帝王院高等学校
崩壊した瓦礫の世界で、二人。
「お前が伯父様の子供じゃないって噂してる奴がいる」

これで年下と言うのだから、アメリカとは可笑しい国だと思った事がある。
それが太陽ではないと言われても未だに信じられない青空には、輝く光があった。毎日。毎日。

「お前、半年で教育係を追い払ったんだって?ちょっと天才だって言われたからって、調子に乗るなよ。お前は結局、余所者なんだ」
「…」
「あ?四歳なんだろ?喋れねぇのか?」
「喋る事は可能だ。そなたと話す気がないだけ」
「っ、何だと?!」

深い深い、ダークサファイアの瞳を吊り上げた子供が、異国の言葉で何やら宣った。罵りの台詞だろうとは、翻訳する必要もない事だ。

「はぁ、はぁ、お前、今何て言われたか判んねぇんだろ!はは、馬鹿が…!」
「ああ、判らない。だが、私の悪口だろう」
「判ってんじゃねぇか!ムカつく!何だよお前、さっさと此処から出てけ!」

見渡す限り芝生、花も木々も豊かな世界にはあらゆる場所に噴水がある。光と緑と水、生命が生きるのに必要な全てが、この世界には存在した。
晴れも雨も予報が外れる事はない。それは予報ではなく『天気宣告』だからだと、一番初めに覚えた。定期的に降り注ぐ雨は、ただのスプリンクラーだ。

「出来るものならそうしている。だが此処は、私の知る何処とも違う。…私の知る世界に空はない」
「…はっ、無理矢理連れてこられたって言いたいのか?捨てられた癖に」

勝ち誇った赤い唇を見た。

「ナイトに捨てられた、哀れなルークの癖に。」

深い深いダークサファイア、悪魔と同じ色の双眸に映り込むプラチナは、自分だろうか。


「…過ぎた饒舌は、あまねく災いをもたらす場合がある。そなた程の神童が、斯様な俗習も知らんか」

尻餅をついた子供は頬に手を当てて、呆然と、見上げてくる。
人を殴ったのはそれが初めてだった。

「己より劣る者と会話する意思がないのであれば寄るな。少なくとも私には、そなたと会話する気はない」
「っ」
「その程度、私如きに言われねば理解に値しないか、『ファースト』」

ただ、それだけだ。



















「大丈夫か?」
「おぇっ、うぇっ、うぉえっぷ!はぁ、はぁ…」

中央キャノン、最上階。
本当の意味で『最上階』は、漆黒の空に浮かぶ細く掠れた三日月を望む、屋根の上だ。
避雷針とアンテナが伸びる根本、18階建ての塔の頂点にその人影はあった。

「タイヨー、背中撫でようか?」
「う…うん、ありがと、お願い…」
「腹は痛くないか」
「痛くないよ…。ちょいと酔っただけ…おぇっぷ!」

凄まじい早さで黒服を撒いた男に担がれ、抱かれ、時には投げられ、ついには背中に乗れと言われ乗れば、元腐男子は腐男子らしからぬ機敏な動きでロッククライミングを始めた。
悲鳴を上げるのも憚られる高さに硬直するしかなかった山田太陽と言えば、カチンコチンに固まったまま俊の首に抱きつく事しか出来なかったと言えよう。

いつしか気づいてみれば、大気の唸りさえ聞こえてきそうな校舎の、最も高い所に辿り着いていたのである。
この間、太陽の記憶は殆どない。あって堪るかの心境だ。

「何か飲むもの、」
「まっ、待って…!お前さんこんな所に俺を置いていくつもりかい?!行かないでー!ここにいてよー!」
「判った」

今にも飛び降りそうな無愛想顔に抱きつけば、口から一瞬心臓が飛び出た主人公はやはり無表情で、さりげなく平凡の背を抱く。どっきんどっきん恐ろしい音が響いているが、涙目でえづいている太陽は気にする余裕がない。
恐ろしい音を奏でている張本人と言えば、ぼーっと空を見つめ、吊り上がった双眸をギンギンに吊り上げた。最早高校生の顔ではない。ただの暗殺者だ。

「俺は何処にも行かないよ」
「ほんと?」
「ん」
「良かったー…」

ぽんぽんと背を叩かれた太陽は恐る恐る俊を覗き込み、ふにゃりと笑った。恐怖の余り何が何だか判っていない太陽の様子に気づいているのかいないのか、ぱちぱち瞬いた暗殺者と言えば、真顔のままチュッと吸いつく。
勿論、太陽の唇に、だ。

