帝王院高等学校
子供なりに譲れないものがありまっする
「みてみてネイちゃん、ピアスー」

見覚えのあるキーホルダーが、子供の耳朶から垂れ下がっている。ピンチ部分に皮膚を挟んでいる様だ。汗で張り付いた髪を掻き分けて覗き込めば、柔らかそうな耳朶が真っ赤に染まっている。

「何やってんだ馬鹿、外せ」
「あっ!」
「今度下んねー事やったら殴るぞ。こんなもん捨てろ」
「やだよー、アキちゃんが貰ったんだもん、返してよー」
「だったら家に置いてこい」
「やだっ」

あっかんべー、と、豪快に赤い舌を見せびらかしてきた子供が、バタバタと走っていく背中。落ち着きがないと溜息一つ、きらりきらりと、子供の手の中で煌めく石を見た。

あんなもの、幾ら珍しいと言えただの天然石ではないか。
カッティングした訳でもない切り出したままの石、暇潰しの材料。それを作った男は朝から姿が見えない。

「…どうせまたどっかで昼寝でもしてんだろ」

荒療治も過ぎればマゾだ。
幾ら強い日射しに馴れる為と言っても、全身に日焼け止めを塗りたぐり、薬を服用して、その上でベールまで被っている。この暑苦しい炎天下で、熱中症にならない方が難しいと思われたが、本人にやめる気配はない。

杳として行方知れずの父親を探しているのだろうと言う事は、何となく判った。二葉が神威の監視の目眩ましを勝手に行っているのは、それこそただの暇潰しだ。
協力しているつもりはないが、祭楼月のつまらない魂胆よりも、神威の子供らしい望みの方が二葉にはマシに見えただけ。

恩を売っているのだ、と。
他人事の様に呟いて、蝉の脱け殻を集めている小さな頭を見ていた。

「毎日毎日飽きもせず、あんなもん拾ってどうするんだ。…意味判んねぇ」

頬杖をついて、落ち着きのない太陽を暫く眺める。近頃日が暮れるまでこの繰り返しだ。今日もまた、空がオレンジに染まる頃、あの子供の母親が迎えに来るのだろう。くたびれた表情で、けれど、子供を見つけた途端に零れる様な笑みを浮かべて。

太陽と言う名の如く、日本の日射しの下、子供は快活に走り回る。
きらきらと、汗を飛び散らせて。汚れる事など構わず。


「随分、磯臭ぇな」

背後から響いた囁きに、目を見開いた。
油断したつもりはない。けれど気づかなかった理由をどう取り繕っても、油断以外の言葉では説明出来なかったのだ。

「雨が近ぇ」
「天気予報じゃ終日晴れだが?」
「IQ220程度のお前には判んねぇだけだろ」
「これはこれは、ケルベロス言語学准教授のお言葉は、流石に重みが違う」

頬杖をついたまま、狼狽を悟らせぬ様にゆるりと顔だけ振り返る。何処に居ても目立つ男だ。相変わらず。

「遊んでないで働け余所者が、その内職務怠慢でクビにしてやる」
「Sorry, I have a blast so much.(楽しんでてすいませんねぇ)」
「ランクBに入ったばっかだからって調子に乗んな、アジア人が」

燃える赤毛に、深い蒼のダークサファイア。赤と蒼のコントラストは目映いばかり。
お前こそ日本の血が流れている癖に、などとは、思っていても言わない。ヴィーゼンバーグの血縁だとこの男に知られるのは、立場的に不味い事くらいは理解している。

「Absolutely not, I am not human just Naked.(間違ってますよ、私は人ではなく、『あるがまま』)」

笑顔で見上げれば、鋭い睨みに射抜かれた。
子供とは思えない行動力だ。想像より早いと思ったものの、雇用主であればこの程度は想定しているだろう。寝ている時でも些細な物音で目を覚ます男だ。

