帝王院高等学校
アクシデントはほのぼの系で
「おーい、釈迦(*´3`) ペンチ曲っちまったw取り替えてw」
「釈迦じゃないよ、目尾と書いてシャカノオだよ、高野君。あ、もうペンチないや」
「九州に目尾君と同じ地名があるのさ。やはり日本の人名と地名は難解だね、溝江」
「待ちたまえ、我が一年Sクラスには珍しい名前が多いのさ。高野君もタカノではなくコーヤ君なのさ」
「あたしコーヤケンゴです(//∀//)」

平和な会話をしているなと他人事の様に顎を掻いた藤倉裕也と書いてフジクラヒロナリは、火災報知器の中に潜り込み地道に壁を壊している健吾の後頭部を眺めた。
誰よりも珍しい名字とは、雑巾で床を拭いている赤毛ではないかと考えたが、突っ込む事はない。確かに一年Sクラスには、珍しい名字も名前も多かった。

「えー、サブボスも珍しくない?だってあの顔で太陽と書いてヒロアキとか、眩しいのかしょっぱいのか判んなくない?」
「星河の君、それは悪口だよ?!時の君はおでこが輝いているから良いじゃないか!」
「そうだよ、陸奥(みちのく)君なんてリクオクって呼ばれた事があるそうだよ!酷いよね、そんな何処ぞのオークションみたいな…」
「天の君が俺にヤフオクと言うあだ名を下さったんだ。皆、俺の事はヤフオク宏太と呼んでくれて構わないよ」
「コータとコーヤって何か似てね?蛇口とジャグジーくらい似てね?(//∀//)」
「「「似てる!」」」

平和な会話をしてやがると、フレッシュグリーンは欠伸を噛み殺す。余りにも平和なので状況を忘れてしまいそうだが、壁を壊し始めた頃から床上浸水のスピードが加速していた。
ただでさえ狭いスペースの壁破壊班は火災報知器の前で鮨詰め状態で、体格の良い生徒はお呼びじゃない。180cmの裕也は邪魔だと撥ね付けられ、塵取りで地道に増えていく水を掬う役目だ。

「藤倉君、そっちのゴミ袋はそろそろ縛ろうか。水が溢れそうだ」
「あー?誰だテメー」
「相模だよ、相模叢雲」
「ムラクモだと?凄ぇ名前だな、朱雀に負けてねーぜ」
「いやいや、そんな。藤倉君には敵わないよ」

裕也と同じく、ゴミ袋に水を溜める係の生徒から話し掛けられ、何となく気まずい雰囲気だった。ただでさえ大半の生徒の名前を覚えていない裕也には、元クラスメートも他人と変わらない。

「あずみん!新しいゴミ袋おくれ!」
「待ってろブラックサンダー!やっぱり70Lのゴミ袋を満タンにすると、これが中々重くてな!」
「おい、俺に寄越せコラァ。ったく、最近の餓鬼共はどいつもこいつもひよってやがる」
「「さがみん…!」」
「誰がさがみんだコラァ、せめてさがみん先輩にしろ」
「さがみん先輩、素敵です」
「その三つ編みポニーテールも素敵です、さがみん先輩」

怪力で70Lの水袋を二つ抱えている赤毛は、とうとうあだ名を付けられたらしい。後輩からの素直な誉め言葉に何となく照れているのが裕也には判った。

「あずみん?ブラックサンダー?さがみん…?」
「あずみんは東宮(あずみや)、ブラックサンダーは雷童(らいどう)の事。僕も相模だからさがみんだけど、紅蓮の君のお名前の嵯峨崎には太刀打ち出来ないな」
「副長はユウさん、若しくはイチさんだぜ」
「畏れ多くてとても呼べないよ!あ、けれど、どれも天の君がつけたあだ名なんだな、そう言えば」
「まーな。つーか、総長のキレ半端ねーな」
「安部河君と佐倉が被るから、安部河君は桜餅で、佐倉はチェリーブロッサムなんだよ。で、中道(なかみち)がセントラルゾーン」
「ブフ」

