が居ない?それはそうだ王、我が祭家は大河が掲げる無神論が家訓。命の次にお金が大事」

ああ。
艶やかな長い黒髪が、うねうねと波打っている幻覚が見える。そんな筈はない。李上香が愛でてきた祭美月の黒髪は、アジアの至宝と言って過言ではないのだ。

でも超恐い。


「どうなんですか李、素直に言えば怒りませんよ。隠し立てするつもりであれば…」
「隠したら…?」
「もぐ。」

ああ、美月の微笑が美しい。いつもの事だ。
余りの美しさに、一体何をもがれるのかは全く気にならない。腕でも足でも、何でももいでくれとしか言えなかった。

「ふん?その顔を見るに、高坂日向とは何もない様ですね」
「その通りだ王、俺とあの男の間に間違いなどある筈がない」

高坂日向が聞いたら「こっちこそお断りだ」と怒鳴ったに違いないだろうが、二人は真剣そのものだ。
片や見た目の儚げな美しさで勘違いされ易いが、自分の身長とほぼ同じ長身を頭の中で鬼畜に犯しまくっている男。片や見た目はただの不審者だが、中身は恋に夢見る女子高生。

「では汝、今まで何処に居たのですか。何の連絡もなく…」
「その事だが、ナイトと母上様を保護する前に、ルークの邪魔が入ってしまった。不甲斐ない俺をどうか罰してくれ、王」
「何を宣っていますか。彼女を保健室まで連れてきたのは汝でしょう?」
「は?」
「違うんですか?」

目を見合わせたまま、会話が通じていない事に気づいた二人は同時に首を傾げた。

「まぁ良い、ナイト様については心配ありません。青蘭と一緒に居る所を、寮内で見掛けた者から連絡がありました」
「何!あのルークから一人で逃げ延びるとは、流石だナイト。だが王、青蘭では些か心許ない。洋蘭程の手練れは難しいが、間者をつけておく必要があるのでは?」
「その必要はないでしょう。あの洋蘭が敵わないナイトの警護など、ただの足枷です。吾はあの方が望む時に手を貸す役目、それ以上でもそれ以下でもありません」
「そうだな…。すまない、過ぎた発言をしてしまった」
「汝は謝りすぎです。控えなさい」
「あ、ああ、すまない、承知した」
「はぁ」

逆らったら許さないと、いつか言ったのは何を隠そう自分自身だと。祭美月は長い溜息を零しながら、眉間を押さえた。

「もう良い、水と軽食を用意しなさい」
「腹が減ったのか王、だが寝る前に食べるのは身体に悪いぞ」
「食べるのは吾では、」
「その滑らかな肌にニキビや吹き出物が出来てしまったり、体重計を気にした過度なダイエットで身体を壊しでもしたら…俺は…俺は…!」
「………良いから黙って用意なさい、吾は鳩の元に戻ります。用意が出来たら運ぶように」

過去には戻れないのだから、悔いるだけ無駄だろう。
それにしても顔はともかく性格が全く似ていない双子も居たものだと、祭美月は再び息を吐いた。


目の前の黒装束は、美月の股間に立派なものがついている事を、知らないのだろうか。
















それが何故濁っているのか、その理由にさえ目を瞑れば、下水のプールなどドブの様なものだ。知らない所で「節操なし」と言われていようと、知らなければ問題はない。
ドブの中身が下水である事など勿論理解しているだろう男は、窒息寸前で漸く水面を見つけた瞬間、大海原の太刀魚宜しく飛び出た。

「っ、ぷはッ!はぁ、ちっ!糞が、臭ぇなんてもんじゃねぇ…!日本のトイレを水洗にした奴は死ね!異物を下水に流した奴は悉く死ね!」

鼻呼吸は一秒で諦めた。
肌を伝う水を飲み込むまいと大きく口を開いたまま俯いた高坂日向のブロンドは、今や濡れて色濃く、セットの甲斐なく彼の頭蓋骨に沿って貼り付いている。