「おわっ!ちょ、お前さん、また…っ?!」
「タイヨー、顔が真っ赤」
「そりゃ、こんな、にっ、二回もキスなんかして!何のつもり?!」
「何のつもりって?」
「おかしいだろ!俺達は友達なんだからっ」
「友達じゃなかったらイイのか」
「そ、そりゃさ、恋人同士だったら…もにょもにょ」

何を思い出したのか真っ赤な太陽が俯けば、恐ろしい目付きを細めた男の手が太陽の腹を撫でる。ビクッと飛び上がった太陽が逃げるより早く、腰を抱かれて引き寄せられた。

「タイヨー」

何だ、この手際の良さは。
俊の腕にすっぽり収まった太陽に逃げ場はなく、耳元で無意味やたらに良い声で囁いた男の肩口に顔を乗せたまま、目を限界まで開きながら考える。
これは本当に、あの遠野俊なのだろうかと。

「腹は痛くないか?」
「っ、痛くない!何なんだよさっきから、腹なんか痛くも痒くもないよ!」
「でも俺の子供が出来てるかも知れない」
「ふぁー?!」

太陽の耳に鼻を擦り付けてきた俊のエロ声により、山田太陽はあらゆる意味で崩壊した。腰は抜けるわ意味は判らないわ、今の俊と二人きりになってしまったのは失敗だったのだろう。
オタクがただのオタクではない事など初めから知っていたつもりで、何も判っていなかったのだ。

「こここ子供?!」
「ん」
「出来ないよ?!二葉先輩の子供ならともかく、お前さんと俺の間に赤ちゃんが出来てる訳ないよねー?!」
「…二葉?」

俊の腕から力が抜けるのと同時に素早く飛び退いた太陽は、真っ赤な顔であわあわと口元を押さえる。とてつもなく恥ずかしい事をほざいた気がしないでもないが、それより今は、恐ろしい眼で睨んでくるカルマ総長をどうにかしなければなるまい。

「に、睨まないでよ、恐い」
「睨んでない」
「…睨んでるっ」
「二葉と言うのはABSOLUTELYの貴公子だろう?」
「え?貴公子…って、あ、多分そう」
「タイヨーは彼が好きなのか?」

真っ直ぐな眼差しに見据えられ、カカカッと発火した太陽はデコを忙しなく手で拭いながら、ややあって小さく頷いた。今にも穴に飛び込みそうな表情だ。

「………うん、好きなの」
「…」
「最初はお前さんの為だなんてさ、言ってたけど。全部、嘘っぱちなんだよ…」
「俺の為?」
「お前さん、言ったんだ。騙すのはいけない事だって。嘘で好きだなんて言うのは、絶対にしちゃいけない事だって。で、でも、俺は、嘘じゃないんだよ…」

話していく内に感極まったらしい太陽の瞳が潤み、声は徐々に力なく掻き消えていった。
ぐすりと鼻を啜った太陽は俯いて、一陣の夜風が合図の様に座り込む。

アーチ型の屋根の上には、幾つかの小さな電球が嵌められており、空に向かって照らしているかの様に見えた。
恐らくは飛行中の機体に対するサインであったり、何らかの用途があるのだろう。今はそれを考える心の余裕はなかった。

「イイな」
「…う、え?ぐすっ」
「タイヨーから好きになって貰える彼が羨ましい」
「何で?だってお前さん、は」
「俺は偽善者だ」
「えっ?何それ、誰がそんな事………あ、もしかしてさっきの気にしてるの?」
「全ての物語が告げてる。俺は、大嘘つきだ」

胡座をかいた俊の向かい、膝を抱える様に座る太陽の網膜に意思の強い瞳が映る。暗さなど感じなかった。
アンテナの根本にサークル状に取り付けられた電飾は足元を照らし、空には微かな、月と星の光。地上では見られないものだ。

「頭の中に」
「頭の中?」
「そうだ。いつからか、俺の頭の中に誰かが住み着いた。子供の頃には居なかった誰かが、時折話し掛けてくる」
「…何て?」
「弱虫だって」
「俊の事?」
「そう。弱い癖に強がるな、どうせお前には何も出来やしない、お前はただの人間だって、叱られる。それは時に皆で夜を明かす時、時に一人の時、声は段々強くなってきた。最近じゃ、俺の中に誰かが住んでるんじゃないかと思ってる」
「そんな事…」
「そんな事ある訳ない」