どれがセントラルゾーンか気になって尋ねてみれば、相模の指差した先、丁度歩いていたらしい中道は床で足を滑らせ、派手に転んだ。裕也と大差ない長身だが、どうも鈍臭いらしい。

「大丈夫かセントラルゾーン!」
「誰かセントラルゾーンに手を貸してやって」
「あーあ、ずぶ濡れだぞセントラルゾーン…」
「はは…、ごめん、助かったよイエスタデー」

裕也は無言で俯いた。
セントラルゾーンがイエスタデーと呼んだ生徒の名前は知っている。帝君制度のない初等部の時に同室だった事がある、明日と書いてアケヒと言う名の生徒だ。

「…何で明日がイエスタデーなんだよ、トゥモローだろーが」
「震えてるな藤倉君。想像通り、明日君のあれも、天の君のあだ名だ。最初は吃驚したけど、慣れるもんなんだな」
「腹筋が割れたぜ、どうしてくれる」
「えっ?藤倉君、腹筋割れてるんだ?良いな」

進学科の生徒は特に世間知らずが多い。初等部からの持ち上がりであればあるほど、その傾向は顕著だ。
ただの冗談に食いつかれて、どうしたものかと無表情で考えながら立ち上がった裕也の背後から伸びてきた手が、がばっと裕也のシャツを捲し上げる。

「そりゃ割れてるよねえ、カルマだもん。どれどれ、へー、よい体してんねえ、ユーヤの癖に」

どうやら犯人は隼人らしい。
振り返る必要もないと溜息一つ、異常に興奮げな眼差しで裕也の腹筋を見ている相模の頭を叩いた。同じ様な体格だ、突っ込み易い。

「セクハラだぜ、相模。ハヤト、人の腹がどうの言える立場かオメー。モデルの腹筋見せてみやがれ」
「え?聞こえないよお?」

満面の笑みで素早く離れていった隼人を、裕也は若干本気で追い掛けた。
然し体力こそないものの、足の早さはそこそこの隼人との距離は中々縮まらない。短距離が得意ではない裕也が半ば本気で「泣かす」と呟いた瞬間、ドスッと。背中に衝撃が走った。

「いつまで遊んでるつもりですか、貴様ら…」

ああ。
冷や汗を垂れ流した隼人が巨大な水袋の下、押し潰されているのが見える。然しその裕也こそ重い何かに押し潰され、身動きが取れない。

「あは、あは、カナメちゃん。あの、投げるのは危ないからやめよ〜?」
「いやいや、これ投げるってどんだけだよ。オメー、悪い事は言わねーからカナメはやめとけ。ピアノ以外優しく触れねー男だぜ?」
「どんだけー。ぶっちゃけ、怪力でも何でもあそこまで美人だったら許せる隼人君が居ます」
「マゾ確定だぜハヤト」

ごきり、恐ろしい音が聞こえてきた。
怒りで声もないらしいブラック錦織が長い足で近づいてきながら、繊細な手の骨をバキボキ奏でている。

晴れやかな笑顔で見つめあった隼人と裕也はガシッと手と手を取り合い、ゴミ袋に押し潰されたまま魔王を見たのだ。

「すいませんっしたリーダー、隼人君は真面目に働きます」
「さーせんっしたリーダー、さがみんが泣きそうだぜ」
「おーい神崎君、バッテリーの残量が判ったよ、このままだと多分二時間くらい」
「あは、想定内!よーし、使わない電球取っ払おっかー!」

教室内でメカニカルな作業をしていた生徒が窓から顔を覗かせ、これ幸いにゴミ袋を弾き飛ばした隼人は立ち上がった。恐ろしい表情の要を必死で宥めていた相模の協力で、同じく立ち上がった裕也は転がったゴミ袋が水漏れしていないか確かめる。
どうやら無事らしいが、要らしかない行動だ。下手したら折角集めた水を撒き散らしていた。

「何イライラしてんだか…」
「へ?」
「何でもねーぜ。つーかこの袋どうしたら良いんだ?」
「あっちから浸水してるから、土嚢の代わりに積み上げてくって。紅蓮の君にお任せしてるよ」
「判ったぜ」