普段は人に知られない様に隠している日向の潔癖症は、知る人ぞ知るものだ。手を出す親衛隊員には呼びつける時にシャワーを強制しており、潤滑な挿入の為の準備も勿論セルフサービス。
セーフセックスを謳った『対他人の粘液』から我が身を保護する避妊具は、常時必ず携帯している。他人に触れた後には必ず除菌剤とウエットティッシュで両手を清潔に保ち、朝・夕のシャワーは決して忘れない。

寝る直前に風呂に入る事も、だ。
最近は自分でも忘れがちだったが、他人の料理も苦手である。実家の母親の手料理ならともかく、実家以外では手の込んだ料理など決して口にはしない。

基本的に昼は目玉焼きとベーコンのランチプレート、夜は食べたり食べなかったり、牛乳だけで済ます事すらある。

「20メートルはあったか」
「…馬鹿抜かせ、50メートルはあった」
「通常であれば、この場で定量の塩素剤が投入されている筈だが、施設が稼働していなかったお陰で救われた」

先に汚れた水路へ飛び込んだ男は、日向より先に足場を見つけていた様だ。日向と同じく異臭を放つ濡れた髪を優雅に掻き上げながら、片手を差し出してくる帝王院神威の手へ日向は手を伸ばす。
今の自分の姿を見る事が出来ないからこそ尚更、何故こんな状況で『無駄に超絶美形』なのか、日向は半ば本気で考えた。

「この強烈な匂いよか、少々衛生に問題があるプールのがマシだぜ。ちっ、マジで匂いが痛ぇ!風呂持ってこい、風呂!」
「刺激臭の大元の理由は、微量の有毒ガスだろう。密閉状態であれば流石に俺も死んでいる。やはり風呂場のカビ取りとトイレ掃除を同時に行うのは危険だ」
「…何の話だ」
「カビキラーとサンポールは結ばれてはならない運命。キラーだけに、カビキラーはやはり攻めだろうか…もえ」

この男はお綺麗な顔立ちで何の話をしているのだろうか。当然だが、悩んだ所で答えはない。これこそ人類最大の謎として、いつか現代のオーパーツに登録されてしまえば良いのではないか?

何処かの博物館に神威が展示されてしまえば、平和に暮らせる様な気がする。日向は神威を剥製にしようと考えて、それが軽い殺人だと気づいた。
殺人に軽い重いがあるのかは、別問題だ。

「…つーかオールバックやめろ、似合いすぎて笑えねぇ」
「気にはならんとは言え、濡れ髪を肌に貼り付かせておくのはやはり心地好いものではない。つぶさに拭い尽くしたい所だが…」
「諦めろ。どんな成分が混ざってるか知りたくもねぇとして、汚泥塗れの身体は帰って清めるしか方法はない。ちっ。此処じゃ、息もしたくねぇぜ…」
「ブレザーを貸してやろうか」
「殺すぞ」

先程のパイプスペースから下水路を泳ぎ渡った先、恐らく下水処理場の内部だと思われる、やはりマンホールの中に似た薄暗い場所に出た。
向こう側との違いは、こちらの方が水路が深く、向こう側は一帯が水に浸かっていたが、此処の水路は左右の壁ギリギリの水位で停止している為、足場がある事だろう。

「はー…臭ぇ、はー…臭ぇ、はー…臭ぇ」
「さっきから何を宣っている。剥製がどうした?」
「あ?テメェ、何でそれを…?!とうとう俺様の頭の中を読みやがったな人外が!」
「自分で言ったではないか。よもやそなた、平凡主人公の必殺技『考えていた事が口からポロリ』を極めておったのか?…侮れんな」
「テメェ、今ポロリっつったか?」

後は明るさだろうか。
あちらは電子回路が使えなかった為に、照明は日向のスマホだけだったが、飛び込む前にスラックスのポケットに仕舞い込んだスマホを取り出さなくとも、こちらは点々と蛍光灯が灯されている。