今も、もしかしたら何処かから聞いているかもしれない。
地獄耳のブラックシープが。

「警護の姿が見えねぇな、エンジェル」
「片言の日本語しか喋れねぇお付きなんざ、足手纏いな上に鬱陶しいだけだ。トライリンガル如きのお前のがマシだ」
「おやおや、お褒め頂きまして至極光栄」
「義兄様は何処に居る?」
「枢機卿ならこの公園の何処かに居るんじゃね?会いたいなら探せば?」
「お前、義兄様のSPだろうが。何で知らねぇんだよ」
「言うなって言われてる。特にお前には」
「な」

勿論、神威からそんな事は言われていない。
二葉が投げ掛けた台詞に若干涙目の赤毛は無言で走っていき、かなり離れた位置で振り返ると、


「Fuck you!!」

ああ、何と言う汚い捨て台詞か。言語の神に愛された天才とは思えない。
サッカーボールを蹴っていた金髪がビクッと震え、遠ざかっていく赤毛と二葉を何度も目で往復している。くつくつ肩を震わせ、座っていたベンチの端に飛んできた蝉を横目で見やった二葉の鼻先に、ぽつりと。
冷たい水滴が一つ、落ちてきたのだ。

「…?まさか貴様、俺に小便掛けたんじゃねぇだろうな、蝉如きが…」

二葉の声に滲む怒気に気づいたのか否か、蝉はすぐに飛び立った。
それと同時にコロコロと転がってきたサッカーボールが爪先に当たり、蝉を睨んでいた二葉の色違いの眼差しは、青空から金色へと注がれる。

「何、その不細工な顔は。泣かすぞ」
「…ブサイク?What?(どういう意味?)」
「Check it out.(自分で調べろ)」
「Where has her gone?(あの子、何処に行ったの?)」
「Her?(女?)」
「Yes, so cute girl.(さっきの可愛い子)」

何を寝惚けていると笑い掛けて、瞬いた。
日向の目は赤毛が走り去った方向をじっと見つめている。確かに、肩より少し長めの赤毛は、見ようによっては女に見えない事もない。

気づいた二葉は声もなく肩を震わせ、軽い酸欠に陥った。
サッカーボールを爪先で弄びながら訝しげに眉を寄せている従兄が怒鳴る前に片手を上げて、先に謝意を伝える。格好の悪戯対象がやってきた。正に鴨葱だ。

「エンジェルは枢機卿を探しに行った」
「Angel!」
「エデン=グレアム。本名は少し長いらしいが俺は知らねぇ。…何、アイツが好きなの?」
「スイカ色」
「あ?」
「ビーフジャーキー、くれました。良く噛むと歯が強くなります」
「お前、間違ってもアイツに話し掛けんなよ」
「へ?」
「日本国籍の癖に日本語が下手すぎる。嫌われるぞ」

ガーン!
と言う擬音がぴったりな表情で硬直した日向から目を逸らし、やけに重苦しい雲が近づいてくる気配に眉を寄せる。先程の水滴は、もしかしたら雨だったのかも知れない。

「ちっ。早めに帰るぞ、雨が来る」
「雨?」
「相変わらず、犬並みに鼻が効きやがる。…おい、枢機卿を探してこい。運が良けりゃ、お前の大好きな天使に会えるかもな」
「行ってきます」

素直な餓鬼だ。
自分の従兄とはとても思えないと他人事の様に呟いて、立ち上がる。


「アキ?…何処に行きやがった、あの糞餓鬼。ったく、目を離すとすぐにこれだ」

日はまだ傾いたばかり、黄昏には早い。
南から流れてくる熱風は、神立に変わるのかも知れない。台風が近い事は、知っている。

「確かに、節の西風に似てんな…。言われるまで気づかなかった」

熱気を帯びた湿っぽい風が、重苦しい雷雲と共に木々を震わせる気配。
無意識に急ぐ足は土を蹴った。



蝉の鳴き声が、止んだ。











(知っているよ)