呟いた男が、目を伏せた。
闇に融ける艶やかな黒から光が消え、そのまま大気に溶けてしまいそうだと手を伸ばす。そんな事ある訳がないのに、何故、そう思ったのだろう。

「この世には解明できてない事の方が多いんだ」
「…」
「だから今の俺らには説明ができないだけで、何が起きてもおかしくないのかも知んない。だって百年前には誰も、宇宙に行った事なかったんだよ」
「そう、か」
「うん。だから俊が嘘つきなんだなんて、俺にもお前さんにも、証明できないんだ。何がほんとで何が嘘かなんて、誰にも判らない」
「どうして?」
「今のがつまんない嘘ならお前さんは、そんなに悲しい顔なんてしないだろ?」

さらり、さらり。
伸ばした太陽の右手が黒髪を掻いて、俯いていた俊の目が上がる。

「少なくとも俺の親友はそんなつまんない男じゃないよ。つまんない奴に話し掛ける程、俺は優しくないんだ」
「…」
「あはは。信じない?」
「いや、…信じる」
「どうして?」
「お前が本物の山田太陽だから」

ぱちり。
目を見開いた太陽が、顔を歪めた。

「そうだよ。俺が本物の、僕」
「知ってる」
「でもきっと、もうじき消えてしまうんだ。普通の事なんだよ、いつまでも子供の時の記憶を残してる人なんていない。だから俺の中で『アキ』はあの時に消えた筈だったんだ。今の俺の記憶と混ざった、あの時に」

けれど今、太陽の中には三歳だった自分が存在している。
性格が悪く、マイペースで、自分本意だった欲望の塊が、腹の中で虎視眈々と様子を窺っているのが判った。今この時も。

「俺が解放されたのは、お前さんが記憶をなくす前だ。だったら何でお前さんは今、14歳なんだい?」

約束を覚えているかい、と。
呟けば、漆黒の眼差しが微笑んだ様な気がする。



「ああ。…全部覚えているよ、愛しい子」





赤い。
赤いそれは、叩きつける雨粒と共に流れていく。

大好きな人の体から。
自分なんかを庇った、美しい人から。

『ネイ、ちゃん?』

シンフォニーブルー、まるで空と海を混ぜた様な水平線の色。
オリンピアグリーン、真夏の豊かな緑よりも尚鮮やかな、大地の色。


「あの時、俺は大人が憎かった」

けれど声は出ない。
怒りを文字にする知識が足りなかった。ただただ、吼え猛る本能の轟きを腹の奥底に留めたまま、流れていく赤を見つめるばかり。

「あの時、か。俺と初めて約束を交わしたあの日」
「そう。でもおかしい所が沢山ある。だから、…話を組み立てて答え合わせをして欲しい。お前さんなら、できるだろ?」

濡れた烏の羽根に似ていると思った。
静かな男の静かな存在感が目の前に、彼の吐息すら聞こえない、静かな夜。
朝はまだ遠いのか、空は一面レイブングレーだ。

「俺は12年前の夏、三歳だった時に記憶をなくしてる。『声』の力をなくしたのはきっと、その時。確か父さんは、俺に『良かったね』って言った」
「俺が『支配』したのは記憶だけだ」
「知ってる。だから医者は心因的なものだって言ったんだ。俺が病院に運ばれたのは、嵐の中、公園で倒れてたからだって聞いてる。見つけたのは弟の夕陽。酷い熱で、肺炎を起こしてた」

完治した時にはもう、記憶はなかった。
夏休みは終わりを告げており、幼稚園から帰ってはテレビゲームにかじりつく。そのまま小学校へ進み、卒業前に帝王院学園へ編入した。
両親の希望と言うより、母親の意地みたいなものだ。


『嫌だわ、あの人に似てるお子さんは優秀なのに、貴方似の方は出来損ないなんですね、お可哀想』

あの頃、父の愛人が家の側まできた事がある。
母親似の太陽を見るなり彼女は、綺麗に引いたルージュを歪めて嘲笑った。母親が愛人相手に怒ったのは、あの時だけだ。

「ネイちゃんの記憶をお前さんは封じ込めた。それが俺とお前さんの約束だったからだ。…そうだろ?」
「ああ。助けてくれと言った。だけどタダでは助けてあげられなかった」
「俺が言ったから」
「そうだ。初めて会った時にお前は、俺を認めないと言った」
「だって狡いじゃん。父さんにつれてかれた剣道はからっきし駄目で、夕陽だけが誉められた。でも弓道は俺の方が見込みがあるって誉められたんだ。もっと大きくなったら、正式に入塾しなさいって」