佑壱の様に抱え上げるのは流石に無理なので、結び目を取手代わりに重たい袋を持ち上げる。手伝いを申し出てくれた相模は塵取り役を頼み、一人で引きずる様に廊下を進めば、片方の袋を奪われた。

「何だよ、珍しい事もあんな」
「皮肉ですか」
「さぁ?誰かさんが考えなしに行動すっからじゃねーの」
「遊んでた人には言われたくないですよ」

裕也より明らかに細い要の腕が、軽々と袋を運んでいく。つられる様に運び終えると、健吾達の作業の邪魔にならない様に廊下を拭き上げていた佑壱が呆れ顔で見上げてきた。

「ったく。お前ら、もう少しうまく歩み寄れねぇのか?下らねぇ喧嘩してんじゃねぇ」
「喧嘩なんかしてねーっス」
「ま、お前はそうだろうがな、裕也」
「は?」

相変わらずどうなっているのか全く判らない、佑壱の髪型を眺める。湿った雑巾をバケツの中で絞った男は、無言で要の手にバケツの取手を握らせ、爪先で小突く様に要のふくらはぎを蹴ったのだ。

「要」
「…すみませんでした」
「お前がムカついてる理由は判らんでもないが、後にしろ。井上と三枝の所にそのバケツ持ってけ、あっちもそろそろやばい」
「判りました」

深呼吸し、佑壱の言いつけ通り教室の中に入っていった要を目で追ってから、濡れた手ハンカチで拭いている男を見やる。裕也と大差ない体格の佑壱の目線は、合わせようとしなくてもピタリとかち合った。

「気になんのか?」
「別に、それほどでもねーっス。つーかハヤト絡みなんでしょ?しかもさっきのアレ、ユウさんも関わってるっぽい」
「元老院の息が掛かった奴らが、毎週抑制剤を持ってくる。…俺が逃げても、何でか次の日にはカフェのカウンターにあるって寸法だ」
「カナメだって知ってたんでしょ?」
「や、お前か健吾かどっちかだと思ってた」
「…はぁ?」
「ルークがやりそうな手だ。要にしてもお前にしてもグレアムに近すぎる。その点、高野省吾にしても羽田佳子にしても、ありゃ根っからの『努力の天才』って奴らだ。凡人レベルの天才に、ステルスは興味ねぇ」

説得力のある台詞に温度はない。
吐き捨てた男こそ本物の天才だと裕也は知っているが、だとすれば、疑いながら何年も、嵯峨崎佑壱と言う人間は側に自分達を置いていた事になる。その理由が判らない。

「言いたい事があんなら言えや、むず痒くてならねぇ。お前ポーカーフェイス気取ってるつもりだろうがな、目が煩ぇんだよ裕也」
「目スか?」
「総長はお前が一番お喋りだっつってた」
「…マジっスか、初めて言われたぜ」
「要に抑制剤を持ってくんのはいつもセントラルバトラーっつってたな、お前も聞いただろ?」
「あ、はい。中央委員会エリアの専属バトラーは交代制で、全部で15人程度っス。会長も副会長も専属は二人、会計と書記は…」
「バトラーはつけてねぇ。叶はナミオ兄を扱き使ってっしな、俺には対外実働部の手がある。…っつっても、総長にビビって逃げ出したみてぇだがな」
「ビビって、って?」
「帝王院秀皇の息子だと聞いて、ビビらねぇ奴は居ねぇ。少なくともステルスにはな」
「神帝の父親だからっスか」
「いや?本物のノアだから?」
「あ?」

つい佑壱に凄んでしまったが、悪気はない。
勿論気にした様子のない佑壱はきょろりと辺りを見やり、わざとらしくない態度で廊下の端まで後ずさった。当然ついていった裕也も他の皆を窺いながら、意味もなく息を潜める。

「隼人は判ってるかも知れんが、あんま他には言うなよ」
「…っス。何にせよ親父はとっくに引退してキング専属秘書だぜ、オレは神帝派じゃねー」
「判ってる。健吾がルークの駒だったんだろ。…さしづめ、お前を人質に取られたって所か」