(初めからずっと)
(見て見ぬ振りをしているよ)

(光に満ちた笑みを見た瞬間から)
(その唇が名を紡いだ瞬間から)
(灰色の世界が億万色に溢れて、)



『俺はあれが欲しい』


(黒羊の毛皮を、あっという間に飲み込んだから)



『帝王院秀皇の血が流れていようと、いまいと』



(けれど気づいてしまった)

(同等の愛が返ってこなければ、ただの自己満足でしかない)
(愛しい人は何処へ消えたのだ)

(宝物)
(宝物)
(穢れのない黒曜石)
(夜の色)
(宇宙の色)
(穢れなき無垢な魂は何処へ消えてしまったのだ)


(ああ、愛しい)
(恋しい)
(消えてしまうと知っていたら、)



(初めから、求めたりしなかったのに。)



「着いたか。最速指定とは言え、ルート組み替えはやはり時間が懸かる」
「…糞野郎、覚えてろよ」

ソファの上で口を押さえていた高坂日向は顔色が悪く、込み上げてくる酸っぱいものを必死で飲み込んだ。
ジェットコースター宜しく、執務室ごと落下する感覚は思い出したくもない。以前二葉がリブラ寮を強制解体した時も酷い有様だったが、今回は被害者が二人だけなので幸いと言う他ないだろう。

執務室が動き始めてすぐに高速落下が始まり、日向はソファに飛び乗った。デスクの椅子にゆったり腰掛けながらコンソメポテチを食べていた人格崩壊者と言えば、落下が止まると共に今度は地下鉄ばりの震動と共に横滑りを始めても尚、無表情だったのである。
本当に同じ人間なのだろうか。ふらふらと立ち上がった日向を置いて、中央委員会会長はつかつかと外へ出ていった。

「これがあのシャドウウィング、か?見た目は普通自動車じゃねぇか…」

外に出てすぐ、立体駐車場の中に似たコンクリート張りの格納庫に招かれる。つかつかと横切っていく神威は振り返りもせず、日向は舌打ちを噛み殺した。

「おい帝王院、そっちは非常階段だろうが。目的地は下水施設旧エリアだろ?階段なんざ使えんのかよ?」
「一年Sクラスのカード反応を記憶しているか」
「はぁ?」
「懲罰棟エリア0は無人だ」
「エリア0…パートフロートの独房か。…そう言えば、職務怠慢で風紀2名ぶち込んでやがったな。二葉だと思ってたが、ありゃテメェの仕業か」
「三名だ。俺の顔を見られた」
「マジかよ。…ま、今更それがどうだって話だがな」
「溝江信綱は道連れに等しいが、宰庄司影虎は些か聡い。俊の指名を以て級長の任に就いた野上直哉もまた、薄々俺の正体に気づいていた」
「気づいていた?」
「ああ。式典後、教室で野上は私の素顔を見ている。声こそなかったが、陛下と呟いた」
「ふん、気づいていても口外した訳じゃねぇのか」
「確証がなかったからだろう。いずれにせよ、あの二人であれば脱獄程度容易だろうとは踏んだが、」

固く閉ざされた扉の脇にあるカードリーダーへプラチナカードを通した神威の手が、鉄扉のノブを引く。がたりと、錆びた音と共に薄暗い階段の入り口が現れる。

「第三者の手が介入している。中央委員会役員だ」
「あ?」
「懲罰棟内の位置が書き換えられている。正確に、迅速に」
「…二葉だな」
「俺やお前ではないとすればだがな」

噎せる程の埃の臭いだ。

「この格納庫は20年前に作られた。ロードの手引きによるものだろうが、以降、俺が来日するまで使われた形跡はない」
「は、それにしちゃ、…百台はあるんじゃねぇか?」

扉を空けたまま佇んでいる神威を一瞥し、背後を振り返る。柱一つない巨大なドッグには、夥しい数の自動車が並んでいる。幾つか空車スペースも見えるが、数えるだけ無駄な量だ。