「此処まで来るとマンホールの中っつーより、トンネルの中のがらしいな。案外、中の空気は悪くねぇ」
「敷地の西端に位置する下水処理施設は、非常時、アンダーラインからの脱出経路に指定されている。万一のテロや災害に備え、徒歩で下山可能だ」
「そう言えば、んな話を聞いたな。下水処理場の正面玄関は、山道のどっかに繋がってるんだったか?業者はそっちに車停めて入ってくるんだよな」
「ああ。学園内の生徒らが外部業者の存在を知らぬ様に、外部の人間に学園内の情報を口外させない為の配慮でもある」

大きな換気扇が等間隔で天井に並んでいた。
正しくトンネルの様だと瞬いた日向は、濡れて重みを増したブレザーを脱ぎ捨てる。当然ながらクリーニングには出さず、処分決定だ。

「こちらは浸水の恐れはない様だな。然し処理システムが停止している今、あちら側の排水は進まない」
「んなもん業者にやらせろよ…」
「新歓祭が終われば直ちに」
「明日まで保つのか?あ?夜が明ければ、顔洗ったり朝食の準備を始めたりトイレに駆け込んだり朝シャンしたり、何百人分の生活用水が流れ込むと思ってやがる?あ?」
「貴賓・来賓の目に触れる場で、招待状のない人間を敷地内に招く訳にはいかん。万一の事態があらば、責任は我々だけでは済まされんぞ」
「………はぁ。この糞鬱陶しい時期に、次から次へと問題ばっか起きやがる。厄か…?」
「男の厄は25歳だ。安心しろ。数年後には今以上のトラブルが待ち構えていると思えば、この程度遊びの様なものだ」
「マジかよ。俄然胃が痛くなってきたぜ帝王院、俺様が途中で倒れたら後は任せる」

極力鼻呼吸は控えていたつもりだが、鼻が麻痺したのだろうか。鼻を刺す様な異臭を感じなくなってきた事に舌打ちした日向は、毛先から滴る水滴に眉を寄せ、神威と同じ様に前髪を掻き上げた。

「何、今は冒険を楽しめ」
「何が冒険だカス、地獄までの一本道じゃねぇか」
「ふむ。探検の方が好みだったか?」
「言葉のチョイスなんざどうでも良い」

神威の隣、等間隔に並ぶ蛍光灯に照らされながら暫く歩けば、三叉路に突き当たる。左右の分岐点を一通り眺めたが、どちらも見える位置に出入り口や梯子の様なものはない。

「悪いが、このエリアの図面は把握してねぇ。どっちが正解だ?」
「左が濾過装置方面だ。然し…」
「んだよ、右に何かあんのか?」
「この先は、俺の知る限り存在しない」
「…何だと?」

燦然と煌めくハニーゴールドの目を細め、暗い空間を見つめている神威の視線に従って、日向も琥珀色の瞳を凝らした。

「存在しねぇ、な」
「少なくとも俺は記憶していない」
「図面は?」
「俺が知るものが最新のものではなかったら、知らぬ道が存在するのも無理はない。…高坂、お前のその位置はルートを外れているぞ」
「カーナビか」

人間離れした記憶力を持つ神威が明言したと言う事は、誰かが極秘裏に工作したものだと言う事だ。

「ざっと見、100メートル以上あんな。見えるだけで灯りが20を越えてる様だが、突き当たりが見えねぇ」
「現在地はアンダーライン三階と同位置に当たるが、この通路が作られたのは昨日今日ではないと思われる」
「壁に繋ぎ目もねぇ、色も全く同じ、最初から分岐してたとしか思えねぇ。テメェが知らねぇ場所なんざ、少なくともこの学園には有り得ない筈だがな」
「敷地内の探査を任せた部下の報告が、初めから偽造されたものであればなくもない」