目を見開いた裕也に佑壱は目元だけで笑う。
何も彼もお見通しなら、益々謎だ。どうして側に自分達を置いていたのか。例え、敵ではないと考えていたと言った、あの言葉が本当だったとしても。

「お前が高坂のバックアップなら、プレート持ってんのか?」
「っス。…この指輪っスよ」
「あ?わざわざ溶かして作り替えたのか?」
「いや、代理タグっス。表向きオレは、ABSOLUTELYランクBだった。ステルスサーバーにもランクBで登録されてまス」
「コードは?セントラルか?」
「アルペジオ」
「…はぁ、判んねぇ筈だ。欧州統括部、つまり高坂がコード:ベルフェゴールかよ…」
「スんません、隠してて」
「あー…それに関してはもう良い。俺もお前らに全部曝け出してた訳じゃねぇし、お互い様だ。…帝王院秀皇っつーのは、30年前にキングが後継者として統率符を与えた男だ」
「統率符…銘って事スか?」
「ああ」

帝王院学園内でも役員に与えられる統率符は、アメリカではランクSにしか与えられない。名実共にシングル、男爵その人にのみ与えられるチェスの駒の冠だ。

「コードはナイト、代々キングで引き継がれてきた統率符は、あの男で名を変えた。レヴィ=グレアム、俺の祖父様の最後の配偶者がナイト=メア=グレアムだったそうだ」
「何で嫁に他の銘があるんスか?クイーンじゃねーのかよ」
「男だったっつー話だな」
「はぁ?ユウさんの祖父さん、ホモだったんスか?」
「んなもん知らねーよ。ランクS、コード:ナイトは伝説みてぇなもんだ。レヴィ=グレアムが正統男爵じゃなかった所為か、未だに元老院はナイトを神の様に扱ってる。その中の数人が『ナイト』ぴったりな黒髪の叶に惚れ込んで、俺と叶の派閥が出来たっつー訳だ」
「成程…。でも一位枢機卿はユウさんだろ、白百合は結局他人だし」
「いや、祖父さんの三番目の配偶者…つまりキングの母親が、ヴィーゼンバーグの娘だった。今の女公爵の叔母だか大叔母だかに当たるらしい。つまり、叶と俺は遠縁の親戚になる」
「だったら高坂さん、は」
「奴の母親は違う。叶の父親は確かに女公爵の血こそ引いてねぇが、ババアの従姉、ヴィーゼンバーグの女が生んだ。引き換えに高坂の母親は、全くヴィーゼンバーグとは関係ない女が生んだ庶子の娘だ」

意味が判らない。
何となく、今のヴィーゼンバーグ公爵に実の子供が居ないと言う話は聞いた事があるが、随分な泥沼ではないか。

「ヴィーゼンバーグ公爵の婿…つまり叶と高坂の祖父様は、ヴィーゼンバーグの外戚だった。血は笑えるほど薄いし、名前だってヴィーゼンバーグじゃねぇ。政略結婚が嫌だったのかは知らんが、外で二人子供を作った。息子の時は良かったらしい。女公爵自ら名前をつけたっつー話だ。けどその後の娘の時は、引き取る事を渋った」
「それが高坂さんの母親スか」
「ああ。何処も似た様なもんだ、お家主義ってな。…グレアムの場合は、血より統率符が強い」
「じゃ、総長の父親がもし爵位を継いでたら…」
「今の男爵はルークじゃなく、ナイト=ノアだったかも知れねぇっつー訳だ。…やっと判ったみてぇだな」

がしがしと大きな手に頭を撫でられる。
子供扱いするなと思わないでもないが、嫌ではない。寧ろ好きな方かも知れないと考え、自ら頭を擦り付けてみた。が、叩かれた。
オカンは甘やかしてくれない。