太陽が三歳になったばかりの頃、未熟児だった双子の弟が太陽と変わらないほど成長した。体を鍛える為にと言う名目で、仕事が休みになると祖父と父親が交互に、色んな体験をさせてくれたものだ。

「だけどお前さんは、たった一日で奪ってった。剣道も弓道も、お前さんは初めから何でもできた。ヤスも俺よりお前さんになついて、『しーくん』『しーくん』ってさ」
「初めに呼んだのはタイヨーだ」
「そうだよ、だってシュンが言えなかったんだもん。シン君だと思ってたし」
「そうか。可愛いな」
「俺には運動神経はないんだって早々に諦めたよね。こうなったらゲームを極めようって思ったよね。でもうまくいかない」

ふと、暗くなった様な気がした。
見上げれば、微かな月の光が雲の向こうに消えている。

「俺が習い事を嫌がるとヤスも行きたがらなくなって、俺の邪魔ばっかするんだ。母さんからは外で遊べって怒鳴られるし」
「それで公園に?」
「そうだよ。幼稚園が休みになってから毎日。最初は金髪の可愛い子がいて、どうしても話し掛けたかった。なのに俺ってば素直じゃないからさー、蝉の死骸投げたり、泥団子投げたり、ちょっかいの掛け方が下手だよねー」
「苛めたのか。可愛いな」
「あの子はいつも大人と遊んでるんだ。近寄ろうとするとそれとなく大人が邪魔して、近寄らせて貰えない。だから悔しくてさ、そんなアプローチになっちゃんたんだよ。甘酸っぱい子供の恋だよね」
「イイな。タイヨーに好かれて」
「光王子だよ」
「!」

きょとりと首を傾げた俊が、弾かれた様に笑い出した。記憶はなくしている筈だが、光王子が誰だかは理解しているらしい。

「くっく…そうか、日向…」
「だってあの人可愛かったんだもん」
「ふ、くは、ははは」
「光王子がアイドル系だとすると、ネイちゃんは女優系だね。俺はもう夢中さ。だってあっちから話し掛けられたんだ。あんまドキドキして、最初に何を話したか覚えてないよ」
「ん」
「最初はツンツンしてたネイちゃんだけど、しつこく話し掛けてると段々刺が取れてったんだ。途中から俺を探してたりしてさ、アイスだって一緒に食べるんだよ。余ったら分けてくれるし。で、それを見てたヤスに間接チューだって言われてさ」
「子供が出来るぞ」
「大丈夫、チューじゃ赤ちゃんはできない」
「えっ」

衝撃を受けたらしい俊には気づかず、太陽はくしゃみを零す。
ブレザーを脱いでいた為に、シャツとスラックスだけだ。この時期、やはりまだ夜は冷える山の中、こんな場所に座っていれば冷えない筈がない。

「ね、俊。ラウンジゲート行かない?」
「ラウンジゲート?」
「今日は一般客が来てるから24時間解放されてるんだ。この時間、きっと少ないよ」
「それは何処にある?」
「えっと…あ、此処から見えるよ。ほら、あっちに光ってるとこあるだろ?白い建物が集まってる辺、露天風呂がちらっと見える」
「あれは寮だろう?」
「そうだよ。北棟と東棟の間にはトンネルの中を歩く遊歩道があって、そのトンネルの真上が広い露天風呂になってるんだ。北棟にあるラウンジゲートへは、西棟・東棟の地下からも渡り廊下でも繋がってて、北棟の中には移動出来ない仕組みになってる」

リブラ北棟三階、ラウンジゲートに入ってすぐは、ラウンジ兼用のホールになっている。二つある入り口の片方はアンティークを展示した談話スペースで、利用に関して料金は掛からない。
受付カウンター側の入り口は大浴場へ続き、露天風呂は大浴場のまだ奥だった。

「俺達は北棟の一階にあるコンシェルジュが待機してるフロントから、直通のエレベーターを使うんだ。お前さん、露天風呂より大浴場の方が気に入ってたよ」
「そうか」
「うん。露天風呂は温水プールより少し温かいくらいで温いから、大浴場が好きだったんじゃないかな。熱めのお湯の方がさ」
「風呂はそんなに好きじゃない」
「へ?」
「いつも泣き声が聞こえるんだ。何度も謝ってる。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、叩かないでお父さん、許してお父さん」