それは何の感慨もない声だった。事実を事実として告げているだけの、温度のない声音だ。

「…はっ、敵が多いこった。連れてくるなら信頼出来る奴だけ連れてこい」
「一人も存在しない場合はどうすれば良い?」
「成程、テメェにゃ信頼なんかないって事か。裏切られたら、その都度対応すれば良いとでも思ってんの?」
「誰が服従し誰が背こうが、等しく全てに興味がないだけだ。俺にとって他人とは、『自分ではない』と言う共通した括りであり、それ以外の差違はない」
「そりゃ、父親も二葉もか?」
「ああ。捨てられようが恨まれようが、泣いた事はなかった」
「判り易い答えをどうも」

肩を竦めた日向に、神威は緩く首を傾げた。

「揶揄わんのか?」
「テメェを苛めた所でストレスが蓄積されるだけだ。俺様は何処かの誰かと違って、無駄な事はしない主義でな」
「初恋を引き摺ると言う、これ以上ない無駄を背負っておいて勇ましい事を宣う男だ。然し時を追う毎に、お前への愛が深まってきたぞ、高坂。気が向けば抱かれてやらん事もない」
「黙れドS人格崩壊者、一生気を向かせんな。俺様には選ぶ権利がある」
「ならば気が向いた時はファーストに命じるか」
「嵯峨崎は俺の知る限り男とヤった事はねぇ」
「その割りには顔色が悪い様だな、高坂副会長。」

指摘された日向は素早く神威から顔を背け、己の頬を叩く。足掛け12年と言う長さで見つめてきた…否、凝視してきた嵯峨崎佑壱が神威をどう見ているかなど、言いたくもない。

「ふん。顔だけが取り柄のテメェなんざ、すぐに飽きられる」
「鼻で笑う様が良く似合う」
「馬鹿にしてんのかテメェ」
「…ふん、どう思う?」

あの顔だったら好かれたのかなどと、神威を恨めしく睨んでしまう己の惨めさがどれ程のものか、誰に理解して貰えるだろう。

わざとらしく鼻で笑い捨てた神威の恐ろしい程のフェロモンを直視した日向はたじろいだが、脊髄反射で脳内に佑壱のムチムチ焦げ肌を再生し、難を逃れた。

グレアムの色気は恐ろしい。
日向は自分が面食いではない事を理解していた。吊り目で意地が悪そうな顔立ちが好みなのは、母親譲りの様だ。

「お前はもっと副会長を大切にしろ」
「良かろう。では副会長に選択を任せる」

来たばかりの元の道へ数歩下がった神威の言葉に、日向は乾いてきた頬を掻く。
左に行って下水処理施設の再開を優先するか、何処まで続いているか判らない右の道へ、曰く探検に出るのか。

答えは当然、決まっている。


「悩むまでもねぇ、左だ」
「…何とつまらん男だ。良かろう、では行こう」
「とっとと詰まったゴミを片付けて、せめて顔だけでも洗ってから『探索』すれば良い。つまんねぇ男で悪かったなぁ?」

左の道へ一歩踏み出したプラチナブロンドが、肩越しに振り返った。甘さを感じさせない熟れたレモンの様な眼差しが日向を見据え、

「つまりどちらも選ぶと?」
「選ぶつもりはねぇ、優先順位だ。下水が逆流しちまったら、シャワーや朝飯どころじゃねぇだろうが」
「ならば未知の道へ踏み出す前に、一度格納庫へ戻る必要があろう」
「あ?何だと?道の道?」
「濾過装置に詰まった異物はこちら側からしか取り除けんが、正面玄関から入った管制室からではないと、システムの再起動は出来ん」

宣った神威はそのままさくさく歩き始め、硬直した日向は混乱しながらも足を早める。

「どう言う意味だ」
「濾過装置は巨大な三層の重力式ダム型水槽だが、基本的に無人だ。天井に設置された監視カメラで絶えず管理されているが、元々洞窟だった場所を利用して建設されたその場に、出入り口はない」 
「待て待て待て、それってつまり、車で山道に出ねぇとこっちからは動かせねぇってのか?ただの処理場だろうが、サーバーが繋がってりゃ下院権限でどうにもでも、」
「ならん。処理場のシステムは衛星管理されている。万一、濾過した水に異物や毒でも流されれば、人命に関わるからな」
「嘘だろ…」