「マジっスか。…訳判んねーけど、だったら不味くないっスか?」
「何が不味いんだ?」
「総長が帝王院秀皇の息子だってバレたら、他の派閥の奴らから消されたり…」
「はっ!」
「はって、笑い方がアメリカン過ぎるぜ」
「ステルスにどんな馬鹿が居たとして、表立ってナイトの支援をする奴なんか居ねぇだろ」
「言い切れる理由、あるんスか?」
「ルークに逆らう奴なんざ居ねぇからな」

話はそれだけとばかり一歩踏み出した佑壱は、くるりと振り返った。

「要の機嫌が悪いのは、Fクラスにヒントがあるかもな」
「Fクラスって」
「セントラルバトラーに一人、Fクラスの奴が居る。祭の同級生だ、ルークが大嫌いな祭の怒りを買って教室には顔を出してない。そいつは会長専属だ」
「知ってんスか?」
「…見た事のある面だっただけだ。隼人ほどヒョロ長い奴だから、見れば判るだろ」
「名前は?」
「おい、伊坂!」

裕也の質問に佑壱は答えず、健気に使わない廊下の電球を取り外していた生徒を呼びつける。

「LEDは消費電力低いんだろ?何で外してんだ、それ」
「教室に内蔵されたバッテリーをこのまま稼働させると、二時間くらいで尽きちゃうらしいんです。どうもかなり前からバッテリー駆動だったみたいで」
「あー、浸水した時に漏電した可能性があんな。判った、届かない所は他の奴に任せろ。この中で一番デカい隼人を使え、俺が許す」
「えっ。あ、あの、大丈夫です!俺、173cmなんで!」
「いや、背伸びしても届いてねぇから。脚立他になかったのか?」

後輩に対して普通に会話している佑壱を横目に、みしりと音を発てた様な気がする背後を見やった。
勿論、そこには突き当たりの壁しかない。


「…結局、ルークを崇拝してんのかしてねーのか良く判んねーぜ。逆らう奴が居ねーって、そりゃ、誰の事だよ…」

呟いた独り言に返るものはなく、ただただ、健吾の笑う声が響いた。

















祈りはなく、
   (縋る様に願うばかり)
希望を夢見る事は忘れた。
   (それは記憶と共に)


「…新月が近い」

白い部屋の白いベッド、白い壁の中央に嵌め殺しの窓がある。
外は暗く、月も星もない。

頭の中は空だ。
澄み渡る新月の夜空の様に、一つの曇りもなかった。

思考は動かないまま、全てを奪われまるで死体の様に。命が尽きる日を待つ。一人、一人、今はただ、一人。


『お茶が入りましたよ、先生』

懐かしい声だ。
勿論、此処には誰もいない。一人、ずっと、一人。

『温かい麦茶にお砂糖を落として…そうそう、お上手ですよ。どうですか、美味しいでしょう?』
『…熱いのは好まん。鼻が詰まる』
『はいはい、じゃあ氷を入れましょうね。猫舌さんが火傷しない様に、そうっと…。ほら、これでもう、熱くないですよ』

騙していたのかと誰かが囁いた。
けれど思考は涼やかに、記憶の残骸を聞いている。まるで呪いの様に繰り返し、繰り返し。

『立派な仏壇ですね、私達もこれに入るなんて想像も出来ない。ね、父さん』
『何でも立派な方が良いだろう。どうだ、次は駐車場を三階建てにして、一階の駐車スペースを半分にして子供が遊べる公園を作るってのは』
『あらあら、それだと幾ら懸かるのかしら…。父さん、元気で忘れそうになるけど、幾つだと思っているの?』
『何、150億くらいで済む。俺が110歳になる迄には返済してやろう』
『あらあら、貴方。怒りの余り鼻水が飛び出してますよ。父さん、その話はまた別の機会にしましょう』
『美沙!お前は夢がないのか!龍一郎、何だかんだ前の借金は終わった事だし、お前なら判るだろう?この俺の病院をデカくしたいって男心が!なぁ!なぁあ?!俺は諦めんぞ!200歳まで生きてやる、諦めんぞぉお!』