「俺はニューヨークからベルセウスで直接渡った」
「例の艦隊か。だったらこれは他の部下のもんか?」
「それでも20台程度だ。残りは、キングの来日時に運ばれたものだろう」
「…マジか、何百人連れてきたんだこれ」
「爵位が移る際、依願退職した社員はランクA並びにランクBだけでおよそ130。ネルヴァ、シリウスもその時に退職しているが、シリウスは技術班の相談役として名目上、残った」
「十年近く前には、ステルスが紛れ込んでやがった訳だ。この国は」
「ああ。…行こう、夜が明ける前に戻らねば、そなたの恋人らが狂う」
「皮肉のつもりか。うぜぇ」

階段へ踏み出した銀糸を追う様に、錆びた扉を嫌々掴んで、高坂日向もまた、足を踏み出した。

「非常灯は?」
「此処に立ち入れる人間は限られている。電球を取り替えていないらしい」
「ちっ、懐中電灯くらい用意しとけ。思い立った瞬間に考えなく行動しやがってカスが」

ある程度充電を果たしたスマートフォンのライトが唯一の光源とは、機械文明に感謝するべきか、否か。

「俺をカスと呼ぶのはお前くらいだ」
「嬉しいのか人格崩壊者、どうせならチンカスに格上げしてやっても良い」
「ならば私の名を呼んでみるか?」
「金積まれても御免だ。呼んだ瞬間殺すつもりじゃねぇだろうな」
「さぁ?」
「…腐れ大魔王、せめてそこは嘘でも否定しろや」

ああ、それにしても酷い匂いだ。

「おい、匂わせろ」
「とち狂ったか?悪いが、俺にお前を抱く趣味はない」
「殺すぞ。テメェの制服には毎回クリーニング係が香水染み込ませてんだろ、このドブじみた匂いよかマシだっつってんだ。寄越せ」
「俺の体臭を俊以外に嗅がせる事になるとは…。良かろう、哀れな子供に情けをくれてやる。嗅ぐなり着るなり好きにしろ」

神威がばさりと脱ぎ捨てたブレザーを受け取れば、ふわりと香水の匂いが鼻を掠めた。確かに幾らかマシだが、想定程ではない。

「ちっ、何か違ぇ…。何で従兄の癖に嵯峨崎の匂いと違ぇんだカス、糞程役に立たねぇ奴だなテメェはよ」
「ほう、何と面映ゆい事を宣うのか。然し、いつファーストの体臭など嗅いだ?」
「………」
「先程までの勢いはどうした高坂副会長、歯切れが悪い様だな。良かろう、そなたらの関係を現在に至るまで赤裸々に報告せよ。目的地までは些か長い。副会長たる者、会長に萌えの一つや二つ提供するべきだ」
「死ね」
「ならば俺の創作を聞くか?近頃携帯小説なるものを書いている。お前が望むのであれば冒頭から現在に至るまで朗々と語り聞かせてやるが、」
「ごめん、要らない」
「俺のブレザーを愛らしく抱いておいて何とつれない事をぼさふふぁ」