ああ、石橋を叩きまくる鉄壁のセキュリティが今はとても、憎い。

「管理してんの何処の業者だよ…」
「何を今更、良く知っておろうに。帝王院財閥傘下、資源保護団体、株式会社宍戸プラントだ」
「…今回の件、手配したんだな?」
「残念だが、千葉を本社とする宍戸社長が間に合わせの人間を寄越すとは思えん。早くとも、明日以降だ」

日向の父方の祖母の親族である宍戸は、融通と言う言葉を知らない堅物が多い家だ。父親が若い頃に亡くなった祖母を日向は知らないが、遊び人で有名だった日向の祖父を何度か殺そうとしたと言う逸話がある。
妻が怖すぎて浮気に走った前組長は、然し妻が亡くなるとピタリと色恋を忘れ、引退するまで仕事浸りだったそうだ。

「いつもの様に綿密な打ち合わせを経て、完璧な仕事をしてくれる事を期待したい」
「…祖父さんのお陰で高坂は嫌われてんだ。打ち合わせには、俺様は顔出さねぇぞ」
「いつも通りイーストに任せれば事足りる。宍戸専務は、あれに執心だ」
「気づいてたか。俺様が言えた義理じゃねぇだろうが、大人しそうな面して東條の野郎の行動力ったらねぇぜ…」
「流石にそなたも、身内には手は出さんか」
「馬鹿抜かせ、何の得にもなんねぇ奴なんざ抱いて堪るか。親衛隊はともかく、自分から抱くなら女のが良い」

日向が学園外で男には手を出さない事は、ABSOLUTELYであれば知らぬ者はなかった。大抵は生業としている美しい女性ばかりで、二葉曰く『吊り目で背が高い』女性が多いらしい。

学園外では基本的に自由行動なので、日向がカルマのカフェに通い詰めていようが、いつからか足を運ばなくなっていようが、指摘する者は居なかった。
二葉の揶揄は挨拶代わりのコミュニケーションみたいなもので、あれは勿論例外だ。二葉自身、日向の女性関係は把握しきれていないだろう。日向も同じく、二葉のプライベートを把握してはいない。

「そんなものか」
「男ならそれが普通だろう。どうしたってテメェと同じもんがついてる汚い男より、女の方がセクシャリティを感じる」
「ならばファーストが唯一の例外と言う訳だな」

ちらりと曰くありげな目を向けてきた神威に眉を跳ねた日向は、張り付いたシャツの袖を捲りながら暫し考え込む。

「…どうだろうな。抱こうと思えば無論抱けるんだろうが、想像するのは憚られるっつーか」
「俺に遠慮する必要はない。溜めたものは出せば良いと言ったのはそなただ、出したければ出せ。望みとあらば観察してやらん事もない」
「しねぇし、してもテメェに見せる訳ねぇだろうが阿呆か」
「ふん、つまらん男だ。だが、俺は幾ら俊に似ていようが、帝王院秀皇にも武蔵野千景にも欲情する事はなかった」
「何をほざくかと思えば…」
「故に、人との性行をわざわざ想像した事もない。実行する方が合理的だからだ」

神威の言わんとする事に気づいた日向の眉間に、深い皺が刻まれた。
けれど淀みなく歩いていく神威の背が振り返る事はなく、狭かった通路の果てに、広大な湖を思わせる貯水地が広がっていたのだ。