これは誰の声だろう。
酷く幼い子供の声に聞こえた太陽の眉が寄り、空を見上げた男の黒い眼差しが落ちる。

「方角は北北東、俺の家の風呂にはそこに窓がある。その方角に、知っている声は一人しか居なかった」
「…そう、だったらお風呂はやめとこっか」
「ん」

どうも楽しい話ではなさそうだと、太陽は曖昧な笑みで話を終わらせた。俊に話す意思はないらしく、それ以上口を開く気配はない。
話し掛けない限り喋りそうにない男の気配に、暫し目を彷徨わせた。
太陽こそ最近までそう話すタイプではなかったが、俊の静かさは異常だ。呼吸も気配も聞こえない。目に映る姿を見て尚、居ないのではないかと思えるほどに。

「ね、俊。今は何が聞こえる?」
「プロペラの音、水の音、そして皆が笑ってる。あっちだ」

俊が指差す先、低い低い塔の頭が見える。

「プロペラ?」
「プラモデルのヘリコプターみたいな、微かな音だ」
「水の音って、ラウンジゲートから聞こえてんのかな?」
「違う。どれもあっちだ」
「部活棟?」
「誰かが歌ってる。…これは、校歌?」
「うちの校歌は、いと遠ければ光煌深き頂きにー♪…ってやつだよ?」
「ん、タイヨーは音程が三つ違ってた」
「うっさい」

部活棟をへっぴり腰で恐る恐る覗いた太陽は瞬いて、直線距離でも100メートルはあるなと考えた。

「やっぱお前さん、耳がいいね。声から人の感情を読み取るのは、明神の特技だってさ」
「違う」
「…へ?」
「役割分担、同じ特技を持つ者ごとに分かれていただけだ。彼らは初め、決して血で繋がっていた訳じゃない。灰皇院は、帝王院が戦災孤児を受け入れた頃から始まったとされている」
「じゃ、それぞれの家名は家名じゃないって事?」
「そう。文明開化で平民も名字を名乗る様になった頃、対外的な呼称としてつけられたらしい」
「明治時代から、って事か。それって灰皇院がバラバラになった頃だよねー」
「公家に与した帝王院が役職を解かれて、戦のない時代に不要な存在となったんだろう」
「…そっか。何か俺の中で出てった人達は裏切り者扱いだったからさ、悪かったなー」
「同じ特技の者同士が姻戚を結び子供を作れば、高確率で同じ特技を持つ子供が産まれる。何の特技もない者は、十口で纏められた」

初めて聞いた話に目を丸めれば、伸びてきた手に頬を撫でられる。気づいてはいたが、先程から異常にエロい雰囲気の俊を直視出来ず目を彷徨わせて、若干後退った。

「と、十口って、何の才能もない人達の集まりだったの?」
「身体能力に恵まれた者が多かった。だから彼らは常に、先陣を駆ける先駆けの役目。その反面、幼い頃から辛い修行を乗り越えた者だけが生き残り、血を繋いでいく事が出来た過去がある。弱い者は吐き捨てられ、…足手纏いを捨てる事で十口は生き延びてきたんだ」
「そっか。冷たいとは思わないけど、何だか弱肉強食…ぶぇっくしゅん!」
「おいで」

両腕を広げた俊にピクリと肩を震わせた太陽は、下がり気味の眉を益々下げつつふるりと頭を振る。幾ら肌寒くても、その腕へ飛び込む勇気はなかった。今の俊には。

「冬月は知識が多かった。一度覚えたものは忘れない、絶対記憶の持ち主が産まれる」
「そうなんだ?」
「彼らは人の特技を記憶する事が出来る。榛原は『歌』、彼らの声は人々を従わせる。空蝉の中でも特に強い力だった。帝王院が軍神と呼ばれた所以は、彼らの力があったからだ」
「…ん?だったら、帝王院は何の力もなかったの?」
「帝王院の嫡男は代々、四家に育てられてきた。彼らの特技を吸収する事こそ帝王院最大唯一の特技だ」
「吸収?それって凄くない?」
「灰原、冬月、明神、雲隠」
「雲隠?何、それ聞いた事ない」
「空蝉の中で、最も空に憧れていたらしい。彼らは帝王院の側近中の側近で、勅命を受けて個別に動く本当の忍者であり、四家の頭領と言える立場だった」
「はー?!榛原が一番偉いんじゃなかったの?!」