騒がしい、気がする。
けれど心は凪いだまま。静かに、静かに。

『ああ、そうだ。今日は俊江が帰ってきますよ。シューベルトと俊がお腹を空かしているでしょうね、おかずを沢山作らないと。…そうだ、卵焼きはとびっきり甘いものを焼きましょうかね、立花先生』
『儂は遠野龍一郎だ。いつまで余所者扱いをしている』
『あらやだ、結婚して40年近くなるのに、私ったら駄目なおばあちゃんだわ…。幾つになってもダメダメね、本当…地味で平凡でダメダメなおばあちゃん…』
『別に、お前は良くやっているのではないか』
『あらやだ、誉めて下さるの?それにしては恐いお顔だ事…』
『…悪かったな』
『俊の目付きなんて貴方そっくりで、ああ…可哀想な孫。たんと唐揚げをこさえてあげましょうかね』
『おい、博多から取り寄せておいた明太子もあるだろう。用意しておけ』
『はいはい、明太子もですね。甘党なのに明太子は食べるんですから、変なおじいちゃん』
『悪かったな』



ずっと、一人。
















「…酷いな、こりゃ」

鼻を押さえた高坂日向の第一声に、白銀の美貌は無表情で頷いた。

「200メートル四方のパイプが全滅しているらしい。…有機溶剤と言ったが、異臭は感じられんな。流れ出る水と共に気化したか」
「異臭だらけじゃねぇか!良く平気で居られんなテメェ!」
「腐った水の匂いなど腐男子の敵ではない」
「は?本気ですか?」
「冗談だ、と言ってやりたい所だが、今のは冗談ではなかったが何か不服でも?」
「テメェが人外だった事を忘れてたわ。もう良い、諦めた」

格納庫から非常用階段を登り、アンダーライン内部に入り込み、懲罰棟への隠し通路を経た先。定時に懲罰棟へ替えのシーツや布団、食事などを運ぶ為の狭い通路を越えて、旧エリアへの入口のドアを蹴り開けた。
浸水の所為で電子回路が使えない為、日向と神威の二人掛かりで何とか抉じ開けたドアの向こう側は、腰ほどまで溜まった濁った水の中に消えている。

躊躇わず水の中へ入っていった神威を渋々追い掛け、排水が間に合っていない箇所のゴミなどを取り払いつつ、諸悪の根元である複雑な配管地点までやってくる頃には、二人共ずぶ濡れだ。
緊急時に備えて一定間隔で排水口が取り付けられているが、此処までの事態を想定していなかった為に、脱水まで時間が懸かりそうだ。これでも一時よりはマシだろうから、文句も言えない。

「然し、二葉が上水道を他に繋げてなかったらやばかったな」
「ああ。下水から漏れた残留物は混ざりものが多い様だが、これに上水まで混ざれば、この程度では敵うまい。少なくとも敷地内の殆どの水道が使えなくなるのは、避けたい所だ」
「この時間、水道を使う奴が少ないお陰で何とか下水量も少ないってか。こりゃ大幅な工事が必要だなぁ…」

水道を処理している施設からは、大きく二つのパイプが通っている。処理された上水を外へ運ぶパイプと、汚れた下水を集めてくるパイプの二つだ。
それぞれアンダーライン内部に用意された分配場で細いパイプに切り替えられ、上水道は学園の至る所の蛇口から綺麗な水を吐き出している。

その逆、学園の下水はそれぞれのエリアから若干細めのパイプを下り、この場所でゴミと水と分けられて処理施設の処理場へ運ばれていくのだ。
日向と神威がやってくる前に警備員と用務員が此処まで足を運んだ様だが、その時は大量のゴミと水が邪魔をして、長居は出来なかったらしい。彼らが大半のゴミを片付けて行ったのだろうが、二葉が切り替えたのは上水の部分だけだ。下水はこの場を通らねば処理施設へ辿り着かない為、成す術がない。

「ちっ、やってられっか。今すぐシャワー浴びてぇ」
「高坂」
「あ?」
「異物除去用の金網を見ろ」

時間帯のお陰で水流のない下水道は、此処ではマンホール内部の様に足元を流れている筈だ。今は排水が間に合っていない所為で見えないが、頭上を這う巨大なパイプは上水道である。
脆くも溶けて大部分が破壊されている上水パイプを横目に、突き当たりで汚れた水の中へ手を突っ込んだ神威に、半ば感心しつつ近寄れば、神威が取り外したらしい金網が見えた。