「…すげ」

眼前の光景は一種独特だ。
何処にでもありそうな溜め池が、洞窟の中にある。洞窟の片隅には、鉄筋の太い柱が計四本、天井から床を貫いていた。

「突き当たりの向こうが、処理施設の正式な内部だ。この場は施設内にあって、施設外に当たる」
「凄ぇ構造だな。アンダーラインに集められた下水は一度此処に貯められて、下へ濾過されてく訳か」
「そうだ。施設の建物自体は学園の敷地から、標高30メートルほど低い位置にある。此処が高架水槽の頂点で、三層の濾過を経て新たな水へ生まれ変わる」
「もしかして、上水道はこの上を走ってんのか?」
「過重に無理がある為、処理施設の外から山の斜面を這う様に設置されている筈だ。最低二本、直径3メートル程のものがな」
「これぞパイプラインってか」
「上水は幾つか経路があるが、被害を受けたのは北部のみだ」

水路に沿って貯水されている中を覗けば、濁った水の中に色んなものが浮いているのが見える。枯れ葉や果物の皮の様なものは判らなくもないが、サンダルの様なものまで浮いているのはどう言う事だろうか。
校舎や寮の生活用水は当然の事ながら、敷地内を流れる噴水や水路の水も最終的には此処へ流れ着く為、ゴミの種類は様々だ。量も想像よりずっと多い。

「舐めてた、まるで湖じゃねぇか。丸腰の二人じゃどうにも出来やしねぇ」

地下三階に位置する場所に、シュノーケルは勿論、ごみ取り網など見当たる筈がなかった。それこそ壊れていた金網の様な所に詰まったゴミを取り除いてしまえば終わり、程度の認識だった日向は己の浅はかさを嘆く様に屈み込み、息を吐いた。
勿論、水道らしきものもない。汚水でずぶ濡れだったのはいつの話か、辿り着くまでに幾らか乾いてきた気配すらある。

「今日一日、このまま耐えるしかねぇか…」
「セカンドが切り替えたのは北部水源の主要部だが、敷地の南北で上水道の経路は異なる。校舎や一部のアンダーラインは蛇口からの水圧が悪いだろうが、南に位置する寮やグランドゲート・警備室の水源には、まず問題はなかろう」
「今日まで進学科ですら授業はない。西園寺が宿泊してるのは大半がアンダーラインだが、リブラを解放してあるから…多少不便だろうが、確かに何とかなりそうだ。つまり無駄足だったっつー事だな」
「いや。無駄ではない」

ピシッ、と。
まるでポルターガイストの様な、何かが軋む音が響いた。揃って見やった先、洞窟の天井の一部に亀裂が入っているのが見える。

「…今の聞いたか。やべぇ気配しかしねぇなぁ、帝王院」
「慌てる程でもあるまい。数年前から崩落の可能性は示唆されて来たが、念の為、補強工事を進めてある」
「待て待て待て、まさか下水処理場の工事計画書、ありゃ此処の奴かよ!」
「そうだ」
「予算600万で承認印捺した覚えがあるぞ。この広さをたった600万でどう補強するつもりだゴルァ」
「だから低予算で効果的な四本の柱、加えて監視カメラを増強してあろう」
「…早い話がいつでも壊れろとばかりに見放しただけだろうが!」
「来年度予算案で、新たな貯水槽建設が議題に上る予定だった。少々時期が早まっただけだ」

成程、そこまで全部判っていて、神威がわざわざ日向を此処まで連れてきた理由が、漸く見えてきた。

「まさか、これが本当の『希望』じゃねぇだろうな…」
「では共に答え合わせをしよう。以前から疑問だった。学園内の何処かに、秘密基地があるのではないかと」
「何が秘密基地だ、糞寒い事ほざきやがって糞男爵が。この上、そっちにも何もなかったら躊躇わずテメェをぶっ殺すから、覚えとけ」
「その為の保険を先に渡したろう?」

どうやらそれが、先の社員証だった様だ。神威のタチが悪いのか、疑っておいて気づかなかった日向が悪いのか。

「やっぱ受け取り拒否、」
「ならばファーストを返せ」
「待て、いつから嵯峨崎が俺のものに…」
「満更でもない顔だな、高坂副会長。もえ」

日向の悲劇は今本当の意味で幕を開いたのだろうか。当面、それについては考えたくもなかった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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