借り物は華麗にそのお綺麗な顔へと投げつけてやった。
ブレザーを頭で受け止めた神威に幾らか溜飲が下がったものの、鼻呼吸は辛い。

「ひいらろう、おりぇしゃまとしゃがしゃきの話をひはへふぇやりゅ(良いだろう、俺様と嵯峨崎の話を聞かせてやる)」

高い鼻を摘まんだ日向が口を開くのと同時にブレザーを顔から剥がした神威は、ハニーゴールドの瞳を伏せ、悲しげに呟いた。

「『やりゅ』の辺りで身の毛が弥立つ思いだった」
「…テメェ、その顔がなったら今頃顔面ぐちゃぐちゃだからな」
「美徳感覚の欠如したお前に誉められてもな。最早私に対する冒涜に等しい」
「どう言う意味だテメェ、嵯峨崎の事をほざいてんのか、あ?」
「セントラルでファーストを美しいと謳う者はない。保守派の元老でさえ、ファーストを『地底の紅鏡』と言った」
「紅鏡たぁ、太陽の事だろ?」
「そうだ。日輪の恩恵を受けないセントラル市に、あれほどの赤毛は他に存在しない」
「見事な言葉を選んだもんだな。…紅鏡か」
「日向に紅鏡とは、つくづくそなたらはこの国に愛されているらしい」

呟く様な声に目を上げれば、踊り場で向きを変えた神威が、折り返して登っていくのが見える。いつの間にか間隔が空きすぎたらしいと歩を進める内に、錆臭さに慣れてきたのか、匂いが気にならなくなってきた。

「だったらテメェもだろ」
「何?」
「神の威光っつったら、俺様にゃ太陽以外に思い付かねぇがな」
「…成程、その解釈があるか。つくづくそなたは面白い」
「さっきから面白ぇ面白ぇ抜かしやがって。皮肉にしか聞こえねぇんだよ」
「尋ねたい事がある」
「あ?」
「セカンドには話したが、あれも覚えてはおらなんだ」
「回りくどい、要点だけ言えよ」
「お前がファーストを庇い重傷を負った時の事をどれほど覚えている?」
「あ?」
「季節、状況、何でも良い」
「夏、予報外れのゲリラ豪雨に降られた。雷が煩ったな」
「あの場に居た人間の数は?」
「大人がざっと20、子供はお前を含めて5人」

微かに、神威の足が止まり掛けた様な気がした。
けれどそれは日向の勘違いだったのかも知れない。さくさくと澱みなく上がっていく速度は滑らかに、迷いがない様に思える。

「で、昔話を掘り下げて何が言いたいんだよ?」
「お前もセカンドも傷を負って、あの時、何故助かったのか」

日向は眉を潜めた。
何を言っているのだろうと思ったが、先を行く神威の背を見据えたまま素直に答える為、口を開く。

「全く、何をほざくのかと思えば。あれはテメェが取引したんだろ、う…が?………取引?取引って、何だ…?」

己の台詞に目を見開いた日向が足を止めた瞬間、高い位置でしなやかな背が振り返った。黒いシャツを纏うプラチナブロンドが、見覚えのない表情で日向を見つめている。



「あれは取引ではない。ただの契約だ」
「契約?」


何だ、この違和感は。

(見てはいけないものを)
(この目は見ている)
(そんな気がした)


「やはり末恐ろしい男だ」
「…はぁ?」
「Close your mind and don't make absolutely noise.(記憶の扉を閉じ、耳を塞げ)」

その囁きが鼓膜を震わせた瞬間、高坂日向の眉間の皺が消えた。
悍しい程の笑みを消し無表情へと戻った男は手を伸ばし、日向が小脇に引っ掛けている己のブレザーを掴む。


寝起きの様な表情で見上げてくる日向の耳元へ唇を寄せて、



「俊が誰であれ初めから何一つ問題ない。俺はあれの全てを取り除き、自らの意思で私の元へ辿り着く為に導いている。…そなたらは悉くが、盤上の駒だ」
「…」
「勇ましい騎士がチェックメイトを唱える刹那まで、俺の邪魔をする事は許さない。魂に刻め、…Open your mind.」
「…あ?うわっ、近ぇ!何してんだテメェ、ぶっ殺すぞ!」

飛んできた日向の拳を軽々と避けた男は無表情で、取り返したブレザーを持ち上げる。
何の感慨もなく、睫毛一つ、乱さずに。


「やはり肌寒い、返して貰うぞ」
「…そうかよ!その面、二度と俺様に近づけんな…」
「覚えている間は配慮する」

ひたひたと、何処かで水の音がした。





















楽しい夢を見ていた様な気がする。
ガミガミ甲高い声で喋り続けている男の傍ら、頭にタオルを乗せている父親が何故パジャマ姿で枕を抱いているのかは、考えない様にしたい。