食いつかんばかりに大声を上げた太陽に、無表情で仰け反った男はアンテナのポールに頭を打ち付けた。細いとは言え立派に鉄製のそれで打てば痛かろうに、痛そうな顔ではない。
後頭部を擦りながら何処となく嬉しそうな俊から目を逸らし、太陽は見なかった事にした。

「立場で言うなら、雲隠が最も位が高かった筈だ。実際、十口を解任したのも雲隠で、雲隠の下に灰原があったと聞いてる。今は東雲に下った家だ」
「えっ」
「最後の当主は男女の兄妹だったが、代々雲隠は女性が頭領だった。それこそ明治時代に任を解かれて、今の東雲財閥会長夫人が彼女の孫で、本当だったら雲隠の現当主だ」
「うっそー!それってシノ先生のお母さんって事じゃんか!」

目を見開いて床を叩いた太陽は、座ったまま倒れ掛けて動きを止めた。落ちはしないだろうが、暴れて良い場所では決してない。話の内容が内容なだけに、テンションが可笑しな事になっている様だ。恐ろしいやら恥ずかしいやら、言葉もなかった。

「シノ先生…」
「東雲村崎、通称ダサジャージ先生。俺らの担任」
「そうか」
「あっ。じゃあさ、雲隠のお兄さんの方はどうしたの?えっと、シノ先生の曾祖母ちゃんの、お兄さんって事だよね?」
「東雲先生の曾祖伯父は、恐らく婿入りしたんじゃないかな。彼の行方については、俺は知らない」
「えー。そっかー、気になるなー。…雲隠はどんな特技があったの?」
「対人戦闘を得意としていたらしい。近距離戦で彼らは最強と呼ばれ、帝王院の『狗』と揶揄される事もあったそうだ」
「帝王院のワンちゃん?何かそれ、イチ先輩みたいだねー。お前さんのワンちゃん」
「はは」

控え目だが声を発てて笑った俊の両目が瞑れ、意思の強い眼差しが隠された。

「イチは犬じゃない。狼だ」
「それっぽい」
「きっと、おいでと言っても素直に来てくれない」
「そんな事ないんじゃない?カルマの副総長は総長に絶対服従だって、皆知ってるよ」
「服従、か。帝王院の当主はそんなものの為に、皆を囲ってきたんだろうか。偽善者振って、自分の富名声を守る為に…」

乾いた声だ。
言いたい事は判らなくもないが、帝王院が守ったからこそ今の世まで生きているのではないかと考えた太陽は、口を開こうとして沈黙した。

これは帝王院の人間だけが発言出来る事だ。
何にせよ、帝王院のお陰で自分は今を生きているのだと、いつか俊も判ってくれれば良い。誰かから言われた言葉で納得するのではなく、自分の力で。

「若い内は悩むもんさ」
「…え?」
「いっぱい悩んで、出来れば元の俊に戻ってよ。大人しい俊なんて、お前さんらしくないよ」
「俺らしい、か。…俺はどんな俺だったんだろう。偽善者で、何を考えて此処に、来たのか」
「帝王院を受ける気はなかったの?」
「少なくとも去年の5月まではなかった」
「そっか」
「俺の話はつまらないだろう?他の話をしよう」

自虐的な性格は生来のものらしい。
素直すぎる性格も生来のものだろうが、人間離れし過ぎている身体能力に、優秀過ぎる頭、太陽の声よりずっと低く甘い声音、どれをとっても普通とは思えなかった。

偽善者、などと言う言葉では到底説明出来ない。
そして気づかされた。自分は『遠野俊』を知らなすぎる、と。

「…アキは二人いたんだ。一人はお前さんに封じられた記憶と共に、深層心理で俺と一緒に成長してきた『僕』。そしてもう一人、12年前のままの『僕』」
「成長と共に人は理性を鍛えていく」
「そうだね。だけど三歳の『僕』は、そうじゃないみたい。俺から俺と言う存在ごと、ネイちゃんを奪おうとしてる」

彼は自分の全てなのに。
折角思い出したのに。折角、手が届いたのに。幼かったあの頃とは違う、立派な体だって手に入れたのに。


体と心を奪われて。
その時、自分は何処に消えるのだろう。


「もしかしたら俺が、お前さんの記憶を消したのかも知れないね」

←いやん(*)(#)ばかん→
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