「…んだ、これ。ぶっ壊れてんじゃねぇか」
「正確には、溶けている。何の変哲もないただの鉄だが、本来格子状だ。だがこれは、格子か?」
「こんなもん、ただの枠だろうが」

何が当たったのか、金網は網として機能していない。
これではゴミがそのまま施設へ流れ込んだ筈だ。その所為で下水処理ブースのみ停止しているのかと理解した日向は、神威の手から枠だけの金網を奪う。

「熱、か?何かが爆発、若しくは火炎放射器でもぶっ放せば、こうなるかもなぁ」
「ならば枠が残る意味は?」
「そこだ。だったら文字通り溶けた、ってか。ゴムもセメントも溶かす何かが、鉄も?」
「心当たりはなくもない」
「んだと?」
「バイオジェリーだ」
「はぁ?!…いや、そうか成程。確か、奴らは水で無機物に変化するんだったか」
「ああ。体温と水素化合物中の酸素と化学変化を起こす仕組みだ。急速に酸化し、多くは無害な炭酸カリウムへと姿を変える」

日向の脳裏に黒いネズミが思い浮かび、神威は頷く。
日向の頭では想像もしない事を宣う神威に、異を唱えるつもりはない。明らかに有り得ない様な話だとして、神威が口にするからには何らかの確定的な理由があるのだろう。
素直に聞くかと金網から手を離せば、汚れた水の中へそれは消えていった。

「まさかシアン系のネズミなんざに助けられてるとは、誰も考えてねぇだろうな」
「だがもし、大量のゴミと紛れ想定もしない量のバイオジェリーが流れていたとすれば、運良く水に触れないまま生き残った何匹かが、パイプに詰まった可能性がなきにしもあらず」
「何匹か、ねぇ。あの糞太いパイプに何匹詰まればこうなるっつーんだ」
「または、水で死なぬ新種が居たとすれば」
「おい、待てよ、万一そうだとして、だったらそいつらは何処に消えたんだ」
「What do you think about?(どう思う?)」

丸投げかよと舌打ち一つ、下水に紛れ込んだだけならば、頭上を這う巨大なパイプが200メートル四方で壊されている理由はない。生きている限り、水の中で生きられる哺乳類は少ないだろう。

嫌な想像が頭をよぎるが、恐らくそれが正解なのだと思えた。

「逆、って事か」
「それ以外に考えられる理由はなかろう」

皆までは言わなかったが、つまり、下水を流れてきたのではなく、向こう側からやってきた。神威の足元、外した金網のまだ向こう側、下水処理施設の方向から、だ。

「何匹か知らねぇが、上水道パイプを伝って外に出た可能性がある訳だな」
「そう言う事だ。破壊されている場が繋ぎ目の分配箇所だと見るに、数千匹が纏めて這い出した可能性がある。己の体液で溶けたパイプから流れ出た水で、大半は気化しただろうが…」
「ちっ!あそこで夥しい量の鼠共が折り重なって、ああも無惨に溶けたってか!…だろうな、普通に考えたらパイプの中で何か起きたと考えるのが妥当だ。まさか外からぶっ壊されたなんざ、テメェしか考えねぇ」
「戻るか?」

冗談だろうと嘲笑一つ、濁った水で満たされた腰から下を痙き攣りながら見下ろした日向の答えは、

「向こうに鼠共の出元があんだろう。…此処まで来て引き返せるか、糞が」
「勇ましい事だが、この中を潜らねば向こうへは行けんが?」
「わざわざ言わんでも判ってんだよ!畜生、どうせなら嵯峨崎と来たかった…」
「その場合、そなたはゴネず渋らず、颯爽と飛び込みそうだ」
「当然だろうが、好きな子の前で格好付けねぇ奴なんざ男じゃねぇ」
「違いない」

珍しく、神威の声が笑っている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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