「目を覚まして貰えますか遠野課長、一刻の猶予もないんです!一ノ瀬を見つけて下さい。ボスはこの小林がお守りしますから。怖くないですよ学園長」
「ん?んん…、秀皇、すぐに探してあげなさい。聞けば小林君の奥さんが居なくなったそうだ。詳しい事は判らんが私も危険だと言う、お前の部屋で寝る事にした」

ああ、煩い。
何だこの煩さは。家の前で下水工事をしていた時ですら、此処まで騒がしかった事はない。気がする。

「…黙れ」

掠れた声音で呟けば、騒がしさが少しだけ収まった。
苛立ちを隠さず目を上げれば、ビクッと肩を震わせた父親と目を逸らした眼鏡が見える。

「言いたい事があるなら一人ずつ喋る事を許可する。寝入った所をずかずか邪魔してくれた事は、末代まで覚えておくぞ…」
「…秀皇、お前は未だに寝起きが悪いのか?!」
「そうなんです学園長。なので毎朝奥様に殴られて出社してくるんですよ、酷い時は鼻血を垂れ流して」
「ヒィ!俊江さんはそんなに激しいのか…っ」

怯えているパジャマ姿の父親の表情が余りにも哀れで、苛立ちは若干晴れた。全く、外見だけは厳格な経営者だが、その内側は暗い所と狭い所が苦手なとんだチキン野郎だ。

「シエ。そうだ、シエ!小林専務、シエは見つかったか?!」
「いいえ。それ所か、社長の奥様を夕陽坊っちゃんの所へお連れしてから、一ノ瀬の姿も見えません」
「…その顔を見れば、ある程度は探したんだな?この事はオオゾラには?」
「余計な心配はさせたくないので」
「相変わらずぶれないな」
「…茶化さないで下さい。学園長には伺いましたが、私の携帯へ連絡してきたのは陛下ですか?まるで予言の様な事を仰ってましたが、何なんです?」
「予言?何の話だ?」

揃って訝しげな顔をしていると、勝手にベッドへ上がってきた父親がパンパンと手を叩いた。

「秀皇、私も色々と考えたんだ、背中を流して貰っている間に。取り急ぎ冬臣を遣いに出した。俊江さんにしろ一ノ瀬君にしろ、冬臣に任せておけば良い」
「父上、叶冬臣に任せろとは…帝王院も落ちたものですね」
「これ、秀皇」
「父上が引き継いだ財閥を、此処まで拡張したのは父上のお力でしょう?力添えは榛原でもまして叶でもない。…義父さんだ」
「…」
「父上、どうかしましたか?顔色が、」
「…帝都が言っていた。確証はないが、…龍一郎が生きている可能性があるそうだ」

勝手に枕を使っている父親が、天井を睨みながら宣う。暫く意図を計り兼ねたが、把握すると同時に肩から力を抜いた。

「確かに有り得ない話ではない、か。あの義父さんなら、どんな無茶もやりかねません」
「だが、龍一郎の葬儀は出席したんだろう?」
「身内だけのものには。それとは別に、病院関係者や仕事関係の方々の為に告別式が執り行われました。俺もシエも、そちらには出席していません」
「火葬場まで霊柩車が出た、あれか。あれには私も出席した。…確かに、お前の姿はなかった」
「生きているとして、父上は義父さんを探すつもりですか?」
「…今は考えるまい。まずは俊江さんと一ノ瀬君が先決だ」
「確かに、このままじゃ小林専務が犯罪を犯しかねない」

般若の表情で貧乏揺すりしている眼鏡を見やり、帝王院財閥会長とその息子は目を見合わせる。

「秀皇、冬臣は信用ならんか?お前の人を見る目は評価しているが、冬臣と文仁は、今まで私を支えてくれた。それは事実だ」
「勿論、彼らが父上を裏切ると言った訳ではありませんよ。良くやってくれているのは承知しています。ただ、信用する材料がない」
「む。…成程、帝王院が恨まれていても可笑しくないと言いたいのだな」
「それもあります。昭和初期に十口を絶縁したのは、確かに灰皇院の総意でしょうが、最終決定を下したのは曾祖父様です。京都へ追いやられた彼らは、警察から茶道へ生きる道を変えざるをえなかった」
「だが、それだけで冬臣を疑うのは甚だ暴力的だと思わんか」
「はい。ですが理由はこればかりではありません。叶冬臣の母親が、妹と共に襲われた場所」
「…」
「我が帝王院学園正門、グランドゲートの目前でした。この平和な国で、それも山奥の学校の目と鼻の先で。彼の家族は命を落としたんです」

深い息を吐きながら腕を組んだ父親から目を逸らし、般若の表情で睨んでくる同僚に目を向けた。彼こそ叶一族だが、その自覚は全くないので心配はない。

「小林先輩、顔が凄い」
「私の前で叶の話はやめて頂けますか陛下」
「じゃ、明神先輩?」
「それもお断りします。明神に明神と言う名字はありませんから。戦争が終わると同時にそれぞれ好きな名を名乗り、散りました。大半は地方で農家を営んでいます。冬月の様に金の亡者の様に思われるのは心外です。寧ろ我が小林は最後の最後まで灰皇院に残った明神であり、」
「判ってる判ってる、明神で出てったのは分家だけだって言いたいんだな?」
「判って頂ければ宜しいのです。最後の明神である私の曾祖父は最後まで榛原にお仕えしうんぬんかんぬん」

長くなりそうなので適当に相槌を打ち、ベッドに投げ出していた部屋着のカーディガンを羽織りながらスリッパへ足を通した。やはり夜は肌寒い季節だ。

「もう三時を回ってるのか。専務、オオゾラを巻き込みたくない気持ちは判るが、そうあれもこれも隠していたら、我らの社長は臍を曲げるんじゃないか?」
「…然し」
「お前と一ノ瀬の縁組を誰よりも喜んで、誰よりも深酒した挙げ句階段から落ちて腰を痛めた程の男だ。あの時、陽子さんから『ざまーみろヤリチンめ』と蔑んだ目で睨まれたと、二ヶ月は落ち込んでたな」
「大空坊っちゃんは真実の愛に目覚められました、これからはお幸せになられるでしょう。私や陛下の様に」
「お、言い切ったな。これは面映ゆい」

部屋を出る瞬間、照明のスイッチを然り気無く切り替え、父親の悲鳴を聞かぬ振りでドアを閉めた。微かに笑っている専務を横目に、ペタペタと廊下を進んでいく。

「…陛下、もう良いお歳なんですから、意地悪は控えて下さい。相変わらずSですね」
「父さんより俊の方が良いリアクションをするんだ」
「息子さんを苛めて悦んでるんですか?最低ですよ、貴方」
「まさか、俺じゃない。俊をいびるのはシエだ。流石に可哀想で、俊を苛めたいなんて思った事もない。我が息子ながら、叩き上げられてる」
「………似た者夫婦…」
「誉め言葉として受け取ろう。で、まずは『予言』の件から詳しく説明してくれ。その声が俺に似ていたのか?」
「それが、どちらかと言えば学園長に似てらした様に思ったんです。ただ、それにしては若干、若い声だった気がしまして…」
「だったら一刻を争う」
「え?」

赤い絨毯が敷き詰められた階段を早足で降りて、漆黒の髪と目を持つ男は囁いた。



「もしかしたら、秀隆かも知れない。」

←いやん(*)(#)ばかん→
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